ゆめとうつつと 3
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「はあ?」
 聞き間違えたのだと庄司慎吾は思い、盛大に顔を歪めた。角刈りメガネの戸片省矢はそんな慎吾の凶悪なツラを見て、小さく肩をすくめた。
「だから八秒だよ。八秒」
 慎吾は口をしばらく閉じられなかった。八秒減。ダウンヒルのコースレコードを争っていた同じチームの走り屋、中里毅が出した新記録。それが事実なら、慎吾の保持していたタイムなどまるで彼方に追いやられたことになる。
「ウソだろ」
「ホントだよ」
 考えずの呟きに、戸片は律儀に言い返してきた。慎吾は顔をしかめたままでいた。自分と中里が決闘をしただの何だのという変な話なら、まだ理解もできる。どうせあの男が誰かに何があったのかを訊かれて下手な言い訳をして、それを他のバカどもが脚色したのだろう。本当のことを言われても困るので――悪漢扱いされるのは構わないし、下僕扱いされるのは訂正してやればいいだけだが、変態と見なされると偏見を取り除くのに最低三年はかかる――変な話と解釈されるのはむしろ歓迎するところである。
 だが、これは考えられなかった。中里毅という走り屋のことはよく知っている。スカイラインGT−Rに乗っている単純バカだ。同じチームで、そしてこの妙義山で、一年近く競り合ってきた。ヒルクライムでは敵わないが、ダウンヒルではこちらに分があった。車重が違う。それでもタイムは拮抗していた。拮抗していたのだ。幾度かともに走ったこともある。奴の車も走りも分かっている。自分とそうも変わらない実力。抜きん出ることなどないはずだった。初心者だとか場慣れしていないだとかならば分かる。だが、ここで何年も走り続けている人間が、タイムアタックでひょいと何秒もコースレコードを縮められるほど、速さを究めるドライビングは運に左右されるものではないはずだった。
「何をしやがったんだ、あいつは」
 金をつぎ込んで最高のチューニングを施したか。そんな気配は昨夜はなかった。やればやったことを自慢せねば気が済まない男だ。では今日完璧な整備を行ったのか。
「さあなあ、俺にも分からねえよ。昨日の時点で六秒は縮まってたからな」
 ぎょっとして慎吾は戸片を向いた。
「昨日?」
「ああ。お前と決闘したっていう後」
「俺が帰った後ってことか」
「そうだな」
 戸片は疑問もなさそうに頷く。慎吾は一層顔をしかめた。昨日の時点でそれだけタイムを縮めているのであれば、チューニングの恩恵を受けたとは考えにくい。昨日。決闘ではなく、中里が自分を襲った後、自分が中里を襲った後だろう。平常ではない快楽のある行為だった。あの後慎吾は調子を崩した。今日もまだ尾を引いている。全身がだるい。
 ふと、背筋がぞくっとした。まさか、そのためだろうか。いやありえない。男を襲って襲われて自己ベストを八秒も縮められるなら、そこらで阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっているはずだ。
「まあ、あいつに限って変なことはしてないと思うが……」
 相変わらず平然とそう言った戸片は、ああ、と何か思い出したように慎吾を見た。
「ただあいつ、調子崩したみてえでな。今ノベの車に乗せてんだ」
「調子」
 嫌な予感が眉間にのぼった。
「いきなり倒れかけてよ。顔がえらく青ざめててな。まあ青美がついてるから大丈夫だろうが」
 口を閉じて慎吾は考えた。顔が青ざめる。倒れかける。調子を崩す。青美がついている。青美友康。抜きん出て速くもないビート乗り。慎吾もよく話をする。世慣れしているくせにトラブルを起こさない、見かけ上は優等生タイプの男だ。中里に憧れている節がある。
