白日 3/3
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 電話を切って、何だそりゃ、と中里は思った。けんもほろろに面会を断られるという事態は予想もしておらず、信じがたい思いで開いたままの携帯電話を見つめていたが、携帯電話は携帯電話のままで、何かに変形することもなかった。中里はひとまずそれを両手で閉じて、今日はとりあえず、家に帰ろう、とぼんやり思い、コンビニの駐車場から車を出した。
 これは先に明らかにしておけば、峠で走りに集中できたんだろうか? 家路を辿りながら徐々に現実と適応していく頭で中里は考えたが、この動揺を通り過ぎた冷静がいつまで続くかなど知れたものではなく、攻め込んでいる途中で意識を奪われるかもしれず、そうなれば大惨事にもなったかもしれない。それならばまだ、人の不調を嘲り倒すことを生き甲斐としている慎吾に、「お前、今日は走らねえ方がいいんじゃねえの」と、真面目に助言を受けた先刻の現状の方がマシだったろう。実際ライン取りは最悪で、タイムを計測していた人間が「いや、これは知らねえ方がいいっすよ、マジで」、と念を押すほどの記録的な遅さだったが、もし今の状態でコースに向かえば、記録すら出せずに終わった可能性も高い。
 ああ、俺は何にしたって調子が悪いんだ。改めて思うと、四肢がずしりと重くなった。これはもう、どうにかしなければならない。今日はこのまま帰宅してコンビニ弁当をかっ食らって酒を飲んで寝るとして、どうせ休みなのだから、明日、会いに行こう。顔を見たくないと言われたところで、それを尊重する義務もこちらにはない。強引に押しかけるような真似はしたくないから、一ヶ月弱待っていたが、もう限界だ。信じる信じないの話ではない。答えを強要しなければ、袋小路からは脱せられないのだ。
 自宅のアパートの前に備わる狭い駐車場をライトが照らした途端、中里はぎょっとした。隅のどう考えても駐車スペースではない空間に、見覚えのある白い車が停まっていた。定位置に自分の車を停め、コンビニの弁当の入ったコンビニの袋を持ちつつその車に近き、薄闇の中、気になる点を確認していく。群馬ナンバー、数字は記憶にある通りで、左後部にレッドサンズのステッカーが貼られている。中には誰もいなかった。まさかと思い、アパートを見上げる。外付けされた二階への階段から一番遠い部屋、その前の柵に背を預け誰かが座っているようだった。それまで安定していた心臓の拍動が、一挙に速まった。まさか、と思う。ありえねえ。血は全身に巡っているはずなのに、冷たい汗がどっと出た。ついさっき、顔を見たくないと言っていたのは、どこのどいつだ? 緩みかけている膝に力を入れ、カンカンと音を立てながら階段を上がっていく。だが奥で三角座りをしている青いシャツにベージュのズボンを履いた男は、こちらを見もしなかった。いくら足音を立てても、すぐ傍に立ってもだ。
「高橋」
 中里が静かに呼びかけると、ようやく男は膝につけていた顔を上げた。端整で見る者をひきつける美しいはずのそれは、暗さのせいかどうにもみすぼらしい、現世から成仏できない幽霊のようにも見えた。
「よお、久しぶり」
 その顔にある切れ長の目を細め、涼介はだらりと右手を上げ、非常に軽い調子で言った。中里は認識が追いつかない現実にめまいを感じつつ、お前、何やってんだよ、と思ったままを聞いた。
「座ってる」
「バカ野郎、見りゃ分かる、そんなことは。何でお前が、ここにいるんだ」
「お前に会いに来たからだよ」
