誤解の招き方 3/7
一週間ぶりに会った清次は変わりがなかった。発破で割られた石のように無骨な顔も、後ろですべて括られた馬の毛を思わせる黒髪も、俺を見た途端、鈍重そうな肉体に漂わせる緊張と安息の気配も。久しぶりだとは思えないほど、変化はなかった。
だから俺は、「よお、久しぶり」と言ってきた清次に、「そうでもねえだろ」、と返したのだ。
「そうか」
「そうだ」
そして清次は、笑った。人を食うように、ただ愉快さを抑えきれないように。久しぶりだとは、感じなかった。ただ、瞬間、呼吸の仕方を忘れるほどの、懐かしさを覚えた。
懐かしさ?
脂色の柱、ベニヤの天井、柔らかい背中、甘酸っぱい匂い、それらに感じる懐かしさと似たものが、胃の上あたりに熱く広がり、笑う清次を訝るとともに、俺は俺を訝った。この救いがたいほど愚鈍で、操作しがたいほど明敏な男は、それほど俺に混じっていたというのか。薄く曖昧な幼少時の記憶よりも、鮮明で強烈な懐かしさを感じさせるほどに。
「二度とここには来るんじゃねえぞ、岩城」
いくつかの、記憶に留める必要のない会話の後、清次にそう言い捨てた男を、俺はわずかに見た。中里と呼ばれた男。苛立ちと納得を煮詰めたものを、黒い前髪が垂れた額に浮かべている男。涼介の携帯電話から、俺に清次の居場所を知らせた男。すぐに男は清次に背を向け、清次が俺を向いた。
「帰ろうぜ」
笑うのを止めて、清次は言った。胃の上あたりに消えない熱を感じたまま、俺は清次を見ながら、「ああ」、と頷いた。
清次が積極的にやりたがらないことを俺はやり、俺が積極的にやりたがらないことを清次はやった。高校生の時からだ。俺が親父と顔を合わせたくないと言えば、清次はバイト終わりに俺をその自宅に招き、飯と寝床を提供してくれた。清次がバイクの整備に苦戦していれば、俺は必然的についた知識と経験を活かして手を貸してやった。意識的に、あるいは無意識的に、時に打算を含み、時に後先を考えず、俺は清次を利用し、清次は俺を利用した。俺の得意分野では俺が清次を連れて、清次の得意分野では清次が俺を連れた。高校を卒業し、自動車は俺の得意分野となった。俺はそこに清次を連れた。バイクにしか興味を示していなかったあいつを、俺がこの世界に引きずり込んだのだ。そうして俺がサーキット準拠の走行チームを作り、清次がそこに属するようになり何年か過ぎるまで、高校生の俺たちが俺たちの間に染み入らせていたごく個人的な親愛という地下水を、俺が勝手に汲み上げ使い果たし、ごく個人的な信頼という地盤を沈下させる結果を招いていたなど、俺はまったく考えもしなかった。
清次の人格は作業機械のような一律性を保っていた。メンテナンスが適切になされ、バージョンアップがされない限りは半永久的に維持される、その性質。俺がいくら求めても完璧には手に入れられない、究極の安定性。俺はそれを、誤解していたのだろう。海に注がれた一滴の真水ほどの影響すら受け付けない、絶対的な離別が人同士の間にはあるのだと、意志を隠さねばならなかったガキの頃から俺は、よく理解していたはずだった。だというのに、考えようとはしなかった。あるいは、だからこそ、考えようとはしなかったのか。人格が変わらないからといって、人間が消えないわけではない、そんな当たり前のことも。
一週間姿をくらませた後、地元の山に、チームに、以前と変わらず顔を出すようになった清次に、俺は何も聞かずにいる。何も聞かない俺に、清次は何も言ってはこない。一つも、何も。言う必要がないと思っているのだろう。俺に理解させる必要などないと。高校生の時から清次はあらゆることを俺に語ってきたが、それは生じた事態と変化の表層をなぞるだけで、決して人格の核、深層は表されなかった。俺が清次に情を抱いてからそれに気付くまで数年かかり、その頃には清次は既に、須藤京一という俺を、いびつで下等な人間としてではなく、完全性を求めてやまないドライバーとして見るのみで、俺も岩城清次という男を、俺に居場所を与えてくれた人間ではなく、技術だけは一流に近いドライバーとして見るのみだった。だから俺は、清次の表層しか理解していない。理解をできていない。俺は、何も聞かずにいる。何も聞けずにいる。俺が知らずに枯渇させ崩した親愛と信頼が、いまだ清次には存在するのか、聞けずにいる。
