誤解の招き方 5/7
人類への全幅の信頼を滲ませた笑みは、高橋家の長男として医者を目指し邁進する俺には相応しいだろうが、赤城レッドサンズの高橋涼介として夜の峠を行き交う数多の走り屋を駆逐してきた俺には、ほとほと似合わないだろう。FCから妙義山の駐車場に降り立ってすぐ、性善説を体現するように微笑んだ俺を見て、中里が頬を強張らせるのも無理はなかった。
「ここは変わりがないな」
だが、努めてざっくばらんに俺が話しかけると、中里はいかなる反応を示すか束の間躊躇した末に、迷いを消し去った笑みを返してくる。
「まあな」
この地をホームとしている妙義ナイトキッズは、下衆な無法者が多いとして悪名高い。そのトップに、中里は立っている。黒いスカイライン、32のGT−Rを操る技術は優れたもので、群馬県内でも屈指だろう。俺や啓介に及ぶことは決してないが、確実に優秀なドライバーだ。そして、これほどメンタルコントロールが下手で、だからこそ情熱的で力強く、当たり外れの大きいドライビングに目を離しがたい魅力を感じさせる『峠の走り屋』を、俺は中里以外には知らない。
夏から師走に近い今に至るまで、悪質な事故や暴力沙汰等のトラブルを一つも起こしていないナイトキッズの悪評が消える気配はなく、ヒールにすらなれない不人気は相変わらずだ。ほとんどの走り屋やギャラリーたちは、他人の言葉に惑わされるだけで、自分の目、耳、肌で、実物を確かめようともせず、ゆえに彼らは中里について、不良集団の上に立つ負けの込んだ走り屋、程度の認識しか持っていないのだろう。しかしおそらくはそのおかげで、一時的にでも権力の上で敵対関係にあった俺にすら、中里は大胆に笑いかけてきた。眉が太く雄々しい硬質な顔貌は、磨き上げられた黒の多い御影石を思わせ、荒々しいがゆえに美しく、そこから生まれる情に溢れた朗らかな笑みは、胸を打つほど素朴で純粋だ。世間を構成する多くの他人が気付かない魅力を、本人が気付かないのは道理だと言える。
中里の隣に立ち、俺を見ながら吐き気を堪えるような表情を作っている庄司慎吾は、気付いているのかもしれない。中里と庄司の間に立ち、卑しく冷笑した岩城清次は、どうだろうか。俺の詐欺師のような作り笑いを、ただ侮蔑しただけだろうか。いずれにせよ、指摘されないことに気付くのは、難しいものだ。
「無事に解決したのか?」
俺は作った笑みを消すことすらも意識して行い、岩城を一瞥して、本物の心配を顔に含ませながら、中里に尋ねた。岩城清次は、須藤京一が管理する栃木の走り屋チームエンペラーのメンバー、妙義山のヒルクライムで中里に敗北を与えた男だ。四日前、一週間妙義山に通い詰めたその男を、栃木へと追い返したがった中里は、赤城山に来て、啓介の指導をしていた俺の助力を求めてきた。そして中里は望み通りに京一に岩城の動向を伝え、京一は岩城を妙義山まで迎えに行き、岩城は栃木へと帰った。一件落着。しかし岩城はここにいる。それを予想していなかったわけではないが、今日とは予想していなかったため、俺の感情は自然に動き、結果的に中里には人間味を伝えられたようだった。
「おかげさまでよ」
俺の変化した視線を追うように、既に冷笑にも飽きている様子の岩城をちらりと見た中里は、ばつが悪そうな顔をしたが、すぐにそれを引き締めると、不敵に、寛大に笑った。
「まあ、たまに来るくらいなら気にもならないぜ。元来峠ってのは、万人のためのものだしな」
そうして自分に瑕疵などないと証明し、俺の心配を跳ね飛ばさんとするように、健全な笑みを浮かべる。それがどれほど雄々しく可憐なものとして他人の目に映るかを考えもせずに、剥き出しにしている。知らぬは亭主ばかりなりとは言ったものだ。あるいは、亭主ではないのかもしれない。
「万人のため、か」
