願い 2/3
結局足踏み入れるのって、去年の秋の交流戦以来だった。妙義山だ。変わった様子はない。今時期ほとんど来たことねえし、っつーかそんな回数来たこともねえし、変わったとこがあっても俺が気付けねえだけかもしんねえけど。
下の駐車場、中里は、すぐに見つかった。黒いシャツにジーンズって普通の格好だけど、目立ってんだもん。そんな存在感ねえ奴だと思ってたけどな。案外いるの丸分かり。そいつの周りだけ、空気が違うっつーの? 風景に溶け込めてねえ。浮いている。けど、避けられてるとか、嫌な感じで浮いてるんじゃねえ。浮き立ってる。そうか、ここらで32のGT−R転がしてる奴なんてこいつしかいねえ上にそれで妙義の頭張ってんだから(まだそうだったらだけど)、そりゃ目立つよな。交流戦の時とかは全然気付かなかったけど、近くにいすぎたのかな。離れたから分かることもあるってか。
ん? 何だ、俺、中里のこと、認めてんのか。まあ、今更意地張るような相手でもない。俺勝ってるし。D入ってから、多分、こいつの何十倍も成長してるし。今バトルしても、負けることは絶対ねえだろう。でも、中里はそうは思わないだろう。俺の知ってる中里は、そういう奴なんだ。
いや、本当に、そういう奴なんだろうか? 思うと、中里へと向かう足が、少し鈍った。半年以上会ってない。会う理由がなかった。今だって、星野好造がよろしく伝えろなんて言いやがったから、伝えに来ただけで、そうじゃなけりゃ、中里のこと思い出したって、会おうとは思わなかった。会いたくなかった。確かめたくなかった。もう越えたもんでしかなくなってるとか、崩れたまんまだとか、終わっちまってるとか、そういうことを。
ま、今更うだうだ思ったってどうしようもねえ。すぐ後には反省会も入ってるから長居もできねえ。する気がないから、わざわざ今、来たんだ。俺は腹決めて、足を元の速度で進めて、サッソウと中里の前まで歩いてやった。
「よお」
俺がここにFDで乗りつけた時点で、もう色んなとこから色んな視線が俺の体中にグサグサ刺さってきやがってたんだけど、中里のはそう強くもなかった。見られてても敵意とかそんなんは感じねえ。けど中里と一緒にいる二人の男はあからさまだった。俺が中里に声かけただけで、すげえ勢いで睨んでくる。そういや、妙義山っつーか、妙義ナイトキッズってそんな感じだったな。よそとは視線の威力が違う。ここでこれだけ俺が、胸張って立つ気になれるのは、だからかもしれない。真っ直ぐぶつかってきてくれることのありがたさ。前はどいつもこいつもふざけんじゃねえぶっ倒されてえのかとしか思えなかったけど、Dでよそ行くようになってからは、身に染みる。
「久しぶりだな、高橋啓介」
特に愛想良くも悪くもなく、中里は言ってきた。ぱっと見た感じで、変わった様子はない。崩れたことなんて全然見当たらねえ、ふてぶてしい感じのツラ。この山と同じで、回数も時間も会ってねえから、変わったとこに気付けねえだけかもしんねえけど、それでも、見た限りで変わった様子はない。この横の奴らも多分ナイトキッズだろ。視線の威力がすげえし。つまり、こいつは多分、まだこいつのすぐ傍にある32に乗ってて、普通にナイトキッズの頭張ってるらしいってことだ。俺は、それ感じて、何かほっとした。Dが始まってから、一番ほっとしたかもしれない。いつも通りのこいつのせいで。それはどうなんだと思わねえでもねえけど、気分は悪くない。何だ、さっさと会っときゃ良かったな。
