答え 1/3
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 ぐわん、ぐわん、と何かが回っている。視界のようでもあり、思考のようでもあった。徐々に、眠っている自分が意識され、そして起きている自分が意識されていく。起きている。寝ていたが、起きている。
 中里は目を開いた。
 はっきりとは、しなかった。しょぼしょぼと、何度も瞬きをしなければまぶたを上げていられなかった。いつもは寝起きが良いというのに、珍しいことだ。目を手で擦り、変な時間に昼寝したからかな、と思う。休みだからといって、溜めた汚れ物を洗ったあと、腹を満たしたらベッドに寝転がってしまった。あとはそのまま眠りの世界に誘われた。
 部屋は暗い。今は何時だ、と思い、開きづらい目を一旦閉じたまま、手探りで目覚まし時計を探そうとする。シーツの上から、ベッドの頭側へ、そしてその先の棚にあるはずの時計。だが、何もない。逆か? 涙と目やにとを指で拭ってから、今度は完全に目を開いた。ベッドの頭側には、壁しかなかった。
 違和感を覚え、中里は頭を巡らせた。薄暗い部屋は、それでも概観は分かる。ごちゃごちゃと統一性のない広い部屋だった。十二畳ほどだろうか。床には雑誌やら服やらビニール袋やらが散らばっており、壁には妙な機械やらサッカーボールやら木製バットやらが立てかけられている。棚には巨大なテレビとCDコンポ。雑誌以外の本はほとんど見当たらない。六畳の自分の部屋には到底見えなかった。寝ていたベッドを見ると、明らかにサイズが大きかった。
「……何だ?」
 出した声に、まず違和感を覚えた。喉に手を当て、あ、あ、あ、と何度も言ってみる。妙に軽い。自分の声ではないようだ。風邪でも引いただろうか。だが、具合は悪くない。いやしかし、触れている首がどうも、長いような気がする。
 何か、違う。
 下を見ると、ベッドに乗っている自分の足、手、着ている服は、どうにも見慣れなかった。十一月にトランクスとタンクトップという格好で寝はしない――それで風邪を引かないほどに、暖房をたきもしない。いや、もしかしたら面倒だから下着のままでベッドに入ってしまったのかもしれない。だが、問題は、自分の手足だ。手を何度も表裏眺めてみたが、自分の指はこれほど細く、長くはなく、爪も卵型で滑らかなどではなく、手の甲はここまで血管が浮いてもいないし、掌はもっと肉がついていたはずだ。違う。
 これは、俺の手じゃない。
 だが、これは俺の手だ。
 中里はこめかみあたりに痺れを感じながら、今度はむき出しになっている足を眺めた。あぐらをかいた状態で、筋肉のこぶもよく分かる。試しにすねを手で触り、足の甲と指も見てみた。やはり自分のものよりも、細く長いように思えた。
 だが、これも俺の足だ。
 中里はタンクトップの襟ぐりを引っ張り、胸を覗いてみた。よく見えない。思い直し、裾を胸までまくり上げる。腹も胸も細く薄く、しかししっかり筋肉がついていて、脂肪というものが見当たらない、自分の肉質ではない体だった。
「……何だ?」
 次には顔を撫でてみる。つるりとした感触。いつも触っているよりも、鼻の位置が違うような気がする。髪。いつもよりも長く、ふわふわとしているような気がする。やはり違う。そして何となく、こっそりとトランクスを指で引っ張り、ペニスを取り出してみた。見慣れなかった。
 何か、おかしい。
 違う、ということだけは分かった。部屋が違う。体も違う。口の中にも違和感がある。しかし、俺は俺だ。中里はひとまずベッドから床に下り、状況を確認するべく鏡を探すことにした。そして一歩慎重に足を踏み出したところ、何かのビニールに乗り、そのままずるりと滑っていった。
「うおッ」
 床に倒れた勢いで、横に積んであったダンボール箱に足が突っ込み、それが倒れてきた。うわあっ、と上げた声は物ががらがらと落下する音に巻き込まれた。痛い。とにかく上に乗ってきたものを脇に避け、立ち上がる。ここは、知らない部屋なのだ。電気をつけねばどうしようもない。天井を見るが、蛍光灯から紐は伸びていなかった。ドアの横か、と思い目をやった時、そのドアが開いた。
「おい、どうした、派手な音がしたが」
 廊下からの光を背にした男が、そう言う。逆光のために顔がよく見えない。ただ、どこかで聞いたような声だった。いや、と中里は口ごもり、男をじっと見た。光に目が慣れてくる。やがて、その顔がはっきりと視認できると同時に、男が言った。
「また部屋の中で転んだか? だから足の踏み場は作っておけと言っただろう、怪我につながる」
 そして男が電気をつけた。男の全体像がはっきりと見えた。滅多に見ないような狂いのない美的な顔。整える必要もないほど綺麗に伸びた眉、切れ長の目、高い鼻梁、輪郭のはっきりとした唇、荒れのない肌、ふうわりと流れている髪。細い首、長い手足。家の中だというのに――そう、ここは間違いなく「家」だ――、ボタンダウンシャツとチノパンを綺麗に着ている。
 その男には、見覚えがあった。
「……高橋涼介?」
 中里が呟くと、男は理解しがたいように、「何?」、と眉根を寄せた。驚きと困惑に流されながら、中里はただ感情を声とした。
