断片を打ち砕く 2/3
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 犬を飼育している同僚が、新品の首輪を買ったが、犬が嫌がるのでお蔵入りになったと言っていたのを思い出した。その同僚が休憩室にいるところをつかまえて、まだその首輪はあるのかと尋ねると、お前でも犬を買うのかと驚かれた。犬じゃねえよと慎吾は言った。じゃあ猫かと同僚は言った。猫でもないと言い返した。じゃあ女かと同僚は下卑た笑いを込めながら言った。その鼻は噛まれたか? ないならいいよと慎吾は同僚に背を向けた。そこでようやく、そいつは質問に答えた。
 夜更けの街は国道沿い以外は闇ばかりだった。シビックの助手席に乗った同僚は、相変わらず乗り心地が悪いなこの車は、と変に笑いながら言った。だろうな、と言いながら慎吾は、あいつなら、と思っていた。あいつなら、乗り心地がどうのなんざ言わねえだろ。それより、ステア操作がおかしいだのミッションに悪いだの、細かいことを言ってくる。人の運転にケチをつけるのが好きな男だった。FFと4WDでは挙動が違って当然だというのに、自分の運転理論を絶対と信じている節があった。走っている最中、何度も言い合いになっては、時間が経つうちに、感情の昂ぶりも忘れた。会話は惰性的で、空気のように二人の間に漂うだけだった。その空気の中にいると、ただ、居心地が良かった。
 同僚は、居心地が悪そうにシートの上で貧乏ゆすりをしながら、何でこんなもんに金かけんだよ、などと言っている。慎吾は黙っていた。考えていた。あの男は何も変わっていない。少なくとも慎吾の記憶にいる中里なら、こんなもん、などとは言わない。快適性や利便性を追求するだけが車ではないと、あの男も考えている。そういう話を何度もした。速さを求めること。刺激を求めること。機能を最大限に発揮できる快感を求めること。それを、あの男と、分かち合ったこともある。変わっていないはずだ。中里は、何も変わっていないはずだった。家に帰ったら、縄は解いてやろう。こんなくだらないことはさっさと終わらせて、次の職を見つけるなり何なり、好きにさせればいいのだ。こだわる必要などどこにもない。中里は中里だ。縛りつけておく価値のある人間でもない。今まで通りだ。同じ走り屋チームのメンバー。仲間。最大のライバル。それだけでしかない。
 着いたアパートの一室に入り、しばらくしてから出てきた同僚の手にあった首輪は赤く、何の変哲もないものだった。犬用らしいが、何が犬のためであるのかは見た目には分からなかった。もう、中里を縛っておく気はなかったので、返そうとも思ったが、何かの役には立つかもしれないから、貰っておいた。
 助手席にバッグと首輪を置いて、一人帰路を走る。一人だった。信号待ちでも話しかけてくる人間はいない。運転にケチをつけてくる人間はいない。感心してくる人間もいない。助手席には、バッグと首輪しかない。どちらも自分のものだ。この車も自分のものだ。ミラノレッドのホンダシビックEG−6。自分の金で買い、自分の金でパーツを組み上げてきた。最も刺激的で、安らげる空間だった。信号待ちだった。馴染んだシートに座り、馴染んだアイドリング音に浸っているというのに、急に、腹の底がざわめき出した。気分が悪くなっていく。
 何も変わっていない。だが、中里は今、何をしている。俺の部屋にいるだろ。俺の部屋で、裸でいる。慎吾は唇を舌で舐めた。乾燥している。俺は何をした。段々、臓腑が冷えていく。居心地の良い会話など、あの時はなかった。むかつきが残るだけだった。会社が潰れたと中里が言った。仕事を探さなければいけないと。それで、養ってやると言った。自分の感じた理不尽さを、中里にも味わわせたかったからだ。言う必要のないことを言われる理不尽さだった。Rなんて捨てちまえ。そこまで言ったら、顔を殴られた。腹立たしくなって、首を絞めた。そこに、その男がいることが鬱陶しくなって、首と手と足をロープで縛り、途中では背中を殴った。それが今まで通りか? 中里は怯えていた。忘れたとは言ったが、忘れていないようだった。また犯されるとでも思ったか。そんなことを俺がやるって? 慎吾は唇の皮を指で剥いた。やったのだ。以前はやった。もうやることはない。そんなことをできるほど、いい加減には考えていない。考えていない? やらないのか? なら何で初めて会った時、そんなことをやったんだ。何で今、裸で縛りつけて、放っておいてるんだ? そうしたかったのだ。そうしたかったはずだった。でなければ、そんなことはやらない。だが、その理由は、自分でも不明瞭だった。脳味噌が濃霧に浸かっていて、その中を歩いているようだった。霧のせいで見通しが一切利かない。自分の足元だけは鮮明だった。やってしまったことだけが、変えてしまったことだけが、くっきりと自分の足元に影を生んでおり、それはいくら進んでも、消えないのだ。
 信号が青に変わる。発進する時にはもう、中里をどうする気もなくなっていた。この事態に何かまっとうな意味をつけられない限り、中里を解放はできない。前に考えた通りだった。最初に半端に残ったものが、既に靄となって頭を覆い尽くしている。これ以上は抱えきれない。適当な理由をつけられるまでは、現状維持でいくしかなかった。しかし、中里は、まだいるのだろうか?



