蝿 2/3
  2  


 中里が壁一面がくりぬかれた窓の方を向くと、細い足を膝の抜けたジーンズに突っ込んで、白黒格子柄の襟元を大きく開けた長袖から、硬そうな鎖骨を剥き出しにしている青年が立っていた。目の前にいる異質な酔っ払いとよく似た精緻な顔が、真っ赤になっている。
 高橋啓介。
 中里はその青年の到来につかの間救いを感じ、即座に再び後悔の海へと落ちた。ただ酒を飲んでいるだけならいくらでも言い訳は効いたが、男相手に膝枕していると取られかねない現状では軽蔑の対象であろう。ああホント帰りてえ。中里は両手で顔を覆った。
 啓介はさみーさみーと言いながら靴を脱ぎ室内に入り窓を閉めると、アニキィ、と常の高くよく通る声をきたなく濁らせながら、涼介を呼んだ。
「歌わねえのかよ。みんな、待ってんだけどよ」
 乱暴な足音を立てながらソファまで歩いてきて、涼介の隣にどさりと座り、その肩に左腕を回して顔を覗き込み、どうよ、と言う。中里は指の間からそれを見た瞬間、とてつもない居心地の悪さを感じ、息を詰めた。
「俺はいい。喉が痛むからな」
 涼介は答えながら啓介が肩に回した腕を外し、啓介の膝の上に置いた。啓介はその手をじっと見て、涼介を向き、ニカッと笑った。中里は両手を口の前で組み、息を吐き出した。今、迂闊にもこの兄弟の深い領域に踏み込んでしまったような緊張があった。
「そうか、俺ももうやめとこうかなあ。どいつもこいつも歌ヘタなんだよ、音程外れてっし、ラップしか聞いてられるもんねえってなあ。最悪最悪、あれなら演歌聞いてた方がマシだぜ」
 がなりながらソファの背に盛大に体を預けた啓介が、半開きになった険のある目で中里を見た。中里は再度緊張した。啓介は鼻の頭にしわを寄せ、口を斜めに大きく開け、啓介に憧れている者が見れば卒倒しそうな粗暴な顔になると、爽やかさと荒さが混ざった声で、
「誰だっけ、お前」
 と言った。中里は不意打ちに左肩が下がった。
 忘れてんのか、こいつ。
 信じられない思いで中里が啓介を見ると、啓介は顎を天に向け、どっかで見たことあんだけどなー、と大声を出した。
「知り合いだよ」
 涼介がソファから立ち上がりながら言うと、啓介はキッチンに向かうその背に無邪気に聞いた。
「何、俺も知ってんの?」
「知ってるぜ。あまり興味は持ってなかったと思うが」
「マジで。いやーダメだ、ゼンゼン思い出せねえ。けどまあそんくらいってことか。いやでも、どっかで見たことあるような気はすんなあ、このびっみょおーなマヌケ面は」
 啓介の横暴な態度に我慢ならなくなった中里が、マヌケ面ってな、と睨みつけると、啓介は鼻で笑った。
「そのマヌケ面で俺に口答えしてんじゃねえよ、気分悪いぜ」
「何だと」
「身の程知れっつーの、あ、あれだろお前、空気読めねえだろ。遊びに行っても二次会誘われねえだろ、それに仲良くなった女で向こうがイイってオーラ出してんのに、気付かねえでお持ち帰りできねえんだよ」
 カカカ、と啓介は中里を指差し下品に笑った。
 重く粘ついた苛立ちがこみ上げていた。だが中里の頭は怒りよりもまず、疑問で占められていた。こいつはこれが素なのか、それともただ酒癖が悪いのか? 中里は今まで高橋啓介をどちらかといえばストイックな方であると考えており、この荒れっぷりは想定外だった。
「そういうヤツに限って女がどうのって語るんだよなあ、バッカじゃねーの経験もねえくせに語るんだけは語ってよ、笑えるぜ。しかも愛とは何だ恋とは何だってな、お前経験あるのかよっつー話だろ。何でああいうバカしかいねえんだろうな、ニホンのショーライはフアンだらけだな」
 啓介の主張は苛烈していったが、中里は何も言わなかった。事なかれ主義は好かないが、ヘタに真意を探ろうとすると人間としての尊厳を傷つけられそうな気がする。
「お前、どのくらい飲んだ」
