答え 2/3
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 ベッドに寝たまま右手を目の前にかざしてみた。細い指、長く丸い爪、血管が透けて見える白い皮膚。見た瞬間どっと血液が全身に回る感覚があり、そして諦めが中里の胸中に生まれた。ため息を吐いてから身を起こす。二度目の目覚めでは、違和感を覚える余裕もなかった。
 重い足を引きずって開けたクローゼットの鏡に映ったのは、相変わらず高橋啓介だった。中里は右手を動かし、右の頬を触った。鏡の中の高橋啓介が同じ動きをする。今度は知らずため息が漏れた。
「冗談じゃねえ」
 自分で喉を震わせて出した声だというのに、鏡の中の男が言っているように感じられた。透き通った声。聞き慣れない声。中里は鏡を睨んだ。鏡の中の高橋啓介が睨み返してくる。睨んでいるのも睨まれているのも高橋啓介であり、また現在の自分であることは、認めざるを得なかった。何せ昨日の通りだ。
 夕食として適当に茹でたそうめんを高橋涼介と対面して食べていた時も、広い湯船に漬かっていた時も、これは夢だと思い込もうとしていた。寝て起きれば終わるだろう。高橋涼介とはなるべく顔を合わせないようにして、この物の溢れた部屋に閉じこもった。考えた。なぜこんなことになったのか、いつ元に戻るのか、頭が正常になるのか。とても寝られそうになかった。そんな不安で胸を曇らせていたのはついさっきのことのはずだ。眠りは終わった。そして今は現実だった。
 徒労を感じて鏡を睨むのはやめた。頭はすっきりしていない。目もしょぼしょぼとする。何となく、中里はそのまま鏡を見ていた。ふと、寝起きでもいい顔だな、と思う。首も細い。
 いまだ覚醒しきらぬまま、とりあえず着替えようとシャツを脱いだ。それからまた鏡を見る。中里はじっとそれを見た。高橋啓介の体。太股の上から頭の先まで映し出されている。均整の取れた美しい肉体だった。腹筋は硬く割れ、左右に歪みがない。顔も体も、かくあるべしと神に作り出されたような、完全性を備えている。これは到底、漫然としているだけでできあがるものではないと感じられた。
 努力してんのか。
 妙な気分だった。鏡に映る男に、努力という言葉は似合わない。それでもこの野性味を凝縮したかのようなしなやかな体を、何らかの鍛錬によって作り出したのが、その男であることは容易く想像されてしまう。その男が努力をしている場面はいくらでも想像できるし、それを好ましく思うのに、しかし似合わないと思う自分がいるのだった。
 部屋のドアの開く音がしたのは、中里がそうして妙な感じに苛まれながら硬い腹をさすっていたその時だ。
「起きたか?」
「え、あ、ああ、まあ」
 どもりながら答えた中里は、部屋に入ってきた高橋涼介をつい凝視した。髪は適当に流しているように見え、上は無地の黒いシャツで、下は色あせたブルージーンズだった。気取らぬ平凡な格好だ。それが、嫌というほどの爽やかさと、壮麗さを持っていた。服の凡庸さと、高橋涼介の発する高橋涼介でしかない空気に、中里は頭蓋骨が軋むような圧力を感じた。
 高橋涼介は、不審げに近づいてきた。
「お前は中里か」
 目の前で問われ、あ?、と中里は声を裏返してから、ああ、と咳払いをして、ちらと鏡に映る高橋啓介の姿を見てから、頷いた。
「そうだ」
「本当だな?」
「嘘吐いてどうすんだ。俺は中里だ。中里毅」
「啓介ではない」
 精神的な疲労が強すぎて、中里は苛立つこともできず、ああ、と頷くのみだった。高橋涼介は、呼吸の延長線上にあるようなため息を吐いた。
「変わりはねえか。大方向こうもそうなんだろうな」
「まあ……俺はここにいるからな。高橋もあっちにいるんだろう」
 言っている自分でも、おかしな状況だと思った。自分はここにいるのに、自分はここにはいない。矛盾している。だが、事実だった。正確には、自分の意識はここにあるのに、自分の体はここにはない、というべきかもしれないが――ともかく、事態はやはり何も変わっていないのだ。
「それで、何をしてたんだ」
 割り切ったかのように尋ねてきた高橋涼介は、不審さを消していなかった。いや、と中里はクローゼットの中を見た。
「……どの服を着りゃいいのかと」
 この体に見惚れていたなどとは言えるわけもないので、そうして当初の目的を口に出す。着替えようとしていたのだ。だが、いざ数ある服を眺めてみると、一体どれを選ぶべきか見当もつかなかった。
 なるほど、と言ってすぐ横に来た高橋涼介が、クローゼットの中から二つハンガーにかかった洋服を取り出した。
「あいつには収納するという概念がねえからな。そこらに散らばってるもんを着りゃいいが、たまにはここにしまわれている分を活用してやってもいいだろう」
 白のドレスシャツに紫のセーターを差し出され、中里はこれ以上ないほどにまで眉間に肉を集めていた。高橋涼介は疲労を感じさせるため息を吐いた。
「そんな顔をするな。去年あいつは二回くらいこの組み合わせで過ごしていた。下はジーンズでいいだろう」
「……紫か」
「黒で固めるのも白で固めるのもいいだろうが、多分騒がれるぞ。普段しない格好だから」