 部屋のドアを開けると、土間に見慣れた他人の靴が一足あった。薄汚れた白いスニーカーだ。部屋の中には中里がいた。床に転がったままだった。膝を抱えるようにして横になっている。後ろ手に括ってあるから、実際には抱えていない。慎吾が帰ってきて、電気を点けても、顔を上げはしなかった。かといって、死んでいるようでも、寝ているようでもなかった。顔を向けた先をじっと見ている。腹の隣に洗面器がある。小便はしたらしかった。部屋にアンモニア臭がする。慎吾はベッドに上着とバッグを投げてから、台所へ行き、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出したついでに、換気扇を回した。ペットボトルに直接口をつけながら、部屋に戻る。蓋をしめ、ペットボトルはテーブルに置いた。それから、中里の腹の隣にある洗面器を取り、風呂場で中身を流した。脱衣場に戻り服を脱いで、鼻の湿布も取って、シャワーを浴びる。鼻はまだ痛むが、痛みにも慣れた。風呂から上がり、脱いだ下着を履いて、洗濯籠に入っているジャージも履き、脱いだジーンズとパーカーは抱えて部屋に戻った。中里は同じ格好でいた。まだ小便くさい。換気扇は止めた。どうせ次は早番だ。また家を空けることになる。
 ジーンズとパーカーをアルミラックへ投げて、立ったまま、テーブルに置いたペットボトルをあおった。ウーロン茶を飲み込み、煙草を咥えて火を点ける。煙草の煙がアンモニア臭を薄れさせる気がする。慎吾は煙草と灰皿を手に持って、ベッドに座った。中里の顔は見えない。テーブル側を向いている。不可解さがあった。帰ってきた時からだ。いや、もっと最初からだ。ここを出て行く時ですら、頭の端にその不可解さは居座っていた。
「何でお前、ここにいんの」
 つい、聞いていた。中里が、もぞりと動いた。答えはない。消えない疑問だった。何でこいつはここにいる? 逃げていてもよさそうなものだと思えた。まだ逃げようがないと分かっていても、そう思えた。消えていてもよさそうなものだと思えた。人間が消えることなどないと分かっていても、そう思えた。本来ここにはいない男だった。以前、たまには来た。泊まらせたこともある。酒を飲んだ時はそうだった。だが、そういう時には連絡があった。今回はない。本来、ここに来るべきではない男のはずだった。そう思えた。違うか、と慎吾は言った。
「何でお前、ここに来た」
 中里の肩が動いた。頭も動く。ロープは解けていない。次、答えがなければ、尻を足で押してみようかと思っていた。答えはあった。
「お前に会いに」
 聞き取りづらい声だった。鼻声ではなくなっていたが、かすれ切っている。慎吾は煙草を咥えてベッドから腰を上げ、灰皿をテーブルに置き、ペットボトルを取った。ウーロン茶がまだ入っていることを確認しながら、何で、と言った。中里にだった。
「お前だって、うちに来るじゃねえか」
 問いであることは、通じたらしかった。かすれ切っている声が後ろからして、慎吾は振り向いた。中里が、こちらを見上げている。目に精彩はない。顔にもなかった。全身が、来た当初よりも強い疲労感に包まれている。慎吾は煙草の灰を灰皿に落としてから、ペットボトルを持ったまま中里の前にしゃがみこんだ。
「会いたかったか。俺に」
 言って、ペットボトルの口を差し出す。中里は慎吾の顔とペットボトルを訝しげに見比べてから、頭を動かし、ペットボトルに口をつけた。角度をつけて液体を流し込んでやる。音を立てて中里はウーロン茶を飲んだ。空になった。ペットボトルを引くと、中里はむせた。空容器を床に置き、煙草を吸う。一頻りむせた中里が、さっきと変わらぬかすれた声で、ああ、と言った。
「お前が、こんなことするなんざ……」
 死にかけの人間のような声だった。
「俺も思わなかったぜ」
 慎吾は言って煙草を吸い、誰もいないベッドを見ながら煙を部屋に撒き散らした。うんざりし通しだった。思うのは、何をやってんだ、ということだ。何やってんだ、俺は。自分でそう思うのだから、こんな現状、他人の中里には、尚更思いもよらないことだろう。
 だが、思いもよらないことを先にしたのは、この男でもあった。連絡を寄越しさえすればよかったのだ。会いたいと、先に言ってくればよかった。準備がある。意識の準備だ。中里を適切に相手をするにあたっての余裕があるかどうか、それも事前に斟酌しなければならないことだった。今までは、その時間が与えられていた。中里に会いに行く時、慎吾はほとんど前もって連絡はしない。連絡をする方がしっくりこなかった。それは、慎吾から中里に会いに行く場合だ。中里から会いに来る場合は、必ず前もって連絡があった。都合はどうかと問われて、今は駄目だと断ったこともある。中里自身、慎吾が訪ねるたびに連絡くらいしろと言う。そうすることが当然だった。今まで、準備する時間はいくらでもあった。それが突然なくなった。だから、いつも通りにできなかった。こんなことになっている。こんなことになるとは、思ってもみなかった。たかが、連絡がなかっただけだ。中里と会う、中里を出迎える意識の準備ができなかっただけだ。
 意識の準備? だが、峠で会う時は、そんなものは要らなかった。
「何なんだよ、お前」
 相変わらず、死にかけの人間のような声が聞こえる。だがまだ、中里は死んでいない。死なせるつもりはない。自殺するのは本人の自由だが、殺すつもりはない。慎吾は煙草の煙を吐き出してから、中里を見た。疲労が強そうだ。吸うか、と煙草を挟んだ指を小さく振った。眉間を寄せた中里は、目を細めて、遠くを見た。慎吾はその乾燥している唇に、煙草のフィルターを押し入れた。指に空気が吸いついた。煙草を抜くと、中里は煙を吐き出し、またむせた。背を大きく曲げて咳き込んでいる。中里に吸わせた煙草を一つ吸って、それを灰皿の底に指で押しつけながら、慎吾は言った。
「どうすりゃよかったんだ、俺は」
