第三者より
二枚目  <  >  曲解


 勝気で強気で常に災厄を持ち込んでくる幼なじみの女からの電話も、面子が奮わず送迎役を買って出たため酒も入れられない合コンの真っ只中においてでは、いかに庄司慎吾でも幸運と救いを感じたものだった。
 だが世の中一筋縄ではいかないものである。電話に出ながら店から出て、肌寒くなった空気に薄手のセーター一枚の身を抱えながら挨拶を交わした。そして挨拶もそこそこにその幼なじみである女、沙雪の口から発せられた男の名は、以前沙雪がきっぱりと脈を絶った慎吾の友人と言っても差し支えのない程度の男のものであり、それを聞いた瞬間、慎吾は即座に電話を切る言い訳を考え、また即座にそれが無駄な抵抗であることを悟った。
 その男、中里毅。一年近い付き合いがあるが、その男が関わる種々の話から慎吾が得た物質的利益は数少なく、それに反比例するかのごとく、極貧状態の日常において我が身の存亡に切実に関わる金と時間は、切実なほどに失われていた。よって左うちわの生活を夢見る慎吾としては、常に生活苦をプレゼントしてくれる中里の名はなるべく聞きたくないのである。だから即座に中里と関わらないための、つまり電話を切るための言い訳を考えたのだ。
 しかし不測の事態とは得てして刺激的であり、慎吾もまた中里と関わることによって多量の金や時間と引き換えに、身が焦がれるような刺激と快楽、人生の充実を獲得していた。
 悠々とした生活には憧れるが、生きていることを強烈に実感できる生活を捨ててまでは、まだ欲しくもない。
 だから慎吾は電話を切る言い訳を考えた直後、それが本来トラブルとの関わりを求めている己に対しての無駄な抵抗であると悟ったのだ。
 結局俺は、あいつと関わる運命だ。
 そう滑稽に思いながら、慎吾は沙雪との会話の取っかかりとして、可能性がゼロであると確信している冗談を言った。
「中里ってとお前、あれか、あいつのこと考え直しでもしたか」
『や、それはありえない』
 即答された沙雪の完璧なほどの素の否定を聞き、慎吾は少しだけ中里に同情した。冗談にもならないとは、悲惨な男だ。
「んなこたァ分かってるよ、冗談だ。マジになるな。それで何の用だ、忙しいんだ俺も」
 この後、女に外れた男連中の愚痴を聞きながら手早く各々の家に運び、中里の関する話の対処法を考えながら急いで峠に繰り出さなければならない。
 まったく忙しく面倒くせえ、と考えた慎吾がぶっきらぼうに聞くと、沙雪は声を深刻に潜めた。
『ねえ、中里クンが高橋涼介にコクってフラれたって、マジ?』
 慎吾の思考は一瞬停止し、その沙雪の発言を認識し損ねた。
 しかし、とんでもなく現実離れした妄想的な話を聞いたような気が、猛烈にする。
 慎吾はとりあえず、自分の耳を疑った。
「悪い沙雪、今どうも、俺の耳がおかしくなったような気がする。もう一回言ってくれ」
『だからね、あんたんとこの32乗ってる中里クンが、赤城の高橋涼介に恋してていよいよ告白して、あっさりフラれたってマジかって聞いてんの』
 今度は認識しないことも、聞き間違えることもできなかった。
 慎吾はまず、笑った。喉だけで笑った。くつくつと笑った。ひとしきり笑ってから、怪訝そうに慎吾の名を呼んだ沙雪に、
「マジなわけねえだろうが」
 と、笑いを殺し地獄の底を這うような声で言ったが、沙雪はそれにも動じず、やっぱり、と興ざめを隠さなかった。
『いやあたしも信じてたわけじゃないけどね、周りのヤツらが疑っちゃってさ。だったらこういうことはちゃんと事実確認しておかないと、間違ってたら大変でしょ』
 沙雪の発言になまじ正当性があったため、慎吾は湧き上がる苛立ちを沙雪にぶつけることができず、ただ舌を打った。
「事実確認も何も、そんな事実はねえよ。お前、そんなことが仮にあったとしても、話流れるわけねえだろ。人権侵害だぞ」
