曲解 2/2
自宅のガレージには、暗がりの中に白々としたFCがいつもと寸分違わぬ場所に停車されていた。高橋啓介はうそ臭くでかい家の前に立ち、カーテンが引かれている兄の部屋から光が漏れていることを確認すると、ブルーのダンガリーシャツに包まれた肩をほぐした。時刻は午前3時を回っていた。
下の人間の運転技術を隣で体感するのは久しぶりだった。以前は感じない些細なタイミングのずれが、強い違和感となって身を襲った。他人の車に気安く同乗できないことを悟った。同時に、己の成長を実感し自信を深めた。涼介の指導の核心が見えた。中途ではたまに疑問を持つそれも、結果はいつもオーライだ。啓介は涼介への信頼も深めた。
玄関に入り、靴を乱暴に脱ぎ捨てると、暗闇の中を手探りと長年培った勘で廊下を歩き、啓介は風呂場へ直行した。床の濡れ具合から、家族の誰かが近いうちに入ったことを知る。多分まだ起きているのだから、兄だろう。ということは4時くらいに寝て7時くらいに起きるはずだ、と涼介の生活リズムを想像しながら、俺たち兄弟は夜に強いな、と啓介は自慢になるかならないか怪しいことを素直に自慢に思った。シャワーをぞんざいに浴びて、適当に体を拭いて、下着とシャツとハーフパンツを身に付ける。暗い廊下を再度歩き、リビングに入ると台所へ向かって、冷蔵庫を開けた。ミネラルウォーターのペットボトルを片手に二階へと上がり、涼介の部屋の前まで来て、ノックもせずにドアを開けた。
てっきり部屋の左手側にある机で何事かしていると思われた涼介は、右手側にある黒いスチール製のベッドに、バスローブ姿の涼介が粛然と腰掛けていた。部屋は相変わらず整然としており、啓介は足を踏み入れるに躊躇したが、読めない微笑を浮かべた涼介に、おかえり、と優しい声をかけられ、それに促されるようにスリッパを毛並みの長い絨毯に沈め、後ろ手にドアを閉めた。
「ただいま」
「片岡はどうだった」
「ヘタだったな」
マンツーマン講習をしてやった相手だった。啓介が万感を込めて言うと、涼介は目を閉じてふっと笑った。
「あれでも以前はケンタと張り合うくらいだったんだ。あいつがヘタなんじゃない、お前がうまくなってるんだよ」
「でも俺ダメだわ、あいつらの隣に乗れねえよ、もう。怖いの何のって」
効果的なラインを外れて滑っていくタイヤの響きを思い出し、啓介は首をすくめた。あそこはギギッと曲げてズーッとやるべきなんだ、と片岡にした一連の己の説明に微塵の不適切さも感じず口を尖らす。
涼介はそんな啓介の様子に、ただ柔和な微笑を投げかけた。演技めいたほどに完成されていた笑みだった。
機嫌がいい? 仏頂面で出迎えられるだろうと考えていた啓介は、困惑した。
「なあ、中里が」
イチャモンつけてこなかったか、と聞こうとしたが、イチャモンをつけられてこの暖かい優雅さは出ないだろうと思え、「……と、何かあったのか」と言い直した。
「中里?」
涼介は驚いたように声を僅かに上げた。啓介は追及されるようなにおいを感じ、慌てて言葉を継いだ。
「妙義行ったんだろ。だからよ」
「なぜ」
「なぜって、何か、機嫌いいじゃん。行く前そんなんじゃなかったぜ。変だし」
「俺のどこが変だって」
「全部だよ」
言った直後、自分の言葉が涼介に吸収されたような覚束なさを啓介は感じた。何を言ったところで無駄かもしれない。そう諦めさせるような空気が、涼介の皮膚の上数cmにあるようだった。
涼介はその空気を崩すように、挑戦的に笑った。
「お前、俺が変人だって言いたいのか」
啓介は畏怖にも似た強い罪悪感を得て、狼狽した。
「そん、そんなことじゃねえよ。ただ気になったんだ。今、色々面倒じゃねえか、県外遠征のほら、な。準備とか。それで、だから、アニキも疲れてんのかと」
何だ何だ、と涼介は呆れたような、そのくせ慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「質問の意図がずれてるぞ。お前が聞きたいのは、妙義山で俺が中里と何かあったのか、ってことじゃないのか」