 ほとんど自分に言っていたが、「分からねえ」、という中里の返答はあった。それもそうだ。それは慎吾のことだった。中里のことではない。目を閉じて、慎吾は思った。俺は何だ? 俺は俺だ。しかし、どうすればよかった? 中里は、どうされたかった? 今まで、俺は、どうやってきた? 記憶はあった。嘲りもしたし、蔑みもしたし、心配もしたし、優しくもした。その無神経な言動に怒りを覚えたこともあったし、その必死さに胸を鉄杭で突き刺されるような切なさを覚えたこともあった。それでも、中里の前では、斜に構えるようにしていた。妙義山で、妙義ナイトキッズの庄司慎吾が中里毅と接する時は、そうだったからだ。二人きりでも、そうでなければならなかった。妙義ナイトキッズの庄司慎吾と中里毅であり続けるためにも、そこから外れるわけにはいかなかった。だから、意識の準備が必要だったのだ。中里と個人的に二人きりになっても、妙義ナイトキッズの庄司慎吾でいるための準備が。
 だが最早、すべてが遠く、他人の記憶のようだった。
 慎吾は目を開いた。裸の中里が横になっている。さっきと変わらない。以前とは変わった。走り屋同士の関係で、こんなことは起こり得ない。同じチームのメンバーという関係で、こんなことは起こり得ない。そこへの戻りようなど、思いつきもしなかった。これをどう処理するべきかなど、考えもつかなかった。ひとまず立ち上がって、ベッドに放り投げたバッグから、首輪を取り出す。赤い首輪だ。てらてらとしている。犬の毛が何本かついていた。目につく毛をすべて落としてから、中里の横にしゃがむ。首にあざが浮いていた。間違いなく慎吾が絞めた跡だった。赤い首輪を、その首の、鎖骨に近い位置に通した。鎖はベッドパイプに巻きつける。ロープの時よりも、締めつけにも鎖にも、余裕をもたせた。手で解いたロープはゴミ箱に投げた。入った。燃えるゴミでいいだろう。
 また立って、中里を見下ろす。首輪をつける時も、抵抗はしなかった。中里は、うんざりとした顔をしていた。自分も似たような顔をしているだろう。首輪がつくと、本格的に監禁をしているような中里の見栄えだった。全裸の男を監禁している。ぞっとしない状況だ。自分が招いた状況だが、うんざりする。それを、客観的に見られなくなってきている自分にも、うんざりする。
 もう何もしたくなくなっていたが、裸の男をこのままカーペットに転がしておく必要もなかった。歩きづらいし、テレビを見る最適な位置が奪われている。座ったままの方が高さが合うのだ。慎吾は一つ息を吐き、中里の横にしゃがんで、腕を背中と膝の裏に差し込んだ。力をこめて体を持ち上げ、ベッドに移す。あと一秒経っていたら腰が砕けていたかもしれない。だが、腰が砕ける前に、ベッドに載せ終えた。
 押入れからかび臭い毛布を出して、中里の体にかけた。代わりに掛け布団を取って床に置く。棚から救急箱を出し、壁にかけている鏡を見ながら湿布を貼り、テープで押さえた。やはり湿布の匂いがきついが、貼った方が痛みが引く気がした。鼻の奥にある違和感だけは取れなかった。鼻をすすってもそれが取れないことを確認してから、部屋の電気を消し、携帯電話の目覚まし機能を確認してから、カーペットの上で、布団にくるまった。中里は、何も言わなかった。



 ◆ ◇ ◆



「お前は変わんねえよな」
「あ?」
「いつでもよ」
「そりゃ、お前の方だろ。対応力がねえんだから」
「そういうことじゃねえよ」
「じゃあ、どういうことだ」
「さあな」
「お前、そろそろ考えてもの言うってこと、覚えた方がいいぜ」
「お前に言われることじゃねえよ」
「そうか」
「ああ」
「そうだな」
「ああ」



 ◆ ◇ ◆



 眠りは浅かった。だが時間は確実に経っていた。携帯電話のアラームが鳴る前に、完全に覚醒した。カーテンを閉めていなかった部屋には日が差し込んでいたが、まだ薄闇の匂いが残っていた。慎吾は床から起き上がり、鼻から取れかかっていた湿布を剥がしてテーブルに置き、首と肩を回した。ボキボキと鳴った。起き上がって手を上げて背を伸ばす。そこでもまたボキボキと鳴った。一つ息を吐いて、ベッドを見る。一人分のふくらみをもった毛布がある。規則的に、わずかに上下に動いている。中里がそこに裸でいるはずだった。ベッドヘッドのパイプから鎖が伸びたままだ。もしかしたら、死んでいるかもしれない。心臓発作や脳卒中は突然起こるだろうし、こちらが寝ている間に首輪で何とか首に負荷をかけ自殺を試みたかもしれない。毛布が動いているのは目の錯覚でそう見えるだけかもしれない。慎吾は毛布に手を伸ばしていた。そっとまくる。中里の頭が見えた。顔がこちらを向いている。目を閉じている。呼吸音が聞こえた。眠っているようだった。薄く皮が剥けている唇が、わずかに開いている。ひげが、顎と頬と鼻の下に着々と生えている。まぶたが時折痙攣する。目の下に浅く影を作っているまつげが、そのたび揺れる。顔には見て分かるほど皮脂が浮いている。その上に、何か苦しげなものも浮いていた。それが何かを確かめるためより近くで見ようとして、そこで慎吾はしばらく中里の寝顔を眺めていた自分に気付き、毛布をその頭の上に慌てて、だがゆっくりと戻した。壁にかけている時計を見た。二分は経っていた。
 洗面所へ行き、歯を磨き、剃刀でひげを剃る。鼻はまだ若干腫れあざになってるが、顔を洗ってローションを肌に叩き込むと、さっぱりとして気分も上向いた。だが部屋に戻ると中里が毛布から頭を出しており、気分は下がり、元に戻った。目が合った。挨拶はしなかった。言葉で存在を確認する必要性を感じなかった。台所で、水を入れたやかんを火にかけ、その間に鼻に湿布を貼ってテープで押さえた。湯が沸いたところでインスタントコーヒーをカップに作る。そのまま飲み干して朝食は終わりだった。どちらかの家に泊まった翌日の朝、慎吾が固形物を摂取しないと、いつも、中里は、それを不健康だと言ったものだった。車に金をつぎ込んでいるくせに、衣食住に対してこだわる面があった。そんな中里も、いつからか当たり前になっていた。
