真を貫く 2/3
打撲や擦過傷の痛みはあったが、その影響を受けるほどヤワではないという自負があった。だから秋名山でハチロクに負けて京一に張り手を見舞われた後――須藤京一という男は自分の計画を遂行することに容赦がない――、隠し切れなかった腕の傷について尋ねられても、清次は転んだだけだ何でもないと答えた。京一は訝しげであった。疑われはしただろう。ただ京一は分かりきったことにこだわるほどの暇な精神も持たない男なので、清次は追及を免れていた。
続いて赤城山でFDに負けたのは、間に秋名のハチロクの乱入による突発的な赤城山でのハチロクと京一のバトルが挟まれた後、傷も大方癒えていた頃だったから、怪我の言い訳など通用しない次元だった。シュミレーション3とは後追いを選び相手が抜かし返せないところで確実に抜かしてそのまま勝敗を決めてやるものだが、結局のところいくら慎重を期しても抜かせなければ意味がない作戦だ。抜かしどころは考えていた。京一の指示もあった。だがFDには隙がなかった。清次としては先行ぶち抜きの方が相手の動きにいちいち合わせず済むので性に合っているのだが、仮に先に飛ばしていてもそれで勝てたかどうかは分からない。それほどFDとそのドライバー高橋啓介は速かった。そしてそこで初めて、その高橋啓介を指して速いと言っていた、己に傷を作った男のことを清次ははっきりと思い出したのだった。
京一もまた、高橋涼介に敗北を喫した。一度抜いて抜き返されたという報告に、清次は勿論メンバーも愕然としていたが、いつまでもショックを受けて立ちすくんでいるわけにもいかなかった。京一の元へと行って、今後のことを話し合うのが先決だ。京一がいない場でのまとめ役を担っている清次が撤収を命じ、メンバー各自がどんどんと頂上から下りていく中、清次も最後に出ようとした時、
「おい」
と、男にしては質の軽い声に呼び止められていた。頭を巡らせると、高い背と薄い体と小さい頭を持つ男がいた。人間の顔の美醜について清次は大して気にも止めないが、その男の整った顔立ちはどこか人を小ばかにする雰囲気があり、真っ向から向き合うと苛立ちを覚えずにはいられなかった。そうして顔をしかめつつ、何だ、と清次が用件を問うと、男は面倒くさそうに眉根を寄せ、何だじゃねえよ、とふてぶてしく言った。
「お前のエボ4のそのリアウィングに貼ってあるステッカー、剥がしとけ。そういう約束だろ」
京一の敗北に動揺して、すっかり忘れていたことだった。清次は目を見開いて、
「今かァ?」
「負けたくせにそんな大層なもんくっつけたまま帰るのか、てめえら」
尋ねたが、やはりふてぶてしくそう返されただけだった。ふと周囲を見るとまだ残っていたメンバーの二人がこちらの様子を窺っている。そいつらにさっさと先に下りていろと指示を出してから、高橋啓介に向き直った。
「分かったよ。『今』、剥がしゃあいいんだろ」
「ああ、分かりゃあいいんだ」
いちいち癪に障る物言いをする男だが、突っかかったところで時間の無駄だ。当初の契約通り、半分に断ち切った上で逆さに貼っていた、最早英語の読み方も覚えていないチームのステッカーを、愛車のリアウィングから剥がしていく。弱いチームのものでべたべたと埋まっているよりは、何もない方がすっきりするもんだな、と手の中にステッカーが増えていくうちに思い、最後の一枚に手をかけたところで、
「あ」
と後ろから妙な声が聞こえ、清次は指でステッカーの角を引っかいたまま、「あ?」、と振り向いた。そこには高橋啓介が立っており、先ほどと違うところといえば、その顔が不快そうに、また困ったようにゆがんでいることだった。高橋啓介は、いや、と後頭部を掻き、まあいいや、それも剥がしちまってくれ、と似合わぬ歯切れの悪い調子で言った。清次は怪訝に思いながらも最後のステッカーを剥がし、これに何か高橋啓介をためらわせる意味があるのかと、ちらっと見てみたが、特に印象的な文字でも奇抜なデザインでもなく、まあどうでもいいか、として、ゴミの山を高橋啓介に押し付けた。
「お前らもまあ、趣味が悪いよな」
ステッカーの残骸を眺めての高橋啓介のそのしみじみとした感想に、その色選ぶお前にゃ言われたかねえよ、と車に関する嫌味を返すも、高橋啓介は聞いていないようで、そのためおそらく独り言だろう、
「ナカザトの奴、文句言ってきそうな……まあいいか、アニキに任せば」
