二枚目 1/3
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 中里毅は妙義山をホームとする、走り屋集団ナイトキッズの便利屋、もといリーダー格である。
 一週間前中里は、その己の立場を顕著とする相談を受け、はるばる赤城山まで群馬のカリスマたる高橋涼介に会いに行き、一悶着ありながらも無事その写真を収め、収めたカメラを依頼主の野村に渡し、事態を形式上は終結させた。
 高橋涼介との非日常的な接触により中里は多量の精神的疲労を味わい、一年分老け込んだような気にさえなった。しかし一週間の日常生活によって何とか精神が半年は若返り、中里はようやく足取りも軽やかに妙義山に現れたのだった。
 だが峠は違和感に満ちていた。訪れた中里に投げかけられた視線には、未知のものを見るかのような好奇と畏怖の色が混じっていた。それを隠そうともしていない一般の走り屋に反し、中里を気遣ったためか度が過ぎるほど友好的に接してきたメンバーは、その合間に見え隠れする態度によってむしろバレバレであった。
 確か碓氷の沙雪にフラれた時もこんな感じだったなと思い出し、最近俺に何かあったっけと中里は、とりあえず二本ほど走らせてから愛車に寄りかかり頭を巡らせた。
 最近あったことといえば忘れもしない一週間前、赤城山に行ったことだが、それはともに行った庄司慎吾と依頼主の野村以外には知らないはずである。野村にはこっぴどく口止めしてあるし、庄司慎吾は赤城山からの帰りの車中でやけに神妙であり、誰にも言わない方がお前と俺とチームの身のためだ、と真剣に語っていた。中里の身はともかく、チームや自分の身をないがしろにするような男ではない。残る可能性としては赤城からだが、高橋涼介が敢えてそんなことを言い立てるほど狭量な男とも思えない。よって写真の件は除外していいだろう。では何だというのか。
 火を点けぬまま煙草を咥え、中里はその場を見渡した。庄司慎吾はまだ来ていない。その他の人間は、中里と視線が合うとことごとく顔や目を逸らし、中には慌てた様子で彼方へ走り出す者さえいた。悪名もそれなりに轟かせていた中里に対する反応としては頷けるといえば頷けるが、いささか度が過ぎている。
 その中で、一人だけ中里から目を逸らさない男がいた。だれた赤いシャツと紫のジャージという突飛なファッションとは裏腹の、骨格のしっかりした顔と、顔に似合わぬつぶらな目、そして染められていない角刈りを持っている男。
 中里はしばらくその男を見てから、顎をしゃくった。その男、野村は眉根を寄せながら目を見開くという見るからに力が込められている表情のまま、一週間前と同じく決死の足取りで中里の前までやって来て、中里が声をかける間もなくいきなり頭を下げた。
「すいません毅さん、俺は毅さんの思いも知らずとんでもねえことを頼んじまってました!」
 腰を90度に曲げ、とんでもない大声で叫んだ野村を中里は慌ててなだめた。
「頼んだって写真か、ありゃまあ確かにとんでもねえが、今更謝ることでもねえだろ。ってそういやどうしたんだその後」
 そもそもは野村の好いた女が高橋涼介の写真を欲しがっていたのだ。そして野村は写真の入手と引き換えに、その女性とデートを取り付けていた。
 はあ、と野村は眉を八の字にしたまま、済まなそうに言った。
「写真とネガ見せたら、それで笑ってオーケーだっつわれましてね、あれっすよ。付き合うことになりました」
「そうか、お前この俺を差し置いていい度胸だな。まあ良かったじゃねえか」
 口端を上げて笑った中里を見て、気まずそうに更に眉を下げた野村は、不意に思い出したように「あ、そうだ」とジャージの腰に挟んでいた封筒を中里に差し出した。
「ミキが、あ、その子なんすけど、毅さんの話したら、返していいって。どうもすんませんでした」
「返すったって、俺はそんなもん欲しかねえよ」
「え、だって毅さん、それ最後の思い出なんでしょ。ダメっすよ遠慮しちゃあ、誰も何も文句なんて言いません」
「別に最後でもねえし文句言われる筋合いもないが、まあ他に流れてもあいつに悪いからな。受け取ってはおく」
 受け取った封筒をジーンズの尻ポケットに無理矢理ねじ込んだ中里は、何か話の流れが妙だな、と思いながらも、野村の本懐が達成されたことを喜ぶことにした。女ができるとそれだけで人生はバラ色だ。我が身を振り返れば寒い思いもするが、他人の幸福を素直に祝えず何が男か。
