白日 2/3
一週間が経った。7日間、168時間、10080分、604800秒。それは長いのだろうか? しかし寸断された時間に意味はない。時間自体にすら意味はない。意味は何時も人間によって付与されるものだ。その時間に何が起ころうとも、時間には関係がない。では時間とは何なのだろうか? 人間が意味を持たせない状態での時間とは一体何なのだろうか? そこに存在はあるのだろうか?
「高橋?」
慣れ親しんだ苗字を呼ばれ、俺は目的のない思考から脱却した。目の前に広がったのは大学の構内だった。統一された灰色の空間。隣には白衣に身を包んだ頭二つ分低い、ショートカットの女がいる。そう、ここは大学で、俺たちは歩いているのだ。
「何?」
「いや何じゃなくて。私の話、聞いてる?」
不審そうな女に、俺はああと頷いた。もちろん話は聞いていた。人間の実験体の利用としての是非についてだ。女はうん、と頷き、それは五分くらい前の話ね、と付け足した。俺はああと思い出した。
「明日お前、新谷とデートだったか」
「違う、綾香とショッピング」
女が立ち止まり、俺も立ち止まった。女はかけている分厚い眼鏡を中指で上げ、「何か変だぞ、高橋」、とそれほどの関心もなさそうに言った。
「実習の時も集中してなかったみたいだし。そんなんで教授に評価されるあたり憎たらしいけどさ、あんた」
「調子が悪いんだよ」
「今まで良かったように見えたけどねえ。何かあったの」
再び女は歩き出す。俺はそれを追うように歩きながら、誰に見せるでもなく肩をすくめた。
「何もないんだよ、それが。まったく厄介だ」
「リタリンあげようか?」
「そんな薬を持ち歩くなよ」
うーん、と女は歩きながら小首を傾げ、眼鏡の奥にある小さな目で俺を見る。
「やっぱおかしいわ、高橋。いつもならもっとうまく切り返してくるのに。俺はADHDじゃなーいとか」
「それもうまいとは思えないけどな」
「悪かったね、センスがなくて」
「強いて言えば疲れてるんだ。どうしようもないさ」
「じゃあパキシルの有効成分は?」
「塩酸パロキセチン水和物。リタリンは塩酸メチルフェニデートだったかな。化学式はここじゃ書けない。次は?」
「昼飯だよ」
会話はそして終わり、時間は永遠に失われた。
木々は枯れた葉を地面に落とし、風はそれを道路の四方八方へ運んでいく。景色は冬支度を始めていた。時間の流れを早いと感じるのは忙しない日常を送っているためか、中身のない時間を浪費しているためだろうか。
あれからの一ヶ月は俺にとって一瞬のようだった。起点となるのは中里を最後に見た、彼が自ら俺との約束をふいにしたあの日だ。そしてその日、母は来月も同じ日に朝食を作ると浮き足立っていた。つまり今日、俺が久しぶりに丸一日の休みを取ることができた今日、それは行われた。
厄介だ、という思いが消えることはなかったが、理性は大局的な見地から感情を制御した。それは俺が高橋涼介でいるために欠かすことのできない作業だった。安定した生活の基盤を確保するための時間の開放。尊い犠牲。俺独自の存在の喪失。そうしてこそ俺は既存の俺を維持できるのだ。
普段と変わらない雑談だった。母はにこやかに、父は穏やかに、啓介は落ち着きなく言葉を重ねる。俺も気安く口を挟んだ。だが途中から耳に馴染んだ声と口調は雑音に変わっていき、静寂が頭を支配していった。視神経が伝えてきた映像はただの線と点の集合体にしか感じられなかった。腹の底に根を張っていたような億劫さがむしり取られたような浮遊感まで到来した。これは、何だ?
