誤解 2/2
「やあ」
音をほとんど連れずに現れた高橋涼介は、光を取り入れていない湿気た地下でろくに寝食せずに二日間ほどを過ごしたような空気を放っていた。手入れされていない髪も顔も黒づくめの衣装も、空気を格段によどませていた。だがその声は溢れるくどさと無関係に爽やかであったため、中里は体に入れた力をわずかに抜き、それでもなお身構えつつ、同じような爽やかさを心がけて、やあ、と返した。
涼介はドアを押し開いたままの体勢で、入るか、と聞いてきたが、ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、ここでいいと中里は答えた。話はすぐ終わるはずであり、秋の夜風も冷たいが肌が震えるほどではなかった。何より涼介の陣地に足を踏み入れることは、重火器の備わっている敵地に丸裸で飛び込んでいくような無謀さを思わせた。
一つ頷き外へ出て暗く重々しい木製のドアをしめると、涼介はそこに寄りかかり、さて、と言った。
「臨機応変、という言葉は俺も嫌いじゃない。枠にとらわれては創造性が欠けてしまう。しかし一度決めたことをそう簡単に変えても混乱の種になるだけだ。だから時間は守ろう。いいかな」
ああ、と中里は頷いた。残る時間は40分弱だが、守るも何もそれほど時間は必要ない。
「じゃあまず、写真を返しておくよ」
涼介は右手に持っていた二枚の写真を差し出してきた。中里は右手をポケットから出して受け取り、左手も出して二枚を持ち、ひとしきり眺めた。一枚には見飽きた自分が、そして一枚には見覚えのある構図の白いFCと涼介とが写っている。悪くはない。
「出来はどうだった」
写真に目を置いたまま聞くと、悪くはない、と涼介は答えた。その通りだ。どちらとも悪くはない。指も入っていないしピントも合っているし、人の体はきちんと写っている。記念にはなる。
「まあ、すげえ良くもないってところか」
「俺は良く撮ろうとはしなかったからな」
「俺は一応格好がつくようにはしたぜ」
「なら記念にはなるだろうよ、お前には」
眺めていた写真から涼介に目を戻し、俺には、と言いかけて、中里は言葉を粘ついた唾と一緒に喉に落とした。涼介は薄い背を丸めて腕を組み、中里の手を、その手のうちにある写真を見ていた。その表情は蝋人形のように均一で艶かしかった。圧倒的なものを感じ、中里はもう一度唾を飲み込んだ。その瞬間、喉の動く音が聞こえたかのように涼介が顔を上げたが、降りかかる玄関の照明に晒された顔は打って変わってみすぼらしく見え、中里は少しの裏切りと非現実感に襲われた。
「ネガは燃やしたんだ」
乾いた唇が滑らかに動き、それにともなって声がした。急なことにそのつながりを把握できず中里は意味を解しかねたが、口と喉が勝手に動き、「燃やした?」と聞いていた。涼介は光が多すぎるように目を細め、必要だったか、と言った。それは質問ではなく確認だった。中里が必要だと言う可能性は頭から考えられていないようであり、ようやく話を理解した中里は何様だと思いもしたが、実際考えてみるとネガの必要性はなかった。何かを捨てることに対する残念さはあっても、それはこれには限らないものだ。
結局、いや、と中里は緩く首を振って、自分が写っている分だけ左手でジャンパーのポケットにねじ込み、残りの一枚を持った右手を涼介に差し出した。涼介は軽く写真を見てから、中里を見た。
「俺には必要ない」
「写ってんのはお前だ」
「その俺が必要ないと言ってるんだ」
中里は溜めた息を吐いてから、涼介の姿をぺらぺらと音を立てて変形させながらおどかすように言った。
「俺はこりゃ引き受けねえぞ。何があってもな」
「俺もできれば自分の顔は燃やしたくないんだが」
