謝罪  1/3
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 建てつけの悪いアルミ枠のドアを押し開けて、外へと身を出した青年は、うわさむ、と一人小さく声を上げ、首に適当に巻いたくたびれたマフラーを鼻の下まで引き上げたが、居間に放り出しておいたために染み込んだ煙草のにおいを吸い込んでしまい、喉の奥をやられ、慌ててマフラーを引き下げると、げほっ、と頬をふるわす咳をした。あたりには体の芯までを凍らせるような寒さが満ちており、吹く風は身を切るように鋭く、吐き出した息は、たちまち白く変じていった。
 玄関先には、どこからか飛んできたコンビニのビニール袋や落ち葉、小石や砂が、無造作に積み重ねられた作業用のケースの脇に溜まっている。掃除しろよ、面倒くさそうに、唇を極力動かさずに呟いてすぐ、青年はその、元々大きく開かれてはいなかった目を、不思議さから、更に細めた。数時間前に見た折にはなかったはずの色が、そこにある。それとも暗かったため見逃していたのだろうか。青年は目を閉じ、数秒無我の境地に両足をつけてから、目を開いた。景色はまったく変わらない。そうして、十秒ほど小首を傾げてから、さみい、としみじみ呟いた。


 峠で度々爆音をまき散らす、いわゆる走り屋と呼ばれる輩の中でも、ただただ車に傾倒する優等生型、そして走りと遊興を半々、同等に楽しむ世渡り上手型、これら二つは良く目立つ。前者はその度を越した車キチぶり、後者はその度を越した脱線ぶりゆえだ。
 例えば妙義山で黒いスカイラインを駆る中里毅などは、車のためなら貧血も睡眠不足も栄養失調も一日三食カップヌードルもいとわないことから、前者の傾向が強い。
 だが、中里の運転技術は狂信するに足るほどに高くもなければ、努力と実力に相関がないと断じられるほどに低くもなく、一般的な感覚で鼻にかけるのを許せる範囲に位置しており、また中里は遊び心や協調性は人並み程度に、人情は人並み以上に持っていたため、仲間内からの信望は厚かった。顔のつくりも抜群ではないにしろ悪くもないものであったため、特別な嫌悪感も催されず、気軽に声もかけられた。本人が望むにしろ、望まいにしろだ。

「いつも精が出ますねえ、ご苦労さんです」
 その日も、中里が峠道を上へと爆走し終えて車から降り立つと、青いセーターを着込んだその若者が、待ち構えていたように駆け寄ってきた。舌を出してエサを待つ柴犬のような従順な印象のある、山上という男だ。馴れやすく、無邪気であり、空気を読む能力には欠ける。
 ああ、と中里は山上の顔を見ながら頷いたが、「ところでですね、あれ見てくださいよ」、と山上は中里の顔も見ずにいそいそと前方へと顎をしゃくった。
 すぐそこだった。見覚えのある四人の男たちが正方形を作るように立ち、口元に手を当て、これから悪魔を召喚しようとしているかのような、物騒な雰囲気を発している。
 何やってんだ、ありゃ。中里がぼそりと呟くと、やはり待ち構えていたように、あれはですね、と山上が嬉々として説明し出した。
「やっぱり走り屋たるもの、頑丈な内臓がなけりゃなんないっつーことでね、あいつらでやってんすよ」
「何を」
「名付けて、見かけで肺活量王者決定戦」
 その仔細を中里は聞かなかった。聞く前に、若干背筋を伸ばした『あいつら』こと四人は、競技を開始していたからだ。
 よーいドン、という白いマフラーを首に巻いた一人の間延びした声を合図に、残りの三人が一斉に身をかがめた。その口元から出た丸い色彩的な物体が、見る間に容積を増していく。
 中里は、理解した。
 風船だ。
 風船を、膨らませている。
 はいそこまで、という変わらず間延びした声を合図に、三人は風船に息を吹き込むのをやめ、空気が抜けぬように手早く口を縛ると、もたもたと各々のブツの大きさを計測し、「うっしゃあ!」、膨らませた風船を上空に投げて、灰色のトレーナーを着た丸刈りの男が快哉をあげた。クソ、と風船を上空に投げてその場に崩れ落ちたのはダウンジャケットを着込んだ金髪の男で、風船を右手に持ったまま左手で腹立たしそうに頭を掻いたのは、知りうる走り屋の中で中里が最も注意している男だった。
