延長  3/3
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 倦怠感を持ったまま、格闘を終えた肉体と排出された液体を互いであらかた掃除し、涼介は流しに立ち石けんでしつこく両手を洗った。不潔を憎んだわけではなく、その作業によって感情の汚濁をも洗い流そうとした。
 口をゆすいで部屋へ戻れば中里はベッドにうつ伏せとなっていた。顔が見える位置に膝を突いて覗き込むと、そのまぶたは下りており、呼吸は一定だった。シャツは着たままでパンツだけは履いている。涼介は立ち上がり電気を消し、床に座ると、薄闇にもつやが分かる髪に手で触れ、軽く頭皮を掌全体で覆ったのち、離した。濡れた手をズボンで拭い、脱いだままとなっていたセーターをベッドの端から拾い上げ、帰るつもりで頭から被ったが、首を通してから、なぜ今に帰ろうとするのかと自問した。ここで眠りについている男にこちらの心理情勢の理解を求めるつもりは毛頭ないが、もしこの男がそれを理解したがっているのであれば、機会くらいは提供するべきではないのか。何の説明もしていない、涼介は思いながら、閉じられている窓のカーテンを開き、床に腰を落ち着けた。優柔不断、そうなのだろう。
 一体どこから始まったのかを涼介は思い出せなかった。実際的な結果が出た実験の動機、完全なる自己認識への欲求、そこに深層からの肉欲の訴えは多少混入していたのかもしれないが、しかしそれ以前ともなれば、己が中里に対しどういう感情を抱いていたのかはまったく思い出せなかった。走りにおいては弟の比較対象として見ることを優先していたため、その人格を検討している過程に出た好悪の感情など、とうに記憶から削除してしまった。残っているのは分析の結果のみだ。何もかもは他人に教えるための結果のみだった。だがこの男は、その他人の中に入っていない。
 理想だ、身じろぎもせずに涼介は考えた。かつて理想があった。この男ならばこちらの影響を受けず、独立した個人としての決定が可能だと、そうしてくれるものだと思い込んでおり、今も理想はあった。この男は超人だという理想があるのだ。それは覆されると分かりきっている願望であるが、涼介は持ち続けずにはいられなかった。そこに達することはできないと知りながらも、願い続けずにはいられなかった。そして当人に、その理想を押し付けずにはいられなかった。
 遠い昔、捨て去った醜い感情や欲望が、今、この男への支配欲へと姿を変え噴き出しているのだ。
 言い訳だった。
 何度となくしてきた過去の正当化をいまだやらずにはいられない自分に涼介は苛立ちを覚え、それまでの考えを思考の塵塚へと蹴り落とした。そしてばらばらとなっている文字どもを踏み固めたが、一つの言葉だけが形を持って残っており、それを抱えていた自分の右膝に言って、出した声がかすれることも震えることもないことを、言葉の意味がじっくりと頭に染み込んでいくことを確認すると、涼介はベッドで眠る中里を見ながら、もう一度それを言った。興奮はなく、不安もなく、喜びもなかった。ただ、確信だけはあった。それが正しく己の腹の底から出てきた言葉なのかは知れないながらも、少なくとも、と涼介は思った。少なくともこれは、間違ってはいない言葉だと。

 もう少し寝ようか、そう自分が考えていることに気付き、自分が寝ていたことに気付き、寝る前の行動を思い出して、「うおッ」と声を上げながら中里はうつ伏せの体勢から飛び起きた。だが下半身の重さに数秒動きを止め、恐る恐るベッドの上に正座になって、そっと周りを見回した。自室だった。そしてその横に高橋涼介の存在を見つけ、再び中里は声を上げ、尻餅をつき、悶えた。窓を透いた外の明るさのある室内の中、片膝を抱えている涼介は、背中を丸めて肉体的及び精神的な痛みをやり過ごしている中里を見続け、青白い顔のまま、「おはよう」と言った。中里は慌てて再び正座となり、戸惑いながらも、おはよう、と返して、悪い、と今まで己がなしていたことをひとまず謝った。
「勝手に寝ちまって、自分で寝たとは気付かなかった」
「気にしちゃいない。こっちこそ、手荒にして悪かったな」
「いや、それは、気にしてねえよ」
「体は大丈夫か」
「ああ、まあ、何とかなる」
「痛みや出血があったら言ってくれ。良い肛門科医は知っている」
「いや、それは、自分で何とかする」
「遠慮はするなよ。俺の責任でもある」
 遠慮ではなく自尊心の問題であったが、涼介の心遣いは感じられたため、分かった、と中里は頷いた。