 すげなくそう言われてしまえば、選択肢は他に思いつかなかった。受け取った上着を身につけ、高橋涼介が床から拾い上げたジーンズと靴下を履く。長い手足をうまく操れず苦戦しているうちに、肩掛け鞄まで用意されていた。その手際の良さに中里は呆然としてしまったが、高橋涼介は止まらず、鞄を持ちながら言ってきた。
「細かい説明はしない。混乱するだけだろうしな。とにかくこの中に今日の講義に必要なものは入っているから、周りを見て適当に合わせておけ。多少間違っていても構わない。肝心なのは、真面目にやりすぎないことだ。あいつの性格を考えて動いてくれ。演じすぎても問題だが、お前の素のままだと確実に啓介じゃあないんだ」
 何か、苛立ちが伝わってきた。あいつの性格って何だ、と反論するのも気が引け、ああ、と中里が頷くと、
「ケータイと財布と家の鍵が鞄の中にあることを確認したら下りてこい」
 と一息に高橋涼介は言い、部屋から出て行く前に振り返り、朝食はパンだ、と付け足した。

 ダイニングのテーブルには先ほどのラフな格好のままの高橋涼介が既についていた。食事が用意されている、その前の席に座る。トースト、目玉焼き、キャベツときゅうりとトマトのサラダ、八等分にされたりんごが二個、グラスに入った牛乳が綺麗に並んでいた。中里はまず手を合わせていただきますと言ってから、非の打ち所のない食事を眺め、りんごをがしりと食んでいる目の前の高橋涼介を見た。少し迷ってから、あのよ、と声をかける。
「これ、お前が用意したのか?」
 噛んでいたりんごを飲み込んだらしき高橋涼介は、こちらを見ることもなく言った。 「空から降ってきたんだよ」
「は?」
「冗談だ」
 高橋涼介はそれで食事を終えており、椅子を引いて立ち上がった。食器を重ね、流し台に運んでいく。中里は何とも居心地の悪い気分になりながらも、トーストに添えられたバターを塗った。その上に目玉焼きを乗せ、そのまま噛む。白身の端がわずかに焦げており香ばしいが、黄身は半熟だった。サラダは材料が綺麗に切り揃えられていた。さっぱりとした味付けだ。リンゴは歯ごたえが良く程よく甘かった。牛乳は牛乳だった。
 中里が食べている間、食器を洗い終えたらしい高橋涼介は、キッチンからもリビングからも消えた。どこに行ったかは知れなかった。食事を終え、ごちそうさま、と言い、少し待ってから、食器を流し台に運び、また少し待ったのち、とりあえず洗ってしまった。流し台にあった汚れていなさそうな台拭きで、ダイニングのテーブルを拭くと、何もすることがなくなった。
 煙草を吸いたいと思った。鞄の中を探ってみた。キャビンが一箱。舌の裏に唾が染み出してきた。ふと、テーブルを見た。灰皿はなかった。リビングのテーブルも同じだった。喫煙する場所ではないのだろう。
 ため息を吐き、足を動かした。顔がべたついている。洗っていない。まず便所へ行った。小便がペニスの先から出るさまをじっと眺めてしまった。自然な排尿感だった。それがおかしく思えた。次に洗面台で顔を洗った。いちいち確認するまでもなく、鏡に映るのは高橋啓介の顔だった。洗う前も洗った後も変わりはない。とりあえず濡れていない歯ブラシで歯を磨いている間も、変わりはなかった。
「クソ」
 舌打ちして、頬を両手で叩く。痛い。鏡に映る高橋啓介の両頬が、赤くなった。
 これは俺じゃない。高橋啓介だ。
 じゃあ、高橋啓介は何している?
 俺は何をしているんだ?
 何度も何度も自分と違うことを確かめていると、段々と認識が曖昧になってくる。中里は再び舌打ちをして、鏡に背を向け、だが振り向いた。茶に染められた髪は、目にかかるほどだった。いつも、あの男は額が出るまで立てている。ひよこのようだと思ったことがあった。
 洗面台の横の棚にある整髪剤を手に取り、慎重に、髪を逆立てた。指先を使って向きを決める。どこまでを流して、どこまでを立てるべきなのか、中里にはまったく見当もつかなかった。とにかく見られる程度に整えて、手を洗う。その間も、じっと鏡を見た。
 これは、高橋啓介だ。
 そう思い込み、中里は手を拭いて、鏡に背を向けた。そしてまた振り向いた。今度はより一層鏡に顔を近づけて、顎を手でなぞる。
「……生えてねえな」
 掌のどこにも引っかからなかった。ひげだ。生えていないわけはなかろうが、生えているようには見えなかった。体毛が薄いのだろう。考えてみれば、腕も足も毛が薄かった。頭が痛くなってくる。こめかみがじんじんとうずく。中里は鏡に背を向けた。二度と振り返らなかった。
 リビングに戻ると、高橋涼介が入り口近くに立っていた。一瞬、何かを一気に飲み込んだような顔をした。どうした、と中里が言うと、いや、とわずかに眉をひそめた。
「啓介のこと、お前はよく知らないだろう、中里」
 突然問われ、中里はうまい答えを考えられず、ああ、とただ頷いた。高橋涼介は一歩こちらに近づいてきた。手が伸びてくる。髪を触られていた。すぐ、手は離れた。
「行きは俺が送ってくから、帰りはタクシーを使え」
 高橋涼介はそのまま中里の横を通り、廊下へ出た。中里は慌てて追った。
「タクシーなんて、もったいねえだろ。バスとか……」
「大学はまだ人間関係が限定されるが、街ではそうもいかないだろう。不用意に出歩くと、お前に余分な苦労がかかるだけだぜ」
 靴を履きながら高橋涼介は言った。外の光景を想像すると、分かった、と中里は頷く他に仕様がなかった。

