蝿 1/3
中里毅が今まで歩んできた人生の後半において、物事の始まりは大抵夜だった。初めて峠を駆る車を見たのも、その隣に乗ったのも、欲しい車に出会ったのも、多くの人間と剥き出しの感情を交わしたのも、すべては太陽が落ち空が青黒く塗られた夜から始まった。
その日、雪の到来を思わせる空気に満ちた季節、その時も夜である。午後八時過ぎ、折角の休日であるから峠に行こうと思い立ち、中里は仮眠を取るべく布団に潜り込んでいた。
ゆらりと睡魔が頭の端を覆ってきた頃、甲高い電子音が頭蓋骨の内部で反響した。
それを電話のベルと認識できるまでの現実にいた中里は、どこのどいつだタイミングが悪い、と誰にともなく毒づき、布団から抜け出して頭を掻きながらけたたましくなる電話の受話器を取り上げた。
「はい中里」
『おうどーもこんばんは中里さん、あなたの愛しのショージシンゴサマですよォ』
雑音の中、それでも鮮明に荒く艶やかな声がして中里は面食らった。五秒近く経ってからようやく、はあ? と第一声を発すると、庄司慎吾は太っ腹なオヤジのように、がはははは、と笑った。
『寝てただろお前、声すっげえことになってるぜ。セクシーだ』
面と向かって言われることは一生ないであろう言葉を突きつけられ、信じがたさに襲われた中里はつい、「お前、慎吾か」と確認していた。
『そうだよ俺だよ慎吾だよ、言ったじゃねえか覚えが悪いな相変わらず。しかしまあそりゃいいさ、どうだい毅さん、元気か。俺は元気だ、しかし金がねえな』
「……まあ、元気だが」
適当に答えて中里は、一体こいつはどうしたんだと考えた。
庄司慎吾。峠で走る際には実力的に意識せざるを得ない、顔も目つきも口も品も悪いその男と中里には、一年近い付き合いがあった。だが接点は車のみであり、自宅に電話をかけ合う仲でもないし愛しさを覚えたこともないし、平常目の敵にされることはあれどここまでフランクに接せられることもない。
さて、どういうことか。
嫌がらせ、にしては軽すぎるその調子の出所は、起きぬけで停滞している頭でもすぐに思いついた。
「お前、飲んでんのか」
『ザッツラーイト、1000点獲得でーす』
慎吾の度を越えた陽気な声を聞き、改めて理解する。こいつは完全に酔っている。
日頃は他人の心象を計算し尽くし、中里よりも冷静かつ慎重に行動する慎吾であったが、酔いなどによって一度タガが外れると周囲も省みず、己の思うがままに一直線に突き進む。他人の家に借金取りまがいに押しかけることも朝飯前だ。
そこまで辿りついた慎吾への抵抗は体力と精神力の無駄遣いに終わる、それを中里は短い付き合いの中で身をもって知っていたため、一旦仮眠を諦め、ため息を混じりに聞いた。
「何の用だよ。金がねえから来いってんなら断るぜ」
『バカだなお前、俺がそこまで卑劣なことを貧乏まっしぐらのあなたに頼むわけないでしょうが』
バカとは何だとか前に頼んだことあるじゃねえかとか貧乏まっしぐらは誤解だとか言いたいことは多大にあったが、迅速に通話を終えるために唾を飲み込んで喉の奥に押し込み、じゃあ何の用なんだ、ともう一度聞く。
『だからね、そんな中里毅さんに朗報だよ。タダ酒飲めてタダ飯食える飲み会あるんだけど、一緒に行かねえか』
好条件すぎる話だった。中里は警戒心を強くした。
「行きたきゃ他のヤツを誘えよ、俺じゃなくてもいいだろ。っつーかお前この上飲むのかよ、やめとけ」
『お前に指示される義理はねえし、他のヤツの車になんて乗りたかねえよ。それなら自分で運転してった方がマシだっての』
慎吾の言には、この状態で自分の車を運転し目的地まで行きかねない真剣さがあった。
仕方ねえ。中里は仮眠も峠へ行くことも諦めた。これで切符を切られたり事故を起こして死なれても目覚めが悪いし、慎吾がここまで中里をあからさまに頼ることもそうそうないことだった。あまり嬉しくはないが、たまになら良いか、という気にはなっていた。