啓介は言葉の代わりに、猛然と首を縦に振って答えた。涼介は額にかかっている前髪を軽くかきあげ、じゃあ、と言った。
「お前、仮に俺と中里の間に何かあったとして、それを聞いてどうしたい」
「事と次第によっては、あいつをこらしめねえと」
「……お前はあいつが何をやったと考えているんだ」
素朴に涼介が聞いてきた。
「いや、だからさ、あいつが法外なマネしてきたんじゃねえかと。金払えとか土下座しろとか、えー、殴らせろとか」
「つまり中里が何らかの形で、俺に危害を加えたと」
だってやりそうじゃねえか、と啓介がキッパリと言うと、涼介は4℃ほど首を傾げた。
「お前の中里像ってのが気になるところだが、あれはそこまで常に余裕のある男じゃないぜ。だから発展途上の藤原にも負けたし、お前にも負けたんだ」
バトルの結果も結果として当然に語る涼介に、啓介は安堵した。涼介は中里を特別視してはいない。涼介は中里にこだわってなどいない。この機嫌の良さはきっと、中里とは関係がない。
啓介はそう思えただけで満足してしまい、まあそうか、と納得し、会話は終結した。
半分以上残っているペットボトルを手でもてあそびつつ、啓介は目的も達成したために部屋から出る最後、それでも涼介の様子が気になり、窺った。涼介も啓介を窺っていたのか、丁度目が合った。啓介は己の意を見透かされたように後ろめたくなり、涼介から逃げるためにさっと部屋を見回して、机上にある緑色の物体に救いを見つけた。
「何だ、使うんだったら言ってくれりゃ返したのに」
「何?」
「カメラ」
啓介は机に目を固定したまま言った。ああ、と涼介は単調な声で答えた。
「忘れてたな」
「何だよ。忘れんなよ、元はアニキのだろ」
啓介が珍しい涼介の凡ミスに笑うと、涼介も参ったとでも言うように、笑った。その顔は整っていた。つまらないミスをするとは思えないほどに整っていた。
ウソじゃねえか、と直感的に啓介は疑った。
「何も、なあ、なかったのか。本当に」
何がウソなのか、何のためのウソなのか詳しくはまったく思いつかなかったため、そのものずばりを聞けず、だが何かを聞かずにはいられずに、啓介は先ほどの問いを繰り返した。
本来の目的を聞けずにいるやましさを隠して立ちすくむ啓介を見て、涼介はゆったりと笑った。
「お前、そんなに中里が気になるか」
いやらしい口調だった。からかわれている。啓介は恥を感じ、再びうろたえた。
「やめてくれよ、俺はあいつが気になるんじゃなくてアニキが気になるんだよ。アニキがだ。アニキが関わってなけりゃあんな奴、死のうが生きようがどうだっていいさ」
空気が死に絶えたような沈黙がやってきた。啓介は言いすぎたことを悟った。他人の死や生を軽々しく口にしたことを、涼介は軽蔑したに違いない。我慢ならない恥ずかしさに駆られ、啓介は焼け石に水なれど、「例えだぜ、今のは」と付け加えた。そして涼介は大変に取り乱している啓介に向けて、あざ笑うように唇を横に伸ばした。
「啓介、さっきからお前は俺を窺ってばかりだな」
啓介の中で、自己嫌悪による恥辱より、人をあざけるような涼介の言いぶりに対する不満がまさった。
「だって今日のアニキは、おかしいんだよ。だから俺だって気になるんだ。どうしたのかって思うじゃねえかよ、俺は」
アニキの弟なんだぜ、と矢継ぎ早に続ける。疑う要素のないその性格が、今では非常に頼りなく感ぜられ、啓介は認めてほしくてそれを言っていた。
「俺のことは気にするなよ。お前が心配するような部類の事態は何もなかったんだ」
だが涼介はそれには触れなかった。兄弟であることを今更取り立てる必要もないと思ったのかもしれないが、啓介は己の主張を無視されたことに、八つ当たりのような怒りを湧かせてしまった。
「勝手に決めんなよ、俺がアニキを心配するかどうかは、俺が決めることじゃねえか」
涼介は啓介に横顔を見せると、一つ鼻から息を吐き出し、突然すくりと立ち上がった。関節の駆動を感じさせない滑らかな動きをすると、啓介の目の前まで歩いてきて、啓介の顔越しに、後ろのドアに右手をつき、僅かに啓介を見下ろすような位置を取った。啓介はドアに追い詰められた。逃げられるような状況ではなかった。啓介、と涼介の乾いた息が啓介の額にかかった。
