誠意 3/3
妙義山に憔悴しきった中里が帰ってきてから、二週間が経過していた。帰る車中、中里はことの顛末について語ろうとはせず、ただひたすら「俺はもうあの男には関わりたくない」とだけ念仏のように呟いた。慎吾は自分の計算が浅かったことを悔やんだ。だがあの姿の中里に薔薇の花束を送られれば、女は元より男ならば誰だって反応に困るはずだった。
現に作戦決行当日の数時間前、絶望的な雰囲気の中里に自信をつけるべく、適当な男をみつくろって試してみたが成功した。メンバーでは中里の微小な威信に関わるし、丸きりの他人では正確な判断は下せないから、わざわざ藤原拓海の勤めるガソリンスタンドまで出向いて、そこの無精ひげの男、S13に乗っており藤原とのバトルで怪我をした際世話になった、池谷浩一郎を標的とした。悪意があったわけではない。ただ中里も慎吾も知っており、中里が花束を贈る理由のあるだけの相手というのが池谷しかいなかったのだ。今から考えるに、ちょっと度が過ぎてたか、と慎吾は思う。シビックで乗り付けて、後部座席から『ドン』という効果音がつきそうな荘厳さで現れた中里に、「いつぞやのお礼だ」と薔薇の花束を突きつけられた時の池谷の青ざめた顔は、冗談にならなかった。作業もせずに花束を抱えたまま呆然と立っていた。ハイオク満タンで支払いを終え、中里を後部座席に呼び戻してその足で赤城山へ向かったわけだが、冗談にならない空気に冗談だと言うのを忘れたほどだ。もしかしたら今ごろ池谷は中里の真意を悩んでいるかもしれない。
しかしそれはどうでもいい。とにもかくにも、一般的な男を相手にするならば中里にはそれほどの破壊力があることが証明されたのだ。だが中里は釈然としていなかった。相手が高橋涼介じゃなけりゃ誰でも同じだ、そう言いたげな投げやりな態度だった。そして正しいのは中里だった。慎吾は内心複雑である。高橋涼介は崩れなかったし予想は外れたしで本来の目的は達成されていない。だが服はなくなったし中里を夜の男に仕立て上げればいざという時役に立つかもしれないことは分かった。不承ながらも、五分五分とはできた。
二週間経った今、中里もようやく平常通りになっていた。あの出来事はさっぱり忘れているようだった。しかし今度は慎吾が落ち着かなくなってきた。あれ以降、高橋涼介が奇抜な格好をして赤城山に現れたとか、ナイトキッズを攻撃しようとしているなどという話は聞かない。何の音沙汰もないわけだ。これは何もないとするべきか、それとも嵐の前の静けさなのか。漠然とした不安感が腹の底にこびりついていた。
その日はナイトキッズの集会だった。いつの間にか抜けたり入ったりしたメンバーの紹介やら他のチームの動向、山の調子、事故の件数とタイムの公表と講評となど、駐車場の片隅で細々と滞りなく運んでいた。中里は常の熱気を復調させており、掠れた低音を効果的に発していた。
「まあ、特に問題はないな。これからも事故に気をつけるようにしておこう」
その中里の一言で集いが締められるという時、後方でざわめきが起こった。振り向いてみると、見覚えのありすぎる白い車が停車するところだった。流れてくるのは気の抜けた音だった。
うわ、きた。
身の毛がよだった。慎吾は慌てて中里を向いた。中里は締めの一言を発したままに、腰に両手を当てて硬直していた。顔からは血の気が引いていた。おい、と慎吾が声をかけると、中里は車に目を釘付けにしたまま呟いた。
「……あれは、高橋か」
「だろうな」
慎吾が肯定すると即座に中里は、俺は帰る、とくるりと背を向けた。おそらく高橋涼介の目的物であろう中里に逃げられてこっちに来られても面倒なため、慎吾はその首に腕を回して中里の動きを封じた。
「待て毅、逃げなくてもいいだろ」
「離せ慎吾。俺はもうあいつの顔を見たくねえ。夢にまであの顔が出てきて周りに薔薇が飛び散って、気持ち悪いひっくい声でエンドレスで笑いやがるんだ。俺ゃノイローゼになりそうだった。けど昨日やっと吹っ切れたんだ、もう俺を人間失格にするんじゃねえ」
「いやそういう場合はな、新しい記憶に書き換えた方がいいっていうじゃねえか。良い思い出を作るんだよ」
「作らなくていい、忘れさせろ。俺の人生に平和を取り戻させろ」