 迷いも見せずに答えると、涼介はゆっくりと立ち上がり、その動作の延長として、何とも反論しあぐねている中里の頬に右手を当て、何でもないように唇を合わせた。その触れた皮膚の冷たさに驚き、中里はコンビニ弁当を落とした。いつからこいつはここにいたんだ? 涼介は角度を変えて接触を深めようとしたが、こんなことをしている場合ではないという思いが膨らみ、中里はその首に空になった右手をあてがって、待て、と押し離した。勢いがつきすぎたためか、涼介はふらついて鉄柵に背中をもたれさせた。中里は混乱しきった頭のまま、涼介の喉を押した手で唇を拭い、何やってんだ、お前、と喉からしぼり出した声で言った。涼介は柵から背中を外し、そのままゆらりと中里の前まで歩き、あとずさりかけた中里に頬を引きつらせながら微笑むと、風のように横をすり抜けて行った。中里はぽかんとして、階段を下りていくその背中を見ていたが、その時ようやく事態の転がりように気付き、慌てて涼介を追った。
「おい、高橋、待てよ、おい!」
 涼介が中里の呼びかけに振り返ることはなく、そのまま奥に停車していたFCに乗り込み、駐車場に下りた中里の目の前を通っていった。クソ、と舌打ちし、中里はスカイラインまで二メートルを走り、ドアを開けようとしてロックに拒まれままにならない手で鍵を探して運転席に入り、ベルトを締める間も取らず急発進させた。FCが曲がった方向へ車を向け、狭い路地にも構わずアクセルを踏み込んでいく。すぐにそのテールランプが見え、一時停止で近づいて、また離れる。ある程度スピードに乗ったところで、中里はベルトをどうにか締めた。国道に出て後ろについたまま信号に引っかかるも、いつ青に変わるか分からない状況で車から降りて窓を殴打しには行けないし、運転中に電話をするなどもっての他だった。FCはさすがに大幅に規制速度を逸脱することはないが、速い。他の車に間に入られないように、見失わないように追いかけているだけで、中里は心臓が縮まりそうな緊張と恐怖を味わった。余計な思考もこの際ばかりは過度の精神の萎縮を休める助けとなる。何であいつはあそこにいたんだ? あの電話をしてから五分も経っていないはずだ、いつからいたんだ、待っていたのか? 会いたくねえのに待っているのはどういう道理だ? その上キスまでするのは何なんだ? そして何で逃げてんだ? いや逃げてるのか? あいつは何がしたいんだ? 俺はいつ弁当を食えるんだ?
 疑問を脳内で回転させながらの追従が続いたのは、高橋邸までだった。涼介の車が高い塀に囲まれた家へと入っていくのを、中里は多少のためらいを得ながらも追った。今までも何度かこの家に来たことはある。ただ、どれも家がもぬけの殻の場合か、高橋啓介しかいない場合だ。
 すぐに帰る覚悟で適当なところに車を停め、既にFCから降り玄関のドアの鍵を開けている涼介を追い、おい、と何度も声をかけたが、ドアを開いた涼介はすぐに閉めた。中里はその後を追ってドアの取っ手を引いた。鍵はかけられていなかった。重いドアを開いて、お邪魔します、と見慣れた玄関にそっと上がる。念のため内側から鍵をかけ、脱いだ靴は揃えた。玄関以外に明りはなく、一階に人の気配は感じられない。中里は緊張を多少解きながら、耳を澄ました。足音が上方から聞こえた。
 目の前にある階段を一段飛びでのぼっていくと、その甲斐あって、涼介の部屋のドアが閉められる瞬間には立ち会えた。その残酷に閉じたドアの前に立ち、中里はためらわずノブに手をかけ、ガチャガチャと回した。引いても押しても開かない。ノブから手を離し、深呼吸をして、落ち着け、と自分に言い聞かせる。俺に会いに来たってことは、あいつは俺に会いたくないわけじゃないってことだ。大丈夫だ、話せば分かる。多分。
 中里はドアを一つノックし、おい、と静かな声で呼びかけた。
「高橋、いるんだろ。ドアは開けなくてもいい、せめて返事をしてくれ」
 何十秒か待ったが、何の音も聞こえはしなかった。中里は唇を噛み、何を言えば良いのか考えも固まらないまま、ドアの横の壁に手をついて、哀願するような調子で言っていた。
「なあ、高橋、俺はただ話がしたいんだ。何でこうなっちまったのか、それをお前の口から聞きたいんだよ。俺たちは何なんだ、高橋、俺は……」
 一度言葉を切り、これでは追及しているようだと頭を振る。そして、話題を変えた。