「おい」
 カップを洗って部屋に戻り外出着に身を包んだところで、毛布にくるまったままの中里の声がした。自然と、不健康だと言ってくるのだ思った。中里には首輪がついているし、裸だが、泊まらせたような感覚が脳に染み渡っていた。慎吾はベッドの傍まで行き、何だ、と問うた。中里は毛布から出ている顔を向けてきた。皮脂の上に、更に脂汗の浮いた顔をしていた。
「トイレに行かせてくれ」
 切迫した声だった。息が浅く、小さい。慎吾は何を言われているのか理解しかねた。ベッドに投げ飛ばしたままのバッグを肩にかけている間に、中里が何を言ったのか理解した。そして言った。
「時間ねえんだよ、俺は」
「頼む。我慢、できねえ」
 顔をこまごまとしかめながら中里は言った。相当厳しそうだった。ベッドの上で漏らされては処理に困る。だが、わざわざトイレへ連れて行くのも面倒だ。慎吾は部屋を見回した。床に、昨日空にした五〇〇ml容量のウーロン茶のペットボトルがあった。バッグを一旦床に置いて、ペットボトルを左手に取り、右手で中里の体にかかっている毛布を足までめくる。ぱっとしない裸身が現れた。左右のわき腹がまばらに青黒い。蹴ったせいだろう。中里はそんな体をもぞりと動かしたが、こちらの視線から隠れようとはしなかった。ここまできて隠れることも無駄だと理解しているのかもしれない。裸身を晒したところでそこに特別な意味はないと悟ったのかもしれない。いずれにせよ、中里は股間を隠そうともしなかった。慎吾はその股間にある萎びたペニスの先端にペットボトルの口をあてがった。
「しろよ」
 言うと、中里の血走った目が見開いた。
「何……」
「さっさと出せ。遅刻する」
 時間にはまだ余裕があったが、慎吾は中里の顔を睨むように見下ろしながらそう言い切った。面倒をこれ以上抱えていたくなかった。中里は相変わらずこまごまと顔をしかめながら、目を泳がせた。排尿をする気配はない。相当我慢しているはずだった。顔を伝っている脂汗の量でそれは分かる。ここで膀胱を押して勢い余ったりしてもそれはそれで厄介だ。慎吾は舌打ちして、中里から顔を背けた。できる限り背を向けるようにする。中里の排尿場面など、慎吾には見る気がなかった。もしかしたら、見れば興奮はするかもしれない。だが、興奮する気がなかった。余計な手順を省きたいだけだった。
 何も言わずにそのままでいると、左手に持ったペットボトルに軽い衝撃があった。それと排尿音が立つのはほぼ同時だった。底は下に向けているから溢れることはないだろうが、漏らされる不安がないといえば嘘だった。左手にかかる重みと音が止まるまで、やきもきした。
「終わったか」
 静けさが部屋に戻ってから、慎吾は中里にできうる限り背を向けたまま尋ねた。答えはなかった。おい、と少し声を大きくすると、ああ、と聞き取りづらい声が返ってきた。中里を見ぬまま左手を引き寄せる。ペットボトルには確かに尿が入っていた。漏れてはいないようだった。左手は濡れていない。シーツや毛布が汚れるのは割り切っていた。どうせ中里を寝かせておくのだ。最後に洗えばいいだけのことだ。最後はあるはずだった。見通しなどまったくないが、永遠とこんなことを続ける気もなかった。慎吾はペットボトルを持って便所へ行き、中身を流した。また使うことになるだろうから、ペットボトルは洗わなかった。部屋にはまたアンモニア臭が漂い出しているようにも感じられたが、そろそろどうでもよくなってきた。匂いなど慣れる。再び空になったペットボトルを床に置き、部屋の隅に置きっぱなしにしている買い物袋からクリームパンを取った。たまに甘いものが食べたくなるから買っていた。賞味期限は今日だった。そこで、裸身を晒したままの中里をまともに見た。こちらに背を向けていた。慎吾はクリームパンの包装を破り、パンを片手に持って、片手で中里の毛布を再びかけた。中里が、鈍い動きでこちらに顔を向けてきた。その口にパンを突き入れてから、慎吾は言った。
「帰ってきたら、ちゃんとしたもん食わせてやるよ」
 パンの三分の一を口に入れたまま、中里は訝しげに顔をしかめた。他に言うことはなかった。だが、中里の視線を受けるうちに、喉の奥に引っかかっていたものが、外に出たがった。口が、動いていた。
「水も飲ませる。殺しゃしねえ。このままにもしとかねえ。多分」
 言葉を発すると、自分が何をやっているのか、分からなくなってきた。中里の訝しげな目が、混乱を煽った。
「俺だって、こんなことは……」
 そう言った途端、無駄だ、と強く思った。無駄なことをしている。慎吾は舌打ちをした。それ以上は何も言わなかった。床に置いたバッグを肩にかけ、一応手を洗ってから、家を出た。



「まあお前のことは信用してるけど」、と黒縁の眼鏡がやたらと似合う主任が言った。「あんまり見栄えの悪い顔にはなるなよ。ただでさえお前、他の奴よりガラ悪いんだからよ」
「はい。すみません」
「はいよ」
 そう言って面倒くさげに手を振る主任に頭を下げて、慎吾は事務所からホールに戻った。職場には慎吾が女に鼻を噛まれたという話がまことしやかに流れていた。本当かと聞かれるたびに、転んで鼻を打ったのだと答えた。どうせ誰も信じてはいまい。主任もだ。腹黒い男だった。尚更、本当のことなど言えはしない。説明のしようもない。もとより、誰に知られたくもなかった。首輪を譲ってきた同僚には昼食をおごらせるだけにした。誰も何も知らなかった。