 湿った空気があり、人体のにおいが鼻を満たし、記憶を刺激され、中里は両手で両膝を強く握り締めた。最中のすべてが、己の演じた狂態も涼介の声も言葉も仕草もが、受けた感覚とともに容易くよみがえってきた。判断力を押し潰すほどの後悔に襲われ、中里はつい涼介を見た。
 涼介は中里の視線に気付くと、とび色の目を半分肉に隠し、滑らかに、わずかに唇の端をあげた。
 たまらない笑みだった。
 知覚を奪われそうになり、中里は慌てて目を逸らした。何の言葉を費やす必要もないと思わされる笑み、こうずる不平も不満も後悔も吹き飛ばす笑み、だが今、中里はそれに甘えて思考を凍結するわけにはいかなかった。多少疎通は不完全ながらも達したここまでは双方合意の上とはでき、しかしその先、この関係をどこに、何を基準として安定させるかという問題があって、それを迅速に解決しないことには中里はどの方向へも進めないのだった。
 意を決し、中里は逸らした目を再び涼介に向け、その名を呼ぼうとした。だが、まだ笑みを保っている涼介がその前に、「中里」、と口を開いた。
「好きだ」
 瞬間的に中里の耳からは音が消え、しかし即座に戻り、同時に体の末端まで急激に血液が運ばれた。心臓は主人を殺さんとするほどに活発に働いた。涼介は浮かべた笑みを似合わぬ自嘲のものへと変え、鼻で一つ息をつき、目を閉じ、額を抱えた足の膝につけた。中里は涼介を見ながら、この状況において適切な反応を考えなければと考え、その考えを頭の端から端まで延々と巡らせたまま、俺もだ、と言った。涼介は目を開け、膝からわずかに額をあげ、中里を見、その笑みを諦めにも寛容にも似たものへと深めた。にわかに中里は己の返答の捻りのなさと出した声の気の抜け加減を恥ずかしく感じ、壁を殴りに行きかけたが、早朝であるという意識が残るほどの冷静さはあり、膝を握り締めるだけとした。涼介は声を出さずに笑ったまま、再び額を膝につけて目を閉じた。中里は二回の深呼吸で精神を静め、思いもよらぬ告白試合のため中断した問題解決の第一歩を、ようやく踏んだ。
「これから、どうする」
 聞き逃されぬようゆっくりはっきりと言うと、涼介は目を開け笑みをやめて、折った片方の膝に頬杖をつき、強い意識を思わせる目で中里を見た。
「お前はどうしたい」
 予期のできた問いだった。中里はうろたえずに考えを固め、俺は、と声にした。
「お前と一緒にいてみたいと、思っている」
 多くの顧みられるべき事実、人格とそれが形成された環境についての知識の浅さ、性別、立場の違い、社会道徳、それらを差し置き、中里は己の純粋な欲を表出させることを選んだ。一つは生殺しを避けたいがためであったが、一つは言い訳の不誠実さを憎んでのことだった。そして何より中里は、涼介が既にそれを選んでいると、あの唐突な、だが前後のつながりを感じさせる言葉によって決めたのだった。
 涼介は笑わなかった。笑わず、なら、と頬からこめかみへと手を移して言った。
「そうしよう。俺としてはそこにセックスも含まれるんなら申し分はないが、その辺りはお前に任せるよ」
 投げやりにも聞こえる涼介の言葉に、任せるってな、と中里は眉をひそめたが、涼介は何もかもを認めているような表情のままに続けた。
「それは俺が決めるべきことじゃない。俺には決められない。理想が多すぎる」
「理想?」
「社会的、個人的、動物的、色々だ。目指すものが統一できない。こういうことは滅多にないんだがな。しかしある以上は、適当に片付けなけりゃならない」
 疲労感の満ちた声に、恋という単語を中里は思い出したが、その現実感のなさのためにすぐに忘れることとなった。
「それなら、まあ、その辺りは、何つーか……場に応じて、だ」
 場に応じて、と涼介が笑った。むっとしつつも中里は気を緩め、しかし、と、差し置いたものの一部を目の前に据えた。
「お前は、その、色々と、事情とかあるんじゃねえのか」
 すっと涼介の笑いが消え、中里は深入りしたかと息を殺した。
 だが涼介は、「それはある」、と正解を告げるように言い、静かに語り出した。
「俺には俺の事情がある。例えば俺はより良い医者になるために限られた時間で知識や技術や経験を吸収しなければならないし、その中でも啓介と藤原の才能をできるだけ追いかけたいと考えている。例えば俺の両親は俺が三十までに見合いをしてでも結婚しなければ縁を切ると宣言している、その代わり啓介が誰と付き合おうが一生独身でいようが構わない、そういう独自の考えを持っている。例えば俺はその両親に四十までに返す契約で俺の車にも啓介の車にも融資してもらっている。例えば啓介はお前を嫌っている。そして啓介は俺のかわいい弟だ」