「俺が、お前のことで、お前のためにならないことを言ったことが、今まで一度でもあったか」
一句一句を丁寧に、涼介は噛んで含めるように言った。啓介は先までの輪郭の曖昧な怒りではなく、完全にそれと認識できる怒りを覚えた。今涼介は、自分を見下している。
「それは、思いつかねえけど」
そういう言い方はないだろ、と続けようとした啓介の先手を、なら、と涼介が奪った。
「俺の言うことを聞くことが、お前のためでも俺のためでもあると、理解できるだろう」
涼介にしては珍しく、啓介の意思を無視した方法だった。涼介はその時慌てていただけなのかもしれない。だが啓介にとっては、涼介が啓介を無視したことが重大だった。啓介は息が詰まり言葉を出せず、手にしていたペットボトルを投げ捨てると、涼介のバスローブの襟元を引っ掴んだ。その行動によって硬くなっていた肉体が自由を取り戻し、啓介はやっと言葉を出した。
「バカにすんじゃねえよ」
涼介は虚を突かれたように眉毛を上げた。
「してねえよ」
「してるだろ」
「俺は、お前は俺より賢いと思っているぜ」
内部から体を突き動かしてくる力に啓介は流された。涼介の襟元を両手で掴み取ると、位置を逆転させドアに押し付けた。ガラスの動く危うい音が鳴った。
「そういうところがッ、バカにしてるっつってんだよ」
眉を寄せ目を細めた涼介は、無感情ではないことの象徴である僅かに震える唇を開いた。
「被害者意識が強いな。もっと冷静になれよ」
「ふざけんじゃねえ、いつもいつもいつもいつもそうやって一人だけしれっとした顔して、結局俺のことなんてどうだっていいって思ってんだろ」
「思ってない。落ち着け。離せ」
「だったら何でウソつくんだよ」
明確な根拠はない啓介の口走りだったが、涼介は一瞬黙した。それは肯定を意味していた。だが涼介は表情に動揺を浮かせず、すらすらと言った。
「例え俺と中里との間に何かあったとしても、それが俺に個人的な影響しか及ぼさないのならば、お前には関係のないことだろう」
啓介はカメラのことを言ったのであって、中里とのことはほぼ忘れていたため、それは不意打ちだった。突然の部外者の立ち入りによって、啓介の不条理な怒りが煮えたぎった。
「なん、なにがあったんだ」
「そりゃ言えない。今はな」
「ならはじ、最初からそう言えばいいじゃねえかよ、何で、そんな見え透いたウソつくんだよ。俺が、分からないって思ったんだろ。それがバカにしてるってことじゃねえか」
「さっきから何度言わせるつもりだ」
ついに涼介は声を荒げた。
「バカにしてるんじゃねえよ、お前の勘の良さを一番理解しているのはこの俺だぜ。お前が余計なことに勘付くことは分かっていた。でも俺は追及されたところで言うつもりはない。それでこういう論争に発展することは知れたことだから、時間の浪費を避けるためだ」
涼介の言い分の方が筋は通っていたが、啓介の怒りの発祥は筋の通る通らないではなかったため、無意味だった。
「いつもと違うじゃねえか、そんなの」
啓介は泣きそうに喚いた。涼介は痰を吐き捨てるように怒鳴った。
「だったらいつもいつもいつも俺はッ、お前を傷つけないようにって赤ん坊扱うみたいにやってやらなけりゃいけねえってのか」
死にそうな衝撃が啓介の両腕に突き刺さり、そこから胃の底へと猛烈な速さで這っていった。足の先に突き抜ける頃には、両腕から力が抜けていた。自分がどれだけ丁重に扱われていたかを今更に知らされ、愕然とした。
啓介は震えそうになる体を必死でおさえ、唇を僅かに開き、悪い、と蚊のなくような声で言った。涼介は一瞬醜く顔を歪めたが、すぐに平常の整ったものへと戻し、ドア際の壁を拳で叩くと、啓介の横を熱のこもった空気をもって通り過ぎ、窓の前に向かった。
「お前が謝ることじゃない。俺が原因だ」
謝罪とも言えるその口調には、だが卑屈さなどどこにもなかった。中途半端に気を遣われるよりも、よほど啓介は救われた。