「何でお前が……いや、おい、ここはどこだ。何だこのきたねえ部屋」
 尋ねた自分の声が自分のものには思えず、中里はひどく気持ちが悪くなり、咳払いをした。おかしいな、と喉に手を当て口の中で呟いた頃、じわりと目を細めた高橋涼介が、試すように言った。
「ケースケ?」
「あ?」
「どうした、お前。頭でも打ったか」
 本気でも冗談でもないような、ただ慎重そうな顔をした涼介を見ながら、ケースケ、と中里は頭の中にその言葉を浮かべた。ケースケ――ケイスケ。
「啓介?」
「ここはお前の部屋だぜ。見間違いようがないだろう、この雑然さは。大丈夫か?」
「待て、お前、俺は……」
 高橋啓介ではない、と言おうとして、中里は動きを止めていた。高橋啓介、高橋涼介の弟、イエローのRX−7FD3S駆る、赤城レッドサンズの――その男のことを頭に思い浮かべ、その声を思い浮かべた瞬間、ぞっとした。
 いや、俺は、中里毅だ。
「おいケイスケ、お前本当に大丈夫か?」
 男が部屋の床をうまく踏みながら、近づいてくる。高橋涼介が、親しげに、疑念と心配とを浮かべながら、近づいてくる。いや、と口にして、中里はまたぞっとした。自分の声とは明らかに違う、軽い質の、ほとんどかすれていない、よく通る、高めの声。
 鏡だ、と中里は思った。鏡さえ見れば、確認できる。さっと周囲に目を走らせ、箱の山に隠れているクローゼットを見つけた。傍まで来た男を無視して、中里は部屋の端にある備えつけのクローゼットへゆっくり歩いて行った。
「ケイスケ?」
 高橋涼介の声は、右耳から左耳へと抜けていった。中里は積まれている箱をなぎ倒し、クローゼットを開いた。鏡は横についていた。自分の姿が映る。茶色に染められている柔らかそうな――実際柔らかかった――髪、細く鋭い眉と目、通った鼻筋、先ほど見た男と変わらぬ形の唇と輪郭、つるつるとした肌。細い首と、広い肩、薄い肉。
 そこに映っているのは見覚えのある姿だったが、自分ではなかった。
 高橋啓介だ。
 中里は腕を動かした。顔に手を触れる。鏡の中の高橋啓介も、顔に手を触れていた。自分は右の頬を撫でており、鏡の中の高橋啓介は、訝しげに左の頬を撫でていた。
 これは、高橋啓介だ。
 いや、けど、俺だ。
 こめかみが、じくじく痛んできた。高橋涼介に、再び声をかけられるまで、中里はその場に立ち尽くしていた。



 ガンガンガンガン、と音が鳴り響いていた。うるせえな、と啓介は思う。工事でもしてんのか。だがしばらくすると、その音は頭の中で発されているのだと分かる。頭蓋骨を内側から叩いているような音と、鈍い痛みが繰り返し起こった。目を開いても、それは止まらなかった。
 頭が痛い。
 意識はしっかり覚醒していたが、痛みのために目を長く開けていられず、酒飲んだっけ、と思いながら体を起こした。今日は、徹夜で走った後に高校時代の仲間と数時間麻雀をして、大学の二時限目に行くと――とてつもなくつまらない講義だった――、帰宅してシャワーを浴びて寝たはずだ。飲んではいない。では、この頭痛は何なのか。
「いてえな、クソ」
 もう一度ベッドに横になりながら呟き、啓介は違和感を覚えた。いてえ、と呟いてみる。声がおかしい。喉に痛みはないのに、やたらとかすれているし、寝起きにしても低すぎるような気がする。気のせいだろうか。気のせいかもしれない。部屋は薄暗いし、もう夜だ。峠に行くのも良い。しかしともかく頭が痛かった。あと二時間くらい寝とこう、と布団をかぶる。
 途端、玄関のチャイムが鳴った。
 二回、三回、四回鳴って、それは止まった。ああうるせえ、俺は頭が痛いんだ、別の時に来い。そう思って布団をかぶり直し、十秒ほどしてから、あれ、と啓介は思った。二階の自分の部屋まで、玄関のチャイムがこれほどはっきり聞こえてくることはない。だというのに、今、確かに玄関のチャイムが耳障りなほどの大きさで鳴ったし、大体それは、普段耳にするよりも質の低い音だった。
 痛む頭を抱えながら、啓介は目を開いてもぞりと上半身を起こすと、辺りを見回した。狭い部屋だった。ベッドの三方に壁が近い。一方はテーブルと大き目の書棚、テレビ台が壁までの道を占めている。テレビは14型ほど、テレビ台にはビデオデッキと大量のビデオがねじ込まれていた。勉強机はない。窓際に渡されたポールには地味な服が多くかかっている。スーツもあった。
 見覚えのない部屋だから、一度起きて、飲みに行ってから、誰かそこで初めて知り合った奴の家にでも転がり込んだだろうか。そして記憶をなくした。ありえる話だ。今着ているスウェットの上下も、自分のものではないのだ。
 啓介は服の生地を何となく指で引っ張ってみて、ふとその指に意識を奪われた。
 長くも短くもない、節くれだった太い指、ところどころ歪んでいる爪、厚い掌。
 はて、自分はこんな形の手をしていただろうか。じっと見ていると、違和感しかわいてこない手だ。
 あれ、と思い、袖をまくって腕を見てみた。どうも、見慣れない。筋肉はついているが、脂肪が適度にあるため、形がはっきりとは見た目で分からないのだ。おかしい。自分の腕は、もっと隆起に富んでいたはずだ。
 俺の腕?
 首を傾げると、黒い前髪が額を撫でていった。
 俺の?