「涼ちゃん、調子悪そうねえ」
築かれた孤独はその母の深い声によって破られ、音は復旧し、目の前の光景は家族の団欒として認識された。俺はその中の母を見た。母は心配そうな顔で俺をじっと見ていた。俺は適切な間を取って、そうかな? と不思議がった。そうよ、と母は力説した。
「肌のつやも悪いし、くまもできちゃってるわ。どうしたの。この前まですっごく調子良さそうだったのに」
やっぱりちゃんと食事の管理しないとダメよねえ、とできもしないことを母は言った。俺は一つ笑って、疲れが溜まってるんだよと返した。大したことじゃないさ。ちゃんと休まないとダメよ、お医者さんなんて体が資本なんだから、と母は続け、でもそのくらいの歳なら三日徹夜しても大丈夫だろう、父さんもよくやった、と父が続け、それねえよ親父、と啓介がうんざりした顔で言った。気をつけるよ、とだけ俺は笑って言った。そして俺への関心は打ち切られる。両親は俺を無条件に信用しているのだ。できる子供の俺を、できない子供の俺を。俺はそれすらも疑い、ひたむきに足場を固めようとした。自分の身を削りながら自分を作り上げ、必死に実体を掴もうとしながら虚構を愛しく抱えていただけだった。――ああ、違う、俺は間違ってはいない。まるで過ちを犯したように過去を判じてはいけない。悲観は自虐であり、何も生み出しはしないのだ。箸を動かしながら、いけない、いけない、と俺は繰り返し思っていた。
和やかに食事は終わった。睦まじく揃って出て行く両親を見送り、食器を洗いながら猥歌を唄っている啓介に上に行くと声をかけ、自室に戻り、俺はボタンダウンシャツにコーデュロイパンツを着たままで掛け布団の上からベッドにうつぶせになった。まぶたが重く、体全体は水をびっしりと吸い込んだ砂のように重かった。疲れは実際にあった。頭の奥では鈍痛がしている。肩は叩き割れそうなまでに固まっている。脳は自棄になったようによく働いており、一日睡眠を取らない程度で動じることはなく明晰な判断を下し続けるが、油断をしていると物事の道理すら分からない状態に陥った。早く休ませなければならない。今はまだ勉学においても運転においても支障は出ていないが、このままではいずれ俺の生活は崩壊するだろう。精神は確実に蝕まれている。何にだ? 俺は何に壊されようとしているのだ? 考えようとするが、喉の奥からわき上がった睡魔が頭蓋骨を殴打した。読むべき本や整理するべき資料や計算、文章、そういったものが閃光のように目の端を瞬き、消えていく。ああ、そうだ、調子が悪い。俺は今更その言葉に思い至った。調子が悪いのだ。調子が悪いから、休まなければいけないのだ。休ませなければいけない。いけない、いけない、いけない。考えてはいけない。否定してはいけない。休ませなければいけない。休ませる場所を確保していなければならなかった。家族でも旧友でもない――いけない、考えてはいけない、考えてはいられない。意識が遠のいていく。
もう、何もしたくはなかった。
ただ継続しながらもそれは、部屋のドアがノックされる音で目が覚める程度に浅い眠りだった。兄である俺を呼ぶ、よく通る声が聞こえる。俺は体が動くことを布団の上で確認し、腕立ての要領で上半身を起こし、両足を引き寄せ正座になった。部屋は暗い。カーテンを引いていない窓の外も暗かった。夜だ。俺はベッドから降り立ちひとまず部屋の電気を点け、細胞の順応を待ちながら指で涙と目やにを除去し、髪を適当に撫でつけた。アニキ、と啓介がもう一度呼んできたので、そこでドアに向かった。ドアを開くと、トランクスにランニングシャツの啓介が立っており、あれ、と素っ頓狂な顔をした。
「アニキ寝てた? わりいな起こして」
「いや。構わん、どうした」
「飲み物くれ、下降りんのめんどくせえ」
