断片を打ち砕く 1/3
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 忘れたいことほど、いつまでも覚えている。思い出さずにはいられなくなる。それは、あるいは、忘れたくないからかもしれない。忘れられたくないからかもしれない。



 ◆ ◇ ◆



「大したことじゃねえよ、こんなこと。忘れちまえ」
「何だ、てめえは」
「暇つぶしだ。暇つぶし。約束なんて、しなけりゃよかったんだ」
「何なんだよ」
「つまんねえことばっかだ。俺とあんたのことじゃねえのに」
「何なんだ」
「クソ、誰も来ねえな」
「こんなこと、何だ、こんな」
「忘れろ。忘れちまえ、クソ、チームがどうとか言ってたか? チーム? 入るよ。それで、忘れちまえ。くだらねえんだから」
「チーム」
「知らないぜ、俺は、あんたのことも、ここも。ここは、地元だ。俺の。昼間よく来た。夜中に勝手なことしてやがって」
「ステッカーを、後で、やる。それを貼れ。お前の、EG−6に。それで、ナイトキッズだ」
「ナイトキッズ」
「ああ」
「だせえ名前だ。センスがねえ。考えた奴の程度が分かる」
「明日また、来い。帰れ」
「ああ。帰るさ。帰る」
「帰れよ」
「あんたに言われることじゃねえんだ」



 ◆ ◇ ◆



 まだ、電気を点けるほどの暗さではなかった。慎吾はベッドに仰向けになり、煙草を咥えながら、週刊誌を読んでいた。一年前のもので、既にテレビで見かけなくなったタレントがどうのと書かれているが、官能小説は色褪せない。自慰をしようかどうか、考えていた。煙草はまだ長い。小説は、口淫だけで終わっている。それほど勃起もしていない。どうせなら、動画を見ながらの方が早くできる。どうしようかと、考えていた。出勤まで時間はある。今日は遅番だ。
 雑誌を胸に置いて、煙草を一つ吸い、指に移す。煙を天井に向かって吐き出すと、何もかも、面倒になった。煙草を吸うことすら億劫だ。だが、火を消すのも億劫だった。
 そんな怠惰な気分が、静かな部屋を叩き割るような音に、壊された。ドアチャイムが鳴らされた。煙草を挟んでいた指を、動かしていた。灰が、週刊誌に落ちた。舌打ちしていた。苛立ちが、電気となって筋肉を動かした。クソ、と呟き、ベッドから起き上がって、週刊誌を床に放り投げ、灰の崩れた煙草をテーブルの上の灰皿にひねり潰す。居留守を使ってもよかったが、それよりも突然の訪問者に、不愉快さを押しつけてやりたかった。
 下着のまま、玄関に向かい、ドアスコープを見る。途端、慎吾は顔をしかめ、すぐにドアを開けた。
「よお」
 ドアスコープで確認した通りの男が、目の前に立っていた。黒いジャンパーにジーンズ。二週間と五日、連絡のなかった男だ。いつも通りのようで、違った。短めの髪は、一つも整えられておらず、ただでさえ削げている頬は、こけていて、やつれ顔には無精ひげがあった。大ぶりの目は充血していて、太い眉の周りには、何かこわいものが浮かんでいる。
「どうした」
 ドアを開けたまま、慎吾は尋ねていた。普通の状態ではなかった。そもそも、この男がこうして、ふらりと自分の家にやって来ることなど、今までなかった。いつでも事前に連絡を寄越し、人の都合を確認するのが中里毅という男だった。慎吾は、気が向いた時にしか確認しない。だから、慎吾が中里の家に行くことの方が、多かった。
 ともかく、珍奇な事態だった。
「入っても、いいか」
 充血した目を居心地悪そうにさまよわせ、中里は言った。声がかすれている。その全身から、疲労感が漂っていた。ああ、と慎吾は身をよけた。
 この部屋に中里は、何度も上げている。泊めたこともある。いつも、飯を食って、時に酒を飲み、適当なことを喋るだけだ。自分もこの男も走り屋で、同じチームに所属しているから、走り終えた後など、そんな風に一緒に過ごす時間をもったことがあった。秋が終わる頃からだ。冬、峠も危うくなり、走る機会がなくなっても、週に一度くらいは会っていた。一月が過ぎて、二月に入ってから、連絡が途絶えた。二週間と五日。一週間前、慎吾は一度中里の部屋に行った。夜だ。留守だった。二時間待った。中里は、帰らなかった。それからは行っていない。したがって、会うのも二週間と五日ぶりだった。
「車じゃねえだろ。どうした、わざわざ」
 ベッドの端に腰掛けた中里に、冷蔵庫から出した缶ビールを投げてやりながら尋ねる。この男の特徴的な車のエンジン音は聞こえなかった。日産スカイラインR32GT−R。片手で缶を受け取った中里は、いや、と言うだけだった。黙ったまま、缶を両手でもてあそんでいる。
「俺、もうちょっとしたら仕事だからよ。夜中まで帰らねえし、いたけりゃいくらでもいていいけど、どうする」
 中里は、何も答えない。慎吾は立ったまま十秒ほど待ち、シャワー浴びるぜ、俺は、と言って、部屋の隅に干しっぱなしの下着を取った。
「会社がつぶれた」
 振り向いた先、中里は、俯いていた。声を発したように見えなかった。
「何?」
「会社が潰れた」、と中里は言った。確かにそれは、中里が言ったようだった。
「潰れた?」
「社長が、金、使い込んでたらしい。それで、色々、こっちも対応とかあってよ」
 俯いたまま呟くように言った中里が、顔を上げ、何かを確かめるように、慎吾を見た。慎吾はパンツを手に持ったまま、そうか、と言った。中里は、つまり、この二週間と五日の間のいつかに、職を失ったということだ。それならば、連絡がなかったのも、夜にもその自宅に帰らぬことがあったのも、頷ける。無精ひげを蓄えて、やつれきった風貌になっていることも、頷けた。
 だが、なぜこの男は、今、ここにいる? 何てことを、やってるんだ?
