願い 1/3
峠、ってことじゃあみんな同じにしても、行く先によって、空気とかはやっぱ違う。含まれてるもんの質とか量の違いなのか、慣れない匂いがするし、慣れない味もするし、慣れない重さもする。新鮮っちゃあ新鮮だけど、何日も通って何時間もそこにいりゃあ、目新しさもなくなっちまうもんだ。春と夏の間って、草以外生えてるもんもそんなねえし。いる奴らだって、どこの峠も大差ねえ。話したいとも思わねえ。茨城、って茨城弁しゃべくる奴ばっかだと思ってたけど、みんな結構普通の言葉使ってやがるし。地元だったらもっと地元らしくしてくれよ。つまんねえ。まあ、俺もそんな地元の方言使わねえんだけど。親父とおふくろが普通だからかな。言葉は。喋りは台本あるみたいな。むしろオタクっぽい感じ。ガキの頃はあれが普通だと思ってたけど、今になれば、あれがおかしいってのは考えないでも分かる。普通は、家でニュースキャスターみたいな喋りしねえって。アニキはともかく、それでよく俺みたいなガキができたもんだ。遺伝子っつーの? あれの神秘だな。悪魔的な。俺は悪魔か。天使よりはカッコイイかも。何となく。
そんなどうでもいいこと考えちまうほど、時間が余ってた。ここ茨城、パープルシャドウ(何でこんな名前思いついたんだ?)っつーチームのホームコースで、峠の神様って言われてる人らとのバトルは終わっちまって、今、藤原がゴッドアーム(すげえ通り名だよなホント、神の腕だぜ腕)のS2000に同乗中。で、撤収作業をしながら俺らは藤原の帰りを待ってると。しながらっつーか、もうほとんど片付いてるから、俺はこうしてFDのボンネット座って煙草吸うしかやることねえんだけど。
けど煙草吸ったって、いつもの煙草だ、うまいとかそんなんじゃねえ。どうせだから、ここでしかできねえことをやっときゃいい。そう思う俺の目は、ゴッドアームの対のおっさん、ゴッドフット(これもすげえな、二人合わせて腕と足だ。頭とか胴体はないのかね?)の星野好造の車に寄せられちまう。R34GT−R。でかすぎ重すぎ、電子制御万端。あんな車でドリフト合戦乗ってくんだから、信じられねえおっさんだ。
そう、あのおっさんは、信じられねえドライバーだった。はっきり言って、おかしい。俺に言わせりゃアニキも藤原もおかしいし、S2000のおっさんも藤原を越えるぐらいおかしいけど、星野好造もひでえおかしいドライバーだった。
栃木の、何つったっけ、セブン何たらってチームの奴も34に乗ってたけど、ありゃS−4で、同じスカイラインたって、GT−Rとは全然違った。フォルムも性能も、存在感も。日産スカイラインのGT−Rってブランドは、そこらのペーペーが乗ったって、私はGT−Rでございますよってなデカいツラで走ってられる、自己主張の強い、うっとうしい車だ。だからドライバーにしても、GT−Rに乗ってるっつーか、乗られてるって奴がほとんど。俺が峠だの何だの、色んな場所で見てきた限りでは。人間が作った車に、人間が取り込まれちまうって、コッケイすぎて目もあてられねえよな。だから俺は、あの車も、わざわざあれを選ぶ奴も嫌いなんだ。
けど、星野好造には、コッケイも何もねえ、この人がGT−Rじゃねえかってくらいの存在感があった。取り込まれるどころか、取り込んじまってる。どんな車乗ってたって、その車がどうのってより、星野好造の車だとしか思えなくなる、そんな感じ。嫌いになるには骨も肉も神経も、何もかも太すぎる。口ヒゲなかったらもっと若く見えそうなおっさん、っつーか走りが若かった。折り返しターンする時抜かしにかかるなんざ、年食ってようが普通考えねえだろ。技術あっても危険が多すぎ。そもそも普通34でFDと張り合ってドリフトしまくらねえって。マジ、ひでえおかしいドライバーだった。っつーかおっさん。