ああ、と啓介を部屋に通すと、彼はサンキュと言って部屋の隅にある冷蔵庫へと軽快に歩いていった。素足だ。そんな格好で寒くないのか、と俺が聞くと、あー、と啓介は冷蔵庫から以前自分の手で保全していたサイダーの缶を取り出しながら答えた。
「廊下はさみいけど部屋じゃあな。服着るのもめんどくせえし。しかしアニキはいいよな、いくら部屋にこもってたって何も疑われねえんだから」
こりゃ差別だよ差別、と啓介は不平そうに続けて呟いた。この弟の部屋には篭城のための食料も何も置かれることを許されていない。唯一煙草だけは精神安定剤という主張を貫いて守ったが、それも部屋に置くのは一箱と定められ、母の一週間に一度の抜き打ち検査にて脱法行為が発見されると没収されていた。母はそれをゲームのように楽しんでおり、本気で啓介を罰するつもりなど毛頭ないようだった。なぜなら啓介には俺がついているのだ。両親、とりわけ母は啓介が俺を頼り、俺が啓介を匿うことを歓迎していた。彼らにしてみれば家族という構成単位の中で血を分けた兄弟こそが互いの絶対的な味方となり得るらしく、親としての愛情を注ぐよりも俺と啓介の絆を強めることに腐心している節があった。その干渉は粘着的とも言えるものだったが、俺はぶつくさと文句を垂れている啓介にそれを告げることはせず、一般論を述べた。
「お前のことが心配なんだよ、あの人たちは。放っておけない」
「何しでかすか分かんねえ、ってな。もうちっと信用して欲しいもんだけどよ」
「無事を確かめずにはいられねえんだ」
ふうん、ととりあえずの相槌を啓介は打つと、サイダーを片手に部屋を出て行きかけ、すんでで止まり、俺をじっと見た。何だ、と聞くと、彼は真剣な顔で言った。
「でもアニキ、俺から見ても調子悪そうだぜ」
「寝起きだからな」
「悪かったっつってんじゃねえかよ、起こしてよ。じゃあゆっくり寝てくれ」
「ああ」
未練もなさそうに啓介は部屋を出た。ドアは閉めなかった。この辺りの彼の無法さは母のそれよりも、父方の祖父ゆずりに思えた。父に論理が破綻することの恐怖を知らしめた落伍者であり反面教師だった。俺にもその血は流れているはずだったが、俺は開かれたままのドアを閉めずにはいられなかった。
俺は一人に戻った。何とはなしに部屋を見回す。窓の外は相変わらず暗い。もう夜なのだ。朝食を取った後から今までぶっ続けで寝ていたことになるが、漠然とした疲労感が全身にまとわりついていた。何もやっていないはずなのに何かをやっていたような肉体の鈍重さがあった。休みはこうして半分潰れた。俺は休んだ気がしなかった。これならば何かをやるべきだった。だが何をやるべきだったのだろうか? 俺は何をしたいのだろうか?
考えた末、セカンドバッグに財布と携帯を入れ、閉めたドアを開け階段を下りて洗面台に行き、顔を洗って髪をきっちりと整え――鏡の中の俺は確かに肌のつやは悪く目の下にはくまができていたが、目立って不健康であるようには見えなかった――、出かけることにした。今からでも遅くはないだろう。
啓介には何も言わずに外へと出たが、FCのエンジン音が分からない彼ではないし、俺の個人的な動向に一喜一憂するほどの盲目さも捨てているはずだった。案ずることはない。彼の世界から俺は少しずつ、着実に消えているのだ。彼が執着していると見せかけているのは唯一であり絶対である兄としての俺に過ぎず、それ以外の俺は彼の中に留まりはしない。ああ、だから俺は探していたのだろうか? 俺を俺として抱えてなお平然としていられる凡人、無条件に傷つけても構わないと思わせるほどの価値を(しか)持つ(持たない)人間。狂った俺を補正し、保護し、見続け、見ない人間。そうして俺はそれを探し出し、虜にし、どうしようとした?