 高まっていく違和感の正体をぼんやり探っていると、今度は玄関のチャイムではなく、電話が鳴った。ピピピピピピ、というそれは、設定を変えていない携帯電話の着信音のようだった。自分の携帯電話で、その機械的な一定の音が鳴ることはない。テーブルを見ると、黒い携帯電話があった。型式は古そうだ。家主のだろうか。啓介は手を伸ばして携帯電話を取り、かちりと開いてみた。着信音は鳴り続けており、液晶画面には携帯電話の番号が表示されているだけだった。閉じようとして、啓介はじっと画面を見た。
 知らないはずの電話番号だ。
 だが、見覚えがある。当たり前だった。そこに表示されているのは、自分の携帯電話の番号だったからだ。首を傾げながらも、気になったので、啓介はとりあえず電話に出てみた。
「もしもし?」
「――ナカザトか?」
「誰だ、あんた」
 自分の携帯電話を用いて、誰がこの携帯電話に通話をかけているのか――啓介は疑念を堪えられず、まず尋ねていた。電話の相手は、
「タカハシリョウスケだ」
 と言った。アニキと同じ名前だな、と思ってすぐ、
「はあ?」
 と啓介は、声を裏返していた。
「高橋だ。高橋涼介、分かるだろう。赤城レッドサンズの」
 低い男の声が、そう続ける。耳元で囁かれると途端に眠気を催すほど、落ち着いた声。電波越しでもよく分かる。その男の声を、啓介は知っていた。その男の名前も知っていた。間違いなく、自分の知っている男と、電話の相手は同一人物のはずだった。
「……いや、ちょ、ちょっと、え? 何でアニキが俺のケータイ使ってんだ? っつーかこれって誰のケータイ?」
 意味もなく立ち上がりながら、携帯電話に向かって身振り手振りで語りかける。数拍ののち、重々しい声が聞こえてきた。
「お前は、ナカザトじゃないのか?」
 根本的に、間違われているようだった。問いは無視されているが、仕方がない、まずは誤解を解かねばならない。啓介は、兄の話を受け止めることにした。
「誰だよ、ナカザトって」
「そんなこと、俺が説明しなくてもお前が分かっているだろう」
 ああ?、と声を荒げそうになり、ふと、よく聞いたことのある名前だと思い出した。
「何? もしかして、中里か? 妙義の?」
「違うのか?」
「何であいつが俺なんだよ、脈絡なさすぎ……」
 そこまで言い、啓介は口を閉じた。あの男、スカイラインR32GT−Rを我が物顔で振り回していたあの男の声とは、「やたらとかすれて」いて、変に高低がなかっただろうか? ちょっと待てよ、と啓介は携帯電話を握ったまま部屋を見回し、歩き出した。向かった先は洗面台、目的物は顔と上半身の中ほどまでが映る鏡だ。
「うわ……」
 自分の姿が映るはずのそれには、どう見ても自分ではない男が映っていた。まず髪が黒い。そして短いくせに無駄に長い。眉は太いし鼻も太く、頬が変に削げていて、唇は妙に厚い。骨も太いような印象がある。本来の自分の顔よりも、全体的に厳しく、野暮ったかった。
 だからこれは、俺じゃねえんだ。
 思いながら啓介は、握っていた携帯電話の通話口に、おかしいぞ、アニキ、と呟いていた。沈黙に比さず、返事はすぐにあった。
「何だ」
「俺が、中里だ」
 そう、目の前の程よく磨かれている鏡に映っている、携帯電話を片手に握った深刻な顔の男は、間違いなく、あの黒いGT−Rを駆る、妙義ナイトキッズの中里毅だった。だが、その男が動かす唇は、自分が動かすタイミングとぴったり一致している。
 つまり、俺が、こいつだ。
「……お前は中里だろう」
「ちげえってんだろ」、と的を射ない相手へと啓介は怒鳴っていた。「俺は啓介だよ、アニキの弟だ。アニキの童貞喪失年齢も知ってんだぜ。――けど、中里だ」
 鏡の中の男の顔が、情けなく歪んでいく。自分の顔の筋肉が、その男を動かしている。違和感のあまり、啓介は吐き気を覚えた。口に手を当てると、鏡の中の男も口に手を当てる。顔が真っ青だ。やべえ、と思った瞬間、兄の声が聞こえてきた。
「……ちなみに、お前の知っている俺のその年齢ってのは?」
「十三歳と二ヶ月。夏、七月、元家政婦さんと、自分の部屋で」
 こもった声で返すうちに、突発的な吐き気は引いた。鏡に背を向け、風呂場のドアを睨む。考えるような間を空けた兄は、
「つまり、お前は啓介だということだな?」
 こちらの望む答えへやっと近づいてくれて、当たり前じゃねえか、と啓介は泣きそうな声――それも、本来の自分のものではないが――で言っていた。
「俺以外に誰が啓介だってんだよ、高橋啓介、俺は高橋啓介だ。でもこれ中里なんだよ。トリックアートか? 何なんだよ、っつーかこれ、声だって俺じゃねえ、あの野郎だ。何だ、どうなってんだ、俺のケータイどこだ」
「啓介のケータイはここにある。俺が使って今この通り中里のケータイにかけている。そしてお前は中里だが啓介で、俺の傍には今啓介がいるんだが、それは中里ということか」
 咄嗟には意味が理解しがたく、何だって?、と啓介が言おうとしたところで、再び玄関のチャイムが鳴った。おい、と啓介は玄関のドアを見られる位置に歩きながら、一応尋ねた。
「チャイム鳴ってんだけど、どうすんだよ」
「お前は今、自宅にいるのか?」
「ちげえよ、誰かの部屋……っつーか中里のケータイあるなら、中里の部屋か?」
 一回、二回と遠慮がちに続いたそれは、兄の問いに答えている間に、嵐のごとく鳴り響き始めた。
「すっげえ鳴ってんだけど。出ていいのか?」
「ちょっと待て」
 兄がそう言うと、電話の向こうからはかすかに何か定かではない音が聞こえるのみとなった。一方玄関のチャイムは鳴り響き、ついにはドアまで叩かれた。一回だ。そして、声が聞こえてきた。
