謝罪 3/3
「あの、取り込み中だってのは分かってたんですけど、ちょっと」
沈黙を続ける慎吾と中里を窺いながら、大様に少年は言った。目元を隠す程度の少しだけ染められた髪、まだそれほど鋭さのない輪郭、荒れていない肌、眠たげな目、あまり動かない口元と表情。慎吾の記憶が正しければ、この顔は、この辺りの走り屋の中ではもはや伝説的な――
「…………フジワラ?」
「はあ、どうも」
再び唱和した二人に、名を呼ばれた少年は、ジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま、ほんの少しだけ頭を下げた。
「いやッ」、とりあえずは現状を認めたらしき中里が、焦ったようにうわずった声を上げ、本来この場に縁のない少年に向き合った。
「いいんだ、こんなことはどうでもいいんだ。気にしないでくれ。それよりいきなり怒鳴って悪かった、まさか、お前がいるなんて……思ってもみなくてな」
「他の人に呼んでもらうことでも、なかったんで。でも、こっちこそいきなり来ちまって、すいません」
「何、お前が謝ることじゃねえ。それに……群馬の走り屋なら、お前の来訪は誰だって歓迎だろうよ」
かしこまるような少年に、中里は心安い笑みを送った。既に落ち着いた様子で、思いもよらない懐かしい再会からくる嬉しさを、態度にみなぎらせている。だが、慎吾はいまだ信じられずにいた。奥には白黒ツートンの、ボディに店名が記された、昔ながらの古臭い角ばった車体があるし、この少年に与えられた嫌な記憶がよみがえって、背筋に寒気が走り、首筋に脂汗が浮き、右の手首がうずくが、不信感は消えなかった。何でこいつがここにいる? 答えの出せない疑問を繰り返す。このハチロクのドライバーは、秋名にいるべきではないのか?
「そんなことないですよ」、中里の世辞ではない言葉に、少年は窮屈そうに少し頭を下げ、そしてその目を不意に、一点にとどめた。その先に中里の下半身があったことから、再び妙の沈黙が流れかけたが、中里はその少年――藤原拓海の肩に置いた手を瞬時に離すと、それで何かを止めるようにして、「待て」、と再びうわずった声を上げた。
「藤原、これはだな、そういうことじゃない。いやどういうことかというと、つまりお前が多分思い当たったようなアクシデントが、俺の身に起こったわけじゃねえんだ。断じて違う、分かってくれ」
中里の濡れる股間から目を上げた藤原拓海は、はあ、と理解しているのかしていないのか、不明瞭な声を出した。通常であればこの機に乗じて積極的に中里を愚弄するのが慎吾の本性であったが、今目立つのは得策ではない、という思考が動きを抑えた。しかし、パッと見では粗相をした以外に考えられない中里の、おそらく気まずいからであろうが、その顔は見ずに、藤原拓海は黙って気配を消していた慎吾へと、その目を移してきた。半開きに近いというのに、奥底に強い意思、強固な精神が感じられる目だった。気付かぬ振りもできず、慎吾はその視線をうまく受け流しながら、よお、と小さく言った。藤原拓海は、どうも、と目礼した。存在を認知し合った以上はもう、避けられない。慎吾は中里が、常のごときお世話焼き精神を持ち出して、あの忌まわしい件についての和解のお膳立てをしてくる前に、自分の手で片付けてしまおう、そう覚悟を決めた。
「あー……藤原」
はい、と少年は、口にこもった返事をする。恐れるでもなく、疎んでいるでもないその様子は、慎吾の口を凍らせかけたが、こんなガキに、という腹立たしさが、すぐさま硬直を溶かした。
「あの時は、悪かった」
わずかに首を下げながら慎吾が言うと、あの時、と少年は確認するような声を出し、そしてすぐ、「いや、いいっすよ」、と軽く言った。
「別に、そんな大したことじゃなかったし。めんどくさかったのはそうだけど、終わったことだし」
「あの時?」、と不思議そうに言ったのは、中里だった。分かりきったことの説明など煩わしく、「聞くなよ」と慎吾は言ったが、あ? と中里は意味を解していないように、首を傾げた。「何?」、慎吾は中里を数秒凝視し、それから思いついて、周囲に目をやった。何事かと興味をむき出しにしている者もいれば、我関せずといった者もいるが、総じて当惑しているようには見えなかった。
中里に目を戻すと、ただただ疑心に満ちた表情をしていた。
「何だ?」
問われ、「知らねえのか」、慎吾はただ問い返した。
「何を」
だから、と言いかけ、慎吾は言葉を切った。表情を険しくした中里が、藤原拓海を見、何なんだ、と不思議そうに尋ねた。まさか、と慎吾は思う。こいつは本当に、知らないのか?