FCは峠をあまり走らせなくなっても、俺の手足によく馴染み、的確に動いた。意思が通っているような錯覚を受けるほどだ。手塩にかけて作ってきた、俺だけの車。これだけは例え二度と呼吸をすることがなくなったとしても、一生保管をしよう。物体は容易く閉じ込めておける。意思はそこにないのだ。あるのは錯覚からの自己満足のみだ。人とは違う。そう、人間は容易くは動かしがたいものだ。あるいは動かせても動かしたことにはならないものだ。ステアリングを握る掌が段々とざわついていく。汗が染み出している。緊張していた。一ヶ月ぶりになる。30日、720時間、43200分、2592000秒。寸断された意味のない時間。その間、俺は彼を見ておらず、声すら聞いていない。あの翌日、二度携帯電話に着信があったため名前は見ている。俺は単調な着信音を聞きながら彼の名が表示された液晶をただ眺めていた。中里、中里毅という男。彼の存在が日々の経過によって俺の中で失われていくとともに、性欲も失われていった。忘れていたのだ。そうして俺の肉体は今、限界を訴えている。頭が、目が、鼻が、口が、耳が、首が、肩が、腕が、何もかもが肌の内側や骨からして悲鳴を上げている。精神の調和が崩れている。なぜ俺は彼を忘れていたのだろうか? いや、覚えていたはずだ。現に彼がいなくなってからの日数を数えられるし、彼と初めて肉体交渉を持った場面も思い出せる。彼の話した内容や声、表情、動き、すべては克明に記憶されている。しかし俺は忘れていた。彼の存在の欠落を忘れていた。忘れようとしたのだ。努めて彼を捨て去ろうとした。
俺はここに至るまで、なぜ認めようとしなかったのだろうか?
そこには二回行ったことがあるが、そのうち二回とも停められていた場所に黒いスカイラインR32GT-Rはなかった。アパートの中里の部屋であるはずの部屋には電気も点いていなかった。まだ帰って来ていないのか、峠にでも行っているのか。ならばまず峠に行けば良いだろう。あそこには彼と近しい者が沢山いる。俺よりも彼を深く知っている者たちが。俺は彼の何もかもを知ろうとはしなかった。知らずとも十分だと思っていた。二十余年生きてきた人間の人生をすべて理解することなどできるわけがない。その断片を知ったところで自分の都合の良いように記憶に捻じ曲げるだけだ。そうはしたくない。俺は本来彼を傷つけたくはないのだ。中里、中里毅という男。逞しく、脆く、醜く、美しく、俺が這い上がれない高みにいる、凡人。
あてどもなくFCに街を走らせた。疑問ばかりが浮かび答えへの道筋を整えることができていない。思考力と集中力が落ちているのだ。これではいけない。不意に目についた子供向けじみた色彩の二階建ての店の駐車場に車を滑り込ませ、考えを統一しようとしたが、まとまっていたはずのそれはばらばらに解けていき、一向に一つに戻る気配もなかった。俺はバッグを持って車から降り、欠けたネオンに彩られた店を見た。ゲームセンター。高校の頃、一週間家に帰らなかった啓介を探し、連れ戻すために入ったことがあった。それ以来だ。あの耳を腐らせるような破壊音に満ちた、青臭い欲望の解消の場。こんなところで潰す暇もないほどに日々にやるべきことは多く、そこから逃げ出せないほどに俺は規律に従順だった。
外見からしてバランスが取れていないスポーツカーもどきがごろついている駐車場を歩き、店内に入った。夜中でありながら光に満ちており、時間感覚が麻痺しそうなほどだった。寒さもひとしおの季節ながら、肌を晒している若い男女が多い。そういう者たちの容姿が揃いも揃って言葉にしがたいものであるのは、この場の特徴だろうか。俺は人間の多様性を改めて感じながら、精気を撒き散らしている人々の間を縫い店内を見回った。目的はなかった。懐かしさに身を任せていた。高校の制服を窮屈そうに着ていた啓介が俺を見た時の驚いた顔。平日に学校を抜け出した俺を咎めるような目。素行の悪さはしばらく直らなかったが、あれから家には戻り、高校へは毎日行くようになった。振りにしても。