俺は呟き、庄司と岩城を見た。庄司は警戒心に満ちた目で俺を見るが、口を挟んではこない。俺が真っ先に中里へ言葉をかけたことに、ある一定の意図を感じているからだろう。少しでも俺に介入すれば、その意図を目の当たりにしなければならない。それを庄司は恐れているから、言葉にはしないのだ。岩城は退屈げにあくびをし、よそを見る。この男にとって、おそらく俺は邪魔な存在でしかない。そういう人間をも、山は等しく受け入れる。善人であろうが悪人であろうが、走り屋であろうがなかろうが、それを拒むことはない峠は、なるほど万人のためのものに違いない。
俺は彼らを見ることは早々にやめ、中里に目を戻した。中里は俺を窺うように、見上げてきている。身長は俺の方が高いため、背伸びでもしなければ中里が俺を形の上で見下ろすことはできないし、俺は多少なりとも腰を屈めなければ中里を見上げられない。したがって、俺たちが向き合えばパワーバランスとは無関係に、中里は俺を見上げ、俺は中里を見下ろすこととなる。本能的にか、中里は見下ろされることに反発を覚えるらしく、今にも睨もうとするが、俺の彼への信頼を分かっているから、親切になろうとしている。人とは常に揺らぐものだ。その揺らぎをありのままに表出させられるほど強堅な存在に触れられれば、把握が不可能な世界にすら平穏が訪れる。俺は敢えて中里を見下ろしながら、信頼は欠かさずに言った。
「三日前、京一が来ただろう」
「京一が?」
驚愕の体で即座に言ったのは、予想通りに岩城だった。この男がこの場にいることを俺は予想していなかったが、現実が予想と反するならば、擦り合わせれば良いだけのことだ。結果、得られる条件は、好都合となる場合もある。
「何だお前、知らなかったのか」
驚いた岩城を見た中里が、大振りの目を瞠り、驚く。
「聞いてねえよ。そんな素振りもなかったしな。それにしたって、何であいつがここに来たんだ」
岩城は荒削りな顔を歪め、中里に尋ねた。情報をもたらした俺には見向きもせず、答えを得るに最適な相手を選び取る。あの業突く張りが相棒として傍に置くのも頷けるほど、岩城は本能的で、過度に単純な、行動の読みやすい男だった。おかげで、俺が言葉を弄するまでもない。
「何で、って……」
「お前にゃプライバシーの概念ってもんがねえのか、岩城」
言葉を濁した中里を庇うよう、庄司が大声を発した。岩城は庄司を見、再び冷笑する。
「それがどうした、俺はあいつの仲間だぜ」
「仲間で済むなら内ゲバなんて存在しねえんだよ、コラ。ちったァ歴史を勉強しろ」
「意味の分からねえこと言いやがって。てめえこそ、一から会話の仕方を勉強しろ」
「てめえが言うな」
意味は分かるが、庄司の比喩は極端だった。俺に何も言わないことといい、おそらく庄司は真意をさらけ出せず、さりとて無関心も貫けない、嫉妬深く狡猾な、臆病者なのだ。自分の意識も正しく伝えられない半端者に、中里の魅力を指摘できるはずもなかった。
「部外者の俺が言うのは、筋じゃねえとは思うけどよ」
したがって、中里の言動は他人の意識による制約を受けず、あくまでも自由に行われる。
「心配そうだったぜ、須藤は」
中里は掠れ気味の声を、アスファルトに落とした。自責の念に駆られている人間は、そうして俯きながら、顔を歯痒げに歪めるものだ。庄司はそんな中里を見て、渋面を作る。中里が京一について語ったことが、あるいはその内容が庄司の思惑から外れていたのか、しくじった、と言わんばかりだ。それを見れば、京一が再びこの地に来て、どのような行動を取ったか、概ねの推測は容易だった。事態は庄司の意にそぐわない形で進んでいる。おそらく、俺にとってもだ。
「あいつが俺のこと、考える必要もねえってのにな」