「だからって、お前ともあろうヤツが」
「これは逃亡じゃない、名誉ある撤退だ。いや正当防衛だ、緊急避難だ、特別措置だッ」
中里がプライドをかなぐり捨てて慎吾から逃れようとじたばたしていると、辺りでカランコロンと缶の転がる音が広がった。そして息の詰まる沈黙が広がっていた。慎吾と中里はそっと後ろを、高橋涼介のいる場を向いた。そして我が目を疑った。
あの高橋涼介が。赤城の白い彗星高橋涼介が。群馬の走り屋で抱かれたい男ナンバーワン(赤城レッドサンズ外報部調べ)の高橋涼介が。オレンジのサングラスをかけてハイビスカス柄のアロハシャツに紫のタンクトップに安っぽいネックレスに三本線のジャージに素足に雪駄を。履いて、今、慎吾たちの目前に、妙義山の駐車場に立っているのだ。そして右の主張だけ激しいシルバーのリングがはめられている指から、二週間前中里が涼介に渡したはずの紙袋が提げられていた。ある意味では先日の慎吾と同じ状況だった。ただ全員がそれ以上にその存在を認識しあぐねていることは明白であり、誰も彼もが呼吸も声も失っていた。涼介はそのまま雪駄を滑らせながら、エイリアンのような滑らかさで中里にまで歩み寄ってくる。慎吾はトバッチリを食わぬよう慌てて中里の首から腕を外し、その背を押してメンバーたちの先頭に送り出した。
涼介の出で立ちは、予想通りきらびやかだった。たが予想していたよりも違和感バリバリでもあった。様々な次元を組み合わせたような歪みが発されている。
ありえねえ。やっぱこれはありえねえ。慎吾は自分の物差しのみで高橋涼介という人間を量ったことに、忸怩した。
中里の前まで来た涼介は、サングラスを外しその手で髪をかきあげると、やあ、と完璧な顔で微笑んだ。ありえない華やかさがあたりに満ちた。
「よ、よお。た、た、た、た、高橋」
中里は頬を痙攣させ歯を鳴らし腰を引きどもりながらも、もう逃げられないと腹をくくったのか何とか挨拶を返していた。これは評価するべきだった。涼介は読めない笑顔を浮かべながら、中里、と読めない声を出した。
「この前のお前の気持ちは、よおく分かったよ」
「……いや、高橋、あれはだな、その、すまん、本当に申し訳ない。すべては俺の、何だ、その、ナニで……な?」
と、中里は慎吾を向いてきた。何が『その』で『な?』なのかは見当つかなかったが、その中里の必死の形相と、『頼むから助けてくれマジで』と訴えかけてきている目を無視できるほどに慎吾も非人情ではなかったため、その場しのぎで「お、おう」、とだけ返しておいた。涼介はそんな慎吾と中里を見て、笑みを深めた。
「しかし、俺としてもあそこまで熱意を見せられたら、無下にもできなくてな」
涼介の艶やかな笑顔は、この場の九割五分を占めるむさ苦しい男たちにとって毒気に他ならなかった。頭を押さえる者が現れた。慎吾は事態の緊急性と重大性を知った。中里にさっさとこの異次元との出入り口を開通させている男を退散させてもらわなければ、自分たちの命が危なくなる。だからといって慎吾は涼介に立ち向かう気もしなかった。これには中里でなければ解決できないという切実さがあった。
「いや、だからだね高橋、あれはまったく無下にしてくれて構わないというかむしろしてくれた方が俺としてはとても嬉しいわけで」
「なあ中里。すべては循環する。人の思いは必ずどこかで通じるんだ。だからそう遠慮をするなよ、俺とお前の仲じゃないか」
「遠慮じゃなくて本気でありましてそれで何ですかあなたと私の仲って一体どんな仲なんですかッ」
「それを公衆の面前で言えというのか。なるほど、お前にそういう性癖があるとはさすがの俺も知らなかった」
「何言ってんだてめえはァ!」
ついに中里は血を吐くように叫んだ。それも意に介さぬように、冗談だ、と涼介はダンディに笑った。
あれ?
何か違うな、と慎吾は妙な気持ちになった。こう、何つーか、あれだ。そう、寝坊したからそのまま家でゴロゴロしてた時、たまたまかけてたテレビでやってた昼メロ、それに出てくる悲劇のヒロインを包み込む恋のお相手の社長子息、みたいな。くさい演技と情熱的な言動。その滑稽さにも似た雰囲気が、この涼介にもある。
こいつ、わざとか?
