断片を打ち砕く 3/3
感覚としては、一週間ほど経っているようだ。昨日も今日もそう感じられるので、実際には、もっと日数は経っているのかもしれない。中里が来た日から数えないと、それから何日経ったのか分からなくなっている。面倒なので、数えてはいない。もう何日、中里を監禁しているのか、分からない。
仕事に変化はない。耳が痛くなるほどの騒音の中、昼間から酒臭い親父や香水臭い女どもの間を歩き、指示の通りに、あるいは自分の判断で動く。思考は落とせない。落とせば失敗をすることは明らかだ。失敗は解雇の理由になる。食い扶持がなくなっては困る。だから、今について考えるのは、一人でいる休憩時間か、通勤時間だった。通勤時間の方が、考えやすい。出勤時は、余計なことは頭から追い出すから、考えるのは、退勤時がほとんどだ。家と職場は車で二十分の距離がある。その間、以前は家に帰ったら何を食うか、これからどこに行くか、誰に連絡をつけるか、峠にいつ行くか、そんなことを考えていた。このところは、よく、まとまりのないことを考える。今日もそうだった。街の明かりや対向車のヘッドライトが煩わしい、夜の道路に、愛車を走らせ、帰路を辿りながら、今について考える。
中里を、監禁している。それがこの状況に相応しい言葉だった。首輪をかけ、その鎖をベッドにつなぎ、後ろ手と足首をそれぞれロープで括っている。拘束している。自由を制限している。だから、監禁だ。だが、世話はしている。日を追うごとに、丁寧に世話をするようになっている。朝起きたら、温かくしたタオルで顔と体を拭いてやり、飯を食べさせ、小便の始末もする。大便の際にはトイレにも連れていく。仕事がある時は夜まで帰らないが、休日には昼飯も食べさせ、水も欠かさず与える。夜には時にシャワーをかけ、ひげを剃り、歯を磨く。中里は何も喋らない。されるがままになっている。質問をすれば答えはある。飯を食べさせている時に、食えるか、と聞けば、ああ、と答える。そういうことだ。頭の足りない男を介護をしているようでもある。だが、これは、監禁だ。世話はしている。養っている、とも言えるかもしれない。それでも拘束している以上は、自由を制限している以上は、監禁と見なすべきだった。
慎吾は中里を監禁している。監禁しているが、毎日、どこか、自分が監禁されているような気もする。慎吾には自由がある。仕事のない時間はどこにでも行ける。車を走らせることもできる。金に余裕がある時には豪勢に遊ぶこともできる。金がない時でもないなりに遊ぶことはできる。だが、中里を部屋に置くようになってから、慎吾は仕事と買い物以外でほとんど外出していない。職場での飲み会が一回入ったが、一時間もしないうちに抜け出した。家にいる中里が、気になって仕様がなかった。生きているのか。逃げていないのか。気は確かでいるか。愛車をあてどもなく走らせている時ですら、そうだった。中里の状態以上に、意識を奪うものがなくなりつつある。日常が、壊れつつある。中里を監禁しているのは慎吾だった。だが、部屋にいる中里に、部屋にいるであろう中里に、その存在だけで、慎吾は囚われ出している。家に帰ると安心する。中里がいることにだ。だが、時折急に、自分がそうしているというのに、中里が自分のベッドの上に拘束されていることに、苛立ちを覚えることがある。なぜ、そこにいるのかと思う。なぜ、逃げ出さないのかと思う。逃げ出せる男のはずだという、認識がある。そういう鈍感さと、凶暴さを秘めているのが、中里毅という奴だった。だが、仕事から帰ってきて、玄関の土間に薄汚れた白いスニーカーが一足あるのを確かめて、自分のベッドの上に寝転がっている中里を確認すると、ひどく安心するのだ。表面的に、慎吾は中里を監禁し、支配している。だが、その実、中里の存在に、行動を制限されている。意識を奪われている。支配されている。支配することで、支配されている。そこには、苛立ちがある。だが、確実に、中里が傍にあることに、安心し、快さを得る。安心しながら、時に苛立ち、苛立って、安心する。それはもう、幸福感にも似た、究極の安心感だった。それを、繰り返し感じるたびに、思考が覚束なくなり、現状が何を意味するかということも、どうでもよくなっていく。何もかも、今のままでいい。変わらずにいい。意味がつかなくとも、構わない。どうでもいい。このまま永遠に、何も起こらずにいればいい。
そう思いながらも、ふとした時に、頭の後ろに居座っている冷たいものが、否定する。このままではいられない。どうにかしなければならない。すべて明らかにして、中里を解放して、自分も解放して、元の生活に戻ることが、最善だ。その理屈は、理解できる。どうにかして、この状況に、始末をつけなければならない。だが、まだ、どこかで期待している。中里が逃げ出して、勝手に始末がつくことを、望んでいる。帰宅して、中里がいることを確かめて、最上の安心感を得てもなお、中里が逃げていることの方を、望んでいる。
中里は、逃げられるはずだった。ナイフはまだテーブルの上に置いてある。手は背中に回してロープで括ってあるが、足は足首を片方ずつ括って、歩けるほどの長さで左右を渡してあるだけだから、伸ばせはテーブルにも届くし、ナイフも挟めるはずだった。手にせよ、手首しかつないでいない。指を動かすことは自由だ。物を掴もうと思えば掴めるはずだ。窓際にかけたジャンパーのポケットに入っていた携帯電話もそのままにしている。その気になればどうとでも他人の助けを呼ぶことは可能のはずだ。ベッドの上には切り開きはしたが、服をそのまま置いてある。本気で逃げ出したいと考えるのならば、いくらでも手段があるはずだ。
中里は、逃げ出したいと、考えているのだろうか?