岩城は退屈げな表情で、不思議そうに呟いた。心配されていたことを喜びも厭いもせず、ただ不可解に捉えるこの鈍感さが、親しい相手になればこそ個人的な情報を漏らしたがらない京一の横に、頓着もなく並んでいられる所以なのだろう。本能的で、過度に単純な、行動の読みやすい男。二度目、ここに現れた京一は、その一様性を疑っていたに違いない。コインの表と裏の間にあるものを、他人の目を利用して、探ろうとしたわけだ。だがいくら周囲を嗅ぎ回ったところで、そこにあるのはコインの質量に過ぎず、コインは既に表と裏とによって、完結しているのだ。
後ろ暗い感情から生まれ出た心配は、被害妄想的な不安や恐怖を引き連れて、しばしば現実を歪曲する。そんな自分に対するまやかしを真剣に扱う不毛さを、雲隠れした岩城を見つけたこの地で、ここに集う『走り屋』に触れ、多少は京一も自覚したことだろう。のみならず、岩城にまつわる件を考える必要もないと始末をつけ、その後は感情を排さない理性によって、合理的に行動したと考えられる。開き直った京一ほど、偏執的で鬱陶しいものはない。それに対応したらしき庄司の半端に白けた顔は、俺の推測を裏打ちしていた。京一は、中里に近づいている。
「ちーっす、焼き芋でーす」
岩城の呟きから途切れた会話は、そのよく場に通る男の声によって、完全に追放された。振り向けば、青いオリエンタルなバンダナを額に巻いた、つるりとした肌の年若い男が立っていた。その胸には、アルミホイルに包まれた塊が何個も抱えられている。
「焼き芋?」
中里が、低め損なったように声を裏返した。
「ダイさんにさつま芋頂いたんで、焼いてきました。まだあったけーっすよ」
バンダナの男はアルミホイルをまず中里に渡し、それから庄司と岩城にも押しつけるように渡し、俺を見て、首を傾げる。
「彗星さんも召し上がります?」
随分な略称だが、男のゆで卵のような顔に、悪意は見当たらない。ちらと中里に目を移せば、中里はすまなそうに俺を見返してくる。俺は愛想良く微笑し、バンダナの男に答えた。
「いただくよ」
「ではどうぞ」
手にしたアルミホイルは暖かかった。焼き芋。こんな形で食べるのは、初めてかもしれない。いや、峠で焼き芋を食べることが初めてなのだ。
「ダイチと会ったのか?」
アルミホイルを剥きかけた中里が、思い出した風に、バンダナの男に聞いた。バンダナの男は、きびきびと頷く。
「はい、マキさんとお宅訪問してきましたよ」
「へえ、あいつ元気だったか」
「元気も元気で、聞いてもねえのに結婚生活の幸せを語った挙句、嫁さんの飯の味付けが母親と違うのが不満だとか何とか抜かしやがったので、蹴っておきました。毅さんの分まで」
清々しく笑った中里が、バンダナの男の胸の前に、右の拳を突き出した。
「よし、よくやった」
「ういっす」
バンダナの男が中里と拳を合わせ、中里と似たように笑った。気が置けない男たちの、小気味良いやり取り。この微笑ましさを知らず、ナイトキッズを醜聞甚だしいチームとして忌避する人間が多いことに、俺は一層の微笑ましさを感じる。
「お茶入れたぜー、熱いよー」
間延びした口調で、別の男が入ってきた。黒髪七三分け、地味な顔立ち、黄色が勝ったポップな服装。統一感がないことで統一されているナイトキッズを象徴するような、正体不明のメンバーが、バンダナの男と同じく紙コップを手渡していく。違ったのは、彼が俺に対し、必要かどうかを尋ねることもなくそれを差し出してきたことだ。
「ありがとう」
「いんえ」
俺は紙コップを受け取った。右手の焼き芋も左手の紙コップも、外気の冷たさを和らげる暖かさを持っている。白い紙コップの中の液体は濃い茶色で、口をつけると香ばしさが鼻に抜けた。あっさりとした味わいだが、ほのかな甘みが感じられる。茶葉から煎れたほうじ茶だろう。この茶といい焼き芋といい、三日前に京一にまで焼き秋刀魚を振る舞っていたことといい、ここの走り屋にとって、峠で季節の食べ物を味わうことは通例なのかもしれない。