 慎吾がもっともらしいことを言うと、沙雪はおかしそうにころころと笑い、あんたも人間ねえ、としみじみ言った。
「ああ? 何言ってんだ、だからよ、そんな話ねえんだよ。その疑ってらっしゃる周りのヤツらに言っとけよ。いや俺が言う。出せ」
『バッカ、あたしから言っておくってば。これはいきすぎだしね。せっかく誉めてあげたっていうのに、物騒なこと言わないの』
「誰がバカだ、いつお前が俺を誉めた。いいからよ、マジじゃねえんだよそれは、分かったか。切るぞ、俺は忙しいんだ」
『待って、でもさ、赤城山には行ったんでしょ? 他のヤツらがね、赤城の人間から聞いたって言ってたんだけど』
「赤城の人間から」
『うん』
 ということは、と慎吾は考えた。中里の赤城山への来訪の話は、赤城から流れたわけだ。野村は脅しつけたし中里は忘れたがっていたし、慎吾も誰にも言ってはいない。話の見通しが、立った。社会の底辺の人間が集まりやすいナイトキッズは、様々なチームから忌避されている。無論レッドサンズの爽やか若者連中からもである。そこに降ってわいたあの中里の行動では、面白おかしくからかうなという方が無理というものだ。
 身内じゃなけりゃ俺でもやってるが、それにしたってバカバカしい、と思いながら、慎吾は沙雪に説明した。
「赤城山には行ったぜ、高橋涼介にも会った。俺もその現場にいた、それは本当だよ。事情があってな。でもよ、あいつは高橋涼介にコイなんざしちゃいねえし、告白もしちゃいねえしあっさりフラれてもいない。さっきも言ったがな、仮にそんなことがあったとしても、あいつにしろ高橋涼介にしろ他人に言うほどボンクラじゃねえだろ。リスクが大きすぎる。ちったあ考えろ」
 慎吾の非難も沙雪は余裕シャクシャクに笑ってかわした。益々苛立ったものの慎吾は最後の良心で、もう切るぞ、と一応宣言した。
『ああ待って待って、あたしもね、中里クンって言われてみればそのケもなくはないかなあとは思うのよ』
「そのケってお前、思うんじゃねえよ」
『人の話は最後まで聞きなさいって。思うんだけどさ、それで相手も高橋涼介でしょ、まあ凄いよ。もしかしたらとも思う。けどね、どっちも男なんだし、ただ中里クンが赤城行って高橋涼介に会っただけじゃ広まらないと思わない?』
 沙雪の声音が真剣になっていた。慎吾は潜めた声で、何が言いたい、と聞いた。
『だから、中里クンか高橋涼介が、そういう風に疑われるような行動、取ったんじゃないかって。ちょっとね』
 慎吾は目を閉じた。脳裏に、高橋涼介の写真を撮っている中里の姿が蘇った。斜め後方から見ていた慎吾にはその顔は見えなかったが、ただその背はピンと真っ直ぐ伸びており、全身の神経が研ぎ澄まされているようで、近づきがたかった。
 慎吾は目を開いた。
「それは、ねえよ」
 淡々と告げると、そ、と沙雪はやけに素直に引き下がり、少し間を置いてから再びからかいの調子で、でも、と言ってきた。
『あんたも中里クンのことになるとムキになるのねえ。美しきかな友情、ってところ?』
「切るぞ」
 慎吾は沙雪の了承を聞かず、なげやりに通話を終えた。途端吹き上げた夜風に身を震わせ、脱力感から店の外壁にもたれかかり、小さく呟いた。
「ありえねえ」
 それは周囲のざわめきに吸い込まれ、瞬時に消えた。
 赤城から話が流れたとして、今碓氷にきた。ということは既に妙義で話が広まっていてもおかしくはない。慎吾はチームの仲間たちを思い出した。毎日刺激を求めている獣のような男たち。面白そうなことがあれば倫理も何もほっぽり出して飛びついていく。そしてこれは、半ば生々しさがあるものの、無責任な想像をしてあざ笑うには打ってつけの事態である。中里一人ではとても対処はできないだろう。
 にわかに心もとなくなった慎吾は、急いで店に戻り用事ができたと告げ、送迎役のため払わなかった代金を心細い財布から何とかひねり出し、自宅へと足早に駆けて行った。