藤原拓海は何かを探るように慎吾を見、それから上目で何かを訴えるように中里を見て、前に、と聞き取りづらい口調で言った。
「その人……島田さんが」
「こいつは庄司だ。庄司慎吾」
「ああ、そうそう、その庄司さんが……うちのスタンドに来た時、ハイオク5リッターしか入れてかなかったんすよ。だから」
後は想像に任せるとでも言いたげに、藤原拓海は小さく肩をすくめた。
「お前、そんなところでケチるなよ」、事情を独自に判断した中里が、ため息混じりに非難がましく言ってきたが、ああ、と慎吾は生返事をするだけだった。呆気に取られていた。黙っているのが一番楽だろうに、なぜこの少年は、不利なバトルを押し付けて、そのうえ幾度も車体を崖へと突き落とそうとした相手へと、助け舟を出すというのか? 理解できずに黙る慎吾に、中里は少しの引っ掛かりも感じたようであったが、それ以上に疑問を声にすることはなかった。何せ目の前に、中里本人を軽くあしらい、あのプロに最も近い男と名高かった高橋涼介を破り、群馬制覇を夢見ていたエンペラーの須藤京一をも破った、秋名のハチロクが、自らの意思で立っているときたものだ。目障りな相手のケチさを批判している暇などないだろう。慎吾は藤原拓海の得体の知れなさに感謝するとともに、それを呪った。
「しかし、久しぶりだな、藤原。お前の噂は色々聞いてるぜ。大活躍しているそうじゃねえか」
仕切り直すようにして、少々半身に構えた中里が、爽やかに言った。いやそんな、と少年は素早くかぶりを振った。
「活躍なんて、してないですよ。俺が自分でやったことなんて、一つもねえし」
「何もかもを全部自分でやれる奴なんか、いやしねえよ。俺だって最初の頃は、大体誰かに引きずられてた」
「いやどうも、すいません」
「何でお前が謝るんだよ。不思議な奴だな」
似合わぬ微笑みを浮かべながら言う中里に、いや、と口ごもると、藤原拓海は何かを決意したように顔をあげ、咳をしてから、俺、と言った。
「中里さんとのバトル、直前まで行く気なかったんですよ」
これには慎吾も不意を突かれ、中里とそろって間抜けな声を上げるはめとなった。話があまりに唐突である。だが少年はそうは思ってないようで、そのままとつとつと語りだした。
「行く気になったのも、最後は俺がバイトしてるガソリンスタンドの店長に、煽られたみてえな感じになったからで……あの車じゃあ、GT-Rに勝てるわけがねえ、みてえな……それで本当に、やる気になったんです。当日に。だから、何ていうか、中里さんのことも、あんまり意識してなかったし……正直、どうでも良かったっていうか……でもそういうのって、失礼だったと思うんですよ。心構えとして。ホント、すいませんでした」
ぎこちなく、少年はまたもや謝った。自身は意外にも思わなかったが、中里はショックだろうと慎吾は推量した。恋焦がれてとまで言えるほどに待ち侘びていたバトルの相手が、実はまったく気乗りしておらず、当日、バトルに無関係な人間のわずかな挑発によって、ようやく足を向ける気になったという告白だ。プライドの高い人間には、酷な事実である。案の定、中里は空白を作った。だが、具合が悪そうにうつむく藤原拓海を、放りもしなかった。
「おいおいやめろよ、それじゃあ俺がお前に何かしたみてえじゃねえか。頭を上げてくれ」
はあ、と相変わらず要領を得ない相槌を打つ少年の、その肩に手を置いて、力強く笑いながら、「お前の気持ちはありがたいがな」、と中里は語った。
「それを失礼と取るのは、考え違いだ。走り屋の世界の上下なんて所詮、速さで決まるもんだぜ。言っちまえば、よっぽど変なマネさえしなけりゃあ、実力のある奴は何やったって許される。だからみんな速くなろうとするんだよ。もちろん、全部が全部そうとは言わねえがな。大体、過程はともかく、お前はちゃんとあの時秋名に来て、俺とバトルをした。本気で、だろ?」
