謝罪  2/3
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 ガキは色んなもん欲しがんだよなあ、と白いフリースを着た佐藤は、器用な手つきで太い輪ゴムを小さなゴム風船の口に結びながら、幸せそうに微笑んだ。親バカ、という言葉を思い浮かべながら、慎吾はペットボトルに入った炭酸飲料水を、同じ型の風船の口から中へと注いだ。
 横ではバシャバシャと液体が鳴り、パンパンと皮膚とゴムがぶつかって鳴っている。なつけえという言葉を連呼する者がいる。地元のお祭りではまだ見かけるものだ。手のひらに乗るほどの大きさ、厚めのゴム、中には大量の水と少しの空気、縛った口から伸びた輪ゴムで作った穴に指を通して、ヨーヨーのように振るなり回すなりして楽しみ、時には擬似爆弾として他人に投げつけて、楽しむ。
「お前が欲しかったんじゃねえの?」
 慎吾が尋ねると、まあそれもあるけど、と佐藤はばつが悪そうに黒ゴマをまいたような頭を撫でた。別にいいけどよ、慎吾は嫌味たらしく笑い、炭酸飲料水入りの風船を佐藤に渡した。
「こういうことばっかやってっから、毅クンにイイ顔されねんだよな」
 素早く輪ゴムを取り付けた風船を差し返してきながら、佐藤が言う。慎吾は軽くあざけった。
「イイ顔されてえんなら、これから横断歩道を手ェ挙げて渡るくらいはしなきゃなんねえぜ」
「俺じゃねえよ、お前がさ」
 慎吾は小さな輪ゴムの穴に中指を通し、数回手首を使ってゴムを伸縮させてから、「俺があいつにイイ顔されて、どうするってんだよ」、と不審を露わにして言った。佐藤は肩をすくめた。
「この辺りに時々漂う、妙な緊張感を和らげる作用は出るかもしんねえよ」
「緊張のない人生なんざ、車のない人生と同じだ」
「言うねえ」
「車のない人生なら、生きる価値もねえ人生だ」
「お前も毅クンもよ、そんな感じだよな。よくもまあそこまでできるもんだ、俺にはムリだね」
「あいつと一緒にすんじゃねえよ。俺に失礼だろうが」
 そりゃ悪かった、所帯じみた男が、冗談めかして言った。そうだ、慎吾は思う。俺に失礼だ。比較されることに傷つくほどの繊細な自尊心を持ってはいない。ただ慎吾には、その車がなくなった場合、中里毅という男ならば、ただ腐り果てるか、腐臭を漂わせる前に、忽然と姿を消すだろうと思えてならないのだ。
 車を猛スピードで走らせることで生じる感覚は共有できるが、あまり内省的な傾向のない慎吾には、中里のそこまでの、本能的とも言える物質への執着に、共感はできなかった。あの男の、表に出ている他者への誠実さによってくらまされている、肉体すべてにはびこっている偏執的な真摯さは、車にしか向けられていない。そうだ、慎吾は繰り返し思う。失礼にもほどがある。俺はあいつほど、狂っちゃいない。
「お、うわさをすれば何とやら」
 各所で響くエンジンの鼓動の間を縫って、特徴的な音が近づいてくるのに気付いた佐藤が、楽しげに言った。「下品な響きだ」、慎吾は考え事から抜けた咄嗟に、それほど思ってもいないことを呟いた。「あれがイイんだろ?」、佐藤は真面目くさって聞いてきた。
「下品な野郎の股間にゃイイんじゃねえの」
「うわ、それ聞いたら毅クン、怒るぞォ」
「でも実際あいつ、ふかしながら車ン中でカいてそうだろ」
「そりゃ、別の意味で怒るな。っつーかありえそうなこと言うなよお前、想像しちまう」
 揶揄が目的であったため深くは考えておらず、慎吾は言ってから克明に想像し、その迫真さに、何とも言えぬ心境に陥って、「聞かなかったことにしとけ」、鬱々としながら佐藤に忠告したが、「もう遅い」、と悟り切った声で返された。
「記憶なんて都合が良いように作り変えられるもんだ。遅くもねえ」
「俺の頭の中の毅クン、イッちまったんだよ」
 その声は、ひどい諦めを含んでいた。慎吾はそこまで物語を発展させなかった自分の脳に感謝をした。
「そりゃまた、早漏だな」
「ああ、俺しばらくあいつの顔、まともに見れねえわ。ゼッテー笑っちまう」
「思う存分笑ってやれ。どうせ気付かねえよ、お前があいつのオナニーシーン想像して笑ってるなんざ」
 奇妙な悲哀が感じられる会話を慎吾と佐藤が交わしている間に、現れ停止した闇に目立たぬ車体にいち早く、チェックのシャツを着た男が向こう側から駆け寄っていった。足取りは軽く、尻にはブンブンと振られている尾が見えるようだ。さて、と慎吾は首を回して張っている筋肉を伸ばしてから、足を進めることにした。
