答え 3/3
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 鼻をすすると、奥につんとした痛みを感じた。口で呼吸をとる。喉が乾燥しているようだった。風邪を引いたかな、と思いながら、上半身を起こし、組んだ両手を上げ背を伸ばす。関節が凝り固まっていた。首を回し、はあ、と息を吐きながら目を開いた。ぱっちりと開いた。
 ん?、と中里は思った。
 目に映るのは、どう見ても自分の部屋だ。友人が引越しするということで半ば押しつけられた形で貰ったベッド、壁についているよく分からない染み、本体のチャンネルボタンが壊れているテレビ、書類やらビニール袋やらが適当に置いてあるテーブル。問題はない。
 だというのに、なぜこんなに妙に思えるのか。
 妙といえば自分の格好だった。セーターはまあいいとしても、ジーンズを履いてジャケットを着ながら寝るというのはどうだろう。その上ジーンズのポケットには携帯電話と財布が入っていた。着の身着のまま眠るほど疲れるようなことを昨日したのだろうか、と腕を組み首を傾げ、それから中里は動きを停止した。三十秒ほど、動くことができなかった。それは現実と夢の区別をするための時間だった。それから中里は組んでいた腕を解き、目を閉じて、恐る恐る、だが思い切り自分の頬を自分の手で張った。ぱちん、といい音がした。痛かった。だが頭は痛くない。目を開いた。景色は何も変わらなかった。みすぼらしくも住めば都の我が家である。
 それからの中里の動きは速かった。テーブルにすねを打ちつけても壁に腕を引っかけても立ち止まらず、一気に洗面台に向かった。そこにある鏡に自分の顔を映し、じっと見た。自分の顔は自分の顔だった。黒い髪。黒い眉。目。鼻。荒れ気味の唇。いくらかひげの生えている顎。頬。すべて自分の顔だった。右手で自分の右頬を触る。鏡の中の自分は、信じがたいような顔をして左の頬を触っている。
「お、俺だ……」
 何度か頬を指でつまんだり額を擦ったり、あるいは鏡から遠ざかって胸まで映るようにもした。いずれにせよ自分だった。
「よし、よし、よし……よーし、よし、よっしゃあ! 俺だ! 俺だぞ! 俺は俺だ! やった、俺はやった!」
 叫びながら中里は部屋に戻り、携帯電話を手に取った。これは高橋啓介に連絡せねばなるまい。
 戻ったのだ。
 昨日と一昨日は、信じがたいことに、互いの体が入れ替わっていた。互いの意識が入れ替わっていたというべきか、ともかく自分の体に向こうの意識が、向こうの体に自分の意識が入っていた。
 しかし、今日は戻っている。今中里が動かしているのは、中里本来の体であった。夢ではない。そして、こちらが戻っているのだから、あちらも戻っているに違いないと思われた。
 期待と焦りと不安とで引きつった笑みを浮かべながら、中里は携帯電話を開いた。電話番号を入力しようとして、指が止まった。理由の一つは相手の電話番号が分からないためだが、もう一つ、液晶画面に表示されている現在時刻のためでもあった。5:46という数字は、どう見ても午前五時四六分を示していた。
 朝だ。それはいい。しかし早かった。向こうが起きているかは怪しかった。そしてふと、午前五時半過ぎに嬉しさのあまり叫んでいたことに思い至り、中里はとてつもない後悔と恥ずかしさを覚え、ああッ、と頭をかきむしった。思わず結構な大声を出していたような気がする。羞恥が止まらない。ベッドに横になり、ううう、と唸りながらごろごろと転がる。居たたまれないにもほどがあった。
 手に持ったままの携帯電話が鳴ったのは、その時だ。
 うわッ、と小さく叫んで中里は携帯電話を手から落としていた。二回コールが過ぎたのち、はっとわれに返り、慌てて取り直す。見覚えのない電話番号が表示されていた。数秒ためらったが、唾を飲み込んでから、中里は電話に出た。
「もしもし?」
「中里か?」
 低い男の声だった。昨日一昨日と、何十回と聞いた声だった。
「ああ。……お前、高橋涼介、だよな」
「そうだ。お前は、中里なんだな」
