行き止まり 3/3
    3


 それからの日々は、すべてがはっきりとした。食欲はわき、眠りは短く深く、思考は明晰、削げた頬も落ちた肉も少しずつだが戻っており、目の下のくまは薄くなった。乱雑なままが続いた髪も、整えられる。
 中里にとって、何もかもが、順調だった。峠での運転は嘘のように安定し出し、仲間との会話で神経がささくれることもなく、冗談は笑え、やがて周囲の気遣いも消えた。肉体にしても精神にしても、憑き物が落ちたような軽さがあった。内側が、異様に凪いでいた。
 結局、誰も知らないのだ。
 高橋啓介の、狂人めいた、それでいて尋常な振る舞いも、本来被害者となりうる己の、それを掲げられないやましさも――誰の助けもないということは、誰に知られもしないということだ。それに気付いてしまえば、中里の心はそれまでの反動から、一挙に律された。ふしだらな生活は、居心地が悪い。長年受けたしつけのためか、それとも素質のためか、ともかく自分自身の極度の乱れに対しては、拒否感がある。ちゃんとしなくてはならない。規則正しく生き、養生しなければならない。それが焦燥的な義務感ではなく、自然な行動の基準となったのは、その点でしか、もうまともであることはできないと、悟ってしまったからだろう。
 その理解の正しさを自覚したのは、雨が降ってきたため、峠から早々と帰った夜、机の上に置いた途端に鳴った携帯電話を取り、液晶画面に『高橋啓介』の名前を見つけただけで、右の掌の中央部の小さな火傷から広まる、嫌な熱を感じた時だった。細胞の一つ一つが振動しているような、強く確実なものが、はっきりと、全身に伝導する。なぜ、その名が表示されるようになっているのか。二回のコールの間に考え、『ケータイにかけるよ』、という高橋の言葉の続きを思い出し、納得して、納得した勢いで、中里は電話に出ていた。
「はい」
『今、暇か?』
 三日ぶりの、電波越しの声はどこか偽者めいていたが、耳を貫く声はぞわぞわとした響きを残した。
「まあ、暇といえば」
『なら前のゲーセン覚えてるだろ、そこに来いよ。多分俺の方が先にいるから』
 何で、という問いが思わず漏れた。用件はおおよそ見当がついていたが、できればその推測は否定されたかった。時間作ったんだぜ、と高橋は笑ったような声で言った。
『お前のためにわざわざ。っていうか、俺のためかな。まあアキラ、あの出っ歯もうるせえからさ、来るだろ?』
「行くと思うのか、俺が」
 問い返すと、ああ、と一瞬の間もなく肯定された。
『そうじゃねえ奴のために、俺は時間取らねえよ』
 そして通話は切れた。中里は携帯電話を閉じ、ジーンズのポケットに入れ直した。財布があるのを確認しながら、脱いだばかりのブルゾンに袖を通す。考えたことは、なぜあの男がこちらの番号を知っていたかという疑問のみで、それは身支度を済ませる間に、つまり、ここまで運ばれた最初の時、携帯電話を勝手に見られたのだろう、という結論でもって解消された。
 そして靴を履き、傘を手にしたところで、行くのか、と中里は思った。
 義務はない。放り出したところで、罪悪感を覚える必要もない。俺はやられたんだ、と傘の柄を握り締める。ナイフで刺されたようなものだ。無理矢理だ。強要された。同意をしたことなどない。あの屈辱、あの痛み、あの苦しみは、容易に思い出せる。だというのに、なぜ行こうとするのか? ドアを開き、外を見る。雨はほとんど上がっていた。傘を手放す。
 ――行くのか?