「仕事、探さねえと」
 再び俯き、ぽつりと中里は言った。他人の存在を認めている口調ではなかった。完全な独り言だった。慎吾はパンツを握り締めた。何やら唐突に、腹の底が、煮立った。存在だけが明確な、怒りが生じた。
「探さなくてもいいんじゃねえの」
 パンツを握りながら立ったまま、慎吾は言った。中里を見ていた。中里は、しかめた顔を慎吾に向けてきた。
「あ?」
「俺といれば」
 口が勝手に動いていた。中里は、ますます顔をしかめた。
「何言ってんだ、お前」
 何言ってんだ、俺は、と、慎吾は思った。妙に自己主張の強い怒りがあった。すべて否定して回りたいような、反逆的な怒りだ。それが、腹の底でくすぶっている。口が、勝手に動く。
「俺が養ってやるよ。お前もRも」
 中里の顔から、不可解さによる緊張が一挙に消え、代わりに憤りによる緊張が浮いたのが分かった。充血している目は、憤怒をたたえていた。
「ふざけるなよ」
 声はかすれている。慎吾は笑っていた。自分が馬鹿げたことを言っているのは、分かっていた。筋道などありはしない。ふざけてもいない。ただ、腹の底のくすぶりが、勝手に言っているだけのことだ。けれども、それを、まともに言っているらしい自分が、おかしかった。それを、からかいと真面目に受けているこの男も、おかしかった。にやにやとしながら、慎吾は言った。
「ここにいろよ、お前」
「自分の言ってること、分かってんのか、慎吾」
 そう言う中里が、蔑んできていることも、分かっていた。自分の言ってること? 分かってるに決まってんだろ、と慎吾は思った。思うとまた卒然、何もかも、くだらなく感じられた。にやにやしていることも、億劫になり、表情というものを作るのも、面倒になった。手で握り締めたパンツを見ながら、そして慎吾は言った。
「ここにいろ」
 言うと、途端にまた、おかしくなってきた。一つ笑って、中里を見た。
「ここにいろよ」
 中里の顔から、血の気が引いたのが分かった。唇を一瞬、変に曲げた中里は、だがすぐに戻して、開けていない缶ビールをテーブルに叩きつけるように置くと、にわかにベッドから腰を上げた。
「帰るぜ」
 言うが早いか、中里は玄関へと向かおうとした。握っていたパンツを床に投げ捨て、慎吾は中里が一歩半進んだところで、右の前腕を掴み、引き止めた。中里が振り向いた。顔が、痛そうにしかめられている。
「何だ、その面」
 不愉快そうに、中里が言った。聞かれても、自分が今、どんな顔をしているのか、よく分からなかった。笑っているような気もするし、何もしていないような気もする。どちらでもよかった。自分の顔より、中里の顔の方が気になった。
「帰るのは、早すぎるだろ」
 自分の声は笑っていた。中里の目に、顔に、電撃のように憤怒が走った。
「俺は、お前の世話になるつもりはねえ」
 振り払ってこようとした腕を、骨の感触が分かるまで握り締める。中里が、また痛そうに顔をしかめた。眉間が強張り、頬が強張り、目元が、泣きそうに強張る。それが分かる。記憶を鉤爪で引っかかれたようだった。力が加減できなかった。何もかも、脳味噌から剥がせないようにしたかった。
「Rなんて、捨てちまえ」
 囁いていた。中里の顔から、再び血の気が引いたのが分かった。分かってすぐ、目の前に火花が散った。鼻を中心とした顔面に、重さと、熱さ、続いて鈍い痛みがやってきた。鼻っ面を殴られていた。掴んでいた腕は、離さざるを得なかった。
「ふざけんじゃねえぞ、てめえ」
 殴られた勢いで、床に倒れたところに、叫ぼうとして失敗したような、耳障りな声が降ってきた。慎吾は横になったまま、顔を向けた先にある、ベッドの下を見ていた。雑誌、ゴミ、工具箱、ダンボール箱。道具はいくらでもある。
「……おい」
 窺ってくるような声だ。慎吾は動かなかった。顔の中心が熱い。鼻の奥から、液体が流れ出ているのが分かる。口から鼻にかけてが、鉄くさかった。血だろう。頬に垂れ、カーペットに染みていく。どうでもよかった。
「おい、慎吾」
 降ってくる声は、焦りを含み出した。肩に、他人の手が触れた。揺さぶられると、突然、顔の痛みも揺さぶってきている男の存在も、何もかも、腹立たしくなった。肩にかけられた手を払いながら、仰向けになると同時に、右手を伸ばす。こちらをしゃがんで覗き込んでいた中里の首を、掴んだ。手に思い切り力を入れる。確実に中里の首を絞めていた。絞めたまま、体勢を入れ替える。上になって、そのまま右手だけで、首を絞め続けた。右の膝は腹に乗せ、肋骨を圧迫してやる。みしみしと音が聞こえるようだった。