 高橋涼介の運転するFCに同乗することなど、考えもしなかった。FCはどこか窮屈そうに市街地を走る。高橋涼介は何も喋らなかった。横顔は静謐だった。兄弟揃って、と思う。人間の顔が遺伝子で決まることを知らしめるような存在だ。中里は唾を飲み込んでから、意を決し、彫像のような高橋涼介へと声をかけた。
「なあ、高橋」
「それはやめてくれ」、と即座に高橋涼介は言った。
「え?」
「その姿で高橋なんて呼ばれると、頭がおかしくなりそうだ」
 はたと気付いた。今、この体は高橋啓介のものだ。そして高橋涼介はその兄だった。あ、ああ、とどもりながら中里は了解した。
「ええと、じゃあ……お前よ」
「何だ」
「その、親御さんとかはどうするんだ? さすがにごまかしきれねえと思うんだが……」
「親父は一週間に一度しか帰宅しないし、おふくろは出張中だ。二週間帰ってこない」
 流れるように出てきた答えを聞いても、へえ、と以外に言うことができなかった。それは幸運だ、とも言えないのがそもそもの現状だ。まあ、と高橋涼介が滑らかにステアリングを切りながら言った。
「まずは一週間だな。それ以上経っても事態が進展しねえなら、長期的な対応を考えるしかない」
「……一週間か」
「確認しておくが――中里」
 それまでとは違う、低く威圧的な声で名を呼ばれ、中里はどきりとした。赤信号の前でFCをとめた高橋涼介は、冷徹な顔を向けてきた。
「お前は本当に俺を騙しているわけではなく、こうなったことに何の心当たりもないんだな?」
 やましいところなど何もないというのに、ああ、とだけ言うために、中里は一つ唾を飲み込む間を入れねばならなかった。数秒余韻を確かめるように静かに見据えてきた高橋涼介は、何もなかったように顔を車のフロントガラスに向けた。
「ならこれ以上考えても仕方がねえ」
 高橋涼介の足が動く。手が動く。車が動く。見慣れない景色が過ぎる。中里は唾を飲み込んだ。喉がからからだった。自分の煙草が吸いたかった。口の中に唾がたまり始めた頃、大学が見えた。ビルのようだ。高校を卒業してからすぐに就職した自分にとって、縁のない建物だった。駐車場に入り、FCが停まった。着いたぞ、と高橋涼介がギアをローに入れて言う。
「どこかしらにあいつの知り合いがいるから、声をかけられたらそいつらに話を合わせておけ。そうすれば自分が何をするべきかはおのずと知れるだろう。時間はある。頑張れよ、中里」
 中里がシートベルトを外し、降りる準備をしているうちに高橋涼介は喋り切った。ああ、と頷く他、この男の前で中里ができることなどなさそうだった。地面に立って助手席のドアを閉めると、FCは速やかに発進し、道路の向こうへ消えていった。中里は半ばを見送ってから、ため息を吐いた。
「……結構、出たとこ勝負って性格してんだな……」
 もっと綿密に指示を出す男だと思っていた。高橋涼介。ただ、そこまで計画を立てたくなかっただけなのかもしれない。実の弟の姿をした他人など、長く相手にしていたくはないだろう。
 中里はとりあえず辺りを見回した。ただ広い駐車場。停められている車は少ない。軽自動車やミニバンが目に付いた。駐車場のすぐ近くに二つ大きい建物がある。どちらに入れば良いのか、見当もつかない。
「まあ、どうにかなるか」
 確信はないなれどともかく自分に言い聞かせ、中里は歩き出した。途端、後ろから肩を叩かれ、うわ、と飛び跳ねた。振り向いた先には、軽薄そうな男が立っていた。
「何そんな驚いてんだよ、ケースケ」
「……あ?」
「何度呼んでも気付かねーしよ、っつかお前が朝から来んのって珍しくね?」
 男はにやにやしながら、はっきりとした口調で言ってきた。うなじまで伸びている茶髪、細身のセーターとパンツ。垂れた目が印象的だった。高橋啓介の学友か、知り合いなのだろう。いやその、と中里は口ごもった。
「授業があるから……」
「あー、タカダのね。おいコバヤシィ、おめーもタカダだろ」
 男が後ろに声をかける。すぐそこに、二人の男と二人の女が立っていた。どれも見たことのない人間だった。当然だった。あ?、と金髪の男が声を上げる。
「だからおめーもタカダの取ってんべって」、と垂れ目の男が言う。ああ、と金髪が気だるそうな声を上げた。「ゲンケイか。コージ取ってねえっけ」
「あれおもしれーの?」
「クソつまんねーよ。っつーかケースケ珍しいな、お前朝から来んのって」、と金髪は訝しげに言いながら中里の横を過ぎた。垂れ目男がやはりにやにやしたままその横に並ぶ。
「お前、俺もそれ言ったとこだよ」
「マジで?」
 垂れ目と金髪が先へどんどん進むため、どこへ行くのかは知れないがともかく遅れぬよう中里は歩いた。と、横にデニムの短パンを履いた細い女が並んできて、っていうか、と高いハスキーな声を出した。
「ケースケ、今日送ってもらってた?」
「え、あ、ああ」
「あれって何、白い車。ケースケのお兄さん?」
「ああ、まあ……」
「ケースケの兄さんってすごいかっけーんでしょ。しかも医学部」
 もう一人、ひらひらとしたスカートを履いた、きつい目をした女性が言う。あーそうだ、と細い方が笑った。
「ね、紹介してよー、あんたんチ金持ちなんでしょ?」