 まさか、とまた思う。だが、あの時も中里の顔は青ざめていた。今にも倒れそうだった。今日は実際に倒れかけたという。その不調は、昨夜は慎吾が襲われることで――襲うことで――治ったようだった。今日の不調が、昨夜の不調と同じだとする。だとしたら、青美も中里に『襲われて』いるのではあるまいか。
「……あの野郎」
 咄嗟に周囲を見渡した。ノベといえば阪延だ。十年ものの白いハイエースで今にも壊れそうな音を上げながら峠を爆走している。そのハイエースはすぐに目についた。後部座席のドアが開くところだった。そこから降りたのは青美ではなかった。ジーンズにジャケット姿の中里だ。軽い足取りでこちらに向かってくる。とても倒れかけた人間とは思えない、健康的な動きだった。
「もういいのか」
 目の前まで来た中里に、戸片が驚いたように声をかけた。中里の顔色は尋常だった。青ざめるどころか、血色は良い。全身に生気がみなぎっている。
「おお、まあな……少し休んだら、良くなった」
 声も平常だ。笑みも少し浮いた。だが、慎吾を見るとその笑みは瞬時に消え、顔には暗さがのぼった。昨夜以来だ。去り際、憤りと悔しさをぶつけた。それが影響しているらしい。慎吾としてはそんなことより、ついさっき聞いた数字が影響していた。
「青美は?」
「は?」
 尋ねたのは慎吾だった。中里はうろたえたように目を細かく動かし、瞬きを多くしながら慎吾を見た。
「あ、青美がどうした」
「お前に付き添ってたんじゃねえのか」
「……ああ、いや、中で、寝た」
「寝た?」
「……眠かったみてえでな」
 返答は歯切れが悪い。戸片も不思議そうであるが、そこでは口を挟んではこない。厄介事は抱え込まない賢い男だ。中里は違う。何が厄介事かを察知するつもりがない。だから何でも抱え込む。
「ま、復活したんならいいさ。一時は倒れんじゃねえかと思ったからな」
 戸片は笑う。中里はしかめっ面のままで、ああ、と頷く。慎吾はため息を吐いた。途端、中里がぎくりとしたように慎吾を上目で見てきた。何かありました、と白状しているような態度である。余計にため息を吐きたくなるが、幸せを逃したくもないのでやめ、
「それで、お前何でイキナリタイム縮めてんだよ」
 単刀直入に慎吾は訊いた。中里はぽかんとした。横に立つ戸片が苦笑して初めて、中里ははっと気付いたように眉根を寄せ、深刻な顔になった。
「いや、俺にもサッパリワケが分からねえんだが……俺が俺にも隠していた俺の本来の実力が、ついに発揮されたんじゃねえかと……」
 自信のなさそうな言だった。慎吾はやっぱりため息を吐いていた。もう愛想も尽きそうだ。
「オレオレうるせえよ。お前はサギか。ペテンか。インチキか」
「え、いや……」
「今まで何ヶ月走ってきてもベストが縮んだのは精々一秒二秒だったじゃねえか。 それで何だ、一日そこらで六秒だって? 信じられるかバカ野郎」
「バ、バカとは何だ、バカとは!」
 顔に血をのぼらせた中里が、図星をつかれたためか焦ったように怒鳴り、苦笑し続けている戸片を指差した。
「証人はこいつだぜ。昨日からこっち、ずっとキッチリ計ってもらってんだ」
「そりゃ聞いたよ。で、どんなハッタリかましやがった。ドーピングか。宝くじに当たったのは考えにくいな、昨日からってんじゃ」
 舐めるように体を見てやると、顔面に波が走り、怒気が満ちた。
「クソ、相変わらず人が成功するとやかましくなる奴だな。男の嫉妬は見苦しいぜ 、慎吾」
「嫉妬じゃねえよバカ、普通に考えらんねえから俺は言ってんだ」
 コースレコードを更新されたことに悔しさを覚えないではない。だが、それよりまず、現実に対する疑念があった。慎吾が吐き捨てるように言うと、中里はじろりと慎吾を睨み、そのまま言った。
「なら、バトルをしようじゃねえか」
「あ?」
「俺の実力を間近で体感するには、それが手っ取り早いだろう」