 キッチンから戻ってきた涼介が栓を抜いた透明な瓶を二本持ってきて、一本を啓介の前に置き、一本を自分で持ったまま啓介の隣に腰をおろした。
「分かんね、みんな飲んでっからよ、誰がなーに飲んでんだか分かんねえのな。だから俺も分っかんねえ」
 啓介は大口を開けて笑うと瓶の液体を音を立てて飲み、それを口から離した直後、
「あ!」
 と叫び、指の代わりにか瓶の口を中里へ向けた。
「そうだ、あの野郎に似てんだよ。あいつあいつ、アニキ何だっけあれだよあれ、あのRのニッサンに乗ってる」
「中里か」
 そうそうそうそう、と啓介は何度も首を上下に振った。
「そうだドウリで俺、何か腹立ってくんなーって思ったんだよ、こいつ見ててよ、そりゃそうだよあの、えー、あいつになあ、似てたら俺もあれだよ、うん、でもあれかアニキ、あいつの方がマヌケなツラしてっか?」
 啓介が真面目な顔つきで涼介を覗き込んだ。涼介は中里を意味ありげに一瞥し、啓介に顔を向けると右の口端を硬く上げ、どうだろうな、と言った。
「どうだろ、そうかな、そうに見えるけどな。だってあれは、あいつもあれだしよ、何か、でも俺は別にどうでもいいけどよもう、でもあれだしな。もう少しこう、ああしたらなあ。なあ、そう思わねえか」
 涼介は瓶の液体を少し口に含み嚥下すると、顔を近づけてくる啓介に、そうかもな、と答えた。
「そうだよな、イチリとかセンリとかあるよな。もっとこう、なあ。すりゃいいのによ。別に俺はどうでもいいけど、なあ」
 まあな、と涼介が言うと、だよなあ、と啓介は中身を飲み干した瓶で手のひらをぴちぴちと叩いた。
 ……会話に、なってるのか?
 中里が今日何度目になるか分からぬ信じられない思いで二人を見ていると、涼介が中里の視線に気付き、言った。
「訳そうか」
 なってんのかよ、と愕然としながら中里は、いやいい、と首を振った。

 背中に柔らかい感触があり、後頭部には木に綿を幾重も巻いたような感触があった。体は重かった。遠く、人の声らしきものが聞こえる。
 庄司慎吾は糊でくっつけたような目をこじあけた。ぼやけた視界の中、十字の光が満ちている。瞬きを何度か繰り返し、ピントを徐々に合わせていくと豪勢な照明があった。記憶にない豪勢さだ。どこかの家の天井だろうか。ここはどこだ。俺は今、どこにいる。
 深く息を吐くと、胃がむかついた。
「お、起きたか」
 その声とともに豪勢な照明をさえぎって目の前にぬっと現れたのは、寝起きの心臓には少々厳しい、峠で見慣れたどぎつい顔だった。
 何でこいつがいるんだ、と思った慎吾は、何でお前がいるんだよ、と言った。
「何でって、お前が足に使ったんじゃねえか。覚えてねえのかよ。ったくどいつもこいつも酔っ払いか」
 中里は面倒くさげに首を振った。
 足に使った。酔っ払い。慎吾は目をつむり、考えた。自分はどういう経過を辿ったのか。
 今日は、そう、休みだった。そして車でつながっている仲間から連絡が入った。その人間の家に行き、ひたすら飲んだ。ビールとチューハイと焼酎。飲んでいた。そのうち飲んでいた他の三人が潰れてしまった。だが自分は飲み足りなかった。どこへ突撃してやろうか、と考えた。
 そこまで思い出し、何をバカやったんだ俺は、と慎吾は自己嫌悪に襲われたが、現状把握のためには記憶をほじくり起こし続けなければならない。
 突撃する場所を色々挙げていたように思う。そこで、思い出したのだ。
 高橋啓介。
 先日その男に秘蔵ビデオを売りに行った際、この日に飲み会があると言われ、ビデオを割引してくれたら参加費タダで飲み放題でいい、と持ちかけられていた。その時は話半分で聞いていたためすっかり忘れていた。これは行くっきゃねえ。高橋啓介が値切るため嘘を吐いたにしても、今後の取引を中止すればいいだけの話だった。酔いに支配されていた体の行動は素早く、行くための手段をすぐさま思いついた。それが中里だ。足にした、その通り。