「お前よー、自分のツラ見ろや」、と二人の女の後ろにいた、背の高い男がへらへらと言う。うっせーよ、と細い女が答える。中里は口が開けなくなっていた。男だけなら峠に来る連中と似たようなものに思えるだけだが、そこに女性が混じることなど普段ないので、戸惑ってしまう。
「何かさー、今日ノリ悪くない、ケースケ」
 左側の建物の中に入り、まだぞろぞろと歩いていると、きつい目をした女性が笑いながら言ってきた。え、と内心ぎくりとしつつ、中里は必死で弁明を考えた。
「ああ、ちょっと……いや、腹の調子が……」
「えー何、変なモンでも食った?」
「あ、俺昨日卵食った卵、一日期限切れてたぜ」
「おめーに聞いてねーよ」
 ぎゃははは、と笑いながら連中が歩く。そのうち女性二人と男一人が別れ、垂れ目と金髪の男が残った。中里は周りに目をやる余裕もなく、二人の男についていった。
「んじゃ俺スティーブに会ってくっから」
 廊下の途中で垂れ目が言った。おう、と金髪が答える。ああ、と中里も頷いておいた。めんどくせーよなあ、と言いながら金髪が歩く。朝だけなんだよ俺、ひでー組み合わせだよ。でもマジお前もうこれ放棄すっかと思ったけどな。っつーか腹ダイジョブかよ。無理すんなよ。でもお前やべーんだっけ単位。ったく学生はめんどくせーよなあ。
 金髪はべらべらと一人で喋り続けていた。相槌を入れる間はあったが、中里は何も言わずにいた。こめかみは相変わらずじくじくする。まだ誰も気付いていない。午前中一杯はここにいなければならない。教室に入る。見知らぬ人間が大勢いる。席に座る。椅子は硬い。金髪男は喋り続けている。ため息を吐く気力もなかった。もう何もしたくはなかった。



 目はすっきりと開いたが、寝た気はしなかった。頭蓋骨の内側を震動させられているかのような痛みはずっと続いている。痛いということがどういうことなのか分からなくなりそうなほどだった。だが痛いものは痛かった。啓介はベッドから起き、一つあくびをした。頭を掻く。硬い髪が手に触れて、途端平坦だった気分が下り坂になった。手を見てみる。普通の手だ。だが、自分の手には見えない。一本ついていた髪の毛は黒かった。
「めんどくせえ」
 再度頭を掻き、啓介はぼんやりと部屋を見回した。昨夜と何ら変わりはない。昨夜――中里と同じチームだという奴に車でここまで送られた。シビックだった。運転は悪くなかったが、運転手は始終不機嫌そうな顔だった。おかげでこちらも不機嫌になった。ただでさえ頭が痛くて何もする気が起きなかった。風呂にも入っていない。家に入ってすぐベッドに飛び込み、着の身着のまま眠った。そして今起きて、状況に変化がないことを知った。
 ベッドの枕側にある棚の上、時計が置かれている。午前六時。兄たちと別れたのが午後八時頃だった。結局十二時間も寝ていない。
 もう一度寝ようにも、頭が痛かった。啓介はベッドから起き上がり、便所へ向かった。濃い小便が出た。便器から外れそうになった。持ちにくいペニスだった。力の込め方も難しかった。自分の体ではないようだった。そう感じて、
「違うってな」
 思わず声に出す。聞き取りにくい、低くかすれた声。身震いした。小便は終わっていた。
 狭い便所、狭い洗面台、小さい鏡。相変わらず、中里毅が映っている。見ても面白くもない顔だった。整っていないわけではない。よく見れば、各々のパーツは綺麗だ。眉も目も鼻も唇も骨組みも、正確な形で、堅牢さを表している。ただ、地味だった。決して鮮やかさはなく、なおかつどこか下品だった。
 その顔を洗う。肌はがさがさとしていた。不健康なんじゃねえか、案外、と思いながらタオルで顔を拭き、鏡を見る。顎のあたりが薄く青い。触るとじゃりっとする。面倒なので、そのままにしておくことにした。そもそも顔全体が薄ら青かった。どうせ誰と会うわけでもないのだ、問題もあるまい。
 ベッドに戻り、寝転がる。これほど早くに起きても、やることはなかった。極力外には出るなと兄には言いつけられた。中里の知り合いと出くわせばうまく取り繕えないだろうし、いつ元に戻るか分からないからだ。だが、戻る気配は感じられない。入れ替わったのは、互いに寝ている間らしい。二人とも寝ていなければ、戻ることもなさそうだ。さっきまでは寝ていた。だがこれは、中里の体だ。
「気持ちわりい」
 啓介は呟いた。他人の体など煩わしい。自分の体が一番だ。早く元に戻りたい。そう願えど、ただ時が過ぎるだけだった。頭は相変わらず、じくじくと痛む。啓介は目を閉じた。寝られそうにはないが、じっとしていよう。時間が経たないことには、何も変わらない。
 暗く淀んだ眠りだった。時折現実が認識され、そして失われ、地獄の底まで沈みこんでいるようで、地上に放り投げられているようでもあった。
 その眠りを破ったのは、突然耳に刺さってきた単調な電子音だった。啓介は布団の中から頭上へと手を伸ばし、音の元を探った。硬い物体が手に触れた。その上部についているスイッチらしきものを押すと、音が止まった、ように感じられたが、まだ鳴り響いていた。
 布団から頭を出し、自分が手に掴んでいるものを見る。時計だった。午前八時一分。
 このベルはたった今止めたはずだが、まだ電子音は鳴っている。