涼介は顔を少しも変えずに言った。中里は涼介をじっと見たが、一向に変わる気配はなかった。捨てるにも、これ一枚きりだと思うとためらわれ、自分が撮ったものだと思うと更にためらわれた。中里は仕方なく差し出した腕を引っ込め、それを自分のものと同じようにポケットに入れた。涼介は満足したようにわずかに顔を緩めた。中里は舌を打った。涼介はそれを気にもせず、さて、とまた言った。
「用件を伺おうか」
中里は空いた右手の人差し指で髪の生え際を掻いて、周りを見た。右手には白い柱と白い壁があるだけだった。左手には柱の奥に、必要以上の外灯の光に、適度に刈られた芝とバランス良く配置された植木、それに本来の極彩色を潜めている花々が照らされていた。どれも鑑賞に値するだけの庭だったが、どれを見たところで精神に安らぎは訪れず、それどころか胃の底をくすぐられるような居心地の悪さがやってきた。この家はまったく自分が居るべき場所ではなかった。住む世界が違うという言葉は比喩ではない。さっさと局面を打開しなければ、自分の家に帰っても居るべき場所と思えなくなりそうだ。中里は覚悟を決め、一気に涼介に顔を戻した。涼介は首を右にわずかに傾けて、静かに中里を見ていた。中里は咳払いをしてから深く息を吸い込み、切れ切れに吐き出した。
「お前は、高橋、俺で抜けたってことだが」
涼介は早すぎも遅すぎもしない適切な間合いで、ああ、と頷いた。中里はもう一度咳払いをしたが、することによって痰が絡まり、本格的な咳が出た。それを押さえてもまだどう言おうかと迷っていたものの、それ以上咳を繰り返しているだけというわけにもいかず、それで、とかすれてしまった声で言った。
「どうするつもりだ」
「どうするとは」
首を傾けたまま涼介が意味を確認するように言った。中里は咳払いをしかけ、唾を飲むだけにとどめた。
「お前、前会った時言ってたろ、自分の性癖を確かめたいだの何だの。だから、それができたんだったら、もっとできるのかどうかってのを確かめるのか、ってことだよ」
声のかすれは落ち着き、中里はようやく普段の調子を取り戻して言い切った。涼介は左に顔を向け、しばらく瞬きと呼吸以外では微動しなかった。長い時間が経ったように思え、何があるのかと中里が左に顔を向けたところで、涼介が顔を戻し「おそらく」と言い、中里は慌てて顔を前方に戻した。
「お前はそれについて十分な想像をしているんだろう。そしてお前がよほどの妄想家じゃない限り、それは多少のずれを含んでいたとしてもおおよそ正しいに違いない。それを踏まえての質問の答えになるが、俺にそうするつもりはあるよ」
きた、と中里は外の空気にさらしている両手を握り締めた。俺にそうするつもりはないとここで言えばいいだけだ、と中里があわ立った唾を飲み込むと、けど、と涼介は言葉を続けてきた。
「それは俺にそのつもりがあったところで、お前にその気がなけりゃできることじゃない。そうだろう」
思わぬところで聞かれ、中里はぎくりとした。まさか涼介が正論を放ってくるとは考えておらず、うろたえたが、ああ、とともかく一旦同意した。涼介はそれに頷き、下唇の左端を少し舐めて、一息置いてから口を開いた。
「だからそれはお前次第となる。お前の意思が絶対的に尊重される形さ。俺は無理強いはしないよ。そんなことしたってスマートじゃないし、そこまでするほどのことでもない。俺は自分が根っからの完全な同性愛者じゃないって分かっただけで、まあいいと思ってるしな。できるならやるに越したことはないが、一人の人間を叩き潰してまでってほどじゃないんだ」
涼介はそこで一度唾を飲み込んだ。中里は内心ひどくうろたえていた。無理強いはしない? そこまでするほどのことでもない? 徹底的に強要されるのだと見てかかっていたために、中里のうろたえは激しかった。短い時間に集中して練った対策はいとも簡単に水泡と帰し、対応の仕方は失われた。
言葉が周囲に溶け込むのを待つように時間を置いてから、涼介は続けた。