分からなかった。最初の日、縛った時には抵抗があった。殴られもした。ナイフで服を切り裂いた時点で、抵抗はなくなった。抵抗すると、殺されるとでも思っているのだろうか? 逃げ出したら、追いかけられて、殺されると? ナイフで傷つけはしなかった。だが、何度か蹴りはしたし、頭を浴室の壁に押しつけたりもした。逃げ出した後の、暴力を、恐れているのだろうか。そんな軟弱な男には、思えなかった。では、逃げ出したいと、考えていないのか? 分からない。中里が何を考えているのか、分からない。それは、聞いていない。聞くのが怖い。これを始めたのは慎吾だった。その意味を、中里に決められることだけは、我慢がならない。そこまで中里に、奪われたくはない。今、もう、生活も、意識も、中里だらけだ。日々、侵食されている。支配されている。その快さが、これまで当然のものとして回っていた思考を、食い荒らし始めている。理性がそれに、警鐘を鳴らしている。これ以上、中里を、介在させてはいけない。だが、部屋に中里がいる限りは、現状は続いていく。中里が逃げなければ、自然には終わらない。中里を解放すれば終わる。だが、そこで、筋の通る理由を見つけなければ、二度と、チームには戻れない気がする。二度と、走り屋として、中里の前に立てない気がする。
初めて会った時のことは、しばらくは、忘れられた。だが、今回は一緒にいる時間が長すぎる。忘れられないだろう。大体、初めて会った時のことは、結局、残っていた。それが残っていたから、こんなことになっているのかもしれない。中里の尻を洗い、指を中に入れて、射精させてやってから、あの時、初めて中里に会った時、中里を犯した記憶が、鮮明に蘇るようになった。あの時は、指で中をいじってやれば、多少は勃起したが、ペニスを挿入したら、すぐに萎えていた。萎えたまま、終わらせた。他の車の排気音を聞いた理性が、欲望を煽り、半ば義務的に射精を迎えた。その時の義務感は、中里の世話をさせようとするものと、似ているかもしれない。理性が、本来の欲望を把握しており、煽っているのかもしれない。本来の欲望。中里を世話したいという、欲望だろうか。中里を監禁したいという、欲望だろうか。そんなものがあったろうか。中里を支配して、中里に支配されたいなどという、馬鹿げた欲望が、あっただろうか? 記憶にあるのは、征服欲という言葉だった。誰でもいいから下してやりたいという、欲望だ。だが、それは言葉だった。実際、身を燃やしたものかどうかといえば、定かではない。それで、納得をしただけなのだ。納得しようとした。
あれは、唯一、妙義ナイトキッズの庄司慎吾と中里毅ではなかった時間だった。チームのメンバーという関係以外で残っているのは、その時しかなかった。終えてから、中里には、忘れろと言った。大したことじゃないと、言ってやった。忘れられるはずだった。そんな関係はなかったと、忘れられるはずだった。終えた後、どうでもいい、鬱陶しい奴を踏みにじって犯すことで、征服欲が満たされて、欲求不満が解消したのだと、そう思い、そして忘れたはずだった。だが、覚えている。その後、チームに入り、変わらず鬱陶しい存在だった中里を、しばらく揶揄し、嘲り、蔑み、否定し続けた。だが、そこで快感があったかといえば、そうでもなかった。他人をこき下ろすことは、慎吾にとって普通の振る舞いであり、中里に対しても、度は過ぎていたかもしれないが、特別なことはしなかった。嗜虐心も何も、わくこともなかった。勝ちたいとは強く思ったが、征服したいとは思わなかった。特別だったのは、さほど鬱陶しさも感じなくなり、段々と、気心が知れるようになってから、心配や、優しさを表そうとした時だ。加減を、考えなくてはならなかった。意識の準備が必要だった。気をつけなければ、無尽蔵に手を加えそうだったのだ。いくらでも、心を費やしそうだった。中里とは、同じチームのメンバーで、最高のライバルでいたかった。個人的に深い関係にはなりたくなかった。それは、覚えていたからだ。忘れられてはいなかった。征服欲ではないと、既に理解して、無意識に、距離を取っていた。
部屋へ来た、今まで見たこともないほどくたびれた様だった中里に、自分が覚えた怒りというのは、こちらが突然に訪ねても、いつでも峠で会う通りだった男が、突然変化したことへの、理不尽さからだったろうか? 会社が潰れた。仕事を探さねばならない。そんな分かりきったことを、連絡も入れずに来て、独り言として言った、中里の無神経さに対してだったろうか? こちらが我慢していることを、下衆な欲望を含まずに行った、中里への羨みだったろうか?