「いただきます」
礼儀正しく中里が言い、アルミホイルから出した半分に割られている焼き芋を、上から頬張った。それを熱そうに口の中で転がして、中里は目を瞠り、頷く。
「うまい」
「これからもっと甘くなるとか言ってましたよ、ダイさんは。春くらいがまたいいとか。でもま、焼き芋ったら今でしょう」
「そうだな」
バンダナの男が早口に語り、茶をすすった中里が、賛同の笑みを浮かべる。この微笑ましさを知る人間が少ないことは、中里にとって必ずしも不幸とは言えないだろう。そのために、無遠慮な干渉を受けることがないのだ。
「あいつ、マジで農家やってんのかよ」
庄司が焼き芋を片頬に入れながら、訝しげに言った。
「普通に農家っしたね。軽トラお似合いでした」
「そのための婿入りだろーよ、アンちゃんのことずっと狙ってたからなー、あいつ」
バンダナの男がはきはきと、七三分けの男がだらだらと答える。
「まあ、幸せそうなら良かったぜ。山から離れた奴がどうなってんのかは、そうも知れねえしな」
中里は細めた目で、遠くを見た。保たれている笑みには、寂寥と安堵が見受けられた。
『走り屋』になるために、ライセンスは要らない。名乗った者勝ち、やった者勝ちだ。入るも自由、出るも自由の世界には暗黙のルールがあるのみで、明確な定義は存在せず、そんな曖昧な身分と目的を共有する人間は、一時的な団結力は強くとも、恒久的な関係は作り得ない。だが、そうとも言い切れないのだと、中里をはじめとしたナイトキッズのメンバーを見ると、思えてくる。彼らは、生活を隠そうともしない。自分が抱え、引きずり、支え、支えられている暮らしぶりそのままに、峠に立っている。そういう者たちは、峠から出ようが出まいがお構いなしに、誰とでもつながっていられるのだろう。山を見る中里の目に、情愛がほのめいているのも、遠く離れた仲間たちが、それでも近しいものとして映っているからに違いない。
いずれここから離れる俺が、そこに入ることはあるのだろうか。中里が俺を、同じ時代を過ごした群馬の仲間として、見ることはあるだろうか。
「岩城さん、この前言ってたのありましたけど見ますか?」
バンダナの男のよく響く声に、俺の物思いは破られた。
「ここにあんのか?」
焼き芋を食べ終えていた岩城が、無遠慮に、うろんげにバンダナの男を見る。バンダナの男はそれに怯える様子もなく、相変わらずきびきびと喋る。
「折角なんで鑑賞会でも、ってことで準備完了です」
「無駄に手際が良いな、お前らは」
「あざっす」
「褒めてねえよ。中里、後でな」
岩城は当然のように中里を指差して言い、中里は当然のように頷いた。こちらも焼き芋を食べ終えている庄司は、苦虫を噛み潰したような顔になっていた。分かりやすい男だ。
「あいつら、何見るんだ」
中里の、バンダナの男と遠ざかる岩城を見ながらの疑問に、冷静さを表情で強調した庄司が答えた。
「ジューカンモノだと。海外のな」
「ジューカン?」
「犬とか馬とか」
ああ、獣姦か。俺より幾分遅くその意味に気付いた中里が、紙コップを持った手を額に当て、肩を落とした。
「……AVかよ……」
「っつーかあそこまでいくと単なる仰天映像だな」
「お前も見たのか」
「後学のために」
庄司は白々しく肩をすくめる。それだけで、真実がどうであれ構わないと思わせる、軽薄な仕草だった。
「俺も見たけどさ、ビックリ人間ショーになっちまうと、裸の女出てても勃つモンも勃たねーわ。まー面白かったからいいけど」
七三分けの男の生々しい言葉を受け、中里はアスファルトと対面になるまで俯いた。剥き出しの耳には、ほのかに赤みが差している。この手の話が得意ではないのだろう。俺も好みはしないが、どの程度の仰天映像なのか、と思えるほどには冷静でいられる。