「この前のことは、俺が悪かったと思っている。本当に、あの時は、勝手なことをした。色々あって……実家に呼び出しくらっててな、それで苛ついていた、会わない方が良かったんだ、けど俺はお前に会いたかった、お前に会えば……どうにかなるんじゃねえかって」
 再び中里は頭を振った。何を言いたいのか自分でも分からない。どうすれば良いのか分からない。迷いが声に表れる。
「甘えてるよな、これは。クソ、高橋、返事してくれよ。これでいないとか、なしだぜ、お前。俺に会いに来てくれたんじゃねえのかよ、俺を待っててくれたんじゃねえのか。どうなんだ。お前は何がしたいんだ。それとも俺なんてどうでもいいから、こんなことをやるのか。お前は俺を何だと思ってる、涼介」
 衣擦れの音すら聞こえはしない。薄いドアだ。いないのか。さっきの光景は幻覚だったのか。いや、この男はいるはずだ。いる上で、俺を無視している。そう思った瞬間に、体のうちの焦りと不安と怒りと苛立ちが、壁を拳の底部で強く叩かせ、怒鳴らせていた。
「涼介ッ! てめえ、いるのかいねえのかはっきりしろ!」
 自分の声のため、自分の耳がキンとするほどの大きい叫びだったが、聴覚が正常になってもなお、ドアの向こうからは一つも音が聞こえなかった。消化されない感情を持て余し、どうすりゃいいのかと中里が途方に暮れかかると、ドアががちゃりと開く音が後ろでした。中里は思わず振り向いた。
「うるせえよ、何やってんだお前。ヘッドフォンしてても聞こえたじゃねえか、バカでけえ声しやがって」
 後ろにあるドアから身を出した不満げな声の主は、トランクスとランニングシャツ姿の啓介だった。いや、と中里は涼介の部屋のドアを見、それから啓介を見て、言葉を詰まらせた。何とも説明のしようがない。口元に手をやって目を泳がせていると、アニキかよ、と啓介は今度は不審そうに小声で尋ねてきた。中里は、ああ、うん、いや、と肯定しながら否定した。ふうん、と啓介は納得したように頷いて、まあとりあえずこっち来いよ、邪魔だし、と中里を自室へ促した。

「何もねえけど文句言うなよ、俺だって文句言いてえんだから。あ、煙草吸うか」
 ベッドに寝転がった啓介が突き出してきた煙草をどうもと受け取り、その辺に落ちていた百円ライターで火を点けた。自分のそれと味は違うが、気分は鎮まる。洋服掛けになっていた木製の椅子に座り、中里は部屋を見渡した。漫画や車の雑誌、ビニール類や紙や丸めたティッシュが床に散らばっており、錆びた排気管や鉄パイプや木製バッドやサッカーボールなどが壁に立てかけられ、CDコンポや漫画が収められた棚もある。物の置き場になっている勉強机もある。テレビはない。
「色々、溢れ返っているように見えるけどな」
 中里が感想を述べると、啓介は咥え煙草で携帯電話をカチカチといじりながら、あるにはあるけどな、と聞き取りづらい口調で言い返した。
「俺には大して価値もねえもんばっかだよ。一日中暇潰せるもんは、全部没収されちまった」
「没収?」
「ってか下に追いやられたっつーかな。俺、グレてた時あるからよ、部屋こもられたら何してるか分かんねえってことらしいけど、外出た方が何やってっか分かんねえっつーに。何もしねえけど」
 ふう、と煙を吐き出し、ベッドの上に置いた灰皿の底に煙草をひねて、啓介は携帯電話のボタンを押し続けた。聞きゃしねえだろうとと思い、「親としちゃ、心配なんだろ」、と中里が自分の立場の行き詰まりぶりを痛感しながら苦々しく呟くと、「まあ分かるけどよ」、と聞いていた啓介は携帯電話を閉じ、唇を突き出しながら言った。
「もうちっと自由にさせてくれてもいいんじゃねえのって話。アニキは何も言われねえんだぜ、一日部屋から出てこなくてもよ。差別だよ差別。親父もおふくろもそれまで俺なんて全然眼中にもねえって感じだったくせに、何で今になってこうまでされなきゃなんねえのかな。普通ガキん頃だろそういうことされるのって。俺二十一だぜもう、勘弁してほしいよ」
 啓介は深いため息を吐き、その小言よりもアニキという単語を強く頭に残してた中里に、素早く顔を向け、不審そうに見据えてきた。