「ぐ、……がっ……」
 顔を真っ赤にした中里が、腕を掴んでくる。自分の鼻血は、それよりくっきりとした赤さで中里の頬上を流れた。服越しに、爪を立てられた。慎吾は力を緩めなかった。骨と肉の動く感触が、右手から伝わってくる。中里の目が、焦点を失ったように揺れた。慎吾は、手を離した。中里は喉を押さえながら、横になって、咳き込んだ。
「げほ、げっ、げえ……」
 こちらまでえづいてしまいそうな、苦しげな声を出す。腹立たしかった。この男の存在が、腹立たしかった。目の前でのたうつ姿など、鬱陶しいことこの上なかった。慎吾はベッドの下に腕を入れ、ダンボール箱を引き出した。適当なものを入れてある。蓋はしていない。ボルト、スパナ、ドライバー、紙、マッチ、輪ゴム、ロープ、粘着テープ、ナイフ。中から、粘着テープを取った。横になっている中里を、うつ伏せにして、太ももの裏に足側を向いて乗る。鼻血をぬぐってから、両の膝から下を脇に抱え、靴下を脱がせて、粘着テープで素肌の両足首をまとめて何重にも巻いた。太ももを踏みつけながら、頭側を向く。尻に乗った。股間を擦りつけてやろうかと思ったが、やめた。そんなことはどうでもいいし、膝を叩かれた。肩甲骨に拳を落とすと、中里は動きを止めた。ジャンパーの襟首を掴み、引き下ろす。前は開いているから、腕まで脱げる。手首で絡まった。すぼまっている。背中にあった。中里は両手をジャンパーから出そうとしている。出して、両手を自由に使おうとしている。その前に、両手首も粘着テープで括ってやった。それから、ジャンパーを脱がせ、それは後ろに放り投げ、指にも粘着テープを巻いた。しばらくは剥がれないはずだった。外れた車のバンパーもくっつけていられるものだ。ついでに、騒がしい口もテープでふさいだ。またがっていた尻から立って、わき腹を蹴り、仰向けにさせてやる。
 中里は、鼻で呼吸を取っていた。息は荒い。目が、見開かれている。血走っている。濡れてもいる。問うてきている目だった。何をしているのかと。鬱陶しい目だった。相変わらずだ。人の脳内に勝手に入り込んでくる。初めて会った時と、まるきり変わらない。
 その髪を掴んで、引きずった。ベッドの足に寄せる。中里は呻いていた。慎吾を睨んでいた。その睨みを受けながら、慎吾はしゃがみ、中里の首を、粘着テープでベッドの足に固めた。テープを手で切り、立ち上がる。見下ろした中里の呼吸は、先ほどより荒くなっていた。首には通常ではありえない圧力がかかっている。後頭部は金属製のパイプに預けざるを得ない。柔らかい枕ではない。腕は強引に後ろ手に固めてある。苦しさは相当のはずだ。中里は呻いている。何かを言いたそうだった。何を言いたいのかは分からない。テープが口をふさいでいる。ふさいでやった。
 慎吾は立ったまま、テーブルの上の煙草の箱を取った。箱から煙草を出さずに、テーブルに投げて戻した。ついでに開けられなかった缶ビールも取り、鼻をすする。変わらず鉄くさいが、鼻血は止まっていた。血が、頬と口にこびりついているのが分かる。手で口を拭うと、実際、半分乾いた血がついた。中里を見る。まだ、こちらを見上げてきていた。涙が頬を伝っていた。だが、泣き顔とはいえない。首を絞められれば、誰でも何かは出すだろう。鼻水も出ているかもしれない。小便も。どうでもいいことだ。動かなくなりさえすればいい。気が済んだ。慎吾は粘着テープを戻したダンボール箱をベッドの下に蹴り滑らせてから、床に投げ捨てたパンツを拾い、冷蔵庫に缶ビールをしまい、風呂場に行った。
 鏡に映った自分の裸身を点検する。痛いのは顔と、爪を立てられた腕と、叩かれた膝だ。腕と膝は大した傷ではない。問題は顔だった。殴られたとはっきり分かるほど、赤く腫れている。ホールに出るには見栄えの悪い顔だ。シャワーから湯を浴びると、鼻血が再び出てきた。血液の循環が良くなったせいかもしれない。
 痛みはある。顔、腕、膝。だがもう、痛みは痛みでしかなかった。痛いが、それで何かをどうしたいとは思わない。中里に殴られた。殴られたからといって、何だ?