 しかしそこから先の記憶はなかった。
 今はっきりしていることは、ここが高橋啓介の家だということだ。居間に上がったことはないがこの絢爛さには既視感を覚える。
 幾分理性を取り戻した今考えてみると、なぜ自分が中里を高橋啓介の家への足がかりとしたのかがまったく分からなかった。送らせるだけならいくらでも相手はいる。中里でなければならない理由があったのだろうか。分からない。分かることは今自分が高橋啓介の家にいることと、これが明らかな失態であるということだった。
 ともかく起き上がり、なぜか胸の上に置かれていた洗面器をよけてソファに座ると、人心地ついた。首が硬くなっている。
 そりゃ男に膝枕されたら頭も痛くなるわな、と前かがみになって深く息を吐きながら考え、男に膝枕、というフレーズに寒気を覚えたところで、中里が変わらず面倒くさそうな声をかけてきた。
「まだ寝といた方がいいんじゃねえか。俺も飲んじまったし、あと六時間くらいは帰れねえぜ」
「眠くねえよ、っつーかお前、何だ今のは」
「何だって何だ。お前まで分かんねえこと言うんじゃねえよ」
 ソファの肘掛けに右肘をついて、右手で額を押さえた中里が言うと、「膝枕のことだろう」と低く恐ろしいほど響く声がし、慎吾は身を強張らせた。
 恐る恐る顔をあげると、机を挟んだ前方の黒い革張りのソファに、これまた見覚えのある顔が二つ並んでいた。右側は柔和かつ冷酷な、左側は鋭利かつ粗暴な、その顔。間違いない。高橋涼介と高橋啓介。
 その顔が二つ揃ってソファに座っている図、というのも何か圧倒的なものがあり、慎吾が反応に遅れると、
「それはお前に寝ゲロされちゃかなわねえから、防御としてだ」
 と、中里がもっともらしく言ってきた。慎吾はとんでもない現実にめまいがしそうだった。
「俺は酔ってゲロったことねえっつっただろうが。クソ、何を人の頭を勝手に膝に置いてんだよ」
「酔っ払いの言うことなんざ信用できるか。特にお前の言うことは何だって信用に値しねえ」
「てめえに信用されたいとも思わねえが、こんなことならな、便器に頭突っ込まれた方がマシだってんだよ。あ、しかもお前、俺の上着を勝手に下敷きにしやがって」
「寝首を柔らかくしようっていう俺の親切じゃねえか。あと、万が一漏れても大丈夫なように」
「人のモンを勝手に、っつーかだから、何やってんだよお前は」
「だから質問するならもっと分かりやすくしろよ」
「何で俺の言うことを素直に聞いてこんなところに来てるんだ」
「俺だってこんなところ来たくなかったがな、本気で酔ったお前を止められるヤツがどこにいるんだ」
 ため息だけが友達です、という様相の中里に、「こんなとことは何だ」と高橋啓介が突っかかった。中里はなぜか戸惑ったように一拍置いてから、言った。
「……こんなとこはこんなとこだよ」
「人の家に勝手に来て酒飲んで飯食って、それでこんなとこ呼ばわりかよ。変態が何を粋がってやがる」
「変態って、お前よ」
「何で俺がてめえに、お前呼ばわりされなきゃならねえんだ。マジでてめえは空気読めねえ野郎だな、信じらんねえ。もう一度言うぜ。身の程を知れ」
 啓介に人差し指を突きつけられ、更に反論するかに思えた中里は、右手で顎を支えたまま眉根を寄せただけだった。慎吾は違和感をもった。高橋啓介が中里に良い感情を持っていないことは知っているが、ここまでネチネチ責めるほどのこだわりは悪い意味でないはずだった。
 ああそうか。こいつは酔ってるのか。
 だから中里も言い返さないのだろう。だが啓介の言い分はいささか外れている。中里を連れてきたのは慎吾である。それもおそらく中里の意思を無視した方法でだ。流された中里も中里だが、根本の原因は慎吾となる。
 誤解から中里が責められているという状況に抱いてしまった釈然としない思いが、つい慎吾の口を動かした。