「っつーかお前、何やってたんだよ。アニキに立てこもられたか。フラれたか?」
「分からん」
 携帯電話を再び開き、それに顔を戻すと「分からんってな」、とげんなりしたように啓介は言ったが、やはり中里にはどうにも説明のしようがなかった。啓介は指で携帯電話のボタンを素早く押すと再び閉じて、腹筋を使って身を起こし、ベッドの上で片膝立てて中里を見た。
「何、アニキすねてんの? ガキくせー」
「あ? すねてるって、何だよ」
「お前、アニキに会いに来たんだろ」
「まあ、会いに来たというか追いかけて来たというか、会いに来たな」
「そんでアニキがお前と会おうとしねえんなら、すねてるってことだろ、普通に考えて」
 ありえねーけど、いやありえるか、まあアニキだしな、と一人続けた啓介はベッドから降り、床に積まれている使用済みらしき洋服をあさり始めた。中里には啓介が普通に考えられる論理を解せられる回路が備わっていなかったため、ただ煙草を吸い、分かんねえな、と呟いた。俺にも分かんねえけどな結局、と洗濯物の山からジーンズとパーカーと靴下を見つけ出した啓介に、煙草を床に落ちていた灰皿で処理した中里が釈然としないまま、「アニキのことならお前、俺より詳しいだろうが」、と押し付けるように確認すると、啓介は靴下とジーンズを履きながら、そりゃまあな、と気を悪くした風もなく、軽く答えた。
「俺はアニキの弟だし、お前よりずっと一緒にいるわけだし? よっと、詳しくねえ方が困るっての。っつーかお前と比べんなってくらいだぜ」
 そしてパーカーを着込み、服の埃を落とすと、椅子に座ったままの中里を見下ろし、でも、と面倒くさそうに眉間に思い切りしわを寄せた。
「俺、アニキに恋したことも恋されたこともねえもん、そんなアニキは分かんねえよ。分かりてえとも思わねえな、めんどくせえ」
 中里は何か言おうと息を吸い込み、咳き込んだ。まさかこの弟の口から恋などという単語が出てくるとは、思いもよらない現実だった。啓介はごほごほと咳をしている中里に、まあお前は例外なんだよだから、とやはり面倒くさそうに言い、背を向けてドアへと歩き出した。中里はつい立ち上がり、おい、どこへ行く、とすがるように言っていた。ダチに呼び出されてよ、とドアを開いて啓介は言った。
「送迎してやったら金出すって言うもんだから、俺もフトコロ厳しいし、貰えるもんはいくらでも貰っとかねえと」
 そして部屋を出た啓介を、ちょっと待て、と追う。開いたままのドアを抜け、廊下に出ると、啓介は涼介の部屋のドアの前に立っており、その木枠をガンガンと叩いて、アニキ、と無遠慮な声を上げた。
「俺ちょっと出かけてくっから。ついでに走ってくるよ、セッティングはいつも通りでいいんだよな。聞いてる?」
「聞いてるよ。いつも通りだ」
 啓介の問いに、すぐに声が返った。それは涼介の声だった。じゃあ行ってくるわ、とドアの向こうに告げ、啓介は後ろに呆然と立っていた中里を振り向いて、幼い表情で肩をすくめた。普段は顔が整っているという以外、態度も何も似ても似つかない兄弟が、その時中里には双子のように思えた。

 啓介の出す音がこの家から消え去ると、中里はひどい虚脱感に襲われた。すねてる? あの男が、何にすねることがある? 俺には何も返しもしなかったくせに、あの野郎。思うとたちまち怒りがみなぎった。嫉妬もあった。
 拳を握り締め、もういっそ蹴破ってやろうか、と中里はドアを見た。同時にそれがガチャリと開き、うわッ、と中里は驚きのあまり声を上げて体を震わせた。
「入れよ」
 中から姿を見せた涼介は、中途半端に手を上げて固まった中里を構うことなく言い、ドアを開け放した。あ、ああ、と利害を考える暇も取れないまま中里は涼介の部屋に入り、ドアを閉めた。涼介は中里に背を向けたまま、ズボンのポケットに両手を差し入れ、部屋の中央に立っている。何だこれは何だこれはといまだ事態を把握できず、言いたいことも整理のできていない中里が涼介に声をかけあぐねていると、涼介が端緒を開いた。