三日経ち、俺は頬高くして笑う清次を見ても、懐かしさを感じなくなった。噛み合う日常には真夏の日差しほど激烈さはなく、初冬の空気の透徹さが思考に渡る。俺が考えようとしなかったもの、諦めようとしたもの、手放そうとしたものは、描かれた線を寸分違わずナイフで切り抜いたように、くっきりと脳内に浮かび上がっていた。直接その切り口を手で確かめられないのならば、せめてそれを切り出したナイフの刃に指を這わせたい。三日経ち、笑う清次を見て俺が感じたのは、そんな歪んだ衝動だった。
清次に会うために訪れた一度目と、清次の足跡を踏むために訪れた二度目と、その山には顕著な違いがあった。外観ではない。夜の闇を無遠慮に裂くライトを点けた、あるいは鉄柱のように逞しく、あるいは電線のように鋭く、あるいは枯葉のように貧しいボディを持つ車の数々は、以前と変わらぬ走り屋どもの集う山を表している。音でもない。内臓に響く機械の音、呼気と吸気の末の唸り、その狭間から溢れ出る人間の野卑な声に、変わりはない。車から降り立ってすぐ、そこが走り屋の集う山であることを、俺に疑わせた要素は、匂いだった。排気ガスの鼻に絡むそれ、焦げたゴムの脳に刺さるそれ、濡れたアスファルトの雨を思わせるそれらの上に、折り重なるように、俺の嗅覚を刺激したもの。夕食時に嗅げば期待に胃が収縮する、焼けた魚の匂い。
魚?
だが、疑うまでもなく、そこは群馬の妙義山だった。変わらぬ外観の中、周囲に目をやれば、その男はすぐ近く、煙草を口に咥え、黒いスカイラインの脇にもたれ、俺を見ていた。涼介の携帯電話から、俺に清次の居場所を知らせてきた男。俺はその男に向かい、歩を進めたが、その途中、左手から白い煙と、スキール音が遠く聞こえる山ではついぞ嗅いだ記憶のない匂いが漂ってきて、俺は目だけを煙の元にやった。
紫のエスティマの近くに、男が五人、輪になっている。白煙と焼けた魚の匂いはそこから漂ってきているらしい。よく見れば、脇には一人では運びにくいだろうサイズのクーラーボックス、中央には七輪が三つ置かれていて、煙の中、その上には秋刀魚が並んでいるのが分かる。
秋刀魚?
俺は七輪から、男に目を戻した。歩いている間に、手を伸ばせば顔を掴めるほど距離が縮まっており、男は煙草を口に咥えたまま、強調されている目の縁には不審を走らせながら、車のボディに背を張り付けていた。二度とここに来るなと、清次に言い捨てた男。
「中里」
俺が名を呼ぶと、中里はその精悍なようで抜かりのある顔全体に、不審を浅く広げながら、「どうも」、と小さく頭を下げた。「どうも」、と俺は会釈し、威圧的にならないよう、気を遣った。ここに来たのは、ドライビングを誇るためではない。
「先日は清次が随分と邪魔をして、申し訳なかったな」
軽く顎を引き、視線を落とし気味に俺は言った。二回規則的に目を瞬いた中里が、顎に影を落とす唇を「いや」、と開いた拍子に、咥えられていた煙草がそこから零れ、俺は反射的にその行方を目で追った。陰によって黒々と映るアスファルトの上、音もなく転がった白く短い煙草は、先端に火を保っている。俺はすぐ、中里に目を戻す。中里は俯き、惜しそうに煙草を見ていたが、やがて未練を断ち切るように顔を上げ、俺を見て、不審を消し去った頬で笑みを作った。
「ああいや、そんな風に言ってもらうほどのことじゃねえよ。困った時はお互い様だ」
困った時?
