蝿 3/3
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 パエリア、と中里毅と庄司慎吾は、何を言い出すんだこいつは、と言いたげに顔を歪めて同時に涼介に返した。涼介は足を組み腕も組んだ態勢のまま、豚肉の生姜焼きでもいいが、と妥協案を提示した。中里が首をわずかに傾げた。
「……それはもしかして高橋、俺たちに作れということか」
「パスタでもいい。アラビアータ、ペペロンチーノ。いや、スパゲッティカルボナァラ」
 ルを巻き舌に発音すると、二人は渋面を濃くした。感情の反映の克明さに、内心舌を巻く。レッドサンズにはいない種類の男たちだ。そのがさつであけすけのようで他人と一線を画している雰囲気は、かぎ慣れぬはずであるのに心地良かった。
 二人は互いを目で窺うと、徐々に顔を付き合わせていき、相談し始めた。
「お前、作ったことあるか」
「パエリアなんて普通に作る男、会ったこともねえな」
「パスタは」
「俺はスパゲティのミートソースしか作らねえ。お前は」
「俺はナポリタンだ」
 考え込むような沈黙ができた。涼介は呆れたように聞こえるだろうため息を吐いた。
「様々なものを食べ味覚を広げることは人生を豊かにする。もう少し勉強しろ」
「俺は今で十分豊かなんでね。遠慮しときますよ」
 庄司がせせら笑いながら言った。毒に満ちた口調と言葉。久々に接するあからさまな他人の悪意。刺激的だ。涼介は庄司と似たような笑みを浮かべながら、なるほど、と頷いた。
「さすが男にお姫様抱っこをされるだけはあるな」
 音が聞こえるほど正確に、庄司の笑みが凍りついた。涼介の言葉の真偽を判じるためか数秒目を泳がせ、凍ったままの笑みで震える声を出した。
「あんた、言いがかりはよしてくれよ。誰が男にお姫様抱っこだって」
「気を失っていたから、記憶になくて当然だろうな」
 涼介が中里を見ながら言うと、庄司はがばりと中里を向き、中里はただちに庄司から顔を背けた。庄司は我慢ならぬようソファに背を預け、わざとらしい舌打ちをした。
「膝枕といいてめえは、人が寝てる間に何をやってやがるんだ」
 じゃあどう運びゃあ良かったんだよ、と中里は庄司を横目で睨みつけた。
「床に転がしときゃいいじゃねえか、そんなもん」
「それならそれで文句言ったろうが」
「お前に抱えられるよりゃマシだ」
「くだんねえプライドだけは育ちやがって」
 二人の息が丁度切れた。涼介は口を挟んだ。
「それで、何を作ってくれるんだ」
 確定かよ、と庄司が言い、確定だ、と涼介は断じた。中里はため息を吐いた。
「ならスパゲティでいいな。よし慎吾、作れ」
「何で俺だ。それに言っておくが俺はソースの缶がなけりゃあ作らねえぜ」
「手作りしろよ」
「トマトは生が一番だ、ソースに使うなんざもったいねえ」
「またトンチキなことを」
「うるせえ、お前が作れよ。俺は人のために何かをするってのが嫌いなんだ」
「格好つけやがって、ガキめ。誰がここまで連れてきてやったと思ってやがる」
「中里毅さん。さあ頑張ってくださいよ」
 中里は耐えかねたように舌を打つと、存外落ち着いている目で涼介を見てきた。
「食材や何か、勝手に使わせてもらうぜ」
「ああ。鍋は下の棚、パスタは上の左から二番目、あとは適当に探してくれて構わない」
 分かった、と頷き、中里は庄司の首根っこを引っつんで、お姫様抱っこをしただけはある腕力を振るい、ずるずるとキッチンへ引きずっていった。
「離せバカ野郎、俺は病人だ」
「そこまで騒げる病人がどこにいる」
「ここにいるじゃねえか」
「知るかバカ、手伝え」
「スパゲティくらい一人で作れ」
「茹でるくらいしろ。俺は眠いんだ、さっさと作って寝かせてもらう」
 そんなことを言いながら、二人はキッチンに入った。涼介はその間、ソファに寝転がっていた。キッチンから立つ二人の小さな会話と金属音が頭を浸食していく。これなら夢を見ないかもしれない、と思いながら、涼介は目をつむった。