「おいタケシ、いねえのか」
 不機嫌そうな男の声だった。タケシって誰だ、と思い、ああ中里か、と得心する。確かあの男の姓名は、中里毅だ。啓介は念のためもう一度、電話の向こうに問うた。
「ドアまで叩かれてんだけど。なあ、出ていいか?」
「待て」、と予想外にもすぐに制止されたが、数秒置いてから、「いや、分かった」、と続けられた。
「出てもいいが、いいか、そこが中里の自宅だとして、おそらく今そこを訪ねてきているのは妙義ナイトキッズのメンバーだ。それを前提として応対しろ」
 それを前提とした応対とはどのようなものか、まったく考えられなかったが、分かった、と啓介は頷き、静まったドアへと足を動かした。と、携帯電話からはまだ声が流れてきていた。
「そしてもしその中に、『啓介』、お前が直感的に信用できると思えた相手が一人でもいたら、そいつを中に入れて、俺と話をさせろ。その方が早く事が把握できる」
 ああ、と言いながら、啓介は玄関のドアを開いていた。二人、目の前に男が立っていた。一人は背が高くひょろりとしており、髪は黒く短く、柔和な顔立ちをしていた。もう一人は高くも低く太っても痩せてもいない体格で、茶色に染められた長い髪が真ん中で分けられており、顔は犯罪者の色を持っていた。どちらが紳士に見えるかといえば、髪の黒い男だった。だが、啓介の頭の中にその時あったのは、『中里毅』という男の姿であり、『その男が信用する』相手としては、なぜだか髪の茶色い男の方が合うような気がした。直感だった。
「何だ、電話中か」
 だから啓介は、そう不思議そうに言った人相の悪い男を、有無を言わさず中に引きずり込んだのだった。



 時たま仕事の穴埋めを頼んでいる相手は走り屋仲間で、同じチームに所属している。大人しい風貌のその男は、貸し借りをどんぶり勘定にする程度の柔軟性を持っており、だが物事は割り切らなければ気が済まない人種だった。
 つまり、その男から金銭に絡まぬ頼まれごとをされて断ると、今後急用が入った際にも容易に仕事は休めなくなるわけで、それは日々を無駄に忙しく過ごす慎吾には死活問題だった。だから、その男が同じチームのある人間の走りを後ろで見たい、と言い出した時、うんざりしてしまったものだ。
 見たい、という願望ではあったが、じっと見られてそれを告げられるということは、すなわち『見せろ』という要望で、慎吾は前提として、その男の要望を断れないためだった。面倒だった。ライバルと冷やかされる関係にある人間の走りを、他の人間を隣に乗せて追いかけなければならないなど、面倒で仕方がなかった。どうせなら一人で見たかった、そう思う自分も面倒だった。
 しかし、相手方との折り合いもついてしまった以上、やるしかない。といっても慎吾はただ、そのスカイラインの後ろに離れずついていけばいいらしく、折衝は仲間が勝手にやっていた。その点は気楽だったが、同時にわずかに、つまらないという思いがあり、またそう思う自分が面倒だった。
 相手方の自宅を訪ねた仲間が首を傾げながら戻ってきて、出ないんだよな、と言った時、だが慎吾はそれ以上に面倒が重なるなどとは、露ほども予想していなかった。
 ドアを何度も叩いてようやくその男、中里が出てきて、それから五秒も経たずに腕を取られて家の中に引っ張りこまれ、ドアを閉められ鍵までかけられても、慎吾は何事かと訝るだけだったが、無言のまま突き出された携帯電話にとりあえず出てみて、「こんばんは」、と聞き慣れないが聞き覚えのある声が耳を打った瞬間、この後にくる事態の馬鹿馬鹿しさを示唆するような、悪寒が走ったのだった。
「こんばんは。……どちらさんで?」
「俺は赤城の高橋涼介だ。君は、中里の知り合いだな?」
「高橋涼介ェ?」
 ひとまず大人しい態度を演じてみたが、聞き覚えはあれども思い出せなかった声の主の名を知らされると、繕いは簡単に解けた。高橋涼介――マツダRX−7FC3Sを駆る赤城の白い彗星、群馬最速と謳われていたこともある走り屋である。それは分かる。が、なぜその男つながった携帯電話を、中里は自分に押し付けてきたのだろうか。事態がさっぱり把握できず、何なんだよ、と慎吾はそのまま疑問を電話の相手にぶつけていた。
「すまないが、君の名前を聞かせてもらえるか」
「……庄司だけど。庄司慎吾」
「ショージシンゴ」
 ああ、と頷き玄関の壁に背を預けた慎吾は、一段上にいる中里を見た。腕を組み、右のつま先で何度も床を叩いている。落ち着かない様子だったが、こちらを睨んでくる目が泳ぐことはない。いつになく態度わりいな、と慎吾が思っていると、携帯電話の向こうから、鳥肌が立つほど妙に礼儀正しい言葉が続けられた。
「悪いが庄司君、君の目で見たそこにいる中里の様子に、何か変わった点はないか?」
 むずむずして肩をすくめながら、慎吾は中里を改めて見た。相変わらず、ふてぶてしく睨み返してくる。
「変わった点?」
「ああ」
「別にねえけど」
「けど?」
 特別意味のある接続詞ではなかったのだが、高橋涼介にそうして続きを促されると、ふと頭に思い浮かぶことがあった。髪を下ろしている姿はたまに見るから、そう珍しいわけではない。スウェットの上下という部屋着のだささも顔の野暮ったさも、いつも通りだ。
 だが、何かがおかしい。
 それは、まとう雰囲気のようでもあったし、浮かべる表情のようでもあった。だから慎吾は、いや、と小さく言った。
「大したことじゃねえよ」
「大したことじゃなくてもいい。君が気づいたことは、何でも教えてくれ」
 気づいたことっつっても、と慎吾は戸惑った。表現のしがたい感覚だ。だが、ここまで請われて言わずにいるのも、恨まれそうな気がした。