「お前もよ、せっかく晴れて結ばれたってのに、そんな暗い顔してんじゃねえよ。幸せも逃げてくぞ」
 なぜかいまだに意気消沈している野村に笑いかけ、中里は咥えた煙草にやっと火を点けた。吸い込んだ煙が血液を焼く。
 その中里の動きをじっと見ていた野村が、突然顔をくしゃっと歪めた。
「でも俺はそのせいで、毅さんに要らねえ苦しみ味わわせちまって、本当にもう、どうお詫びしたらいいか分からねえっす」
「だから詫びる必要も何もよ、もう終わったことだろうが」
 こいつもいちいち律儀だなという感心と呆れを半々に感じながら中里は言い、そろそろこの場の異様な雰囲気について尋ねようとした。と、そこで唐突に、野村に両手を取られ胸元まで引き上げられた。
「な、何だ」
 うろたえた中里を、野村は真剣な眼差しで見据えていた。
「毅さん、俺は毅さんに一生ついていきますよ」
「それはいい心がけだ」
 しかしこの手は何だと問おうとした中里に、野村は分かってますと首を振り、中里の手を握っている両手に力をこめると沈痛な面持ちで言い立てた。
「惚れた相手が高橋涼介なんていうだけで大変だってのに、そんな素振りも見せねえでこころよく俺の頼み引き受けてくれて、その上フラれもしたのにちゃんと写真撮ってきてくれたんすよね。俺感激っす、俺はそんなこたあできませんよ。俺は毅さんがホモだろうがカマになろうがずっとついていきますよ、ええもう、他のヤツらがどうこう言おうが気にしねえでください、俺は毅さんの凄さよおく分かってますから」
 中里は咥えていた煙草を地面に落とした。
 今こいつは何て言った?
 惚れた相手が高橋涼介、それを見せずにフラれて、写真を撮ってホモでカマ。え、おい、待て、これは何だ? 誰だ?
 中里が混乱の只中で顔面を蒼白にしていることも気にせず、野村は力の抜けている中里の手をしっかりと握り締め、確かにね、と語り始めた。
「ケツ狙われてると思うと落ち着かないとか言いやがるヤツもいますよ、けどね、毅さんがそんなロクでもねえヤツのケツなんか狙うわけねえでしょ。まったくジイシキカジョーにもほどがある。ですから毅さんは気にしないで、我が道を歩んでいってください」
 混乱のまま、ただならぬ誤解だけはかけられていると理解した中里は思考を復活させ、ちょっと待て、と野村に握られている手を慌てて振り解き、その手を野村の両肩に置いた。
「お前、おい、俺が誰のケツを狙うって、いやそれより惚れた相手が高橋涼介ってお前、俺か? 俺なのか?」
「だって赤城行ってコクってフラれたんでしょ、それで、最後の思い出っつって写真撮ったんすよね、この前は。そりゃ口止めもしたくなります。でもどっから流れたんでしょうね。まあいいか。ね、だからその写真は毅さんのもんっすよ、ミキもすげえいいデキだっつってました。だからこれは自分が持ってていいようなもんじゃないって、渡したけどすぐつき返されましてね。俺もそう思いますよ、その写真にこめられた思いを考えると、俺らが持ってていいようなもんじゃねえっす」
 感極まって目を潤ませながら語る野村に、気を天に飛ばしそうになった中里は、すんでに頭を振って繋ぎ止めた。そして野村の肩を掴んでいる手に可能な限りの力をこめ、その顔を互いの鼻が触れ合うほどにまで近づけると、いいか野村、と口を大きく笑みの形にしながら、低い声を出した。
「俺は高橋涼介に告白してなけりゃフラれてもいない、いやそもそもが惚れちゃいねえ。そのお前が言った話は、本当に何で出てきたかは分からねえが、事実無根の嘘っぱちの荒唐無稽のデマもデマでいいところだ」
「え、でも他のヤツらも言ってて」
「お前はな他のヤツらが言ってるからって、この俺が、この俺が高橋涼介に、なんてアホらしい、口にするだけでレベルが下がりそうなそんな話信じるほどだな、馬鹿か、アホか、ノータリンか」
 かなり目つきが怪しい中里に凄まれた恐怖と、肩を掴まれている痛みとで身をすくませながら野村は、事態改善のためにまずすいませんと謝り、釈明した。
「いや、俺も妙だなって思ったんすけど、毅さん戻って来た時やたら何か疲れてるみてえだったから、考えりゃあありえるよなあ、って思っちまって、つい。それに、だって言ってたじゃねえすか、高橋涼介と俺は釣り合わないとか、だから」
「それは住んでる次元が違うって意味でだ、宇宙人と話しているようなって意味でだ、勘違いしてんじゃねえよ。お前よ、しかし、だからって俺がな、真っ当に女が好きだってことくらい見て分からねえのか。何だって信じるんだよそんなヨタ話。お前の目はフシアナか」