 おそらくそこには、今まで通りの行為しかないだろう。その呼び出しに応えるということは、それを自らの意思で、受け入れるということだ。
 高橋は、中里の決断に何ら疑問も不安も持っていないようだった。あの屈辱を、あの痛みを、あの苦しみを中里が享受することが、当然だと思っているようだった。
 高橋啓介、と中里は思った。藤原拓海と高橋涼介とのバトルの前、秋名山で会ったあの男、自信を振りかざした割に、こちらの話にさして口も挟まなかった、あの落ち着き。交流戦でのふてぶてしさ、純粋さ、格段に増した速さ、それに裏打ちされた威勢と裁き。再会における圧倒的な暴力、その後の暴行。
 強靭な肉体による、肉に震えが走るほどの華麗な動き、躊躇のない破壊、それゆえの絶対的な正当性を盾にする、美しいほどの驕慢さ。
 その声を思い出すだけで、それに支配されるような、その力で背骨をべきりと折られてしまうような寒気が走り、続いてそれを上回る、熱が体中を駆け巡る。思い出すだけで、業火に見舞われる。罪悪の塊による、掌の烙印。屈辱と、痛みと苦しみ。それを上回った、あるいはそれと共存した――あの快楽。
『逃げるなよ』
 耳元でその声を聞いたような気がしたのは、雨が霧のように白く漂う、駅のホームに立った時だった。永遠に続く呪縛がそこにはあった。かつて、何もかもを放り出して逃げたくなった時、そうすることの末路を少しでも考えた自分自身が、耐えることを、受け入れることを選択した。あたかも自分の人生が――責任感という名で飾られた、外面を気にしてばかりの性質、有益でない意地と自尊心ばかりで、肝心な場面でいつも失敗だけを得る――、その一言に凝縮されているようだった。そして中里の手には傘はなく、切符がある。

 出っ歯、という単語の印象が強かったため、
「あ、あの、中里サン?」
 と、入ったゲームセンター内を高橋の姿を探しながら歩き、ある筐体の横を通り過ぎかけた時、その前に座っていた長髪の男が、目の前を阻むように立ち上がりながら、おどおどとした表情で声をかけてきても、中里は数秒、頭の中で、その人物がどこに位置するものか、考えなければならなかった。
「すいませんね俺が、ちょっとあのタカオの奴ねあいつ結構頭いっちゃってて、俺テンパってパニクっちゃってもう、ついおたくの名前出したらね、あんた有名なんだね妙義ナイト、ナイト、ナイトライダー?」
 言うほど歯の出ていない男の顔を、じっくりと見てしまいながら、ナイトキッズだ、と中里は訂正した。そう、と男は大きく頷き、
「そう、ナイトキッズの中里サン。あの日産のね、スカ、スカ、スカ、スカトロ、じゃないよね。何でしたっけ」
 早口にまくし立てた男に、スカイライン、R32GT-R、と中里は再び訂正し、そうそれね、それそれ、と男は再び大きく頷いた。
「それだってねえ。俺が適当にアレ言っちゃったらタカオの奴すぐ行っちゃってさあ、あいつ早漏だしね、ははは、やあ啓介クンと連絡ついて良かったよ、俺心配でね。良かった良かった」
 苦しそうに息を継いだ男は、ひしゃげた笑い方をした。全員頭がおかしいという高橋の言も、あながち間違ってはいないのかもしれない、と思いながら、「高橋は?」、と中里は尋ねた。
「んあ、まあだ来てない系?」
「来てるっての」
 左右を見回した男の後ろ、中里の前に、高橋は現れた。灰色のジャンパーにカーゴパンツという出で立ちで、眠たげな顔だった。全体的に湿気が含まれている。男が、やあ高橋、と声をかけ、ああ、と高橋はあくび混じりに返答し、何かあるか、と続けた。あー、と男は薄ら笑いを浮かべた。
「俺全クリ全クリ、結構簡単よ」
「マジかよ、げえ、俺が先にやるつもりだったのに」
「あとね、タイム的にやばげだぜ」
「そりゃ知ってる。まあ何か分かったら、すぐ教えてくれよ」
 はいはいはいはい、と細かく言った男を通り過ぎ、高橋は中里の肩を横から叩くと、行くぞ、と顎をしゃくった。中里は叩かれた肩を軽く押さえ、浅く頷いて、男に会釈をしたのち、ためらわず、その背についた。

 その流線型のフォルム、暗闇の中でも映える美しい黄色のボディは、見る人間によっては魅惑的に感じられるのだろう。だが、中里はその生き物を思わせる曲線からは、まるで体中の穴という穴に、液体となって侵入してくるかのような、漠然とした圧迫感しか得られず、その外見からは想像できない、あくまで機械でしかないという内部に入っても、特別な愛着もわきはしなかった。
