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 ボディーカバーが掛けられてしまえば、いくらメルセデスといえどもアパートの小さな駐車場ですら威光を放ち続けるなどということもなかった。中里も手を貸しながら作業を丁寧に終え一息ついたところ、涼介はどこからか取り出した写真を一枚、そっと目の前に差し出してきた。
「返すよ」
「返すって、だからこりゃあ」
「お前が撮ったもんだ」
 もはや見ずとも分かる、物思いに沈んだ高橋涼介が、RX-7とともにそこに写っていた。どうにも受け取りがたく、中里は出しかけた右手で、首の脇を小さく掻いた。
「貰ったって、俺は使わねえしな、こんなもんは」
「お前のは俺が持っているから、俺のをお前が持ってたところで問題はないだろ」
 中里はコンクリートの地面から目を上げた。涼介は写真を差し出した格好のまま片眉を上げた。反応しかね、中里は実際的な問題を言った。
「飾りようがないぜ」
「飾られる方が困る」
 眉毛を元の位置に戻し、実直に涼介は言った。もっともであった。その写真を持つということは中里にとって、常に涼介の存在を部屋に置いておくことと同義であったが、それに対する尻込みはたった今の会話、互いに共有するのだという事実により薄まり、ついに中里は写真を受け取って、高橋涼介を自室に招き入れた。
 しかし変わらずみすぼらしく見える部屋を物珍しげに見渡している涼介を感じると、中里の肩には疲労の重石がどすりと乗り、写真を裏返しにして机に放り投げ、真っ直ぐスプリングが壊れかけているベッドに座り込んだ。涼介は律儀に了承を取ってから手を洗っていた。うがいをする音も聞こえた。健康管理のなっている男だった。俺だってこいつがいなけりゃそのくらいはする、中里は理不尽な対抗心を束の間燃やし、すぐさまそうした自分に疲れ果てた。
「とりあえず、その辺座れよ。一応掃除はしてある」
 ハンカチで手を拭い、部屋の入り口に立った涼介に声をかけた。席を用意する気力はなかった。動いても動かなくとも自分の言動が思い返されて、心臓と胃がキシキシと鳴った。鴨居に手を当てていた涼介は靴下を滑らせて歩き、中里の右横に腰を落とした。体臭と微かな甘い香りが鼻をくすぐる。中里は様々なものを逆恨みしてから涼介を見た。座ったまま真っ直ぐ顔を上げていた涼介は、そっと中里を窺ってきた。視線の行き所に迷い、中里は涼介の眉毛の生え際のみを目に置いた。涼介は至近距離でただ顔と目を向けてくる。中里は眉毛の生え際から額の髪の生え際に目を移した。それは少しの間の後、徐々に迫ってきた。こいつは将来ハゲるかもしれない、そんなことを思っている間に、唇が触れた。思ったよりも硬く力強かった。ハゲたらこいつはバーコードにするのかそれともスキンヘッドにしてしまうのか、そう考えながら口を開き、舌を招き入れる。カツラという手段もある。肩に手が回される。その腕の脇の下から背中へとこちらも右手を回す。歳を取って老けて、ハゲてもこいつはなおモテているんだろうか。舌を撫で合いながら考える。呼吸が浅くなる。思考が感覚と隔たっていく。唾液が泡を立てる。腰の奥がしびれていく。
 と、飲み込んだ唾が喉の奥に引っ掛かり、中里は咄嗟に涼介の後ろ髪を掴むと顔を離して、盛大に咳き込んだ。口の端に唾が垂れたため空いている左手で拭う。頭上で一つ、小さく笑う息の音がした。そしてすぐに、
「ぶち壊しだ」
 耳元で声がした。中里は右手を涼介の背中に当てたまま、不可抗力だ、と主張した。涼介は耳元に口を寄せたままひそやかに笑った。
「なあ」
「何だ」
「キスだけで勃起したことはあるか」
 涼介の手がジーンズのベルトに掛かっていた。
「高校の時、初めてできた彼女と……あのくらいのは、もう、ねえよ」
「初体験は何だって鮮烈だ」
「お前は」
「中学二年の夏に、三件隣の女子大生と」
