白日 1/3
一ヶ月に一度家族で朝食を取ることは、形骸化することのない我が高橋家のしきたりだった。
その日ばかりは普段は団欒というものがない早朝の食卓に家族四人が集まって、母が一週間前から計画し当日の午前三時から作り出す、多国籍と言うべきか無国籍と言うべきか判断しがたい料理をつつきながら、それぞれの役割を全うするのだ。母は母の、父は父の、啓介は啓介の、俺は俺の。
母と父が結婚を意識する間柄となってから今まで、それは絶やされることなく行われている。当時でも二人は時間を共有するにあたっては長さよりも質に重きを置いていたらしく、そのたった一日、一時間に満たない交歓が、一ヶ月の関係を包括し、絆は籍を入れるまでに発展したようだった。
結婚生活はその延長にあったのだろう、俺が生まれ、そして成長し物心がついたところで、家族全員が同じ時間を過ごすということは滅多になく、やはり一ヶ月に一度のその朝食会のみが、唯一家族を家族たらしめる機会といっても過言ではなかった。俺は世界を理解し得ない昔から、現実が虚飾のみで構成されていると見くびる傾向にあったため、自分だけは実体を演じようと必死になるばかりで、その朝食会に家族が成立がかかっていることを満足にも不満足にも思う暇もなかったが、俺の弟たる啓介は受けた愛情をすべて成長へと反映させられる真っ直ぐとした、愛情を受け取ることに長けた、愛情以外を受け止める力を持たない子供であったから、常に満ち足りない様子で、悲愴に泣き喚いていた。
おそらくあの時誰かが彼の不満を和らげてあげられたなら、今ほど不細工な精神を彼は持たなかっただろう。だが両親も俺もお手伝いとして来ていた体面だけは良かった女性も、彼の魂の叫びを知ることはなく、知ろうともせず自分にかかずらうばかりで、結果、時に極度に我がままを言いながらも子供らしい純粋さを失わず成長した啓介は、思春期に入った途端、それまで抱えてきた苛立ちを爆発させた。もう泣き喚くことはなかったが、両親にも俺にも暴言を吐き、時に手を上げ、部屋の壁を脂色に染め、反体制を生存理由とした。
だが彼はその頃でも、この行事にだけは参加し、食事中だけは恐ろしいまでの従順さを見せていた。黙々と料理を食べ、何かを尋ねられれば言葉少なにぼそぼそと答え、そして食事を終えると変貌した。長年に渡る彼が満足するにはあまりに僅かな愛情の定期的な供与が、彼から絶対的な反抗心を損なってしまったのだろう、それはとても滑稽な不良行為で、ゆえに両親も放っておけばいずれ戻ってくるという考えを変えることはなかった。実情はその後、俺が彼の戻ってくるきっかけを作ったが、あるいは彼は俺が手を出さなかったとしても、自らを戒めたかもしれない。一ヶ月に一度、その機会は否応なく与えられていたからだ。それを考えれば、互いを理解することを放棄した俺たち家族が家族と名乗れるのは、この習慣のおかげ以外に他ならなかった。
もう、逃れられはしない。
皆はいつも、以前の朝食会から今回までの間に起こった出来事などを語り合う。昼食でも夕食でもなく朝食が選ばれた理由は、母と父がまだ友人に過ぎなかった時分からの二人の主義ゆえだった。朝という始まりの時にこそ、家族の存在を自覚すべきである。また日が昇る間は社会に従事し、あとは個人の時間を楽しむべきである。そのような考えに基づいているため、我が家においては朝こそが家族の時間だった。
「涼ちゃん、調子良さそうね」
和やかに会話は広がっていた。病院の経営状態、母の仕事の現状、弟の学業。車についてはすべて小遣いを元手にした資産運用による収益でまかなわれているため、医学生としての成績に問題がなければ両親が干渉してくることはなかった。だから俺と両親との間で交わされる話といえば、学業についてか株式市場についてか天気についてか調子についてかであり、今、まったく隙なく顔を化粧で固めた母は、調子についてを述べたのだった。
「そうかな?」
俺は口当たりを想像するだけで胃をもたれさせる肉汁したたる焼かれた鳥の足の肉を骨から外しながら、疑心をしっかりと乗せた声で言った。そうよ、と母は半永久的な微笑とともに、嬉しそうに答えた。