 初めて隣に乗った時は、世話になりたくない、関わりたくないという思いが付きまとっていたため、良く見ようとしなかったものが、憤懣や自負すらどこかへ行ってしまっている今は、やはりはっきりと、見えているようだった。硬いシートも、服に食い込むベルトも、湿度も温度も、染み付いているおそらく高橋啓介のであろう匂いも、エンジン音も排気音も、ギアチェンジ、ブレーキングのタイミングも、路面の段差を超える衝撃も、高橋啓介とこの車がもたらすものとして、体に感じられた。ただ、慣れない。違和感は腹に張りつき、この先どうなるのかという疑念が、喉を圧迫した。だが、すべてはやはりはっきりとしていた。これが自分の選択なのだと、中里のうちには、逃避にも似た覚悟があり、感情が視界をさえぎることもなかった。見えるのは、フロントガラスの向こうから目を突き刺す、雨による照り返しの多いライト。そしてステアリングを動かしながら、盛大なあくびをする、高橋啓介。
「眠そうだな」
 発車してから五分経ったくらいだろうか、その中里の言葉こそが、ゲームセンターを出てから二人が交わす、初めての会話のきっかけとなった。片手で目頭を拭った高橋は、ああ、ともう一度噛み殺さずにあくびをした。
「お前に電話した後、うっかり寝ちまってさ。三日寝てねえの忘れてて、油断した」
「何?」
「四日目入るとやべえんだよな。一日全部眠るようになってんだ、体が」
 高橋は事もなげに続け、中里は信じられぬ思いで、その顔をまじまじと見た。三日寝てない? それにしては、高橋の顔に不健康な色はないように見えた。あれば、光のある下で会った時点で、妙に思っているだろう。いくらでも眠たそうには見えるが、肌の状態はそう悪くなさそうで、目の下にくまもなく、ろれつもはっきりしており、極端な寝不足には見えなかった。そもそも、三日寝ていないということは、前回別れてから、高橋は一睡していないということではないか。中里が驚きのため、言葉を失っていると、まあ三日くれえは大丈夫だから、俺は、と、目を拭った手で自分の頬を軽く張った高橋は、軽々しく言った。
「走って朝きて、学校行って、終わったらバイトだろ。そしたら夜だ。で走りに行ったらまた朝になってて、それ繰り返してたら、眠るの忘れちまうことあんだよ。いつもなら忘れないんだけど。まあ気分だな」
 中里の驚きは、異なる形で持続した。「バイトやってるのか、お前」
「そりゃ燃料代くらいは自分で出さねえと、ちょっとやばくねえか」、と高橋は不可解そうに中里を一瞥し、前方へ目を戻すと、「まあ大学は四年で卒業しろって言われてるから、そっちにばっか精出すわけにもいかねえけどさ」、とふて腐れたような声を出した。
 経済的自立という観念からは程遠い男だという偏見があったため、中里はその社会性の表れがいまいち信じ切られないまま、だから、金貸しまがいのことやってんのか、と新たな疑問を呈した。まがいな、と高橋はのん気に笑った。
「ギャンブルの元手用だよ。買っても負けても一割バック。一月経ったら一割増し。大した金にはならない。慈善事業ってやつか」
 ステアリングに両手を置きながら肩をすくめる高橋には、大人びているような、幼いような、不均衡な印象があった。かつて持っていた、高橋啓介、という男の概念が、己の中で失われ切っているのを中里は感じた。今信じられるものは、これまで見せたその欲望のみだった。勝利への、走りへの、自我への、そして性への。座席に腰を据えた時から離れぬ違和感と、地に足が着かぬような不安定感を同時に得て、中里は唐突に、自分の知恵が届く範囲に戻らずにはいられなくなった。
「高橋涼介は、それを知ってるのか」
「アニキ? 何で」
 きょとんとした顔を向けられたが、うまく問いの理由を説明できる自信もなかったので、いや、と中里は顔を窓へとやった。過ぎていく傘を差す人々、ネオンに彩られた建物。ここは範囲ではない。あるいは、それすらも範囲ではないのかもしれない。ではこれからどこへ行くのだろうか。『かつて』から、どこまで離れてしまうのだろうか。
 そうして中里が物思いに沈みかけたところで、「さあな」、と高橋が問いに答えてきた。
「知ってんだか知らねえんだか。でも、知らねえんじゃねえかな。アニキは俺のこと信用してるから」
 信用、という単語は、中里がわずかにしか知らないその兄弟を結びつけるには、適切なものであると感じられたが、高橋の声には、嬉しさや誇りが欠け、それは事実を提示しているだけのようだった。
「信用」
「約束してんだよ。薬とやべえセックスとやべえ喧嘩はしねえってさ。それさえ守ってるようにしときゃあ、安心してくれるんだ」
 何かを隠すような言い方に不自然さを感じ、その顔を見ながら、嘘吐いてんのか、と尋ねると、だって俺、ちゃんとできねえもん、とごねる子供の鬱陶しさをもって、高橋は言った。「アニキみてえには。それなら、嘘吐くしかねえだろ」
 最初から基準とするものが間違っているようにも、できないならばただ正直であればいいのではとも中里には思えたが、高橋の表情は真剣そのもので、その場限りの言い訳をしているようではなかった。長く考え、下した決断なのだろう。ならば中里が口を出すことではなかった。そもそも他人の家族関係のことだ。踏み入った自分の短絡さに中里が頭を抱えかけた時、そこに着いた。