 事態の把握もしたかったが、何よりも、高橋涼介の写真を撮っていた中里の姿が頭から離れなかった。

 峠は恐ろしい静けさに満ちており、奇妙だった。チームのメンバーも、一般の走り屋も確かにいる。車の爆音も遠くに響いている。そのくせ奇妙に静かだった。
 そんな場で、遠目に中里と黒のGT-Rだけが周囲から切り取られたように浮いていた。
 こりゃ話がきているな、とあからさまな空気に呆れながら、慎吾は車から降りた。その足を中里に向けると、なにやら期待感のこもった視線を注がれ、面倒ながらも逐一ガンを返した。
 黒のズボンにベージュのスウェードのジャケットを着た中里は、車のボンネットに寄りかかったまま、腕を組んで地面を睨みつけていた。相変わらず地味な格好をすると年齢不詳になる男だった。
 目を細め眉根を寄せ、口を引き結んで思索にふけっているような中里は、慎吾が来たことにも気付かずに、ゆっくりと近づいた慎吾がその前面に立ってもみてもしばらく気付かなかった。慎吾は声をかけずに待った。
 飽きたように地面から視線を上げた中里はようやく眼前の慎吾に気付き、うお、と思い切りのけぞった。
「何だ慎吾か、遅かったな」
「用事があったからな。そんな驚くなよ」
「いきなり前に出てこられたら誰だって驚くだろ」
「いきなりじゃない、さっきからだ」
「なら声くらいかけろ」
「かける前に気付くのがいつもだろ」
 慎吾が意見すると、中里は具合が悪そうに腕を組み直し、考え事をしてたんだ、と渋い顔をした。そうか、と慎吾は同調するように渋い顔をして頷いた。
「お前もいよいよチームをしりぞこうっていうのか。突然だがそれなら仕方ねえ。盛者必衰は世のことわりだ、喜んでやる」
「何言ってんだお前は」
 中里の思索の内容を労せず聞き出すために慎吾が反論を期待して言い立てると、案の定中里はすぐさま言い返してきた。
「まだ俺はさがらねえよ、バカを言うな。高橋涼介が来ただけだ」
「高橋涼介? 謝りにでも来たか」
 中里はぎょっとしたように目を見開き、何で知ってんだ、と驚いた。当たったのか、と当てずっぽうで言った慎吾も驚き、知ってたわけじゃねえけどよ、と首を振った。
「まさかとは思ったが、そうか」
「どういうことだ」
 不可解そうな中里に説明しようとし、慎吾は中里のデマを聞いた相手が沙雪であることを言うべきか言わざるべきかを一瞬考えた。沙雪の名を出せば中里が要らぬ反応を起こすことは目に見えている。揶揄する分には楽しいだろう。だが無駄に混乱させてキレて走られて崖にまっ逆さま、というのも好ましくない。今は伏せるべきだ。
「お前が高橋涼介に惚れてコクってアッサリフラれたって話、聞いたんだよ。知り合いからな」
「うわ、言うな、身の毛がよだつ」
 中里は二の腕を抱えて顔を青くした。そのリアクションの強さを意外に思いながらも、慎吾は説明を続けた。
「まあ、それでそのお前の身の毛がよだつ話? を、知り合いの知り合いが赤城のヤツから聞いたってんでな。ってことはお前が赤城行ったって話は、あっちから流れたってことだろ。野村は脅しつけたしお前は言うわけねえし、俺も言ってねえし、あっちのヤツらは俺らみてえの嫌ってるしな。十分考えられる。それで高橋涼介が来たってんだから、まさかそこまで暇とも思えねえけど、脚色された話が流れたことをわざわざ謝りに来たんじゃねえかと」
 しかしそうだってんなら律儀なヤツだ、と慎吾は感心した。トラブルの火種を自らの手で消し回るとは、上に立つ者としては歓迎できる。
「……律儀っつーか何つーか、微妙なんだが、しかしお前、よくそこまで考えられるな。俺はてっきり記憶にないだけで、自分で言っちまったんじゃねえかと焦ったぜ」
「そりゃ焦りすぎろ。まあ、俺にとっちゃ所詮、他人事だからな」
 感心しているような呆れているような中里に、慎吾はそう言って肩をすくめた。当事者となっていたら話は別だ。中里のように混乱しても仕方はない。
 混乱?