 ベルトが外れ、チャックが下ろされる。腰を浮かせると下着ごと引きずられた。膝下からは自分で脱いだ。ジーンズが踵を抜けたと同時に、剥き出された一物に手を置かれた。
「女子大生」
「一夏の恋に落ちたんだ。けど彼女には恋人がいて、俺はフラれた」
「お前が」
「青臭いガキ相手に本気になる女の方が、おかしいもんだろ」
 存在を主張し始めた中里のものをいじりながら、思い出に浸るように涼介はその耳に語りかけた。中里は膝を掴んでいた左手で涼介の股間に触れた。布越しにわずかにそこにあるものが感じられた。
「でも俺は、ガキなりに本気だったんだ。彼女を幸せにする方法を毎晩考えていた。医者になるまで時間はかかるが、なりさえすれば彼女に中流の生活くらいは与えられるだろうと。俺がどうにかしようと考えていた。恐いもの知らずだった。意外かもしれないが」
「言われりゃ、そうかも、な」
「でも結局彼女は、ギャンブル漬けの男のところに行っちまったよ。今、どこで何をしているのかは分からない」
 ゆっくりと話しながらも涼介は手を休めることはしなかった。中里は募る射精への欲求を、若かりし涼介とその女性との親交を創造を交えて想像することで抑えながら、涼介の背中に当てていた右手を滑らせて、股間に置いていた左手と合流させ、そのズボンのホックに指をかけた。
「ここまで人に話したのは、初めてかもな」
「お前、どういう人生、やってきてんだ」
「こういう人生だよ。遊んで勉強して遊んで勉強して、繰り返しだ。そうしているうちに何もかもが過ぎ去っていった。しかし誰だってプロセスは違えどそういうもんだろう。他人に話すような巨大な出来事なんぞそうそうないし、過去を振り返るよりも今、目の前にある物事を処理する方に力ってのは使われる」
 んだ、という声を、中里は口の中で聞いた。首を無理矢理に傾げて封じた涼介の唇からすぐ離れ、お前は、と開かれたズボンの隙間から下着に手を触れさせながら、中里は言った。
「喋りすぎだ」
「たまに言われる。そして友人をなくす」
「改めろよ、そこは」
「難しいもんだよ、そうは言ってもな」
 目的を感じさせずただぬめりを広げるがごとく緩く動いていた手に、突如根元を絞りこまれて、中里は唸り、反射的に局部を覆ってくる腕を止めに走った。それと同じくして、耳たぶに濡れた感触と鼓膜に脳を締めつける声が与えられた。
「一度、咥えてくれよ」
 脅迫的な響きを持つ言葉だった。中里は待望の実現にめまいを感じた。心底からの愉悦、それと同等のこれまでの自分の生き様を否定してしまうかのごとき恐怖が肌の内側をえぐり取った。だが嫌悪感からの拒否という選択が生まれない以上、すべては認めざるを得ず、中里はベッドから降り、開かれた涼介の足の間に陣取って冷たい床に素肌の膝をついた。涼介はその間に下着をわずかに下ろすだけでズボンを脱ぐことなく、己の分身を手で抜き出していた。その高橋涼介という人間の熟練した動作に先ほどとは違った種類のめまいを感じながらも中里は、涼介の手からそれを受け取るようにして、どうするべきかと考え込みかけ、しかしここまできた以上悩んだところで始まらないと場面をわきまえぬ潔さを発揮して、目の前にあるひいきめに見て平均的な大きさのものを、噛みつくように一気に口に含んだ。足馴らしをしてしまえば迷うことは知れており、命令のごとき要求の遂行には思い切りが必要だったが、その結果の現状が相手の本来求めるものかであるかは不明であった。ただ噛まぬように、舌と頬の内側でスポーツに勤しむごとく擦り上げる。学生時分の体育の授業などとは程遠いものであるが、受ける義務的な心構えにより実行していると、顔に触れる陰毛も口中に広がる匂いも忍耐の修行だと思えてくる。これきりではないのかもしれないのだ。だがこの男の口から何ら明確な言葉は吐かれていない。そもそも本来この男がこれを求めているのかすら確定されてはいない。不安も不審も尽きずにいる。しかし中里は考えることを後回しとした。現在においては口腔で育つ肉の棒の硬度を痛めないうちにどれほど増大させるかに、焦りを寸分も見せないこの男にどれほどこの行為の努力を認めさせるかに集中していた。