そんなおっさんに俺は勝った。勝ったんだよな。うん、勝った。けど、勝った気はそんなにしねえ。理由は分かってる。分かってるから、もやもやしてる。
どうせ藤原もまだ戻ってこねえだろう。暇つぶしがてら、このもやもやを晴らしとくか、と俺がFDに乗せてた尻を上げたら、
「あれほどゴーホーライラクって言葉が似合う人を見たのは、初めてだぜ」
と、いつの間にか隣に立ってたアニキが言った。なあ、兄弟なんだから気配消す必要なくね? そんな俺をおどかしてえの? と思うんだけど、この人それが趣味なんだよな。厄介なアニキだ。それはそれで好きだけど。で、何だっけ。
「ゴーホーライラク?」
英語にしか聞こえませんが何なのでしょうか、という思いをこめてアニキを見る。肩をすくめてアニキは言った。
「四字熟語だ。ま、度量がでかい、太っ腹ってことだな」
俺がさっきから煙草吸いつつ見ていたのは星野好造の34で、そのすぐ傍には星野好造がいる。ということで、アニキの言うそのゴーホーライラクって言葉の似合う人、ってのが、星野好造だとは聞かないでも分かることだ。それにあのおっさん、確かに腹が太い。何キロあるんだと思っちまう。あんな体じゃ余計に車が重くなるだろう。似合うっちゃあ似合うけど。どっちも規格内で規格外。
「藤原は何本か同乗させてもらうと言っていた。まだ時間がかかるだろう。撤収作業もあらかた終わった。お前もやりたいことをするなら今のうちだぜ、啓介」
アニキは俺の顔を見ながらそう言って、俺の肩をぽんと叩いてバンに行った。何だろうな、あの人は。何でもお見通しだ。ちょっと怖い。でも頼れる。カッコイイ。すげえアニキ。でもやっぱちょっと怖い。すごすぎるっつーの。
まあアニキのおすみつき(っつーのかな?)もいただいたことだし、俺は今のうちにやりたいことをやっちまうことにした。星野好造は、パープルシャドウのメンバーなのか、若い連中に囲まれてる。俺と同い年くらい。そして、バカでけえ笑い声をこっちにまで響かせてる。低くていい声してんだよな。演歌でも出してんじゃねえか。いや、社歌か。土建とか聞いたし。そんなことを考えながら歩いていくと、星野好造は俺が声をかけるよりも先に、俺に気付いて、
「おお、高橋君。俺に何か用か」
と、言ってきた。何つーか、俺って分かりやすいかな、そんなに。いや、真っ直ぐ星野のおっさん向かって歩いてんだから、誰でも用事があるかとかは分かるか。ええ、と言って、俺は更に近づいた。星野のおっさんの周りにいる奴らは、俺を嫌そうな、けど何かそれだけじゃねえ感じで見てくる。まあ、自分らのチームの神様みてえな存在が、よその地域の自分と同じような歳の走り屋に負けたとあっちゃあ、フクザツな気分になるよな。共感も同情もしねえけど。で、こいつらも、このおっさんが俺に先に声かけちまってるから、大きく威嚇してこれねえってシチュエーション。上手い。
「星野さん、ちょっと話させてもらってもいいですか」
目上の人には礼儀正しく丁重に。暴走族ってのはそういうところ、上下関係厳しいんだよな。社会のルールより内輪のルール。反抗心の表れってやつ? そういう気持ちはもうなくなっちまったけど、身につけたもんはまだ時々出てくる。良い悪いはケースバイケース。今回は、まあ悪くはない。
「いいぜ。お前ら、ちょっとそっちに行っててくれ」
星野好造がそう言うと、周りにいた奴らは頭を下げて場から去った。ちらっとこっちを睨むのを忘れずに。そういうのが、一番地味にダメージくるんだぜ、坊ちゃん方。知らねえだろうな。俺も最近まで知らなかった。真っ直ぐぶつかってきてくれる相手のありがたさっつーの? ちょっと睨んで終わりって、そんくらいにしか思われてねえ、そんくらいやっときゃ済むってくらいなんだもんな。意識しちまうと、無視されるよりきついんだ。ま、慣れたけど。