「分かったよ、行くよ。足になってやる。その代わり途中で吐きでもしたら即刻降ろすからな」
『お前ね、俺は酔って車に乗ろうが全力疾走しようが今まで吐いたことなんて一度もねえんだよ』
得意げに語る慎吾を、そうですか、と軽く流し、左手を腰に当て背を伸ばした。出かける用意をしなければならない。
「今どこにいるんだ」
首を回しながら聞くと、外、と言われ、だからどこだよと再度聞くと、すぐ外だよ、と返ってきた。すぐ外。中里は受話器を耳から離し顔の前まで持ってきて、は? と睨んだ。直後、電話は切れた。
すぐ外。
手近にあった白のズボンと黒のセーターをともかく着て、思い直して靴下を履き、流しの鏡の前で申し訳程度に髪を整えると、顔を叩いて気合を入れ中里は玄関に向かった。靴を突っかけ急いでドアを開ける。
そこには半信半疑の予想通り、ごつい顔を薄く赤らめて読めない笑みを張り付けている、ジーンズに赤いダウンジャケットを着た庄司慎吾が立っていた。
ドアを閉め鍵もしめ、冷たい風に身を縮めながら、すぐ外かよ、と中里は舌打ちした。
「余計な手間かかんねえだろ」
明朗な笑顔で言った慎吾は、何やってんだお前、と呆れた中里を無視し、さあ行くぞ、と片手を上げた。
「目指すは競馬場」
「今から行ってどうすんだよ」
「そっち方面ってことだ」
寒風が吹き、前方の慎吾がまとう空気が流れてきた。酒気に満ちていた。
駐車場の自分の車の鍵を開け乗り込み、エンジンを始動させると、一足遅れて乗り込んだ慎吾が、相変わらず狭いな、と呟いた。
「文句言うなら降りろ」
「ここまで来させて人を置き去りにするなんて、ヒドイ男だね、あんたは」
「自分で来たんだろ、それでお前、演歌歌詞みてえなこと言ってんじゃねえよ」
「それでもあたしは待っている、あんたが戻ってくることを、ああ旅がらす、旅がらす、ってか」
「何の歌だそりゃ」
「知らん」
「……ところでお前、いくら飲んだんだよ」
「覚えてねえよ、タダ酒だからよ」
シートベルトを締めながら得意げに笑った慎吾に、いいご身分だなと中里が言うと、最高だ、と無駄な力の入っていない笑顔をもらった。
強まる違和感に座りの悪さを得ながらも、中里は適当に相槌を打ち、車を発進させた。
予感は、誰でも気軽に飲めるような地に根を張った店は見当たらず、その代わりひたすら中流の家々が続いていた頃からあった。
にしてもこれはねえだろう、と思う。
「……なあ慎吾」
「何だ」
「場所、間違えてねえか」
眼前に広がる家を首が痛くなるまで見上げ中里が聞くと、ここでいいんだよ、と慎吾は軽く言った。
闇夜に白々と輝くその家は、住宅街のど真ん中にあるとは考えられない広さの庭と造園を持ち、どこぞのワイドショーのお宅訪問で取り上げられても頷ける豪邸という名に相応しいものだった。庭に25メートルプールがないことが不思議なほどだ。
風情のある石畳を歩きながら、なあ慎吾、と再び声をかける。
「表札に、見覚えのある名前があったような気がするんだが」
「気にするな」
「ガレージにも、見覚えのある車が二台あるような気がするんだが」
「気にするな」
「ついでに言うと、駐車場にも何台か見覚えのある車があるような」
「気にするな、生きていりゃ見覚えのある名前も車もいくらでも見る」
「すげえ確率じゃねえか」
「気にするな」
のれんに腕押しの会話に、この場で一人引き返そうかと中里は思ったものの、この慎吾に首輪もつけずに人様の、それもどうも知っているような気がしてならない相手の家に上げるのも、己を許せぬほどに無責任な所業だった。
中里はもう何もかも諦めて、慎吾がドアの豪勢な呼び鈴を鳴らすのをぼんやり見ていた。
インターフォンの応答はなく、突如ドアが開き、男が出てきた。
「話は聞いている。入れ」
