四日目 1/2
顔が整いすぎているのも問題なのかもしれないな、と男は思う。
なぜなら男の目の前の席にゆったりと座ったその青年の所作は、利便性よりもデザイン性を重視した鋭角的な店内の秀麗さもあいまって映画のワンシーンのような、という陳腐な例えも新鮮に聞こえるほどの気高さを持っていたが、各部の均整が取れている彫りの深い顔の中、充血した目、その下のクマ、青白く削げた頬に生えかけの薄いヒゲ、セットし損ねているぼさぼさの髪という組み合わせは、よく見れば幽鬼を思わせたからだ。黒づくめの服装も青年の貧弱感を重厚さによって打ち消すものの、人外じみた雰囲気を煽る手伝いにもなっていた。
だが青年が店内に入ってきた際、青年に対応したウェイトレスの笑顔が男の対応時と質が違ったことは、遠目からでも明らかであった。
やっぱ世の中顔だよなあ。同年代の人間から控え目な表現として老け顔と呼ばれて久しい男は、つくづくそう思う。が、同時に不健康さが洒落になっていない青年を見て、あんま整いすぎても崩れた時がヤバイよな、とも思うのだった。
「待たせたか」
「いや、まったく」
青年の到着は待ち合わせ時間を数秒過ぎただけだった。男と青年の仲では適切な到着時間だ。
そうか、と青年は軽く頷き足を組んで、腰がまったく休まらない椅子の背もたれに背を寄せると、深く息を吐いた。
青年が疲れていることは明らかであったから、会話のきっかけとして男は、調子はどうだ、と男にとっては分かりきっていたことを聞いた。
「いいね」
「え?」
右の人差し指と親指で両の目頭をもみながらの青年の答えは、煩忙さに追われ神経を尖らせているのだろうと考えていた男を意外さで打った。青年は生えかけている薄いヒゲを不快そうに撫ぜながら、細めた目で男を見た。
「その疑問符は何だ」
「いや、悪いのかとな」
「思考は明晰、眠気もない。血も循環している。調子はいいよ、抜群だ。これで悪いと言うなら最悪の時に俺は死ぬってことだぜ」
「そりゃすまん」
笑って形だけ謝りながら男は、そういえば、と思った。そういえばこの青年、高橋涼介は昔から外見と中身のギャップが強かった。健康的な色艶の顔であるのに高熱を出していたり、目が爛々としているのに眠気がひどかったり、とかく顔色という標識が信用ならない人物だった。己が弱い状態にいる時ほどそれを隠すために強くなろうとするのか、それは本能かと思えるほどの精巧な反応だっが、接する年月が長くなるほどに欠陥は見つけやすくなるものだ。男は付き合いだして二年目から本格的にそれを見抜く勘を身に付けていた。
ただ今回は悪いように見えて良いというヴァージョンだったため、察知できなかったのかもしれない。男はそんな風に結論づけた。
「謝ることじゃない。それで、先方の名誉は保たれたかい」
高橋涼介が顎に手を当てたまま、人を値踏みするような笑みを浮かべて聞いてきた。こういう時には相変わらずだな、とその露骨さに爽快感を得ながら、それまでの考えを捨てた男は負けじと自信に満ちた笑顔を見せてやった。
「高橋涼介の名を出せば群馬の走り屋がどうなるか、自分で分かってるんじゃないか」
「さて、どうなるんだろうな」
「まあ過剰な憧憬から従順になるか、コンプレックスから反逆に走るか、この二つが多いか」
「反逆されると困るだろう」
「困るんだよなあ。気持ちは分かるけど俺に言われたって、そりゃあ生まれついてのもんとか色々あるからな。恨むなら神様を恨んでくれってもんさ」
「それくらいなら誰でもできるか。ひどい考えをするな」
「俺がかよ」
男が苦笑すると、史浩、と男の名を呼んだ涼介が、くたびれた顔の中で唯一潤っている唇の両端を緩やかにあげた。
「お前には頭が下がるよ。俺にはできないことを軽々とやってのけるその才能、重宝している」
「何だよ突然」
「感謝の意の表明だ」
「ならもうちょっと裏方に回してくれよ、俺もさ。こういう折衝はまあ嫌いじゃないけどさ、どうも連絡取る度相手に愚痴を言われると、胃に負担が」
「胃薬なら一生分処方してやるさ」
また調子の良いことを、と揶揄したところでウェイトレスがアイスコーヒーとココアとアップルパイとチーズケーキを運んできた。涼介は笑顔で受け取った。やはりウェイトレスの顔は史浩に対するよりも柔らかかった。これでもやっぱり俺よりゃいいんだな、と史浩は納得した。以後黙々と史浩はアイスコーヒーを飲み涼介はアップルパイを平らげた。しばらく静寂があった。涼介の眉間から力が抜けたように見えたところで、しかし、と史浩は話を転換させた。
「中里が出てくるとはなあ。何というかまあ、面白い話だったな」
「面白いか」
涼介が微笑を浮かべたまま言いチーズケーキに銀のフォークを入れた。史浩は素直に頷いた。
中里毅。妙義山で黒のR32スカイラインGT-Rを走らせている前時代的な顔の男であり、先日赤城山に突如現れ涼介に告白しあっさりフラれたといううわさを立てられた男であり、その男の名誉が先方の名誉だった。
「涼介の写真撮っただけで、どこの走り屋も中里がお前を好きだって信じてるんだぜ。俺はちょっとその分布率に驚いたよ」
「それは俺が絡んでいるからな」
冗談めかして涼介が言った。史浩は自分で言うかよ、と笑ってメニューに目を落とした。これも文字の見やすさより色彩バランス重視であったが、その分見飽きはしない。