「漠然としてんだけどな」
「ああ」
「何か……違和感がある」
 そう、違和感だ。風貌は変わらないというのに、この短時間見ただけでも、その一挙手一投足に、違和感を覚える。眉を吊り上げ目もいからせ、唇を不機嫌そうに突き出しているその顔も、忙しないながらもきびきびとしている動作も、中里らしくないのだ。
「庄司君」、と少しの間ののち、高橋涼介は深刻に言った。
「何だ」
「今から俺が言うことを、君が信じられるかどうかを参考意見として伺いたい。少なくとも俺はまだ、完全に信じてはいないからだ」
 婉曲な物言いは、とてつもない慎重さを窺わせた。勝手に緊張する体を抑えながら、何ですかそりゃ、と慎吾は平凡な合いの手を入れた。
「現段階で事態をまとめると、俺の傍には今俺の弟である高橋啓介がいるんだが、啓介の体の中には中里の意識が入っており、君の傍にいる中里の体の中には、啓介の意識が入っている、ということらしい」
 万事に対する理解力には自信があったが、何を言われているのか、その時慎吾はただちには分からず、はあ?、と声を上げていた。そして、「つまり」、と補足されて初めて、突拍子もないこの現実を理解できたのだ。
「正しくはない言い方ではあるが分かりやすさを重視してまとめると、中里と啓介の意識が入れ替わっているということだな。二人の意見を元にすると、だが」
 慎吾は口を開け、しばらく閉じずにいたが、声を出すことは十秒ほどできなかった。一段上にいる中里を、見上げる。不機嫌そうに顔をしかめ、鬱陶しそうにこちらをじっと睨んでいた。そこまでこの男に嫌われる要因を持っていたか、探りたくなるほど、常よりも敵対的な雰囲気があった。
「……ちょっと待てよ」
「ああ」
 ようやく出せた掠れた声にも、高橋涼介は律儀に反応した。慎吾は携帯電話の通話口を手で押さえ、中里を見たまま、
「毅」
「俺はタケシじゃねえよ」
 そう呼びかけるも言下に否定され、後頭部あたりがぞくぞくするのを感じながら、この事態の判断材料となる問いを、続けてかけた。
「お前、Rに乗り換えたのっていつだ?」
「何だそりゃ。俺が知るか」
 にべもない態度だった。こと日産スカイラインGT−Rに関して、少なくとも慎吾が知っているはずのこの男が、ここまで素知らぬ風になることはなかった。大体がその男の名前を、どうして自身で否定することがあろうか? 丸きり中里の顔と体と声をしている、中里であるはずなのに、中里らしさが窺えない男をそれ以上眺めていると、違和感が突出してたまらなくなるので、慎吾は混乱している仲間が向こうにいるであろう玄関のドアを見ながら、なあ、高橋さん、と通話口を開いた携帯電話へ言った。
「何だ」
「俺の知ってるあいつ……中里ってのは、嘘を吐くのが人生で最大の難関ってくらい、単純馬鹿な奴なんだよな」
「ああ」
「まあ、それが絶対とも言わねえが……俺があいつの全部を知ってるわけじゃねえし」、と慎吾は言い訳し、そんな自分にじれったさを覚え舌打ちすると、でも、と何とかまとめた考えを述べた。
「正直今のこいつ見てても、人格変わったんじゃねえか、としか思えねえ」
 ドアの外で動きはない。左からは舌打ちがあった。俺はあの野郎じゃねえっての。いつも聞く声で、いつもより荒々しい口調だ。胃がむかむかとし出す。
 そんなに俺は、あいつを気にしてたのか? いつも通りじゃないと気に障るくらいに?
 始末に終えねえ、とため息を吐いたところで、電話の向こうから沈黙が越えられた。
「それはつまり、さっき言ったことを信じられるということか?」
「それはさすがにどうよって感じだけどよ」、と慎吾はすぐに否定し、だがすぐに続けた。「これは……まともじゃねえな。精神科行くの勧めたくなるぜ、俺は」
 誰がんなとこ行くか、と憎々しげな呟きが左側から聞こえ、奇遇だな、と右側からは満足したような声が聞こえた。
「俺も似たような意見だ。一人だけの問題なら」
 確かに、一人が別人格を主張しているだけならば、処置の仕様はある。だが二人いっぺんに、しかもあまり親しくもない人間がそれぞれが入れ替わっているというのは、結託できるだけに厄介だ。慎吾が同意の沈黙を生じさせると、それを感じ取ったらしき高橋涼介は、さて、と進行を始めた。
「悪いが啓介の家族としては、このまま放っておくわけにはいかない。君にしても、啓介であることを主張している中里のままでは、嫌だろう?」
 もしここで、『困るだろう』と尋ねられていたら、いや別にと慎吾は答えられただろう。仮にこれで中里が中里としての生活や、峠の地位を失う結果となっても、多少の物足りなさはあれど、とてつもなく困るということは慎吾にはない。だが、『嫌だろう』と問われると、それはまったくその通りだった。
「まあ……気持ちわりいな、これは」
「では、そいつをこっちに連れてきてもらってもいいか? それぞれの主張を考えると外で会うのは現実的ではないし、さすがに中里の部屋に四人集まるのはどうかと思うからな」
 適確な指示を出されると、ただでさえ働きが鈍っている頭ではつっこみようもなかった。ただ、ドアの外だけが気になった。
「あー……あのよ、こっちで別口の用事あんだけど、いや、チームのよ」
「ああ、ならその相手を出してくれ。俺が説明する。そうすれば禍根もないだろう」
 何でこんなにこいつはスムーズなんだ、と疑問に思いながらも慎吾は頷き、まずドアを開けた。
「ど、どうした」
 仲間はまだそこにいた。慎吾は携帯電話を差し出した。仲間は不思議そうに受け取り、もしもし、と話をし出した。