「おいマル、ミトの奴下にいなかったか」
俯く中里を一瞥した庄司が、茶を飲み干し、七三分けの男に空の紙コップを投げると同時に聞いた。
「あー、いたなあ。オカジらと一緒だったぜ」
「そうか、分かった」
「おう。んじゃ皆さん、失礼しましたー」
緩く一礼した七三分けの男が離れる。庄司はそれを見送ってから、地面から六十度までは顔を上げた中里の肩を小突いた。
「ちょっと下りてくる」
「あ? ああ、ミトか?」
「あの野郎、今度こそ逃がしてたまるかってんだ」
憤りを顔に表した庄司が、足を進めかけ、俺をちらりと見てきた。その瞬間の庄司の目は、淡々としているのみだった。そこに敵意はなく、俺に何かを訴えかける色はあった。その何かとは、おそらく協力と警告だ。俺が退けるべきだと考えているものを、彼も退けるべきだと考えている。目的は同じなのだ。ならばすべてを敬遠するよりは、一部でも歩み寄った方が得策だろう。ただし、どちらかがどちらかのフィールドを害した場合、協力関係は反故となる。僅かな間で俺にそれを目だけで語り、庄司は彼の赤いEG−6へと去った。踏み込むことを恐れる臆病者ながら、重大事を譲ることは決してない。この負けん気の強さが、公式なバトルに出ていない庄司の高い実力と悪評とを、近隣に知らしめているのだろうが、そんな男が中里を放ってまで果たすべき用件とは、何なのだろうか。
「庄司はそいつと、何か因縁でもあるのか」
俺が尋ねると、中里は答えづらそうに鋭い頬に力を入れ、息を吐きながらそれを緩めた。
「いねえ間にあることないこと言い触らされたとか、何とかよ。あいつの場合、普段の振る舞いからして自業自得なんだが」
札付きと見なされても意にも介していないらしい庄司でも嫌がる醜聞ならば、中里が口にしがたくなろうとも頷ける。中里は再び頬に力を入れ、俺を窺うように見た。
「焼き芋、苦手か?」
俺は右手にアルミホイルに包まれた焼き芋、左手に紙コップを持ったままだった。中里も同じ格好だが、焼き芋は半分以上減っている。質量は変わらずあったというのに、自分が手にしているものをすっかり忘れていて、俺は失笑してしまった。
「いや、食べるタイミングを掴み損ねていただけだ」
「悪ィな、騒がしい奴ばかりで」
「楽しいじゃないか。お前が悪いと思うことなんてない」
「そう言ってもらえりゃ、ありがてえけどよ」
中里が困ったように、それでいて嬉しそうに笑い、残っていた焼き芋を口に放り入れた。つられて俺は、右手に持ったアルミホイルを剥いた。右手に余るほどの、半分に折られた焼き芋が表れる。紫の皮は艶やかで、ところどころが焦げていた。その中はねっとりとした黄金色だが、歯を立てるとほろりと実が崩れ、舌に乗った途端に濃厚な甘みが感じられた。火傷するほどの熱さは失せていて、口腔の温度に丁度良い。
「うまいな」
「だろう」
思わず俺が呟くと、中里が誇らしげに笑いかけてきた。その笑顔が、甘みだけではなく、美味さを増した。峠で何かを食べる時、俺は空腹を満たそうとするのみで、味わったことなど一度もない。誰かと一緒に、美味いものを味わう。ここに集まる彼らにとってそれは、当たり前のことなのだろう。当たり前に、あるがままの幸福を享受して、疑心も妬心も虚栄心も差し置いてしまう。
「農家の婿か」
ここから離れた者がつながりを失わずにいるのは、そのためでもあるのかもしれない。
「集合時間もろくに守らねえ、ふらふらした奴だったんだがな。結婚すりゃあ変わるもんだぜ」
ため息混じりに『結婚』という言葉を口にした中里は、顔に諦めをにじませていた。ふと気になって、俺は聞いていた。
「お前はそういう予定はないのか?」
「分かりきったこと聞くんじゃねえよ……」