 オートロック付き、十三階建てのマンションだった。勝手を知っているように暗証番号を入れ、ずんずん歩く高橋の後につき、しんとしたホールを突っ切り、エレベーターで五階まで上がる。
「お前、ここに部屋持ってんのか」
「んなわけねえだろ」
 整った廊下を歩きながら聞くと、馬鹿じゃねえの、と言いたげに高橋は断じ、奥から二番目の部屋のドアを、ポケットから出した鍵で開いて、そんな金ねえよ、とため息混じりに言った。
「知り合いが親父にもらったっつーけど、あんま使いたくねえんだとよ。気持ち悪いって。だから一日二千円で借りられる」
 電気の点けられた中に入ると、廊下があり、奥に広いリビングダイニングがあった。テレビとテレビ台、テーブルとソファ、そして飾り棚が、ショールームのように清潔に、生活臭なく配置されている。台所には広さに似合わぬ小さな冷蔵庫と、古びた電子レンジ。手前に洋室が二間、奥に和室が一間見えたが、家具としては洋室の一つにあるベッドくらいなもので、あとはまったく何もない。大きさとしては、家族四人で暮らして丁度良さそうな物件だ。
「親父に、もらったか」
「女でよ、一人娘だから。別荘みたいなもんだって、夜遊びするくらいならここにいろってことだな。たまには来るらしいぜ」
 高橋はベッドのある洋室へ歩いて行った。その後に続きながら中里は、たまに、と呟いた。一日二千円で回して、三十日間入るとして、六万。
「車も買ってもらったっつってたな、プジョー。んですぐにぶつけて廃車にしたから、BMWにしたとかなんとか。さすがにポルシェは廃車にできねえって」
 頭がくらくらしてきて、そうか、とだけ言うと、中里は目を覆った。どうも生活レベルが違う。違いすぎる。雲泥の差とはこのことだ。
「まあそいつは特別だよ、そいつの同類もすげえけどさ。っつーか俺、お前相手にストリップしてんじゃねえんだけど、中里」
 言われ、目を覆っていた手を外して高橋を見ると、丁度シャツを脱いでいるところだった。ジャンパーは既に床に落ちている。
「脱げよ。服、汚したくねえだろ」
 ぎょっとし動けぬ中里の目の前で、高橋はそれからベルトを外して、カーゴパンツも脱ぎ、下着も下ろした。若い証左として、一物は存分に上向いていた。中里はますます頭がくらくらとし、ブルゾンだけは脱いだものの、その先はどうしようもなかった。募る後悔は、逃げ出せはしないかと思わせたが、それを、『自分が』できないことは、とうの昔に知っており、そのため何もできなくなった。
 少しだけ待っていた高橋は、面倒そうに舌打ちすると、有無を言わさず中里の腕を引き、そのままベッドに投げた。中里がシーツに沈む身を仰向きにするとともに、高橋はそこに覆いかぶさり、深く口を重ねる。噛むように、荒々しく、それでいて丁寧に触れていく唇と舌に、中里がただ翻弄されていると、シャツの下の肌着の更に下に侵入してきた高橋の手が、布をまくり上げながら、いきなり胸を擦った。
「んッ……」
 舌を吸われ、尖りをこねられ、刺激に背中がたわんだ。唇が離れ、角度が変わって再び合わされる。時に歯がぶつかり、鼻がぶつかり、何の加減か額までがぶつかった。中里は高橋の前腕を掴み、脳髄が溶けそうになるたび、指に力を入れた。皮膚から伝わる刺激は、快感となって体中に熱を生む。否定しようのない、明確な感覚だった。舌を抜いて、唇を頬へと這わせ、耳朶に歯を立てた高橋は、中里の胸から手を離さぬままに囁いた。
「感じやすいな、お前」
 ぞくりとして、背が攣りそうになる。息まで熱くなっているようだった。高橋は歯を立てた耳朶に音の出るキスをしてから、鎖骨の下で絡まっている中里のシャツを脱がしにかかった。頭上へ引っ張り上げられ、腕もつられて持ち上がり、ずぼっと抜ける。それを丸めてベッドの下に放り投げた高橋は、触れるだけの口付けの後、顎へと唇を滑らせ、喉を越え、鎖骨の下を噛んできた。ぴり、と痛みが走る。そして吸われ、緩やかになった痛みの上に、快感が重なる。その間に、高橋の手はジーンズにかかっている。中里は高橋の側頭部に両側から手を入れて、その髪と、肌を感じた。ただ添えるだけで、力は込めない。掴まれる時の、剥がされるようなあの強い痛みを知っているからだ。それを与えたくはないし、与えた後、どうなるのか分からぬ恐怖があった。やがて胸の突起を片方、舌と歯でなぶられながら、ジーンズの前を開かれた。胸から顔を上げた高橋が、下着と一緒にジーンズを引きずり下ろす。それもまた丸めてベッドの下に放り投げられ、靴下だけが残った足は、膝頭を掴まれて、大きく開かれた。
 見られている。
 既に昂りを示しているものも、毛細血管までが拡張している肌も、光の下、知られてしまった。中里は高橋の顔を見られず、シーツに頬を押しつけ、目をつむった。耳の傍に心臓があるかのようだった。
「ちょっと、おい、膝の裏」
 呼びかけてくる声に、目を開けると、真面目な顔の高橋が、真っ直ぐこちらを見下ろしていた。
「手ェ入れて。支えろよ」