 中里はその競争の始まりから終わりまでを、つぶさに見た。決してそれが非常に魅力的であったからでも、どの人間が勝つのか興味があったからでもない。不可解だったからだ。何やってんだ、あいつらは。やっていること自体は理解できたが、その意味や意図を理解するまでには至らなかった。
 と、三人三様に勝負の余韻を残しているうちに、競技の主審を務めた白いマフラーの男が中里に気付き、わざとらしく大仰に両手を振ってきた。義務はなかったが、無視するにも衝撃的な光景であったので、中里はそのまま四人の元へ、意図なく山上を引き連れながら歩いていった。
「何やってんだ、お前ら」
 言うと、頭を掻いていた最も注意すべき男が、「見て分かんねえのか」、とうとましそうに頬の張った顔を歪めた。そりゃ分かる、と中里は黒目をギョロリとその男に向け威嚇してから、ゴムと息に負けて落ちてきた風船を拾った残りの二人と、人に手を振ったというのに、役目を終えた開放感ゆえかぼーっと突っ立っている、主審を務めた男を見た。
 すると、「いやね」、と中里に弁解するように、片手に風船を持った丸刈りの男が、外人風に肩をすくめた。
「俺が持ってきたんだよ、これ」
「お前が?」
「ガキが欲しいっつーもんだからさ、買ってやったんだ」
「これはその、あまりか」
「衝動買いが好きなもんでな、俺。で、折角だから何か使えっかなあと思って、持ってきたわけですよ」
 言いながら丸刈りの男は、すぐ横に停まっている、フロントの曲線麗しい群青色の車に目をやった。
 会話に加わる気もないらしい山上とダウンジャケットの男と、ぼーっとし飽きたらしい主審を務めた男は、どこからか取り出したタコ糸を持ち、せっせと風船の口にそれを結んで、これまたどこからか取り出したカッターでその糸を適度な長さに切って、その端を、車のリアウィングにしっかりとくくりつけていた。分業で、黙々とこなしている。
「おもしれえだろ」
「……無茶はするなよ」
「オーケーオーケー」
 車の持ち主が楽しげに笑っているのであれば、他に言うこともなかった。何でここにはこう、バカが多いのか。ため息混じりに、だが同時に独創的な情熱を持つ者たちを誇らしく感じながら、中里は思った。
 ただ、こういったバカの遊びには真っ先に加わる――例えば中里が妙義山での優等生の先鋒とするならば、世渡り上手の特待生と言える――薄そうな黒い長袖のシャツを着た庄司慎吾は、自分が作った風船を上から下から眺めているだけだった。長い前髪が目元を隠していて表情はよく見えないが、沈静している様子から察するに、見かけの肺活量で負けたのがショックなのかもしれないとも思えた。いつでも運転技術で他人を圧しながら、口でも圧するのを好む男であり、他者との交流では平和を求めないのに、大した被害も受けずにのうのうと生きている図太い男だが、時折、ごくごくまれに、孤独を恐れるような繊細さを態度に見せることもあった。しかし、手をかけなければ容易くしぼんでしまう花のようだと思って同情や油断をすると、手ひどく裏切ってくる冷徹さも持っている。
 中里はいまだ、慎吾のどの表情がどこへとつながるのかを、分からずにいる。どのような顔をして、どのような暴力的行為に想いをはせ、どのような反抗的精神を養っているのか、分からずにいる。だから常に、最低限の安全は確認しなければならないと、習慣的に考えていた。
「割るんじゃねえぞ」
 実際に中里が確認すると、慎吾はたった今、中里がそこにいることに気付いたような訝しげな顔をよこし、誰が割るか、と真面目な調子で言って、
「俺はこの、風船を割る音と黒板を消す音とガラスが割れる音だけは、何が何でも耐えらんねえんだ。誰かが俺の近くで鳴らしでもしやがったら、絶対そいつのケツを蹴り飛ばしてやる」