 慎吾はまったく不意をつかれた。中里には疑われたことに対する怒り以外、気負いというものがなかった。完璧なチューニングを施した時や威厳が通用した時などと同様に、妙案を思いついた時もこの男は浮つくものだ。それが、なかった。それだけで慎吾は調子を奪われ、思考を淀ませていた。
「……まあ、それもそうだな」
「だろう。よし、決まりだ。今から十分後執り行う。準備しとけよ」
 怒りを持続させたままの態度ながら、中里は冷静に言い、他のメンバーに指示を出し始めた。勢いで同意したものの、慎吾は釈然としないまま、その場に立っていた。
「バトルか。久しぶりじゃねえの」
 苦笑をやめない戸片が声をかけてくる。慎吾は頭を鮮明にするための煙草を咥えながら、ああ、と頷いた。そう、久しぶりだ。箱根の島村栄吉に中里が勝ってから、うやむやになっていたバトル。慎吾が煙草に火を点けたところで、戸片は苦笑をやめた。
「何か不満か」
「あいつ主導のことなら、俺は何でも気に食わねえよ」
 煙を吐き出しながら慎吾は答えた。戸片はそれ以上何も言ってはこなかった。賢い男だ。賢いから、どうでもいい。
 主導権を握られたから気に食わない。それだけだ、と慎吾は自分に言い聞かせながら、味のしない煙草を味わった。

 先に出たのは中里だった。いつものことだ。出たがりには先に行かせておく。後ろからじわじわと追い詰め、自爆に導くのが慎吾の性分だった。
 その感覚は、すぐにあった。コーナーで迫っては、ストレートで離される。ただ、多く差はない。ブレーキのタイミングがはっきりと分かる距離だ。
 走りの問題ではなかった。いや、走りの問題といえるのかもしれない。悪寒があった。官能につながる震えではなく、生命を根こそぎ削られているような寒気が、次から次へと脳にのぼってきた。ただ、後ろについているだけだ。相手にペースを握られているわけではない。自分の、いつものタイミングで、最高の走りを行っている。だというのに、悪寒が止まらない。背筋がぞくぞくとし、腕がしびれ、手先の感覚が危うくなる。足にどれだけ力を入れているのか、肉体ですら判断できない。
 しばらくはそれが何か分からなかった。思い出したのはいきなりだった。太股が勝手に痙攣し、冷や汗が全身ににじみ出て、氷に触れているように皮膚が、肉が冷えていくその感覚。精神が鈍磨し、思考が停滞し、脳が情報を処理することを拒むその感覚。
 恐怖だ。中里の、そのGT−Rの後ろにつくということに、恐怖を抱いている。
 対等の相手のはずだった。だが、違う。対等ではない。確実に、中里の方が、力が上だ。それに対して自分は恐怖を抱いている。自分の力の卑小さを思い知らされ、プライドが壊されるということへの恐怖ではない。そんな小さな規模ではない。底知れぬ力に対する、本能的な生命の危機感。
 中里は、確かに速い。
 速いと同時に、『強い』のだ。
 つかず離れずを保てられているのが、中里が加減しているおかげだということは、さほどかからず慎吾も理解していた。挑む気は失せていた。この身を縛る恐怖をも跳ね除け、死地に赴くほどの血の沸騰を、慎吾は感じる機を逸していた。走り屋としてではない。人間として、いや、生物として、中里は強大になっているのだ。
 結局、中里の勝利でバトルは終わった。話はすぐチーム中、峠中に広まるだろう。だが、コースレコードを更新したその中里と僅差だったということで、慎吾の名は下がらないはずだ。
 シビックから降り、慎吾はすぐに中里のもとに向かった。下っ端を群れさせている中里は、自信に満ち溢れた面持ちだった。
「どうだ、慎吾。俺の実力というものを熟知したか、この野郎」
 不敵な笑みが送られてくる。この世の何も疑っていない、自分を殺せるものなどいないというほどの、強烈な存在感のある笑みだった。まだ手足の力のバランスが取れないまま、慎吾は中里を見据えた。