「交流戦以来だろ」
俺は言って、中里の両脇に立ってる奴らをそれぞれ見た。筋肉質の丸坊主と、ノッポの金髪。この二人のあと、この二人に挟まれてる中里を見ると、キャシャに見えてくるから不思議なもんだ。そして俺が、二人で話したいと言うより先に、中里は二人をそれぞれしっかり見て、目を合わせて、顎をしゃくった。すると二人はうなずいて、筋肉質の丸坊主は何も言わずに俺の横を通りすぎていき、ノッポの金髪は、通りすぎるかと思ったら顔を寄せてきて、
「ごゆっくり、プロジェクトDの高橋啓介さん」
と、ねちっこい感じで言ってバカにするみてえに笑って、んでやっぱり俺の横を通りすぎてった。後ろ姿でも背の高さは分かる。俺より高かった。久しぶりに、同じ場所に立ってんのに見下ろされたな。
「悪いな、あいつら有名人は嫌いなんだ」
声がしたので、中里に顔を戻す。中里は、笑ってた。困ったみてえに、でも、人をバカにする、どっか誇らしい感じ。激しいのに柔らかいような、今まで見たことのねえ感じの顔。何かちょっと、むずむずするっつーか、落ち着かなくなる。肩をすくめて、俺は言った。
「俺の名声も、こんなヘンピなとこまで届いてるってわけか」
「限りねえな。この通りだ。どいつもこいつもお前の動向が気になって、仕方ねえらしい」
中里は笑ったまま、両手を広げる。そんなこと、言われなくても感じるさ。よそより厳しい視線。遠慮のない視線。でも、数はよそより少ねえと思う。多分、お前、俺のだけじゃなく、お前にきてる視線も数に入れてるだろ、中里。気付かねえのかな。気付かねえから、そんな風に笑ってられるのか。困ったみてえに、でも、どっか誇らしい感じ。そう、これだ。自信満々、崩しようのねえ顔。星野のおっさんのあれ。よりは、もっと軽いし、かわいいけど。ん? かわいい? まあ、そりゃあのおっさんに比べりゃ、誰でもかわいいだろ。いや待て、かわいいって何だ? こんなむさ苦しい野郎相手に。眉毛は無意味に太いし顔はガチガチしてるし。まあ厚めの唇とか大きめの目とかは、何となく色気がないわけでも……色気? おい、俺の脳ミソ、どうした。判断がおかしいぞ。
「今度は茨城だったんだろ?」
俺が中里の顔をじっと見つつ、自分の頭を心配していると、俺が何も言わないことにじれたらしい中里が、俺を上目で見ながら言ってきた。上目。こいつの目、こんなにでかかったかな。まつげが濃い。見られてると、落ち着かないっつーか、どきどきしてくる。色気か。やべえ、何か頭混乱してきた。えーと、何言われたっけ?
「ああ、まあ。あー、知ってんのか」
「情報はすぐ更新されるからな。見てるよ。お前らのことは、どうやったって気になっちまう」
気に食わないように、でもちょっとだけ嬉しそうに、中里は言った。にやっと笑いながら。かわいい。かわいい? かわいいんだよ。待て待て、こいつ、中里だぜ。俺のFDを下品と言いやがった野郎だ。それをかわいいって、そんなこと俺、今まで感じたことあったか? ねえよな。今まで。今までったって、こいつと会ったことあんのって俺、そんな多くねえか。思い出してみよう。アニキと藤原がやり合う前に秋名で出くわした時に一回、交流戦の時に一回。って二回だけじゃねえか。しかもどっちもバトル前提って感じ。こんな普通の時じゃなかった。普通。普通じゃなけりゃいいのか?