「そうだな」
言いながら、俺は意識しないうちに眉をひそめてしまっていたらしい。中里はそんな俺の顔を見て、頬を元通り削ぐと、毛筆で引いたような眉の根を寄せ、俺からも視界に入る白煙からも顔を逸らし、「何か違うか?」、アイドリング音の上に重なる程度の声で呟いた。「困った時」、俺はアイドリング音を邪魔しない程度の声で呟いた。俺は困っていたのか。積極的にその居場所を探そうともせず、その生活も、その深層も想像しなかった俺は、清次と連絡が取れなくなったことに、それでも困っていたというのか。固まりかけた思考はしかし、呼吸の度に感じられる焼けた秋刀魚の匂いに、消化物を有しない俺の胃が上げる悲鳴のため融かされて、把握が困難となる。抜かりのあるこの男も知らぬ走り屋どもばかりのこの場所も、俺から他者を気遣うための余裕を奪い取ろうとしているようだった。俺はこの地に、拒まれている。
「あいつは何か言っていたか?」
目的を果たすため、気遣いを意識しつつ、俺は中里に問うた。清次の足跡は、この男にも刻まれているはずだ。「何か?」、俺に顔を戻し、言葉の意味を解さぬよう、中里が小首を傾げる。「ここに来た理由とかな」、俺はその後ろにある黒い車を見ながら言った。清次がこの地で完璧な白星をあげた際、タイムを残さなかったGT−R。清次がその勝利をひけらかした時、俺は釘を刺したはずだ。勝利を構成した要素に自己満足しか見出さないのならば、内省など進化につながらない無駄な行為に過ぎなくなると。清次は俺の言葉を覚えていただろうか。覚えていて、ここに足を運んだのだろうか。自己満足に浸るために。
「暇潰しだと言ってたぜ、最初に来た時に」
暇潰し?
俺は黒光りしている車から、中里に目を戻したのち、「暇潰し?」、と頭に残った言葉をそのまま口にした。中里の傾げられていた首は地面から直角を保っており、その顔は俺の気遣いに欠けた視線にも筋肉を動じさせなかった。
「時間が潰せりゃ、それでいいとかな。他の奴らにもそう言ってたらしい」
「他の奴らとも、話してたのか」
清次の痕跡を確認するため、続けて俺は問い、数秒また言葉の意味を解さぬような間を空けた中里は、この状況には不適当に思える疾しさを顔に浮かべ、「大したことは話してないと思うけどよ、うちの連中は……」、いまだ絶えない白煙の根源の方へと顔を転じ、その直後、
「毅さん、秋刀魚焼けましたー!」
厳粛という言葉を知らないような叫び声が、そちらから響いた。
秋刀魚?
白煙の元に、俺も目をやった。五人の男が輪になっており、うちの一人、灰色と黒の入り混じった髪の男が、割り箸を持った手を振っている。
「俺は要らねえ、さっさと片付けろよ! 煙いからな!」
大声の、底に僅かに混ざった苛立ちが聞き取れるほど、俺の近くからその叫び上がった。俺の目の前で。驚き俺は叫んだ男を見た。溜め息を吐きかけた中里が、丁度俺を見るところだった。目が合った瞬間、そして中里は頬を叩かれたように再度白煙の元に顔をやり、「そうだ、シモ!」、と、今度は苛立ちを混ぜない声で叫んだ。
「はー?」
気の抜けた声が返され、俺もそちらを見た。先ほど手を振っていた男とは別の、前髪を頭上で縛った男が、締まりのない動きで立ち上がった。その男に、「お前、岩城とよく話してただろ!」、と中里が叫び、「あー?」、と締まりなく口を開けた男は、「あー」、と得心した声を上げ、卑しく笑った。
「そうそう、栃木のフーゾクジョーホー教えてもらったぜー、やっぱ話を聞くなら地元民だな、マジ最高!」
風俗情報?