 チームの連中とはそう会わない。春になって頻繁に峠に足を運ぶようになれば嫌でも顔をつき合わせるから、それまでは皆勝手にやっている。勝手にやっている中で会うのは偶然だ。相手が店に客として来る時などだった。話はする。だが騒音のおかげでお互いの声もそう聞こえないし、立ち止まっているうちに指示が飛んでくるから自然と生存確認だけになる。その日、店に現れたチームの古参で自称パチプロ、他称ロクデナシの男には、生きてるかと聞かれてまあなと答えた後、続けて中里と会ってるかと問われた。いや、と慎吾は答えた。あいつも色々大変らしいぜ、と男はパチンコ台から目を離さずに言った。あいつの会社潰れたみてえだし。俺は会ってねえな、と慎吾は言って、その男の席から離れた。まだ、誰も何も知らない。
 職場まで車で二十分。考えたのは、仕事のことでも車のことでも次の休みに何をするかということでもなかった。部屋のことだ。中里のいる自分の部屋だった。それが前提だ。中里は慎吾の部屋にいる。それだけを考える。いつも通り、峠にいる自分を思い出す。あの男が問題なのではない。自分があの男の前で、走り屋の、妙義ナイトキッズの自分であり続けられるか、それが問題なのだ。意識の準備だった。今からでは遅い。だが、少しでも取り戻さなければならない。ぶれのない対応をして、現状に、鮮明な意味を与えなければならない。このままではいられない。中里も衰弱するだろうが、こちらの精神も蝕まれる。家に帰れば中里がいる。事態を割り切るまでは、中里が常にいる生活になる。家に帰らなければ、一人ではいられるだろう。夜通し遊べる暇人は知り合いにいくらでもいるし、寒さも和らいできた、車で寝起きすることもできなくはない。だが、部屋の中はどうしても気になる。中里がどうしているか、気になって仕様がなくなる。今でさえそうだ。仕事中も、休憩中も、頭の片隅にその存在が、居座っていた。あの男をどうするか。あの男は生きてるか。中里は、死んではいないか。逃げていないか。どうすればいいのか。自分は何をしたいのか。中里をどうしたいのか。どうするべきなのか。それを少しでも気にするだけで、神経がいつも以上に磨り減る感じがある。何かに追い詰められている感じがある。靄だ。靄に取り込まれて、視界が利かなくなり、声を出してもどこにも届かず、聴覚も役立たくなり、しまいには動くことすらできなくなる。そして、気が狂う。そんなことを、とても、延々と続けられそうにはなかった。
 中里が、逃げ出していれば、別だ。始末をつけないうちに、これは終わる。終わってしまう。だが、逃げ出せるか? 手は背中に回してロープで縛ってある。足首もロープで縛ってはいるが肩幅まではいかないまでも開ける程度の余裕をもたせている。指も動かせる、物を足で挟むことは可能だろう。例えばテーブルの上。ナイフはしまっていない。床に一旦おりて、ナイフを足で掴んで刃を出せば、ロープを切ることも可能だろう。例えば小便をロープに染み込ませれば繊維がほぐれてちぎることもできるかもしれない。例えば足で窓を蹴り破ってガラスの破片で処置することもできるかもしれない。そこまでできるなら、窓際にかけてあるジャンパーから携帯電話を取り出して、助けを呼ぶことも可能だろう。時間はたっぷりある。ゆっくりと脱出は企てられる。実際もう、中里は逃げているかもしれない。
 慎吾はアクセルペダルを踏んでいる足を動かそうとして、やめた。スピードは一定を保った。逃げるなら、逃げればいい。追いはしない。逃げられたら、始末はつけられなくなる。だからわざわざロープまで出して、首輪まで他人から貰って拘束した。初対面の時のように、忘れようとして忘れられず、感覚の消えた記憶だけが残り、それに現状が囚われることだけは、避けたかった。
 だが、結局のところ、始末をつけられる自信はない。それが二人にとってどういった意味を持ち、どういった感情を定める事態であるかを、決められる自信など、どこにもない。だから、中里が自主的に逃げてくれれば、逃げられたというだけで済む。深く考えずに済む。おそらく事態に余計な意味を与えるよりは、その方が楽だ。筋を通したら、膨大な靄の中をさまようことはなくなるだろうが、記憶は明瞭さをもって永遠に残るだろう。中里を永遠に、頭から追い出せなくなるだろう。ぞっとすることだった。そこまで、こだわりたくないのだ。執着したくない。無駄なことだ。無駄なことを、俺は、いつまでやってんだ?
 少なくとも、まだ続いてはいた。家に帰ると、土間に薄汚れた白いスニーカーがまだあった。部屋のベッドの上には中里がそのままいた。逃げていない。がっかりした。そして、がっかりした自分に気付くと、何にがっかりしたのか、分からなくなるのだった。どうでもよくなる。中里は逃げていない。まだ捕まえていられる。まだ、自分も、捕まっている。それだけだ。
 中里は、与えたパンは食べたようだった。小便をした様子はなかった。確認してから、風呂場に行き、浴槽に湯を溜める。その間に、胃が麺を欲していたので、台所でうどんを茹でた。二人分だ。汁は薄味にした。中里はいる。言った通りにはしたかった。しなければならないという思いがあった。養う養わないということではない。それは怒り任せに言ったことだ。ちゃんとしたものを食べさせて、水も飲ませる。このままにはしておかない。それは、確かに思っていたはずのことだった。最後だけは、いつできるか分からない。だが、今は、それ以外の二つならできる。台所で一人、うどんを飲むように食べた。それからもう一人分の器を持って部屋に戻り、ベッドの上に中里を座らせて、その前にテーブルを引き寄せそこに座り、うどんを食べさせた。半ばのびており、箸で何本かずつ口へ運んでやっているうちにどんどんとのびていったが、中里はすべて食べ、汁まで飲み干した。最後にティッシュで口を拭いてやり、コップから水を飲ませた。抵抗はなかった。むしろ協力的だった。敵視されている空気はない。隙を窺っているのかもしれない。中里が何を考えているのか、よく分からなかった。聞きもしなかった。