と呟き、清次はそこで、釘を額に打ち込まれたような、がつんという衝撃を受けた。
「ナカザト?」
「あ?」
「誰だ、そいつ」
衝撃は記憶に起因していたが、その単語の全貌を思い出せない歯がゆさのため、顔をしかめて尋ねた清次を見た高橋啓介は、一拍置いてから、ああ、と気乗りもしないように言った。
「あれだ、お前らが初めに来た時、妙義で負けたGT−R乗りだよ。あー、32の。スカイライン。やたら人に食ってかかってくる」
ああ、と清次は頷いた。皆まで言われるまでもなく、記憶がつながっていた。ナカザト、と呟く。そうだ、それがあの男の苗字だった。人間すべてを忘却するのではなく、何がしかをどこかでは覚えているものらしい。清次は思い出せた充足感を得つつ、なるほどなあ、と愛車に向かった。あの男。ナカザトだ。あれは面白かった。叩けば叩いた分だけ鳴る、なかなかそこらではない正直な体だ。京一が最終目的を達成した以上、もう群馬に来ることもそうないだろうから、最後にもう一度、あの体を味わうというのも良い考えかもしれない。
清次は考えながらエボ4に乗って発進させており、前をトロトロと走る車を一台避けたところで、ようやく高橋啓介に挨拶もせずに下り始めたことに気付いたが、まあ問題ねえだろ、とすぐに思った。バトルは終わりステッカーも剥がし、京一のように相手に因縁もないし、互いに用件などない。問題があると言うならば、あの不愉快なツラを最後まで眺める方がそうなっただろう。速さは認めるが、あの存在は何か腹立たしい。もう考えたくもない。ギャラリーが帰る時間帯なのか、下手な技術で調子に乗っていると丸分かりの車を適当に抜きながら、そうして清次は京一を待たせている可能性だけにとらわれ出した。
そして何台抜いたか分からない中盤過ぎ、バックミラーに車のヘッドライトの光を久しぶりに見て、清次は多少驚いた。それがコーナー侵入時にぐんと拡大した時には、何だありゃ、と思わず一人ごちていたものだ。全開ではないにせよ、急いでいるから速さは維持している。そこについてくるならば、悪くはない腕をしたドライバーなのかもしれない。いかんせん暗いのと他の車の走る音もあいまってその車の独自性を見定められないため、車種は分からないが、立ち上がりとストレートでは遅く、ケツを振ったドリフトをかけているから、FRかFFの大して排気量もないものだろう。
目障りなので引き剥がしてやってもいいのだが、どうもついてくる車には、様子を見ているような動きがあるように感じられ、清次は集中するまで燃え盛れなかった。燃料も少なくなっていたため、道路交通法は破っているが、清次にとっては安全圏での走りを続け、下った先の駐車場に近づいた段階でウィンカーを上げて、右足を調節し、スピードを緩めていく。意外にも、後ろの車は途中までこちらのスピードに付き合い、どこまで遅く走るのかと清次がなおも徐々に速度を落としていってようやく、面倒そうな動きで車線変更をした。清次はちらりと右へ目をやった。赤い車体が瞬時に過ぎ去っていき、その助手席にありえないものを見た気がして、清次は危うく京一よりも先に帰りかけた。
京一は清次を待っており、また多くは語らなかった。実力の差、それがすべてだった。それでも清次を待っていたのは、おそらく京一は負けた後に高橋涼介と会話をしただろう、そのためその流れを汲んだまま帰るというのが堪えたのか、それとも自分の計画の終焉は綺麗に決めたかったのか、単にバトルの講評をしてしまいたかったのか、清次には分からなかったが、二人で話したことによって、京一が終わりを定めたらしきことは、何となく分かった。
いつになく寡黙な京一が、じゃあ帰るか、と言ったところで、ああ、俺はちょっと、と清次は片手を上げた。京一は怪訝な色を隠さぬ目で見てきたが、
「いや、その……最後だしな、群馬が、まあ来ねえこともねえけど、いや、だから群馬観光でもと思ってよ」
と、清次が下手な嘘をしどろもどろに吐いても、そうか、気を付けろよ、と言っただけで、先にエボ3に乗り込み、こちらの隣を通り過ぎる時に片手を上げ、そして赤城山から去っていった。
負けた後だってのに野郎に手ェ出そうとしてるなんてバレたら、軽蔑されるかもな、とさすがの清次も思わないでもなかったが、欲望には逆らえない。それに、京一という男は、チームにおいては速さを求めているだけだ。個人的な性格など、警察に睨まれる害悪さえなければ取り上げもしない。本来は目端が利き気も利いて、頼り甲斐も貫禄もある、まさに男の鏡というべき人間なのだが、走りになると見境がなくなる。