清次はその筋の話を、俺の前では決してしなかった。山で他の奴がしようものならわざと話題を逸らし、うぶだの潔癖だのと揶揄されたところで、一笑に付していた。清次は知っていた。俺が商売女を憎んでいることを、その筋の話に堪え難い怒りを覚えることを。高校生の時から、清次は知っていた。高校生の時から、俺が先を往き、清次が後を辿る、今に至るまで、俺は、清次に庇われていたのだ。あるいは、まだ。
「……まあ、あんな調子だからな、真面目な話もそうそう……」
今度は疾しげな男の声に、固まりかけた俺の思考は砕かれたが、それは融けず、その割れ目は継がれることを静かに待っているようだった。俺はこの地に立つ自分を意識しながら、この地に立った清次を意識しながら、黒いGT−Rの乗り手を見た。粗末で逞しい顔の中、鮮やかな目が、真っ直ぐ俺を捉える。
「須藤、あんた以上にあいつのことを知ってる人間なんて、ここにはいないと思うぜ」
その中里の言葉は、俺には場違いに感じられた。だがこの男は、場違いではない。この地によく馴染み、この地を受け入れ、この地に生きている。場違いなのは、この俺だ。被るべき俗悪さから庇われ、晒すべき陳腐さから逃げていた。答えを求めながら、腹を明かそうとはせず、自分で拒んでおきながら、拒まれていると被害者面をした。認めなければならない。俺は場違いだった。俺は場違いで、怒りを覚えるほど俗悪で、笑わずにはいられないほど陳腐な人間なのだ。清次もそうして、そんな俺を見て、笑ったのかもしれない。変わらない俺を見て。俺は、中里を見ながら、中里が見る俺を、笑っていた。人を食うように、ただ愉快さを抑えきれずに。
「……な、何だ?」
力の入ったまぶたと抜けた口、双方が大きく開いた、驚愕という表情の男を見ると、最早理由の決めようがない笑いの波が続き、「ごもっともだ」、と荒れる息の間でようやく俺は言った。
「俺以上にあいつを知ってる人間は、ここにはいねえよ」
中里は次第に驚愕を白い肌から引くと、消え去っていなかったらしい不審をそこに広げ、しかし何かを納得した風情で、「だろうよ」、と呟いた。俺は切れ切れに笑いながら、スカイラインのフロントタイヤを見ながら、割れた思考を修復した。
俺は困ったのか?
そう、俺は困ったのだ。清次と連絡が取れなくなり、清次の存在を見失い、それについてどうするべきか考えられないほど、俺は困った。途方に暮れ、思考を、行動を放棄した。手放そうとしたわけでも、諦めたようとしたわけでもない。ただ、どうしようもなくなったのだ。どうしようもなくなって、俺は一つも動かぬまま、ただ俺が清次にしてきたことを思い出し、俺たちのごく個人的な親愛と信頼が枯渇したのだと勝手に怯えていた。そして俺は、一週間、居場所を探そうともしなかった俺に、以前と変わらず接してくる清次を、理解しがたくなった。俺は考えすぎていた。事実とはもっと高尚で、真実とはもっと深遠なものだと。しかし事実とは俗悪で、真実とは陳腐なものなのだ。必要ではないと感じた会話も記憶には留まっており、瞬時に再生できる。急にフリスビーを飛ばしたり、花火を飛ばしたりする奴らがいるこの場所では、七輪を持ち出し秋刀魚を焼き出す奴もいて、叫びながら会話をする奴もいる。
清次にとってこの地は単に、時間を潰すに最適な、仮の住まいだったのだろう。よそ者がよそ者を気取ることを拒み、よそ者としてこそ受け入れる走り屋どもが集う、この場所が。清次はよそ者として、この地で時間を潰したのだ。時間を潰したがった、いろは坂に来なかった、誰からの連絡も受け付けなかった、その理由は知れない。俺はその理由の残滓を掻き集めにここまで来たが、しかしもう、どうでもいいことだった。清次の理由などおそらく、清次にすら分からないだろうからだ。分かっていれば、清次は俺に言っているはずだった。清次は俺にあらゆることを語ってきた。それは生じた事態と変化の表層をなぞるだけだったが、しかしその表層こそが、清次のすべてなのだ。清次が語ろうとしない表層は、清次が価値を与えぬことに過ぎない。清次は、俺が羨むほどの堅牢な人格を持つ、俺の影響を受けながら、俺の操作を受けない、辟易するほど馬鹿で、惚れ惚れするほど強靭な、俺の相棒に過ぎない。俺の親愛も信頼も俺だけのもので、清次の親愛も信頼も清次だけのものだ。俺はそれを操作し得ない。それだけだ。何を言う必要も、聞く必要もありはしない。俺は俺のままで、清次は清次のままだ。考えるまでもないことだった。考えるまでもないことを俺は何日も考え続け、考えるまでもないと気付くには数分も要しなかった。新たな滑稽さが生まれたが、俺の俺に対する笑いはいつか、消えていた。跡形もなく。
「おい須藤、まだ話を聞きたいなら一応、上にもいるにはいるんだが」
上?