「顔色は良いし、肌の状態も綺麗じゃない。男の子でも身だしなみは大事でしょう。素晴らしいことだわ」
「俺にはそんなにいつもと変わってるように見えねえけどな」、とトマトを頬張っている啓介が言って首をかしげ、俺もそうだな、と五目御飯を箸ですくいながら父は頷いた。「それはあなたたちがしっかり見てないからよ」、と母は微笑に自信を乗せて二人を見る。確かに、と俺は考えた。どのような話も円滑に頭に入り重要な点は自然と記憶されるし、指先は迷うことなく文字を作り出すし、どれだけ時間を取らずに行った判断にも狂いは出ていない。とすれば、調子が良いという母の意見ももっともだった。だがその状態は一月弱も持続していた。
「何か良いことでもあったの?」
顔には洗練された笑みを浮かべたまま、母の瞳は探究心を露わにしていた。俺はつられたように頬を上げながら、「いつも通りだよ」、と安心させるように優しく言った。俺も最近ケッコー調子良いんだけどさ、と千切りにされた大根を木でも折るような音を立て噛み砕きながら啓介が口を挟んでき、啓ちゃんはいつも元気じゃない、と母に面白がるように返され、啓ちゃんはいつも元気だよな、と父に続いて言われ、そういう言い方ねえじゃん、とふて腐れた。俺は口中で鶏肉の肉汁を味いながら、心中で呟いた。これが普通だ。
そのようにして我が家族の絆は確かめられ、それぞれは日中を学業と就業で過ごし、自由をあてがわれた夜を迎える。
「調子、良さそうだな」
そしてその夜に俺の部屋を訪れた中里は、そう言った。俺は冷蔵庫にしまわれていた彼持参の缶ビールを取り出しているところで、声からしか彼の感情を推察することはできなかったが、それは誰が聞いても明らかであると思われるほどに険の差した声だった。
そう見えるか、と俺は冷蔵庫のドアを閉め、振り向きながら言った。「ああ、最近、特にな」、中里は湯気の立つお茶をちびちびとすすりながら、俺とは目を合わせず、先程とは打って変わって柔らかに、だが途切れ途切れに答えた。
部屋の中央には母の衝動買いの産物である、実用性が低いため物置に三年間押し込まれていた不安定なガラスのテーブルが置いてあり、彼はこれもまた母の衝動買いの産物である黄色とえんじが配された座布団に尻を乗せ、テーブルを挟んで俺のベッドと対面する位置に座っている。俺は歩いてベッドまで行き、中里を丁度前に置く場所に腰掛けて、彼と俺の間を分かつテーブル、その上の一階からお茶と二つのグラスを載せて運んできた漆乗りのお盆、それに手に持った缶ビールをひとまず置いた。
中里毅という男と、俺は概算で四十時間ほどしか一緒にはいないだろう。うち三十時間ほどはセックスと睡眠で占められるから、俺が彼と理性を介して行った付き合いは十時間にも満たないかもしれない。俺たちが走り屋同士でしかなかった頃を含めればもう一時間ほど上乗せは可能だが、結局それは走り屋の俺と走り屋のあいつの時間でしかなく、今の俺たちとはかけ離れた時代の時間だった。俺たちはセックスを機として、他の誰とも築きようのない関係を作り上げていた。
だがきっかけはきっかけに過ぎない。肉体の交感を除いた約十時間、俺は中里を見続けた。彼の表情がどういう時にどう動くのか、彼の声がどういう時にどう変わるのか、彼の肉体がどういう時にどう動くか――これらはセックス中も見続けたが――、そうしていると、たった十時間か十時間もであるかは人によって基準も違うだろうが、ともかくその十時間で、日常の中の癖というものも知れていくのだ。特に中里の場合は感情が操る行動のパターンが単純であり、例えば彼はやましいことがない限り進んで他人から目を逸らすことをしない、純粋な男だった。つまり、湯飲みを親の仇のように睨んでいる彼は今、俺に対してやましさを抱いているということだ。
「何かあったか」
俺は缶ビールのプルトップを人差し指で開けながら、彼ではなく二つの空のグラスのうちの一つを見ながら言った。「あ?」と彼の不可思議そうな声がしてから俺は彼を見た。彼は生えっぱなしだがうまく整っている眉を上げていた。
「何?」
「何かあったのかと聞いた」
「いや、別に何もねえが。何があるんだ」