ハイウェストのレザーパンツを履き、白いシャツの上に肩から淡いブルーのカーディガンをかけ、袖を首元で結んでいる男が軽やかに言った。柔らかな茶色の髪、輪郭の整ったその顔に収められている、力強く鋭い眉、切れ長の目、通った鼻筋、薄く肉感的な唇には、やはり見覚えがあった。
「どうも、上がらせてもらいますよ」
慎吾は酔っ払い特有の無遠慮さで乱暴に靴を脱ぎ、ジャケットも脱ぎながら男の横を通って広い廊下を先へ進んでいった。
たたきで立ちすくんでいた中里に、久しぶりだな、と男が声をかけてきた。中里は不自然に固まる顔に力を入れ、何とか笑みの形にした。
「……久しぶりだな、高橋」
「お前も来たのか」
「来たというか、足代わりにされたというか」
「まあ入れよ」
高橋涼介は軽快に中里を促した。中里は言われるがままに内部に入り込んだ。
やはりこの家は高橋邸だった。高橋涼介と高橋啓介が住む家だ。群馬の走り屋のカリスマとその弟。群馬の頂点に最も近い男たち。趣味の領域では考えられぬ統制を取っているチーム、レッドサンズのナンバーワンとナンバーツー。そんな肩書きが頭に浮かぶも、中里の心を最大に占める事柄は、目の前を進む泰然とした男の弟に負けた記憶だった。
会いたくねえな、と思う。あの子供のような幼さと肉食獣のような凶暴さを併せ持つ青年。もし自分が慎吾に足代わりにされついでにタダ酒飲ませてもらいに来たことを知られれば、一笑に付されるか歯牙にもかけられないか、どちらかだろう。どちらも遠慮したい。ただでさえこの兄に知られてなけなしのプライドが傷ついているのだ。
しかしそれにしても、
「飲み会って、ここでしてんのか」
「レッドサンズの主要メンバーを集めてな」
リビングにつながるドアを開きながら涼介が答えた。中里は顔をしかめた。
「それで、何であいつ、庄司がお呼ばれされてるんだ」
「啓介が良いと言ったんだよ」
ケイスケ、と中里は口の中で呟いた。嫌な響きだ。
「俺も不都合はなかったからな。捨てる酒や食事を片付けてくれりゃあ言うことはない。ゴミが減る、地球に優しい」
「……庄司は、お前の弟とつながりがあるのか」
「物々交換が行われているとのことだが、俺はよく知らん。干渉もしていない。気になるなら本人に聞け」
厳しい言葉だったが、言い方は柔らかかった。
足を踏み入れたリビングには、フローリングの上に毛足の長く色鮮やかなじゅうたんが敷かれている。百人は詰め込めそうなだけの広さだ。前方に幾分背の高いテーブルが置かれ、そこに市販品らしいオードブルと、大量の瓶とグラスとジョッキがあった。慎吾はその中の瓶の一つをためつすがめつ見ており、傍に歩み寄ってきた涼介に、その瓶を振って見せた。
「おいアニキさん、本題の酒はどこだ」
「ここだよ」
涼介は手近にあったボトルの中身を、テーブルにあった白地に青い花が描かれている湯のみ茶碗に遠慮なく並々と注ぎ、慎吾に渡した。
「おお。やっぱ金持ちは違うね、サービス精神に溢れてる。君も見習え毅クン」
慎吾は目を細めて笑って湯のみを掲げると、液体を一気に飲み干した。テーブルに置き、かーっ、と息を吐く。
そしてそのまま天を仰ぎ、後方に倒れていった。
「おいっ」
間一髪で駆けつけ、中里はその背に腕をかけ体を支え、床との衝突を避けた。ゆっくりとじゅうたんに膝を突き安定させると、頬を叩いて呼びかけた。うめき声が出た。生きてはいる。見た感じ中毒ではない。気を失っている、というよりは眠っている。中里は涼介を見上げた。涼介は湯のみに注いだ透明なボトルを見ながら、なるほど、と頷いた。
「ウォッカだ」
「……知らねえで入れたのか」
「軽いリキュール類だとばかり」
「見て、分からなかったのか」
「認識力が落ちているんだ。しかしその程度で失神するとはな、弱いもんだ」
男の指が回らない湯のみ一杯の一気でその程度か、と思うも、それを飲んでしまったのは慎吾の責任であるから、中里は言わずにおいた。