アパートの駐車場に着き、エンジンを切り、シートベルトを外し、だが降車はせず、慎吾は考えていた。頭の後ろに居座っていた冷たいものが、頭全体を覆っていた。昨日から、兆候はあった。どうでもいいと思いながら、考えていた。中里に飯を食わせ、水を飲ませ、煙草を吸わせてやりながら、考えていた。部屋に、中里が来た時のことだ。こちらの怒りを呼び起こした中里の様相だった。連絡を入れろと言っていた奴が、連絡を必ず入れてきた奴が、突然来て、人の怠惰で心地良い気分を壊した挙句、誰に言うこともなく明らかなことを、独り言として言った、その中里の行動に対する、理不尽さに対する怒りを、中里にも味わわせてやりたくなったから、養うだの何だのを言って、殴られて、それでまた怒ってしまって、縛りつけて、こんなことになっている。そう考えた。そのはずだった。
夜だが、空気が凍てつくことも少なくなっている。車に乗ったまま、慎吾は明かりのない自分の部屋の窓を見ていた。あの時自分は、確かに怒った。中里に対してだ。この野郎、と思った。何てことをやってるんだと。
「お前がそれやっちゃ、駄目だろ」
呟いていた。声にすると、急に、あの時抱いた以上の激しい感情が、顔全体にのぼってきた。単なる走り屋同士でよかったのだ。そうであるべきだった。個人的に、深い関係になってはいけなかった。そこを越えて戻るのは、妙義ナイトキッズの庄司慎吾と中里毅ではなかった、あの、初めて会った、初めて会って強姦に至った、あの時間のみだと、知っていたからだ。あそこを忘れることも、無視することもできていないことが、慎吾には分かっていた。中里は、分かっていなかったのだろう。だから、ああいうことができたのだ。そういう鈍さに、怒ってしまった。走り屋同士でしかない、その関係を保とうとしていた、自分の努力を壊した中里に、怒った。勝手な怒りだった。勝手な行動だった。中里がどうするかなど、中里の自由だ。分かっている。その時も、分かっていたはずだ。だが、抑えられなかった。欲が出たのだ。みすぼらしい中里、自分のみに怒りを向けてくる中里、ぶち壊しにした中里に対して、欲が出た。征服欲などという、大層なものではない。
ただ、一緒にいたかっただけだ。
無条件に、一緒にいたかった。
建前も何もなしに、一緒にいたかった。それだけだ。
慎吾は助手席に置いたバッグを取り、車から降りた。それだけか? 思って、笑おうとして、失敗した。だから、いつも通りの顔で、帰宅した。
玄関の土間に、薄汚れた白いスニーカー。部屋に上がり、電気を点け、まずベッドを確認する。人の形に膨らんでいる毛布がある。
「大丈夫か」
それを見下ろしながら、慎吾は言った。ここ数日、同じことばかり聞いていた。毛布が動き、黒い髪の毛を持った人の頭が現れる。
「ああ」
低く、かすれた声だった。だが、揺らいではいない。まだ、気は確からしい。床には、黄褐色の液体が入ったペットボトルが立っている。それと新しい下着を持って、慎吾は風呂場に行った。服を脱ぎ、浴室に入り、ペットボトルの中身を床に流す。アンモニア臭が立ち上る中で、自分も小便をした。そして、ペットボトルは浴室の壁に向かって、振りかぶって、投げた。硬いような柔らかいような、重いような、どこか間抜けな音を立てて、浴室の壁にぶつかったペットボトルは、床に跳ね返り、端に転がった。それを足で踏み潰してから、慎吾はシャワーを浴びた。髪を洗い、体を洗い終えたら、すぐに上がる。全身の水気を拭き、下着を身につけ、部屋に戻り、夕食の準備を始める。適当に豚肉と野菜を炒めて味つけして、炊いた白米と食べる。中里にも食べさせた。その汚れた口元をティッシュで拭いてやり、台所で食器を洗い、部屋に戻り、久々に、缶ビールを開けた。ビールを飲みながら、CDプレイヤーで海外のテクノをかけ、二日前コンビニで買ったスポーツ新聞を読んだ。馬鹿馬鹿しい記事ばかり載っている。一通り目を通してから、半分飲んだ缶ビールを持って、ベッドに振り向いた。中里は、仰向けで寝ていた。
「おい、飲むか」