 啓介は今後の安眠のためにひとまず目覚まし時計のスイッチを切ると、ベッドから起き上がり、もう一つの音の元を探った。机の上に黒い携帯電話があり、小型の液晶部分が光っている。そのまんまかよ、と思いながら、掴んだままの目覚まし時計を元のサイドボードに置き、代わりに携帯電話を手に取って、開いた。よく知っている番号が表示されていた。三秒も置かず、啓介は通話ボタンを押した。
「アニキ?」
「啓介か?」
 ざらざらとした中から、よく知っている声が聞こえてくる。ああ、と啓介はベッドにうつ伏せになったまま答えた。「俺だよ」
「変わりはないか」
「ねえな。そっちは?」
「昨日のままだ。家には啓介がいる。だが啓介ではない」
 兄の声からは疲労が伝わってきた。啓介は兄を励まそうとして口を開いたが、何も言わずに口を閉じた。中里の声で兄と話すということに、今更たまらぬ嫌悪感を覚えた。
「それじゃあ、何か変わったことがあったら連絡をくれ。じゃあな」
 短い沈黙ののち、兄はそう言い通話を切った。その簡略さはいつも通りのようでもあったし、いつもより冷たいようでもあった。通話時間を表示している携帯電話を待ち受け画面に戻してから閉じ、それをテーブルに放り投げて、クソ、と啓介は枕に顔を埋めた。途端、鼻に受け入れがたい匂いが染み込んできて、慌てて仰向けになった。この男の体臭だろうか。とても嗅いでいたくはないものだ。
 布団を肩まで被り、しみの多い天井を見る。午前八時。そういえば、朝食はまだだ。思い至ると、とても腹が減っているように感じられた。昨日は夕飯も食べていない。啓介はベッドから起き上がり、改めて辺りを見回した。部屋の隅に大きめのビニール袋が置いてある。近づいて中を覗くと、カップラーメンの山だった。適当に二個取り出し、キッチンに向かう。ガス台に置かれたままのやかんに水を入れた。ガス台の火を点け湯をわかす。その間に、二つのカップヌードルのふたを途中まで開ける。
 湯がわくまで、ぼんやりと流し台に腰掛けていた。煙草吸いてえ、と思う。シャワーも浴びたい。だが、動く気力がなかった。とにかく腹が減っていた。やかんが高い音を上げる。ガス台の火を止め、やかんを持って二つのカップヌードルに同時に湯を注いだ。やかんはガス台に戻し、ふたを無理矢理手で閉じて、三分を頭で数えた。時間が経ったところでふたをすべて取り、食器かごに刺さっていた箸で一つずつ食べた。五分もかからなかった。
 汁まですべて飲んで、カップヌードルの容器は流し台に置き、啓介は風呂場に入った。体中がべたべたしている。シャワーはついていたが、ボタン一つで湯が出てくるような仕組みではなかった。以前転がり込んだ友人の家と同じだ。元栓を開けて手動で点火しなければならない。うんざりとした。狭い部屋、狭い風呂場。狭い脱衣所で服を脱ぎ、狭い洗い場に入る。湯が出てくるまで時間がかかった。せめてもの腹いせに出しっぱなしにして、頭を洗い、体も洗う。他人の体を洗っているような違和感がつきまとった。
 壁には顔と肩までしか入らない鏡がついていた。腰を落として顔を見る。首、胸、腹。悪くはない体だ。それほど緩んでいない。だが何か気に食わなかった。鏡にシャワーから飛び出る湯を当てた。それ以上鏡は見ないことにした。
 そこらにかかっていたバスタオルで体を拭き、全裸のまま部屋に戻る。さすがに何も着ていないと寒いので、チェストから下着だけ取り身につけ、啓介はベッドに腰掛けた。置き時計を見る。まだ午前八時半を過ぎたところだった。クソ、と呟きまたベッドに寝転ぶ。頭は相変わらず痛んだ。布団からは馴染まない匂いがする。啓介は目を閉じた。兄の声が頭をめぐった。兄に会いたかった。会って自分が自分でしかないことを証明したかった。だがその方法は思いつかなかった。自信が少しずつ崩れている。
 布団を頭から被り、眠ろうとした。目を閉じたままじっとしていると、頭痛が徐々に遠のいていった。
 映像がぐるぐると頭の中を巡る。兄の顔。中里の顔。「変わりはないか」、兄の声。母親の顔。父親の顔。自分の顔。変わりはない。顔を手で撫でる。感覚がない。どこにもつながっていない。そこには何もなかった。すべては暗闇に満ちていた。何も見えない。何にも触れられない。恐怖が足元から頭までのぼっていき、腹の底に落ち着いた。足が震え、手が震え、頬が震える。
 もう嫌だ、と声に出していた。
 その声にびくりとして、起き上がっていた。暗い辺りを見回す。寝る前と同じ部屋だった。中里毅の借家。寝言で目が覚めたのだった。啓介は首を手で拭った。べっとりと濡れていた。折角シャワーを浴びたというのに、ひどく汗をかいていた。
「……最悪」
 呟き、テーブルの上の携帯電話を手に取って開き、時間を見た。午後六時過ぎ。寝始めた時間を思い出せなかった。だが関節の固まり具合からいって、かなり眠っていたのだと把握された。頭痛は治まっていなかった。
 閉じた携帯電話をテーブルに戻し、ベッドの端に腰を落としたまま、どうすっかな、と啓介は考えた。やることがない。あくびを一つして、とりあえず立ち上がり、電気を点ける。
 何か面白いものはないだろうか。端から部屋を漁っていくことにした。ゲームはない。漫画もない。車雑誌は日産関係だらけ。うんざりする。テレビ台にはF1のビデオやDVDもあったが、今見たいとは思わなかった。白黒の邦画など尚更だ。諦めてまた寝ようかと思った時、奥にある何も記されていないビデオテープが目についた。新品のテープをわざわざ隠すようにしまっておくだろうか。