 涼介はセーターを脱ぎ、上半身裸となった。右手が中里の頭頂に掛けられ、頭の動きを補助した。空気が動き、その右足が移動したことが中里には察知されたが、行く先は知れず、わずかな瞬間の注意のみで終わったところ、靴下に包まれたままの足が予告もなく活動力をなくしていた愚息を柔らかく踏み潰した。中里は衝撃にうめき、咥えていたものを噛みちぎりかけ、慌てて吐き出そうとしたが、涼介の右手は首筋を押さえ付けており、解放するどころか喉の奥まで占領された。うめき声すら上がらなかった。動くことすら敵わなかった。吐き気が起きた。中里は涼介の両膝に手を置いて抜け出そうとしたが、下腹部へと断続的に与えられる靴下越しの爪先による刺激のため、力すら断続的にしか入らずに終わり、苦しさのあまりに目に涙が浮かび、そして涼介の手はようやく中里の頭を股間から中空へと引きずり上げた。中里は膝立ちとなり、両手を涼介の両膝に置き髪を掴まれ顎を上げさせられたままに、咳き込んだ。戻しかけたが、飲み込んだ。目の端から呼吸困難の苦痛による涙が漏れた。涼介を見下ろす形となっていたが、見上げてくる涼介こそが見下してきているように感じられた。支配下に置かれているのだ。腹立たしくなったが、怒りがなおざりにされるほどに現状は苦しみに満ちていた。涼介の両足は床についている。髪は引かれたままながらも、ようやく訪れた解放感に中里はともかくも浸ろうとしたが、その頃には涼介も行動を起こしていた。中里の頭を自分の肩口へと引き寄せ、腕ごと胴体を両腕で抱え込むと、遠心力を利用してそのままベッドへと抱え上げ、倒れ込ませた。大きくギシリと固いスプリングが鳴り、床に響いた。素早かった。中里は体を動かすことも忘れて、己の両足を割って体を置いている涼介を見上げた。その顔は天井の蛍光灯のため影が多かったが、いささか血色が良くなっているようにも見え、黒い瞳は潤みを持っているようにも見えた。だがそれでもそれは他人を見下ろす顔であり、体勢として見下ろしているのだから当然ではあるが、中里は居心地が悪かった。
「大丈夫か」
「何がだよ」
 呼吸を整えてから中里は聞き返した。涼介は顔を落とし口付けてきた。舌に残った苦味が唾液に洗浄されるような接吻だったが、中里は抱えられているままではあるが自由の利く両腕を涼介の肩に当て、どりゃッ、と顔を引き剥がし、睨み上げた。
「何なんだ、お前」
「どういう意味だ」
「こういうことをやるってのが、お前が、理解できねえ」
「不愉快か」
「お前じゃなかったら、殴り倒してる」
「俺で良かったな」
「良かったよ、ああ良かったさ、クソ、叩くくらいならいいか」
「終わってからならな。顔はやめてくれ」
 言いながら涼介の右手が再び危険地帯を探っていく。中里の頭には消防車のサイレンの音が鳴り響いていた。こうなることを予想していなかったわけでも望んでいなかったわけでもないが、いざ普段自分では見ることも触ることもない体の密林に潜む秘所へと指を差し込まれると、腰も引けるし「ぬおッ」と喉を擦る声が漏れてしまうもので、中里は涼介の肩を掴んだ手に力を入れ、待て、とつい言った。
「待て待て待て、それは、ちょっと」
「準備不足で悪いが、健康を害することがないようには心がける」
「お前の心がけはどうでもいいからこういうのに関してはもっと時間を置いてとかそういうのが、あるじゃねえか」
「痛かったら言ってくれ。善処する」
「やめねえのかよ」
「そういう選択も考えるってことだ」
「待てってお前、これ、マジかよ」
 ここに至って中里は、己と高橋涼介の関係やその他の車でつながる同士、それ以外での実生活における友人知人や自分を育ててきた環境や家族、それら外部に対する自分の立場の崩壊を直前に見た。そしてまた、こめかみと首に汗を浮かせながらも、わずかに涼やかさを保っている目の前の男の人生の前途についても見たのだった。