聞くと、中里は顔を向けてきた。頬の削げ具合も、目のくぼみ具合も、変わっていないように見える。昨日の昼にひげは剃ったから、顔色が分かりやすい。悪くはない。その顔で、中里は怪訝そうに眉を寄せ、いや、と言う。だが、慎吾が頷きもせず見続けていると、少しの間ののち、ああ、と言った。
「起きろよ」
そう言うまでもなく、中里は上半身を起こした。ベッドに座れるほど、ベッドヘッドのパイプにつないである首輪の鎖には長さがある。慎吾は床から上げた腰をベッドの端に下ろし、缶ビールの口を中里の口にあてがって、角度をつけた。中里が、喉を鳴らしてビールを飲んでいく。三五〇ml入りのビールの残り半分が、あっという間になくなった。飲み干して、中里は熱そうな息を吐いた。慎吾は空になった缶を片手で握り潰し、テーブルの上に投げて、ベッドから立ち上がった。それから、ベッドのパイプにつないでいる首輪の鎖を一旦解いて手に巻きつけ、引いて、中里も立たせる。一度咳き込んだ中里が、先ほどと同じように、怪訝そうに見てくる。
「お前、体臭いから。洗うぜ」
感情はこめず、慎吾はそう言った。感情が、遠かった。昨日は遅番で、今日は早番だったから、体を洗ってはいない。だが、悪臭と断じられるほどの匂いも、中里からは漂ってはいない。中里は、怪訝そうな顔のまま、ああ、と頷いた。慎吾は首輪の鎖を引いて、浴室に行った。
鎖をタオル掛けにつなぎ、湯を浴びせて、まずシャンプーで頭を洗う。泡を流し、体に移る。タオルは使わず、ボディソープを手で泡立て、その肌に、塗りたくった。首、肩、腕、脇の下、腹、ペニス、陰嚢、太腿、脛、足、足の裏。丹念に、手のひらで擦る。あざはもう、どこにもない。裏返して、背中から、尻におりた。狭間に手を入れると、ペニスに触れた時よりも、体が強張った。ペニスは、じっくりと擦ったから、わずかに膨らんでいた。裏返す前に見た中里の顔には、何か、妙なものが浮いていた。羞恥心とも、諦めとも違う。穴の周囲を、指で擦っているうちに、ふと、やましさか、と思った。思いながら、肛門に、中指を入れた。
「……っ」
中里が、息を詰める。泡の滑りを借りて、指を少しずつ動かす。中里は、背をたわめる。声は、出さなかった。ただ、息を詰めていた。人差し指も入れて、内側を探りながら、広げながら動かしても、中里は、拒絶の言葉を吐かなかった。何も言わなかった。苦しげに、呼吸をするだけだ。
この従順さが、もし、やましさによるものならば、そのやましさは、どこからきたのだろうか。前に、射精したことだろうか。あれから一度も、体を洗う時でも、尻に指は入れていない。今日で二回目だ。初めての時を含めれば、三回目だった。初めての時は、軽く勃起はしていたが、射精はしなかった。前はした。尻の穴をいじられるだけで、中里は、射精をするようになっている。
薬指も入れて、じっくりと、粘膜を擦り、押す。中里の尻が、動く。背が幾度も跳ねる。息遣いが荒くなっている。肉が指を受け入れている。泡にまみれている肌に、血が透けて見える。背中に回しロープで括っている手の指が、何かを掴もうとしているように、時折動く。唐突に、中里の声がした。呻き声だった。指が、喰いちぎられそうに締めつけられ、弱まる。前を覗き込めば、壁に精液が飛んでいた。前の残りには見えない、新鮮そうな精液だった。中里は射精した。尻の穴だけで、射精した。前も、そうだった。初めての時はしなかった。今は、快感を覚えているということだ。感じている。中に入れたままの指を動かせば、締めつけてきて、小さく低い声を上げる。震えている尻が、足が見える。慎吾は、勃起していた。前はしていなかった。頭の後ろが冷えていた。今も、頭は冷えている。全体だ。そして、中心は、ひどく熱くなっている。初めての時は、勃起した。鬱屈していたとはいえ、どこか欲求不満だったとはいえ、初めて会った男に、ただ向き合っている状態から、半ば勃起していて、後ろから襲う頃には、完全に入れられる状態だった。そして、今も、勃起している。完全に、入れられる。あの時とは、状況が違う。中里の存在のために苛立つこともあるが、鬱屈はしていない。取り立てて欲求不満というわけでもない。だが、勃起している。中里に、入れたいと思う。中里を、抱きたいと思う。犯したいのではない。勝手に、済ませたいのではない。一緒になりたい。それだけだ。そういう欲望だった。