はい、そう頷いた瞬間、慎吾の目には藤原拓海が生命力の塊に見えたものだった。中里は笑ったまま、ならいいさ、と言った。
「俺の目的はお前とのバトルだったからな。それが叶えられさえしてりゃあ、お前が途中どう思ってようが関係のないことだ。そっちの都合も聞かないで無理を言ったのはこっちだしな。だから、気にするなよ。お前はもっと堂々としてりゃあいいんだ。お前が自分を少しでも走り屋だと思ってるなら、少なくとも、そうする責任がある。そういうもんじゃねえか」
中里の声は、優しさに溢れていた。それを聞くでもなく聞きながら、ああそうか、と慎吾は嫌なことを理解した。
――俺はこいつに、こうはされたくないんだ。
藤原拓海はほとんどぼんやりとしているように見えたが、中里が語り終えると、深い思索が感じられる声で、責任か、と呟き、そして中里を、真っ直ぐな目でとらえた。
「どうも、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことでもねえよ。お前は真面目だな」
「そんなことないですよ。俺、学校の成績も、良い方じゃねえし」
そういうところがだ、と中里は笑って少年の肩を叩き、手をおろすと、一息吐いてから、ところで、と尋ねた。
「用事は、それだけか?」
「あ、いや、実は」
と、藤原拓海は思い出したように、ジャンパーのポケットを探り、これ、と小さな紙切れを中里に差し出した。しかし小さく見えたそれは折り畳まれいたからで、中里が広げると、大学ノートほどの大きさだった。慎吾が覗き込むと、見覚えのある字が汚く這っていた。だが、解読するまでもなく読めた。何せ、自分が書いたのだ。
『これを拾っていただいた方――(中略)――さあ、僕と真夜中のドライブで、レッツセックス!』
中里は紙を両手で持ったまま、微動だにしなかった。居心地が悪いからかそれともただ寒いからか、肩をすぼめている少年に、事態を理解するまで時間がかかりそうな中里に代わって、「藤原」、と慎吾が尋ねた。
「何でまた、お前がこれ持ってんだ」
「うちの前に、転がってたんですよ。これついた風船が。イタズラだとは、思ったんですけど」
「まあ、本気にする方がおかしいな」
「でももし万が一、本当だったら、俺が持ってんのも悪いし」
「本当のわけがあるか!」、突如激昂した中里に、慎吾は度肝を抜かれ、藤原拓海は目をぱちくりさせた。中里は、ああ、と深く物悲しいため息を吐き、中傷の載っている紙をぐしゃぐしゃと丸め、ジーンズのポケットに突っ込むと、緩慢に首を振った。
「悪い、藤原、お前が悪いわけじゃねえ。怒鳴ってすまない。ああ、イタズラだ。間違いなくイタズラだ! 俺はこんな気が触れたようなことは書かん。どうか信じてくれ」
「ええ、まあ、そりゃあ」
戸惑いを見せながらも、中里の必死さに押されるように、藤原拓海は頷いた。中里は片手で顔を覆い、しばらく黙った。つられるように、慎吾も藤原拓海も何も言わずにいた。「すまん」、凍てついた空気で耳たぶが痛くなる頃、中里が口を開いた。
「藤原、お前がこれを拾ってくれて、本当に助かった」
「いや、そんな」
「いいんだ。できればもっと色々話もしたいし、ここでお前の走りを見せてもらいたくもあるんだが、今日は少し……色々あってな。とにかく、本当に、ありがとう」
藤原拓海は物事の潮時を知っている少年だった。心労で表情を沈めながら礼を言った中里に、ええ、と頷き、「それじゃあ俺はこれで」、考える様子もなく、きびすを返そうとした。あまりの淡白さに、「あ、おい」、と中里が別れの挨拶を求めたほどだった。
「またいつか、気が向いたら来てくれよ。こっちはいつでも歓迎だ」
「ええ。良かったら、うちの豆腐も買いに来てください。あの、いや、そうじゃなくても行くつもりですけど、俺がいたら、サービスできるんで」