 慎吾は不意に、その言葉と現在の中里の様子とに矛盾を感じた。今の中里は漠然と戸惑っているのではなく、何か一つの物事を決めかねているように見える。
「けどよ、それなら円満解決だろ。何をお前が悩む必要がある」
 慎吾が指摘すると、中里は顔をしかめ頬を撫で、うなった。
「悩んでる、というかちょっとこれでいいのか自信がねえだけなんだが」
「何だよ」
 数拍置いてため息を吐いた中里は、ダメだ、とゆっくりと首を振った。
「こりゃあいくらお前にでも言っちまったら、それこそあいつにプライバシーの侵害で訴えられちまう。俺の首が飛ぶ」
「はあ?」
「いや、まあしかしだ。チームには関係ねえんだよ。個人的な話でな、俺とあの野郎の。お前は気にするな、どうなるわけでもない話だ。どうせあいつだって暇じゃねえ」
 一体高橋涼介は何をやったんだと慎吾は訝ったが、さほど深刻でもない中里の様子に自分が入り込むことの野暮を感じ、言われた通り気にしないようにしようとして、中里の堅固な背中を思い出した。
『中里クンか高橋涼介が、そういう風に疑われるような行動、取ったんじゃないかって』
 同時に沙雪の甲高くも低い声が、鮮明に耳に浮かんだ。慎吾は卒然不安になった。
 疑いは果たして、疑いに過ぎないのだろうか?
「毅」
 呼ぶと、中里は疲れたように肩を落としたまま、何だ、と慎吾を上目で見た。
「念のために聞くけどよ」
「ああ」
「お前は高橋涼介に、惚れちゃいないんだろ」
 開口一番バカとでも言われるだろうと慎吾は予想していたが、まず中里は困ったように顔をしかめた。慎吾は肩透かしを食らうと同時に、まさかそうなのかと肩の裏に寒気を覚えた。
 あのよ、と神経質そうにこめかみを掻いた中里は、力強く曲げられた口を開いた。
「俺は別に、あの野郎は嫌いじゃねえよ。苦手ではあるがな。でも、そりゃあ考えられねえぜ。一応良い機会だから、さっきちゃんと顔見て確認してみたんだが、全然まったくサッパリ何にも感じなかった。どうやったらあれでどうにかできるってんだ、俺が教えて欲しいくらいだよ」
「でもお前、見蕩れてたじゃねえか」
 慎吾は胸に粘りつく疑問を晴らすため、率直に聞いた。中里は生霊でも見るかのように慎吾を見た。
「何言ってやがんだ、お前」
「高橋涼介に。写真撮ってる時、見蕩れてたぜ。あれは」
「そりゃあ」
 中里は口を「あ」という形に開いたまま、視線を周囲にうろつかせ、しばらく何も言わなかった。その間、慎吾の心臓はよく働いたが、生きた心地はまるでしなかった。
 腕を組み直し首をひねった中里は、一つ一つを確かめるように言葉を続けた。
「あれは、魅力はあるだろ。人を引き込む力ってのか、見てると頭がおかしくなってきそうな、それこそカリスマ的なオーラが発されている。実際まあ顔も良い。見ててもあんまり飽きもしねえ。けど見とれてるってのはねえだろ。それは違う」
「どう違う」
「どうって、ニュアンスだ。感心しているとか、見入ってるとか、他に言い方あるじゃねえか。見とれてるってのは、こう、惚れてるようなニュアンスがあるだろ。それはないから、違うっつってんだ。それはねえよ」
「俺が感じたのは違わねえよ」
 慎吾は一も二もなく中里の言い分を否定した。中里は顔に険を走らせた。
「お前が感じたって、知らねえよそんなの。普通で考えろ。違うもんは違うんだ、俺はあいつを好きなんかじゃねえ」