「何だ、気が変わったか?」
俺が去ってった奴らの後ろ姿をちょっと見てると、星野好造から話を振ってきた。気が変わったっつーのは、さっきの誘いのことだろう。『そっち』の方面に口利きしてもらうっつーやつ。興味がないわけじゃないが、今はD以外考えられねえし、断った。このおっさんもそれは理解したはずだ。それでもそんなこと、微笑みながら聞いてくるって、これ腹が太いっつーか、腹が黒いんじゃねえの? 俺もこれくらいのおっさん相手にしたことねえわけじゃねえけど、このおっさんは何つーか、格違う。前に立つと、勝手に背筋が伸びちまう。本能かな。構えとかねえと、喉元食われそうなサバイバル感がある。ウソつくのも命がけじゃねえと駄目だろうな。つく気もしねえけど。
「いえ、それは全然関係ありません」
「全然か」
「全然。一つ、聞いてもいいですか」
ああ、と星野好造は微笑んだままうなずく。大人の余裕。俺が今、おっさんの周りにいた奴のせいで一瞬だけ味わったソガイ感も分かってるって顔。物知り顔の奴らは気に食わねえけど、このおっさんなら仕方ねえかって思えてくる。向き合った時点で上手、何枚も取られちまってんだ。今更遠慮とかは無駄だな。
「何で、ほぼノーマルの車で走ったんですか」
俺は聞いた。ずっと引っかかってたこと。もやもやの正体。勝ったのは勝った。けどこのおっさんのコースレコードを俺は越えられなかった。っつーか手も届かなかったってのが実際。それが勝った気しねえ理由その一。ま、でもこれはもやもやに値しねえ。俺の仕上がりがその当時のおっさんの仕上がりに敵わねえってだけだからな。問題はその二のこれ。ライトチューンにもほどがあるって、さっきパープルシャドウっぽい奴らが話してた。これみよがしに。まあ俺も一緒走ってりゃ何となく分からねえでもねえし、アニキも終わった時言ってたから、そんな驚くことでもねえんだけど、これみよがしに言われちゃあな。俺らがこっちに来るってことは大分前から言っていた。こんな歳まで走り屋やってるおっさんだ(いつからやってんのかは知らねえけど)、短期間でも最高の状態に仕上げることはできただろう。それとも時間がなかったか、金がなかったか、やる気がなかったか? じゃあ最初から出てくんなって話じゃねえか。まあそんなわけで、俺はもやもやしていた。だから聞いた。で、星野好造は俺が聞いた途端、爆笑しやがった。まあそりゃ、俺だって呆気に取られるしかねえよ。何でそこで笑うんですか。おい。
「いやあ、さっきそれ、城ちゃんにも聞かれたとこでね。今ハチロクの坊ちゃん乗せてる男にな」
俺はつい睨んじまったんだけど、星野好造は屁でもねえみてえに俺を見返して、笑いを残したまま言った。相棒も分からなかったのか? まあでも俺もプロジェクトが絡んでなけりゃ、藤原のことはよく分かんねえとこあるけど。でもこのおっさんら二人で神様って言われてんだろ。ツーカーっぽいけどな。少なくとも、相棒にはちゃんと答えてそう。だから俺は続けて聞いた。
「その時は、何て答えたんですか」
「何だったかな。ま、そんな複雑なことじゃない。君も俺の歳になれば分かるだろう」
こういうの、卑怯だよな。歳食ってから分かりてえんじゃねえ、俺は今、分かりてえってのに。折角聞いたんだぜ、ごまかされてたまるかよ。
「俺みたいなガキ相手じゃあ、カンペキにチューンする必要なんてないからですか」
「そんなわけがないだろう。どんな相手にでも全力を尽くすのが、俺の性分だぜ」
「じゃあ何で」
「高橋君」、と星野好造は片手をあげて、崩しようのねえ感じに笑いながら言った。「誤解しないでくれ。相手が誰であろうとも俺はあの車で走る。それが今の俺自身の望みだからだ。言っちまえば、お前のことなんて俺には関係がねえんだな。人それぞれってことだよ」
「人それぞれ?」