「お前、本当に毅か?」
 つい、そう問うていた。あの手加減をされていた速さも、この大胆不敵さも、今まで痛ましいほどの必死さをもって走りとぶつかっていた男にしては、度が過ぎていた。これを疑わずして、何を疑うかというものだ。
 中里は意外そうに目を見開き、だがすぐにむっとしたように見返してきた。
「信じられねえだのとホザいてたと思えば、今度は俺の存在を疑うつもりか。どこまで現実逃避に走れば気が済むんだ、てめえは」
 言い返そうと思えば、言い返せた――お前の存在は常識外だ、現実にそぐわないのはそっちだ、などと。だが慎吾はそうはしなかった。中里が中里自身をまったく疑っていないのであれば、何を言っても仕様がない。おそらく、先ほどまでは少しは訝っていたはずだ。理論は怒りで失われた。慎吾がその引き金を引いた。熱が冷めるまで待ち、改めて現状の異常さを、噛んで含めるがごとく教えてやるしかない。
「おい、青美」
 中里には言い返さず、慎吾は群れていた下っ端の一人を呼んだ。眠たかったから寝ていたはずの奴だ。常よりも若干青白い優等生面が、不可思議そうに歪む。
「あ?」
「こいつは毅だよな」
 親指で中里を示しながら尋ねると、どこか生気が欠けている青美は、何かやましさに襲われたように眉をぴくぴくとさせ、中里をちらりと見、それから慎吾を見た。
「まあ、俺にはどっからどう見ても毅さんに見えるけど……」
「そうか」
 態度は怪しいが、青美が抱えているであろうやましさの源を追及するには、他人が多すぎるし、本題とは関係がない。慎吾は舌打ちをして、群れている連中に背を向けた。どうも調子が狂う。誰に訊くまでもなく、あれが中里毅であるということは、自分が一番分かっている。あんな男は他にいない。単純バカで、弱く、強い男だ。それが、ただ、かつてより強くなっている。それも走り屋としてとか、人間としてとかではない。生き物として、生存力が向上しているとでも言おうか――熊とも渡り合えるのではないかと思わせられる、重々しさが生まれていた。だから今までならばハリボテで終わった強気な態度にも、迫力が生まれている。そこに不安を覚えてしまった。あんな男は他にいないというのに――しかし、ではなぜ突然強くなったのか? 分からない。昨日までは変わりはなかったはずだ。昨日。あの男がこちらを襲ってくるまでは。
 慎吾は愛車のシビックに乗り込み、自宅まで走りながら考えていた。何かが中里に起こっている。それが何かは分からないが、自分を襲ってきたことと関係がないとするには、時期が重なりすぎている。それに、襲い返してやった時の中里の容易さは異様だった。例え慣れていようが、自発的に濡れる部位ではないのだから、そのまま突っ込めば皮膚が裂けてもおかしくはない。それが、女性器とはまったく比較にならない、硬度が自在に変化する粘液に入り込んだような柔軟性と力に満ちたものになっていた。他の野郎のケツに突っ込んだことがないが、女のケツには突っ込んだことはある。ケツはケツだった。中里の場合、そういったケツではなかった。性器のようでもあり、しかし違う。何か別の生物が寄生しているような自在性と勢いと、意図を感じた。生命が吸い取られる快楽があった。そう、死の淵をギリギリのバランスで走るバトルと同じ類の快感だ。終わると寿命が一年縮まったような気になる。正味五分も経っていなかったろうに、それほど厳しいセックスだった。
 大体、あの男が同性とのセックスに慣れているとは思いにくい。確実に女好きだし、こちらが押し倒し返した時の慌てようは、それを期待していたとするにはあまりに必死だった。相反する反応を示した精神と肉体。では、なぜ突然キスをしてきて、フェラチオまでしてきたのか。したくなったのか。されたくなったのか。男相手に。俺相手に? 発情したってか?