「いや、毅さんって顔がホモっぽいし」
 野村は言ってから、あ、と素早く口に両手を当てたが、後の祭りであった。張り詰めた緊張が訪れる。中里は笑みにした口をトコトン歪め、頬を痙攣させた。野村はやっちまったとばかりに中里から顔を逸らし、ちらちらと周囲を見た。それにつられ、中里も周りに目を向けた。点在する走り屋たちはこちらに耳を傾けていたり、あからさまに無関係だと背中で主張していたりしているが、どれも中里の動向に注意を払っていることは明らかだった。
 中里は周囲の視線にも野村の被害者然とした態度にも、話のでたらめさにも気力を根こそぎ奪い取られた。顔から一斉に力を抜き、野村の肩から手を離すと32のボンネットに寄りかかって顎を掻き、野村を見据えた中里は、なあ野村、と震えながらも優しい声を出した。
「俺は生まれて二十余年と生きてるが、そんなことを言われたことは今まで一度もありゃしねえ」
「え、マジっすか」
「お前、一週間分殴り倒されてえのか」
 中里が顎を掻いていた手で拳を作ると、野村は一歩飛びすさり両手を前方に突き出して、いやゼンゼン、と首を振った。
「あ、あれっす、俺は毅さん信じてますから。ついていきます」
「それは分かった。ならお前な、その根も葉もないデマが撤回して来い。言っても聞かねえヤツがいたら、俺が直接やさしーく言い聞かせてやるから、やさしーくしょっ引いて来い。分かったか」
「はい、かしこまりました!」
 直立し勢いよく120度の礼をした野村は、一週間前と同じく脱兎のごとく、だが今度は己の車ではなく周囲で耳をそばだてていたメンバーの元へ走って行った。
 中里はそれを見送ると、大きく深呼吸をしその場にしゃがみ込んだ。
 峠に来た当初の晴天のような気分は曇天へと転換されている。せっかく抜けた疲労感が再び腹の底に重く溜まり、もう一年分老け込んだような気になった。地面に落ちていたまだ火種の残っている煙草を指でつまみ丁寧にすり潰すと、自然深いため息が漏れた。
 俺は今まで男が好きだという素振りなんざ見せたことはないはずだ。何たって俺は間違いなく今までの人生いたってノーマルで、言うのははばかられるが女の子が大好きなんだから、見せる理由がない。
 それなのに、と中里は力の入らない手で煙草を取り出しながら苦く思う。何で信じられてやがるんだ。顔だと、顔がホモっぽいだと。そりゃ確かに俺の顔はどっちかと言えば濃いだろうが、ちょっと濃い顔をしている野郎が全員ホモなら人類はこんなに繁栄してねえだろ。いくら高橋涼介が相手だからってそりゃねえじゃねえか。
 そこまで考えて中里は、ん? と煙草を指に挟んだまま首を傾げた。高橋涼介。そう、相手は高橋涼介だ。
 だからこそ、とは考えられないだろうか。あの男には大抵の人間をとらえるだけの魅力がある。ことの信憑性の濃さが、中里の常識や性癖への疑念から深まったのではなく、男に惚れられ公衆の面前で告白されても然るよう魅力が相手である高橋涼介にあったからこそ深まったとも、できない話ではない。
 相手の存在によってのみ話が左右されることは多少プライドに障るが、常識外れの馬鹿だの同性のケツを狙っているだのと考えられるよりは遥かにマシである。
 しかしお門違いだ、と中里は強く思った。
 白い綿のズボンに明るい水色のセーターという出で立ちの膝から上を、バックに白く輝くFCを据えて収められた高橋涼介は、色のちぐはぐさに関わらず統一された整然さをかもし出しており、中里の目に鮮烈な映像を残した。その美しさには生きる上で必ずついていく泥さえ残されていた。適切な表現はまさしく『いい男』であった。
 普段あまり働かずにいる中里の美意識も、その時ばかりは高橋涼介の姿に卒然と動き出し、感嘆を呼んだ。美術品の鑑賞という例えは高尚すぎる。傷一つない下ろしたての愛車の鑑賞という方が相応しい。
『それでもお前は撮りたいんだろう』
 涼介の言葉を思い出し、それは少し違う、中里は思った。写真を撮りたかったのではなく、レンズを通しての高橋涼介を見ていたかったのだ。そこでは中里にとっての高橋涼介を証明する走り屋という記号が失われており、ただの20代前半のいい男が外界から隔離された存在しているのみだった。もう少し見ていたかった。見てどうするというわけではない。ただ見ていたかったのだ。