「いない場合は、はっきりさせられないと思うぜ」
 涼介の声は低く、落ち着いていた。なぜこうなっているのか、中里の頭は困窮するあまり現状に至った過程の解明は放棄し、目先の事態の解決のためだけに無駄に働き、何のことだと訝ってすぐ、先ほど怒鳴ったことだと見当をつけた。
「……そりゃそうだな」
「開いてみるまで分からない」
「仕方ねえだろ、もう、そこまで考えられなかった」
「ドアでも蹴破りかねない勢いだったな」
「今、そうしようか考えてたぜ、少し」
「怖い奴だ」
 笑うように言い、涼介は中里を向いた。光の下で久しぶりに見るその顔は不健康ここに極まれりという様子で、中里はどぎまぎとした。涼介は中里を見たまま、病人のような顔色を一つも変えず、前置きもなく、本題がどこにあるかも知れないことを語り出した。
「観測者による認識の変化に左右される時間、吸収された熱の可能性との融合、世の欺瞞を信じる者はでは真実を知りえるのか、色々考えたよ俺は。しかし結局紙に残されないものになど意味はないな、だが俺の肉体も魂も印刷するには厚すぎるし、切断しては俺の原型が留められない。人間を数字と文字で表すには現代はまだ遅いことが悔やまれるよ。俺は解放された技術の上に倫理や道徳が塗り固められるべきだと思う。この社会ではご大層な信念を振り回す奴らほど、自分が貪る餌が多くの蹂躙と犠牲で作られたことに気付かない。足元に腐敗したそれが転がっていても溢れるのは芳醇な香りと誤解する。理想とは現実を直視してこそ持つべきだ。太陽を永久に見続けたければ眼球をくり抜いてしまうくらいの気概を持つべきだ。健全な社会への貢献が期待されるのであれば、どのような結果が出ようとも是とするのが利だ。死すらいとわず」
 そこまで言うと、涼介は口を閉じて目を伏せた。中里は唖然とした。これは何の話だ? 人格批判か、社会批判か? いや、それは話だったのか? なまじ内容を理解できるため混乱している中里へ、何もなかったかのように涼介は伏せた目を自然に向けた。
「帰れよ中里。ここはお前のいるべき場所じゃない。熟考せずに行動を起こすことに疑問を挟まない、他人の情動に流されることでそれを救った気になっている奴がいるべき場所じゃない。ここは俺の場所だ」
 先ほどまでの平坦な調子を変えず、滑らかに涼介は言った。感情の窺えない声は、演劇を見ているような印象を中里に与えた。舞台の上では高橋涼介が高橋涼介を演じており、自分は観客席に座って筋道の見えない話がまかり通る世界を、ただ眺めるしかできないのだ。確かにそこは涼介の場所だった。中里は頭を振った。いや、ここは単なる涼介の部屋だ。相変わらず、と舌打ちし、涼介を真っ向から睨み、繰り返す。
「相変わらず、変な風に話を逸らしやがるな、お前は」
「何の話だ? これは俺の話だ、お前の話じゃない」
「俺の話だ。俺から始まった話だ、いいか涼介、俺は帰らねえぞ。俺にはお前に聞きたいことが山ほど――」
 中里が最後まで言わないうちに、涼介は中里の前まで歩いてきた。中里は言葉を切ってあとずさった。背中に壁が当たった。おい、と顔をしかめる中里の頬に、涼介はズボンのポケットから出した右手の指を当て、それをゆっくり首へと下ろしていった。
「俺はお前が好きだぜ、中里」
 涼介は中里の喉仏あたりを見ながら言った。冷たくない指は、首をそろそろと撫でている。ぞわりとして、中里はその手を払って凄むこともできず、何なんだ、と悲鳴に似た声を出した。涼介は指を動かすことをやめず、聞きたいことの一つだろ、と何かをはばかっているかのように、小声で言った。
「初めなんてそれだけだ、くだらねえ、余計なもんは後から勝手についてきやがった。俺のことだとかお前のことだとか、何だろうな、全部が俺をお前から引き離そうとするんだよ。俺が俺としてやってきたプライド、けど、俺とお前の間でそんなものに何の価値があるんだろうな?」