「え、タカハシ? リョースケ? って……は? ああ、え……はあ。えーと、それは……緊急。事態。ええ。はい。あ、いや、そんな……は? いやいや滅相もない……ええ。ええ、はあ。……はい、はい。それでは」
 通話を切った携帯電話を渡してきた仲間に、そういうことだ、と慎吾は高橋涼介がこの男になした説明を推測できないままに言った。なるほど、と男は深刻そうに頷いた。
「そうか、毅さんがそんなに求められているのか……なら仕方ねえな。まあ、また今度頼むよ。あ、タクシー代は要らないって高橋涼介さんに伝えといてくれ。じゃあ毅さん、失礼します」
 男は廊下に仁王立ちしている中里へ頭を下げると、じゃ、と慎吾に片手を上げて小走りに路地の向こうへ消えていった。その背を見送ってから、慎吾が玄関のドアを閉め中里を見ると、手で額を押さえていた。
「……大丈夫か?」
「頭がいてえんだ、クソ。アニキ、何だって?」
 手を外した中里が、しかめた顔のまま問うてくる。お前にアニキはいねえだろ、と思ってすぐ、これは高橋啓介かと思い、だがやはり外見上は中里にしか見えず、募る違和感を抱えたまま、とりあえず、と慎吾は話を進めた。
「放っておくわけにはいかねえってんで、俺がお前を高橋涼介の家に送ることになったんだけどよ」
「ふうん」
「道分かんねえから、教えろよ」
 ああ、と頷いた中里が、土間に降りて靴を履く。そのまんま行くのか、と慎吾はつい声をかけていた。家までだろ、と部屋着のままスニーカーを履き終わった中里が答えた。別にいいじゃねえか。そのまま人の横を通って外へ行く背へ、慌てて慎吾はまた声をかけた。
「おい、鍵は」
「俺は知らねえよ。お前は」
「多分、中にあると思うけど」
「じゃあお前が取ってこいよ。俺、こいつの家なんて何も知らねえし」
 顔も声も中里である男に、いつもよりも格段に冷静に、かつ偉そうに振る舞われると、反論しようにも違和感が先に立ってしまった。結局慎吾は言われるがまま、中に入って部屋の鍵を見つけ、きっちりと施錠をすると、落ち着かなさそうに待っていた中里を助手席に乗せ、シビックを発進させた。

 前方の信号が黄色に変わり、赤になる。それと同時に車を止め、慎吾はステアリングに手を置いたまま、横を向いた。不愉快そうな面をして、前方をつまらなそうに眺めている男がそこにいる。慎吾は横の歩行者信号が青であることを確認してから、なあ、と横の男に言った。
「お前、中里だろ?」
「俺は高橋啓介だ」
 嘘つけよ、とついいつも中里と対する口調で慎吾が言うと、嘘じゃねえよ、と億劫そうに男は言った。「何で俺がそんな嘘つかなきゃなんねえんだ。意味がねえ、時間の無駄だ」
 言い返しようがなく、慎吾が口を閉じると、大体、と男は苛立ったように続けた。
「俺は交流戦からこっちあいつにゃ会ってもねえんだよ。話もしてねえ。クソ、何でこんなことになってんだ。っつーかマジ頭いてえし」
 その男は顔も声も、相変わらず中里だった。だが、細かい表情の加減や、声の抑揚のつけ方や、出てくる言葉の速度が、いつもと違う。何もかもが、違うのだ。前方の信号が青に変わる。ギアを上げ終えてから、マジで違うのかよ、と慎吾は独り言として呟いたが、何度も言わせんじゃねえよ、と隣から返答があった。
「しつけえ奴だなお前。どんだけ言えば分かるってんだ、頭おかしいんじゃねえか」
「……一言多い野郎だな」
「お前に言われたくねえよ」
「っつーか、疑わねえ方が頭おかしいと思うぜ。お前、見た目は完全毅だし」
 タケシ?、と頓狂な声を上げた中里が、ああ、中里か、と言う。無駄に疲れるな、こりゃ、という慎吾の呟きは、今度は聞こえなかったらしく、中里は何も言ってこなかった。いや、中里ではない。いや中里だ。でも中里じゃない。いや毅だろ? 何でこれで毅じゃえねんだ。ありえねえ。慎吾が頭をぐるぐるさせていると、お前、と中里の声がした。
「あ?」
「あいつと仲良いの」
「あいつ?」
「中里」
 数秒時間をかけてから、ああ、と慎吾は頷き、いや、とただちに否定した。
「別に仲良いってわけじゃ……」
「あいつ、バトルで勝ったんだろ、最近ようやく」
「あー……まあ、遺恨試合みたいなもんだったけど」
「ふうん」
 中里は鼻で言った。いや、中里ではない。高橋啓介なのだろう。慎吾は赤信号で止まったところで、
「気になるのか?」
「一言多いんだよ。余計な」
 尋ね、すげなく返され、お前に言われたくねえよ、と言い返した。車を進めると、
「俺にはあいつなんざを気にしてる暇は、ないんだ」
 と、独り言のような中里の声がした。独り言ということに慎吾はして、なぜ自分はこうも素直に送迎役を仰せつかっているのか、とそこで初めて後悔のため息を吐いた。



 開いた太股の上に肘を置き足の間で手を組んでいる。そうしてソファにじっと座っている。動かない。貧乏ゆすりもしなければ、足を組みかえることも、目を泳がせることもない。ただ一心に、テーブルを睨んでいる。
 その男の姿を眺めながら、あいつも普段これだけ集中できればな、と涼介は思い、既に思考を分断している自分に気づき、ため息を吐いた。すると、それまで石像のように動きもしなかった男が、びくりと身を揺らして、顔を上げた。
 まさしく、弟の顔だ。綺麗に伸びた眉、美しい目、折れそうにない鼻、意思の強さが窺える唇。
「どうした」
「……いや」
 返ってくる声も、まさしく弟だった。よく通る声。耳に馴染んでいる声。そう、間違いなくテーブルを挟んだ目の前には、涼介の弟である高橋啓介が座っている。これは事実だ。
「……悪いな、変なことになっちまって」