 俺は何をしてるんだ?
 風呂場の壁に手をつき、湯を浴びたまま、自問した。自答する。中里の首を絞めて、縛ってやった。それがどうした? 殴られたのだ、殺してはいないし、縛るくらい、どうということはないだろう。何であいつは殴ってきた? ふざけていると思われた。ふざけていると思われたのか? 俺はふざけたか? ここにいろと言った。養ってやると。職を失ったと、中里が言ったからだ。養ってやる。できないことではない。一つの方法を提示しただけだ。ふざけたのとは違う。ただ、あの強情さ以外にとりえのない男に、そういった生活能力を否定するようなことを言えば、最低限で最低で、最高なとりえを出してくるということは、想定できた。出会って間もない頃は、何かむしゃくしゃしている時など気晴らしに、そうやって幾度もあの男に意地を張らせて、蔑んでやったことがある。だから言った。怒らせようとした。苦しめようとした。連絡も寄越さずに、突然来て、無職になったので仕事を探さなければならないなどと、誰に言うまでもなく明らかなことを、人の仕事前の怠惰で快適な時間をぶち壊した挙句言ってくるような男に、親切を働いてやる気は、起こらなかった。ふざけてはいなかった。本気だった。腹立たしかった。理不尽さを味わわせてやりたくなった。それだけだ。
 唾を吐いた。血は混じっていない。顔を湯で洗う。血はおさまったようだった。鼻にも歯にも、鈍い痛みがあるが、折れてはいないらしい。中里に殴られたことはこれまでない。短気だが、暴力沙汰は嫌う男だった。あの男が自分からできるのは、せいぜい胸倉を掴むまでだ。人に殴られないと、人は殴らない。慎吾は中里を殴ったことがない。小突いたことや、叩いたことや、軽く蹴ったことはある。だが本気で殴ったことはない。だから殴られたことはなかった。それが、さっき、殴られた。Rなんて捨てちまえ。そう言った。それで、殴られた。それで殴られたのか? その前のことで、殴られたのか? すべてかもしれない。馬鹿にしてやった。だが、本気だった。一つも思っていないことは、言えない。
 慎吾は浴室から出た。タオルで体を拭きながら、次々に思った。殴られたから何だ。縛ったからどうした。こっちは仕事がある。養わねばならない。中里とGT−R。Rを捨てさせれば中里だけでいい。俺は本気か? できないことではない。正社員で給料は相応に貰っている。貯金もある。酒と煙草を減らせば一人分の食費くらいは出る。いくらかは稼がせてやってもいいかもしれない。養うだって? そんなことをしてやるほどの仲ではない。そんな仲ではない。同じ走り屋で、同じチームに属している、仲間というだけだ。何十回も会っている。何回も互いの車に乗っている。だが、友人ですらない。養うだって? 下着を身につけながら、思う。とりあえず、仕事に行かねばならない。
 部屋に戻ると、中里は、まだベッドの足に首をもたれさせていた。テープは剥がせていない。少し、がっかりした。期待外れの感覚だった。何にだ、と考えながら、床に置いてあるティッシュを取って鼻腔を拭いた。何でがっかりする。俺が。考えても、ぴんとはこなかった。本当に自分ががっかりしたのかも、分からなくなった。どうせ、どうでもいいことだ。考えるのはやめて、ティッシュを丸めてゴミ箱に投げた。入った。それから、救急箱を棚から出して、ベッドの横の壁にかけてある鏡を見ながら、鼻に湿布を貼り、上からテープで押さえた。匂いがきついが、鼻を強打した人間にしか見えないので、良しとする。
 救急箱を棚にしまい、じっとしている中里の傍に歩み寄り、しゃがんだ。中里は変わらず睨んでくる。それしかやることがないようだった。呼吸は苦しそうだ。口に貼ってあるテープを剥がしてやった。性急すぎたようで、中里は痛そうな声を上げ、咳き込んで、鼻をすすった。顔がしかめられ、目が閉じられる。涙と血でわずかに濡れているその頬を指で拭いてやると、嫌そうに顔を逸らし、
「何してんだ、てめえ」
 来た当初よりはるかにかすれた声で、問うてきた。開いた目で、再び睨まれる。慎吾は剥がした粘着テープを畳み、ゴミ箱に投げた。入った。壁にかけている時計を見る。出勤までまだまだ間がある。随分緩慢に時間が流れているように感じられた。中里に目を戻す。変わらない様相だった。テープを貼ったあとがくっきりと赤くなっており、頬も鼻の下も唇の周りも濡れて光っている。みっともない顔貌だった。
「俺、これから仕事なんだけどよ」