中里の尻の中をかき混ぜていた指を抜き、代わりに、下着をおろして取り出したペニスを、穴にあてがう。一気に、貫いた。中里が、喉を切ったような声を上げた。鎖が鳴る。中里の尻を掴み、腰を入れる。そこで、中里は、まともな言葉を発した。
「やめろ、おい、慎吾っ……」
だが、突き上げると、単なる呻きとなる。考えていたよりも、中は、柔らかかった。初めて犯した時には、感触を、味わうこともなかった。ただ、自分の存在を、この男の中に入れたかった。そうだ。一生忘れられないほど、刻みつけてやりたかった。興奮していた。いつまでも、していたかった。実際、できそうだった。だが、強引に、慌しくやった。時間をかけたくなかった。誰にも知られたくなかった。考える間も、与えたくなかった。ただ、その現象として、受け止められたかった。だから、終えてしまえば、意味のあるものは残っていなかった。
中里は、もう、声を上げなかった。声は、押し殺している。押し殺しきれなかった分は、呻きとして、浴室に反響する。慎吾は、ゆっくりと抜き差しした。今は、誰に邪魔されることもない。二人だけの時間だ。この時間が、ずっと欲しかった。これを含めた時間が、ずっと欲しかったのだ。
「毅」
慎吾は壁に手をついた。中里は壁に、顔と、胸をつけている。その中里の顔を、横から覗き込んだ。喉を震わせながら、呼吸をしている。目を閉じている。開いた。開いて、顔を向けてきた。今まで見たことないほど、生々しい顔だった。慎吾はゆっくりと、その唇に唇を合わせた。肉がわずかに潰れ、元に戻る。それだけだった。意味のない行為だった。中里は、その行為により、その目を真っ直ぐ向けてきた。慎吾はその中里を見返しながら、笑おうとして、笑えなかった。ただ、呟いていた。
「これで終わりだ」
目は逸らさなかった。互いに見合っていた。終わりだ、と慎吾はまた呟いた。終わった。そして、壁から手を離し、中里の後ろに立った。入れたままのペニスで、改めて、突き上げる。欲望はもう、欲望に煽られている。腰を、ただ、やりやすいように動かしていた。中里は、言葉を発さないままだった。ひたすら呻いていた。時折、泣きそうな声音に変わり、それはすぐに途絶え、息となって、呻きとなった。快感が、ペニスからごっそりと頭に回り、全身に散らばり、またペニスに戻っていく。循環している。もう、どうでもよかった。中里を今、こうさせているやましさも、車のことも、走りのことも、自分が走り屋の庄司慎吾でいたいことも、これまでしてきたことも、忘れようとしたことも、覚えていることも、何もかも、どうでもよくなっていた。ただ、中里と一緒にある、中里の肉体による、快感だけを追っていた。太い快感の波は唐突にやってきて、慎吾は呆気なく、中里の尻の中に射精していた。中里が、悲鳴に似た声を上げた。それは最後、呻きに変わり、そして息に変わり、声ではなくなった。
射精後の気分は、最悪だった。何をしたくもなかった。何を決めたくもなかった。何を終わりにしたくもなかった。だが、理性が欲望の尻を叩いていた。動かねばならなかった。慎吾はペニスを下着にしまい、中里に後ろを向かせたまま、尻の精液をかき出して、シャワーを浴びせ、浴室から出た。バスタオルで中里の足から全身を拭き、頭と顔を拭く。終えると、向き合っている。中里は、遠くを見ている。慎吾を視界に入れていないようだった。それは、ひどくうつろな顔だった。慎吾は声をかけなかった。立ちくらみもしなかったので、そのまま首輪の鎖を引き、中里をベッドに戻した。中里は、一言も喋らなかった。部屋にはテクノが流れ続けていた。CDをベンチャーズに入れ替えて、スポーツ新聞をすべて読んでから、電気を消して寝た。