奥にはレースゲームがあった。座り心地の悪そうなシートがあり、画面があり、ゲームのためのハンドルがついている。だらしない服装の男が奇声を発しながらやっていた。タイムを出したらしく、はえーよ俺、とシートに座る一人が自画自賛し、その横や後ろにいる四人の仲間も賞賛していた。彼らは顔のあどけなさや体格の貧弱さから中学生に見えた。俺は騒ぐ彼らの隣のシートに座った。バッグを太ももの間に置き、取り出した財布に五枚あった百円玉のうち一枚を機械に投入すると、画面が変わった。車体を選びコースを選ぶ。このようなランダム要素の少ないゲームでは回数をこなすしか上達方法はないのだから、初めてでは感覚を掴むだけで終わるだろうが、気分転換にはなるかもしれない。アクセルペダルとブレーキペダルがあり、ハンドルの脇にシフトノブの代わりらしきレバーがついていたが、クラッチペダルはなかった。トランスミッションまで再現はできないのだろう。したところで利益の増幅も見込めないのかもしれない。平面に描かれたポリゴンの道路をプログラム上のGT-Rはどのように動くのか。ゲームが始まる。まったく重力はなくハンドルは軽かった。現実性を重視するにはあまりにお粗末で、遊戯性を重視するにはあまりにリアルだった。やり込めばいくらか面白くもなるだろうが、俺は途中で製作者の意図に乗ることができず、飽きてしまった。これはそれこそこのようなゲームを攻略することを趣味とする人間が遊ぶべきものなのだ。一応は最後まで走り抜いたが、悔しさも爽快感もわきはしなかった。帰ろう。俺はシートから下りた。隣の中学生らしき少年たちはまだそこにいた。先程自画自賛をしていた者が新たなコースを走っており、それを見ていた四人のうち一人が、にきびに埋め尽くされた顔をにやにやとさせながら俺を見ていた。
「下手だなあ、おっさん」
彼は舌足らずにそう言った。俺はその通りだと思った。この遊具においては俺は彼らより余程未熟だし、彼らにしてみれば俺はおっさんと呼ぶに相応しい年恰好に違いない。俺は納得していた。だが俺の口は不意に浮かんだ感情を綺麗に彼らに伝達していた。
「車を運転したこともねえガキが、粋がってんじゃねえ」
俺が自分で自分の言葉に驚いていると、運転している者を除く四人のうち二人が目を合わせ、それからけたたましく笑った。
「おっさん、これゲームじゃん。何ムキになってんだよ、マジウケるんだけど」
彼らはひどく『ウケ』ていた。そう、ムキになることなどない。これはゲームなのだ。彼らのような者たちが持つ悪しき衝動を健全に解消するためにある疑似体験の場だ。ストレートを走る時の微妙なアクセルワークもコーナーを抜ける際の全身の毛穴が収縮するほどの緊張と重力も、死を身近にする快感も綺麗に削除されている、金銭の収容箱だ。俺は一切の迷いもなくそう考え、そして俺が座っていたシートをすねで蹴っていた。彼らは静まった。あるいは彼らは変わらず笑っていたが、俺が観念と精神と肉体を分離したため音を音として捉えられなかったのかもしれない。俺は確かに一つの肉体の中で多くの俺として混在し始めた。
「お客さん、ちょっとお客さん。そういうことしないでくれますか」
