誠意 2/3
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 芳醇な香りが漂う車内で、これでいいのか俺は、と中里は釈然としない思いを抱いていた。
 事態はとんとん拍子に進んだ。高橋涼介が赤城山に現れる日もメンバーの一人が何かのツテを使って調べ、プレゼントとする一式は中里がクリーニングに出し、デパートに勤めるメンバーが包装した。
 そこまでは順調だった。ただ、赤城山に乗り込む前日、二人のメンバーも含めた最終の打ち合わせも無事に終わろうとした際、突如つまらなそうな顔をした慎吾が、「インパクトが足りないな」と言い出したことから問題は始まった。
「インパクトォ?」
「普通にこの包み渡してもなあ。何かこう、普通じゃねえか」
 そんなの普通でいいだろうがと中里は言ったが、慎吾を含めた三人は納得しなかった。そして言うには、
「プレゼントをするにはそれ相応の格好をしなけりゃならない」
「真心を込めて渡してこそ相手の心にも響く」
「どうせやるならトコトンやろう」
「何か面白そうだ」
 最後のは違うだろうと罵声を上げたが多勢に無勢、中里は不覚にも押し切られた。
 本当にこれでいいのだろうか。体を強張らせながら中里は悶々とする。慎吾が白羽の矢を立てた幸薄そうな一般的な男にやってみたら、見事生気を抜かせ成功したものの、本来の相手はあの高橋涼介だ。カリスマ中のカリスマ、一説にはファンクラブがありビデオ販売までなされているというスターだ。常に他人の目が意識されているわけで、驚愕しても口をあんぐりと開けるような失態は犯さないのではないか。ならば果たしてここまで仕立て上げる意味はあったのか。というか俺の意志はどこにある、こんな格好ヤクザものVシネマのものすげえチョイ役じゃねえか。
「俺は本当に、走り屋をやっていけるのか……?」
 悲しみを胸に抱きながら中里が小さく呟くと、ハンドルを最低限乱暴に切った慎吾は、肝の小さい男だなと毒づいた。黒々としたサングラスの奥に潜む目を細め、うるせえ、と小さな声で中里が返すと、慎吾はバックミラー越しにちらりと中里を見たもののそれ以上何も言いはしなかった。
 真っ赤なシビックは法定速度三十キロオーバーでアスファルトの上を滑っていく。
 目指すは赤城山だった。

 高橋涼介は珍しく暇だった。
 大学の作業も一段落となりチームも落ち着いており、弟の啓介も自分の車を自分で調整するようになって、また人間的にも成長し涼介の監視は大分不要になった。大元の指示は無論涼介のものだったが、それ以降の行動は各自が正確にまっとうするようになっていた。
 おかげで久しぶりに峠に来たものの、暇だった。自分が走るにも周囲の目が多すぎる。他のチームも来ているし、ただでさえ浮き足立っている様子のメンバーが更に浮き足立って、空まで飛んで地面に落下しても後味が悪い。
 だから仕方なく折り畳みイスに座ってミニパソを膝に置き、論文を書いたりゲームのプログラムを組んだり円周率を思い出しながら打っていたりしていたのだが、それにも飽きてしまった。ならば車をいじればいいのだが今の段階では誤差すらない状態に組み上げられている。これ以上の干渉はマイナスだった。
 やらねばならないことはなかった。
 涼介は峠の空気が好きだった。景色を見にくる者、孤独に浸る者、ただ通過していく者。誰も彼もが車やバイクに乗ってくる。身も知らぬ人間たちがそこだけは一律している。すべては他人だというのにそれでもなお確かに繋がっているような、具象的ではない曖昧な空気が好きだった。無論同じ走り屋たちが唯一の目的のために集うという、そこに存在する強い絆も心地良いものだ。目に見えぬ熱い空気が肌に染み込むだけで、躍動的な生命感を得られるようだった。
 山はいい、と涼介は思う。木々は自然の偉大さを感じさせ、その気になれば山菜も採れるし、裸一貫で生活もできる。素晴らしい。
 だからこそやることがなくとも、まだ帰りたくはなかった。
「暇そうだな」
 不意に頭上に影がさし、のっそりとした気配と声がした。涼介はミニパソを閉じるとその人物を一瞥し、周囲に弟の姿を探しながら、暇だな、と答えた。
「帰ってゆっくりすればいいじゃないか。お前がいるからってみんな、緊張しちまってるぞ」