 ぼそぼそと生気なく喋るのは、しかし弟ではないらしかった。これは、事実かは分からない。涼介は眉を上げ、中里、と感情をこめずに言った。
「今の段階で謝られても、俺には誰にどういった責任があるということが判断できないから、困るんだがな」
「ああ……悪い」
 再び俯いた男が、苦渋な声で呟く。これほど孤独を窺わせる弟の姿を、涼介は見たことがなかった。涼介の前では啓介は常に、反抗してくる時でさえ、甘えを抱えている。血のつながった兄弟として、家族として、信頼しきっている。今は、そのような概念は互いの間に存在しないようだった。
 おそらく、これは啓介ではないのだろう。涼介は思う。先に素性や好みについていくつか質問してみたが、どれも涼介の関与しない答えだった。こちらを騙そうとして、啓介が中里毅という走り屋を演じている可能性もないとは言い切れないが、それにしてはその語り口は自然であり、並べられる知識は明らかに経験に裏打ちされたもので、陰謀と疑う余地は少なかった。
 そもそも、嬉々としてGT−Rの歴史を語るような男を、愛車であるはずのFDを『気に食わない』の一言で片付けるような男を、弟だとはしたくない。だが、冷静な判断が求められる事態において、私情を交えるわけにはいかなかった。
 これは、啓介ではないのかもしれない。
 しかし、啓介ではある。
 開いた太股の上に肘を置き、足の間で手を組んで、そうしてソファにじっと座り、俯いて、一心にテーブルを睨んでいる、啓介の顔をして、啓介の体をして、啓介の声を持つこの男は、啓介ではあるが、啓介ではないかもしれないのだ。まだ、どうとも断定はできないのだった。
 そうして沈黙で埋め尽くされた空間を破ったのは、玄関のチャイムの音だった。涼介はソファから立ち上がり、インターホンの画面に二人の男が映し出されていることを確認してから、玄関に向かった。ドアを開けると、二人の男が立っていた。短い黒髪のいかめしい顔をした男と、長い茶髪のうんざりとした顔をした男だった。中里毅と、庄司慎吾のはずだった。
「アニキ」
 顔を合わせた途端、中里が、安心したように顔を綻ばせ、甘えの含まれた声を上げてきて、涼介はまず嫌悪感を得た。本来のこの男に親しくされる要素を自分が持たないというのに、ごく当然のように踏み込んでくるこの男という、その構図の不条理さに対する嫌悪感だった。それを悟られぬよう、どうぞ、とすぐに涼介は二人へ背を向けた。理屈に対する嫌悪は、ともすれば人に投射される。おそらく本来の中里ではない中里と啓介と対する今、それを持続的に抑制するだけの気力を、涼介は持たなかった。
 大人しく二人の男はリビングまでついてきた。ソファに座り俯いていた啓介が、こちらを見る。瞬間、その顔にあらわれた表情は、形容しがたいものだった。驚愕、失望、嫌悪、好意、恐怖。あらゆる感情が含まれたそれ一面が困惑に覆われたのは、四人がソファに腰を落ち着けてからだった。テーブルを挟み、一方に涼介と庄司慎吾が座り、一方に啓介と中里が座った。横に並んでいる方が比較しやすいという涼介の意向が通った形だった。
 比較をしたところで、啓介は啓介の姿であり、中里毅は中里毅の姿だった。ただ、涼介のはす向かいに座る中里毅の姿の男は、ソファにどっかりと腰を下ろし背を預け、胸を張るように腕を組み、ふてぶてしさを隠さぬ顔をしている。堂々とした、横柄な態度だった。目の前の啓介の姿の男は、相変わらず前のめりに座り、虚勢と警戒心と小心を露わにした顔をしていた。隣の中里に比べ、びくついている。態度からいえば、その中里がこの家の者のようで、啓介こそが部外者のようだった。なるほど確かに妙だった。
 誰もすぐには言葉を発さなかった。再び沈黙が空間を埋める前に、さて、と涼介は話を進めた。
「今回の事態を中里啓介両者の言い分を元にしてまとめると、啓介の体には中里の意識があり、中里の体には啓介の意識がある。原因は不明。解決法も不明。それをこれからどうするか、ということだな」
 それぞれが、小さく頷いた。と、そこですぐ、
「別にそのまんまでもいいんじゃねえの? 生活に支障がなけりゃ」
 涼介の隣でだらしなくソファに座っている庄司慎吾が、考えることを放棄したような口調で言った。実際庄司慎吾にとっては他人事なのだから、考えたくもないのだろう。その無責任な発言に、はす向かいの中里が、良くねえよ、と瞬時に噛み付いた。
「俺は中里だの毅だのって呼ばれたくもねえし、GT−Rなんざ乗りたかねえ。っつーかこいつでいたくねえ。支障ありまくりだぜ」
「好き放題言いやがって、クソガキが」と憤慨したように啓介は呟いた。ああ?、と中里が大げさに顔をゆがめる。
「誰がガキだ、誰が」
「てめえだ高橋啓介」、と中里へ言い返した啓介が、いや、と額を手で押さえ、ああッ、と頭を振った。「何でお前が俺なんだ、俺は俺だろ、冗談じゃねえ」
「お前こそ何で俺なんだよ、こっちこそ冗談じゃねえ。何でこんなことになってんだ。頭いてえし」
「俺が知るかよ、クソ、こっちだって頭がいてえよ、チクショウ」
 中里も啓介も頭を押さえ、苛立ちの息を吐いた。二人が正常であると見なすことは涼介には不可能だった。中里は自身を否定しているし、啓介は中里を高橋啓介と認識している。涼介は中里についての知識をあまり有していないが、それでも数少ない接触の中で知られた中里毅という人格と、今の男の態度は、そぐわぬように感じられた。中里でさえそうなのだから、二十年以上もともに暮らしてきた啓介に関しては、違和感は甚大だった。
 正常とは言いがたい状況である。それを、どう現実的に解釈するかだ。