「あれ、行くの」
「昨日の謝っとかねえと、そのうちあいつの親衛隊にボコられる」
 そのような輩などいないが、佐藤は比喩的に意を得たようだった。多少腕が立ち、自己愛ゆえの孤高を貫かない人間であれば、例外なく取り巻きはつく。そして慎吾にとって、中里毅の取り巻きほど腹立たしい男どももいなかった。「あんまからかってやるなよ」、と去り際声をかけられ、「あんま想像すんなよ」、と慎吾は言い捨てた。
 誕生した佐藤の笑い声をBGMにし、手に水風船を持ったまま、足音を荒くして近付くと、車から降りてすぐの中里が真っ先に気付き、寒さか興奮かで少し赤らんでいる顔を、露骨にしかめた。厚手の黒いハイネックセーターの胸元で、威厳をつけるように、しっかりと腕を組んでいる。幻覚の尻尾を振り回している男が続いて慎吾に気付き、おお慎吾、と中里とは正反対に明るく迎えた。
「なあ、そういやさ、佐藤クンってどうだったの?」
 男と中里が、リアウィングから風船を上げながら帰路についた佐藤のGTOについて話していたことは、簡単に察せられた。慎吾は男だけを見ながら答えた。
「何事もなく家に帰って、嫁さんと情熱的なセックスしたってよ」
「げええ、言うなよ慎吾ォ、ユカちゃんは俺たちのアイドルだったんだぜえ」
「残念だったな。現実を見ろ」
「いーやー、まだ俺は夢を見るぞ。あ、毅さん、じゃあ俺はアレがあるんで、これで」
 言うや否や、男は何事か思い出したように、せわしなく去っていった。
「アレって何だ」
「お前が手に持ってるもんだろう」
 首をめぐらすと、男の背中は佐藤の近くで見つけられた。なるほど、と慎吾は納得し、いつになく仏頂面の中里の顔の前で、水風船をはじいてから、「お一ついかがですかァ?」、と押し売り専門の営業マン風に聞いた。中里はため息を吐いた。
「要らねえよ。で、お前は何の用だ」
 簡潔に中里が問い、慎吾は水風船を指から垂らしたまま、謙虚さを演出するようにあごを引いて、黒塗りのスカイラインを見ながら、一応、と答えた。
「謝罪の念を表明しておこうかと」
「あ?」
「昨日は、悪かったな」
 十秒経っても反応がないので、慎吾は車から中里へと目を上げた。中里は腕を組んだまま、目の前にあるスカイラインのボディを、不満げに眺めていた。慎吾が声をかけようとした時、中里が唐突に慎吾に顔を向け、「口だけならどうとでも言える」、眉をひそめたまま言った。慎吾は両眉をあげて額にしわを作り、唇に力を入れて笑った。
「この俺が、言ってんだぜ。評価するには十分な条件じゃねえか」
「お前に俺の評価が必要だってのか」
 うろんげに中里が言う。「一部の奴らは、お前の評価が絶対だと思ってる」、と慎吾が当然のように言い返すと、中里は眉間のしわを深めた。
「そんな奴らがいるか? 俺は見たことないぜ」
「中里サンが嫌いだから俺も嫌おう、っていう考えの奴がな、いくらかいるんだよ。害はねえけどそういうのが一番、目障りなんだ」
 自分の意思を他人に預ける行為ほど、慎吾が毛嫌いするものはなかった。心境は推察できるが、その実行を許す自我の欠如については、理解したくもない。
 それで、と眉間のしわを維持したままの中里が、静かに言った。
「そういうことならお前は、俺がお前を許すとでも思ってんのか」
「単純だからな、お前は」
 習慣的につい、慎吾は他人を追い詰めるやり方を取っていた。中里は数拍置いてから、顔の筋肉を緩め、鼻で笑った。
「人を舐めといて、随分甘い考えをしてやがるな」
 ――あ、めんどくせえ。
 慎吾がそう直感したのは、中里に珍しくたっぷりとした余裕があったからだ。おそらく中里は、名誉を毀損するビラを眼前で飛ばしたくせに、不遜な態度を変えない慎吾が、コケにしてきているとでも考えたのだろう。それは単なる習癖であり、特に意味もないのだが、真偽に関わらず、一度そういった確信を持ってしまうとこの男は、手がつけられないほどの強硬さを備え、そこらのちゃぶ台返しが得意な頑固親父よりも、頭が石化してしまうのだ。