「……発情期か?」
 車中で呟いてから、慎吾はげんなりした。人間の雄が雄を相手とする発情期。自分の発想が突飛すぎて嫌になる。人間は万年発情期ではあるまいか。それともあの男はバカすぎるから、より動物的に進化したのだろうか。そして強くなった。考えてみれば、そもそもあの速さの確変ぶりが常識外なのだから、理屈が常識外になって然るべきだ。その辺は気にしないようにしよう。
 しかし、だとしても、なぜ今なのだろうか。調子に波のある奴だが、ここまでの伸びしろはなかったはずだ。もし一定にこのような発情期が訪れているとしたら、もっとナイトキッズの勢力も伸びているだろうし、あの男は隠し事が下手だ、他の奴らも気付くだろう。では、今回が初めてなのか。この確変は、何らかの原因で突如中里にもたらされた。そしてそのために、男を襲わねば済まなくなった。つながりを示す証拠はないが、状況をまとめるとそうとしか推測できない。そしておそらく、襲われた男は体力を奪われる。自分はそうだった。そして、青美もそうだろう。あいつは襲われたに違いない。どこまでしたかは分からない。ただ、青美について問われた時の中里の挙動不審さと、中里の勝利を出迎えていた青美のやつれっぷりを見れば、咥えたぐらいはあるだろうとは考えられる。現に自分も中里の口内に射精した段階で、少し足元がやばかった。
 それに、あの時懸命にしゃぶっていた中里の、こちらの内奥の欲望を掻きむしっていく淫猥な雰囲気といったら、理性が飛ぶほどだった。あれはまずい。男だのむさ苦しいだのとバカにはできない。そのケがない奴でも、征服欲が、嗜虐性が、被虐性が引きずり出されるだろう。その人間に潜む支配欲と被支配欲、傾向の強い方を喚起し、劣情を反応させ、取り込んでいく。理屈ではない。常識ではない。そういうことが、確かにあるのだ。それもよりにもよって、美少女だとか美女だとかではなく、ましてやまだ許せるかもしれない美少年だとか美青年だとかではなく、あの清潔を保っているのに粗野さが拭えない、中里にだ。妙義ナイトキッズのGT−R使い、中里毅にだ。
「きっついよなあ……」
 帰宅したものの、慎吾の気分は晴れなかった。結局中里の存在自体を疑ったまま帰ってきてしまった。わだかまりがある。自室で上着を脱ごうとして、やめた。そろそろ熱も冷めているかもしれない。点けた電気を消し、玄関に行き、脱いだ靴を履き直し、外へ出る。ガス代はもったいないが、走り屋をやっている以上いちいち気にする方が負けだ。使った分は稼げば良い。慎吾は再度シビックに乗り、峠を目指した。

 一時間近くしか経っていないというのに、峠の駐車場には一台しか車がなかった。それも中里のスカイラインだ。自分と中里のバトルがあったから、皆それ以上走る気もなくなったのかもしれない。何にせよ、話をするには最適な状況だった。誰にも介入されずに済む。
 シビックを近くに置き、慎吾はスカイラインに寄った。アイドリング中の車の周囲に人影はなかった。運転席を覗き込むと、中里らしい男がステアリングにかけた腕に伏せていた。怪訝に思いながら、ウィンドウをノックしてみる。三回叩いたところで、ドライバーの顔が上がり、ウィンドウが下がった。中にいたのは確かに中里だった。それも、昨夜見た中里だ。
「……おい、大丈夫か?」
 作り物のように青ざめた顔は、今にも死にそうに見える。慎吾を確認した中里は再びステアリングに突っ伏し、低く掠れた声を出した。
「いい、放っとけ」
「お前、またかよ」
 慎吾は呆れていた。毎日しなければ、この男はいても立ってもいられなくなったのだろうか。苦しげな中里の声が続く。
「クソ、おかしいな、さっき済ませたのに……」
「さっき? 青美か?」
 ルーフに腕をかけながら、中に尋ねる。数秒ののち、がばりと中里が驚いたように顔を上げた。