「しかし、そうは言っても俺は、これがひどく悪い話ってわけでもないと思ってる。お前が協力してくれるんなら、俺は俺が受けた分のものをお前に提供するつもりだし、つまり、少なくともお前に何かを強要するだけの形にするつもりはないんだよ。一方的な関係は何も生まない。何かをやるなら俺は発展的なものにしたいからな、それが何であろうとさ。まあ簡単には認めがたいことだろうが」
涼介は中里から一度も目を逸らしていなかった。中里は涼介のその平面的な視線を真っ向から受け止めながらも、混乱のさなかにいた。手が汗ばんでいた。涼介はいまだ中里以外のものを見ないまま、じっくりと口を開き、しっかりと言葉を声にした。
「聞かれてないことまで言ったが、以上が俺の考えだ。お前には正直に選択をしてもらいたいから、俺も正直に選択を語ったつもりだよ。さて、次はこっちの質問だが、中里、お前はどうするつもりなんだ」
中里は握った手をゆっくりと開き、唾と息を飲み込んだ。愛車に抱えられていた時に身を貫いていた反感はなりを潜めていた。涼介の、こちらの一切合財を吸収するような柔らかな出方は、この男は悪辣であるという認識を潰していた。だがその認識の変化が、コトのやる気に好影響を与えることはない。悪影響を与えることもない。それらはまったくの別物なのだ。
もう一度唾を飲み込もうとしたが、飲み込むべき唾は少量しか出ておらず、気は落ち着かなかった。涼介はまだ目を逸らすことなく中里を見ている。自分の頬に細い針を数十本も突き刺されるような感覚を受け、中里は少し顔を右に向け、右手で顎から左頬を覆いながら、割れそうになっている唇を、そうは言われてもな、としっかりと動かした。
「確かにまあ、十分に想像はしているが、そんなことをだ、現実的にだぜ。現実的にどうするかなんて、考えられるわけがねえだろうが。断る」
「ならいいさ」
いいのか、と瞬時に中里が言うと、考えられないんならどうしようもない、と涼介は右の眉を上げ肩をすくめた。その掴み所のなさは違和感しかもたらさなかった。おかしい。あまりにこちらに有利な話だ。中里は手を顎と頬に当てたまま、高橋、と涼介を上目に睨みつけた。
「お前、それは、本気か?」
正確に一度、涼介が瞬きをした。計算されたような速度だった。それから眉間を多少強張らせ、不思議そうに中里を見た。
「妙なところで疑うな、お前は」
「アッサリしすぎだ、お前が俺のことを気にするとは思えねえが、こりゃお前のことだろ。お前が自分のことを簡単に譲るような骨無しかよ。裏があってもおかしかねえ」
声に出したことで中里は思いを強くした。そうだ、これは何かの陰謀だ。でなければおかしすぎる。だが涼介は首を肩に少し埋めると、子供の空想話を聞いたかのようにおかしそうに目を細め、くだらないとでも言う代わりのように喉で小さく笑った。本当なのか、と二の腕の裏に寒気を感じながら、中里は理由がなくなったため顎から手を外した。涼介は右手の小指で右の目頭をこすり、その手で髪をかきあげて、例えばだ、と言った。
「しつこく言い募れば、お前は協力する気になるか」
「いや、断る」
「だったら無意味だ。だからやらない。それでいいだろう、事態はそんな難しいことじゃない」
その通りだろう、と中里は思うことができた。事態はそれほど難しくはない。しかし傲慢な相手を正論でねじ伏せる、単純な英雄的事態を期待していた面もあったため、容易く引き下がられてはいきった体のやり場がなく、失望感が喉の周りに溜まった。そして、身の安全が守られて終わることは歓迎すべきだというのに、拭い切れぬ不可解さもあった。何でこいつはこんなに優しく出てるんだ? 中里の頭には過去、峠で出会った涼介の独尊的な態度が蘇っていた。あれこそが高橋涼介の真の姿であるはずだ。なら今俺の目の前にいるこいつは何だ。粘着質な情熱が、執着的な明晰さが欠片も見られない。その提案にある異常さは普段通りだが、対応は親切であり丁寧だ。これがあの高橋涼介か。中里は混乱の極みに達した。どう対すればいいんだ。
