上塗り
延々と駆けている夢を涼介は見た。同じ調子でひたすらに地面を踏んで蹴って、踏んで蹴ってを繰り返していた。走っている場所も目的も何も設定されてはいなかった。ともかく走らなければならなかった。肌が熱を帯び汗がぬめり、足も手もひどく重くなり、心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、喉が空気で擦れて裂けそうになっていたが、止まることはできなかったのだ。
だが夢は所詮夢であり、目が覚めてしまえば肉体に活動の記憶などありもしなかった。ただその終わりは唐突で曖昧だったため、意識を現実に浸透させることに手間取り、自分の名前と履歴と今いる場所とそこにいる理由と寝た理由を頭にざっと並べてから、涼介は立ち上がろうとしたが、何時間も椅子に固定されていた体はそこら中で稼動を拒み、ようやく床につけた両足のみに体重を預けられたかと思えば、すぐにめまいがやってきて、机に手をつかざるを得なかった。久方ぶりに涼介はごく個人的な理由での不公平感を味わった。
立ちくらみが過ぎ去ると、太い紐で鉢を締め付けられているような圧迫感が思い出された。慣れ親しんだものだ。二回ゆっくりと深い呼吸を取り、かゆみのある首を掻き、粘つく唾を飲み込んで、涼介はゆっくりと足を動かし、外の光で淡く白んでいるカーテンを開けた。窓から見える空は透明感のある青だった。自然の輝きに目が慣れるのを待つ。それから広い床の上で十分ほど硬くなった体をほぐした。やはり夢の名残はなかった。体内の血液が隅々まで循環していく感覚を得ながら、ふと自分は一生ああして走り続けるのかと思ったが、それは現実感を伴わない推測だった。
皮膚に汗がにじみ始めた頃、閑静な住宅街に目立つ騒音が耳を打った。涼介は窓に歩み寄り、自宅の庭から道路にかけてを見下ろした。丁度右手方向から現れた夜明けに眩しい黄色の車が、回遊魚のように自宅の門を通り抜けていった。更なる騒音を予想しながら涼介はカーテンをすっかり開け、規則正しく物は置かれているなれど一見では雑然としている自分の机の端に目をやった。二枚の写真が置かれていた。涼介は机の傍までなるべく自然に歩み寄り、その二枚の写真を無造作に手に取って、上の部分を両手で持って目の前に掲げた。しっかりと紙を摘んだまま、右手を手前に、左手を奥へと力の限り動かせば、見飽きた顔も見飽きていない顔も丁度断裂されるはずだった。胃の底を愛撫するような外からの音は既に止んだ。涼介は腕から力を抜き、持っていた写真を緩慢に机の引出しへしまった。そして机の角を掴みながら、こっちはちゃんと決まっているんだ、と束の間考え、湿気た部屋から脱出し階下におりた。
「あれ、アニキ、起きてた?」
居間に入ると、ソファに寝転がりながら雑誌を読んでいた弟が気配に気付き、雑誌を黒のシャツが覆っている胸の上に置いて、驚いたように聞いてきた。
「さっき起きた」
「起こしたかよ」
「いや、お前が帰ってくる前に起きていた」
啓介の髪は半分ほど重力に従っていた。テーブルの上にはコップとオレンジジュースの瓶が置いてあった。涼介は台所へ向かった。
「まだ5時にもなってねえじゃん。寝てりゃいいだろ」
「寝る気分じゃないんだよ」
会話をこなしながら食器棚からコップを取り出し、流しの水道で粘ついていた口をゆすいだ。
「何だよ、いつも俺には規則正しい生活しろしろー言うくせに」
「ドライビングは体が資本だぜ。本当なら酒も煙草も没収してるところだ。生活リズムを直すだけで済むならいいじゃねえか」
言いながら、啓介が寝そべっている三人掛けのソファと垂直の位置にある一人掛けのソファに座った。コップをテーブルに置いて、その手でテーブルに置かれているオレンジジュースの瓶を取り、コップに注ぐ。啓介は胸の上の開いたままの漫画雑誌を閉じると、クッションに頭を預けたまま苦い顔をした。
「だからアニキに言われたくねえってんだよ」