「洒落かってことか」
「ちげえよ、だから、これでお前は本当に、いいのか」
「俺はやりたいようにやっているだけだ、お前の方こそ」
「何でそうお前が考えねえで、俺が考えてんだよ」
「不器用な奴だな」
「言うこと欠いて、何を」
「そのしつこさは他の部分で発揮した方が、いいと思うぜ」
「クソ、分かった、やるんだな、ならやっちまうぞ、俺だってな」
 尻の穴に他人の指を一本突き入れられている中里が真剣に腹を据えると、突き入れている涼介は唇を硬くしながら筋肉の要塞を突破せんとする動作を再開した。中里は襲いくる圧迫感と異物感に歯を噛み締め、両手では涼介の肩の骨を握り締めた。涼介が中里の背中に回していた左手は、汗でべたつく首や肩や胸や腹を上から下へと順番にくすぐるでもなく揉むでもない力加減で触れていき、しばらくそっちのけとされて再び活気を失っていた哀れな息子を撫でさすり始めた。クソ、クソ、クソ、中里は口の中でそれだけを言った。何に対する怒りも憎しみもなかったが、ただ何かに対して抵抗をしていなければ、自我が掻き消えかねない衝動があった。賃金労働のごとき正確さで拡張されていく尻の穴、そこから生じる感覚、硬い手にいじられながら我ここに在りと主張していく陰茎、それら自分に起こる現象は、日常的な思考の処理能力の容量を大幅に越えており、それでも中里はそこに留まろうとしていた。
「なあ」と、粘液が擦れる音の合間から、背骨に響く声が耳の奥に入り込んできた。
「何、何だ」
「言っただろ、そういう風にしなけりゃならない場合も、あるんだ」
「てめえは、何でそう、両手を動かしながら喋れる」
「やろうとしているからだ」
「そういう、恋か、何が恋だ、お前は大人しくお勉強でもしてりゃいいんだ」
「論法が分からん」
「こんなことのどこが、恋だ、みっともねえような」
「例えだろ」
「お前が言ったんじゃねえか」
「それと言った覚えはねえよ」
「そうやっててめえは、俺のせいばっかにしやがって」
「そういう趣味なんだ」
 悪趣味にも程がある、中里は頭の中だけで悪態をついた。急激に内臓へと侵入せんという心意気すら感じられていた指は引き抜かれた。中里は解放感に小さく声を上げた。天井の蛍光灯が目の奥を刺した。世界が瞬間だけ白く染まった。目を閉じてその空白と己の作り出した静寂に溶け込む。だが準備体操をした後には大概が本格的な運動に突入するものであり、休息は長くは続かず、広げられた肉には硬度を増した肉が充填され、中里は吐き気を覚えた。そこには結合の感動も達成の感激もなく、強烈な違和感と行為への不信感が腹の底に満ちるのみだった。涼介は腰を据え置くと、骨ばった熱い両腕で中里の背中を不安定に包み、崩壊の危険性と美しさを感じさせる顔を見せ、中里はその顔によってこの男への疑念も先への不信も容易くかき消され、すがるように、引き寄せる声を出した。
「高橋」
「辛いか」
「黙るなよ」
「喋りすぎだっつっただろう」
「人の言葉尻、取りやがって」
「趣味なんだよ」
 愉快そうに、何かを装うこともない純然な表情と声をして、涼介は囁いた。中里は舌打ちして、望まぬ情報すら取り入れる視界を遮断し、涼介の体を引き入れるために開かせられた足でその腰を挟み、交接を安定させ、だが手は寸分の自尊心を守るべくその鎖骨から肩へかけてを揉むように掴むのみだった。荒い呼吸音が耳につき、それが自分のものであると中里が知る頃には、涼介は動いていた。相手を労わる精神がその緩やかさからは察せられた。スライドへの障害がなくなり出入りが激しさを増して、多大な筋肉の硬直と内臓をえぐられるような不快感を得ながらも中里は、わずかな快感の糸を引っ張り込もうと努力するとともに、涼介の肩から首へと手を回し、日常を放擲した。



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