俺を見ず、中里は強張った笑みを浮かべる。分かりきった、と中里がするのも無理はない。箱根で中里が失恋したという話が広まって、まだ日は浅かった。統一感がないことで統一されているナイトキッズは、ゴシップ好きが多いことでも統一されているため、その手の話は瞬時に各地に流れるのだ。他の話も似たようなもので、妙義山への京一の二度目の到来すら、時間を置かずに俺は知ることができた。多くの情報を勝手にばらまかれる中里にとっては、歓迎すべきことではないのだろうが、斥候役を配するまでもないほど情報管理が簡便だという点で、ナイトキッズは俺に協力的なチームと言えた。
ともかく、失恋の痛手が癒えたかどうかの段階で、結婚の予定が立つはずもないというわけだ。
「お前こそ、予定はねえのか」
話題を逸らすように、中里が聞いてきた。そこには必要以上の好奇心はなく、俺は言葉を素直に出せた。
「まったく。自分が持つ家庭のイメージもわかない。もしかしたら俺は、一生独り身で終わるかもな」
「んなことねえだろ。うちの連中だって次々結婚しちまうんだ、お前だって良い相手に巡り会えるさ」
「だといいが」
ここにいる男たちの持つ決断力が、俺にあるならば話は早いが、そうであればそもそも俺は医者を目指してもいないだろう。俺は苦笑するしかなかった。俺には自分の進む道を、選択する度胸もなかったのだ。
「湿っぽいこと言うんじゃねえよ。お前みてえな良い男が結婚できねえなら、俺なんざ望みもなくなっちまうぜ」
自分の人生について思いを馳せた俺を見ても、中里はあくまで俺が結婚できるか否かの自信を持っていないものだと思ったようで、慰めの言葉をかけてきた。良い男。それを古臭い言い回しと感じるのは、言われ慣れていないせいかもしれない。
「そう思うか?」
何をもって、中里が俺を『良い男』と表現したのか、興味がわいた。中里は俺の問いを理解しないように二回ほどゆっくり瞬いて、突如その目を見開くと、顔を斜めにして、頭をがりがりと掻いた。
「いや、そりゃ、まあ」
俺は焼き芋を食べ終え、茶をゆったりと飲みながら、中里を眺めた。鋭く白い頬が朱に染まり、動揺を露わにした目が、問いから解放されることを期待するように俺を窺う。だが、俺は眉を上げて、答えを促すだけだ。身の置き所のなくなった中里は、更に赤らめた頬を、手で乱暴に撫でる。俺は茶を飲み終え、空になった紙コップにアルミホイルを入れて、なおも中里を見続ける。やがて中里は、乱暴に舌打ちしたのち、降参のため息を吐いた。
「お前、須藤が来たの知ってて、今日ここに来ただろう」
俺を見上げてくる目は、今しがたの動揺など感じさせない、真っ直ぐなものだった。俺はその目を縁取る睫毛の深さに感心しながら、白々しく肩をすくめてみた。
「これでも各方面に、山ほどアンテナを立てているんだ」
中里はぶれのない瞳で俺を貫いたまま、重苦しそうに口を閉じる。庄司のように、仕草一つで言葉を軽くすることは、存外難しい。不器用な自分を感じ、俺は自嘲の笑みを浮かべていた。それを見た中里が、俺と同じく自嘲するように、だというのに凛々しく揺るぎなく、笑う。
「そんな自然に人に気ィ配れる奴が、良い男じゃなくて何だってんだ」
中里は、俺が何のために気を配っているのか、その動機を知らないのだろう。ここの流儀を体現するがごとく、あるがままを、あるがままに受け止めているだけだ。俺はそれを、あるがままに嬉しく、愛おしく感じた。その張った胸に、無数の傷を抱えながら、それでも豪快さを失わずにいられる男こそ、良い男に違いない。そして俺にとってそれは、力強いと同時に、とてもいじらしいものだった。だから、こんな場面で抱きつきたくなってしまうのかもしれない。
「たっ、たかッ?」
元々低いわけではない中里の声が、すぐに高まるのを耳元で聞きながら、硬い肉体、柔らかい温度、速い心拍、機械油と土埃の混じった独特の匂いを、俺は全身で味わった。あるがままの幸福を享受することは、不器用で度胸のない俺にも、存外難しいことではないようだ。