行かせてもらうよ、と中里は、綺麗に笑った。少年はわずかに頬を緩め、じゃあ、また、と背を向けた。
「ちょっといいか」
少年が歩き、中里から離れたところで、追いかけた慎吾は思い切って呼び止めた。はあ、と藤原拓海は眠たそうに見てきたが、慎吾が質問をする前に、ああ、と合点したような声を出した。
「そうだ、池谷先輩、気にしてましたよ」
自信を持った物言いに、「池谷先輩?」、と慎吾がいぶかると、
「シルビア乗ってる、あの、ヒゲ生やしてる」
藤原拓海が言い、ああ、と慎吾は思い出した。S13に乗っていた、冴えないくせに、奇妙に親切な男だ。「じゃあ」、と用件の終了を勘違いした少年が再び背を向けかけ、待て、と慎吾は再び呼び止めた。今度は面倒くさそうに、不審げに見てきた少年に、慎吾は少し鼻をすすってから、時間は取らさねえよ、と言った。
「お前、何で本当のこと、言わなかったんだ」
前置きのない質問に、何のことかと尋ね返してくるかと思ったが、藤原拓海は独特の間を置いてから、何となく、と口をあまり動かさずに答えた。
「言わねえ方がいいかと、思ったんで」
「俺のこと良くは思っちゃいねえだろ、お前は」
「別に……もう、気にしてねえっすよ。まあ板金代はちょっと痛かったけど、そりゃ俺がやっちまったもんだし……何か、タメにはなってるような気もすっから」
「だとしても、嘘吐く必要はなかったと思うぜ」
「考えて言ったんじゃないですよ。何か、ぽっと口から出ちまったんです」
不服そうにちらちらとこちらを見ながら、藤原拓海はそう言った。そうか、慎吾は納得することにした。先天的にか後天的にか、この少年は勘が鋭いのだろう。だがそれに理屈をつけるのは不得意のようで、だからこそ、事情を斟酌することもなく、感じたままに行動できるのかもしれなかった。
答え終わって、帰りたそうにもぞもぞしている少年に、「最後に一つ」、下品な興味から、慎吾は右の人差し指を立てた。
「何すか」
「あの風船、本気にしたか?」
尋ねると、少年は難しそうに顔をしかめた。そして、ずっとジャンパーのポケットに入れていた手で頭を掻き、そりゃ、とぼそぼそと呟いた。
「胸ぐらい飛び込んだ方が良いのか、って、途中まで迷ってましたよ」
慎吾はつい、咄嗟に噴き出した。少年はそんな慎吾を一瞥して、でも、と困ったように続けた。
「仲良くすんのはいいんすけど、あの人、中里さん、悪い人ってんでもないし……でも、さすがに俺、あの人とは、できねえなって」
藤原拓海は心底から悩んでいるような表情だった。慎吾はしばらく笑いを堪えられなかった。
「お前、センスあるよ、ギャグの」
「ギャグじゃねえっすよ……マジ、迫られたらちょっと、どうしようかと。ありえねえけど」
「そりゃねえよ。あれ書いたのは、俺だからな」
藤原拓海はまた独特の間を置いてから、えげつねえ、と呟いた。褒め言葉だな、と慎吾は呟き返した。
経過年数に似合わぬ、どぎついエンジン音を響かせた車が去っていくのを見届けてから、元いた場所に戻ると、中里はスカイラインのボディに向かって立ち、何であれがあんなところまで、とぶつぶつ呟きながら、股間をタオルで拭いていた。ジーンズに染み込んだ液体はなかなか取れないらしい。
「ご苦労さんだな」
慎吾はその傍に立ち、声をかけた。中里は慎吾を見ずに、「ハイオク満タンの約束でもしたのか」、と低い声で言った。少し前かがみになりながら、左手でジーンズの中に手を入れ生地を押し上げて、右手で拭っている。ベルトは緩めてある。
「クソ、パンツにまで染みてる」
「シートにタオル敷いて乗って、さっさと帰りゃいいじゃねえか」
「気持ち悪いんだよ、べたべたして」
「俺はお前のその格好の方が気持ち悪いと思うぜ」
自分の取っている体勢を改めて見て、中里はしぶしぶという体で手をタオルで拭い、それを助手席側の車のドアを開けて中へ放り入れ、ドアを閉めた。