 高橋涼介の慎重な確認の語尾に重ねるように、ああ、と中里は頷いた。
「俺だ、俺は俺だ中里だ、元通りだ、問題ねえ」
「こっちもだ」、という高橋涼介のため息混じりの声が頭に染み渡った瞬間、中里は大きく息を吐いていた。啓介も、元に戻っている。続けられたその言葉は、胸の底を熱くした。
「そうか。……ああ、良かった」
「俺もようやく人心地ついたよ。大げさな対策を練らずにも済む」
 はは、と中里は笑っていた。安堵が目の奥まで突き上がってきて、頬を緩めた。この現実の自然さ、自由さのあまり、泣きそうだった。高橋涼介も笑いのような息を漏らし、しかしあっさりと呼吸を正常とし、冷静さを示した。
「啓介と話すか?」
 唐突な問いに、中里は好奇心を煽られ、頷きかけたが、高橋涼介が示した冷静さに単純に感化された頭は、いや、と口を動かした。
「今話すと、折角戻ったってのに……頭が変になりそうだからな」
 だろうな、と高橋涼介が電話の向こうで快さそうに笑った。笑いたかったが、中里は苦笑しかできなかった。話した方が、元に戻ったという実感はわくだろうと思えた。だが、恐ろしかった。昨日までは自分があの男、高橋啓介だったのだ。あの体を使い、あの声を使い、生活していた。今、本来の高橋啓介となったあの男と話すと、あの男として過ごした時間が、すべて嘘になるような気がした。
 笑いを終えた高橋涼介が、また冷えた間を取り、そして軽く言った。
「それじゃあ、とりあえずはこれで終わりということでいいな」
「とりあえずじゃなく、終わりだぜ。もうこんなこと、続いてたまるかよ」
「同感だ。だが、何かあればまた連絡してくれ。常識外のことだから終了の区切りもつけにくい」
 ああ、と中里がしっかりと答えると、「それと」、と高橋涼介はわざとらしい甘さを持った声音で囁いてきた。「俺をたばかろうとしていたと白状してくれるのも待ってるぜ」
「……その期待にゃあ、悪いが応えらんねえな」
 似たような甘さを交えて中里とは言った。ふっ、と高橋涼介が笑ったように聞こえたが、続いて出てきた、じゃあな、という言葉からは、戯れも未練も何も感じられなかった。じゃあ、と中里は言った。そして通話は向こうによって切られた。その簡潔さといえば、まるで何事もなかったかのようだった。携帯電話を閉じた中里は、ふと、夢だったとかねえよな、と思った。少し、昨日と一昨日の記憶を掘り起こした。高橋啓介の肉体を動かしていたこと、高橋啓介の声で喋っていたこと、高橋啓介として生きていたこと。それらはあまりにおぼろげで、現実であったという確信は到底持ちがたかった。だが、まあいい、と中里はジャケットを脱ぎ、靴下を脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、セーターを脱いで、まだ人の温みが残っているベッドに潜り込んだ。自分の体が過不足なく動き、感覚は先読みできる。こめかみはもう疼かないし、指先にも違和感はない。
 結局は、何事もなく終わったのだ。
 あとはいつも通り、元通り、自分を生きるのみである。
 その前に、本来の起床時間まで寝ることにした中里は、しかし目覚まし時計のスイッチが入っていないことには気付かず、ビデオデッキにビデオテープが入ったままであることにも気付かず、自分が三人の男に恨みを持たれていることにも気付かず、『いつも通りの生活』を送るには難しい日であることは、知る由もなかった。



 浮かれたな、と思いながら涼介は携帯電話を閉じた。中里らしい――と涼介が感じる――低く一貫した男の声が、中里であることを認めた瞬間から、心が安らぐと同時に精神が昂ったことは、隠しようがなかった。それは、人の部屋に朝っぱらから入ってきて睡眠を妨げた挙句、焦ったように「俺が俺で俺なんだ」と言い募ってきた弟が、弟であるということを、ひとまずは裏づける結果であったからだ。
 不安げな表情で体をこまめに動かしながら立ち続けている啓介へ、ベッドに腰掛けたまま涼介は、使っていた当人の携帯電話を差し出し、
「聞いての通りだ」