 促されるまま、中里は開かれている足、膝の裏に、シーツを掴んでいた手を添えた。高橋が膝頭から手を離すと、それはすぐに崩れ落ちそうになり、慌てて力を入れてその状態を保つ。
 と、
 ――ピリリリリ。
 単純な電子音が鳴った。同じ長さで、定期的なそれは、電話の着信音に他ならなかった。チッ、と舌打ちした高橋は、そのままでいろよ、と中里に言うと、ベッドから下り、脱いだ服を漁り出した。中里は、改めてどういう格好かを考えて、焼けただれかけた頭を維持しながら、それでも自分の足の膝の裏を抱え、じっとしているしかなかった。命令などではないはずなのに、聞かずにはいられない。それは恐怖と、一抹の、何らかの期待だった。
 高橋は携帯電話を取り出し、どうした、と通話しながら、再びベッドへ向かってくると、その下に一旦潜った。
「何、マジで? 早えなオイ、どこよ。知んねえの? ああ、そうか、うん」
 喋りながら、ベッドに這い上がってくると、先ほどと同じ位置に膝を立て、携帯電話を肩と顎で挟みながら、ベッドの下から取ったのだろう、両手で何か液体の入ったボトルの蓋を開け、無頓着にそれを中里の腹から陰部にかけて垂れ流した。その冷ややかさに、中里は息を詰めた。
「いや、分かってるよ。んじゃ俺からかけるわ。サンキュ。あ? そりゃできねえな。ケチで結構。っつーか俺だってそんな余裕ねえし。バカかよ、じゃあな」
 ボトルの蓋を閉め、それはベッドの端に放り投げた高橋は、通話を切って、左手で携帯電話のボタンを押し、再び耳に当てた。その間、右手で中里の腹に落とした液体を、塗り込むように広げ、半勃ち状態のものをも濡らした。
「ああ、俺。そう、やっぱ分かるか。あいつどうしたよ。そう、何、あ? あー、そうか。いや、それならこっちで分かるから」
 その下の睾丸をゆるゆる揉みながら、高橋は通話を続ける。中里は荒い息を噛み殺すのに、必死だった。確かな快感と胸を締める恥ずかしさが、体の、頭の何かを壊していく。逃げたくなるのは、どうしたところで同じだと、中里はその時悟った。
「そう、ああ、お前もあんまりやりすぎるなよ。俺? 俺が何だよ。ああ、そのくらいだ。おう」
 通話を切った高橋は、またも携帯電話のボタンを押し、耳に当てた。右手は止まらない。睾丸から、尻の窄まりへと指が伸び、粘り出した液体を、内部へ運び、すり込み出した。動きに容赦はなく、中里は下唇を強く噛んだ。
「クソ、出ねえな」
 高橋は苛立たしそうに言って、通話を切り、携帯電話をついに閉じると、それもベッドの端に放り投げ、そうした手で、中里の唇に触れた。
「おい、ここ防音だから、声我慢するなよ。つまんねえ。でさ、中里、お前シマダの家知ってるか?」
 内側をえぐっていく指の動きが適確すぎて、中里は浅くなる息で、ようよう答えた。
「知って……ン、く……は、いる、けど」
「じゃあ、これ終わったら連れてってくんないかな」
 指を抜いた高橋が、どこから取り出したのか、反り返ったものにゴムをつけるのを、己の股越しに見ながら、何で、と中里は呟いた。
「サカマキの奴、あの前に行ったシマダがいた部屋の奴が、俺の金を持ち逃げしかけたから、一応警告しに行ってやらなきゃなんねえんだ。面倒だけど、な」
 喋りながら、高橋はゆっくりと開かれた場所に入ってきた。内臓が押し上がるような圧迫感に、呼吸が止まる。
「あ、ぐ……」
 先端が入って、そこで一旦止められる。中里は深い呼吸を心がけてから、何で、と再度言った。
「あいつが行く場所、そこしか考えられねえんだよ。あんま信用ねえ奴だから。頼むよ」
 高橋は中里の太ももを抱えながら、腰を進めた。中里は支える必要がなくなったので、膝の裏から手を離し、その手でシーツを硬く握り締めた。粘膜が圧される。
「お前、島田を、どうする、気だ」
「そっちはどうもしねえよ」、言って高橋は、最後まで埋めた。皮膚のちぎれそうな痛みと、奥まで貫かれる刺激に中里が歯を噛むと、一息吐いてから高橋は、静かに、「お前のもんには手は出さない。それも礼儀ってやつだろ?」、と確認してきたくせに、答えも聞かずに動き出した。苛烈で、無遠慮で、暴力的だった。それでもなお、尾骨から、頭の裏側までじんじんとする。揺らされるごとに、喉から声が出て行った。目の前には天井だけがあった。白い壁と、蛍光灯の白い光。瞬きするごとに、まぶたの裏に曖昧な色が残っていく。やがて、手前に、逆光を受けた高橋の、薄暗い顔が見えた。右足だけを胸につくまで押され、より深くうがたれる。
「う、あ、あ」
 唾を飲み込む暇もなかった。塊を締め出してしまいたいほど、感じている。どこからどれほどの熱が発されているのか分からぬほど、中里は痛みと、苦しみと、快楽に呑まれていた。思考は成り立たなかったが、小刻みに揺さぶられながら、ぐっしょりと濡れたものを手で包まれた時、明確な嫌悪が口を動かした。
「やめ、や、いッ……」
「急ぎたく、ねえんだけどな、あんま」
「ひあ……ッ」