戸惑ったまま、何か涼介たる重要な条件が落ちてこないかと、中里は涼介から目を離せないでいた。涼介は左手首に巻かれたシンプルな腕時計に目を落とし、それから中里を見た。互いの視線はかち合うことなく相手に届いた。涼介は窺うように中里を見ていた。中里も似たように涼介を見ていた。これ以上に涼介の言を疑ってはいなかったが、涼介自体を疑っていた。不意に視線がかち合った。宙に形容できない衝撃が舞う幻覚が見え、その向こうで、涼介が未知のものに挑戦するように、大胆かつ繊細に笑った。中里の脳から背筋から足元まで、鈍い緊張が走った。涼介は目を閉じて軽く数回頷くと、オーケイ、と呟き、目を開いてドアから背を浮かし、組んだ腕を解き手をズボンのポケットに入れ、一歩中里に近寄り、中里が足を引かないことを確認するようにその体勢を動かさず、その関係性が不自然にならないだけのたっぷりの時間を費やしてから、唇を開き、下唇の合わせ目だけをしっかりと舐めて、息のような声を出した。
「協力しろよ」
中里は溜まっていた唾を咄嗟に飲み込んだ。何か言おうと思ったが口は開かなかった。唇が瞬間接着剤で合わせられてしまったようだった。冗談だ。中里は強く思った。涼介の目はごく平凡だ。これも冗談だ。そう確信しても、中里に涼介が今言った言葉を声を、今からなそうとしていることを、笑い飛ばせる自信は砂粒ほどもなかった。
涼介は一度地面に目を落とすと、首を右に傾け、斜めになった目で中里を見、一字一句正確に発音しながら続けた。
「裸になってひざまずいて俺のを咥えるんだ。その状況で俺が少しでもお前に興奮するようだったら、俺はお前とセックスしたいんだと解釈することも可能になる。それを一つ見極めたいんだよ。だから是非とも協力してもらいたい。なあ、考えてみろ。想像してみるんだ。俺はどこかの部屋で椅子に座っている。それは俺の部屋でもお前の部屋でもホテルの部屋でも何でもいい、壁があって屋根がついててドアがあって、窓があれば申し分はないがなくてもいい、そういうところであれば何でもいい。椅子にしたってベンチでも何でも座れるものだったら何でもいいんだが、便宜的に椅子としておこう。まあそれも背もたれがあるのでもいいしないのでもいいし、肘掛けがあるのでもないのでもいい。そりゃ自由だ。だがとりあえずぱっと思いついたので進めていけ。考えてみろ。俺は椅子に座っている。その前にお前が立つ。俺はお前に服を脱げと言う。お前はそれに従わざるを得ない。そうだな、その辺の理由付けは何でもいいよ。お前が俺に借金をしてるんでもいいし、俺が刃物を持ってるんでもいいし、拳銃を持ってるんでもいい。俺がお前の家庭か何かのスキャンダルを偶然握ったというんでもいい。とにかくお前は俺には抵抗できないんだ。俺の言うことには抵抗できない。だから素直に服を脱ぐしかない。それを俺は目を凝らして見ているんだ。お前は俺に見られてる。上着を脱ぐのも下着を脱ぐのも靴下を脱ぐのもすべて、少し手を動かすのでも足を動かすのでも。ためらいも何もかもだ。胸も腹も陰毛もペニスも足の爪までも。俺は目を逸らさずにお前を見ている。お前が全部脱ぎ終えてもなお見続ける。そして言うんだ」
そこで唾を飲み、中里の目の奥を覗き込むようにすると、涼介は急に右の口端を吊り上げて俯き、ズボンのポケットから右手を抜いて、何かを励ますように中里の肩に置いた。
「続けてもいいんだけどな、時間もある。だが外でするような話じゃない。やめとこう」
耳の後ろや首筋、背中、脇の下、手の平足の裏にどっと汗が浮いた。耳に触れる空気がやけに冷たく感じた。中里の肩を押すように手を離し、涼介は肩をドアにつけ、右眉を上げて笑った。
「そんな顔するなよ。ただの冗談だ」