 と、笑ってやった。だが啓介は、顔の曇りを完全には消さなかった。
「……戻ったんだよな、あいつ」
 声にもかげりが窺えた。ああ、と涼介は明確に頷いてから、相手に安心を与えるための推論を述べた。
「直接会ってみねえと正確な判断は下せないだろうが、少なくとも電話に出た中里は自分を中里だと認識していたし、そう主張した。それほど問題はないだろう」
 そうか、と頷いた弟の眉間からは、いまだ力が抜けていなかった。涼介は啓介をじっと見上げた。俯き、じゅうたんに視線を固定していた啓介が、一瞬こちら目を合わせ、すぐに逸らし、今度は天井を見上げながら、アニキ、と言った。
「ん?」
「昨日、何となく、思ったんだよ」
「ああ」
「……思い込みってのも、ないってこともねえだろうなって」
 そう言って啓介は、涼介へ顔を向けてきた。それは奇妙に歪んでいた。怒りとも悲しみとも苛立ちともつかぬ感情が、啓介の顔貌の表面を覆っているようだった。
 二人の強力な思い込み――互いに他人になりたい、あるいは互いになりたいという願望か何か――であのような事態になったという意見は、筋道を作りやすい。だからこそ涼介は、それを主張した。科学的に説明できぬようなものに、弟を奪われるわけにはいかなかった。だが実際、おそらく入れ替わったという経験によって、『思い込み』を肯定している弟を前にすると、涼介は何を言うべきかと逡巡し、
「そうか」
 と、微笑を浮かべるだけにした。積極的に認めることも、実際にはその前提のみからではすべての事象は説明できないことを分かっているため――あの完璧な他者の記憶は何だったというのか?――しがたく、また何を言ったとしても、啓介がたった今述べた、あの事態で得たらしき感覚を削ってしまうようだった。ただ、その弟の発言の意図だけは認めてやりたかった。
 涼介が笑むと、啓介もまた複雑な感情のために歪ませていた顔を、すっきりとした笑みにした。こういう時、涼介は啓介以外に啓介はいないのだという、当たり前のことを強く感じる。わずかな言葉で互いの意思を理解できる瞬間、これを何十回、何百回と作り出せるのは、そうして浮かべた綺麗な笑みも、すぐに不満げに変化させるような、この弟しかいなかった。
「しっかしもう嫌だな、あんな狭苦しい体」
「自分の良さを実感できただろう? 結果オーライだ」
「アニキが言うなよ、ったく」
 口を尖らした啓介が、あいつだけは絶対もう死んでもイヤだ、としつこく強調する。涼介は苦笑を浮かべ、そして頬から力を抜き、ダサい服しか持ってねえし、とぶつぶつ呟いている啓介を改めて見上げた。
「啓介」
 声をかけると、啓介は不思議そうに目を瞬いた。胸の奥に、ぬるい痒みが生まれた。わざとらしい、と涼介は思った。
「お帰り」
 それでもそう言わずにはいられなかった。指先までが痒くなっていた。啓介は口を半開きにしていた。何かを言おうとしたのかもしれないが、開いていた口から声が出てくるより先に、開いていた目から涙が流れていた。
「あ」
 と、啓介は言った。何かを思い出したような、大した意味もなさそうな声だった。その顔はすぐに歪んだ。そしてすぐに手に覆われ、背を向けられ、見えなくなった。息が吸い上げられる音が聞こえ、その合間に、クソ、という呻きが入った。足に勝手に溜まった力のために、涼介は立ち上がっていた。すぐ前にある、自分の変わらぬ背丈の体は、感情の奔流のために弱々しく震えていた。涼介はその肩に手を置き、横を過ぎがてら、ゆっくり囁いた。
「タオル、取ってくるよ」
 弟はしゃくり上げたままで、何も言わなかった。涼介はその顔を見ず、自分の部屋を出、廊下の壁に手をつき、深く息を吐いた。昔は所構わず思うがままに泣き叫んでいたというのに、あの弟は、既に耐えることを覚えてしまっている。ならば、こちらも耐えねばなるまい。
「一端にな」
 呟き、眉根を寄せながら、いっとき弟が声を抑えずに泣けるよう、自分の目の奥の痒みを引かせるよう、涼介は階下への道を辿った。