 食器を片付けてから、鼻に貼った湿布を剥がして捨て、下着を持って風呂場に向かった。久々に湯船に浸かると、疲労が湯に溶け出していくようで、何もかもどうでもよくなってきた。誰が何を考えていようが、自分がどう考えていようが、どうでもいいことだ。浴槽の中で眠ってしまいたかった。だが、気分が悪くなってきた。のぼせている。最後に水を頭から被り、湯を抜いて風呂場をシャワーで流してから、脱衣場に出ると、立ちくらみがした。体を拭いて下着を身につけ、しばらく洗濯機に背を預け、床に座り込んでいた。何も考えなかった。体の重みが鬱陶しいだけだった。頭がはっきりとしてきたところで、立ち上がった。部屋に戻る。ベッドの上には毛布にくるまった中里がいる。どうでもいい、という気分は続かなかった。頭が現実を認識する。体の重みより、部屋の空気の重さが鬱陶しくなった。もう、うんざりするのみだった。
 部屋を片付ける、買ったまま読んでいない本を読む、収支計算をする、早々と寝る。やることはある。だが、ベッドの端を背もたれにしながら床に座っていると、そのベッドにいる中里の息遣いが聞こえてきて、集中力が削がれるのだった。外へ出れば、気分は幾分晴れるだろう。夜の街を車で走ってもいい。しかしいずれ、中里のことは気にかかる。仕事中でも気になった。考える時間があるのなら、気分が晴れる以上に、神経が磨り減り、苛立ちが溜まるだろう。この部屋にいることが、最も精神の負担を減らすという結論しか、出なかった。
 リモコンを手に取り、テレビを点けた。適当にチャンネルを変えるが、どの番組も見る気がしなかった。消そうとして、その前に、ベッドへ顔をやった。中里が、毛布から顔を出して、こちらを向いている。目が合った。
「何か見るか」
 聞いていた。中里は、ゆっくり瞬きを二回してから、かすれた声で、いや、と言った。慎吾は頷くだけで、何も言わなかった。テレビは消さなかった。旅番組が流れている間、煙草を吸い、パチンコ情報誌を読んだ。和牛の美味い旅館が出たところで、携帯電話の着信音が鳴った。慎吾のではなかった。バイブにしてあるし、着信音は単調なものではない。煙草を咥えたまま腰を上げて、窓際に吊るしてある中里のジャンパーのポケットに手を入れ、携帯電話を抜いた。見ると、知らない名前が液晶に表示されている。携帯電話を開きながら中里の傍まで行き、通話ボタンを押してから、耳に当ててやった。怪訝そうに見てきた中里が、慌てたように目を見開いて、どもりながら声を出した。
「あ、ああ……いや、ああ。俺だ。うん。どうした。え? ああ、うん……いや、何とか……うん……平気だよ。問題ねえ」
 目を泳がせながら、何度か咳払いをしながら、中里は電話の相手と話を続ける。慎吾は中里の耳に携帯電話を当てたまま、煙草の灰を落とし、テレビに目を戻した。
「……いや……友達の家に……ああ、そうだ、どうせ、仕事もねえし……ああ。しばらく遊ぼうと……分かった。ああ、連絡する。こっちから。こっちは大丈夫だ。じゃあな。うん。ありがとよ。ああ、じゃあ」
 旅番組が終わった。電話も終わったようだった。中里に顔を戻す。寝ているままの中里が上目で見てきて、頷いた。慎吾は携帯電話を中里の耳から外し、閉じた。立ち上がると、中里が言った。
「同じ仕事やってた奴が……」
「聞いてねえよ」
 中里の言葉を途中で切り落とし、慎吾は携帯電話を中里のジャンパーに戻して、棚にねじ込んでいた月遅れの車雑誌を読み始めた。テレビではニュースののちに男と女がどうにかなるドラマが始まっていた。煙草は三本でやめた。雑誌の文字を片隅まで追っているうちに眠気がやってきたので、歯を磨いて寝た。まだ若干の痛みと違和感はあったが、鼻に湿布はもうしなかった。



 眠りは変わらず浅い。時計の秒針を刻む音が断続的に遠く聞こえていた。それでも時間は過ぎる。疲労は抜け切っていない。仕事は休みだった。思う存分、床に寝転がっていて、結局、午前十時過ぎに起きた。窓から見える外は快晴だった。顔を洗い、インスタントのコーヒーを二杯飲み、洗濯機を回しながら、寝返り以外滅多な動きを見せずにいる中里にパンを食わせてコーヒーと水を飲ませペットボトルに小便をさせた。洗濯物を全部干し終えると、もう十一時を回っていた。着替えて近所のスーパーに買い物に出た。安い食材と日用品と煙草を買うと、財布が軽くなった。銀行に寄り金を下ろしてから、帰路につく。アパートの駐車場に車を置くと、すぐには出られない。少し考える。中里が逃げていたらどうするかだ。短い時間しか考えない。それならそれでいい、といつまでも変わりがなさそうな結論を出してから、部屋に戻る。土間には薄汚れた白いスニーカーがある。スーパーの袋を冷蔵庫の前に置いてからベッドに向かうと、中里は変わらずその上に寝ていた。毛布にくるまっている。慎吾は中里を見下ろした。毛布から頭を出した中里が、こちらを見上げてきた。生きている。白い肌にひげが目立つ。襤褸のような顔をしている。しかめられているから陰影が強い。
「頼む、トイレに、行かせてくれ」
 見下ろしたままでいると、顔に陰影をより濃く浮かべながら、中里が浅い息で言った。慎吾はため息を吐いてから、言った。
「自分でできるだろ、そこ」、と床に顎をしゃくる。「下がんのも上がんのも。俺がいなけりゃ小便もできねえなんて、そんな奴かよ、お前」
 言葉をかける間に、中里の顔に次々影が浮いた。顔面筋が不規則に動いているのだった。中里は浅く息をするだけだった。言い返してはこない。目はそこらをさまよっている。慎吾を見ようとしなかった。見る余裕がなさそうだった。首の筋肉までが不規則に動くようで、瞬間的に妙な動きをする。それでも何も言おうとしない。慎吾は腹の底からわきあがってきた冷たいものが、頭の後ろに居座るのを感じた。つい、顔をしかめていた。
「小便じゃねえのか」