 湿布の上から触れるだけでも痛む鼻を見せつけるように指で撫でながら、言った。中里が、目を逸らした。荒っぽいながらも、暴力沙汰は好かない男だった。他人の精神をいくら侵しても、それは確実な傷として視認のできることではない。肉体は違う。中里は、見て分かるものを優先する。だから、自分が他人につけた傷を目にすると、正当防衛だろうが、こうして弱まる。くだらない。慎吾は舌打ちして、違和感があったので一度鼻をすすり、立ち上がった。立ち上がったところで、やることはなかった。別に、こうして中里を縛り続けておく必要もない。苦しめて、理不尽に動けなくしてやって、気は済んだ。これ以上ここにいられても、目障りなだけだ。だが、解放してやるのも、ためらわれた。縛ってしまった。深い意味はない。だが、もう、縛ってしまっている。解けば、すべて変わる。現状維持が最も平穏だ。変わりたくはない。変わる気など更々ない。変える気もない。養う気もなかった。養おうと思えば養える。それだけだ。そうする必要もない。縛っておく必要もない。だが、やってしまった。言ってしまった。何もなかったことにはできない。したくない。もう既に、一つそうしていて、それから何もない時でも苛つくようになった。これ以上似たようなことを重ねると、気が狂ってしまいそうだ。煙草を改めて吸いながら、床にいる中里をよけて、自分の部屋をうろつく。うんざりする。何でこんなことになってんだ?
 まだ長い煙草をテーブルの灰皿にひねり潰して、ベッドの下からもう一度ダンボール箱を引っ張り出した。ロープ一本で全身を縛ってしまえば解きにくい。だが、そんなことは億劫だ。主要な部分だけ戒められればいい。ロープの切れ端数本と、ナイフを手にした。手のひらサイズのバタフライナイフ。人を刺そうとしてきた馬鹿から奪ってやった。捨てる場所もないのでここにぶち込んだ。持ち歩くこともない。十徳ナイフの方が便利だ。
 段ボール箱をベッドの下に一旦戻し、中里の顔の横にしゃがむ。手首を返してナイフの刃を出すと、中里は顔を青ざめさせた。
「おい」
 震えた声がした。慎吾はナイフの刃を目の前に掲げ見た。まばらに錆びている。刃先は大丈夫そうだ。テープを巻いた中里の首に、刃の先端を当てた。中里の喉が小さく鳴った。目を見開いている。これほど眼球が剥き出された姿は見たことがない。怯えが顔の皮膚に満ちている。恐怖が筋肉を痙攣させている。声も出せないらしい様相だった。意思の疎通も何もなかった。くだらない。ため息を吐き、慎吾はテープに刃先を滑らせ、ベッドの足と中里の首との隙間に差し込み、一直線にテープを切った。切った端からナイフを持ったままテープを剥がす。中里が呻く。テープをすべて剥がし終えると、中里は後頭部をベッドの足から床まで滑らせた。荒く息をする。目が半開きになった。睨んではこない。天井を見ている。
「刺すと思ったか?」
 刃を出したままのナイフを目の前で振る。中里が、目を向けてきた。体が動く。起き上がられる前に、顎の下をロープでくくり、端をベッドヘッドのパイプにつないだ。床には寝られるが、立ち上がれない。その程度の長さだ。ロープと首とにほとんど隙間は作らなかったが、鬱血しそうな様子はなかった。自分から体重をかけない限りは、血流は止まらないだろう。自殺はできる。その程度の長さだ。
 何回かロープを引っ張って強度を確認してから、中里の腹にまたがった。テープで首をくくっていた時よりは楽そうに呼吸している。ナイフを喉元に突きつけると、変わらず呼吸は浅くなる。学習能力のない男だった。刺すならとっくに刺している。
「俺が刺すって、お前を。お前を殺す。そう思ったか。殺す? そんなことして何になる。お前を殺して俺に何の得があるってんだ。バカくせえ。もう少し、頭使えよ」
 中里を見ながら、言った。中里は、じっと見返してくる。目を泳がせないようにしている努力が、伝わってくる。顔面筋が不可解そうに痙攣している。まだ、怯えている。何を言っても無駄なようだった。このまま放っておけば、少しは思考能力が戻るかもしれない。壁にかけている時計を見る。まだ出勤まで時間がある。中里を見る。呼吸が落ち着いてきている。こいつは逃げるだろうか? 逃げられるだろうか。逃がしていいのか? まだだ。まだ、意味をつけられない。もっと時間が必要だ。でなければ、この出来事は、どうとも始末のできない印象だけを残す。そんなものは余計だ。まだ、逃げられるわけにはいかない。