 寒風吹きすさぶ山、煙草を咥えつつ明日はすき焼きでも食うかと考えていた慎吾は、その黒いスカイラインR32GT−Rが駐車場に現れた瞬間、驚きと納得と不審とで妙な顔を作っていた。
「お、毅サンじゃん」
 横に立っている仲間が驚いたように言った。車から降りた中里が、こちらに歩いてくる。慎吾は吸った煙草を指に移し、妙な顔をしたまま身構えた。
「どうもっす」と、横にいる男がいち早く声をかけた。
「よお、久しぶりだな」
「そんなんでもねーでしょ」、男は笑う。「でも珍しいすね、毅サンが日ィ開かすなんて」
「色々用事があったんだよ」
 不敵に笑いながら中里が言い、慎吾に目を向けてきた。慎吾は眉間に力を入れ頬を強張らせたまま、中里を見据えた。威圧感はなかった。
 試しに、
「毅」
 呼んでみると、ああ、と中里は神妙に頷いた。
 ということは、と慎吾は考えた。
 こいつは毅だ。
 マジかよ、と思いつつ、中里を見据えたまま、ちょっと話があんだけど、と慎吾は顎をしゃくった。ああ、と中里は再度頷いた。横で目をぱちくりさせている仲間を残し、人気のない場所まで慎吾が先に立って移動した。振り向き、後ろを来た中里を確認する。特に不満そうでも楽しそうでもない。ごく普通の様子だった。そう、普通なのだ。慎吾は煙草を吸い、煙を吐き出してから中里に声をかけようとしたが、自然に佇む中里を目にすると、何となくタイミングを逸した。
「何だ」
 中里の方が、訝しげに声をかけてきた。そのどこか間抜けた顔を見た瞬間、混濁していた感情が沸騰して腹の底に熱を生み、何だも何もねえだろうがよ、と慎吾は口早に言っていた。
「お前、毅か」
「見りゃ分かるだろ、俺以外にどこに中里毅がいるってんだ」
 堂々と、中里は言った。今まで慎吾が散々憎み、恨み、また慕った男と、同じ顔、同じ体、同じ声、同じ仕草、同じ言葉を持つ男だ。中里毅。本人がそうと認めるのならば、間違いなくこの男は中里毅であるようだった。
 高橋啓介などではない。
 そう理解しつつも、慎吾は顔から力を抜けなかった。
「……マジで?」
「お前が疑うんじゃねえよ、慎吾」
「いや、誰もこんな早く戻るなんて思わねえだろ」
「俺だって思わなかったぜ。とてつもなく驚いた」
 中里は手持ち無沙汰のように腰に手を当て、眉間にくっきりとしわを刻んだ。まあそうなんだろうな、と慎吾は思った。この男と慣れ親しんでいる自分が、この男はこの男であると確信している。しかし、突然すぎる事態の解決を疑る自分もいた。慎吾は吸った煙草を地面に落とし、靴でぐりぐりと踏んでから、中里をねめた。「お前ら結局揃ってドッキリしかけたんじゃねえの?」
「……俺があの野郎と揃えてそんなことをやると思うのか?」
「ま、可能性はゼロじゃねえだろ」
「なら俺らの何だ、その、霊魂が入れ替わったとか、宇宙人がいるとかいう説も、可能性はゼロじゃねえだろ」
「それ唱えたら精神科行きだろうけどな」
 む、と中里は口を閉じ、腕を組むと、地面を睨みながら不服げに言った。
「実際、俺だって何でこんなことになったか、分からねえんだよ。けど直ったんだからいいじゃねえか。全部元通りだ」
 慎吾は眉を上げながら、高橋涼介は、と言った。あ?、と中里が目を見張る。
「高橋涼介は、何も言ってきてねえのか」
「……何か問題が出たら連絡くれって。でももう何もねえだろう。あってたまるか」
 腕を組んだまま中里は、苛立ちを交えたため息を吐いた。慎吾は肩をすくめるだけにした。事の起こった原因が不明のまま、中里がもう何もないと決められるのは単にこの男の頭が足りないからだと慎吾は思うが、あれほど頭が良いだの何だのともてはやされている高橋涼介が、事が再度起こる可能性を蔑ろにしているとは考えにくい。それでも中里に対して強く警告した様子がないのは、もしや高橋涼介は原因を突き止めたのだろうか。それとも、弟の無事さえ確認できれば他はどうでもいいのか。
 いずれにせよ、根拠もなく直ったと言う中里は信用できないが――中里自身は、何か確信に足る感覚を有しているのかもしれないが、慎吾にはそれは分からないし、この男を信じる自分はどこか癪だった――、高橋涼介がこれ以上介入してこないのであれば、さして問題もないと言えるだろう。第一当人は戻ったことを納得している。そこで何を言う必要もない。