 突き上げられるのと同じリズムでしごかれ、シーツを掴む手に自動的に力が入り、中里の背筋はたわみ切った。別々の刺激が一つにまとまり、体すべてに埋まっていく。自分の意思の通用するところがない。手先や足先まで、与えられる、うちからこぼれる快感に侵食されている。貪るように、肉が動く。嫌だという思いも、それは止められなかった。目の裏が白々とし、大腿が震え、やがてその周囲が痙攣し、劣情がほとばしる。高橋もまた、深く差し込んだ状態で終わりを迎えたようだった。中里は、力を入れすぎてしびれている手で顔を覆い、出放題だった唾を飲み込み、中のものを抜かれてすぐ、ベッドの上に這って、上半身を起こした。相変わらず広く深い痛みが下半身を覆っているが、じっとしていると、顔が火照ってたまらなかった。
「動けるか?」
 不思議そうな高橋の声が、背中にかけられる。中里はベッドから下り、床に落ちている服を拾いながら、ああ、と振り向かずに頷いた。
「行くんだろ。大丈夫だ」
「すぐじゃなくてもいい。無理するなよ」
「問題ねえよ」、と中里は服が体液で汚れぬように小脇に抱え、かすれが目立つほどの声を出し、それから急に、意地を張ってしまったような後悔と恥ずかしさに襲われて、風呂借りるぞ、と部屋を出ながら言った。高橋の声はしなかった。
 進む方向を二度変えて辿りついた風呂場では、蛇口をひねればすぐに熱い湯が身にかかったし、浴槽には湯が張られていた。時間をかけたくはなかったので、中里は全身にシャワーを浴びるだけにした。湯を出したまま、銘柄の良く分からないボディソープを直接手に取り、肌に塗りこむように泡立てる。足、腹、胸、首にソープと泡を伸ばしていき、最後に尻に指を入れる。先ほどまでの行為を思い出しそうだったが、何も考えないようにする。考えたくもない。素早く全身に泡を広げ、シャワーで流す。汚れさえ落ちれば良かった。中里は一心不乱に泡を流しながら、ふと目の前にある曇った鏡に意識をやっていた。気付けば全身を映せるほどのそれに、シャワーヘッドを向け、水によってゆがんだ己の像を見ていた。どう見てもそれは自分であり、世間的な男であった。ごつごつとした、毛に覆われた肉体。
 先の記憶が出し抜けに溢れてきたのは、おそらく思考では封じていたが、映像としては封じられなかったからだろう。高橋の挙動、声、感触、己の感覚が、一瞬にして脳裏を巡る。生まれた強烈な羞恥と自己嫌悪に、中里はシャワーを掴んだ手で鏡を殴りかけ、我に返り、ともかく頭から湯を被った。消え去りたいと思った。あるいは、消し去りたい。考えたくもない。考えたくもないが、何一つ消し去ることもできないと、それも分かっていた。クソッたれ、と呟いてから、湯を止め、風呂場から出る。
 適当に体と髪を拭いて、持ってきた服を着、それからふと気付いて、中里はポケットから財布を取り出した。逡巡したのち、札入れの中から残り少ない千円札を二枚、傍にあった洗濯機の上に置く。バスタオルは脱衣籠に放り投げた。

 まだ水分をわずかに含んでいる髪は冷たく、鬱陶しかったが、車に乗ると、初めて体が休まった。大雑把に道を説明した後は、何度か指示するだけで、それ以外に互いの間で、目立った会話もなかった。その前、あの虚構めいた部屋から出る前に、中里が、
「俺が島田に電話をして、確かめようか」
 と持ちかけると、それでもいいけど、と高橋は振り返らずに言った。
「それやってあいつらに逃げられたら、俺はお前から金取るぜ」
 本気か冗談かは判然とせぬ調子だったが、中里は手に持った携帯電話を、ポケットにしまい直し、それ以降は、中里が、話をするほどの体力を取り戻していないためもあったが、高橋も進んで話をしてはこず、割合近い島田の住むマンションまで、FDの中は湿った沈黙で満ちたのだった。
 がたがたと鳴るエレベーターで六階まで上がり、出てすぐの部屋だった。高橋はドアの右手の壁につき、中里は仲間を売るという思いを消せぬまま、呼び鈴を鳴らした。十秒ほど待って、何の応答もないため、もう一度鳴らす。と、鉄の向こうで気配がし、すぐに、そっとドアが開かれた。チェーンで制限されたわずかな隙間から、見知った顔が覗いた。
「中里?」
「よお。元気か」
 警戒した目でこちらを窺う島田が、他に誰もいねえよな、と滑稽なことを尋ねてくる。ああ、と中里は島田を見たまま頷いた。少しでも目を逸らすと、高橋の方を見てしまいそうだった。具合が悪そうに目を泳がせた島田は、そうか、とチェーンを外し、ドアを完全に開けた。中里の後ろからするりと前へ出た高橋は、島田が、あ、と言う間に、上がるぞ、と言って、靴も脱がずに奥へと進んだ。
「お前」
 島田は、上半身は裸で、下にジャージだけを履いていた。ぽかんとした顔で、二の句を継げずにいるような島田に、中里はかける言葉を持たず、靴を脱いでから中に上がった。
 室内に充満している酸っぱいようなえぐいような匂いの源を、中里はその先で見た。