 慎吾は左手で中里のシャツの襟ぐりを持ち、右手に握ったナイフで布地を裾まで一直線に切った。動くと肌に刃先が触れると分かっているのか、中里は硬直していた。胸から腹まで、素肌が見える。筋肉の上に脂肪が乗り、その上に皮膚が乗り、毛が乗っている。特別引き締まっても、緩んでも、やつれてもいない。くすんだ色の乳首がわずかに出ている。今まで見たことのないものだった。中里の、むき出しの腹、胸。見ていると、これから自分たちに起こる変化が無限に思えてきて、頭痛がしそうになった。慎吾は頭を振り、気を切り替えた。ナイフの刃を出したまま、中里のジーンズのボタンを外す。ファスナーを下ろし、ジーンズと下着を合わせて足から引きずり下ろした。中里は、若干抵抗したが、強く動きはしなかった。動いたらどこかにナイフの刃が刺さるかもしれない危険性を、感じ続けているのだろう。あるいは刺される危険性だろうか。自分のやってきたことだが、いかれた奴だと見なされているようで、ますますうんざりしてしまう。うんざりしたまま、テープで括っているため足首で絡まったジーンズを、足にまたがってテープを切ることで抜き取る。それから、テープを肌から剥がして、ロープで縛り直した。両足首は完全につけなかった。物を挟み取れるだけの空間を作る。恐れがあった。完璧にして逃げ出されるより、不完全にして逃げ出される方が、言い訳がつく。逃げられるわけにはいかない。だが、このままこうして縛っておきたいわけでもない。どっちつかずの自分が、そういう余裕を持たせることを望んだ。
 一旦中里の足から立ち上がり、抜き取ったジーンズのポケットを探る。何もない。ベッドに投げた。床にはまだ、先ほど脱がせたままのジャンパーが落ちている。それを拾って、ジーンズと同じようにポケットを探った。携帯電話と財布がある。中は見ずに、ポケットに戻して、ジャンパーはハンガーに窓際に吊るした。それから、中里を見下ろした。上には前を切り開かれたシャツ、下は剥き出した。ペニスが惨めに縮こまっているのが見て取れた。陰嚢も縮まってそうだ。少しだけ、何か気分は良かったが、同時に、何てザマだ、とも思った。みっともないマネしやがって。
「慎吾」
 中里が、真っ直ぐこちらを見上げて言ってくる。目は変わらず充血している。鼻をすすって、言う。
「何を、するんだ」
 そして、言葉の選び方を間違ったかのように、中里は薄い後悔を顔に浮かべた。何をする? 慎吾はまた壁にかけている時計を見た。時間が残っている。右手にナイフを持ったまま、再び中里を向き、足の先でわき腹を小突いた。
「後ろ向けよ」
「何がしてえんだよ、お前」
「うつ伏せになれって。分かんねえか。どこまでバカだ」
「慎吾」
 こちらを睨み上げてきながら、鼻が詰まったような、必死な声を、中里が出す。苛立ちが額に走ってきて、慎吾は小突いたわき腹の同じ位置を、今度は蹴った。
「お前は鬱陶しいんだよ、毅」
 鼻をすすった中里は、視線を下に向けてから、もぞもぞと足を動かし、うつ伏せになった。唐突に、胃に空虚さが生じた。慎吾はそれをため息で吐き出し、中里のシャツも後ろから脱がせた。手首で止まる。もう一度ため息をつき、ロープで手首を括ってから、手全体を覆っていたテープを隙間からナイフで切って剥がし、シャツを完全に脱がす。ボタンのない前開きの黒いシャツになっていた。洒落ている。勘違いが好きなナルシスト野郎が着てそうだ。それもベッドに放り投げ、剥がしたテープをまとめてゴミ箱に放り投げた。入らなかった。そのままにした。時計を見る。支度をして丁度良い時間になっていた。
 ナイフも余ったロープも、テーブルの上に置いた。それから、アルミラックに半端にかかっているジーンズを履き、シャツを着て、パーカーをかぶる。服の生地に触れた鼻に痛みが走り、腹立たしさもわいた。痛みに対する腹立たしさだった。自分の肉体に対する腹立たしさだった。この程度で、痛がってんじゃねえ、クソったれ。
「何で」
「あ?」
 自分に集中しており、他人の声がするとは思ってもいなかった。咄嗟に慎吾は頓狂な声を上げ、声のした方を向いた。中里が、裸でうつ伏せになっている。首と後ろ手と足首が縛られている。当然だ。自分が縛ってやった。
「何でお前、こんなこと」
 鼻声だ。かすれてもいる。当然だ。首を絞めた。喉は傷つくだろうし、体液だって溢れ出るだろう。当然だと思った。中里が裸で縛られうつ伏せになっていることも、当然だと思えた。ただ、根本的なことが、曖昧だった。
 何でこいつは、ここにいる?