「聞いただけだ。何もないならそれでいい」
「何だよそりゃ」
「ただの興味だよ。気にしないでくれ」
中里は釈然としないように眉根を寄せていたが、俺は気にせず二つのグラスに均等にビールを注いだ。彼が俺の動きをじっと見ていることは肌に刺さる気配で分かった。それが責めるような色を持っていることも。
素直な心情を吐露することにかけては達人級であるのが中里という男だった。そのため何事も疑うことから始める俺は、彼の言動に意表を突かれたり思考の檻を砕かれることがある。それが心地良く、抱き合っている最中に搾り出されるように喉から漏れる言葉ともなれば格別だった。だから俺はよく知っている、彼は元々それをためらう、そして彼がためらいを見せることというのは、概して倫理に反する感情を持て余している場合だった。中里は無法者と同位におり、そういった者と彼が関わる時は彼自身もまた楽しげにやくざめいた振る舞いをするが、根幹を道徳に囚われていた。隠し事を嫌い、性欲を疎み、弱者を愛し、強者を憎んだ。矛盾した男だった。そして俺は彼のそういった醜い矛盾を美しいと錯覚している滑稽さが好きだったから、理屈が交換される間は何を追究する気も追求する気もなく、彼を追及する気もなかった。仮に中里が俺に隠し事をしていたとしても、隠したいだけ隠せば良いのだ。それがこの関係に影響が出るようなことならば、いずれ進退窮まる時がくるだろう。その時にはもう、晒す以外に手段はない。
俺は空になった缶をお盆に戻し、一つのグラスをコースターとともに中里の前に置き、彼を見た。彼は居心地が悪そうに眉間を人差し指で掻いていた。瞬きがいつもよりも多かった。眉間を掻いた指を耳の裏にやる。そしてようやく俺を見た。その黒々とした目は、細かく震えているように見えた。
「何だ」
俺は中里を見たまま尋ねた。彼は、いや、と再び目を逸らし、耳の裏にやった手で口を覆い、頬を撫で、唇を開いた。
「……何でもねえんだよ」
その中里の手が今度は頭皮を掻くのを見ながら、なるほどな、と俺は言った。何でもないということを了承する意味でだった。だがその直後、彼は一挙に眉間にしわを作って目をつむり、腹立たしそうに舌打ちをした。
「何なんだよてめえは」
それは呟きだったが、はっきりと耳に入るほどの音量だった。俺は「何?」とその言葉の真意を確かめるために言った。中里は目を開き、俺を気まずそうに見ると、「いや、悪い」、と言って俯いて、もう一度舌打ちをした。それは彼自身に対する憤りを露わにしているような舌打ちだった。中里は苛立っているのだろう。俺は動かずにただ中里を見ていたが、その苛立ちの根源は一向に知れなかった。そのうち「悪い」と地に消え入りそうな声で中里は言い、俯いたまま膝に手をついて、立ち上がった。
「どうも今日はダメだ、気分が優れない、帰るよ」
俺が立ち上がる間に、早口にそれを言った中里は背を向けていた。送ろうかと尋ねようとしたが俺はやめた。この状態ではにべもなく拒否されるだろうからだ。そうか、と立ったまま頷いて、気をつけてな、と社交辞令と真心の境目に取れるような声で言った。中里は、ああと投げやりに言い、一度もこちらを振り向かずにドアを開け、静かに閉めた。
部屋には俺一人となった。元通りだ。俺は立ってから一歩も動かなかったため、その場に腰を下ろしたところでさっきまで座っていたベッドがあるだけだった。
中里が出て行ったガラスがはめ込まれたドアを見、真正面奥にある自分の机を見、何の変哲もないことを確かめながら、これは厄介かもしれないな、と俺は思った。こういう結果が出た原因は中里自身にあるとしか考えられない。来た当初から彼にはどこか落ち着きがなかった。彼に何かがあったのだろう。俺といることに不愉快さを覚える感情を引き起こす原因となった何かが。それは彼しか知りえないのだ。そして俺は二つのグラスに注がれたビールを見た。グラスの表面に水滴が浮いている。泡は既に消えており、小便みたいな色だと思うとそうとしか見えなくなり、小便をしていないことを思い出したが、しばらく動く気は起きなかった。
- - - - -