「感じ方は人それぞれ、受け取り方も人それぞれ。それ以上に俺に言えることはないさ。承知してもらえるかな」
真っ直ぐ見られる。俺も真っ直ぐ星野好造を見る。そして言った。
「できません」
「わはははは! はっきりしてていいな、お前は!」
出た、バカ笑い。おい、バシバシ肩叩かねえでくれって、痛い痛い。大体承知とかできねえよ。何が人それぞれだ、その人それぞれの、あんたの理由を知りてえって俺は言ってんじゃねえか。クソ、やっぱこのおっさん、腹黒いぞ、絶対。脂肪まで真っ黒に違いねえ。俺がそんなこと考えつつ見ていると、「ま、そうだな」と俺の肩に手を置いたまま、星野好造が、にやりと笑った。
「お前の望む答えを言ってやるとすりゃあ――」
目を離せねえ顔だった。自信満々、崩しようのねえ、違うとか、合ってるとか、そんなこと、誰にも言わせねえ、強い顔。その顔で、星野好造は、ささやくみてえに言ってきた。
「必死こいてるガキを相手にして、大人が同じ次元に下りちゃあ、格好がつかねえだろ」
高さなんて今までとそう変わってねえのに、首筋ぞわっとさせてくる感じの入った声だった。その強い顔と一緒になったら、答えがどうのとか、理由がどうのとか、そんなことどうでもよくなっちまう、っつーかもう星野好造ってことで全部オーケーになっちまうような感じ。オーケーにしちまうしかねえのかな、俺も。いや、それはどうよ。
「格好、すか」
「男たるもの、いくつになっても格好良くありたいもんさ。で、若い女の子にはモテたいもんだ」
そう言っておっさん、また大声で笑って、人の肩から背中をバシバシ叩いてきやがった。女かよ。俺はもう、呆れちまった。オーケーもオーケー、格好つかねえってことでいいさ。こんなおっさんに敵わねえっての。何で俺、勝てたんだろ。少し不思議だけど、まあ勝ったからな。勝ったんだ。人柄と速さは無関係。そういうこと。もやもやも取れた。でも、あんま勝った気しねえんだよな、やっぱ。おかしなおっさんだぜ、マジで。
そういうおかしなおっさんの、自信満々の、崩しようのねえ顔(まあ、ある意味もう崩れてっけど)見てると、何か、こういう顔、前にどっかで見たことあったような気が急にして、俺はぞっとした。そう、ぞっとした。背筋に悪寒が走るってやつ。思い出したんだ。崩しようがあった奴のこと。崩しちまったまま、もう、半年以上会ってねえ奴のこと。そいつもGT−Rに乗っていた。32に。そんな存在感があるっていうわけでもねえのに、Rに乗られちゃいなかった。でも、別にこのおっさんに似てるってんでもねえ奴だ。ゴーホーライラクって感じじゃねえし、もっと神経質っぽくて、単純で、怒りやすくて、崩しどころしかねえような、第一、女の話とか苦手そうだった。そいつのこと、完全に思い出して、俺はぞっとしちまったんだな。まあつまり、GT−Rって車が出てきた時点で、薄々思い出してたんだけど、あれだ、忘れようとして、忘れてて、ここでもう、完全に思い出しちまって、どうするよって感じ。だって、どうしようもねえ奴だ。どうでもいいとは言えねえけど、どうする気にもなれねえ奴。
「ん?」
俺が見ていることに気付いた星野好造が、不思議そうに目を瞬く。このおっさん、シワはあるし、肌もそんなキレイってんじゃねえけど、目だけは老けてない。俺のヤンチャ時代の仲間より、よっぽど若くて、そのくせ迫力がありやがる。経験積んでるのに若々しいって、これも卑怯だ。いいとこ取りじゃねえか。若い俺としちゃ、身構えるけど、共感もしてしまう。だから、つい、言っていた。
「俺の知り合いにも、R乗ってる奴がいて」
言ってから、突然すぎるって気付いたけど、星野好造は気にする感じでもなくて、へえ、と言った。
「34か?」
「いや、32です。今、何してんのかは知らねえけど」