「できた分だけ少しずつ返すこともできるんじゃねえの? お前がパチ屋に入り浸ってんの、こっちは知ってんだけどよ」
 立ったままの高橋が、奥に敷かれた布団に座っている男へ、情も憤りも感じさせない、冷静な口調で言う。肌荒れの強い顔をした男はパンツ一枚という姿で、いや、その、と口ごもっている。男の隣にあるタンスの前には、布団から剥がしたのだろう、ぐちゃぐちゃのシーツで胸を覆っている、裸の女が立っている。その幼い顔には見覚えがあった。
「それでも一応ダチだから、待ってたんだけどな。アパートもぬけの殻にして、どうするつもりだった。とりあえずこいつのところに居候して、その後新居を探そうってことか。それとも今までやってたみてえに、三人仲良く一緒に暮らしましょうって?」
「ちげえよ、違う、啓介」、と男は高橋の足に、臆面もなくすがりついた。「なあ、俺の話を聞いてくれ」
「俺はお前の話を聞くためにここまで来たんじゃない。金をそっくり返しにもらいに来ただけだ」
 高橋は男を足にすがるままにさせ、淡々と言った。待ってくれよ、と男は泣きそうな声を出した。
「待って、いやマジでさ、今はムリなんだけど絶対来月、絶対返すから。約束する。絶対返す、だから」
「そのセリフ、三ヶ月前にも聞いた気がするんだけどな」
「今度はホントだ、ホント」
 必死な男とは裏腹に、女はただ立っているようだった。中里はあまりに素裸に近いその女を見ることができなかったが、目の端で、何か、怯えた風ではない動きをしているのは、捉えられた。意識が向いた時には既に、女はタンスの上にあった、前腕ほどの長さの何かのトロフィーを掴んでいた。
 中里が声を出す間もなく、高橋に向けて振られたそれは、空すら切らなかった。
「似合わねえもん振り回すなよ」
 二人の丁度真ん中あたりで、高橋はトロフィーを持った女の手首を掴んでいた。そして、空いている手で、何だこりゃ、とトロフィーを抜き取る。その時、高橋の足にすがっていた男が、突如叫んだ。
「うわあああッ!」
 叫びながら立ち上がり、男は高橋の首を両手で絞めようとしたらしかったが、高橋は抜いたトロフィーの底を、男の頭頂に叩きつけていた。うう、と男が呻き、再び高橋の足にすがりつこうとしたが、高橋は一歩引いていた。
「キョーちゃん!」
 女がシーツをかなぐり捨て、男に駆け寄る。高橋はトロフィーを眺め、将棋大会、と呟いてから、それを布団に落ちるよう放り投げると、
「一ヶ月以内に全部返すってのが最初の約束だったよな。忘れたか?」
「いてえ、いてえ……」
 床に縮こまり、頭を押さえてうめくしかない男に対し、加減もせずに言った。
「俺が何でここまでするのか、教えてやるよ。お前が金持ってんのを知ってるからだ。十万は貯まってるだろ。まあ正確にはナツミの金か? 一回五千円って、こいつなら一万でも普通にいけそうだけどな。やっぱ回転率が問題か」
 女の顔がさっと青ざめ、男はうめくのを止め、頭を押さえたまま高橋を見上げた。何で、と、単純ゆえに間違いのない疑問のみが、その口から高橋に向けられる。
「俺もあんまり暴力沙汰は好きじゃねえから。どうする?」
 だが高橋はそれには答えず、単純ゆえに間違いようのない決定を、男と女に委ねた。男は女をちらと見て、泣きそうな顔をした。女は唇を噛み、何も身につけないまま、立ち上がり、タンスの上から二番目の引き出しから、白い封筒を取った。高橋は女が振り向く前に、背中まで歩み寄り、それを手にした。
「あ、あたしの金」、と女が思わず言ったのだろう言葉に、だろうな、と封筒を尻ポケットに入れた高橋は、笑って返した。
「けど今は俺のだ。恨むんなら、こいつ恨んでくれよ。パチンコやめねえんだもんな」
 こちらに向かって歩いてきた高橋の後ろを、女が追いかけ、このッ、と拳を背中に叩きつけた。いて、と高橋は背を押さえ、女を向き、再び振り上げられた拳を手で覆って、止めた。
「女が殴るのは似合わねえって」
「離せよクソッ、てめえなんかに」
 女は身をよじりながら叫び、分かったよ、と高橋が手を離すと、自分が動いた勢いで、床に惨めたらしく転がった。「てめえ!」、という声は、中里の後ろから上がっていた。顔を赤くした島田が、中里の横を駆け抜けた時、中里は島田の体を、後ろから脇の下に手を通し、止めていた。
「何だコラァッ、てめえ、何なんだよお!」
「おい、やめろ島田」
 じたばたともがく島田が、離せ、と怒鳴る。この男の怒りが高橋に向かうのはお門違いだと感じ、中里は止めたは良いものの、その先どうするかについては何も考えておらず、思考がうまく噛み合わぬ間、唐突に頭にのぼったことを口にしていた。
「お前、河野と会ったか」
「ああ!?」
 何を言い出すのか、という疑いと、軽蔑と、単なる威嚇が混じった島田の声だった。それに煽られるように、中里は急いたように続けた。
「俺とこの前会ってから、お前は河野に一度でも会ったのかと聞いてるんだ」
「んな暇あるわけねえだろうが、離せ」