そのまま帰るつもりであったが、階段を下りていくうちに中里はそれも薄情過ぎはしないかと感じ、結局リビングへ顔を出した。廊下との敷居に立っていても分かるほどの大画面のテレビが左斜め奥にあり、その前に置かれたソファにこちらに足を向けてうつ伏せに寝そべっているひょろ長い体が見える。斜め向きの液晶には、懐かしさを呼び起こす2Dのスクロール型シューティングゲームが映し出されていた。ドットの粗さが鮮明に分かるのはテレビの性能の高さのためか、ゲーム自体の古さのためかは判然としなかったが、おどろおどろしいBGMは単調な響きを持っていたため、おそらく一昔前のゲームソフトとハードなのだろうと察せられた。自分の機体が画面下部にあり、上部に画面半分を覆う巨大な機械型の敵がいた。ボス戦だろう。
ソファに寝転がったまま首だけ真っ直ぐに立て、高橋啓介はそのゲームに熱中している様子で、必死に手を動かしながら、この、だの、クソ、だのと一人呟いている。中里は邪魔をする方が悪いだろうと思い、リビングを出ようとした。すると画面にポーズがかかり、高橋啓介は上半身を起こし、ソファの上にあぐらを掻いてコントローラーを股の間に入れると、おい、と中里を見てきた。
「さっきから何やってんだお前。トイレか? まだ場所覚えてねえってか」
気付かれていたとは思ってもいなかったため、中里は驚きのあまり、いや、もう帰る、とそのままのことを言っていた。あん? と啓介は兄に似て精緻な顔を凶悪に歪め、首を傾げた。
「お前、泊まってかねえの? どうせ俺もうすぐダチの家行くから、別に何やってたっていいけどよ」
「ああ……ちょっと用事がな」
曖昧に言った中里にも、ふうん、と啓介はそれ以上気をかけることはなかった。
「まあ夜中だし、ゾクに轢かれねえように気ィ付けろよ。いくらアニキでもスプラッタなお前は見たくねえだろうしな」
そして画面に顔を戻し、ポーズを解消してボス攻略を再開した。中里は軽く頷き小さくああと言い、廊下を歩いて玄関で靴を履き、何か居たたまれない思いに駆られながら、静かに高橋邸を出た。車を駐車した土地に向かう途中、その家を見上げ、クリーム色のカーテンが引かれている部屋を思い出し、中里は深くため息を吐いた。
車はその地を脱出する時も一定の調子を保っていたが、中里の心中は乱れていた。高橋涼介と会ったのは二週間ぶりであり、その間に二回電話をしていた。いつ会うか、その際どうするかを決めるためだ。高橋涼介は計画を立て、それを完遂ことにこだわりを持った男だった。中里はなし崩しに物事を始めることに罪悪感を抱く人間だったため、涼介のそういった面を嫌いではなかった。
そして今日に会い、中里は予定を覆し、家路を辿っている。
あの男と会うのも触れるのも意識上では随分久しいものに感じられており、待ち遠しいものにも思っていた。綿密な計画だった。その約束を反故にした自分自身に中里は腹が立ち、またそれを止めようとしなかった涼介にも腹が立ち、しかしどこかでほっとしていた。精神がひどく揺らいでいた。あの男の特色たる計画的に演出されたような表情、声、言葉、些細な動作に苛立ちを禁じえないほどに、不安定な気分だった。高橋涼介が高橋涼介であること自体が、憎らしく思えたのだ。こんな状態で会うべきじゃなかった、アクセルペダルを丁寧に踏み込みながら中里は思い、しかし、もしかしたらという希望を持っていたことは否めなかった。過去、肉体が交わり始めればどのような問題も消失していった。だからこそこの形に収まってしまった。だが今日そこまで至らず、何もかもは中途半端にあった。
あいつが何か変わっただろうか? 赤信号で止まり、漠然と考える。いや、何も変わってはいないだろう。嫌になるほどに何も。信号が青に変わり発進すると、余分な思考が削がれていった。何も変わっていやしない。中里に分かることといえばそれだけだった。高橋涼介は初めて会った日から、抱き合った日から今まで何も変わってはいない。最初からあの男は完成された言葉で中里を誘い、完成された技術で中里を組み伏せて、未熟な表情で捕らえた。中里はいまだそれを持て余している。それを許容しているようなあの男に、だから腹が立つのだろうか?