「そういうんじゃなくてよ、だから俺だって知らねえよ、お前がそういうニュアンスってので取るなんて。ただ俺は間違いなくそう感じただけだ。あれは感心だの見入ってるだのとは違う。あの場にいたヤツらだって俺の言うことは分かるはずだぜ、それこそ高橋啓介だってな。決定的だったんだ、あれは」
 お前、と中里は泣きそうに声を荒げた。
「勝手に決定的にしてんじゃねえよ、お前、慎吾、だから」
 中里はこめかみを掻きむしり、クソ、と吐いて、こめかみを掻いた手で苛立たしげに自分の腰を叩き、慎吾を見据えた。
「見とれてる、それを百歩譲って認めるにしたってな、お前、俺はだからあいつを好きになんかなってねえんだよ。俺はあいつ見たって何も感じないんだよ、どうにもできねえんだ。それでどうしろってんだよ。大体、いいか慎吾、俺があいつを好きになるってことは、俺があいつのケツ狙うってことだぞ。俺があいつ想像してマスかくってことだぞ。いいのかよそれで、お前は、俺は良かねえよ、クソ、ああ気持ち悪くて仕方がねえ。何なんだお前らそろいもそろって、俺を公然わいせつ罪にしてえのか」
 語尾を小さくし、中里は頭を抱えた。どういう経緯を辿れば公然わいせつ罪となるかは不明であったが、中里が慎吾の意図を理解していないことは明瞭だった。慎吾は苛立ちを覚えながらも、できうる限り冷静に言葉を吐いた。
「俺はお前が高橋涼介を好きだとかそうじゃねえとか、それを問題にしてるんじゃねえよ。いやそれも問題だが、お前、毅、自分の態度も分かってねえくせに、そうやっていいとか悪いとか言ってんじゃねえ。それはいい悪いじゃなくて、まずあるのはやりたいかやりたくねえかだろ。やるやらねえとかやったらどうなるとかじゃなくて、まずお前がやりたいかやりたくねえかだよ。お前が高橋涼介のケツ狙おうがあいつ想像してセンズリかこうが、まずはお前の自由なんだよ。だからな、いい悪い前提にしてやれるかどうかってことから逃げてんじゃねえや」
「じゃあ何か慎吾、俺があいつを襲ってもいいってのかお前は、俺が犯罪者になってもいいのかよ」
「飛躍してんじゃねえよ、お前人の話聞いてろ。それは後の話だろ、まず最初の話はだから、お前がどうなのかってことだ」
「何度も言ってんだろうが、俺はやりたかねえ、やる気も起きねえ。俺があいつを押し倒してキスしてひん剥いてしまいに突っ込む、ぐおお、ムリだ、俺にはムリだ」
 想像力を豊かにしている中里に、慎吾はもう互いの認識を共通させることは不可能であると思い知らされた。過去にも何度か認識の食い違いから発展したいさかいがあるが、いさかいが終わって久しい今となってもその食い違いは改善されていない。一度平行線を辿った議論を交差させることは、中里と慎吾の間では無理難題であった。
 慎吾はもうどうでもよくなった。やはり言われた通り気にするべきではなく、手を出すべきでもなかったのだ。果てしない後悔と疲労の中にうずまりながら、慎吾はせめて会話を穏便に終わらせるために、問題のない方向へ逸らすことにした。
「お前、バカの一つ覚えみてえに襲う襲う言ってるけどよ、襲うにしたってお前があいつにカマ掘らせるって選択肢もあるだろうが」
 そして逸らした方向は、いささか間違っていた。長い沈黙が訪れた。
「……まあ、そういう考えも」
 中里は頷きかけ、素早く慎吾の胸倉を掴むと、あるわけねえだろ、と引きつった笑いを浮かべながら静かに宣告した。自分が珍しい過失を犯したことにも、その過失の内容にも青ざめた慎吾は、いやだが、と既に言ってしまった手前の妙な意地で抵抗した。