「一ヶ月近く経ってんだぜ。友達なんだろ」
「知らねえよあんな奴!」
 島田はそうして腕を振り回し、中里を払いのけた。中里は背中をテレビの角にぶつけ、床に倒れていた。一度座ると、立ち上がるのに、いつも以上に力を要した。何て役回りだ、と心の中でこの状況を罵りながら、何とか身を起こす。
 そして見たのは、喧嘩ではなかった。
 ゆったりと島田に向かった高橋が、歩きながら右の拳を島田の側頭部に叩き込んで、今度は横へと身を崩した島田の腹へと、その体が倒れる前に左の拳をくぐらせており、更に動きの止まった島田の頭を掴むと、上げた膝頭に顔を叩きつけた。
 喧嘩ではない。
 有無も言わせぬ、一方的な、完全な力の行使だった。
 島田は苦しそうにうつ伏せにフローリングの床に倒れた。その頭の下から、血だまりが生まれていた。
 高橋は倒れた島田の背中を靴を履いたままの足で、踏みつけた。
 踏みつけた。
 踏みつけた。
 踏みつけた。
 一度目を見て、全身から血の気が引き、二度目を見て、全身に血の気が戻り、三度目を見て、たまらない熱を感じ、四度目を見て、背筋が凍り、
「高橋ィッ!」
 と、中里は叫んでいた。その途端、足を上げた高橋は動きを止め、ぐったりと床に転がる島田を見下ろしてから、上げた足を床に下ろし、尻ポケットに入れた封筒を取り出すと、中から札を三枚ほど抜いて、島田の背中に落とした。
「治療代だ。戻すよ」
 呟きも落とすと、高橋は男と女に顔を向け、毎度あり、と手を上げた。そして上げた手で、中里の腕を取ると、そのまま玄関へ向かった。

 エレベータに乗っている間も、高橋は中里の腕を掴んだままでいた。中里は靴の踵を踏んだまま、エレベーターから出て、水気の多い冷たい外へ出て、そこでようやく、「おい」、とろくにこちらを見もしない高橋を呼んだ。
 高橋は、構わず駐車場に歩いて行く。
「おい!」
 大声を出すと、高橋はたたらを踏むように止まり、「あ?」、ととぼけた顔を向けてきて、そこで自分の手が握っているものに気付いたようで、ああ、とようやく中里の腕を解放した。中里がまずしゃがみ、靴をきちんと履くと、足を細かく動かしていた高橋が、落ち着いてはいない声をかけてきた。
「放っておいていいのか、あれ」
 中里は片膝をついたまま、高橋を見上げた。電灯が、その横顔を、くっきりと見せる。何か、うそ臭かった。それは、先ほどまで人間の肉体を傷つけていた人間にしては、冷たいものだったからかもしれない。
 中里はだるさが見えないよう、気合を入れて立ち上がってから、マンションを眺めながら言った。
「あいつも、別にガキじゃねえだろ」
「リーダーとして、どうかって感じになってねえか」
「リーダーとして行ったわけじゃねえよ。それに、うちのチームは元々みんな勝手にやってんだ」
 すらすらと言葉は出てきたが、あの部屋に入ってから、今、高橋に尋ねられるまで、中里の頭からチームという概念は消えていた。高橋啓介とともにいるはずなのに、すぐ近くにはFDがあるというのに、峠や走りというものが、ひどく遠くに感じられた。暗い地面へ目をやり、早く、と中里はぼんやりと思った。早く家に帰るべきだ。
「帰るか」
 ぽそりと高橋が、独り言のように言った。実際独り言だったのかもしれないが、中里は高橋を向いていた。目が合った。高橋は鮮やかな顔のままだった。その中の形の良い唇が、滑らかに開く。
「まあ、送ってってはやるよ。時間あるから」
 別にいい、と言おうとして中里は、高橋に見据えられていることに気付き、何かのやましさから、言葉を呑み込んだ。高橋は視線の勢いを緩め、口元も緩めた。
「ビビリだな」
「何を」
「お前のせいだぜ、中里。お前のせいだ」
 繰り返す声は、何ら責任を押しつけるものではなかったが、「お前のせいで、人殺しになりかけた」、と高橋は続けて笑った。ぞわり、と中里は寒気のようなものを感じた。背中に鳥肌が立ち、消えて、じわじわと背骨に、その感覚が染み入ってくる。熱だ。踏みつけられた島田、踏みつけた高橋。その熱。
「乗れよ」
 高橋は、笑ったまま囁くように言うと、だがすぐ笑みを消し、数秒中里を、その内面を見透かすように、じっと見た。そして再び、にい、と笑うと、やはりすぐに笑みを消し、遠くを見るような目をしながら、FDに向かった。全身に心臓の鼓動を感じながら、中里は、マンションを再度見上げ、二人の男と一人の女を思い出そうとした。だが、記憶はぼやけ、ただ高橋の、一切を滅しそうな、危うい顔が薄くちらつくだけだった。すべてはそれだけだ。中里は二度とマンションは見ず、高橋の行く方へと足を向けた。頭に、どいつもこいつも、という言葉を巡らせながら――どいつもこいつも、頭が、おかしいんだ。
 そして中里が家に帰るのは、翌日の早朝となる。
(終)

(2006/11/17)
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