 涼介は中里のシャツの襟に指を入れていた。プライド、と中里は思った。今日まで捨てられなかったもの、今日も捨てられていないものだ。捨てられるはずがない。
「それがなけりゃ、俺もお前も、違うだろ。お前が何を求めてるかは知らねえが、何もない上で何かしても、無意味じゃねえか」
「お前は本当に、縛られるのが好きだよな」
「……ああ?」
 中里が表情の変化に力を傾けた瞬間、涼介はがっしりと中里のシャツの襟を掴み、それを引っ張って歩き出した。中里は抵抗する間も与えられずに引きずられ、そのままベッドの上に仰向けに転がされた。体勢を整える間もなく、涼介が腹の上にまたがって、両肘を中里の耳元に落とし、至近距離で見据えてきた。その揺れない目の圧力のため、中里はすぐには動けなかった。涼介は中里を見たまま、喉の渇きを感じさせるかすれた声で言った。
「俺も、お前を縛るのが好きだよ。縛られるのも」
 涼介はそれ以上動くことをしなかった。話をする絶好の機会だというのに、中里は思うように声を出せなかった。全身の血が沸騰したように肌を焼き、表面に汗がにじんでいく。唾を飲み込み、震えかける唇に力を入れ、涼介、とだけ何とか呟くと、名前を呼ばれた男は薄く笑った。
「お前に名前を呼ばれると、すぐに勃っちまいそうになる。なあ、中里、やばいんだよ、俺は。女の下着だけで抜ける中学生みてえに盛ってる。そんなの俺じゃねえだろ」
 言って耳の横に顔をうずめてきた男に、何か非常に強いに親近感を中里は覚え、その大きく細い体の脇の下から両腕を背中に回し、自分のもとへと引き寄せた。胸が強く合い、涼介はうめき、腹をまたいでいた足を後ろへ伸ばした。全身が重なった。そして涼介は、中里の左耳を噛むように、忌々しそうに言った。
「中里」
「離さねえぞ」
「頼むから、お前の何が俺をこうさせるのか、少しは考えて動いてくれ」
「考えるにしても、お前がごちゃごちゃ動いてちゃ、目障りなんだ」
 聞きたいことだ、と布越しにその肉体の骨と筋肉を感じながら、中里は考えた。どう思っているのか、何を考えているのか、どうしたいのか。だがそれは既に、行動で示されているのだろうか? この一貫性が見当たらない行動が答えなのだろうか? ガキくせー、という啓介の言葉が脳裏に蘇る。いや、ガキの方がよっぽど分かりやすいぞこれは、と中里が確信をもって心の中で反論していると、じっとしていた涼介が思いついたように、くぐもった声で言った。
「俺はもう疲れた。お前を殺して俺も死にてえよ、中里」
 軽くも重くもない調子だった。ここに及んで本気なのか冗談なのかも知れなかった。あまりの現実の不条理さに、ふざけるんじゃねえ、と中里は凄むように言っていた。
「涼介、俺も疲れたが、お前を殺しもお前に殺されもしてやらねえよ。ああクソ、何だお前はめんどくせえ奴だな、すねてて俺が好きで死にてえなんざ、女性の下着で抜ける中学生でも言わねえぞ、バカ野郎」
「お前にだけは馬鹿だと言われたくないが、確かに俺は馬鹿だ、認めるよ」
「認めてんのかよそれは」
 違う、と音が立つほど涼介の体を締め上げながら中里は思った。こんなことが言いたいわけではない。ああガキくせえ、いやガキ以下だ、言いたいことも分からずに、言おうともしていない。足に、股間に、胸に、涼介の体が触れている。今はただ、それを離したくだけだ。何を言う必要がある? 聞いて、見て、理解できることがすべてだ。それに疲れた。「認めるしかねえんだ」、涼介は早口に言った。
「俺はひどい奴だよ、何もかもを道具としてしか見られない、お前ですら、この言葉ですら。真実を言おうとしても何が真実なのか分からない、世界を虚構に仕立て上げて現実から逃げ回ってた、そのツケだ。疑うだけで信じようともしなかった、選択を間違えた責任を取ろうともしなかった、だから俺はお前を好きなんだ。愛してる、愛なんて言葉の意味はどうでもいい、そんなもの糞食らえだ、けど、愛してるんだよ。信じてくれ、愛してるんだ」