 少しの愉快さも含まれていない目で風船を睨みながら、そう続けた。それらの音によほど嫌な思い出があるのかもしれない。だがひとまず危険な目論みを持ってはいないらしきことは分かったので、中里は慎吾から、後ろへ目をやった。
 山上も含めた四人は、車の尻に落ちている風船の数々を眺め、ああでもないこうでもないやっぱ俺のGTOは最高だよでも俺このエンブレムが嫌いなんだよなあええウソだろマジかよああ俺も俺もえええ、と何やら品評し合っている。彼らの世界だ。中里は前に目を戻し、慎吾がまだ目の敵にしている風船を見た。その凶悪な男の軽快な車を思い起こさせる、赤い色をした、風船だ。軽そうな体は、今にも人間の手から抜け出したがっているようだった。
「それ、こっから飛ばしたら、どこまで行くんだろうな」
 浮かんだ疑問を誰の返答も期待せず、中里がそのまま口に出すと、
「その辺の木に引っかかって終わりじゃねえ? ヘリウム入ってんでもねえんだし」
 慎吾は面白くもつまらなくもなさそうな口調で、軽く言った。中里は顔をしかめた。
「ロマンがねえ奴だな、お前」
「お前相手にロマンを出してどうすんだよ」
「どうするもんでもねえが、あくまで想像だ。少しは広い目を持て」
 広い目ねえ、と今度はつまらなそうに顔を歪め、慎吾は声を高くした。
「この先に告白の手紙でも結んで、あの子のオウチに届きますよーにってカミサマにお願いしながら飛ばすとかってのが、お前の言うロマン的なことか? なら俺はできねえな、そんな妄想。お前みてえにめでたい頭もしてねえし」
 割ってやろうか、中里は思ったが、間髪入れずにすぐ傍でエンジンが回る音がしたため、思考を中断した。
 リアウィングにタコ糸を巻かれた車が体を唸らせており、排気管の前の風船をくねらせている。
「おい、待て。まさかそれで走るつもりか」
 車から離れた二人に中里が慌てて尋ねると、いえいえ、と山上がハキハキと答えた。
「あれじゃあ走らねえっすよ、空気抵抗とか大きそうだし。帰るだけっす」
 帰るって、と中里が言う間に、ウィンドウから顔を出した丸刈りの男が、じゃあなー、と手を振りながら、車を発進させ、やがて車道の向こう、木々の向こうへと消えていった。
「……ありゃあ、後ろの車に迷惑だろう」
「あー大丈夫ッスよ全然、ここからあいつんチまでだとそんな後ろに車つくことなんて、あっても二回くれえですって。それにどうせくっつかれた時点で、チギっちまいますよ」
「しかし、目立つぞ。見つかったら、警察には止められる」
「ならあれッスよ、ウェディング走行の練習だって言やあいいんじゃないですかね? ほら、空き缶つけてカランコロン走るでしょ、そうすりゃまあポリスメンも人ですから」
 あいつ、もう結婚してるだろ、と丸刈り男の素性を思い返しながら中里が言うと、子供もいますしね、と山上は笑いながら言った。ああ、こいつらがバカなのか俺がバカなのか、どっちだろう。どちらでもある、という結論は中里にはないため、しばらくはその疑問の答えを考えるハメになるところであったのだが、またもや思考は中断された。目の端にいる慎吾が、奇妙な動きをしていたのだ。見ると、いつの間にか持っていたペンで、いつの間にか持っていた紙を太ももの上に置き、何かを書いている。見かけで肺活量王者決定戦の主審を務めていた男は慎吾の赤い風船にタコ糸を結び付けており、ダウンジャケットを着込んだ男は既に自分の車へと戻っていた。
「何やってんだ」
 たっぷり慎吾の動きを観察してから中里が尋ねると、慎吾は太ももでペンを走らせたまま言った。
「お前、見て分かることをいちいち聞いてくるよな」
「お前が何かを書いていることは分かる、だが何を書いているかは分からねえ」
「俺も苦労かけてるからよ、毅に」
「あ?」
「ロマンチックな願いを叶えてやろう、と俺なりに考えたわけだ」