「な、何?」
「あいつとシたんだろ」
「い、いや、シてねえよ。いやしたけど」
「シたのかシてねえのか、どっちだよ」
「…………す」
「素?」
「吸うだけ……」
 顔にわずかに血を通わせながら呟いた中里が、舌打ちして俯いた。慎吾はため息を吐いた。
「咥えただけか」
「……いや、待て、何でお前あいつだって……」
「見てりゃ分かるさ、お前は分かりやすいからな。っつーかあいつとしたのに、またそんなんなってんのかよ」
「……ああ」
 俯いたまま、中里は頷く。顔を合わせようとしないのは、ばつが悪いからか、衝動を抑えるためか。どちらにせよ、この状況ではまともな会話は期待できない。慎吾は辺りを見回した。他に車も人間もいない。時間的には徹夜好きな連中が来そうでもあるが、音で分かるだろう。もう一度ウィンドウから中を覗き込む。
「おい毅、窓閉めてエンジン止めろ。そして出て来い」
「……あ?」
「いいからさっさとしろ」
 強引に命令すると、首を傾げながらも中里は言う通りにした。車から降りるだけでよろめくほど、定かではないらしい。ひとまずその腕を取り、道路から隠れるように車体の影に引っ張り、地面に座らせた。慎吾もしゃがみ込む。
「お、おい、何だ」
 怯えたように中里が目をさまよわせる。何だも何もねえだろ、と慎吾はその顎を片手で掴み、視線を固定させた。
「俺がしてやるよ。そんなんじゃロクに話もできねえだろうが」
「は? いや、だってお前、この前史上最悪の汚点だって……」
「それとこれとは微妙な違いがあるんだよ。どうせお前にゃ分からねえから、余計なことは考えんな」
 言って唇を寄せ、歯の間に舌をねじ入れる。背中に手を回し、ごつごつとしているアスファルトに押し倒すと、触れた舌が引っ込んで、焦ったように中里が肩を押して離してきた。
「ちょっと待て、ここでかよ」
「三十分もするつもりねえだろ、お前。だったらここで十分だ」
「い、いや、だからってお前、ここは峠だぞ」
「その峠で俺に襲いかかってきやがったのはどこのどいつだったかねえ?」
 反論はなかった。気まずそうな顔にまた顔を寄せ、キスをする。多分、突っ込めばいいだけだなのだろう。フェラチオだけで満足した男だ、前戯も後戯も必要あるまい。公の場だ、時間もそうかけられない。だが慎吾はその舌を吸い、シャツをめくりその肌に手を這わせた。腹から胸を片手でゆっくり撫で上げ、左の突起を指で引っかく。
「んッ……」
 声が口を通して伝わってくる。股間に手をやると、ジーンズの下で硬く張り出しているものがある。両肩に中里の手がかかっている。唇をまた、離された。
「おい、さっさと……」
 間近で見下ろした顔は、泣きそうだった。ぞくりとする。頭の芯まで熱くなって、冷静さが奪われる。これが、自分の贔屓目のためか、今の中里にそれだけの力があるためか、慎吾には分からない。長く一緒にいすぎて、この情動を否定するには目が曇りすぎていた。だから、あんな八つ当たりの形では果たしたくなかった。汚点だ。あれもこれも、汚点だ。スマートにできない。操ってやれない。責め立ててやれない。周囲の音も気にしなければならない。余裕がなかった。勃起しきった自分のものを取り出して、前回と同じように、中里のジーンズを下着ごと太股まで下ろし腰を抱えて、慣らすことなく肛門に挿入した。
「あ、ん……」
 中里の体がくねる。慎吾のペニスは濃い粘液に包まれる。しごかれ、締め付けられ、緩められ、吸い取られる。太い快感が脳髄まで突き抜けるが、それが肉体のみによるのか、精神にも由来するのかも、分からない。
「ふ、う……あッ、あ」
「……くそ」