「しゃらくせえな」
つい口に出し、峠で走るようにスピードを出しかけ、慌てて一般ドライバーと同様の運転に戻す。しゃらくせえ。人間としての、男としてのプライドが高橋涼介に意地を張らせる。こんな形で、と歯噛みする。俺はこんな形で、あいつに認められたくもなかったんだ。ではどのような形が良かったのか? 考えても分からない。そもそも俺は認められているのか? 答えは出ない。安全に帰宅し、ベッドに寝転がる。知りたければ、本人に聞くしかない。だが中里は聞けずにいた。涼介が回答を用意していることを信じきれなかったのだ。
翌日の夜、中里はアイドリング中の車内で携帯電話から発信した。呼び出し音が幾度も鳴り、最後に女性の声でのメッセージが流れた。留守番電話には何も残さなかった。
車は峠に向けず、よく覚えている道を行った。見慣れた景色、気の重さを吹き飛ばすほどの懐かしさ。細い路地は車が二台ぎりぎり通れるかというところだった。その道を何百回と自分の足で歩き、走り、十八年を過ごしていた。周囲は塀が続いていて、右手側の奥に、今風の平屋建てが見え始める。その家につながる門は狭いが、駐車スペースは大きかった。既に四台、軽自動車とミニバンとSUVとワゴン車が停まっている。中里のスカイラインGT-Rを含めてもあと三台は入りそうだった。土地だけは広い。
駐車した前には丁度キッチンの窓があった。中里が車を降りると同時にその窓が開き、髪を整え化粧をした母親の顔がぬっと出てきた。毅、と呼ぶ声は昔と変わっておらず、懐かしさと気まずさをいちどきに味わいながら、よお、と中里は返した。
「あんた、帰ってくるなら連絡よこしなさいよ、何も良い返事しないからてっきりもう正月まで来ないと思ってたでしょうが」
久々の文句に気圧されて、悪かったよ後で話は聞くから、と残し、玄関に向かい、引き戸を開け中に入ると、目の前の廊下にいきなり人がいた。中里よりも身長が10センチ高いその男は、お、と中里を見つけてにかっと笑った。
「タケさんお帰り。何、ちゃんと帰ってくるなんて偉いな、俺ブッチしたかと思ってたよ」
弟は、前回会った時は赤かった髪が黄緑になっているくらいで、他は目立った変化もなかった。中里は靴を脱いで廊下に上がりながら、仕方ねえだろ、と言った。
「せっつかれてそんな無視もできねえよ。真紀ちゃんともしばらく会ってねえし」
「ああ、そうそうかわいいよ赤ちゃん、ショータクンっつーんだってよ、飛翔の翔に山田太郎の太」
廊下を進み弟が先に居間に入ると、父親もいれば、親戚も大勢いた。長テーブルを囲んで十五人ほどだろうか、宴会が開かれている。ああ、こりゃ嫌なタイミングで来ちまったな、と中里は後悔した。
見知った親戚が名前を呼ぶ声に挨拶をしつつ、久しぶりだとか調子はどうだとかをひとしきり話し、すすめられた酒を何とか断って、奥にいた父親とは目を合わせて会釈をしただけで声をかけないまま、キッチンに引っ込んだ。料理をまだ用意している母親がすぐ中里に気付き、父親と話したかを聞いてきたが、あんな状況じゃあムリだよ、と中里は言い訳した。そしてキッチンのテーブルを見ると、話題の主が椅子に座っていた。目が合ってから、久しぶりタケ兄ちゃん、とその女性は言った。ああ、と中里は頷いた。もう三年ほど会っていない、中里より四つ下で、髪も今風に染めているし顔はあどけないままだが、腹に赤ん坊を抱えているその姿は間違いなく母親のそれだった。
「出産おめでとう。祝いも出さないで悪かったよ、真紀ちゃん」