 問いだった。中里は数拍置いてから、今までの不規則な動きが嘘のように、落ち着いた顔と声で、ああ、と言った。シャレになんねえな、と慎吾は口の中で呟いた。漏らされて困るのは、小便でも大便でも同じだった。排泄物を手動で始末しなければならないし、部屋に匂いはこもるだろう。中里は呼吸を落ち着かせていた。先ほどからの様子を考えると、波が去ったようだった。だがこれで終わりかどうかは分からない。飯を食い、排泄する。それが正常な人間だ。中里を異常な人間にしたいとは思わなかった。どうしたいわけでもなかった。ともかく、余計な手間のかかる事態は避けたかった。
 中里の首輪から伸びている鎖をベッドパイプから外し、手に巻きつける。そのまま引っ張って、便所へ誘導した。中里を便器に座らせてからドアを閉める。鎖の分はどうしても開く。そこから、さっさとしろと言った。うんざりしきっていた。ここにいる以上、中里の排便の音は聞くことになる。そんなことなど知りたくもない。排尿の音も既に聞いている。そんなことなど知りたくもなかった。どうしたいわけでもないのだ。どうしたいわけでもない。なら、何で、こんなことをやっている? どうにかしたいから、こんなことになってるんじゃないのか? 力む中里の息が聞こえる。こんな奴をどうするって? 単なる同じチームのメンバーだ。走り屋。ライバルでもある。妙義山のダウンヒルで唯一互角に張り合える奴。それだけだ。それ以上、自分で意味をつけようとしたことはない。
 だから、なら、何でこんなことをやってんだ、俺は。
 音が途絶えた気がして、トイレのドアを叩き、終わったか、と聞いた。含みのある間ののち、ああ、という中里の声が返ってきた。慎吾はトイレのドアを開いた。中里は便器に座ったままだった。鎖を引いて立ち上がらせて、便器の水を流す。便は流れていった。それから鎖を引っ張って風呂場に進んだ。おい、と中里は慌てた声を上げていたが、無視をした。浴室に入り、タオル掛けに首輪の鎖を通して、中里に後ろを向かせる。それから、自分のジーンズの裾とシャツの袖をまくり、シャワーの温度を確認する。尻をトイレットペーパーで拭いてやりたくはないが、汚れっぱなしで部屋にいられるのも不快だ。面倒だが、勢いを強くしたシャワーで流す以外に適当な方法は思い浮かばなかった。実際そうやって尻に当てると、中里は変な声を上げ、鎖を鳴らした。だが、逃げられることはない。慎吾はあくびをした。シャワーを中里の尻に当てたまま、睡眠を欲する頭で、これも拭いてやらなきゃならない、と思うと、どうやっても直接洗わなければ汚れが残ることに気がついた。眠かった。他人の世話には慣れていない。一人で生きられない奴なんぞ、さっさと首を括ればいいと思う。そう思いながらも、慎吾はシャワーを一旦止め、右手にボディーソープを取っていた。指と手のひらに馴染ませてから、その手を中里の尻に差し込んだ。中里は驚いたような声を上げ、体を壁に押しつけた。自分から追い込むようなものだった。慎吾はそのまま中里の尻でボディソープを泡立てた。
「洗うんだ。じっとしてろ」
 自分のケツも拭けねえんだから。そこまでは言わなかった。尻を拭けなくさせているのは慎吾だった。これは慎吾の責任だった。こんなことをわざわざしたいわけではない。だが、義務感があった。この状況を招いているのは自分なのだから、少しは自分で処理をしなければならない。それは思考を押し潰す強制的な義務感だった。だから慎吾は中里の尻の狭間を洗っている間、ほとんど頭を働かせていなかった。指を滑らせているうちに、中里の肛門に中指が入っても、特に何も考えなかった。指が肉に締め付けられて、中里は息を詰めていた。そこで、ようやく頭が回り出した。記憶があった。一度、入れたことがある。初対面だった。犯した時だ。その時は、指にコンドームをつけた。財布に入れっぱなしのものが残っていた。だから使った。その時とは、感覚が違った。感覚も、戻っていた。その記憶通り、感覚通りに入った指を動かしていた。
「……おいっ……」
 中里が身をよじり、鎖を鳴らす。瞬間的に苛立ちを覚え、慎吾は左手で、中里の頭を浴室の壁に押しつけた。右手の中指が入った尻の中は、きついが、泡のせいか妙に滑りが良い。あの時も、指を入れたのは後ろからだった。犯したのも後ろからだ。顔は見なかった。声だけが聞こえていた。鬱陶しい声だった。唸っていた。凶暴な犬でも犯しているようだった。今の中里も、唸っている。音がよく反響し、非現実感をもたらす。入れた中指で、内側をゆっくり押しては戻す。中里の体は緊張している。記憶が鮮明になっていく。感覚も鮮明になっていく。あの頃は、毎日が新鮮味に欠けていて、何をやっても退屈さを追いやれなかった。そこで、踏みにじるに最適なものが、目の前に現れたから、欲が出た。欲望だ。みっともないほど身勝手で醜い、欲望だった。とてつもなく、興奮していた。いくらでも射精ができそうだった。それは異常な時間だった。今と似ている。中里は幾度も幾度も拒絶の声を上げては唸っている。指は肉に締めつけられている。だが、あんな欲望はない。興奮しているような気もするが、過去の感覚が今に蘇っているだけのようでもある。勃起はしていないのだ。頭がどこか冷えている。ただ、異常な時間だとは思える。異常な空間だ。俺は何をしてるんだ? そうも思う。だが、指は動かしている。どれほど時間が経ったかは分からない。中里の唸りは断続的になり、やがて単なる息となった。その際の肉体の痙攣は、尻の中に入れていた指が喰い取られそうなほどだった。喰いつきが緩んだところで指を抜き、一息吐いてから、中里に前を向かせた。その腹に、わずかに精液があった。壁を見ると、いくらか飛び散っていた。中里は、気が抜けたような顔になっていた。うんざりしているような顔でもあった。自分も似たような顔をしているのだろうと慎吾には思えた。うんざりするしかない。排泄物で汚れているだろう尻を洗うはずが、射精をさせた。中里は射精した。少なからず、快感があったということだ。快感をやったということだ。うんざりするしかなかった。無駄なことばかりだった。