 快感を求めて体が勝手に動くから、長くはもたなかった。前回よりは、数十秒遅かったような気もする。射精後も、余さずしぼり取られる感覚があり、抜けるのは粘液が粘膜と認識できるようになってからだ。慎吾は座ったまま、自分の性器を服の中に戻し、あぐらをかいて片手で顔を支えた。まだ立てないことは分かっていた。太股はがくがくしているし、腰には力が入らないし、めまいがある。散々だ。一方、自分でジーンズを履き直した中里は、軽々とした身のこなしで、なぜか正座した。
「……悪かった」
 くらくらする頭を慎吾が上げると、中里は非常に居たたまれないように頭を下げていた。慎吾は一つ大きくため息を吐いて、額に手を当てたまま言った。
「お前が謝ることじゃねえだろ。それより、話だ」
「あ?」、と中里は不思議そうに顔を上げた。血色は良い。問題ないだろう。問題があるとすれば慎吾の方だったが、この機会を逃したくはなかった。
「お前、何でそんなことになってんだ」
 ぼやける視界に中里を捉えたまま、言う。中里は困ったように眉根を寄せ、首を振った。
「……分からねえ」
「俺が知る限りじゃ、昨日からのはずだぜ。それとももっと前か」
「いや、そうだ、昨日からだ。昨日の夜、お前の顔見てたら、何かこう……」
 その先は言葉に表せないようで、また首を振った。過去に似たようなことはなかったのだろう。慎吾は重いこめかみを揉んでから、もう本日何度目になるか分からぬため息を吐いて、中里と目を合わせた。
「今から俺が言うのはな、毅。全然違うかもしれねえけど、他に考えようもねえと思うことだ」
 中里はごくりと唾を飲んだ。慎吾は一息置いてから、自分の推論を述べた。何らかの原因で、中里は力を強くした。速くもなった。それと同時に、同性を襲う衝動が生まれた。襲われた相手は体力を奪われる。襲った中里は体力を回復する。強くなったこととその衝動とは、証拠はないがおそらく関係がある。そういうことだ。そして重要なのは、その原因だった。
「原因か……」、中里は腕を組み、目を閉じ考え込んで、十秒後目を開いた。
「そういやあ、変な夢を見た気はする」
「夢?」
「中身は思い出せねえんだが、変な夢だったのは確かだ。何か変わるようなきっかけになるようなことったら、そのくらいしか考えられねえ」
 真剣な顔を見る限りでは、言う通りだろうと思われた。ようやくめまいは治まってきたので、慎吾は後ろに手をついて中里を見据えた。
「そりゃ、ジツは夢じゃなくて、現実だったとかじゃねえよな」
「夢のはずだ、と、は思うが……どうも、思い出せねえからな。どうしようもねえ」
「思い出せねえ限り、何があったのかははっきりとしねえってか」
「そうかもしれねえ」
 二人揃ってため息を吐いていた。雲を掴むような話だ。原因が失われ、結果だけがある。根本的な解決は見込めない。その夢とやらの全貌を思い出すか、自然と状態が戻るまで、待つしかないのだろう。あるいは記憶を無理矢理掘り起こすかだが、何があるか知れないものに手を出した結果、中里自身がお釈迦になっても困る。まだ二日目だ。この先、勝手にコトが終わることも考えられる。
「……まあ、元に戻るまでは、俺が付き合ってやるよ」
 目に濃いまつげの影を落としている中里に、慎吾は軽く言っていた。ぎょっとしたように、中里が視線を向けてくる。
「お前が?」
「メンバー全員に手ェ出されたかねえからな、こっちは」
 青美を咥えたというだけでも誤算だった。あの状態では、手近にいる男をどんどんモノにしていきかねない。ナイトキッズは自由度の高いチームだ。中里を崇拝していたり信頼していたりする奴もいれば、良く思っていない奴もいる。もし、そういう奴と中里がイタシテしまった場合、後々どうユスられるか知れたものではない。それが遠因となって、勝ち逃げされるのは気に食わなかった。
「……悪いな」