 かといって、このまま沈黙が続くのも居心地が悪いので、そういや、と慎吾は話を変えることにした。
「高橋啓介の体はどうだったよ」
「あ?」
「モテたんじゃねえの?」
「……いや、そんなんでもなかったような……」
「女は食えたか」
 食うかバカ、と中里は目をいからせた。何だ、と、慎吾は呆れた。
「もったいねえな、俺が高橋啓介になったらナンパしてヤりまくるぜ」
「俺はお前みてえな下劣な人間じゃねえんだ、大体あいつの体をそんな勝手に使うわけにはいかねえだろう」
「そんなんだからお前はいつまで経っても右手が恋人なんだよ」
 慎吾の言葉に、はあ?、と顔をしかめた中里は、数秒のうちに顔を赤らめ、てめえ、と拳を振り上げた。いやいやいや、と慎吾は顎を引いた。
「何だその反応。気持ち悪い」
「このッ……」
 拳は下ろしたが、怒気を帯びた顔のまま中里は舌打ちし、息を吐いて、
「けどな、あいつ、高橋啓介ってのは……何だろうな、女の子に憧れられてるってのはあると思うんだが、それがいまいちピンとこねえっつーか……何か違うんだよな」
 腕を組むと、うん、と一人頷いた。これでごまかせると思ってんのかこいつは、と慎吾は思ったが、へえ、とだけ言った。これ以上、意味の分からないことは聞きたくない。それには余計な相槌は不要だった。
 しかしながら、何も言わないでいても、腕を組んだ中里が不審そうに、何だよ、と聞いてくるものだから、慎吾はつい余計な言葉を返しそうになり、しかしそこでタイミング良く、一台新たに車がやってきた。うってつけだった。周囲の人間が、何だ何だと色めき立つ。ノイズに近いエンジン音とともに眼前に現れたるは、我の強いイエローに覆われた国産スポーツカーだった。そう珍しくもないが、この地で見かけることはほとんどない車だ。
 慎吾と中里の傍に停まったそのRX−7FD3Sからは、案の定高橋啓介が降りてきた。中里は腕を組んだままで、近づいてくる高橋啓介を睨みつけていた。高橋啓介は何か不満そうに眉根を寄せながら、よお、と慎吾の隣に立つ中里へ声をかけた。しかめっ面の中里は、下から上まで高橋啓介を睨み、低い声を出した。
「お前……高橋啓介だよな」
「何当たり前のこと言ってんだよ。戻っただろ」
「……そうか」
「そうだよ」
 身構えている中里とは正反対に、高橋啓介には無駄な気負いというものがなかった。器の問題だな、と慎吾が思っていると、あ、と目を見開いた中里は、突如高橋啓介を指差した。
「そうだお前高橋、俺の体で何しやがった」
「あ?」
「俺は今日会社帰りに、いきなり知らねえ奴らに追っかけられたんだよ。三人組 の男だ。お前、あいつらに何したってんだ?」
 高橋啓介は眉をひそめたまま遠い目をし、ああ、と遠い声を出した。
「歩いてたら、肩ぶつかったんだよ。それで、殴られそうになったから逃げた」
「それで、何で俺が追われなきゃなんねえんだ」
「逃げ切っちまったから、その続きかな。悪いな、始末する時間がなかったんだ」
 簡潔かつ分かりやすい説明に、中里はそれ以上の追及を阻まれたようだったが、それだけじゃねえ、と別の話題を繰り出した。
「お前……あのビデオ、見たのか」
「ビデオ?」
「テープがデッキに入ってた」
 再び高橋啓介は遠い目をしたが、今度は先ほどよりも早く、ああ、と近い声を出した。「見たぜ。それがどうした?」
「…………それはそれとして」、と中里は意味深長な間を置いてから、さっさと話題を切り替えた。「目覚まし時計のスイッチ切っただろ」
「ああ」
「おかげで俺は遅刻しそうになったんだ」
「そりゃ悪かったよ。けどあんな早く戻るとは思わなかったしよ」
 中里はついに口を閉じた。こうも素直に、かつ卑屈ではなく、堂々と肯定されて謝られては、嫌味の語彙がゼロに等しい中里ではそれ以上責任を問いようもないだろう。そして今の高橋啓介には、その男を否定できないような貫禄があった。慎吾ですら、この男は看過せざるを得ないと思われた。