「体格差を考えると、そっちの方が妥当じゃねえか。肉はお前の方があるが、背はあっちの方がある」
 中里は再び長い沈黙を作り、まあそういう考えも、と再び頷きかけ、
「だからあるわけねえだろうがッ」
 と、至近距離で凄んできた。
 怒らせはしたものの、元の話から注意は逸らされている。結果オーライか、と無理矢理プラスに考えた慎吾は、悪い、と中里の怒りを静めるべく、素直に謝った。
「今のは冗談になってねえ。俺としたことがウカツだった。しかし、お前の考えはよく分かったよ。俺が無駄な口出ししちまったな。悪かった」
 慎吾のそれまでと比べれば低姿勢な謝罪を受け、中里は虚を突かれたような顔をし、慎吾の胸倉から手を離すと、もどかしそうに首をすくめた。
「いや、分かった、別にそりゃあいい。俺も言いすぎ……ちゃあいねえが、まあ、お前が来た方が都合は良かった」
「本当かよ」
 慎吾は思わず尋ねた。今さっきを振り返るに、言い争いしかしていない。
 だが中里は気にした様子もなく、ああ、とあっさり頷いた。
「スッキリしたぜ。考えたって仕方もねえこと考えてたみてえだ。くだらねえ。それに気付けただけで十分だよ。欲を言やあ、もっと早いかもっと遅けりゃ、もっと良かったけどな」
 中里はそう言って一息吐くと、ボンネットから腰を上げ、走るか、と呟いた。慎吾は二秒置いてから、事故るなよ、と軽く言った。
「誰に言ってんだ。お前はどうする」
「後でやる。行くならさっさと行けよ」
「言われなくたってな」
 運転席へ足を進めかけた中里は、慎吾に振り向いて、そうだ、と言った。
「右手、出してくれ」
 小銭でも貰えるのかと、慎吾は素直に右手を出した。その手を中里が右手で握った。中里の手は妙にべたついていた。つないだ手をじっと見ていた中里は、慎吾が何やってんだと聞く前にその手を離し、なるほどな、と頷いた。
「何がなるほどだ、何で握手になってんだよ。金くれるんじゃねえのか」
「ナニ、俺がお前に小遣いやるわけねえだろ」
「ケチなヤツだな」
「ケチで結構」
 中里は言い切ると、運転席のドアを開けかくかくとした動きで乗り込んだ。慎吾はそれを見送らずに自分の車へ歩んで行った。後ろで特有の音がし、軽く流すのだろうということが予想された。音が遠ざかったところで慎吾は振り向いた。そこには余韻も何もありはしなかった。
 先ほどまで中里が立っていた地面を見ながら、慎吾は結果的に中里と握手を交わした右手を見た。べたついていた中里の手は、それでも意外に冷えていた。
 ズボンで手をしっかりと拭い、一服してから走ろうと煙草を取り出しながら、これは成功と言えるんだろうな、と慎吾は考えた。
 一週間前、中里が赤城に行き高橋涼介を意識することによって、高橋啓介への劣等感と赤城への畏怖を忘れることになるのではないか、と慎吾は算段したのである。
 先ほどの中里との会話から察するに、中里には高橋涼介への苦手意識が新たに生まれているようでもあったが、それは走りには関わらないから問題ではない。重要なことは、中里の脳内において、赤城=高橋啓介から赤城=高橋涼介へ構造が変換されたことだ。高橋啓介への気後れはまだ根強いだろうが、小難しく意識していないだけで御の字だ。これで慎吾がこの先中里に柄ではない遠慮を感じ、赤城山に引け目を覚える必要はない。すべてはうまくいった。大成功も大成功、諸手を上げて喜べるはずだった。