「お前、まだ俺に勝つ気でいるのかよ」
本題じゃねえけど、確認したかったこと。そして、俺を走り屋として、こいつにつなぐこと。こいつが俺をつなぐこと。中里は、一瞬興ざめしたような顔になってから、厳しさ乗っけて、俺を睨み上げてきた。
「当たりめえだろ。ここじゃもう、俺はお前に負けはしねえ。絶対に勝つ。覚悟しとくんだな」
ああ、やっぱりこいつは、変わってねえ。こういう奴だ。厳しい顔。目はつりあがって、敵意むきだし。優しさなんてカケラもねえ。じゃあ、こいつと会わない間に、俺の頭がどうかしちまったんだ。睨んでくる顔にまで、色気を感じる。ぞくぞくしてくる。こんなこと、前はなかった。なかったか? 前は、バトルのこととかアニキのこととか藤原のことで、頭いっぱいだったからな。正直こいつのこと、しっかり見てもいなかった。負ける気もしなかった。ただ、最後、俺が言ったことに、ショック受けたみてえにうなだれてるこいつの姿は、忘れられなかった。ああ、あれも色気か? 色気? だから色気って何だよ。覚悟って何だ。あ、話が続いてねえ。話だ話。
「34のRに乗ってるおっさんと、やったんだよ」
中里の顔が、変な感じにゆがむ。あれ、この話じゃなかったか。いや、元はこの話だ。覚悟についてはまた後で。今は時間がねえ。
「それで、そのおっさんが、お前によろしく伝えてくれって」
「は?」
眉間にシワ、大口開けて中里が首を突き出す。わけ分かんねえよな。俺もあのおっさんの考えは、わけ分かんねえ。ついでに今、俺は俺のことがわけ分かんねえ。
「32に乗ってる知り合いいるっつったらよ、あー、何だ、乗り続けてえなら乗り続けてほしいって。俺とバトルしたことあるっつっちまったから、あのおっさん、お前に実力があるものと勘違いしたらしい」
「勘違いってな」
「とにかく、伝えたぜ、俺は。で、何だっけ、覚悟? 分かった、しといてやる。後は何だ」
「いや、こっちは別に何もねえが……」
そりゃそうだ、俺が星野のおっさんの話を伝えに来たんだから、こいつに何があるわけでもない。中里はまだ顔をゆがめている。俺も顔をゆがめている。このあと、どうすりゃいいのか分からない。沈黙、は、金なんだっけ? じゃあ、先にそれを破った中里は、儲けらんねえってことかな。
「そのために、お前、わざわざここまで来たのか?」
「まあ」、と言ってから、俺は思い出して、右手を小さく振った。「これからDのミーティングあるんだよ。だから、ついでだ。ついで」
ついでを強調しておく。最初はだって、そうだったんだから。今は、違う。そっちの方がついでになっていた。だから、どうすりゃいいも何も、このまま帰ればいいってのに、帰りたくない。もっとこいつと話していたい。こいつを見ていたい。近くで。ぞくぞくしていたい。
そうか、と、中里は、不思議そうなままうなずいて、「まあ」、と言った。
「ついでにしても、そりゃわざわざ、ありがとよ」
少し、唇の端を上げるだけ。笑顔っつーほどのもんでもない。でも、ぐっとくる。胸に手をねじ込まれて、心臓、直接握られたみてえな感じの衝撃。胸に迫るってやつ。少しあがった唇を、指で押したくなる。というか、唇で。キスしたい。その先も。その先? まあ、セックスだよな。してえのか、俺。こいつと。こいつ、中里だぞ。中里毅。妙義ナイトキッズの。FD目の敵にしやがってる。ムサイ感じの、男以外の何でもねえ奴。見りゃ分かるってな。
「ついでだからな。ついでだ」
何か言っておかねえとと思って、それだけ繰り返した。中里は、ちょっと眉間にシワ寄せた。
「んなついでついで言うんじゃねえよ。事実でも何でも、気分悪くなるぜ、ったく」
まさしく気分が悪そうな顔だ。この顔でも、ぐっとくるってのは、何なんだろうな。こいつだったら、どんな顔でもいいんじゃねえか、俺。重症だ。こんな短時間で。それとももっと前からか。慢性的。本当に、そうなのか。
「中里」
「あ?」
ゆがんだ顔。太い眉、硬そうな鼻、その下のひげの剃り跡。毛、濃そうだな。色白いから、目立ちそうだ。見てみたい。
「ちょっと、笑ってみてくれよ」
「はあ?」
「いいから。笑え」
俺が言い切ると、中里は納得いってない感じで眉間にシワを寄せたまま、ものすごい引きつった笑顔を浮かべた。愛想なさすぎ、無理ありすぎ。がんばりましょうって感じ。これはさすがに、と思う頭とはウラハラに、俺の背中はぞくぞくしきって、よくがんばりました、って触りたくて、そう、むらむらしてくる。こりゃもう何だ、お手上げだ。
「……これでいいのか?」