 調理の時間の倍以上をかけて器具の掃除をし、作った即席ナポリタンをどっちゃりと乗せた三枚の皿を持ちリビングに戻ってきた中里と慎吾は、心地良さそうな顔をしてソファに横になっている高橋涼介を見て、自分たちの持っている皿を見た。
「……寝てるよなあ」
「……寝てるな」
 そう交わし、改めて皿を見る。三人分のスパゲティと眠っている涼介と、起きている自分たち。
「どうするよ」
「食うしかねえだろ。冷めたもんを高橋涼介が食うとは思えねえし。鉄は熱いうちに打てとも言う」
「まあそうだな」
 慎吾と中里は音を立てぬよう、先ほど座っていたソファに座り直し、テーブルに三枚の皿を置いた。食器の鳴る音が立ったが、涼介は動かなかった。
「眠かったのかね」
「睡眠不足じゃねえのか」
 軽く会話をしながら、黙々と麺を食べる。我ながらなかなかイケるじゃないか、と中里は思う。たまねぎは甘く丁度良い歯ごたえだし、ベーコンも良いアクセントになっている。味付けは濃すぎず薄すぎず、次の一口を期待させる。ただ高橋涼介が食べてうまいと思うかは別だな、とも思った。あの男の舌の肥え具合は想像がつかない。
 慎吾も文句を言わず食べていた。時計の針が時を刻む音と暖房の音、食器のこすれる音と麺をすする音だけが響いている。
「覚えてねえわ」
 各々の皿を空にする、というところで、静寂に飽いたように慎吾が言った。何が、と麺を口に含みながら中里は返した。
「お前の家に行こうと決めたまでは何となく覚えてんだけどよ。それからが思い出せねえ。ここに来た記憶がないんだ。不覚だよ」
 あの慎吾の陽気さを思い出すに、覚えてなくて良かったなと言いたいところだったが、それを言うと慎吾が不審がることは見え透いていたため、文字通りだな、と中里は言った。まったくだ、と慎吾は言い、一つ息を吐いてから呟いた。
「悪かったよ」
 中里は少しだけ、返答するべきか、何と返答するべきか、迷った。
「別にこれがタダならいいさ、大したことじゃねえ」
 早口で言い、ごちそうさまでした、と手を合わせると、そうか、と慎吾が唇を親指でぬぐいながら、手付かずになっている三枚目の皿を見た。
「これ、お前食うのか」
「俺は腹が厳しい」
「俺も胃が厳しい」
 どちらともなく見合い、皿を見て、同時にため息を吐いた。
「……残しとくか」
「……そうだな」
 食べ終えた皿をシンクに運んで洗うと、終わりとした。ソファに戻り、まだ残っていそうな瓶を取って、口をゆすぐ。背もたれに体を預けると、どっと疲労が押し寄せてきた。数時間前遠ざかった睡魔が来襲する。
「悪い慎吾、俺は先に寝る」
 おお、と慎吾が口だけで言った。中里は他人の家にも関わらず満ちている不思議な安心感の中、目を閉じた。

 夢を見ていた。
 少年時代だった。外で走り回り遊び疲れて家に帰ってきた。懐かしい木の匂いに満ちた家だった。父と母と祖父、弟たちと同じ時を過ごした故郷だった。玄関で靴を脱ぎ、廊下を走っていくと、流し台から包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。夕餉の時間だった。料理をしている匂いが漂ってきている。母親の姿を求めたまらずキッチンに飛び込んだ。だがそこでネギをひたすら切っているのは母親ではなかった。エプロンをつけた細い足、細い腰、細い腕、柔らかい茶色の髪。見知らぬ男の後姿があった。間違えた、と思い、恐怖を覚える。ネギを切る包丁が止まった。静寂が場を支配した。足が凍った。男がゆっくりと振り向く。
 男の顔は、蝿だった。