別に、それをこのおっさんに話してどうなるってことでもねえって分かってるから、どうも歯切れが悪くなる。するとおっさん、にやっとヤラシイ(でもヤラシくねえ)感じに笑いやがった。
「知り合いか」
「ええ、まあ」
とだけ言って、俺は話を終わらせようとした。しかしこのおっさんにじっと見られてると、黙ってるのが男らしくねえ風に思えてくるんだよな。何だよもう。何でこんなに若い目してんだ。ついまたどうなることでもねえこと、言っちまうじゃねえか。
「その、前にバトルしたことあって」
「それで、俺を見て、その32乗ってる子のことを思い出してたってわけか?」
乗ってる子って、女だと思ってんじゃねえかこのおっさん。いや、このおっさんから見りゃどいつもこいつもガキなのか。微妙な気分のまま、俺はそうっすね、と言った。
「似てるのかな、その子と俺は」
星野好造はにやにやしっぱなしだ。俺はこのおっさんに似ている女を想像しちまって、ゾンビがゴロゴロ出てきてマシンガンでガンガン撃たれて肉片まき散らす映画でも見た気分になった。グロイっつーの。そんな想像はコンマ一秒で吹き飛ばして、このおっさんに与えてるらしい誤解をとくことにした。
「そいつは、星野さんみたいにゴーホーライラクって感じじゃないですよ」
「へえ、難しい言葉知ってんだな」
どんな漢字で書くかも分かんねえけど、まあ、と言っておく。さっき知ったばっかだけど、知ってることは事実だ。星野好造はふうんとヤラシイ(でもやっぱヤラシくねえ)感じにうなずいて、ふくれてる腹を突き出すみてえに腰に手を当てながら、「32か」、としみじみ言った。
「俺も昔は乗ってたからな。あの車はいい車だ、乗り続けたいなら是非とも乗り続けてもらいたい。その子によろしく伝えといてくれ」
俺は話の流れでうなずきかけて、え、と素で驚いた。
「いや、俺、そいつと会うことないんですけど、っつーか何で」
「会わないこともないだろう」、と星野のおっさん、俺の言葉さえぎって、平然と言いやがった。「お前とバトルするような子だ、実力はあるんだろ? そういう子には目をかけておきたいのが、年寄りの性分でね」
都合のいい時だけ年寄りになんねえでくれよ、おい。俺はそう思ったものの、言えはしなかった。だって、星野好造にウインクまでかまされちゃあ、どうしようもねえだろう? すげえぞあれ。だから俺はおっさんにはその後あいさつだけして、とぼとぼとみんなのところに戻った。ケンタが声をかけてきたけど、おっさんとの話の内容言う気にゃならなかった。こいつに話したら全員知ることになるし、ウインク強烈すぎたし。お前も食らってみりゃいいんだ、ありゃ頭マジで真っ白になるぜ。ホワイトアウトだ。そう言ってもケンタは何すかそれと言うばかり。何すかね。俺が聞きてえよ、見もしたことのねえ奴に、よろしく伝えてくれってのは、どういう考えだ、あのおっさん。わけ分かんねえ。ゴッドアームの人がいりゃあ、解説してくれたのかな。藤原、今の俺は、お前がちょっと恨めしいぜ。そう呟いたら、またケンタがぎゃあぎゃあうるさくなったので、俺は完全撤収に入るまで、FDに引きこもった。
俺には星野好造の考えってのが、よく分かんねえ。アニキに言えば推測してくれたかもしれないけど、話が話だ。俺が思い出した奴。中里毅。そいつのこと、何となく、アニキに話したくはなかった。俺が気にしてるんだって、知られたくなかった。正直、ずっと気にはなっていたんだ。いや、ずっと、といっても四六時中ってわけじゃない。ただ時々ふっと思い出して、そして忘れて、また思い出す。その繰り返しだった。でもそれって結局、俺があいつのことを、ずっと忘れてなかったってことだよな。中里毅。去年の秋の、赤城レッドサンズとしての交流戦の相手。妙義ナイトキッズの頭張ってた奴。32のGT−Rに乗っていた。多分、今も頭張ってるし、32に乗ってる。はずだ。