 また神妙に、中里は俯く。慎吾は素知らぬフリして立ち上がろうとしたが、まだ若干平衡感覚がおかしいので、座ったままでいた。
「だから謝られてもな。こんな状態じゃあ、どうせ俺も毎日はできねえし。他の奴で済まさなきゃならねえ時も、出てくるかもしれねえ」
「他の奴か。ああ、俺はこんなくだらねえことに、一体どれだけ一生に一度のお願いを使えばいいんだ」
 頭を抱えた中里を見ながら、いや願うまでもなくさせる奴も何人かはいるだろ、と慎吾は思ったが、思うと何だか胸糞悪くなってきたので、言いもしなかった。代わりにジーンズのポケットから煙草を取り出しながら、あまり考えたくもないことを言った。
「っつーか多分お前このままいったら、高橋兄弟にも勝てんじゃねえの」
 慎吾が咥えた煙草に火を点けるまで、中里は声を発さなかった。目をやると、理解不能という顔になっていた。
「何てツラしてんだ、お前」
「……何言ってんだ、お前こそ」
「ここでベスト八秒更新してんだぜ。普通に考えて、このまま伸びてきゃ誰だろうがメじゃねえだろ。秋名のハチロクだってな」
 中里は理解不能という面持ちを、何となく理解ができるというものにして、しかし黙った。 慎吾は後頭部のあたりにかかっている霧が、煙草のおかげで晴れていく感覚を得ながら、顔をしかめて尋ねた。
「嬉しくねえのか」
「現実感がねえ」
 即答だった。慎吾はますます顔をしかめていた。
「はあ?」
「負ける気はしねえんだが……何というかこう……」、小難しい顔になった中里は、口を開けたまま固まり、やがて説明を諦めたように慎吾を見た。
「そもそもあいつらが俺とバトルをするという状況がねえだろ、今更」
「お前の記録が流れてったら、あいつらも意識せざるは得ないんじゃねえの」
 至極単純な理屈であるが、おお、なるほど、と正座をしたままの中里は太股を手を叩いた。こんなバカな奴に負けたのだと思うとイラッとしたが、煙草を吸うことで慎吾は気を落ち着けた。武器がないと今のこの男には勝てる気がしないし、大体今は根こそぎ体力を取られてしまっている。
「人の口に戸は立てられねえしな……」
 中里は古臭いことを一人呟き、頭をがりがりと掻いた。
「しかし、青美には可哀想なことしちまった。俺なんかにあんなことされたくなかったろうに」
 強い悔恨のにじみ出た様相である。苛立ちが続いており、慎吾は煙草のフィルターを噛みながら、つい口を動かしていた。
「俺は可哀想じゃねえのか?」
 別に可哀想がられたいわけではないが、巻き込まれたという条件は同じだ。中里は頭に手をやったまま、慎吾をじっと見、万感こもったように言った。
「……お前には元々可愛げというもんがそんなにねえからな」
「否定しても肯定しても微妙になること言うんじゃねえよ、バカ野郎」
「ひ、人のことをバカバカ言うな、お前は。それに一つもねえとは言ってねえだろ」
「だから微妙なんだよ、ったく」
 気合を入れて、立ち上がる。今度は大丈夫だ。足はまだ震えるが、倒れるまではいかない。ただ、頭痛がひどい。明日は仕事を休まなければならないかもしれない。中里も立ち上がった。こちらは体重を感じさせない軽い動きだ。羨ましい限りである。
「まあ、背に腹は変えられねえ。頼むぜ、慎吾」
 それは先ほどまで人の下であえいでいた男とは思えない、不遜な物言いだった。だが、あれは確かに中里で、これも確かに中里だった。慎吾は煙草を咥えたままため息を吐き、肩をすくめ、通り過ぎざま言った。
「分かりましたよ、リーダーさん」
 皮肉だったが、通用したかは分からない。中里の笑う音が、少しだけ聞こえた。自分の甘さにうんざりしつつ、とりあえず初めに戻んねえかな、と慎吾は思った。


2007/09/27
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