 このまま中里を放り出して、ベッドで昼寝をしたかった。だが義務感は残っていた。処理しなければならない。開き直った。全身を洗ってやることにした。この男の体臭よりも、慣れたソープの香りが部屋に漂う方が、気分は良い。まず中里の尻に指を入れた右手を丹念に洗ってから、タオルにボディソープをつけ、泡立てて、中里の全身を擦った。中里は、うんざりしきった顔のまま、抵抗しなかった。首、肩、胸、腹、背中、下腹部、足とタオルで擦り、ついでに後ろ向きにさせたまま、頭をシャンプーで洗い、シャワーをかけた。泡を落とし、最後に顔に湯を浴びせる。中里が顔をしかめ、咳き込んでいる間に、壁についた精液を落としたタオルを洗う。それから浴室全体にシャワーを浴びせ、中里の首輪の鎖を手に巻きつけ、脱衣場に上がった。
 中里を立たせたまま、新しいバスタオルで足から全身、ロープの水気を拭き取る。中里はやはり抵抗しなかった。最後に顔も擦ってやり、使ったバスタオルは洗濯機にぶち込んだ。それから中里と向き合う。その顔は、湯を浴びせたからか血行の良い肌になっていたが、削げ切った頬にはカビのようにひげが住んでおり、落ち窪んだ眼窩にある目は充血し、その前にいる慎吾を見てはおらず、総じてうつろだった。その中里の顔を見ているうちに、立ちくらみがした。視界が狭まり、思わず目を閉じる。吐き気に似たものを覚え、意識が飛びかけたが、すぐに平常な感覚が戻り、慎吾が倒れることはなかった。目を開くと、中里の顔が前にあった。中里は、慎吾を見ていた。意識の正常な人間の顔をしていた。
「何やってんだ、お前」
 だが、その声には、半透膜でもかかっているような、遠さがあった。動いたことによる疲労も鎖の重みも、確かに感じられるのに、幾度かけられたか分からぬ中里によるその問いも、それに対する自分の声も、慎吾には現実味が薄いものとなった。
「お前こそ、何やってんだよ」
 そう言うと、中里の顔はまた、うつろになった。慎吾は舌打ちし、首輪の鎖を引っ張り部屋に戻った。鎖をベッドヘッドのパイプにつなぎ、中里をベッドに寝かせようとして、シーツの汚れが目についた。折角洗ってやったのに、汚れたところに寝かしては、意味がない。そう感じると、動かずにはいられなかった。出所の知れない強烈な義務感だった。中里を掛け布団の上に座らせ、ベッドのシーツを剥がし、枕カバーを取り、洗濯機に入れた。白いものは次の休みにまとめて洗おうと考えていたが、洗えるだけ洗うことにした。まだ日は出ている。毛布は外に無理矢理干した。それから新しいシーツと枕カバーに取り替えたベッドに、中里に乗るように言った。それほど苦もなさそうに中里はベッドに上がり、寝転がり、こちらに背を向けた。その髪にも後ろ手と足首を括っているロープにもまだ水が染み込んでいそうだったが、もうどうでもよかった。座ると眠ってしまいそうなので、立ったまま動く。台所に行くと、冷蔵庫の前にスーパーの袋が置かれたままだった。仕分けるのを忘れていた。必要な食材を冷蔵庫に入れ、日用品は使用する場所に収納する。動いているうちに、頭が少しずつ鈍ってきたので、コーヒーを一杯入れた。シンクの端に腰かけながら、砂糖も何も入れずに少しずつ飲む。中里がいないと考えれば、いつもと特に変わらぬ休日だった。だが、中里がいる。ベッドの上に寝転がっている。何時間も何時間も、ただベッドの上に寝転がっている。一人の時もそうだったのだろうか。手は使えない。足は使えるから、床に置いたままの雑誌を読んでいたのかもしれない。リモコンを使えればテレビも見られる。自分の部屋とはいえ、少し物が動いた程度の変化を気にするほど、慎吾は神経質ではない。一人の時間、何かはしているだろう。何もせずにただベッドの上に寝ているとしたら、もう、狂い始めているはずだ。慎吾はそう思う。自分なら狂うと思う。死んだ方がマシだと思う。それ以前に、逃げようとする。逃げられるはずなのだ。あの程度の拘束、中里が、解けないはずはないのだ。そうだろうか? 分からない。あいつは何を考えてんだ? 分からない。何やってんだ。それは、お互い様の質問だ。
 コーヒーをほとんど飲み終えると、洗濯も脱水も終わっていた。シーツだけは外に干して、後は室内に干す。それから煙草を吸った。吸いながら、テーブルの上を片付けた。ゴミが多い。溜まったゴミも仕分ける。中里はこちらに背を向けたまま寝転がっている。手首も足首も鬱血している様子はない。まだ体は大丈夫だろう。だが、気が確かかは分からない。
「おい」
 声をかけると、身じろぎはする。だが振り向いてはこない。もう一度、おい、と言った。中里は、こちらを向いた。怪訝そうな顔をしている。つまり、それだけの表情を作る気は、まだ残っているらしい。
「大丈夫か」
 言ってから、間抜けな言葉だと慎吾は思った。中里をこうして拘束している自分が、聞くべきことではないと思えた。中里の顔に、一瞬失望の影が浮いたように見えた。だがそれはすぐ消えて、目を閉じた中里が、再び背を向け、ああ、と言った。慎吾は、頭の後ろにまだ、冷たいものが居座っているのを感じた。中里の気はまだ確かなようだった。何も変わっていない。そんな気がする。こうして、拘束されているからとはいえ、自らベッドに寝ている中里を見下ろしていると、この男が、何も変わっていない、だから自分も何も変わっていない、そんな気がする。錯覚だとは分かっていた。変わっている。走り屋同士でこんなことはありえない。妙義ナイトキッズの庄司慎吾と中里毅で、こんなことはありえないのだ。
 では、ここにいるのは、一体誰だ?
 何か、頭がじんじんとしてきた。中里を見ることも、この状況について考えることもやめて、慎吾は煙草を吸い終えてから、夕食の準備を始めた。その日はもう、中里と話はしなかった。



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