 最後の例の毛色の違いに気を取られ、中里は適切に反応する機を逸した。涼介は唇だけで笑い、こめかみを支えていた右手で前髪を掻き上げ、一つ溜め息を吐いた。
「だがそれも考慮した上での、結論だ。問題はない。それにそういった、分かりやすい制限のおかげで俺は取るべき道を取れているんだ。見通しの良い人生もそう悪いもんじゃない」
 涼介の笑みは中里が頭で言葉の意味を追っている間に消えており、目はここではないどこかへと飛び立っていた。
「それでも、そこに留まることが第一に自分のためだと分かっていても、たまに全部を覆したくなることはある。だが俺はそれを無視できている。問題はないんだ。そのはけ口に車をあてがいたくはないしな。あれだけは汚したくない。あれを何かの代替になどしたくない、だから俺は」
 言葉を失ったように声を切った涼介は、緩慢に首を横に振った。それ以上はないと思われた。
 その立場の維持のために定められる涼介の行動範囲、それを涼介自身が蔑ろにしているのではないかと中里はわずかに懸念していたが、ただいまの説明によってそれは簡単に解消された。決してこの男はヤケとなってなど、客観を失ってなどおらず、既に自身が何に束縛されることにより庇護されてるのかを正確に把握し、既に了解していたのだ。ならばここに及んでまでに迷うべきこともないはずであり、実際に涼介はそうであった。中里は懸念の解消にほっとするとともに、己の予測の精度の低さを痛感し、ならばせめてと涼介が失ってしまったであろう言葉の想像を試みたが、確信するに足るものは一つも浮かびはしなかった。多分に情の関与するしがらみを冷静に見据える男の果たされぬ願望が、車も通されずに無視をされている現状で、それ以上に繰り返されるべきことも加えられるべきことも中里には考えられず、ただ叶えられることのない願いの行き着く先のみが気にかかったが、その想像も失敗に終わった。
 そして中里が思案に飽きて己の手に置いていた目を涼介へと向けると、似たように思索にふけっていたらしき涼介は一度溜め息を吐き、不意に思い出したように、釈然としていない顔で中里を見た。
「お前はいつまで正座でいるんだ」
 頓狂な問いだった。中里は思わず自分の膝を見、涼介を見返し、お前こそ、と同じく脈絡のない問いをした。
「いつまでここにいるつもりだ」
 涼介は瞬きを一つしてから、考えてなかった、と眉毛一つ動かさずに答えた。ウソだな、と特に根拠もなく思いながら中里は窓を見た。星の輝きはないながらも空の上部はまだ濃紺だった。
「ここからじゃ、何にしろ朝日は見えないぜ」
「そうだろうな」
「お前、忙しいんじゃねえのか」
「帰って欲しいのか」
「そういうんじゃない」
「疲れてるんだろう」
 その涼介の推量は正しく、精神、肉体ともに休養を求めていたが、しかしそれと同等に、精神、肉体ともにこの男を求めてもおり、中里は緩やかに頷きながらも首を振った。
「そうだとしても、帰って欲しいとは思っちゃいねえ。ただお前、こんなところで時間潰してていいのかとな」
「まあ、消化しきれないほどの暇があるとも言えないんだが」
 漠然とした返答にしかめた顔を向けてやると、涼介は右手の人差し指で意味深長に自分こめかみを二回叩き、愉快そうに唇を広げた。
「まだ、叩かれてない」
 揶揄するような声から、忘れていた記憶が導かれた。全身は緊張し、膝を握る指はその皮膚を削ぎかけ、冷や汗が全身に噴き出た。涼介の一筋の視線が顔に痛かったが、中里は動揺を隠すべく、真っ向からそれを受け、挑むように凄むように、今更だ、と言った。そうか、とその約束の解消を確認するように涼介が言い、「ツケにしといてやる」、と中里は真っ向からそれを否定し、「体で返してやるよ」、とつまらなそうに涼介は新たな約束をした。
 中里は低俗な冗談だと感じ涼介を鋭く睨んだが、その顔は当然のことを当然にこなしたことによる退屈さ、またそれからの油断のため間が抜けたものとなっていた。先の自信の塊のごときセリフとその意識の欠如を思わせながらも乱れることのない面相との不均衡さの前では、怒りを持続することも困難であり、ついに中里は降参した。息での笑いが漏れ、拡大していった。
 本気なんだけどな、と調子を変えずに涼介は呟いたが、中里の持続する笑いを見、こらえ切れぬように、笑った。
 声はなく、そうしてしばらくののちには消えたものであったが、窓の外が白むまで、その余韻は持ち続けられたのだった。
(終)

2005/08/03
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