「俺はもう引退した」
「っていうか現役ん時からそうじゃん」
「続ける気がなかったからさ」
液体を口に含むと酸味が背中に鳥肌を立てた。喉に落とすと口がさっぱりとした。今頃になって夢の世界から抜け切ったようにも感じられた。小さく息を吐いてから啓介を見ると、顎を引いて不可解そうに眉根を寄せていた。
「どうした」
「顔色悪いぜ」
コップをテーブルに戻し、その手で頬を触りながら涼介が「俺か」と聞くと「に決まってんじゃねえか」、と啓介は刺々しく返してきた。涼介は両手を膝の間で組んで、弁解の色が避けられない調子で言った。
「あまり、眠れなかったんだよ」
「寝りゃいいじゃん」
「寝る気分じゃないっつったろう」
体が資本じゃねえのかっつーの、と啓介は腹の底と喉を絞るように言うと、ソファに寝そべったまま両手を組んで背を伸ばして、ぐおおおおお、と獣のように唸った。
「俺は眠い」
「寝ればいいだろ」
「寝る気分じゃない」
「眠たいのにか」
啓介は背を伸ばした体勢で一拍制止し、それから惚れ惚れするようなしなやかな動きで上半身を急激に起こし、胸の上から飛び落ちた漫画雑誌をテーブルに放り、枕にしていた花柄のクッションを後ろ手に引っ掴んで胸に抱え、顎をその上に乗せると、っつーか、と唇をとがらせたまま言った。
「俺はアニキじゃねえわけよ。一回寝たら十時間は寝ねえと生きてけねえのよ」
「睡眠をしっかり取るのは良いことだ」
だから今寝たら起きれねえんだっつうの、と歯を剥き出しにして啓介は叫んだが、積極的に付き合う気力もなかった涼介は、事故を起こすよりはマシだしな、と相手にしなかった。啓介は眉を八の字にし、いやもうマジで単位ヤベエんだって、と何かを懇願するように声を震わせ、だから寝ないようにって漫画読んでたのによ、と涼介を非難するように言った。涼介はわざとらしく聞こえるように溜め息を吐いて、言い返されることを待ち構えている啓介へ顔を向けた。
「留年するくらいじゃ親父もおふくろも何も言わないさ。八年かかっても卒業すりゃあそれでいいんだ」
「それは俺がイヤなんだよ」
「ならまだ頑張ることだな。それだけ言えるってことは、死ぬほどヤバくはないってことだろう」
幼子が親から与えられたぬいぐるみを抱くようにクッションを抱きながら、なあアニキ、と啓介はかつあげを図る不良のような凄みのある声を出した。
「頼むから、徹夜しなきゃなんねえ俺にもーうちっと、優しさ出してくんねえ?」
「俺はお前には人一倍優しくしてるつもりだが」
厳しくしてるの間違いだろ、と小さく、だが涼介の耳に届くほどの声で啓介は呟いた。涼介は軽く唇の端を上げ、再び手に取ったコップに口をつけ、わずかに液体を飲み、自分の左膝に目を落とした。
「たった一人の弟だ。優しくしないわけがない」
「おう、まあな、っつーかマジで顔色悪いぜ」
コップを持ったまま涼介は啓介を見た。啓介は左肘をソファの背もたれにつけ、左手で頬を支えつつ、右手でなおも花柄のクッションを抱えていた。その顔は鉄板のごとき剛性があるようにも見えた。涼介は残ったジュースを喉に流し込んで、コップを手放してから、受け流すことを諦めて話すことに腰を入れた。
「夢を見ただけだ」
夢、と啓介が左頬を潰したまま呟いた。涼介は自分の両手に目を落とし、続けた。
「走る夢だよ。何時間も走ってたんだ。おかげで気分が悪い」
「走るくらい何てことねえだろ、アニキなら」
顔を上げ、自分の足でだぜ、と言い含めるようにすると、啓介は口を大きく開け、何でそんな夢見んの、と涼介の正気を疑っているかのような調子で言った。涼介は顔をわずかに斜めにした。
「今まで走っていない分を取り戻したのかも知れない」
「だって夢だろ?」
「夢だよ」