だが後ろからかけられたその声が、分離した俺を俺の肉体に収斂した。中学生らしき彼らは静まっており、俺の意識は正常なものに復活した。振り向くと奇抜な制服に身を包んだ脂ぎった黒い肌の男の店員が、仏頂面で不満げにそこに立っていた。俺は俺の胸ほどの位置にあるその美醜を論ずるまでもない彼の顔面を見ると、全身の血の気が引くようなめまいに襲われかけた。懐かしい屈辱感が統合された体を汚染していった。俺はそれ以上彼を見られず、すいませんと頭を下げた。笑いをこらえる気配が後ろでした。
「こういうことする人いるんすけどね、よく。機械に八つ当たりとか、あんた恥ずかしくないんすか、もう大人でしょ。機械壊れてたら弁償してもらいますから。ちょっとそこで待っててください」
彼はそう言って先ほど俺が座っていた擬似シートの周囲を点検し、点検を終えるとそこに座り、ポケットから自分の小銭を出してゲームをスタートさせた。見る限り俺よりも上手かった。俺は動きかけた足を今度は封じ込めた。既にコントロールは取り戻していた。店員はゲームを終えると、低い背で俺の前に立ち塞がった。
「まあ何とか大丈夫ですけどね、困るんですよ、他のお客さんにも迷惑だしね、あんたみたいな人がいると。こっちとしても商売だからあんまり言いたくないけど、気をつけてください」
はい、と礼儀正しい返事を俺はして、申し訳ありませんでした、と深々と頭を下げた。頭を上げると彼は怖気づいたように曇らせた表情で俺を見上げ、分かったんならいいんですけどね、と呟きながら背を向き、数々の遊具の奥へ消えて行った。彼が消えると後ろから中学生らしき者たちの哄笑が上がった。俺は彼らを振り向いて、一つ別れの微笑をくれてやった。彼らはやはり静まった。彼らにとっては予想もしなかった事態だったのだろう。危険がどこに潜むか知れない状況でも無防備でいられるガキども。店を出ようとしたところ、俺を注意した無愛想な店員とすれ違ったが、彼は俺をまったく無視していたので、俺も彼には気付かない振りをした。コンプレックスを社会的弱者への攻撃性にしか変換できない人間は、哀れでしかない。
歩くと右の脛骨がじりじりと痛んだ。店を出ると、俺のFCを覗き込んでいる高校の制服を着た男が二人いた。肩からスポーツバッグを提げているから部活帰りの高校生なのだろう。俺はうんざりしてしまった。今はこれ以上見知らぬガキを相手にしたくはない。
「どいてくれ」
運転席の傍に立っている坊主頭の一人に言ってドアロックを解除すると、あの、と緊張を含んだ声を掛けられた。
「これってFCですよね、RX-7。マツダの」
ちらりと見ると、彼は目を輝かせていたので、そうだよ、とできる限り優しく返してやった。ロータリーエンジンを搭載した世界で唯一の量産車。へえ、すげえ、と彼は言ったが、もう一人は興味なさそうな顔をして、ボンネットに手をつけていた。「触るな」、と俺は静かに注意した。そのつもりだったが、声は冷たく大きかった。その高校生は慌ててFCから手を離し、え、いや、あの、と言葉にならない声は出したが、何も言えなくなったようだった。
「あ、すいません、あのそういうつもりじゃなくて、これ、かっこいいなって、俺ら……」
坊主頭の少年が、慌てた様子で謝ってきた。俺はもういいよと苦笑で取り繕った。
「離れてくれ、車を出せない」
彼らはおずおずと後ろに下がり、俺は車に乗り込んで、急いで発進させた。大人げなかったかもしれない。彼らは藤原とそう変わらない歳だろうし、FCを知っているのであれば話が合わせられないこともなかっただろう。だが俺はうんざりしていた。俺がいるべき場所はここではないという思いに駆られていた。あんなガキどもはどうでもいいのだ、俺は俺のために行かなければならない。あんな峠のドライビングでの内臓への負担も知らないクソガキなど、俺があいつらの歳の頃はもっと世界に敬意を持っていた、大人であろうと努力していた、与えられた環境に甘んじるなどはしなかった、それこそが恐怖と偏見で我々をがんじがらめにしようとする世界への正しい反抗の仕方だと思っていたのだ。