「まあそいつも急性にはならないだろう。そこの洗面器に顔突っ込んで転がしとけ」
涼介が指差した庭に面した窓のすぐ傍に、赤い洗面器が五個ほど積まれていた。家に似合わず原始的、というか粗雑な品だ。そこにそれがあって本当にいいんですかと確認したくなるほどの似合わなさだが、用意があるに越したことはない、のかもしれない。
しかし中里は慎吾の首下に左手を入れたまま、膝下に右手を入れ、首を振った。
「こうなったらもういいさ。大人しくなったしな、連れて帰るよ」
「途中で寝たまま嘔吐するかも知れんぞ」
中里は慎吾を持ち上げようとし、動きを止めた。
「ゴーサインを出したのは俺だぜ。それに残飯処理してもらえるならありがたい。なるべくゴミは出したかないんだよ。地球に優しく、人に優しく」
涼介は手元にあるジョッキにかち割り氷を入れながら、歌うように呟いた。
車中が反吐で満ちては中里としても相当に困る。ここで涼介の申し出を突っぱねることが得策とは到底言えなかった。
「なら、お言葉に甘えさせてもらうが」
そこで言葉を切り、太ももと腕に力を入れて慎吾の体を持ち上げてから、
「こいつ、布団か何かに寝かせてやってもいいか」
と続けた。ジョッキにテーブルの上に並んでいる多種多様の瓶の底に残っている液体を流し込んでいた涼介は、中里に目だけをやると、顎をしゃくって奥にあるソファを示した。中里は腰に負担がかからぬよう慎重に慎吾をそこまで運び、仰向けに寝かせ、何か忘れているなと思い、積まれていた赤い洗面器を思い出して、一個を取ってソファの前まで戻って来たが、ふと考え直した。
「面倒見がいいんだな」
洗面器があったところで漏れたら意味がない、と考えた挙句、いつでも取れるよう洗面器をソファの慎吾の腹に置き、その首を慎吾のダウンジャケットを敷いた自分の左膝に置いて一段落とした中里に、ジョッキを差し出した涼介が感心したように言った。
面倒起こしたくねえだけだよ、と答えながらジョッキを受け取る。濁った琥珀色の液体が無数の泡を出していた。中里は確認のため、涼介を見た。
「これを、飲めと」
「品質の保証はする」
「品質じゃなくて味を保証してもらえねえか」
「俺は嘘は吐かない主義なんだ。いいから飲むのか飲まないのかはっきりしろ」
圧された中里は、ハイノミマスとジョッキに口を付けた。複雑な味が口内に広がった。甘く辛く苦く、濃く薄い。喉へ押し込むと食道を伝い胃へ落ちるのがまざまざと分かった。何とも言えぬ苦味が舌に残り、むせた。目に涙が溜まり腹の底が熱く煮える。
「……すっげ、何入ってんだこれ」
「洋酒と炭酸水だろうな」
アバウトだな、と言おうとしたが中里は言葉を飲み込んだ。
顔色は大分前に見た記憶にある通りの病的な白さを保っているが、言動といいこの据わった目といい、涼介も酔っていることは明らかだった。口答えをするとそのまま地の底に突き落とされそうな切迫感がある。抵抗は無駄だろう。中里はいよいよ諦めを強くした。
俺はなんてところに来ちまったんだ、と後悔しながら、改めて室内を見回してみる。落ち着いているが美しい調度品があつらえられている。広く染み一つなく見えるキッチン、奥にある床の間風の和室。高い天井、凝った照明。何を取っても庶民的とは言いがたい。フリルをつけた金髪外人メイドの二人や三人がいてしかるべき高級感がある。こんな家に子供の頃から住んでいたら自分はどんな人間になったろうかと想像しかけて中里は、テーブルを挟んで前にあるソファにゆったりと座った涼介を見て、恐ろしくなって、やめた。
それにしても、涼介以外の人間の姿は一向に見当たらなかった。机の散乱具合からはそれなりの人数がいたことは窺い知れる。
「他のヤツらは、どうしたんだ」
「地下でカラオケだ」
聞くと、ワイングラスに口をつけた涼介が答えた。地下。一瞬驚いたが、まあこの家ならあってもおかしくねえな、と思い直す。