仏頂面になって、人の脳ミソの具合心配するみてえに、中里は俺を見上げてくる。ご心配ありがとう。俺も自分で心配だが、どうも取り返しのつかないことらしいから、もう構わないでおこう。上出来だ、と俺は言っておいて、中里の左手を見た。見てから、その手を取って、俺の胸元に寄せる。手の甲にキスしてやってもよかったんだが、目当ては腕時計。見るからに安物。けど時計としての機能がないわけじゃない。腕時計だしな。
「な、何だ」
手を引っ張った分だけ、距離が縮まる。中里の顔が近くなる。中里と、近くなる。うろたえているその中里を見ながら俺は、「時間だ」、と言って、腕時計をまた見た。時計の針は約束の時間にはまだ遠い。近かったらやべえってな。けどもう行かねえと遅れちまう。アニキの冷ややかな視線は受けたくない。でも、この手を離したくない、とも思う。中里の左手を握ったまま、中里をまた見る。困ってる。丸分かり。俺より分かりやすいんじゃねえか、こいつ。
「見ただろ」、と少しかすれた声で中里が言う。
「ああ」
「なら、離せよ」
こういうの、虚勢っていうのかな。不機嫌そうに睨んではきているけど、びくついているのも丸分かり。不安なんだろう。俺の考えが分からなくて。手を握るだけでこれって、セックスなんてできるのか? っつーかしてえのか、俺は。こいつと。キスはしてえけど。今すぐ。でも今やったらやべえってのは猿でも分かる、からしねえけど、してえって、その先もか? 実際役立つもんなのか。男の裸で。中里の裸。裸じゃなくてもいいか。でもセックスは裸だろう。抱き合わねえと。こればっかりはやってみねえと分かんねえな。しかしなにぶん時間がない。アニキを怒らせたくはない。
「お前、まだここにいるか?」
手を握ったまま、俺は聞いた。「あ?」、とまばたきした中里が、ああ、とあいまいな感じでうなずく。
「まあ……しばらくは」
「分かった」、と俺は中里の手を離した。「また来る」
「はあ?」
「じゃあ、後でな」
約束にはしなかった。破られたくないから。でも、約束にしなくても、多分、中里はいるだろうと思った。そういう奴だ。一方的に言われたことでも、律儀に受け止めちまう。だから、いなけりゃそれはもう、俺の思ってる中里じゃない。諦めもつくってもんだ。希望的観測ってやつかな、これが。
かわいさを言うなら、あいつも見た感じ、なかなかかわいい女だった。埼玉の、苗字忘れた。恭子だ。でも、むらむらとはこなかった。車が俺らの間にあったってのもそうだけど、つまり、色気だ。かわいいとは思った。顔も体も悪くねえし、車が好きで真っ直ぐで、話も分かる。欠陥はない。けど、色気は感じなかった。だから、やりてえとか思わなかった。っつーか、そもそもそこまで思える相手じゃなかったっつーのかな。中里は? 車が好きで真っ直ぐで、話も分からねえでもねえ。でもあいつ、恭子よりも、野暮ったいしむさ苦しいし、車の趣味は違うし、どうも俺と張り合わずにはいられねえみてえな、はた迷惑な部分がある。でもかわいい。と、俺は感じたと、そういうことだ。睨まれるとぞくぞくした。何でもねえ顔見てるだけで、むらむらしてきた。笑った顔は、すげえこう、もう、かわいいって思っちまった。誰でも否定するだろうな、そんなことは。あのむさ苦しい奴のどこがかわいいのかと。俺は、否定できねえ。何だこりゃ。わけ分かんねえのは、俺だ。あいつとキスしたい。あいつとやりたい。っつーかあいつを抱きたい。待てよ、あれか、もしかして俺、ホモに目覚めちまっただけなのか? それなら、あいつ以外の野郎でもむらむらくるってことだよな。あいつよりかわいい野郎とか。
集合場所のファミレスには、うってつけの奴がいた。中里よりもかわいい顔をしてる男。Dのもう一人のエース。まだ成人もしてねえのにすげえドラテク持ってて、そのくせ普段ぼんやりしてる、俺が昨日ちょっとだけ恨めしくなった奴。
「なあ、藤原、俺に笑ってみてくれねえか?」
集合時間までまだ十分ある。来てないのはアニキと史浩だけ。俺は藤原の前の席に座って、反省会と次回の打ち合わせが始まる前に、考え事を始末しちまうことにした。
「はい?」
「笑うんだよ。にこっと。いや、こう、にやっと。にやっと? ちげえな。まあとにかく笑ってみろ。いいから」
藤原は、何言ってんだこの人、という思いをあからさまにこめた目で俺を見てきたけど、素直、というか無駄にセンサクするより腹をいっぱいにすることを優先する奴だから、はあ、とうなずいて、にへら、と笑った。
……まあ、かわいいっちゃあかわいいよな。けど、胸に迫るもんがねえ。あれか? 普通に考えてかわいくない奴をかわいいと思っちまうんだから、かわいくない奴の方が適切か?