 だがそれ以上涼介を見ていたところで何が起こるわけでもないし、時間をかけても先方に悪い。保険としてもう一枚撮ったら、更にもう一枚、おまけにもう一枚、やっぱりもう一枚、と数を重ねそうだった。だから中里は自制心の効くうちにやめたまでだ。
 もし時間が許されていたならばフィルムがなくなるまで撮り続けていた。俺がそうまで思える男なんだ。仕方ないが認めよう。魅力はある。カメラの向こうの高橋涼介の顔を見た瞬間、周囲の空気が薄くなったように感じられたことも、心臓が酸素を求めるように鼓動を深めたことも、それに反比例して思考が停滞していったことも、高橋涼介に己の存在を引き寄せられたからだと、高橋涼介がそれほどの存在感を持つ男だからだと考えることもできる。
 しかし、例え高橋涼介がそれだけのものであろうとも、中里が惚れるかといえば否である。
「まったく、お門違いだ」
 長いまま地面に落としてしまった一本目を弔うように、二本目の煙を深く吸い込んで吐き出し、中里は今度は声に出した。
 惚れる、好きになる、恋をする? ふざけるな。それってのは、俺が、この俺がだ、高橋涼介を思って胸を高鳴らせたり、影からこっそり見詰めたり、写真を見てうっとりしたりするってことだぞ。そのケツを狙うってことだ、更に言えばその裸を想像しておっ勃てるってことだ。うわ、自分で考えて吐き気してくる。そんなことが許せるのか。俺は断じて許せねえ、そんな俺の姿は公衆わいせつ罪だ。警察にひっ捕らえられても文句は言えねえ。何でそんなことをどいつもこいつも事実みてえに考えられるんだ。おぞましい。
 中里は顔を青くし、短くなった煙草を口から地面に吐き出すと、その口元を押さえた。そしてふと、こんな時に庄司慎吾がいればと思った。慎吾の容赦のない言動がもたらす刺激は、中里の思考によく明晰さを与える。中里の心根を容赦なく暴き立てる。煮え切らない感情を吹き飛ばす。
 しかし今、慎吾はいない。
「要らねえ時はいるくせにな」
 独りごち、中里は最後まで吸い切った二本目の煙草の火種を消した。
 その時、先ほどから何か低く唸る音が聞こえていることに中里はようやく気付いた。ずっと前から単調な音色で段々と近づいてくる。聞き覚えはあった。様々な問題から量産体勢をとれていない悲劇的なエンジンの音だ。その悲劇が似合う男が中里の頭に閃いた。それまで中里の頭の中にはその男の弟が真っ先に浮かんでいたが、今浮かんだ男は確かにその男だった
 まさかな、と中里は現実感の欠けたその音を聞きながら思った。タイミングが良すぎる、いや悪すぎる。妙義にだって燃費の悪いロータリーエンジンを積んだRX7やサバンナに乗る人間がいないわけではないだろうし、高橋涼介がここへ来る必要はない。噂の発生元がここでもない限り。
 中里の首筋があわ立った。
 そういえば、俺が赤城へ行ったという情報はどこから流れた。赤城からはないだろう、あの高橋涼介が大元締めなんだ。ならばこちらしかないではないか。野村、いやあいつには慎吾直々きつく口止めをしている。女にだって俺の名は隠せと言い置いてる、大体あいつが流したら自分から言ってくるだろ、妙に律儀なんだから。じゃあ慎吾か。いやそれもない、あいつはあれで約束は違えない男だ。特に自分が自分にした約束は。じゃあ俺か。俺? まさか記憶に残っていないだけでツイウッカリ他のヤツに言ってたりしたのか。やべえ、自信を持って否定できねえ。大丈夫か俺。
 いや、落ち着け、と中里は額に手を当てた。だからといってあのやたら忙しそうな高橋涼介がわざわざここへ来るだろうか。話では高橋涼介が中里に惚れたわけでもフラれたわけでもない。外聞は何ら悪くはない。ならば来る必要はないし、中里に何かを伝える必要があったとしても電話で済むことだし、高橋涼介クラスならば代理人でも立てればいい。そう、同じRX7の弟がいる。
 しばらく考え、あいつで代理人になるのか、と中里が首をひねったと同時に、いよいよその車が現れた。
 純然と白く輝き、柔らかさと硬さを備えている車。見覚えはある。そして軽々とその車から降り立ったのは、黒皮のパンツにピッタリとした白のハイネック、カッチリとしたワインレッドのこれまた皮のジャケットを整然と着こなし、なぜかコンビニ袋を左手に提げているその男、高橋涼介だった。



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