 とりあえずデッキに入れて再生してみる。最初は暗いまま、一分経たないうちに映像が始まった。唐突だった。寝ている女とその上に覆いかぶさっていく半裸の男。導入部のないアダルトビデオのようだった。女の着ているブラウスのボタンが男の指で外されていく。中から零れたむき出しの胸は大きかった。そもそも女は全体的に肉付きが良いようだった。デブ線か、と思いつつ、啓介はビデオをそのまま見続けた。AVを見て一発抜くくらいは許されるだろう。
 くんずほぐれつが始まり、女の鼻にかかった声が上がりだす。その気はなくとも自分のペニスが勃起していく。下着を脱ごうとして、ふと思った。
 これは、中里の体だ。
 だが思うだけだった。勃起している以上、射精しなければおさまらない。啓介はためらわずに下着を脱ぎ、刺激を欲しているものに触れた。いつも通りの感覚だった。自慰の最中はほとんど何も考えない。出せば落ち着くことを知っていた。自分の手が生み出す快感だけを追う。ビデオは目障りなほどだった。
「あー……」
 間延びした声が出た。ぞくりとした。頬がざわめく。何か、試したくなった。
「あ」
 脳の奥がじんとした。女のように声を高め、あえいでみる。出てくるのはあの男の声だった。聞こえてくるのはあの男の声だ。予想外に興奮した。声を出すことで興奮しているのか、その声を聞いていることで興奮しているのかは分からなかった。刺激はいつも通りだ。変わらない。手で規則的にしごく。腰の底に欲求が溜まっていく。ただ、自分で自分を慰めているのではないようにも感じられていた。声を出し続けていると、他人を――あの男を、手にしているような気になってくる。
 ティッシュの中に精液を放出させてしまうと、途端に興ざめした。ティッシュを丸めてゴミ箱に放り投げ、下着を上げる。
「……俺は変態か」
 ため息が出てきた。嗜好はノーマルだ。今もただの手淫だ。だが、自分が何か特別な意味を付与していたことは、ビデオの影響を差し引いても、射精へ至った時間の短さで察せられた。
「クソ、気分わりい」
 啓介は立ち上がり、チェストの服を漁った。出かけるなとは言われているが、こんな狭っ苦しい部屋で待機など土台無理な話だ。気が狂う。
 苛立ちながら啓介は次々チェストの引き出しを開けていった。どの中身も黒と白のオンパレードだった。あっても紺やグレーやベージュ。アクセントという概念を持っていないらしい。洒落てねえな、と思いながら、黒のセーターとベージュのジャケットを着て、白い靴下とストレートのブルージーンズを履いた。無難なところだろう。
 勘で髪を後ろに撫でつける。念のため携帯電話をジーンズのポケットに入れ、部屋の鍵らしきものも持った。どうせなら昼飯と夕飯も食おうと思い、テーブルの上に置いてある財布を取る。後でレシートを渡して金を払えばいいだろう。
 点けた電気を消し、スニーカーを履き、部屋から出て、鍵をかける。確か、昨日シビックに乗った時、この道の先にファミレスを見た。啓介は歩き出した。地に足がついていないような感覚があった。十歩ごとに、計三回つまづいた。

 十分ほど歩いたのち人通りの多い道に出て、啓介は舌打ちした。この道には定食屋やら弁当屋やら牛丼屋やらがあれども、ファミレスは一向に見当たらない。逆方向に歩いてきてしまったことは容易に推測できたが、認めるのが癪だった。別段ファミレスに限らず安く腹を満たせられる料理屋ならばどこでもいい。しかし道を間違えたから妥協するというのも癪に障る。啓介はともかく歩み続ける。手足は骨まで馴染んできたようだった。つまづくこともなくなった。そうすると、今度は頭がぼんやりとしてくる。自分ではない体が自分のものでしかないように感じられ、自分の存在が不明瞭になる。頭痛がする。
 もう嫌だ、現実で強く、そう思った。何もかもが疎ましく、厭わしく、腹立たしかった。啓介は数秒立ち止まり、家に戻ろうと決め、回れ右をした。途端、後ろから来ていた人間と正面から肩でぶつかった。
「すんません」
 即座に言ってぶつかった相手の横を通り過ぎると、ぶつかった側の肩を掴まれ引き戻された。
「おい、ぶつかったままかよ」
 見ると、顔によく肉の乗った馬面の男だった。その後ろに二人、犬のような面の男と猿のような面の男が立っている。いずれも動きやすくだらしのない服装だった。啓介は釈明をする前につい舌打ちをしており、馬面の男は、ああ?、と口を歪めた。覗いたその歯並びの致命的な悪さを見た途端、啓介の現状に対する苛立ちは耐えられる限界を超えた。
「謝ったじゃねえか」
「ああ?」
「うるせえんだよ、クソが」
 肩を掴んできている男の手をぞんざいに振り払い、前を進む。が、足を一歩踏み出したところで、再び男が同じ肩を掴んできた。
「おいコラてめえ、なめてんじゃねえぞ」
「てめえみてえなクソ、誰がなめるか」
 自分の意思で口を動かしても、喉を震わせても、男に浴びせているのは自分の言葉ではないような気がしていた。自分が言っているのではないような気がしていた。それは中里毅の声で、中里毅の言葉のようだった。かっと顔を赤くした男の体が動くのが見えた。反射的に、左に体を開いた。拳を突き出した男が、啓介のいた場所を通過し、無様にアスファルトに倒れた。風を近く感じ、あれ、と思った。奥にいる男が、戸惑いを多く反映した表情を浮かべながら、二の足を踏んでいた。啓介は迷わず残りの二人に背を向け、走った。家とは逆方向だった。