「このまま車にゃ乗りたくねえがな」
「許してもらったんだよ」
「あ?」
「あいつはお前より、心が広い」
実際のところ、あの少年の度量の深さは底が見えない。中里の怒号の巻き添えを食らった折にも、驚いたようだったが、萎縮はしていなかった。感覚が鈍いと言うには空気の読み方が絶妙過ぎる。血筋か環境か、大物となるに相応しい性格であることは違いないだろう。
中里は顔を上げ、慎吾を値踏みするように見てから、そうかもしれねえな、と同意した。
「まったく、化け物みてえな野郎かと思えば、普通のガキみてえな感じだし、しかしそれにしては妙に肝が据わってやがる。俺よりも、色々分かってるもんはあるのかもしれねえ」
「ガムテ初めてやって、俺に勝ったんだからな。おかしい奴だ」
ああ、頷きかけた中里は、五秒ほど息を止め、それからおずおずと、慎吾を見た。慎吾は知らず知らずのうちに右手を握りながら、肩をすくめた。
「不利な条件でセッティングして、何度もクラッシュ狙ったのに、気にしてねえとよ。俺なら逆恨みして刺すけどな」
「お前、まさか、藤原と」
「どうせ誰か垂れ込んでてよ、それでもお前はいい人ぶって何も言ってこねえんだと思ってたが」
「俺は何も聞いちゃいねえ」
状況を把握できていないように、中里は慎吾をじっと見て、それから車に目を移し、そうだ、と頷いた。「俺は何も聞いちゃいねえ」、繰り返し、それから中里は口を閉じた。理不尽さを感じながら、慎吾は黙り込む中里を見た。確かに藤原拓海をたきつけた時に同行していた仲間は、自分たちの立場も考えて中里には言わないことを取り決めていたし、そもそもなかったことにしようとしていた。ギャラリーもいなかった。だが、あの秋名のハチロクのバトルなのだから、どこからか漏れるのが自然な話だ。知っている人間が皆、知らない振りをしない限りは――その上、『被害者』が率先して隠していたとしたら、一体誰が広めることができる?
ふざけた話だ、慎吾は思った。結局は、信じていなかった他人の善行に救われていた。だがそれに気付いた上でまで、無知に甘えることには反吐が出た。いつまでも、都合の良い夢を見てはいられないのだ。
「お前が言わなけりゃ、俺は多分、この先、知らないままだったろうな」
ようやく中里は、言葉をかみ締めるように、重々しく言った。その動きの鈍い横顔を見ながら、その方が良かったかもな、と慎吾は言った。少なくとも、藤原拓海へのやましさは増えない。
だが、「いや」、と中里はただちに否定して、ぎこちない表情のまま、しかしわずかも揺れのない目で、慎吾を見据えた。
「お前の口から聞けたのは、嬉しかった」
真実を思わせる声だった。慎吾は、ああ、これだ、と嫌になり、くだらねえ、と呟いて、中里から顔を背けた。胸の奥をくすぐられるような不快感が、全身に広まる。この男は知っているべきだったのだ。知ってさえいれば、隠し切れていなかった気遣いも、底に溢れていた労わりも、失態を演じた者への配慮ということで済んだ。それが、不運な怪我人を永続的に気にかけたのは、つまり、本心から、心配に思っていたからなどと――慎吾はそこまで考え、舌打ちした。何が駄目かと言えば、この男に意識されることが、いけない。
「おい」
慎吾の思考を打ち切るように、唐突に中里が呼んだ。特に気構えもせず顔を向けると、中里は両手を横に広げて構えていた。あ? 慎吾が声を出すと同時に、中里はその両手を、他人を張り倒すような勢いで、打ち合わせた。
パン! 巨大な乾いた音が鳴り、ウワッ、と慎吾はビクリとした。呼吸が止まり、耳の奥が痛くなった。心臓がうるさく拍動した。驚きに声も出せずにいると、叩いた手をすり合わせた中里が、得意げに笑った。
「これでチャラにしてやるよ。ありがたく思え」