「ありがとよ、藤原。松本、お前も頼む」
かわいくない、ってより、かっこいい奴を選んでみた。松本は藤原みてえにあからさまに俺を疑ってる風じゃなかったけど、不思議そうなのは不思議そうだった。でも、笑った。……何かこう、営業かけてくるみてえな感じで。メカニックより営業マンの方が似合うんじゃねえか、こいつ。でもこれも、胸に迫るもんがない。全然ピンとこねえ。ってことは、俺はホモに目覚めたってより、いやホモには目覚めたんだろうけど、あいつが特別に好きってことか。だからあいつをかわいいと思うと。むらむらくる。ん? あいつが好きだからかわいいと思うのか、あいつをかわいいと思うから好きなのか、どっちだ? まあどっちでもいいか。どっちにしろどん詰まりのことだし。というか、これでこいつらにむらむらしたら、俺、マジでどうしようもねえじゃねえか。よかったよかった。肝心なことはどん詰まりだけど、ま、後でどうにかなる、っつーかするからいいや。
「ありがと。参考になった」
俺が言うと、隣に座ってるケンタが、俺はどうですかと満面の笑みを向けてきた。中里の引きつった笑顔と比べるまでもない、出来だけでいえば月とすっぽん。俺に食らわすダメージは、これ、反比例ってやつ? 言うとややこしくなるから、何も言わなかったけど。言う間もなく、アニキと史浩が来たって方が正しいか。この話はこれで終わり。あれはあれ、これはこれだ。決定済みのことは置いておける。というわけで、食事とミーティングの始まり始まり。
「悩み事か?」
いつも通り、面倒くせえ話を終わらせて飯も食っちまうと、頭に血が全然いかなくなる。家に帰ってベッドに飛び込みたいところだけど、さっきから溜まってたむらむらは晴らさずにはいられない。もうこれ、二発くらいやんねえとおさまらないんじゃないか、と思いつつ、ファミレスの駐車場にとめていたFDに乗ろうとしたところで、後ろからアニキが声をかけてきた。他の奴らはもうそれぞれ車に乗ってたり出て行ったりしてるから、二人きり。兄弟水入らず。で、悩み事かと、アニキは俺に聞いていらっしゃる。俺はFDのドアを開けたまま、言った。
「悩んじゃいねえよ」
「でも、何か考えてるだろ」
アニキは俺を真っ直ぐ見ながら言ってくる。子供の頃から、俺よりアニキの方が、人のことはちゃんと見ている。でも、アニキにだけ関して言えば、俺がアニキを見ている加減は、アニキが俺を見ているのと、同じだ。世の中の兄弟ってのは、みんなこんなもんなんだろうか。よく思う。お互いのこと、手に取るように分かる。考えとかじゃなくて、感覚を。悩み事があるか、考えてることがあるか、喜んでいるか怒っているか。これ、万能だけど、たまに怖い。何でも知られちまうってことだから。知られたくねえことでも。俺は、距離を詰めてこられる前に、「それさ」、とアニキに言った。
「俺がいつもは何も考えてねえと思ってるってことかよ、アニキ」
「そう思えたら、俺はもっと気楽になると思うぜ」
アニキが笑う。それで話を終わらせる気配はない。こりゃ、考えてることはともかく、あったことは言っとかないと、いつまでも尋問されるな。クールに見えて心配性でねちっこいんだ、このアニキは。俺は諦めて、FDのドアを一旦閉めてから、アニキに向き直った。
「さっき、中里に会ってきた」
「中里?」
会うことは言ってなかったから、アニキは驚いたみたいだった。ただ、驚いたけど、すんげえビックリってわけじゃない。多分、昨日34Rと走ってるのがあるから、つながりとしちゃ分かるんだろう。
「妙義に行ってきたんだ。ゴッドフットのおっさん、あいつによろしく伝えといてくれなんて言いやがったもんだから」
「星野好造は、中里のことを知ってたのか?」
「いや。名前も知らねえはずだ」
これしか言わねえのに、大体のことは分かられちまう。俺もえらいアニキを持ったもんだ。おかげで全部を言う必要がなくなるから、俺はアニキ以外には説明下手になっちまった。それが普通じゃねえって、もっと早く気付けたらよかったんだけど、ま、今更だな、それも。