寝ていたようで、寝ていなかった。時間が経つようにとだけ考えていた。早く朝になってほしかった。幾度も携帯電話で時刻を確認した。十分おきから三十分おきに変わり、それが続いて、ようやく目覚めても早くない時間となった。体は重かった。疲労が抜けていない。頭も重い。だが、冷えている。
慎吾は床から起き上がって、コーヒーを入れた。ペーパードリップで落とし、ブラックのまま二杯、立て続けに飲み干した。熱い塊が腹に入ったようだった。カップを片付けてから、洗面台で歯を磨きひげを剃り顔を洗う。目が、覚めた気がした。部屋に戻り、着替えてバッグの中身を確かめると、出勤して良い時間だった。慎吾はバッグを床に置いて、窓際にかけていた中里のジャンパーを、ベッドの端に積んだままだった切り開いた中里の服の上に投げた。毛布を被っている中里は、まだ寝ているようだった。慎吾はテーブルの上に置いたままの、バタフライナイフを手に取った。刃を出す。錆びは進んでいない。それを片手に持ち、片手で中里を覆っている毛布を剥いだ。こちらに背を向けている中里は、びくりとしたのち、体を強張らせた。起きているようだった。慎吾はナイフを使って、その両足首の間を渡しているロープを切った。それから中里をうつ伏せにして、尻にまたがり、手首同士をつないでいる部分のロープを切る。ナイフの刃をしまい、テーブルに投げ、ベッドパイプにつないでいる首輪の鎖を解いた。中里の尻から腰を上げ、床に下りる。ぎこちなく手を動かし、身を起こした中里が、信じられないような顔をして、こちらを見た。それは、中里の顔だった。峠で幾度も見たことのある、驚きすぎて表情が硬くも見える、中里の顔だった。
「後は、自分でやれよ」
慎吾は言い、バッグを肩にかけて、逃げるように部屋から出た。中里の声は、聞こえなかった。
仕事の休憩中、携帯電話を何度か見た。中里の携帯電話の番号くらいは入っている。着信はない。見るたび、かけようかと思い、やめた。最後、携帯電話を閉じてから、思いついてまた開き、中里の情報を削除した。気分はすっきりとし、軽くなった。血液が半分くらい失われたような軽さだった。
失敗はせず、いつも通りに仕事を終えて、帰宅した。車の中では、何も考えないようにしたが、どうする、とは思っていた。どうする。どうすればいい。これからどうする。思うだけで、考えはしなかった。アパートの駐車場に車をとめると、すぐに降りて、家まで駆けた。玄関の鍵は、開けるまでもなかった。かかっていなかった。ドアを開くと、土間から、薄汚れた白いスニーカーは消えていた。それまでスニーカーのあった場所に靴を脱ぎ捨て、慎吾は部屋に入り、電気を点けた。ベッドの上には、毛布が畳んであり、首輪とロープの残骸が載っているだけで、誰もいなかった。
中里はいなかった。
首輪とロープと毛布を除けば、始まる前の、元通りの、自分の部屋だった。慎吾は電気を点けた体勢のまま、しばらく立ち尽くしていた。何も思わなかった。何も考えなかった。思考がなかった。元通り、自分だけの部屋だ。戻っている。そう、理解していた。だが、思考は働かなかった。動けなかった。自分の血肉が、すべて蒸発したような軽さがあった。また、自分の骨が、すべて鉛になってしまったような重さがあった。めまいがした。慎吾は目を閉じ、その場にしゃがみ込んだ。頭を押さえる。ぐらぐらとする。吐き気がする。指一本動かすことすら、億劫になった。脳が、活動を停止したがっているようだった。心臓の鼓動すら、止めたがっている。うるさいのだ。自分の呼吸も拍動も、ようやく動き出した思考も、何もかも耳障りだった。耳障りだが、それらの音を止めることすら億劫だった。眩しい蛍光灯の下、慎吾はめまいと吐き気が引くまでそのまましゃがんでいた。まともに立ち上がれるようになってから、電気を消し、外へ出て、ついさっき駐車場にとめた愛車に乗り込んで、夜の街を、久々にあてどもなく、走らせた。誰にも見つからないことを望みながら、誰かに会うことを期待しながら、ただ、車を走らせて、十度目の赤信号にぶつかったところで、家へ車を戻した。何も食べず、その日はそのまま床に寝た。