 中里は目覚めた。体中に汗が浮いており、一気に体温が奪われた。心臓がうなっている。嫌な夢を見た。体の節々が痛かった。隣では慎吾がだらしなく眠っており、窓から光が漏れていた。朝だった。一つ伸びをして、背後から立つ音にぎくりと体が止まった。
 包丁がまな板を叩く音が聞こえる。
 中里は恐る恐るキッチンを見た。そこには夢で見た通りの男の後姿があり、包丁を動かしていた。だが男は動かすことをやめていない。
 違う、と中里は頭を振った。あれは高橋涼介だ。間違いない。なぜエプロン姿で何かを切っているのかは分からないが、あの線の細さと白いシャツは、高橋涼介だ。カーディガンは外されているが、自宅だというのにレザーパンツはそのままだから、高橋涼介以外には考えられない。
 先ほどの夢はこの音と匂いに影響されたのだろう。
 中里は漂ってくる食卓の匂いに空腹を思い出した。起き上がり、キッチンへ歩いていく。
「何を作ってるんだ」
 後ろから声をかけると、涼介は包丁を操る手を止め振り向かず、豆腐と厚揚げの味噌汁だ、とくぐもった声で答えた。へえ、と火にかけられている鍋を覗き込むと、薄めの色の味噌汁があった。うまそうだ。食ってもいいか、と聞こうとして中里は涼介を見た。
 涼介の顔は、蝿だった。
「ぬおわっ」
 中里は後ろに飛びのき、しりもちをついた。
 包丁を持ったまま、蝿の顔をして水玉模様のエプロンをかけた涼介が中里に近付いてくる。複眼と口があるが、なぜか髪は生えており、茶色く柔らかだった。何だこれは。夢か、夢だろ、夢だよな。中里は高まる鼓動をおさえて冷静になろうとしたが、逆行になっている蝿の顔をした涼介の恐ろしさに頭が飽和していった。
 涼介は包丁を持った手を喉元にやった。
 そのまま顎の下に手を入れた。みちみちという音を立て、蝿の顔がぐにゃりと曲がって取れていき、髪の毛はすべり落ち、涼介の顔が現れた。
「被り物だ」
 先ほどまで顔だったものをぺらぺらと振って地面に落とし、涼介は包丁を持った手でへたった髪を直した。
「……お前、それ、ずっと、被ってたのか」
 ようやく正気に戻った中里が立ち上がりながら聞くと、涼介は首を回しながら、三十分ほどだ、と答え、切ったネギを鍋に入れていた。
「何で、そんな」
「昨日の話で、部屋にあったのを思い出したんだ。小学3、いや4年生の時に誕生日プレゼントとして祖父から貰ってな。ただ子供には大きすぎたから、大人になったら絶対に被ってやろうと心に決めながらも、やるタイミングがなくてずっと仕舞っていた。いい機会だったよ。念願叶った」
 中里は頭が痛くなってきた。何で、こんなモンを誕生日プレゼントに貰ってんだ。天体望遠鏡とかパソコンとか夏目漱石全集とか海外旅行とか、もっと坊ちゃんがもらうプレゼントとして相応しいものは色々あるじゃないか。何でよりにもよって、蝿の被り物なんだ。
「馬とかならまだ分かるがな……」
 つい中里が口にすると、それもある、とこともなげに涼介は言った。中里はもう何も言えなくなった。
 味噌汁を碗によそいながら、そんなに驚いたか、と平然としている涼介が聞いてきた。
「驚いたなんてもんじゃねえよ。夢で見たのと同じのが出てきた。死ぬかと思った」
「夢か」
「多分、お前の話が頭に残ってたんだと思うが」
「驚きは、二割増しくらいかな」
「一・五割増しくらいだな」
 差し出された碗を受け取り、湯気の立っている汁に口をつける。濃い目の味が意識を覚醒させた。味噌汁とエプロンとキッチンと高橋涼介、という絵はよく考えずともかなりの違和感があるが、うまいから良いとしよう。
「なら、やりがいがあるな」
 涼介は鍋の火を止め、落とした蝿の被り物を手に取った。やりがい? 中里が聞くと、涼介は中里の向こうに顎をしゃくった。
「乗らないか」
 断れもしない、真剣な涼介の顔だった。