 だが慎吾の胸には喜びよりもまず、不可解さが浮かんでいた。
 高橋涼介の妙義来訪も、中里の恋慕の否定も、どうも腑に落ちない。何か重大な誤差がある。だがそれが何かが分からない。情報が足りなかった。高橋涼介は確かに中里に何かをしたのだ。個人的な何かをし、中里はそれによって何かを悩んでいた。慎吾との会話によって悩みは吹っ切れたようだったが、中里は何を悩んでいたというのか。それらの何かが、まったくもって分からない。
 やはり、情報が絶対的に足りないのだ。
 関連する思念は何度も頭を過ぎるが、慎吾は考えることを放棄するために頭を一度大きく振った。中里は人生が懸かっているほどに深刻でもなかった。なら俺はあいつが頼ってくるまで手は出すべきじゃあない。互いの領域を保っていなければ、いつか互いの重みで互いが潰れることになる。惰性の関係にだけは慎吾は陥りたくはなかった。
 例えば慎吾が頼れば中里は慎吾のために尽力するだろうし、慎吾が何もかもかなぐり捨てて近づいても中里は拒みはしないだろう。だが多くは親密さが対等さを凌駕する。べったりとした脂と脂が触れ合うような付き合いも、慎吾には御免だった。
 本気で頼ってきた中里をいかなる時でも受け入れられる態勢を整える。慎吾は考えることを放棄しようとしながらも、それだけを、またそれだけは心に決めた。
 煙草を吸い終え地面に落としたところで、慌てた足音が聞こえ、間もなく目の前に紫のジャージに赤い長袖を着た野村が現れた。慎吾はその原色に目を痛めた。
「慎吾さん、毅さん、な、何だって」
 息を切らしている野村に慎吾は悠然と、何が、と聞いた。
「聞いてねえっすか、高橋涼介来たんすよ、それで、どうしたんすか。何だったんすか高橋、まさか、俺たちを大粛清とか」
「何言ってんだお前。そりゃ聞いたよ、高橋涼介が来たってことは」
「ど、ど、ど、どうしたんすか」
「……あの話、毅が高橋涼介にどうのこうのっての、あれの話の元があっちのヤツで、それで責任感じて謝りに来たんだと。よく知らねえが俺たちとは関係ねえ。お前が気にすることじゃねえよ、好きなように走ってろ」
 しつこい野村を煩わしく感じ、追っ払うがために慎吾は手早く説明して暗に「さっさと失せろ」と言ったのだが、野村はそれを額面通りの慰めと受け取り、相変わらず濃い顔を悲しげに歪めた。
「俺、やっぱまずかったんすかね。毅さんに頼んだのは。俺のせいっすか」
 今更後悔してんじゃねえわずらわしい、と思いながらも、何かを言われたらそれと同等、あるいは倍以上を言い返さずにはいられない性質を慎吾は持っていた。
「自意識過剰だぜ、野村。お前程度のヤツが影響及ぼすわけがねえだろうが。行動の責任だったら受けたあいつにあるんだしな」
「はあ、でも俺、毅さんにホモっぽいっつっちまったんすよ」
 慎吾は瞬間言葉を失った。沙雪もそのようなことは言っていたが、それはあくまで慎吾に対してあり、物言いも柔らかかった。これはあまりに直接的だ。呆れるよりもあまりの馬鹿らしさに感心してしまう。
「……まあ、そりゃあながち間違いでもねえから、気にするな」
「やっぱ慎吾さんも、そう思いますか」
 数秒だけ考え、今は思わねえな、と慎吾は言った。
 初めて見た時は明らかに体育会系で言動も暑苦しく、何かクスリでもやってるか妙な趣味でもあるんじゃねえかと疑ったものだが、近づいてみれば何てことはない、中里は常識も持っている一般人に過ぎなかった。しかしそれは近づかなければ分からないことであり、浅い付き合いでの誤解はやむを得なかった。しかもそれは中里の本質的な問題であるから改善のしようがない。