休日だった。起きると、もう昼過ぎだった。慎吾は買い置きしておいたパンを食べ、コーヒーを飲み干し、煙草を吸い、歯を磨いて顔を洗ってから、家を掃除した。床には髪の毛一つ残さぬよう掃除機をかけ、居間も台所も浴室も玄関も丁寧に磨き、シーツも毛布も布団もすべて洗った。ゴミをまとめ、窓を開けて換気した。新しい冷たい空気が、古い淀んだ空気を殺していき、体の中央に穴が開いているような空虚さを埋めていった。日が落ちる頃には、見違えるほど綺麗な部屋になっていた。まるで、何もなかったかのようだった。
誰もいなかった。白いシーツで覆ったベッドに腰掛け、煙草を吸いながら、慎吾は思った。誰もいなかった、何もなかった、何も起こってはいなかった。そう思って、笑っていた。笑い、煙でむせた。咳き込んでから、一つ息を吐いて、笑うのはやめた。何もおかしいことはなかった。終わった。それだけだ。この後、どうなるかは分からない。中里次第だ。中里がもう、以前のような、妙義ナイトキッズ中里毅として、自分と接してこられないようであれば、妙義山にこだわる理由もない。コースは好きだ。チームのメンバーには馬鹿な奴らが多いが、気心が知れている。だが、そこには、GT−Rをぶん回す、中里毅がいなければ、意味がない。あの中里と、あれも含めた中里と一緒でなければ、意味がない。もう、忘れられはしないだろう。長く時間が経ちすぎた。起こったことが、終わった。それだけだ。これだけのことをしても、中里がなお、中里のままであるならば、慎吾もまた、慎吾のままでいるつもりだった。だが、それはとても現実味の薄い仮定だった。そんなことはありえない。そうとしか思えない。監禁している間、中里の気は確かなようだったが、後遺症が出るかもしれない。自分が受けた仕打ちを思い出し、憎悪を溜め込んでいるかもしれない。その仮定の方が、よほど現実味がある。すべては、中里次第だった。
もし中里が、あの時を、初めて会った時を越えたがっていたのならば、勝手に越えさせておくべきだったのだろうか。中里なら、中里にしかできないことを、やっていただろうか。そうかもしれない。あの男は、自分とは違う。同一を求めたわけではない。ただ、一緒にいたかったのだ。今まで通りでいたかった。あの時に、戻りたくはなかった。戻されたくなかった。
自分の吐き出した煙が、部屋に満ち、馴染んだ匂いに変わる。すべて、もう、終わったことだ。終わらせた。終わってしまった。取り返しはつかない。考えても、無駄なことばかりだ。無駄なことをやっていたのだ。慎吾は煙草を吸いながら、もう、しばらくは何も、考えないことに決めた。ともかく、これで、ようやく、日常を取り戻せる。
日常は、気付けば朝で、気付けば夜だった。友人にいついつは空いているかと問われても、それが何日先なのか咄嗟に判断ができないことが多くなっていたが、生活は、いつも通りだった。仕事をして、時間が空けば車を走らせ、仲間と適当に騒ぐ。だが、時折、空白があった。自分が何を考えているのか分からない時間が生まれた。それはすぐに終わり、切断される。景色が唐突に変わり、それが元々になる。変化はぶつ切りで、曖昧な、時間の切れ端だけが積み重なっていた。スーパーへ買い物に行くと、新入学のセールが目についた。それで、もう、三月だと思ったくらいだった。
その次の日だった。早番の仕事を終えて、家に帰り、風呂に入って、飯を食い、ベッドに寝転がりながら、テレビを見ていた。名前を聞いたことのない男が出ている。歌手らしかった。のっぺらぼうに似た顔だけが印象的だった。その男は内臓でも引っ掴まれているかのような声で唄い出した。興味はなかった。テレビを消そうかと思った。リモコンは手の中にある。だが、それをテレビに向けて電源ボタンを押すことも面倒だった。音は分裂して聞こえるだけだ。歌詞も追えない。唄う男を眺めている趣味もない。テレビを消して寝ようにも睡魔は訪れていない。ただ、何もしたくなかった。