 その糞食らえの言葉を涼介は呟き続けた。呪うように低い声で、吐き気がしそうなほどぶつぶつと繰り返した。中里は疲れていた。不可解な言動、中身のない正論、中身のある嘘、それを見ることに疲れていた。戻る機会はあった。のし掛からせているこの体を放り投げて罵倒する機会がある。理解できない、気色が悪い、重い、いくらでも言い分がある。それを作っているのはこの男だ。この男が最初から、提供していた。
「信じるよ」
 涼介の呪詛をさえぎって、腹の底から中里はささやいた。涼介はぴたりと言葉を止めた。息だけが耳を触った。中里は腕の力をようやく抜いた。縛りを解かれた涼介がもぞりと動き、再び太ももにまたがると、左耳を噛みかけていた唇を首元に寄せてきた。この野郎、と中里は思った。計算した博打を打ち、成果を上げ、賞賛される男。惑わされてはいけない。信じるのはこの男のためではない。誰が何と言おうとも、どのような恥辱に襲われようとも、すべては自分に基づくのだ。誰が捨ててやるか。涼介の昂ぶりを中里は肌で感じた。この瞬間すべては消え去る。ただ中里は、過ぎ去った涼介は繋ぎとめておこうとした。過ぎ去った時間は忘れないようにした。

 - - - - -

 官能が思考を支配する時間、存在の意味を理解する瞬間は呆気なく終わる。始まるのはそれとは違う、だがそれと変わらない、過去から未来へ続く道程だ。
「……Rを」
 うつぶせのまま息を荒がせていた中里が、苦しげに呟いた。Rを? 俺は彼の顔を横から覗き込み、続きを要求した。中里は恨めしそうに俺を見て、音を立てて唾を飲み込み、「家の前に、適当に置きっ放しだ」、と嗄れた声で言った。ああと俺は合点した。
「敷地内にあるなら構わんよ。親父は別の部屋に泊まっているし、おふくろは旅行だ。今日は帰ってこない。明日も帰ってこないだろうな。天気予報じゃ雨も降らない」
 そうか、とほっとしたような息を中里は吐いた。横になり、枕に頬杖をつきながら、俺は彼のうなじに目を移した。汗が滴っている。右手を伸ばしてそれを拭いながら、俺はふと思いついたことを言った。
「今度、両親にお前のことを話そうと思う。一生付き合っていく相手として。お前が良ければだけど」
 汗はべっとりと掌に張り付いた。俺がそれを拭った体液に濡れたシーツを、中里は両手で握り締めていた。そしてやはり俺を呪殺したそうな形相をしており、だが全体が赤いため、迫力には欠けた。
「……高橋、お前、ひでえタイミングで、ひでえこと言いやがるよな」
「言っただろ、俺はひどい奴なんだ。それと、もう苗字で呼ぶのはやめてくれ。今のままじゃ名前を呼ぶのは奇襲だよ。すぐ勃起する。俺は早く普通の男に戻りたい」
「戻してえよ、俺も。分かったから、それ以上今、疲れることを言ってくれるな。俺の頭が爆発する」
「それは困るな。巻き添えを食う」
「ああ。クソ、腹減った」
「何か用意しようか」
「いや、もう眠い。食う気も起きねえ。しかし、俺にもいさせろよ」
 接続詞のかかる言葉が分からず、何? と俺が聞くと、目を閉じ、疲れ切ったような声で中里は言った。
「俺のことを話すなら、本人がいて、真っ当だろ」
 そして目を開き、物憂げに俺を見た。俺は詐欺師のように笑い、ああ、いさせるよ、と言った。中里は意を得たように頬を上げ、深いため息を吐いて、再び目を閉じた。俺も目をつむった。窮した事態において、他でもない俺と彼が自らの意思で退路を落としたのだ。くだらんプライド、と俺は思った。欲望を制圧し、論理を振るう、現実に投獄されるすべ。目を開く。素裸の中里がそこにいる。眠ろうとしている。俺も休もう。延々と続く未来への時間を進むために、生まれ変わらないために、彼なしでいられないことを認めるために。そしてすぐ瞼が限界を知らせるまで、俺はやがて訪れる朝、彼と啓介との食卓について考えた。
(終)

(2006/03/11)
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