知らねえけど。俺はそいつに勝った。そいつのホーム、妙義山で、ヒルクライムで。途中で雨が降ってきたバトル。接戦っちゃあ接戦だったけど、負ける気はしなかったな。自信があった。それで、俺は、そいつを負かした時、結構厳しいことを言っちまった。気がする。自信があったのにケチつけられて少し腹が立ってたように思うけど、あんまり覚えてねえ。ただ、そいつが、雨の中で立ち尽くしてる絵だけは、はっきり覚えてた。いつでも人に食ってかかってきやがってた、太い野郎が、俺に負けたことで、ひでえツラになっちまってる姿が、それが、忘れられなかったんだ。
そのあと、中里が栃木のエンペラーっつーチームの雑魚(俺がのちに赤城で負かした奴のはずだ)に負けて、Rが工場送りになったことも、何だかよく知らねえけど箱根あたりでドンパチやってフラれただかってことも、ケンタがベラベラ喋ってきたので知ってはいたけど(しっかしあいつはどっから情報仕入れてるんだ、下手すりゃアニキより情報通だろ)、中里と、会いたい、とは思わなかった。まず、走りたいと思わなかったからな。あいつなんて、俺にとっちゃ通過点の一つで、もう越えちまってるから、今更どうすることもねえっつーか。向こうはそうは思っちゃいねえんだろうけど。
そう、中里って奴は、そういう奴のはずだった。俺がどれだけ先に行こうが、俺がどれだけ無視しようが、俺に負けたことをずっと引きずって、俺に勝つことを諦めらんねえ、そういう奴だ。そういう奴だと、それを確かめるのが、俺は嫌だったのかもしれない。違ったらどうするか。どうもしねえけど。違った方が、面倒なくていいし。でも、違って欲しくねえって、ちょっとは思ってたんだ。いや、今も思ってる。あいつには、俺と走りてえと思ってて欲しい。あいつがそう思ってりゃ、俺だって、そう思ってやれる。越えた奴ってことで、済ませなくて済む。会って、もしあいつがそう思ってなけりゃ、俺はあいつのこと、どうでもよくなっちまう。それが何か、嫌だった。会いたいと思わなかったってより、だから、会いたくなかったってことだ。何度も何度も思い出した。思い出して、忘れて、思い出して、繰り返しだ。それで全然平気だった。忘れられた。その程度の奴なんだ。それでも、会いたくなかった。それって、逃げてるのと同じだよな。大分前にバトルで片つけた相手、そいつから、俺は逃げてる。すんげえ消極的に。こんなこと、アニキに知られてたまるか。兄弟でも、踏み込んで欲しくない部分はある。
それにしても、星野好造は、俺のそういう逃げてる部分が分かったんだろうか? だからあいつによろしく伝えてくれなんて言いやがったのか? まさかな。おっさんの気まぐれだろ。そういうことにしとけばいい。けど、あのおっさんの顔思い出すと、どうも、何もしてねえのが、すげえ悪いことみてえに感じられちまうんだ。自信満々、崩しようのねえ顔。あいつは、中里は、そういう顔が似合ってた。俺は最後にそれを崩した。まあとっくの昔に直ってるだろうけど。直ってなかったらどうする? どうもしねえ。どうしようもねえ。けど、そうか、それも確かめんのは嫌なんだよな。俺はあいつのことよく知らねえけど、それでも俺の知ってるあいつじゃなくなってたら、どうしようかって。いや、だからどうしようもねえ。こんなこと考えてる俺は、あいつのこと思い出した俺は、星野好造みてえになっていられねえんだろうな。忘れても、結局思い出しちまうんだから、終わりはねえ。
遠征の次の日、つまんねえ学校の講義の最中、寝るよりそんな風につい余計なことを考えちまってて、まあ、あの強烈なウインクに免じて年寄りの性分ってやつをやってやろうかと、決めていた。若いけどさ、俺は。
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