分かった、と震えを隠せぬ声で言い置いて、啓介は涼介の部屋から脱出した。急いで自分の部屋に向かい、電気を点け、床に散らばるものに足を取られながらベッドに倒れこんだ。やべえ、と口に出して、すぐさま起き上がり、ベッドの上にあぐらをかく。心臓が高鳴っている。冷えた汗が脇の下を濡らしている。
怒りは最早なかった。後悔だけで頭は占められている。うおおおおお、と低くうなって、啓介は後頭部を抱えた。
あれはどこからどう見ても自分の言いがかりだ。涼介はそれに感化されただけだ。無論涼介にも、涼介自身が言っていたように非はある。だが事の起こりは自分の癇癪によるものだ。やっちまった、啓介は悔しさに歯を噛み締める。
もう一度謝らなければいけない。強くそう思うが、今行ったところで、また癇癪を起こしそうな予感が啓介にはあった。ほどけない苛立ちが腹の底に凝り固まっている。
寝ちまおう、と考えても頭は冴えていた。先ほどの言い合いが嫌でも目の裏に浮かぶ。仕方がないので啓介は、とことん考えることにした。
何で、アニキはウソをついたんだ。
啓介はカメラのことを言ったつもりだった。涼介が中里に写真を撮られた翌日、啓介に譲り渡してきた、父親譲りの一眼レフ。ものの本や書類、パソコンが雑然と置かれている机の上で、強調されるように置かれていたインスタントカメラとの質は、比べるまでもない。
『こんな大層なもんで撮ったって仕方がない』
かすかに記憶に残っている涼介のセリフだった。ああそうだ、と啓介は枕に顔を埋めながら思い起こす。そういえばあの時涼介は、何かを撮りたがっているようだった。そしてその何かを撮るためには、あの大層なカメラでは不適格だったんだろう。とするならば、涼介は忘れてなどいないはずだ。最初から大層なカメラが選択肢になかったのだ。それを隠そうとしたのはなぜだろう。そもそも涼介は何を撮ろうとしているんだ?
啓介は深く目を閉じたまま、いや、と呟いた。
これから撮るんじゃなくて、もう撮ったんじゃないか?
仕返し、という言葉が頭に浮かんだ。同時に、安っぽいカメラを持って現れた、年齢不詳の格好をした暑苦しい男も浮かんだ。
あいつか?
考え即座に、ありえねえ、と啓介は寝返りを打った。意趣返しもありうるが、涼介があの男に執着するとは啓介にはとても思えなかった。中里毅。ホームで啓介に最後の最後、総合的な詰めの甘さで負けた男。啓介に負けた男だ。啓介すらをあっさりとかわしていった藤原拓海、また赤城において涼介を苦しめた須藤京一ならば、涼介の関心を惹くことは分かる。だが中里に涼介の意識を向けさせるような要素があるとは、啓介にはやはりとても思えなかった。
啓介にとって中里は、死のうとも生きようとも実生活とは関わりのない男である。実際死ねば衝撃は受けるだろうが、それは知り合いの死が己の死を想起させるからであり、あの男限定ではなく、あの男と同列の誰が死んでもへこむだろうという話だった。
啓介にとってはそのレベルであったから、死のうが生きようがどうでもいい、と言ったのだ。その時の空気の冷ややかさといったらなかった。あれは、涼介が他人の生死を容易く口にする啓介を軽蔑したための沈黙かと思われたが、もしかすると、他人ではなく中里の生死を軽々しく口にしたせいなのか。ありえねえ、と思う。思うのだが、もうそろそろ認めなければならなかった。涼介の今日のおかしな態度。妙義に行ってからの変貌。そして啓介の疑念に対する回答。中里と何かあったのだという回答と、それを隠すためにウソを吐いたという回答。すべては涼介が中里に曇りもない無関心ではないことを示している。
涼介は単に、中里に関して不条理な噂が流れた原因を謝罪に行くだけだったはずだ。なら、と仰向けになった啓介は、遠ざかりそうになる意識の中考える。中里が、涼介に何かをしたのだ。それも涼介を慌てさせるような、何かを。不当な脅しではない何かを。それは何だ。何なんだ。一体全体何だというのだ。
そこまで考えて啓介は、頭が沈む枕と背中に当たるシーツの温もりに、あっさり眠りに誘われた。
(続く)
2004/08/28
トップへ 1 2 > 四日目