その男の声にも、完成した俺の思考は揺るぎもしなかった。俺は余裕をもって、中里を見る。話を聞いていなかったが、何の話かは察せられた。清次の話だ。だが、もう結論は出た。清次の話はどうでもいい。清次の足跡を踏むまでもなく、俺は清次の見る景色を知っている。清次のことを知っている。俺以上に、俺の知る清次のことを知っている人間など、いないだろう。だからもう、清次の話はどうでもいい。話自体がどうでもいい、そう言えた。ただ、清次を意識に介さない状態で見る中里の、消し切れていない不審と、隠し切れていない困惑と、隠すことを忘れている人情とが滲み出ているその顔は、俺に、拒むという行為を取らせようとしなかった。
「上か?」
話を聞いていなかった俺は、確認していた。中里は二回、規則的に瞬きをして、「上だ」、と頷いた。俺は、俺に対してではなく、中里に対して笑ってみせた。ただ、愉快さを抑えきれないように。
「案内してくれるんだろ?」
瞬き一つするのも惜しく感じるほど、その男の表情は、短時間のうちに変化した。新雪がアスファルトに触れた端から水と化すように、不審も困惑も形を消し、人情は残ったまま、その後ろから染み出た不敵さが、他者を圧する目力を生み、頬と唇を歪みなく上げる。その一瞬、俺は道理が失われたがゆえの、心臓の強烈な鼓動を感じた。
「いいぜ。置いてっちまうかもしれねえけどな」
低く、殺気に近いものをはらんだ声が、そして俺に、愉快さだけではない、明確な意図を表す笑みを浮かべさせる。「上等な扱いだ」、俺は言った。ラインを教示しながらの道案内は、加減次第で手の内どころか裸も晒すことになる。損得抜きでやるべきことではない。それをこの男は、感情だけを拠りどころにして、なそうとしている。涼介の携帯電話から、俺に清次の居場所を知らせた男。二度とここに来るなと、清次に言い捨てた男。清次と同じく、反抗期の覚えがない男。俺が困っていたことを、俺に気付かせた男。中里。
「毅さーん! ホントに秋刀魚要らないんすかー、もう全部食べちゃいますよー!」
厳粛という言葉を知らないような叫びが、俺と中里とが作り出した近しい空気を粉々にし、互いの笑みを消失させる。舌打ちした中里が、焼き秋刀魚の匂いが漂ってくる方を向き、その口から叫びを出す前に、「中里」、と俺は呼んだ。中里は、吐き出そうとした声を驚きのあまりだろう呑み込んで、「あ?」、と、今俺が何かを言おうとしていることが信じがたいように、俺を見た。だが、俺には確かに言おうとしていることがある。
「俺は腹が空いてるんだがな」
俺を見た中里が、素早く匂いの元を見て、すぐに俺を見直してくる。嘘だろう、と言いたいように。嘘ではない、俺は目で語る。ここに来た時から、焼けた魚の匂いを嗅いだ時から、俺の胃はずっと食物を欲している。中里は幾度か俺と煙の元を見比べて、それから声の混じった溜め息を吐き、煙の元へ体を向けた。
「分かった、今行く、残しておけ!」
「お断りー!」
他の人間の叫びが上がり、「何だとォ!」、と叫び返した中里が、そちらに駆けて行く。その動きが焼き秋刀魚を囲んでいる輪で止まるのを見届けてから、俺は足元を見た。踏まれた短い煙草の吸殻が落ちている。火は消えており、もう煙も上らない。その吸殻を俺は拾い、上着のポケットに入れ、それを踏んだ足跡を踏むように、歩を進めた。ナイフの刃には皮膚を切るほどの鋭さも残っていないが、いつか俺が、それに切り出されることもあるかもしれない。
トップへ 1 2 3 4 5 6 7