 うん、と慎吾はペンを紙から離し、キャップをしめた。何かある、と中里は直感した。少なくとも罠だ。多くとも罠だ。おい、と言って近寄り、慎吾が両手で持っている大学ノートほどの大きさの紙を、横から覗き込んだ。ミミズが張っているかのような文字が書きなぐられている。どうにか解読すると、

『これを拾っていただいた方、あなたは優しい方だ。ぜひともこの僕、中里毅と仲良くしてくださいませんか。老若男女問いません。どなたでも僕の胸に飛び込んできてください。僕はいつでも妙義山にいます。さあ、僕と真夜中のドライブで、レッツセックス!』

 中里は、すぐ横にある慎吾を見た。既に中里を向いていた慎吾は、意地悪く唇を歪め、にやりと笑った。
「……慎吾」
「夢があるだろ」
 どこがだ! 中里は叫び、紙を奪い取ろうと腕を伸ばしたが、慎吾は素早く紙を持った手を頭上に持っていった。空振り。何も掴んでいない右手を胸の前で止めた中里は、頭の上でひらひらと紙を振っている慎吾と睨み合った。間合いを計り、隙を窺う。ふ、と慎吾が息を吐くとともに、紙を持っている方の腕を掴もうと体を動かしたが、それよりも素早く慎吾がくるりと身をひるがえしたため、中里はつんのめった。
 幸い体勢を立て直したことからアスファルトへの顔面衝突は避けられたが、中里が一人そうして地面とのディープキスを回避しようと苦戦している間に、慎吾は手早く主審を務めていた男からタコ糸の結ばれた赤い風船を受け取り、その糸の先で紙を固く結びつけ、それを手にしたまま、崖の近くへと歩いていこうとした。
 中里は気付き、「おい!」とかすれた声張り上げた。慎吾は振り向き、いいじゃねえか、と頬を上げた。
「真夜中のカーセックスなんて、風情がある」
「ねえよ! それをよこせ!」
「毅、俺の嫌いなことを知らねえのかよ」
「俺だろ」
「それは嫌いな奴ナンバーワン。嫌いなことナンバーワンは」
 音の鳴るほどに強い風が吹き、慎吾は風船を捕らえていた指を離した。
「命令されることだ」
 うわあッ、中里は慌てて手を伸ばしたが、無論届くことはなく、自らの重みに屈せずに、吹き続く風に煽られ、赤い姿は消えていった。さようならー、と慎吾は手を振りながら棒読みで別れを告げた。その胸倉を、中里は両手で掴み上げた。
「てめえ、何やってんだ!」
「飛ばした」
「そんなことは、見りゃ分かる!」
「だから見て分かること聞くんじゃねえよ、頭悪いな」
 不愉快そうに言う慎吾に、中里は怒りを持続する気力すら奪われた。掴んだシャツから手を離し、額を押さえる。強い疲労に襲われ、膝が折れそうになった。
「大げさだな」、退屈そうな慎吾の声が、その時耳を打った。
「どうせあんな重てえモンはすぐ落下するだろうし、そうでもなけりゃ木に引っかかるか空気抜けるかカラスに割られるかで、どっちみち樹海にさようならだぜ。つまんねえけど」
「……人の名誉が汚されるかどうかって瀬戸際を、つまるつまらねえで判断すんじゃねえよ」
 苛立ちを露わにする中里をあからさまに避けながら、慎吾は億劫そうに、何をそんなに気にしてんだ、とぼそぼそと言葉を返した。気にしているというわけでもなかった。あんなものは、人里に降下する前に、豊かな森の景観を害するゴミとなることだろうことが明白だからだ。ただ、自分の気分が害されることを貫かれたことに、精神的な打撃を受けて、中里は深くため息を吐いた。ったく、と慎吾は至極面倒くさげに、中里を諭すように言った。
「お前の名誉なんて、元々あってないようなもんだろうが」
「そんなわけがあるか。お前よりは高い名誉が俺にはある」
「信用性に欠けまくる言い分だな」
「お前な、俺のことをどれだけのもんだと思ってやがる」
「エロ親父」
 慎吾はそこだけ断言した。中里は言葉をなくしながら、ああもう、絶対こいつの耳元で風船割ってやる、と誓ったが、その間に慎吾は振り返りもせず、すたこらさっさと自分のシビックへ戻っていったのだった。



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