「地下室か」
「シェルターだな。象が十匹乗っても核爆発が起こってもビクともしない」
シェルター、と返す。言い慣れていないし聞き慣れてもいない言葉だ。
涼介はワイングラスをテーブルにそっと戻し、組んだ膝に両腕をかけ、庭の方へ目をやった。
「爆弾は、長い間をかけて育て上げてきたものも、何もかもを簡単に壊していく。祖父がよく語っていた。母はそれを聞いて育ったから、余計爆撃に対して神経質だったんだろう。この家を建てる時、最も金をつぎ込んだのがあれだ。といっても完全防音だからな、音楽をする人間に貸し出したりもしている。元は取れてるだろう」
「……へえ」
カエルの子はカエル、という言葉がなぜか瞬時に頭をよぎった。
中里がジョッキの酒をちびちび飲んでいると、言い終えた涼介は立ち上がり、料理を取ってきた。いかにも即席の市販品だったが味は悪くなかった。酒に合う濃さだ。他人の食べかけだということも気にならない。空腹であったが、がっつかないよう中里はなるべく上品に食べた。涼介はその間、中里が食事を取る姿をじっと見ていた。料理を粗方食べ終えて、ジョッキの底まで飲み干しテーブルに置き、唇を舐めた中里は、のんべりとした顔になっていた涼介を見た。
不思議に思った。
「時間、あるのか」
「何の」
「こんなことやってる」
ねえよ、と涼介は大儀そうに目を閉じソファに背を預けた。
「どう考えたところでもっと有効的に時間を使うべきだろうさ」
独り言の調子が強く、中里は踏み込むのもためらわれ、そうか、とだけ言った。涼介は構わず話を続けた。
「だがたまにこういうことをやってないと、頭が破裂しそうになるんだ。昔はそうでもなかったんだがな。日に日にその傾向が顕著になっている。夢を見るんだ。俺が寝ている間に耳から入り込んだ蝿が、脳の細胞の一つ一つに卵を産み付けて、孵化した蛆に俺の大脳も小脳も脳幹も食われていく。そのうち蛆は成虫して蝿になり、俺の頭の中は蝿で占められる。そして俺は蝿男になる」
億劫そうに目を開けた涼介が、ぼやけた声でそういう夢だよ、と言った。
何を考えて涼介がそれを自分に言ってくるのか、中里は理解できなかった。酔っ払いの戯言にしては涼介の言葉は重い。
「俺の自我は蝿に乗っ取られる。そしてそれに誰も気付かない。俺がそれまで育ててきた細胞を蝿が乗っ取り、俺という人間として振る舞うんだ。恐ろしいと思わないか。既に自分ではない存在が自分として周囲に認知される。中身は蝿だぜ。どいつもこいつも分からん人間ばかりなんだよ。蝿と俺の違いなど皮膚と爪の違いくらいに明瞭じゃねえか」
涼介の比ゆが実感できず、中里は反応しあぐね無言を保った。涼介はどろっとした目を機械的に動かし、下唇に力をこめ、言った。
「今の俺が蝿だったら、お前はどうするんだよ」
詰問されているようだったが、想像しがたい問いだったため、それはねえだろ、と中里は返した。涼介は嘆息した。
「なぜそうも軽々と圧倒的に断定できる。蝿でなくともいい、俺は本当は高橋涼介という人間の殻を身に付けた別の脳を持った人間かもしれないぜ。あるいは高橋涼介という人間に酷似した別人であるかもしれない」
中里は飛んでいく話についていけず、お前は何でそんなこと考えてるんだ、と心底からの疑問で言った。
「いいか中里。世界には無限の可能性が満ちているんだよ」
それだけを取ると夢に溢れた発言だが、全体的には悲観的である。泥沼を思わせる神経質さだ。こういう酔っ払いは見たことがなかった。対処の仕方も知らなかった。
庭に面した窓の開く無遠慮な音と、あー、と苦い息を吐くような声がしたのは、マジでなんてところに来ちまったんだ俺は、と中里が後悔の海に溺れかけていた、その時だった。
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