「ありがとう」
囁くと、息を呑んで強張る体が、ますます愛おしい。頬にキスをしたくなったが、庄司の恨みを買うことは避けたかった。現状ではまだリスクが高すぎる。俺は回した腕で中里の背を軽く叩き、それから元通り、体を放してやった。
「礼を言われるような、ことじゃねえ」
慌てて俺から一歩離れた中里が、しかめた顔を逸らし、ぶっきらぼうに言う。中里の血色はまだ良すぎるほどで、日常レベルでのこういう接触に、慣れてはいないのかもしれない。だがチームのメンバーと拳を合わせることはできるのだ。俺との抱擁にも遠からず馴染むことだろう。その過程を想像すると、俺の頬は自然に緩んだ。メンタル面で難のある中里に、時間をかけて俺の行為を慣らしていくことは、やり甲斐のある、生活の一つだ。
「また来るよ。話したいことは他にもあるからな」
積極性は欠けてはならないが、怒りを呼んでは水の泡となる。俺はこれ以上中里を刺激しないために距離を取りながら、同時に余韻を感じるために腕を伸ばしていた。表情を和らげた中里は、俺の手の中にある紙コップを繊細とも乱暴ともつかないぎこちない動きで回収し、戸惑いの残っている目で、しかし確実に俺を見た。
「おう」
短い言葉は、俺を拒むものではなかった。俺は作る必要のない笑みと頷きで、感謝の意を表す。話したいことは他にもある。俺がやろうとしていること、その計画、達成された結果『彼ら』に与える諸々の影響。
「そうだ、中里」
そして、なされるべき指摘について。
「京一のことを、誤解するなよ」
「あ?」
中里の戸惑いは驚きに消され、拡散した意識は俺に集中した。
「あいつは限られた状況では、自分のためにしか他人の心配をしない。それを優しさと捉えるのは、大間違いだ」
俺は真剣に、中里を見返した。事例を提示しないことで、自らの経験を材料とした具体性を探すように促すには、指摘は熱意によらなければならない。
「何だ、その、ややこしい話は」
再びの戸惑いは中里の目を揺らした。振り返り、僅かでも思い当たる節を見つけたならば、俺の言葉を忘れることはないだろう。条件反射だ。京一のことを考える度に、中里は俺を思い出さざるを得ない。
「ややこしい奴なんだよ。だからあいつの言葉は額面通りに受け取ってやるな。それが優しさってもんだぜ」
俺は敢えて傲慢に笑ってみせた。中里は不服そうに顔をしかめたが、俺がわざとらしさを強調すると、参ったと言わんばかりに大きく笑った。
「アドバイス、痛み入るぜ」
「どうってことはないさ。このくらい」
「ま、気が向いた時にでもまた来いよ。俺は大抵ここにいるし、峠ってのは万人のためのものだからな」
返されるのは怒りの形相ではなく、尊大で、寛容な笑みだ。交流戦は過去となり、チームとして争うことはなく、かつて一度二人きりで会った時のように、走り屋として優劣を定めんとすることもない。俺たちの関係がそうして変わっていることを、俺は言外に指摘し、それを中里は態度で認めた。その上、万人のための峠へ、俺が中里と話をするために通うことまで認めたのだ。これで関係を発展させない方が難しい。
「ああ」
折角取った距離を詰めてしまう前に、俺はもう一歩下がり、中里の視線を背中に感じながら退散した。楽しみは後に取っておこう。後といってもそうも長く待たずに済むはずだ。あの素質は良いのに頭が共有結合並みに固い何とも残念な男は、俺のこととなると極端に迷妄化する。さて、どう出てくるだろうか。帰路、俺はばら蒔いた言葉が引き起こす中里の行動を含め、開けた未来の想像を、じっくりと満喫した。
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