だがそちらの方がしっくりくる、涼介はそう思い、一人小さく頷いた。分かんねえな、と啓介は腑に落ちないように首を傾げながら呟いた。俺も分からん、と涼介は呟いた。分かることといえば、現実はあそこまで絶望的ではないということだけだ。状況はあそこまで孤独でも過酷でも悦楽的でもないのだ。少なくとも終着点はある。そう信じられる。涼介がそれを確認している間、啓介はソファの表面を撫でてみたりクッションを叩いたりと落ち着かない動きをしており、割り切った頃には、あー、とだるそうに仰向いて、そのまま目だけを下ろして涼介を見てきた。
「アニキ中里と連絡とか取ってんの」
早口に啓介は言った。涼介はまばたきを一回するうちに、それがどこに繋がる問いであるかを考え、二回目までに、どこに繋げるべき問いであるかを考えた。
「取ってない」
答え、「なぜいきなりそんなことを聞くんだ」と続けると、啓介は鼻にしわを寄せ、唇を不器用に曲げた。
「いや、何かあったっつーからよ。だったら取ってんのかな、って」
「それで取る必要が生まれたら取るだろうが、生まれなけりゃあ取らない。それだけだ」
啓介を見たまま唇を横に広げてやって、涼介はテーブルのコップを手に取ったが、中身が空であることをそこで思い出し、口に向けるも元の位置に戻すもせず、手持ち無沙汰だというように両手で握った。思ったよりも容器の冷たさが意識され、案外と自分がうろたえていることを涼介は知った。落ち着こう。悪いことは何もない。俺は走り続けているだけだ。首の後ろがざわついたが、意識から排除した。
啓介は首を下げ、上目遣いに、不審を隠さずにこちらを見ていた。
「言いたいことがあれば言えよ。答えられることには答えるさ」
涼介は体も声も揺らがせずに、悠然と言った。啓介は大きく左の眉毛を上げ、苛立たしそうに舌打ちすると顔を背け、右手で後頭部を掻きつつ、これだからな、と小さく一人呟き、数度頷いて、勢いをつけて涼介に顔を戻した。
「あいつのこと、どう思ってるわけ、アニキは」
目の端が動くことを避けられなかった涼介が、どう、と返すと、いやだからさ、と啓介はソファの上で片膝立ちになり、右手を振りながら、あいつは何つーかよ、と言いづらそうに説明した。
「そんな、すげえヤツってわけでもねえだろ。何つーの、普通っつーか、普通でもねえか、ホラ、普通みてえなもんっつーか、やたらめったら珍しいくらいに速いとかってんでもねえっつーか、それなりっちゃあそれなりかもしれねえけど、だって車がアレだろ。俺はそんな、注目しとくようなヤツでもねえと思うんだけどよ、それをアニキはどう思ってんのかって」
ハナシだよ、と空いている右手で涼介を指し、啓介は居心地悪そうに瞬きをした。その身は先ほどよりも縮まっているようだった。涼介はわざと五秒ほど間を置いてから、その通りだ、とよどむことなく答えた。
「珍しくも地味すぎもしない。そのくらいの奴だと思ってる」
啓介は眉を小刻みに動かした。涼介は目を細めた。口をすぼめて目をテーブルにやり、まあそうか、と啓介は渋々というように頷いた。
こいつは俺が嘘を吐いていることを知っている、と涼介は思った。そして俺がそれを知っていることをこいつは知らない。いや、俺が知らないだけでこいつはすべてを知っているのかもしれない。こいつがどこまで知っているかも俺は知らないんだ。駆け引きにしてはお粗末なものだった。だがいずれにせよ、この期に及んでの方針転換は家庭を更なる混乱に導くだけであり、例えそれが無駄手間となろうとも、涼介はやり抜くしかなかった。
「とりあえず今は」
性急に声をかけると、放り出していた漫画雑誌に集中し始めていた啓介が、分かりやすくぎくりとし、あ? と素朴な顔で涼介を見た。涼介は努めて軽く言った。
「俺を信用しといてくれ」
啓介は驚いたように目を見開き、だが次には大胆な笑みを浮かべ、「いつだって俺がしねえわけねえだろ」と言った。その顔につられて頬が上がることを涼介は抑えられなかった。これだから、いつも俺は無駄ばかりだ。
(続く)
2005/04/30
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