 夢を見ていた。
 峠にいた。愛車を走らせ休憩していた。なぜか他に人はいない。メンバーも一般客も、動物の声すらない。風の音すら聞こえない。だがふと隣を見ると、黒光りする板金だらけの車があった。その運転席から一人の男が降りた。黒いセーターに白いズボンに水玉模様のエプロン姿の中里だった。ウェイターのように右手に皿を持っている。慎吾はそれをごく当然に受け止めていた。中里は慎吾の前まで来ると、無表情のままくるりと皿を差し出してきた。皿にはナポリタンが乗っている。フォークも箸もなかったため、慎吾は指でそれを掴み、口に運んだ。ねちゃねちゃとする、お世辞にもうまいとはいえない味だった。まずい、と口にすると、おい、と誰かが言った。中里は無表情のまま口を動かしてはいない。遠く、おい、とまた聞こえた。
 視界がぶれ、世界が暗転する。
 慎吾は覚醒した。今のは夢で、今、誰かが自分を呼んでいる。
「慎吾」
 いや、この低くしゃがれた声は、中里のものだ。認識したものの、目を開くまで時間がかかった。手は動く。体も動く。
「おい、慎吾」
 指を折りたたみ、二度握り、ようやく目を開き、
「おい」
「――くわあっ!」
 直後、目の前に映し出されたもののため、慎吾は恐ろしい絶叫をあげて、ソファから転げ落ちた。
 これは仮面でバイクに乗ってるヒーローのリアル版、じゃねえ、あれだ、蝿だ。蝿。大きな目に無数にある粒、グロテスクな口。昔映画で見たことがある。蝿になった男。
「お目覚めかい」
 蝿が中里の声でそう言った。ドアップで迫られ後ろに下がりかけて、違う、と慎吾は体を引きとめた。蝿が中里の声をしてるんじゃない。中里の顔が蝿なんだ。
 いやそれも違う、と冷静を努める。そんなわけはない。よく見ろ。慎吾は息を落ち着かせ、蝿の中里をじっと見た。表情はまったく動かず、表面はゴムのような質感だ。そして顎の下はすぐ人間の肌だった。
 つまり、
「そこまでにしとけ」
 と、少々かすれた低い声がし、それにつられるように蝿の中里は立ち上がり、顎の下に手を入れ、蝿の顔を剥き始めた。その下から慎吾がよく見知った中里の顔が現れた。
「……お前、何つー」
 慎吾は荒れ狂う心臓を押さえながら、何とかそれだけを言った。中里の隣に、しれっとした顔の高橋涼介が立ち、中里に話しかけた。
「なかなか面白いだろう」
「ああ、こりゃ確かに病みつきになるかもな」
 真面目な顔をして二人が言った。寝起きドッキリかよ。慎吾はそのままへたりこみそうになった。だが一度座ってしまうともう二度と立てないような気がしたため、何とか足を踏ん張った。頭がうっすらと痛み、胃が収縮している。何か食べるものはないかと思わず目でテーブルを探り、ふと寝る前に置いてあった皿がないことに気が付いた。
「お前、食ったのか」
 何を、と訝しげに聞き返してきた中里に、ナポリタン、と答えると、テーブルに目をやった中里が、あれ、とおかしな声を出した。
「俺は食ってねえぞ。どこいったんだ」
「ここだ」
 涼介が言った。その右手が腹に当てられていた。慎吾は蝿を演じた中里を見た時よりも、我が目を疑った。
「……あんた、食えたのか?」
「まずくはなかったよ。うまいとも言いがたかったがな」
 慎吾も中里も、反応に窮した。涼介はそんな固まっている二人を放り、さて、と朝日が降り注いでいる庭に顔を向けた。
「まだ起こさなきゃならない奴らがいるからな」
 誰の否定も肯定も必要としない、圧倒的な涼介の声だった。