 以前であれば、どれだけ攻撃姿勢を露わにする人間がいようが、慎吾は返り討ちに情熱を傾けていた。だが、己よりも若い男に屈辱的な敗北を喫してからは、車を走るための障害を進んで作ることはやめようと、若干、平和的な思考を心がけるようになっている。よって、こちらに対して敵愾心をムラムラと発している中里の、取り付く島のない現状もできる限りは改善しよう、そう考える。この男を甘やかしてなだめすかすのは好かないし、得意ではないが、仕方ない。すべては己の快適な走り屋ライフを実現するためだ。
「でもお前」、慎吾は断定するのではなく、肯定を引き出すために、ささやくような声を出した。
「もし俺がどっかで暴漢に絡まれてたら、助けに入るだろ?」
「場合による」
 中里はその大ぶりの目で慎吾をしっかりととらえ、言い切った。慎吾は笑うか笑うまいか迷ったが、疑問も疑念も受け付けぬよう睨んでくる中里を見て、結局は噴き出した。
「何言ってんだ、お前はいつでも下手な正義感発揮しなきゃ、気が済まない奴じゃねえか」
「慎吾、お前は俺に喧嘩を売りに来たのか?」
 笑いながら言った慎吾に、嘘が極端に似合わぬ男は、会話を打ち切るように尋ねた。慎吾は空の左手を口元にあて、相手の機嫌を損ねない程度の微笑を作ってから、謝ってんだよ、と答えた。
「何で分かんねえかな。これだけ言っているってのに」
「それが人に謝る態度かよ」
「何かおかしいか」
「罪悪感がカケラも見えない、それどころか楽しんでるようにすら見える」
「それはお前の目がおかしいんだよ。俺は本当に悪かったと思ってる」
「そういう言い方からだ、人に許しを請うような心が感じられると思うか。評価はできねえ、小学校からでもやり直してこい」
 組んでいた右腕を中里は、慎吾を払うようにして振った。ここに至り、慎吾の胸中にはふつふつと、頑固な中里に対する冗談じゃねえ何で俺がこんな物分りのわりい奴の機嫌取らなきゃなんねえんだ的な苛立ちがわいていたが、汚名を返上することに集中していたため、怒りは表に出さず、だが多少は口調に責める色を乗せつつ、「そっちこそ」、とまだ笑みを保ちながら、言葉を返した。
「それが謝る人間を受け入れる態度かよ。仮に俺が勝手なこと言ってるとしても、そういう風に最初から決め付けるのは、大人なやり方とは言えねえんじゃねえか」
「俺にお前の何もかもを受け入れろってのか? ふざけんな、俺はお前の保護者じゃねえ」
「どっからそんな話が出てくんだよ、お前、言葉をつなげる回路がどっか壊れてんじゃねえのか」
「何やったって結局は許されるんだと思ってるんだろうが、そんなのは大間違いだ」
「大間違いはお前の方だ、俺はそんなぬるいオツムはしてねえんだよ、マジでコトが分かんねえ奴だなお前は」
「慎吾、いい加減にしろよ、俺はもうお前のその口八丁には惑わされねえ」
「いい加減にすんのはどっちだ!」、慎吾は己の言葉を正確に伝えるために、声を荒げた。
「俺はただ事実を言ってるだけだ、それなのにそれをいちいちご丁寧に隠そうとしてんのが」
 てめえじゃねえか、と言うと同時に中里を指差そうと、慎吾は右手を振り上げた。そして、すっかり存在を忘れていた自分の指にかかっていた輪ゴム、その幾分緩めに作られていた輪が、風船が手とともに上にあがる勢いにつられ、中指から抜けていき、「てめえ」と慎吾が言った時点で、振り出された風船が中里の下半身に突き進んでいたが、それはまったく慎吾の意図しないことであり、更に、「じゃねえか」と言ったと時を同じくして、それが中里の股間のまん前にぶつかり、張り詰めた表皮を割って中の液体を撒き散らしたのも、類まれな偶然であった。
 しかし、何分、場合と場所が悪かった。
「……てめえ、慎吾」
 中里は己のしとどに濡れたまたぐらを見下ろし、被害状況を見届けてから、慎吾を射殺すように睨みつけた。慎吾は思わぬところで相手に莫大のダメージを与えたことに、呆然とした。通常であれば喜んでいるが、状況が状況である。しかしいつまでも固まっているわけにもいかないので、中里を納得させるだけの言い訳を考えつかないまま、慎吾は両手をあげ、毅、となるべく紳士的に言った。
「今のは、わざとじゃねえ。残念ながら」
「さっきから好き放題に人のことをバカにしやがって、挙句にこれか! いくら俺でも、もう堪忍ならねえ!」
 顔を近づけ、唾を出して中里は叫んだ。慎吾が胸の前に手を出して、中里の体から距離を取りつつ、俺がいつお前のことをバカにした、と冷静に尋ねると、「たった今! ついさっき! したじゃねえか!」、と一言一言を強調した、割れるような怒声が返ってきた。