「それにしたってな、色んな奴に電話したけど面白いもんだよ。『違うとは思っていた』って言うんだが、その後にな、『実はあれ、ホントなんじゃないのか』って続けてくる奴の多いことさ」
涼介は何も言わず、笑みを浮かべたまま呆れたように首を振った。史浩はメニューを検分しシュークリームでも頼めば良かったかな、と後悔しながら、まあ面白いよな、と確認するように再度言った。
涼介の弟たる啓介にも及ばない中里毅に群馬全域の走り屋に認められるだけの知名度があったことを、涼介からの噂の根絶依頼を受け行動し始めた当初、史浩は訝ったものだ。だがよく考えてみれば知名度の高さは実力に比例するとは限らないのである。何せ中里は、涼介に勝ち須藤京一とも引き分けた秋名のハチロクこと藤原拓海、群馬の走り屋で知らぬがいればもぐりとされるほど有名な高橋兄弟の弟である啓介、栃木のエンペラーの岩城清次と続けざまに負け、三連敗という記録を打ち立てていた。うち二回はクラッシュしている。なまじそれまで中里が活躍していたせいもあったからこそ敗北の印象は強かった。偉大な功績よりも下衆な醜聞が人々の記憶に残るのと同様の仕組みだ。先日箱根で同じR32を相手にバトルをして勝ったという新しい活躍も、一度広まった噂のためにかき消されている。
また噂は、『涼介が中里に告白された』ことよりも『中里が涼介に告白した』という部分に重きが置かれていた。早い話が中里が同性愛者であるという部分に、だ。他者の劣等感を煽るだけの走りと外見とブランドを備える涼介にではなく、同情が呼び起こされるほどの経過を辿っている中里に、俗な興味が注がれている。ここまできたらトコトン不幸でいてもらいたい、という第三者による野次馬的願望がそこには含まれているようにも思えた。
そして史浩は、そこまで踏んだり蹴ったりな目に遭いながらなおも妙義山でトップを張っている、あるいは張らされている、もしくは張らせてもらっている中里毅という男の存在を初めて身近に認識し、よくやるもんだなあ、と珍妙に思ったのだった。
「お前はどう思う」
チーズケーキも胃におさめた涼介が、ココアに口をつけながらついでのように軽く言った。己の感覚をたぐっていた史浩は咄嗟に問いの意味を捉えかね、どうって、と返した。
「実は、ホントなんじゃないか」
涼介は言って、唇を舐めた。そこだけ血の匂いがしそうな舌の動きを一瞬だけ目で追い、史浩は涼介と似たような軽さで、「そりゃ違うんだろ?」と言った。
「違うさ。だがもし俺が噂は事実だと言っていたら、お前は信じたのかとな」
「まあそれはな、当の本人が本当だって言うなら、信じる以外にないだろう」
「相手が違うと主張しても」
「その相手を俺はよく知らないからな」
「だから俺を信じると」
「理由としちゃ妥当だろ」
「疑いはしないのか」
「よほどトンチンカンな話だったらなあ。ちょっとは不思議に思うだろうな。でもお前は嘘がうまいから、その気になられれば俺なんて手も足も出ないで騙されるさ」
単なる言葉遊びだと思い変わらず軽く言うと、涼介の息が止まったような気配がした。史浩は涼介の口元から顔全体に焦点を合わせ、どうした、と反射的に聞いていた。涼介は均一ではない笑みを浮かべて、いや、と首を振った。
「そういうのも、寂しいもんだとな」
史浩はどきりとして涼介をじっと見てしまった。この男が理に感情を持ち込む場面に遭遇したのは久しぶりだった。それも悲観的な感情となると何年ぶりか。
何があったのか、という史浩の無遠慮な探りの目を真っ直ぐ受け止めていた涼介が、一つ笑って楽しそうに顔を崩し、陰鬱になりかけた空気を一瞬にして晴れやかなものにした。
「似合わないと思ってんだろ、俺が寂しいなんて感傷的なことを」
「そんなことは、まあ、あるけどな」
史浩はぎこちなく笑って、「でも何で?」と素朴に聞いた。さあ、と涼介は首を左に曲げ、右の首筋を伸ばした。
「調子はいいんだが、多少疲れてるのかもしれない。集中力が散漫になっているのか」
言いながら涼介は首を真っ直ぐに戻すと、それに、と続けた。
「些細なことで不愉快になったりもする。おかげで啓介と言い合っちまった」
言い合った? と驚き返すと、涼介は頷き、ガラス製のテーブルに左手をつき、右手で伝票を取って立ち上がった。
「今夜あたりお前に呼び出しがかかると思うんだよ。あいつは俺より短気で繊細だからな。何度も関わらせて悪いが相手を頼む」
「相手って」
「適当に流して安心させてくれりゃあいいさ。俺に矛先を向けさせたって構わない」
「お前、あいつに直接フォローしてないのか?」
驚きを残したまま聞くと、涼介は困ったように眉を下げ、肩をすくめ、「俺は嘘は下手なんだ」と言った。
嘘は下手?
史浩がその意を尋ねようとするのを制するように涼介は不健康な顔で楽しそうに笑うと、
「じゃあ達者でな」
と、心もとない足取りだが颯爽と呼ぶに相応しい振る舞いで店から去っていった。
その後姿をずっと目に残し、でも達者って言葉は合わねえなあ、と頬杖をつきながら史浩は思い、あいつはあの弟に嘘を吐いたんだろうか、と考えた。
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