そう疑り、そのくらい計算しねえバカじゃねえよな、と確信する。仕返し、にしては戯れの要素が強いように思えるし、この言動は高橋涼介の趣味に違いない。ここに来る前、この格好で赤城にも行ったのかもしれない。そしてこの場よりも多大であっただろう反応に味を占めたとも考えられる。
やはり高橋涼介、洒落の分かる男だ。面白い。このくらい他人を左右できる人間になりてえもんだ、と半ば泣きそうになっている中里を忘れて慎吾は感心した。この辺りはまだ非人情であった。
「なあ高橋、俺はな、サバイバル的な人生が好きだ。乗るかそるか、半か丁かってギリギリの攻防っつーのか、たまんねえ。だがそんな俺でもどうしても、腰抜け野郎と罵られようが、踏み越えられねえ一線ってのがある。俺はそういう部分を人間として大切にもしたくもあるというか、人間である限りやっぱこう最低限の節度が必要っつーか、うん、だから、えー……もうとにかく後生だ帰ってくれ、俺の普通の生活を返してくれ」
中里のがむしゃらな懇願だった。そうだな、と涼介は軽く頷くと、中里の右手を左手で取って、右手の紙袋をその手に持たせ、意表を突かれて反応できずにいる中里の右耳に、そっと口を寄せた。
「これが………………俺の、気持ちだ」
底に沈みながらも存在を主張する、生々しいささやきだった。聞いてしまった他のメンバーたちが無意味なれども耳をふさいだほどだった。直接食らった中里はぬるい笑顔で固まっていた。
「では、また」
薄い笑みを浮かべたまま、涼介は雪駄を引きずりながら白い車に向かい、スムーズに乗り込むと優雅に消えていった。
終わった、とばかりに、場の一帯からため息が溢れた。
中里は顔を奇妙に歪ませたまま立ちつくしていた。おかげで場の緊張感は解けていなかった。慎吾はその突破口を開くべく、中里が右手に持たされた袋を指差し、何だそれ、と尋ねた。中里は顔を平常に戻すと、切羽詰った目でギョロリと睨みつけてきた。
「俺が、知るわけねえだろう」
「まあそうだが」
慎吾がその先の言葉を探していると、中里は眉根を寄せ目を細め、袋を厳しく見た。
「だが、どうも、怨念的なオーラを感じる。多分これは復讐だ。俺に対する報復だ。だからこれは捨てるべきだ」
「怨念こもってんなら、捨てたら呪われんじゃねえの」
「お払いをする」
涼介の態度が中里に対する復讐だとは到底思えなかったが、中里が決死であることは見て取れたので、慎吾は言及しないことにした。
「その前にとりあえず中、見てみたらどうだ」
慎吾が提言すると一瞬動きを止めたが、中里は意を決したように座り込み、紙袋に入っている箱を取り出した。それも二週間前中里が涼介に贈った箱であり、贈った状態のままに包装されていた。中里を囲んでいたメンバーが後ろから興味深々箱を覗き込んだが、見るんじゃねえとばかりに殺気のこもった目を食らい、すごすごと引き下がった。慎吾も中里の背中を見るのみだった。中里は包装紙を乱雑に剥がし、少し動きを止めてから、箱のふたを取った。そのまままた動きが止まった。皆が固唾を飲んだ。中里は三十秒近く経ってから箱のふたを閉じ、紙袋に戻し、地面に置いたままおもむろに立ち上がった。その背中が重々しかった。巨大な沈黙が落ちた。
「毅」
慎吾が意を決して呼ぶと、中里は一同に振り返った。その顔は悟りきったように落ち着いていた。
まあ、といつもよりも一段高い声で中里は言った。
「そういうわけで、これからもだな。安全運転を心がけて、無事故無違反で走り屋生活を謳歌しよう。では解散」
恐ろしい爽やさで中里が宣言した。異議を申し立てる者は誰もいなかった。蜘蛛の子を散らすようにそれぞれがそれぞれの車の元へと逃げていった。慎吾だけが中里の隣に残った。
「何だったんだよ」
声を潜めて聞くと、中里はいつの間にか左手に持っていた、カマボコ板ほどの大きさのカードを無言で出してきた。慎吾は少しためらったものの、それを受け取った。白いカードには機械で打ち出された文章が記されていた。
『誠意には誠意をもって返すことこそ、俺の本懐である。高橋涼介』
誠意?
慎吾は中里を見た。中里は地面の紙袋に視線を落とし、意味深長に慎吾に視線を戻した。慎吾も地面の袋を見てから、中里に目を戻した。慎吾が少しだけ首を傾げると、中里も同じくらいの角度に傾げた。慎吾は己の顔に意図せぬ力が入るのを感じた。口の端が上がっていった。「それが」と慎吾は思いほか震えてしまった声を出した。
「誠意か」
「誠意、だろうな」
「……返された、のか?」
「……返された、んだろうな」
どこか老成した中里が呟いた。秋風が涼介の残り香を吹き飛ばしていった。二人はそのまま暫く何も言わず、ただ立っていた。
その日は赤城山で大量の失神者が、妙義山では酸欠で倒れる者が何名か現れ、双方で軽微な事故が続出したことが後日の調査で明らかになった。
またその日からあの高橋涼介がグレたという噂が群馬中の峠を席巻し、のちに結婚式の帰りという話の純白タキシードの中里が菊の花束片手に赤城山に訪れたことはあまり取り沙汰されなかったが、高橋涼介の噂が鎮火した頃になっても、一部マニアの間ではその中里の写真が高値で売買されているということだった。
ちなみにその収益が高橋涼介の懐に入っていることは、誰も知らない。
(終)
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