あのガキども――しかし、この世に完全な正義がないことを知っているであろう奴らの方が、あの頃の俺より賢いのだろうか? 彼らはどうだろうか。憧れることに憧れている彼ら。無力な彼ら。俺にはあった、金と情報に満ちた環境、努力と才能がすべて意義を持つ環境が。俺は奴らとも彼らとも違う。俺は偉大であり虚無をなす世界から逃げることなく臆病な本性を利用して立ち向かい、高橋涼介を完璧に構築したのだ。俺は違う、俺は、そうするつもりはなかった。そうなってしまったんだ。
そこへ行くのは四回目だった。やはり中里のR32はなかった。俺は駐車場の僅かな隙間にFCを出船精神に基づいて停めた。ライトを消しエンジンを切る。コンプレックスを管理できない人間はどいつも哀れでしかない。そして俺は今その一人になっている。ああ、そうだ、俺は惨めな敗北が嫌いだった。だから逃げ出さず、そして期限が定められた車へと逃げ出した。権力闘争の手段のはずのそれが目的となったのは始めてすぐのことだ。俺は肝心なところで選択を間違えた。選ぶべきはそれではなかった。俺の塞ぎ切れない欠陥、軟弱さ卑小さを覆い隠してくれる純粋な享楽性をそれから失わせてはいけなかった。だが俺はそれを失いつつある。完全にそれが失われる前に俺は補正しなければならなかった。目的ではなく道具によって。だから探し出し、虜にし、そして――。
その時、耳に障る単調な電子音が鳴った。音は僅かな間で切れて、再び同じペースで鳴る。その三回目で俺はナビシートに置いていたバッグから音の源を抜き取った。携帯電話の画面を見ると中里という文字があり、俺はためらわずに通話ボタンを押した。
『……よお』
俺が何も言わずにいると、やや間があってから、その低く掠れた声が耳に響いた。ひどく懐かしく、しかしついさっき聞いたようにも思えるほど身近だった。俺は腹の底が熱くなるのを感じた。耳に残る音がベッドの上を想起させたのだ。だが、ああ、と俺が出した声は見事に感情を気取らせない落ち着いたものだった。それを受け、久しぶりだな、と急いだ調子で中里は言い、だがためらいばかりの声を続けた。
『この前は……悪かったよ、その……いきなり帰って』
何かその先に続けようとしたらしい声を、「いや」とはっきり遮ると、中里は戸惑ったような沈黙を電話越しに作った。俺からは何も促さなかった。薄く聞こえる中里の呼吸音によって俺は懐かしい欲情を感じており、ああしたいな、という思い以外に何も浮かびはしなかった。
『……今から会えるか、話したいことが……』
吸った息を、中里は言葉にした。俺は間髪をいれずに「駄目だ」と言っていた。既に俺は彼と会って思う存分その体を陵辱することを想像していたが、先程までの思考から生まれた感情が彼の働きかけを拒んでいた。『あ?』と中里は意外そうな声を上げた。セックスの最中も彼はそういう色気のない声を上げることがあり、普段の中里を思い起こさせるそれが俺はたまらなく好きだった。より一層犯してやりたくなる。
「俺は今、お前の顔なんざ見たくもないんだ、中里。だから駄目だ」
俺が抱いていた罪悪感は口を動かさず、我先にと活躍したのは嗜虐性に富んだ想像力だった。そのため俺の声は上擦っていたがそれを中里がどう取ったかは分からない。彼はまた沈黙を作った。しかしそれは先ほどよりも短かった。
『そうか、分かった。じゃあ、またな』
淡々と言い、俺の別れの言葉を聞かないうちに中里は電話を切った。だが俺はそもそも別れの言葉を言うつもりはなかった。どうせいずれ会うのだから。
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