「俺が、お前に、何をした。何をしちまった」
 中里は、うつ伏せになったまま、首をねじって苦しげにこちらを見上げていた。まるきり被害者の様相だった。そのくせ、たった今、罪悪感を含んだ哀れな言葉を吐いた。慎吾はその横にしゃがみ、肩の下に手を入れ、体を仰向けさせた。真っ直ぐ、顔が合う。睨みやすいはずだったが、中里は先ほどのように、睨んではこなかった。見上げてくるだけだ。怯えたように。それは、明確な怯えに満ちた顔貌だった。ナイフはテーブルの上に置いた。今すぐ刺されるという恐怖はないはずだ。刺すことはないと、否定もした。では、殴られる恐怖か。蹴られる恐怖か。確かに膝を殴られたから背中を殴り、言うことを聞かないからわき腹を蹴った。だが、骨を痛めるほどの力は含んでいない。それでも、傷つけられる恐怖があるのか。今、慎吾は何ら構えていない。暴力をふるう気はないから、その雰囲気も発していないはずだった。面倒なのだ。仕事に行かねばならない。考えていることといえば、そのくらいだ。だというのに、中里はまだ、怯えている。本能的な反射には見えなかった。自分の生命を脅かすものに対して恐怖を抱いているのではないようだった。本能でないなら、思考だ。想像力だ。想像が恐怖をもたらしている。恐怖をもたらす行為をされるという想像が、今、この男に、恐怖をもたらしているに違いない。何かをされるかもしれないと、中里は、考えているということだ。俺が何をするって? 慎吾は立ち上がり、中里に背を向け、バッグを取った。中に入れっぱなしにしてある財布を取り出し、中身を確認する。指が、しびれたようになっていた。札を数えながら、我慢できず、口を動かしていた。
「忘れてねえのか」
「あ?」
 今度は中里が、頓狂な声を上げた。
「忘れたか」
 また、口を動かしていた。財布には一万円札一枚、千円札四枚があった。財布に挟んでいたレシートはテーブルに投げた。そこで、中里の声が再びした。
「何を」
「俺が聞いてんだよ」
 言ってから、中里を見た。そうだ、俺が聞いている。中里は、ぼやけた顔をしていた。財布を手に持ったまま、慎吾は中里を見続けた。ぼやけていた顔が、次第に、冷静さに食われていく。そして、引きつった。眉間を幾度も狭め、瞬きを繰り返した中里は、震えた声で言った。
「忘れたよ」
 本当ではないかと疑わせるほど、嘘っぽさに溢れた返答だった。嘘だろう。だが、そうか、とだけ慎吾は言った。分かりきったことを議論している時間は、今はそうもない。中里は覚えている。それが、中里の怯えと同様に、明確なことだ。
 財布をバッグに戻し、携帯電話も入れ、それを手に持って、改めて中里を見る。もうこれ以上、眺めている暇はない。眺めている理由もなかった。ただ、見た以上、何かは言ってやらないと、いけないような気がした。
「首輪でも買ってくるか? 似合うかもな」
 中里の顔は、引きつったままだった。
「何がしてえんだ、お前」
 何回もかけられているように思えるその問いには、結局答えなかった。押し問答になると分かっていた。何がしたいかなど、自分でもまだ、把握していないのだ。時間がない。暖房は効いているから気温は大丈夫だろう。寒いと風邪を引くし、小便が近くなる。
 思い出して、一旦、風呂場へ行った。洗面器を持ってきて、寝転がっている中里の、腹の横に置く。
「下だけは汚すなよ」
 言うと、中里は、引きつった顔を盛大にしかめた。それを見届けてから、慎吾は家を出た。



 ◆ ◇ ◆



 去年の、新緑の季節だった。山では夜でも目障りなほどに草木が生い茂っており、青臭い匂いが、車の排気ガスやオイルやゴムの匂いの底から、根強く漂ってきていた。
 妙義山に行ったのは二年ぶりだった。夜に行くのは初めてだった。近場すぎて、そういう場所にするという概念が生まれなかった。走りの舞台だ。峠道を暴走する。いわゆる走り屋というやつだった。車の免許を取ってから、バイクに乗っていた頃より、行動範囲が広がった。操ることの恐怖心も増した。思い通りに走らせた際の、達成感も増した。欲望が育った。誰も過去の自分を知らない場所で、馬鹿どもを潰してやりたかった。そういう風に、ずっと各地を巡っていたら、地元のことを失念していた。最も時間も燃料もかけずに行ける場所。その選択肢が現れたのは、高校時代の同級生と会った時、そこで走っているとそいつが言ったからだ。速いGT−Rがいるとも、そいつは言った。同じチームだとも。チームがどうのは、どうでもよかった。感覚として、足場が曖昧になっていた頃だった。地元を作りたかった。