 一分も走らないうちに息が切れた。その間五回つまづいた。転倒はしなかった。まだ慣れていない。どこかほっとしていた。体力ねえのかよ、と思いながら、横断歩道手前の電信柱に背を預ける。呼吸を整えるのには、時間はかからなかった。回復力は高いのかもしれない。
「どうすっかな……」
 億劫さが声に漏れた。疲労が強い。頭が痛い。早く帰ってじっとしていたい。だが、今動くとどこかであの三人組と遭遇してしまうような気がした。何せ、家に帰ろうにも来た道を戻らねばならない。この街の作りを、完全に把握しているわけではないからだ。
 啓介は舌打ちし、顔を上げた。歩行者は少ない。目の前は古びた薬局だ。頭上へ目をやる。夜空は憎たらしいほど澄み渡り、星が鮮明に輝いており、空気はほこりっぽかった。ため息しか出てこなかった。首を回してごきりと鳴らし、しょうがねえ、と電信柱から背を離す。遭遇したら遭遇しただ、余計なトラブルを絶つこともできるだろう。来た道に足を向けたところで、横を過ぎかけた二人組の男と目が合った。うち一人の男の顔が、すぐさま綻んだ。
「あれ、タケシさん」
 親しげに笑いかけられている以上、無視するのも非道に思え、ああ、と啓介はただ頷いた。金髪を後ろでくくった男と、綺麗に頭をそり上げている男だ。どちらも彫りが深く、存在自体に威圧感があった。そのような男たちがにこやかに寄ってくる現象は、啓介の人生においてはなかなか生じない。
「珍しいですね、街で会うの。へえ、イメージ違うな」
 笑ったままの坊主頭の言葉に、そうか、とだけ啓介は感情を込めずに言った。タケシさん、と呼んでくるからには中里の知り合いだろうし、余計なことを口走れば何がしか怪しまれかねない。
「で、何やってんすか」
「何って……」
 何でここまで足を伸ばしてきたのか、改めて啓介は考え、五秒も経たないうちに思い出した。「飯を食いにだよ」
「奇遇っすね」、と金髪男が笑う。「俺らも飯食い行くんすよ、仙台」
「仙台?」
「あと観音見に。タケシさんも行きます?」
 何が奇遇なのか、なぜ観音なのかさっぱり分からなかったが、そもそも分かったところで中里の知り合いとなど行動するつもりもないので、いや、と啓介は簡潔に断った。そうすか、と金髪男は残念な風もまったくなく言い、じゃ、俺らはこれで、と片手を上げた。
「また山でよろしくっす。ゴシドウゴベンタツのほどを」
「……ああ」
「んじゃまた」
 坊主頭も続き、二人は未練もなさそうに啓介の横を過ぎて歩いて行った。啓介は来た道を戻るために足を踏み出した。腹がごろごろと鳴り続けるほどの空腹感が失われていた。疑われないということが、これほど不安を呼ぶとは思わなかった。歩くだけなら、つまづきもしない。殴られそうになっても、反応はできた。声を発しても驚かなくなった。
 慣れている。
 二の腕の裏がひりっとした。早歩きになっていた。認めたくはないが、認めるしかなかった。怖いのだ。自分がこの男の体に奪われてしまいそうな感覚がある。錯覚だと断ずるには、腹の底が冷えすぎていた。
 何より啓介が愕然としたのは、最早帰り道も覚えておらず、投げやりに歩いていたというのに、中里の家までたどり着いたことだった。記憶か勘か、どちらにせようまくいきすぎだった。疑念が頭の中に渦巻き、離れない。
 アパートの前に立ち、逡巡した。このまま部屋に入るか、それとも別の場所に行くか。この体のままで行ける場所などないことは分かっていた。だが、どこかに行きたかった。誰も何も知らない場所へ行けば、何でも通ずるような気がした。空想だった。思考は現実を無視しかけていた。だが、後ろから聞こえた砂を踏む音のために、急速に意識を引き戻された。振り向けば、そこには自分が立っていた。あまり驚かなかった。驚くよりも、何か納得していた。空想に浸り続けることはできないことを、いつでも啓介は何かに知らされていた。兄、仲間、空気、地面、時間。今回が、自分の体を操っていやがる、中里毅というだけのことだ。それは、ぎょっとしたのち、不満そうに、しかし困ったように黙ってこちらを窺ってくる。啓介は舌で上顎を舐めるだけにしてから、はっきりと声を出した。
「何やってんだ、お前」
「……お前こそ」
 俺は、と言って、啓介は迷いかけたが、飯食い行ったんだよ、と続けた。実際に食べてはいないが、食べようとして出かけたことは確かだ。そして付け足した。「そのくらいはいいだろ」
「ああ、まあ……」
「お前は?」
「あ?」
「何でわざわざここまで来てんだ。学校終わったのか」
「ああ、いや……歩いてたら、来ちまった」
 歯切れが悪い調子で、自分が答える。聞いたことのないような声に思えた。まだ、大丈夫だ。啓介はジーンズのポケットから部屋の鍵を取り出しながら、自分に背を向け、入れよ、と言った。
 俺の家じゃねえし。
 他人の部屋で他人のベッドに腰をかけながら、他人の床にあぐらをかいてじっと座っている自分の姿を眺めてみると、なるほど男前に思えた。鏡で見るだけと実物を見るのとは、やはり違う。造りの安定感と均等性、端整さは動きのある全身をもってして感じられるものだ。だが、自分の姿を男前だと思ったところで、何が始まるわけでも何が変わるわけでもなかった。第一、今やそれは中里が持ち主だった。おそらく、自分がその体を使っている時とは、見え方はまた違うのだろう。