「俺がいるくらいで緊張するなんて、メンタル面が弱い証拠だ」
 涼介が肩をすくめると、相変わらずだなあ、とのっそりした男が悠然と言った。人間そうそう変わりはしないよと返し、他のメンバーに憧憬の目を寄せられている啓介を発見したところ、涼介の胸奥はじわりと暖まった。
「幸せだな」
 呟くと、のっそりした男は、藪から棒に何だよ、と苦笑した。涼介は苦笑を返すだけにした。
 自分を超えようと必死に汗を流す弟と、いまだ才能の底を何者も探れていない宝石の原石のような少年が、自分を慕っている。欲しいと思っていたものが些細な労力のみで手に入る。これを幸せと言わずに何と呼ぶべきか。僥倖か。しかし偶然とは言えぬ。すべてはなるべくしてなったことだ。そしてそれは幸せと呼ぶべきものなのだ。涼介は苦笑を冷笑に転じた。
 その時、視界の隅に赤い車が入ってきた。シビックだった。その車はそれまで涼介の周囲の結界があるがごとく車に犯されていなかった領域に入り込み、二メートルほど左横に頭から突っ込んで停車した。
「何だあれ」
 のっそりした男が突然の侵入車を不審そうに見た。涼介はその車に見覚えがあるなと思った。そしてその車の後部座席から、一人の男がギクシャクと降り立った。
 磨き上げられた革靴に、薄手のダークスーツ。開かれた前から覗く真っ赤な開襟シャツと、首に銀のネックレス。目を細長い黒のサングラスが覆っており、短めの黒髪が真ん中で分けられ後ろに撫で付けられている。その顔は精悍だった。右手に抱えられている薔薇の花束と左手に提げられている紙袋を除けば、どこぞのぼったくりバーの経営者だと思わせるほどの闇の匂いがある。惜しむらくは用心棒たるには背が足りないことだろう。
 のっそりした男は明らかに警戒した。だが涼介はその一見縁もゆかりもないような男のまとう空気に、記憶を刺激された。三文役者的空気。取り返しのつかない間違いを犯してしまっている空気。その空気を持つ男を涼介は知っていた。そしてその男の近くにいた若い男が乗っていた車も知っていた。
 涼介は折り畳みイスから立ち上がりミニパソをイスの上に置くと、ゆっくりと男と相対した。そしてその空気を持つ記憶にある男の名を、口にした。
「中里か」

 呼ばれ、中里は右手でサングラスを取り胸ポケットにしまい、両足を肩幅に開いて均等に体重をかけ、涼介に対峙した。右手に真紅の薔薇の花束を持ち、左手に『チンピラ扮装セット』の入った紙袋を提げている。
 本日の涼介の服装は白のシャツに黒のニットのベストにベージュのスラックスという、模範的学生然としたまともな服装だった。本当に、こんなヤツにこんなものをやっていいものか。中里は逡巡しそうになったが、ここまで来たら一花どころか二花三花咲かせなけりゃあ帰れねえ、と無駄な闘志を発揮し、全世界の運命を背負っているような険しい顔つきになって、無言のまま涼介に右手の花束を差し出した。
 涼介は鼻先に突きつけられた薔薇の花束を興味なさげに一瞥すると、冷徹な目を中里に向けた。
「一応聞いておくが、中里。これは何の真似だ」
 顔色一つ変えずに涼介は言った。花束を突き出したところで少しの間でも口は利けなくなるだろう、という中里と慎吾の予想はその時点で打ち砕かれた。代わりに中里がまごついた。甘かった。やはり高橋涼介がこの程度で驚きを露にするという考えが浅はかだった。さてどうする、これは通じなかった。この先にどうすればいい。
 待て、落ち着け毅、と中里は揺らぎかけた顔を引き締めた。ここで自分がうろたえては本末転倒だ。こうなったらここまで完成度の高いこの男の仮面を、どうやってもぶち壊してやろうじゃないか。小手先の技じゃいけない、ストレートに思いをぶつけてやれ、と決意を新たに中里は、薔薇を涼介に突きつけたまま、言った。
「これは、俺の、お前に対する………………気持ちだ」
 中里は本気だった。高橋涼介という男には、花弁が美しく艶やかな人の血を思わせるこの花こそが似合う、という気持ちだった。他意はない。
 涼介は片眉を僅かに上げると、そうか、と言って両手でもって大人しく花束を受け取った。中里は咄嗟に「え」と口にして、変わらず冷徹な目で涼介に見られ、ゴホン、と咳でごまかした。
 ……普通に受け取るのか。それでいいのか高橋涼介。