中里は圧倒されていた。涼介の声は脳に直接響いていた。嫌な恥辱が肌を刺していた。
頭は煮え立っていたが、同時に残酷なほどに冷えていた。明確な敗北感が内臓をむしばんだ。声を掛けられている間、一瞬足りとも抵抗できる気がせず、それ以降でも何もかも跳ね返せたと思うことはできなかった。完全に、その存在に負けていた。自分の軟弱さが痛く感じられ、自己嫌悪と恥ずかしさと悔しさがないまぜとなって皮膚を焼いた。中里は涼介から目を逸らし、柱に右手をつけてわずかに体重を預け、唇を噛み、黒い感情の波が引くのを待った。涼介は何も言わなかった。しばらくして心臓の鼓動が目立たなくなってから目を前に戻すと、涼介は鬱陶しそうに眉根を寄せて中里を見ていた。中里は柱から手を離し、地面にしっかりと立ってから、張り付いていた唇を破り、口で存分に呼吸をして、大きく息を吸い込んだのち、俺は、と太い声を出した。
「お前が俺で、おっ勃つとこなんざ、何があっても見たかねえんだよ」
涼介は再び腕を組み、寒そうに背を丸めながら、薄く頷いた。
「まあ、普通はそうだろう」
「だから協力なんてもっての他だ。お前のために何かするってのも御免だ」
「分かってるさ」
涼介の平然とした声が自分を馬鹿にしているように感じられ、中里はたまらず右手の平で柱を叩いた。
「でも今俺はお前に口も挟めなかったんだよ。おかしいことは丸分かりだったのに、口を塞いででも止めるような気ィがこれっぽっちも起こらなかった。こりゃどういうことだ」
涼介は中里の手と柱を見てから、中里の顔に目を戻した。
「俺にお前のことは分からないが、ただあれが冗談だってのは間違いがない。それを本気にとらなければ、止める気が起きなくても当然だ」
「想像したんだぜ俺は。それで抵抗できなかった。俺はお前がどういう風に俺の体を貸せっつってきたって断る自信があったんだ、完全に押し通す自信があったんだよ。それなのにこれだ。何だ、つまり俺はお前に惚れてんのか?」
「俺に聞かれても分からないな」
中里は右手を拳にして柱を殴りつけた。手から肘、肘から肩へ痺れが走り、すぐに拳の痛みに変わり、その痛みが苛立ちを煽った。
「当たり前だ、何でてめえに俺のことが分かる」
そう凄むも、涼介は変わらず平然と中里の手と柱を観察するように見て、静かに言った。
「人の家を殴る時は、許可を取ってもらいたいもんだな」
殺意が閃光のように脳内に放たれ、閃光のように消え去った。一瞬にして爆発を済ませた頭は余韻を残しながらもぬるくなり、中里は柱の殴りつけた部分を殴った手で撫でてから、手を下ろした。言っていることはもっともだった。
その動作を見届けた涼介は、再び体の重心をドアから地面に移し、組んだ腕解いて、腕時計のベルトが見える左手で、中里の痛む右手を握手するように触り、硬い柱に打ちつけた骨を自然に親指でなぞった。その手の柔らかさと指の細やかさと温みが、どこに注意を置くべきかと思考をかき乱したが、ひとまず中里の目はその手に固定された。照明のおかげではっきりと陰影がついており、産毛が白く光っていた。影絵のような遠いものに見えたが、痛みの介在によって、その手の表面とその指が動くことによって受ける感触とを、中里は違和感なくつなげることができた。その白くぬるい手が涼介の手であることを、中里は確かに認識した。
涼介は骨をなぞったのちは動かなかった。中里は涼介へと目を上げた。涼介は何の感慨も顔に乗せずに手を見ていた。そしておよそ五秒の間隔で長く細いまつげを二回動かしてから、目玉をゆっくりと上げ、中里を見、いいか、と耳たぶが溶けそうな声で言った。