「お前の方こそ」、と黙っている中里へ、高橋啓介が訝しげに言った。「どういう風に俺やってたんだ」
「どういう風って……」
「今日学校行ったら、会う奴会う奴に昨日は気持ち悪かったって言われたぜ。どうすりゃそんな気持ち悪くできるんだよ」
 高橋啓介は実に不思議そうだった。また中里も実に不思議そうに、俺は普通にしてただけだ、と言った。
 となれば、
「そりゃ、お前の普通が学生さんにとって気持ち悪かったってことだな」
「な……」
 慎吾の述べた結論に中里は衝撃を受けたようで、少しよろめくと、なぜか両手を見ながら、いや俺は何も悪いことはやっていねえ、やってねえぞと呟いた。その辺が気持ち悪いんだけどな、と思いながら、慎吾は高橋啓介を見た。高橋啓介は感情の窺えない顔で、中里を見ていた。温度の感じられない、ぞっとするような、綺麗な顔だった。だがすぐに興ざめしたような表情に変わり、高橋啓介は空を見上げた。
「考えれば考えるほど、分かんなくなるもんだな」
 独り言のようだった。まだ何やら呟いていた中里は、言葉を止めて高橋啓介を見た。他人へ声をかける準備が整っていない中里の代わりのように、慎吾は星の少ない夜空を見上げる高橋啓介へ、何が、と言っていた。
「何でもだよ。何でも……」
 そこで高橋啓介は眩しそうに目を細め、細く長い息を吐き、肩をすくめた。
「当たり前だな」
 首を振った高橋啓介が、呟く。この男は何かをそこまで、わけが分からなくなるまで、考えたのだろうか。慎吾には分からなかった。中里を見ると、理解に困っている風でもあり、自信に満ちている風でもあった。分かりやすすぎるから、何が本当か、分かりづらくなる。つまり、高橋啓介はそういったことを、考えたのだろうか。しかし、実際のところなど、高橋啓介にしか分からないものだ。慎吾は考えるのをやめた。
「高橋啓介」
 中里が、堅苦しい声を出す。こちらに半身になった高橋啓介が、関心もなさそうに目を向けてくる。
「もう一度、俺とバトルしろよ」
 それは煮え立つような声となっていた。中里の体を、熱が取り巻いているのを慎吾は見たような気がした。高橋啓介は、どこか頓狂な顔をして中里を見ていた。すぐに、当たり前だろ、と言いそうだった。
「時間がありゃあな」
 だが、高橋啓介は億劫そうにそう言い、未練もなさそうにFDへ向かい、乗り込むと、素早く山を下っていった。余韻も残さぬ迅速さだった。
「……何しに来たんだ、あいつは」
 中里が首をひねる。確認しにだろ、と思いつつも言わず、慎吾はもう一本煙草を吸おうかどうか考え、やめ、眉間に縦じわを作っている中里を見た。見飽きた顔だ。見飽きた男だ。だが、その隣に立つことに、飽きはしない。つまらなくはない。
 実際、中里が高橋啓介であろうが高橋啓介が中里であろうが、走りでしか関係しない男だ、慎吾の生活に大層な支障は出ないだろう。ただし、その走りにおいては、自分の欲求を満足させられるのは、GT−Rに乗る中里毅以外には考えられない。勿論中里がいなくなれば妙義山走り屋の天下は慎吾の手中に入るわけで、それはそれで面白いことだが、やはり命を賭けて競える相手がいないのは熱に欠ける。それに、あの高橋啓介が高橋啓介でないというのも、しっくりこないような気がした。既に作られているものは、なかなかに変えがたいのかもしれない。
「適材適所か」
「あ?」
 不可思議そうに眉を上げた中里の顔を、目に焼きつけてから、別に、と言って、慎吾は愛車に戻るべく歩いた。げらげらと笑っている走り屋、夜にも色彩豊かな車、唸り続けているエンジン、轟然たる排気音。山の景色は変わらない。シビックの運転席のドアに手をかけ、慎吾はふと振り向いた。黒のR32は探さずとも見え、傍に立つ男も見えた。
「相っ変わらず……」
 慎吾は口の中で言い、右の頬を少し上げながら、シビックに乗り込んだ。
 後はいつも通り、走るだけだった。
(終)

(2007/07/29)
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