 この瞬間、とうとう慎吾の強くも弱くもない忍耐力が根を上げ、慎吾は中里の胸を押していた手を思い切り振り下ろしながら、「怒鳴んじゃねえよ、うるせえな!」と叫び返したのだった。
「てめえの声は元々でかくてやかましいんだ、それをこんな至近距離で拡大すんな、耳が痛くなる! それともてめえは何か、俺の耳をぶっ壊して三半規管使えなくしてバランス取れなくさせようとでもでも画策してやがんのか、ああ!?」
 溜め込んでいた不満を声に変え、一挙に吐き出した慎吾の剣幕に、中里は一瞬だけひるんだが、それでも負けじと顔に指を突きつけてきて、「慎吾」、と一語一句を公共放送のベテランアナウンサーのごとき丁寧さで、だが勢い良く喋った。
「俺はてめえのその無駄なところで回る頭が今日ほど腹立たしいことはねえぜ。いいか、俺だってお前が本当に俺にしたことを悪いと思っていて詫びてるなら、許すも許さないもねえ、水に流してハイおしまいだ。だがさっきのお前のどこにそんな殊勝さがあった、どれだけの誠意があった! それで俺にどうやってお前を評価をしろと言う!」
「俺はまず悪いと思ってるから謝ったんだ、そうじゃなけりゃ誰がてめえなんかに頭下げるかよ!」
「何が頭下げるだ、てめえがいつ頭下げた、ただ口だけでごにょごにょ悪かったとか何とか言っただけだろうが! 俺はそんなもんを謝罪とは認めん!」
「認めんだァ!?」、慎吾は声を裏返しながら張り上げた。
「どこまでてめえは他人の感情ってもんを察知する能力に欠けてんだ、毅、この俺がわざわざやって来て謝ったってことがどれだけの努力に基づいてると思う。いいか、その後のことはおまけだおまけ、てめえの親衛隊がどれだけ俺を嫌ってようがうざいだけで実害はねえ、でもどうせなら視界はきれいな方がいい、だから俺はお前に言ってんだよ、人を勝手に極悪人みてえに見てんじゃねえって!」
「俺がいつてめえが極悪人だっつった、ええ!?」
「いっつもそういう扱いしてるだろうが、自分のやったこと覚えてねえのか、ボケ野郎!」
 顔を寄せ合いながら罵声を飛ばしているうちに、慎吾も中里も周囲を見る目を忘れていた。激しさを増す言い合いは止まらず、中里は狭い空間で慎吾を指差したままに、
「確かにお前は性格悪い上にモラルにも欠けるが、それほど酷い奴だとは思っちゃいねえ、いやいなかった、だがもうやめだ、俺が甘かった。お前みてえな人の恩を仇で返すような人間に情けをかけた俺がバカだったんだ、慎吾、てめえみてえな奴が謝罪について語るな! 吐き気がしてくる!」
 語尾を強めながら言い切り、「はいはいはいはい」、と慎吾は嫌味と嘲笑をどっぷりと含んだ声で、「ならこっちも言わせてもらうがな」、と言い返した。
「人の本心も見抜けねえ野郎が、モラルだの何だのについて一丁前に語ってんじゃねえよ! お前ほど言ってることとやってることが離れまくっているバカはこの世に存在しねえぜ、自覚しろバカ!」
「バカバカ言うんじゃねえよバカが!」
「てめえが自分をバカっつったんじゃねえか!」
「俺が俺のことをどう言おうが俺だからいいんだよ! てめえが言うな!」
「バカをバカだっつって何が悪い、じゃあハゲをハゲっつーのも悪いのか!」
「悪い!」
「なら俺の言論の自由はどうなる!」
「詭弁を言うな!」
「うるせえ! 大体バカって言われたくねえならな、もっと利口な振る舞いができるように少しでも努力を――」
 慎吾が中里に指を突きつけ返しがなっていると、「あの」、と間を割ってくるだるい声がした。慎吾と中里は同時に声のした方に振り向き、「取り込み中だ!」と唱和してから、お互いを向き、口論を再開しようとしたが、そのまま止まった。表情が強張る。慎吾は何か信じられぬものを見た思いであり、中里もそのようであった。少しの間を置いてから、二人して、恐る恐る声のした方を、もう一度向いた。目の前には、すいません、と謝る若い男が立っていた。地味な茶色のジャンパーに、それほど汚れていないジーンズ、白いスニーカー、少年といって然るべき、幼さの残る顔。慎吾はめまいを感じた。



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