「お前が俺に惚れているかどうかなんてことは俺には分からない。それは俺が特別関知すべきことでもない。お前のことだ、お前が好きに決めればいいさ。だが、俺はお前のその決定の責任まで負うつもりはない。影響を与えた責任だったら取るぜ、けど俺は、お前の何もかもをおっ被ろうとはしない。俺は、自分が同情を受ける憐れな加害者になるつもりもないし、お前を慈愛に満ちた被害者にしてやるつもりもない。そうまでしてやる気はないと言っているんだ。これに何か不満があるか? それともお前は何か、俺の足元にひざまずいて性器をしゃぶって散々足蹴にされて、意思も尊厳も無関係に強姦されたいって言うのか?」
即座に中里は緩く握られていた右手を振って涼介の左手を払い落としたものの、適切な言葉を出すまではできなかった。答えを求めて喋っていたわけではなく、自分の思考を声にし言葉にすることで整理しようとしただけであり、このように徹底された決断を迫られることは想定していなかった。
それでも涼介の考えに不満はなく、足蹴にされる願望もないとすぐに答えは出たが、しかし中里は涼介の接近しすぎたあまり、己のベースに基づく尺度を見失い、それらの答えが本当に正しいかの自信をなくしていた。不満はない、妥当だと思う、それはいい。ただ、強姦されたくもない、何で俺がこいつに尺八してその上ヤられなきゃなんねえんだ、っつーかヤるとしたら俺じゃねえのかよ、そう思うも、もし今この場で涼介に冷静にそう命令されたなら、抗えないことも分かっていた。存在に負けているのだ。
ここじゃあダメだ、と中里は思った。ここでは自分の決定ができない。対等であることができない。一旦後退し、態勢を立て直してからだ。一つずつ着実に判別していき、間違いも揺らぎもない決定を下した上で、会わなければならない。
鼻で大きく呼吸を取る。そして手を払い落とされたことにも動じた気配を見せていない涼介を睨みつけながら、それについては、と中里は確実に聞こえるように声を低く言った。
「答えられないわけじゃねえが、ひとまず家に帰ってから、じっくりと、考えさせてもらう。万全を期すためにだ。万全を」
涼介はわずかに目を細め、両手を腰に当ると、緩く頷いた。
「なら考えたいだけ考えればいい。そうだ、判断は俺の影響下で行なわれるべきじゃない。それはアンフェアだ。俺は別にお前を……」
涼介はあらぬ方向を数秒見てから、いや、と首を振り、しっかりとした目つきで中里を見た。
「これ以上言うべきことはない。好きにしてくれ」
「ああ。三日後、会えるか」
「会おうと思えばいつでも会えるんだよ、都合さえつけばな」
「つけてくれ。三日後、そう、丁度一週間後だよ、前の時からな。だからその通りだ。こっちの山に来い」
涼介は考えるように目を閉じたが、すぐ開けた。
「午前2時だ」
「分かった」
中里はポケットから写真二枚を取り出して、涼介の襟元に突き刺し、そのまま一歩下がった。涼介は首元に不自然に挟まれた写真に目をやることもなく、ただ立っていた。じゃあな、と中里後ろを向いて段差に足を踏み出すと、「俺はな」、と思い出したような涼介の声がかけられた。
「時間と約束を守らない奴は嫌いなんだ」
中里は涼介に振り返った。涼介は表情の見えない顔をしてただそこに立っていた。俺もだ、と言って、中里は再び後ろを向き足を進めた。敷地を抜ける途中に、背後でドアが開く重い音と締まる重い音がした。門を越えて車に戻ると、後ろを見ずに乗り込んで、鍵を二度掴み損ねながらも、その道から素早く抜け出した。車内の空気を深く吸い込んでいくうちに、体内が清潔になっていく錯覚がした。足がやけに重かった。ようやく時計を見た。17分経っていた。更に足が重くなった。
懐かしい家路を何も考えずに辿っていくうちに、唐突に、根拠もなく、もしかしたら、と思った。もしかしたら、あいつは来ないかもしれない。自宅を目にする頃には、明日の到来のような確実さで思っていた。あいつは来ないだろう。
(続く)
2005/03/06
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