「おい高橋、啓介。こいつは俺が連れてきたんだよ。勝手に来たのは来たが、そういう事情なんでな」
 慎吾が中里を親指で示しながら言うと、ああ? と啓介は荒れた顔で慎吾をじっと見て、ああ、と持っていた瓶の底で手のひらを叩いた。
「お前、庄司かよ。え、何であんたがここにいんの」
「……あんたがあのビデオ割引したら、タダ酒くれるっつったんだぜ。だから来たんだよ」
「あー、あれか。そういやそんなこと言ったっけな。じゃああの値段でいいのか」
「出血大サービスだよ。まあまた要り用なら言ってくれ。こっちも金になる」
 何の話してんだお前、と呆れたように中里が言った。慎吾は一応説明してやることにした。
「商売の話だよ」
「いつの間にそこで、流通関係ができてんだ」
「知り合いの知り合いでよ、売ってやるっつって直接渡しに行ったらこいつだった」
「ビデオってのは何だ、F1か」
 えーぶい、と言うと、お前な、と中里は右手で目を覆った。その利便性について一つ語ろうとしたところ、啓介が再び話に入ってきた。
「おい、それでそいつは何なんだよ。あのニッサン野郎に腹が立つほど似てるんだけどよ」
「ニッサン野郎?」
「えー、そうだそうだあれは誰だったっけアニキ」
「中里だ」
「そう、中里だ」
 不審に思いながらも慎吾は、中里ならこいつだが、ともう一度親指で隣の男を示した。
「はあ? んなわけねえだろ、何であいつがここにいんだよ」
「俺の足にしたんだよ。だから俺が連れてきた、ってさっき言わなかったか」
「……あんたとあいつって、知り合いだったっけ?」
「……同じチームなんだけどよ」
 ようやく慎吾は、こいつ錯乱している、と気が付いた。それならば中里の、啓介を見る目に含まれていた戸惑いも理解できる。ここまで極められているといっそ哀れだ。
 啓介は、あー? と分からないような声を出した。
「何、そいつは中里で、えーそこにいるのが庄司で、ここにいるのがアニキで、俺がいて、今日はレッドサンズの飲み会で? 何だ?」
 腕を組み、うーん、と首をひねった啓介は、ああ! と卒然叫び立ち上がった。
「俺戻らねえと。腕相撲選手権やるんだよ、アニキもどうだ」
「俺はいいよ」
 涼介はテンポが速すぎる啓介の行動にも動揺せず、首を振った。そうか、と啓介は乱雑な音を立てて庭に面した窓へ向かい、さっさと出て行った。何というか、もう、速い。
「……外でやってんのか」
「シェルターがあるんだとよ」
 慎吾が呟くと、中里が律儀に答えた。シェルター。何という家だ。何で俺はこんなところに来てるのか。しかも何でこいつを連れて来たのか。ちらりと中里を見ると、何もかもを悟ったような穏やかな顔になっていた。持ち慣れぬ罪悪感が腹に溜まっていた。
「すまなかったな」
 それまで事態を静観していた涼介が、悠然と言った。片眉を上げた中里が、何が、と返した。
「あいつ、啓介はたまにああいう方向に酔いが回るんだ。普段はよく気が利く酔い方をするから、つい俺も注意を忘れてしまう」
「あれは何だ、本当に忘れてんのか?」
 慎吾が問うと、涼介はなぜか口角をほんの少しだけ上げた。
「自分に都合の悪いことはすぐに忘れられる頭をしているんだ。一度反省をしたら二度と振り向かない」
 それとこれとはまた違う話じゃねえか、と言おうかとも思ったが、微笑を浮かべている涼介に嫌な威圧感があったため、なるほどね、と慎吾は適当に相槌を打った。
 涼介はだが、と微笑を消した。
「そろそろ対策をしなけりゃならんだろうな」
 冷たい響きだった。慎吾は何も言わなかった。野次馬的な興味はあったが、嬉々として説明されても困るからだ。中里も何も言わなかった。多分もうこの男に関わるのが面倒になっていたからだろう。
 沈黙が流れた。
 さて、とそれを作った涼介が、それを破った。
「パエリアが食べたいな」



トップへ    2