 遅番の帰りで、夜が更けすぎていたためか、峠の駐車場にはほとんど人がいなかった。それでもいないわけではないので、手近な奴をとりあえず煽った。どうせ、その山でうまくやっていこうとは考えていなかった。ただ、自分の存在が認められればよかった。そうすれば、通っていても手ごたえはあるし、他人を蹴落とす愉しみも作れる。ガキにコケにされるのを嫌いそうな、年上の、一見しっかりしている奴を、軽くからかってやると、すぐに、バトルで白黒をつけるという話になった。
 その話が決まろうという際で、割り込んできた男がいた。どこの人間かと尋ねてきた。この辺だと答えた。ここで走ったことはあるのかと、続けて聞いてきた。慎吾はその時点で、うんざりしていた。当人同士が納得していることに、敢えて首を突っ込んでくるような奴など、死んでしまえばいいと思った。今走った、と慎吾は言った。そんなにわか仕込みで走るのは命取りだぜ、とその男は言った。うんざりしきって、ご忠告どうも、と慎吾は言い返した。そりゃ理解したから、やらせてもらう。男は鼻白んだような顔になった。見ていると、背中に細かい虫が這うような、むずむずとする感覚を引き起こす相貌だった。だから、馬鹿な相手を煽り直して話をまとめた後、つい、その男に、じゃあ、と言っていた。
「そこまで言うならあんた、俺がそいつに勝ったら、俺の言うこと聞けよ」
 言って、不意打ちを食らったように間抜けな面になったその男を見たら、気は晴れた。勝ってどうしようとは、何も考えていなかった。バトルが始まれば、その男のことなど忘れていた。先行させて、抜かしたところでスピードを調整し、スピンさせて終わらせて、駐車場で一服しているところで、その男がやって来て、ようやく思い出した程度の印象のことだった。
「お前の言うことは聞くぜ」
 相変わらず、何か、体のどこかを動かしたくなるような感覚を引き起こす顔貌の男だった。その顔のために、さぞや他人から憎まれるだろうと思われる男だった。それもどうでもよかった。煙草を吸ったらおさらばするつもりだった。律儀だな、と言ったのは、馬鹿を潰した後で気分が良かったので、一応、会話を成立させてやろうという、親切心が出たためだった。それを出さなければよかったのかは、いまだに分からない。予想以上だったからな、と言った男が、唐突に、しっかりと見据えてきた。鬱陶しい目だと思ったのを、覚えている。
「一つ、俺から言ってもいいか」
 どうぞ、と慎吾は言った。煙草はもう終わりかけていた。
「お前、うちのチームに入る気はあるか」
 どうでもいいことばかり言う、とも思った。さあな、と慎吾が煙を吐き出すと、男は頷き、続けて言った。
「あるなら、好きに名乗ればいい。お前なら、誰も文句は言わねえよ」
 途端、鬱陶しい奴だ、と強く思った。鬱陶しい。目の前から消したかった。殺したいのとは違った。殴りたいとか、蹴りたいとか、崖から落としたいとか、そういうのとも違った。ただ、消してやりたかった。この存在感を、何かで、塗りつぶしたかった。慎吾は煙草を地面に捨てた。捨てて、周りを見た。他に車はない。人もいない。この世に自分と男と二人しかいないような、静けさだった。それすらも鬱陶しくて、うんざりしていた。どうでもよいことばかりだった。遅い馬鹿に勝ったところで、相手は所詮遅い馬鹿だ、勝って当然であって、全壊させてやらない限りは、手ごたえも薄い。何か、一つくらいその日、他の奴などどうでもいい、一生、自分だけが、忘れたくても忘れられないようなことを、したくなった。捨てた煙草を靴の踵で踏みつけ、慎吾は男を見返した。
「俺の言うこと、聞きてえんだよな、あんた」
 男は、虚をつかれたような顔をした。男が何かを言ってくる前に、なら、と慎吾は言った。
「今から俺がすることは、忘れろ」
「あ?」
「忘れろよ。それだけだ。俺が言うことは」
 それで、その場で、その男を犯した。中里をだ。



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