 あまりの割り切りの良さに、もっと考慮した方がいいんじゃないかと余計な心配をしかけた中里であったが、まだ涼介は平静を保っており、肝心なものも渡しておらず、計画は達成されていなかった。相手に対する同情は無用。中里はこれ以上余分な感情が表れぬよう顔により一層力を加え、今度は左手に提げていた紙袋を差し出した。
「これには、俺の……………………思いが、詰まっている。受け取ってくれ」
 この服を着てほしい、という思いがであった。中身を知らない涼介が行間を読み取ることは不可能だろう。そして要らぬ勘違いをしてその顔を不可思議に歪めさせることこそ、中里の狙いだった。
 涼介は片手に薔薇の花束を抱えたまま、差し出された紙袋を一瞥し、中里に視線を戻した。
 二人、睨み合った。高橋涼介の南極の氷のような冷たさを持つ視線は強烈だった。中里は死にそうな思いになった。やはり格が違うのか。いや待て、そんなことはない。こいつも俺も同じ人間だ。こいつにできることが俺にできないわけがない。
 中里は己で気付かぬうちに混乱の域に達していた。そのため涼介の仮面を剥ぐという当初の目的をかっ飛ばし、涼介と同等の質を持つ眼力で涼介を見据えるという行為に走った。涼介を打ち破ることよりも、対等に存することが重大だと判じてしまったのだ。
 命すら賭しかねない覚悟で、涼介を睨みつけた。目で殺す覚悟で、涼介を睨みつけた。脂汗がこめかみを伝った。
 その中里の視線を屈強に受けていた涼介が突如、ふ、と笑った。微笑だった。中里は涼介の腕の中にある薔薇が、その全身の周りに咲き乱れる幻覚を見た。張り詰めた空気が一変、緩く甘くなった。
「お前ほどの目で、俺に物を持ってきた奴は今までいなかったぜ」
 万感胸に迫ったように涼介は言った。中里の皮膚はにわかに、涼介のかもし出す雰囲気に拒否反応を起こし始めた。無数の針の先端が刺さっているような痒みと痛みがきた。異次元に踏み込んでしまったのかもしれない。
 やべえ、すっげえ帰りてえ。
 中里は強く思った。何もかも放り出して愛車を飛ばして夕日とともに海岸線を渡って、暗い空の下、砂浜で焚き火をし、暗い海を見たかった。だが既に進退きわまっており、また中里は妄想癖はあるものの、完全に夢の世界へ突入するには現実の生活を重んじすぎる人間だった。
「そうか、それは、光栄だな」
 詰まりそうになる声を頑固な意地で振り絞り、中里は涼介に対抗するべく余裕をアピールする笑みを浮かべようとした。言うまでもなく失敗した。
 涼介はその中里の顔を見ると、浮かべていた耽美的微笑を消した。そこにあったのは形容不可能な表情だった。能面のようでもあったが、よく見れば肉の端々に何がしかの力は込められていた。
 これだ。
 中里の体に稲妻が走った。これだ。驚愕でも狼狽でも恐慌でもないが、これこそが高橋涼介の堅固な仮面の奥に潜む、純の顔だ。間違いない。一挙に中里の心は高揚した。俺は見つけたぞ。ついにあの高橋涼介の真の姿を見つけたんだ。
「受け取っておこう」
 と、万歳三唱しかねないほど内心興奮に狂っていた中里に涼介が粛然と言い、空いている右手で中里が出した紙袋を取ろうとして、偶然互いの手と手が重なった。中里の皮膚はまだ拒否反応を示しており、涼介と手が触れた瞬間、まるでゲテモノにでも触ったかのように思い切り引いていた。興奮は呆気なく鎮まり、途方もない恐怖が身を冷やした。引いた手をどうするか判断を迫られた中里は、そのまま左手を頭の横まで上げて、
「じゃあな」
 と苦し紛れに崩れた敬礼をし、きびすを返して颯爽と歩いてシビックに乗り込み、待っていた慎吾に「出せ」と十回連呼で命令して、そしてその場から速やかに去っていった。

「……それ、どうするんだ」
 車を最後まで見送ったのち、のっそりした男が尋ね、涼介は真っ赤な薔薇と紙袋を持ったまま、そういえばな史浩、と世間話のように言った。
「俺には一つ信念があるんだよ」
「信念?」
「そうだ」
「何だよ。弱肉強食、いや因果応報か」
 似たようなもんだな、と涼介が言い、本当のところを聞こうとして、斜め前方から緩やかに駆け寄ってくる高く細い青年が見えたため、こりゃまた騒がしくなるな、と史浩は追及を諦めた。



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