「あはは、タケ兄ちゃんからなんて期待してないよ。それよりどう、ショーちゃん。かわいいでしょ」
立ち上がり、寝ている赤ん坊を見せてきた。薄い髪、小さな頭、小さな手。猿のような顔だが、確かにかわいい。素直に言うと、いやあもうホントのこと言っちゃって、と彼女は大きく笑った。心なしかその顔は赤い。酔っている? 中里が思うと同時に、隣から彼女を呼んだ男がいた。見ると、痩せぎすだが出で立ちは清潔な男だった。三十代ほどに見える。
「もう寝よう。翔太も早く静かなところにいさせてあげなきゃ」
「ええ、つまんない」
「な、真紀、ほら」
嫌がる彼女を無理にではなくそっと促した男が、こちらを向いて丁寧に会釈をし、居間を出て行った。
「あれ、真紀ちゃんの旦那だよ。噂の三十三歳」
いつの間にか隣にいた弟が、にやにやしながら言う。へえ、と中里は驚いた。結婚の話は聞いていたが式は産んでから挙げるという話だったし、見たことはなかった。あの男が彼女の夫であり、あの赤ん坊の父親であるわけだ。何だ、大したことはない。そう思い、いや、何だそれは、と自分の心理の不可思議さのため立ち尽くしていた中里に、「そういやさ」、と彼女が座っていた椅子に腰を下ろした弟がにやにやした顔のまま続けた。
「タケさんはどーなのよ、子供とか予定ねえの?」
「俺か? 俺は……ねえよ」
言葉が詰まりそうになったものの、何とか答えた。予定、昔は想像したこともあった。当時付き合っていた彼女と、自分と、二人の子供との家庭だ。その度幸福に浸っていた。今は頭にのぼりもしない。あの時、あの男と手を結んでからだ。
「マジで? 彼女とかいないの?」
聞かれ、涼介の顔が頭をちらつき、いねえよ、と答える声が不機嫌そうに震えたのは運が良かった。
「えー、ちょっと待ってよもうタケさん二十四だろ? せめて真紀ちゃんの旦那さんの歳までには何とかしてくれよ、じゃねえと俺がうだうだ言われんだからさあ」
ああ、まあな、と言葉を濁すと、母親も、まああたしはいつでもいいけど長男のあんたがしっかりしてくれればお父さんも安心できるからね、と話に入ってくる。分かってるよ、と中里は答えたが、この家に入ってからしくしくしていた胃がキリキリとし出し、とても平静にはいられなかった。
「じゃあ俺、帰るよ」
額ににじみ出た冷や汗を拭って、二人に言う。え、もう、と母親は驚いたが、おうじゃあな、と弟はにこやかに言った。家を出た中里が戻ると、ここにはいつも微妙な緊張が生まれた。弟はそれが面倒なのだ。とりあえず奥でまだ宴会をしている親戚の人たちに帰る旨を告げて、しどろもどろになりながらもやり過ごし、家を出た。結局父親とは一言も会話をしていない。結婚、子供、家族についての理に従った問答を要求されずに済んだことは幸運だった。口を滑らせることは明白だったからだ。せめてそれは自分の判断で告げたかった。息子として、一人の大人として。大したことはない、と中里は思った。だが、俺の問題でもない。
先ほど辿った道を戻り、自宅の駐車場に入って、車中でもう一度、涼介の携帯電話の番号を呼び出した。やはり出たのは事務的な女性の声だった。何も吹き込まず、中里は発信をやめた。いまだ信じられずにいる自分が卑しく思えた。しかし、どうすれば良いのか、どうすべきであるのか、空想を広げたところで、答えは見つからなかった。
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