 部屋に入ってから、中里は借りてきた猫のようにひっそりとしていた。俯いたまま動かない。だから啓介はその自分の姿を観察できたわけだが、他人が使っている自分の体など何十分も眺めているものでもなかった。
「お前の家だろ」
 啓介が言うと、またぎょっとしたように中里は見てくる。自分の険しい顔を真正面から見ることには強い違和感があり、言葉を続ける時には顔を逸らしていた。
「もっとくつろげばいいんじゃねえの。そうしたくねえなら別にいいけどよ」
 出かけた時に煙草を買えば良かった、と啓介は後悔した。この部屋にあるものは、なるべく使いたくはなかった。いや、と中里の声がする。それは自分の声のはずだった。今の自分の声は、自分の声ではない。中里の声だ。だが、中里は今、その声を出した。啓介は舌打ちして、頭を掻いた。脳の奥に釘が刺さっているような痛みがある。長時間考えることは辛い。それでも認知の狂いを自我がいちいち正そうとする。そして混乱し、頭痛がひどくなる。嫌な堂々巡りだ。
「……何だかな」
 人の気も知らないような呑気な声がして、啓介は声を出した男を睨んだ。それが自分であることを、今度は疑わないようにした。自分に睨まれた自分は、小難しそうな顔になった。
「自分を前にして、自分が自分じゃねえってのは……妙な感じだぜ」
 今更何言ってんだこいつは、と思ったが、そうか、とだけ啓介は言った。余計なことはしない、という選択が身についているようだった。自分らしくない。唐突にむかっときて、啓介はベッドに寝転がった。中里に背を向け、横になる。ジャケットがしわになるだろうが、構いたくなかった。中里は何も言わない。啓介は目をつむった。このまま眠ってしまいたかった。眠れば考えることもないし、痛みも忘れられる。
「正直言うとだ」
 誰かの声がした。啓介はそれに関与しなかった。
「俺は、お前に憧れてたよ。羨ましかった。いや、今でも羨ましいっちゃあ羨ましい面がある、FRでそこまでの速さを持てるってのが……その上、女の子にまでモテて……」
 苦々しげな声が尻すぼみに消える。憤りと羞恥だけがその声から伝わってきた。非難されるのだろう。だが何を誰に言われようとどうでもよかった。目を閉じた啓介の視界は暗闇の中ぐらぐらと揺れていた。
「でもお前になりてえとまでは、思ってなかった」
 その瞬間、揺れがぴたりと止まった。目を開く。壁が見える。
「俺にはお前は無理だぜ、高橋」
 まず喉だった。それから胸、腹と、順々に熱が下りてきた。焼けた鉄棒で喉から胃までを突き刺されているようだった。そこでようやく、頭まで血が上った。ふざけるな、と思った。そして跳ね起きた。ふざけたことを言った自分を見ると、眉根を寄せながら目を見開いていた。見た瞬間、威嚇されていると思い、すぐに違うと分かった。発している雰囲気が動揺に満ちていたからだ。突然勢い良く身を起こしたから、単に驚いたのだろう。臓物が怒りで煮え上がっているようだったが、熱は口までは出てこず、言葉を荒らすことには至らなかった。
「当たり前だろ」
 感情を入れたくはなかった。腹に力を込めれば、いつもは天まで通るような声が出る。だが、今はわずかに震えた。それはこの男の喉の構造のためかもしれなかった。まだ違うのだと実感できた。
「ああ」
 自分が――中里が俯き、ゆっくりと頷く。深刻な顔だった。少しだけ、安心した。無理だなどと、言うまでもないことだ。無理でなければならないのだ。もし、中里が自分として、高橋啓介として生活をまっとうできるのならば、元の自分は何だというのか。もし、自分が中里として生活をまっとうできるのならば、では自分は何だというのか、中里は何だというのか。無理でなければならないのだ。自分の根っこが腐るような結果は、出してはならない。それを互いに了解していれば、自分を放棄はしないだろう。
 やがて中里は立ち上がった。重力を知らしめるようにのっそりと、そして視線を数秒こちらに寄越してから、玄関へと体を向けた。
「俺は行く」
 男の声に、ああ、と啓介は返した。その男は帰るのでも戻るのでもなく、ここから行った。その体が壁の向こうに消えていき、しばらくののち玄関のドアの開閉音がした。それを聞いた瞬間、口まで熱さが上ってきた。
 あの男は行った。自分はここにいる。自分の体は奪われている。自分はあの男を奪っている。誰もそんなことは望んではいない。
 俺は望んでなかったか?
 俺は望んでない。俺は俺じゃなけりゃ、どうしようもない。
 俺は誰にもなりたくなんかなかった。あいつも俺になりたくはなかった。
 本当か?
 何が本当だ。本当ってのは何だ。
 一瞬でも、抜け出したくはなかったか?
 多分。
 じゃあ何でこんなことになっている?
「知るかよ」
 呟いて、啓介は再びベッドに寝転がった。鼻の奥が熱かった。頭の奥も熱かった。痛みはあるのかないのか分からなかった。空腹感だけが現実的だった。目をつむると、ぐうっと胸が詰まった。だが、涙は出てこなかった。



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