その顔が、とても慈悲的で、慎吾は唾を飲むことしかできなかった。音の衝撃で胸がムカムカしてくるし、吐き気までのぼってくるが、この程度で険悪さを消し飛ばしてしまう中里が、中里らしく、やたらと腑に落ちていた。クソ、慎吾は再び舌打ちした。だから、駄目なのだ――ほだされる。
「何がありがたくだ、ちっとも嬉しくもねえ」
「言ってろ、そのうち俺に感謝をする時がくる」
「クソ、何だよ。ああ、もう、借りが増えちまった」
「今更一つや二つ増えたところで、変わりもねえだろ」
お前じゃねえよ、慎吾が吐き捨てるように言うと、あ?、と中里は眉を上げた。
「あの野郎、絶対他の奴らに口止めしてやがる。じゃなけりゃ、お前が知らねえなんてこたねえよ。まだ返してねえのがあるってのに、ああめんどくせえ」
言葉にするに従い、慎吾は鬱々としてきた。仕掛けたことも助けられたことも庇われたことも、何一つ返していない。すべて、この男が知ってさえいれば、気付かずにいられたことだ。
「何だか知らねえが、さっさと返せよ。あれから何ヶ月経ってると思う」
「お前が言うんじゃねえよ、ったく」
「俺も借りができちまった」
今度は慎吾が眉を上げると、中里は照れ笑いにも苦笑いにも見えるものを顔に浮かべながら、どこか観念するように言った。
「あいつがここに来なけりゃ、お前は何も白状しなかった」
確かに、あの少年が契機となったことは明白だった。「ちげえな」、しかし慎吾は思いつき、常の人の悪い笑みを復活させた。
「あいつに招待状を出したのは、この俺だぜ」
言うと、中里は一拍置いたのち、息で笑った。
「そりゃ、俺の借りはお前にあるってことか」
「突き詰めりゃあな」
「よし、分かった」
笑ったまま大きく頷くと、中里はスカイラインのドアを開け、上半身を入れた。何が分かったって、蔑むように言った慎吾に、車から脱した中里は、右手に持った赤い球体を突き出した。漠然とした不安を得ながら、丸々とした眼前の風船と中里の顔を交互に見、慎吾は核心に近いところを尋ねた。
「お前、それ、どうした」
「昨日佐藤にもらって、ついさっき、膨らませたんだ。お前にたっぷりこいつの音を味わってもらえるようにな」
何かを算段し、その成功を確信しているような笑みを、中里は浮かべていた。慎吾は中里の左手に、太目のカッターが握られているのを見た。嫌な予感に頬が引きつる。
「待て。毅、お前が俺に借りがあるんだぜ」
「そうだ」
「じゃあ一体それは、何の目的だ」
「手を叩くだけじゃあお前が満足しないだろうと思ってな。本物の音を聞かせてやる、今ここで」
中里は準備万端で、迫ってくる。慎吾は両手を使って距離を取り、「分かった」、愛想笑いをしながら、ゆっくりと説得を試みた。
「けどな、俺もだ、あいつを見習って寛大になろうと、いや、なることにした。だから、やっぱり借りはナシでいい」
「遠慮するなよ。お前はいつでも自分がやりたいことを素直に言う奴じゃねえか」
「いやいや、お前の言う通り、俺には謙虚さだとかそういったもんが足りねえような気がしてきたからな、遠慮も身につけとかねえとなんねえ、だろ?」
「水臭いぜ、俺相手に遠慮も容赦も要らねえよ。気にするな」
「いくら俺のためとはいえ、お前まで巻き添えにするのは、さすがにな、気がとがめるからよ」
「俺のことを気遣ってくれるのはありがてえが、心配は要らん。お前に降りかかる災難は全部、俺も受けると覚悟済みだ」
言葉自体は優しきものであったが、この状況では皮肉にしかならない。慎吾は瞬きもせずに中里の動きを観察し、耳をふさぐタイミングを窺いつつ、どこから間違えたのか、それを考え、最終的に、秋名のハチロクを呪うことにした。
(終)
2005/11/06・2008/06/08
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