「お前は中里と、会ったのか」
少し考えるみたいな間を置いてから、アニキが聞いてきた。ああ、と俺が言うと、「どうだった」、とさらに聞いてくる。どうってな。他に聞きたいことあるんだろうけど、いきなりは聞きづれえのかな。
「普通だったぜ。前と全然変わってなかった」
「それで、藤原と松本に、笑ってみせろと言ったのか」
と思ったら、これだ。距離をはかってすぐストレート。けどリズムが取れてねえから、ノックアウトまではいかない。こりゃ、藤原じゃねえだろうな。松本だ。
「松本が、お前が妙なことを言ってきたってな」
当たり。俺の頭の心配をして、アニキにまで気をきかすのは、松本と史浩以外にありえない。で、史浩は知らねえから、残りはあいつ。でも当たっても嬉しくねえな、こんなこと。俺は若干うんざりしつつ、アニキに逆に聞いた。
「それ、理由言わねえと駄目か?」
「駄目ってわけじゃない。気になっただけだ」
つまり、言わないといつまでも気にするぞってこと。それこそ駄目だ。アニキに余計なことは気にさせたくない。そうなると、俺もそれを気にしちまう。悪いループに入り込む。結局、一緒にいる限り、俺はアニキに隠し事はできないんだろうか。俺がアニキの隠し事、見抜いちまうのと同じように。兄弟も、インガなもんだ。俺は全部諦めた。諦めて、白状した。
「あいつの笑った顔みたらさ、中里の」
「ああ」
「かわいいと思ったんだよ、俺」
アニキは意外そうに眉毛を上げた。ここまでは、想像できなくもねえって感じ。この先はどうだろうな。
「それで、何でだろうと思って、もっと見てたら、俺、あいつのこと好きで、やりてえんだってのが分かってな」
上がった眉毛が、上がったままの状態で止まった。アニキの固まったとこってあんまり見られねえから、貴重だ。こんな時じゃなかったら、写真でも撮ってんだけど。
「何?」
「でも、本当にそれがあいつだけかどうか、まあ急だったし、一応確認しこうと思って、藤原とか松本の笑った顔でもそう感じんだったらな。俺が本格的にホモに目覚めたってことじゃねえか。だから、笑ってもらったんだ」
ま、結果はどん詰まりだったけど、と続ける頃には、アニキの眉毛は元の位置に戻ってた。「そうか」、と驚きすぎて無表情になってるっぽいアニキが、大分間をあけてから、はっきりした目で俺を見てくる。追究モード。俺、これ嫌いなんだよ。嫌なシチュエーションでしか、こうならねえから。
「お前は、これからどうする気だ?」
「中里にもっぺん、会いに行く。そう言っといたから、一応な」
「会ってどうする」
「まあ、頑張るよ」
「啓介」
「なあアニキ」、と俺は近づいてこようとするアニキに、手を突き出した。アニキはそれで足を止めた。
「俺は、アニキにだけはこんなこと言いたくなかった。でも言った。言わねえとDにシショーが出るからだ。分かるだろ?」
アニキはそれ以上近づいてこようとはしなかった。兄弟でも踏み込んで欲しくないところはある。俺にも、アニキにも。だから分かっているはずだ。アニキはその場に突っ立ったまま、少し、顔をしかめた。
「気付かなかったぜ。そんなこと」
「俺もだ」
「星野好造のせいか?」
誰のせいってわけじゃない。そのくらい、アニキが分からないはずなかった。でも、きっと、誰かのせいにしたいんだろう。実の弟がホモ道に行っちまうんだもんな。それでも、星野好造のせいにされるのは嫌だった。あのおっさんは関係がない。これは、俺と、あいつのことだ。けど、こんな時、もう一つ、どうしても入ってくる、自己主張の強い、うっとうしいやつがいる。ま、アニキを思ってのことだ、使ったって、罰は当たんねえだろ。
「違うな」
FDのドアを開けてから、アニキをきちんと見ながら俺は、だから言ってやった。
「Rのせいだ」
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