 夢を見ていた。
 昼下がりの自宅のリビングでテレビを見ている。正確に言うなればビデオを見ている。だが音はない。ソファに涼介と自分が座っている。床には庄司慎吾と中里毅が座っている。ビデオは熟女ものだった。涼介は「このアングルはいまいちだ」と撮影論を呟き、庄司は「この女優老けすぎだろ」と冷めた感想を呟き、中里はどこか間違った真剣さでビデオに集中し、啓介は確かにそこにいるのに幽体離脱したような遠さで三人を眺めている。違和感はまったくない。ビデオは導入部だった。さあこれから、というところで、啓介は疑問を抱く。なぜこの四人でビデオ鑑賞をしているのか。どういう因果によってこの四人が集結したのか。なぜ誰もそれを口に出さないのか。ビデオは導入部だった。導入部をリピートしていた。先には進まない。音はしない。何だこれは。啓介は強烈な違和感を手に入れた。何だこれは。
「おい」
 天井から、エコーのかかった声がした。他の三人がその声に気付いた様子はなかった。啓介は頭上を見た。そこに天井はなく、ひたすらの闇だった。何だこれは。瞬きをする。目を開く。それでも暗い。ふと左右を確認すると、あたり一面すべてが闇だった。もう一度瞬きをしようとして、自分が今まで一度も瞬きをしていなかったことを知る。
「ケイスケ」
 妙なイントネーションで呼ばれ、誰だ、と啓介は思った。人が寝てるのに起こそうとするのは誰だ。そうだ、俺は寝てる。啓介はようやく自分の状態を理解した。俺は寝ていた。
「おい」
 そして声は啓介を起こそうとしていた。啓介の意識は目覚めていた。声をかけたヤツをシめてやらねえと、と物騒なことを考えながら啓介は目を開けた。
「――ぐわあああッ!」
 叫び、啓介は咄嗟に後ろに下がり、今まで寝ていたベッドから転がり落ちた。息がうまくできない。
 目の前に、馬がいた。
 違う。これは馬じゃない。しかし馬の顔だ。人間の体で水玉模様のエプロンをつけた、馬がいる。
 落ちたまま転がりかけた啓介の体を支える手があった。啓介はたまらぬ混乱からその手にすがりその手の主を見上げ、「馬が」と言おうとして、
「うまああああああああ!?」
 と、もはや意味をなさぬ雄たけびを上げ、その手を振り払った。
 手の主は黒いセーターを着て、蝿の顔をしていた。
 馬と蝿がいる。近付いてくる。馬と蝿の顔が近付いてくる。ゆっくりのっそりと近付いてくる。明かりが落とされているため細部までは見えない。それが余計に恐怖を煽る。
 そのうち、床に寝ていた他のメンバーたちが啓介の絶叫の影響を受け、目覚め始めた。すると蝿と馬は座り込んでいる啓介から興味を失したように、毛虫のように動き出したメンバーたちの元へと行った。啓介は目でそれを追った。若いメンバーが蝿に肩を揺さぶられ、「もう飲めません俺はもうムリです」などと寝ぼけながら目を開け、しかるのち、
「うぎゃあ!」
「ひい!」
「えきゃあっ」
「ぬええッ!」
 多大な絶叫、絶叫、また絶叫が部屋を支配した。
「起きたか」
 眼前で繰り広げられる地獄絵図に、段々と冷静さを取り戻した啓介の肩に、何者かの手が置かれた。総毛だった。だがその声はよく耳に馴染んでいた。啓介は救いと恐怖を半々に感じながら、後ろを振り仰いだ。
「……アニキ」
「いい目覚めだったろう」
 壮麗な顔の、満足げに笑った兄がそこにはいた。啓介はその顔に見覚えがあった。これは、企てを完遂した時の顔だ。それに気付き、啓介はようやく正常な呼吸を取り戻した。つまりこれはどういうことかはサッパリだが、多分、涼介の仕業なのだ。
 絶叫がおさまった頃、部屋の中心に蝿と馬が立ち尽くしていた。その半径二メートルに入り込む人間は誰もいない。メンバーはすべて部屋の端に固まり震えている。蝿と馬は顔を合わせて頷くと、啓介の頭上を見てきた。そこにいる涼介を見ていた。涼介は笑っていた。
「大成功だ」
 馬と蝿はその言葉を聞き、なぜか涼介に敬礼をすると、厚さ20センチのあるドアを開け、頭を押さえながら部屋からどたどたと出て行った。
 ドアの閉まる重厚な音に続き、衣擦れの音一つすらしない静寂が、訪れた。

 その後、いつになってもその件について高橋涼介によるフォローは行われず、そのうち高橋邸で悠々と眠ると蝿と馬の被り物をした人間が起こしにくる、というまことしやかな噂が流れ、肥大した噂は高橋邸には『何か』がいるという帰結を招き、高橋家において開かれる飲み会に参加するものは激減し、ついでに高橋啓介の酒量も一時的に激減することになる。

「あれのどこが人に優しいんだよ」
「どっか優しいんだろ」
「心臓にかなり悪いと思うんだがな」
「脳にはいいんじゃねえのか」
「いいのかね」
「って思っとかねえと、分からなすぎるだろ」
「……まあ、しかし、持ってきたはいいがこりゃ」
 二枚のゴム製のマスクを振りながら不健康な顔でぼさぼさの髪の慎吾が、どうすりゃいいんだか、と呟いた。
「まあ、何か使い道は、あるんじゃねえか」
 アクセルを踏み込みながら徹夜明けの顔の中里が言うと、セッティングが面倒な使い道しかねえだろ、と慎吾はマスクを後部座席に放り投げた。
「そうかもしれねえが、お前それそっちにやるなよ。俺が持って帰らなきゃならなくなるだろ」
「いいじゃねえか。ついでに峠に持ってって、被りながら出てけ」
「引かれるだろそれ」
「ドン引きだろうな」
「……誰がやるよ」
「……やらねえだろうな」
 上滑りな会話が内部で交わされながらも、黒いスカイラインGT-Rは変わらず早朝の町を走り抜けていった。

 また数ヵ月後、妙義山ではなく、プロジェクトDメンバーが参加した高橋邸における飲み会にて再び蝿男と馬男が現れることになるのだが、それは今のところ高橋涼介以外、誰も知らない。
(終)

(2004/10/10)
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