 会話が一区切りしたところで、「妥当な考えとしては」、と涼介は言い、三人の視線を集め、続けた。「二人揃って錯覚しているということだが」
「錯覚ゥ?」
 目の前の二人揃って、頓狂な声を上げた。隣の庄司慎吾が、何だそりゃ、と怪訝そうに顔をしかめる。涼介は尻の位置を直してから、中里と啓介を見やった。
「思考活動が脳によるものだってのは、お前らも分かってるな? 今時テレビでも得られる程度の知識だ」
「……まあ」
「ならばある人間の意識も記憶も別の人間のそれらとそっくり入れ替わるということは、どういう風に考えられる?」
 中里は目を細めてむっつりと口を閉じ、啓介は眉間に深いしわを刻み、恐る恐るといったように口を開いた。
「……脳みそが」
「そうだ。脳が入れ替わったと考えられるな。さて、ではある人間の脳みそと別の人間の脳みそをそれぞれ入れ替え、神経をつなぎ、生命を途絶えさせることなく、それまでと同等の機能を維持させられる技術を持った文明が、現代の地球に存在するだろうか?」
 今度は啓介も中里も口を閉じ、隣の庄司慎吾だけが呆れたような声を発した。「SFだな」
「だから、それよりも俺は、互いに関する知識を都合の良いように認識して、相手への同一化を図っていると考えた方が筋は通ると思うだけだ」
 鼻の頭にしわを寄せた中里が、よく分かんねえけど、と前置きをしてから、テーブルに身を乗り出した。
「俺はこいつのことなんて知らないぜ、アニキ。なのにどうやってこいつになるっつーんだよ。大体なりたくもねえのに」
 それは中里の顔を持ち、中里の体を持ち、中里の声を持つ男であったが、まるで啓介のような表情と動作と口調を取った。視覚と聴覚と認識との差異が際立ち、不快感が顔までのぼってきたが、
「俺だって」
 隣の啓介が慌てたように付け足してきたため、意識が逸らされ、涼介は苦々しい表情を作らずに済んだ。感情が思考を害する前に、そして涼介は二人を眺めながら言った。
「先にはっきりさせておくが、俺には現代の科学技術がそこまで進歩していないとも言い切れないし、お前らの思考活動だけが何らかの霊的存在によって入れ替えられたことがないとも言い切れないし、異星人が存在していないとも言い切れない。ないと証明ができないからだ。だがあると主張するだけの科学的根拠も俺は持たない。だから俺が主張できるのは、お前ら二人で俺たちを騙そうとしているか、錯覚し合っているか、そのくらいなんだ。お前らが実際どうかということは、また別の話だよ」
「アニキは俺のこと、信用してねえってことか」
 間髪いれずに、不服そうに中里が言ってきた。この男が啓介の態度を取ることが嫌なのか、この男として啓介があるかもしれないことが嫌なのか判然としないまま、涼介は顔の筋肉をできるだけ収縮させぬよう、言った。
「俺個人としては、お前らの異常さは現実としては認める他ないと思うよ。だが、この事態を扱う俺のスタンスは今言った通りだ。非常識に考えることは誰でもできる。俺は誰でもできることをするつもりはない」
 二人とも、反論しようがないように口を閉じた。中里は体を完全にソファに預けたまま不愉快そうに顔をしかめており、啓介はこの世の終わりを迎えかけているような深刻さをもって俯いていた。
「……で、こいつらこれからどうすんだ?」
 相変わらず、どうでもよさそうな調子で庄司慎吾が言った。関与したくはないのだろうが、この話を進めなければ帰れぬことを承知しているのだろう。涼介は具体化した現実を頭に並べた。
「啓介は大学がある。中里は仕事か?」
 目の前の中里へ問うと、いや、と啓介が答えた。
「久しぶりに連休取ったから、明日も休みだが……後は仕事だな……」
 茫洋とした口調だった。涼介は一度目頭を指でもんでから、目を開き、二人を同時に視界に入れ、なら、と言った。
「今日と明日でまず待つ。だが明後日までお前らが正常に戻らなければ、どちらも休む他はないだろうな。その間に原因が分かるなり解決法が見つかるなりすればいいが」
「こんなことで原因も何もねえんじゃねえの」
 ぼそりと庄司慎吾が呟き、こんなことってな、と啓介が眉をひそめる。涼介は再度目を閉じ、開き、啓介ではなく中里を見据えながら、
「啓介」
「何だよ」
「お前は中里の家に戻ってじっとしていろ。もしかしたら一時間も経てば元に戻るかもしれない。そうなったら中里がうちにいても仕様がないからな」
 明瞭に言い、中里は不服そうに目を細めはしたが、分かったよ、と諦めたように頷いた。涼介も頷き、そして次には啓介を見ながら、
「中里」
「……俺か?」
「お前についてはうちにいろ。そして明日は大学に行ってもらう」
 命じ、啓介は、は?、と頓狂な声を上げた。
「おい、俺にはじっとしとけっつっといて、何だよそれは」
 啓介よりも先に、中里が反抗してくる。その中里に対し、涼介は尋ねた。
「お前は自分の単位を把握してるか?」
「……あ」
「いや、おい、俺には無理だぜ」
 中里が間抜けに口を開けたのち、慌てたように啓介が言ってきた。涼介は段々と頭痛を覚え出し、目を伏せながら喋った。
「出席さえしてくれればいいんだ。代返にも限りがある。安心しろ、啓介だってそう真面目にはやってねえ。成績は一応良いようだが」
「努力してんだよ、一応」
 中里の歯がゆそうな声がした。それぞれの声を聞かねばならないのだから、顔を見ないからといって認識が楽になるわけではなかった。涼介は再び目を上げ、そこに確かに中里毅と自分の弟がいることを確認してから、頼むよ、とついに投げやりに言っていた。



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