ドアチャイムが鳴っても、出る気は起きなかった。だがそれはしつこく鳴らされた。歌手の曲の何をしたいのか分からぬ音とは違い、ドアチャイムは明確にこの家への訪問者を示す音だった。死にそうなほど怠惰で、だからこそ心地良くもある気分が打ち砕かれた。舌打ちして、慎吾は起き上がった。下着のまま玄関まで行き、ドアスコープを覗かずドアを開いた。不意の訪問者に、不機嫌を前面に押し出してやるつもりだった。
「よお」
そう声を発してきた、目の前に立つ男を見た瞬間、慎吾は表情を作ることを忘れた。不機嫌さも何も、あらゆる感情を一気に失った。
「よお」
出した声は、自分の声ではないような無表情さを持っていた。他人が、目の前の訪問者と相対しているようだった。だが古びたジーンズと黒いセーターを着ている訪問者は、慎吾から目を逸らさないまま、しっかりとした声を出すのだった。
「鼻、もう大丈夫か」
中里は、そう言った。慎吾の血の気はすうっと引いて、だが瞬間的に頭に上った。血液の奔流に、思考が押し流された。
「とっくの昔にな」
出てくる声は、変わらず他人のもののようだった。言葉も他人のもののようだった。自分が何もしていないようだった。
「そうか」
納得したように頷いた中里が、そこで顔を逸らした。何の傷もない横顔だった。首にも何の傷もなかった。何も起こっていないようだった。だが、中里は、慎吾の鼻について言及した。あの夕暮れ時、この男が殴ってきた鼻だ。思考の上に記憶が被さってきて、ドアを開いたまま、慎吾は俯いた。中里の足が見える。薄汚れた白いスニーカーを履いている。
「仕事が決まった」
はっきりした声が、前方から飛んできた。慎吾は顔を上げた。中里が、立っている。両手をジーンズのポケットに入れ、こちらを見据えている。瞬きが多かった。中里が、目の前にいる。
「そりゃ、良かったな」
これは、自分の声だった。自分の言葉だった。ああ、と中里は頷いた。目は逸らされなかった。慎吾は咄嗟にドアノブを引っ掴んで、ドアを閉めようとした。その前に、中里がドアを押さえ、閉まるのを防いできた。
「お前に会いに来た。慎吾」
顔が、近くなっていた。触れそうなほどの距離だった。体が、勝手に一つ震えた。中里の、瞬きの多い目が、それでもこちらから逸らされない。中里の顔には、ところどころで小さな痙攣が起こっている。数多の感情が抑圧されることを拒み、筋肉を動かしているようだった。表皮に、脂汗が浮いている。白い肌が震えている。中里はそれでも慎吾から目を逸らさない。その顔の、その体の活動すべてがこのためにあるかのように、じっと見続けてくる。慎吾の背筋に悪寒のようなものが走った。ドアノブを、熱いものを触ったかのように放り出し、一歩足を引いていた。中里は、追ってはこなかった。代わりのように、尋ねてきた。
「入っていいか」
逃げ出したかった。だが、逃げられないことが分かるだけの意識が、残っていた。自分ですら操れない、まっさらな意識だった。
「どうぞ」
その意識が、口を動かし、体を動かした。土間の上で、中里が部屋へと進み入れるよう、体をよけていた。中里が、ああ、と言って、土間に入る。ドアが閉まる。中里が、薄汚れた白いスニーカーを脱ぎ、部屋に上がり、奥へ歩いて行く。その中里の背中を見ながら、慎吾はドアに背を預けた。金属のドアは冷たく、触れる皮膚からすぐに熱を奪っていった。ドアに、向き直り、鍵をかける。そのままドアに、両手をついた。手のひらから、熱が奪われる。額もつけた。ドアに触れている部分だけが冷えて、他の部分は熱かった。息がうまくできなくなっていた。喉が震えていた。手も震えていた。金属に触れられない脳が、沸騰していた。
「慎吾?」
後ろから、中里の声がする。紛れもない、中里の声だ。感情の乗った、中里の声だった。足から力が抜けた。両手と額をドアにつけたまま、慎吾は土間の上に、膝をついていた。吐いた自分の息が、熱かった。喉も、鼻も、目も、熱かった。コンクリ敷きの土間に落ちていく涙すら、熱かった。
もう、一人では、どこにも戻れそうになかった。
(終)
2008/02/11
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