 哀れなヤツだと慎吾は寂しく思った。
「ショック受けてねえっすかね、毅さん。俺ゃ余計なことしちまったかな。ああやっぱダメ人間だ俺は」
 それでもまだ落胆している野村に慎吾はたまらない苛立ちを感じ、己を鑑みながら八つ当たり気味に言った。
「お前よ、責任感じてどうしようもねえならな、これネタにしてからかってくるヤツはいるだろうから、そういうヤツらに一切構うな。ウワサなんぞ時間が経ちゃすぐ忘れられちまうし、そういうヤツらは構えば構うほど面白がる。無視することがチームのためであいつのためだ。分かったらこれ以上ぐだぐだ言うな、うざってえ」
 野村は厳粛な表情になり、分かりました、と頷いた。その野村を見て、慎吾はふと思い出した。
「そういや首尾は聞いてなかったが、お前、女とうまくいったのか」
「え、そりゃもう、あれでそれでこうなって。見事に。いや凄かったっすよ、マジで」
 お前はまったく幸せだな、と慎吾は呆れた。哀れで悲惨な男の不幸は他人を幸せにするのかも知れない。
「はあ、もう幸せですよ。俺は。しかし毅さん、何で高橋涼介に写真撮られてたんすかね」
 慎吾は聞き間違えたのかと思い、写真? と聞き返したが、野村はそれを華麗に聞き逃した。
「やっぱ高橋涼介たるもの、他のチームのトップの顔写真まで収集してんですかね。自分の足で。すげえなあ」
 感嘆している野村に聞き返すまでもなく、慎吾は事態を理解した。
 高橋涼介が中里の写真を撮った。それだけの話だった。それだけの話であるのだ。
 何のためにという疑問はある。だが考えるべきではない。もう関わるべきではない。慎吾は己に言い聞かせた。高橋涼介が中里の写真を撮った、それだけだ。
「でも考えてみりゃ帰り際握手までしてたんすから、険悪なんてもんじゃねーっすよね。良かったっすよ、マジで。やっぱ高橋涼介は毅さんを嫌ってなかったんだ。ミキの目は確かだなあ、あ、ミキってその女っすよ」
 一人自分の世界に入り込んで話を続ける野村の言葉から、慎吾は中里のいささか冷えた右手の感触を思い起こした。握手をした。高橋涼介と中里は握手をした。そして中里は何事かを確かめるように慎吾の右手を握った。
 あいつは一体何をやろうとしたんだ?
 考えてしまったところで、しかし慎吾にはまったく考えが及ばなかった。必要な情報は足りないくせに、無駄な情報は多すぎた。
 慎吾はとうとう考えることを放棄しよう、と考えること自体を放棄した。
「いやホントミキはマジで可愛いんすよ、いや可愛いだけじゃなくて骨太っていうか」
 その間も野村はノロケ続けていた。慎吾は勝手に頭に浮かぶ多種の物事を漠然と捉え、ついに認め、野村を呼んだ。
「野村」
「こってりしているのにあっさりしているっつーかね」
「おい、野村」
「後味サッパリけれども美味し、って、え? はい、何すか?」
「やっぱりお前の責任だ」
「は」
 硬直した野村をその場に放り愛車へと足を進めながら、触らぬ神に祟りなしだ、と慎吾は思った。
 己の発言が中里に与えた影響を知らない今はまだ、懐は寒いながらも慎吾は平和であった。
(続く)

2004/07/27
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