個人としての京一ならば、最大のバトルで負けたのもそこそこに男を漁りに行く清次を知れば蔑まずにはいられないだろうが、走り屋としての京一は、それが速さにつながるならば一切何も感じないようで、実際峠の隅でチームのメンバー数人が女性を輪姦していた時、それを知らされた京一は、風聞が悪くなるからという理由のみで止めに入った。そこで倫理が揮われた形跡はなかった。そして呆然とする女性を京一は優しく抱き、エボ3に乗せて家へと連れ帰り、事の次第を後日清次が恐る恐る尋ねてみると、示談で済んだ、とだけ答えたのだった。輪姦者どもは京一から拳一発を顔以外の場所に食らっていたが、犯したことについては、ただ走り屋全体のモラルに関して注意をされただけで、人間としてのモラルについては一言も触れられなかったという。つまり、京一という奴は、走り屋である場所では、社会に順応するのではなくそれと折衝しようとする、走り屋でしかなく、そして清次にとって京一は、須藤京一という個人であるよりは、走り屋であった。
そのため近場であるはずの空き地に車を停めてから、古い記憶を辿って男の家に向かっても、清次には精神の痛痒もなかった。速くなるためには、敗北の痛みは忘れず、ただ怯えは忘れるべきだ。清次はそう思うことにして、正しかった自分の記憶を自分で褒め称えつつ、その名の表札のかかっている男の家のドアチャイムを押した。三回押してもドアから気配は伝わってこず、しかし赤いシビックで見たものが確かならば、先に帰っているはずだから、清次は構わず間も空けずにボタンを押し続けた。
やがてどたどたと気配がして、清次は身を引き、それと同時にドアが開かれた。記憶の通りの男がそこにいた。硬そうに見えて柔らかさのあった髪、感情をすぐに反映させる太い眉は今は不快そうに根っこが絞られており、警戒を露わにする大きな目、通った鼻、濡れると誘う色を持つ厚い唇、男でしかないがっちりとした輪郭、首、肉体。ただ最後に会った時よりも、健康的に見える。
「よお」
「……何の用だ」
こちらも警戒の色を隠さない、慎重な声だった。清次はにやけてやろうかとも思ったが、バトルに負けた後にそこまで他人を嘲る気力もなかったので、特に繕わぬ顔のまま、男の言葉は無視をした。
「お前、さっき赤い、ホンダの……シビックに乗ってなかったか?」
唐突すぎる説明の欠けた問いにも、ああ、と男は億劫げに頷き、清次を睨み続けた。ここで話しててもラチが明かねえ、と思いながらも、男の視線までは無視できず、ついつい無駄な言葉を重ねる。
「見に来てたのかよ、あのバトル」
「ああ」
「俺が負けたところもか」
「ああ。見たぜ」
「高橋啓介は確かに、速かった」
「だろうな」
「こっちじゃ負ける気がしねえが、そういう問題でもねえしな」
「ああ」
「あのシビックは、お前の知り合いのかよ」
「うちのメンバーのだ。怪我さえしてなけりゃ、下りでお前とやるはずだった」
憤りばかりが漂っていた男の目に、一瞬後悔が浮いたのを清次は見逃さなかった。男がおそらく警戒をしてだろう、顔が通るか通らないか程度にしか開いていないドアの隙間に、そこで清次は一気に腕と足をこじ入れ、体もねじ込んだ。あざができたところでもう気にする必要はなく、男が反射的に閉めようとしたドアに肉を打たれながら、強引に中へと侵入し、男が離したドアノブを後ろ手に掴んでドアを閉め、手探りで鍵をかけた。男は既に廊下に上がっており、土間との段差の分だけ清次よりも高い位置にいるのだが、なぜか見上げるように睨んできていた。
「おい、そんなに気ィ張るなよ。何も取って食おうってわけじゃねえんだ」
清次が前回と変わらず白々しく嘘を吐くと、唇をぎちりと噛んだ男が、突然拳を振りかぶり、襲いかかってきた。清次は咄嗟に膝を曲げ、頭上に拳を見送り、勢いあまってドアに衝突した男の体の横からその後ろへと抜け出して、こちらへ体を向けてきたところを、首に手を当ててドアへと押し付けた。上から押していくと、男は膝を折り曲げて、首を絞めているこちらの右の上腕を、ぎちぎちと両手で掴んできた。この皮膚と肉をえぐりられるような痛みを感じたままではさすがに何もできやしないので、男の首を絞めている手からは力を抜きながら、手持ち無沙汰なので、思いついて清次はその顔に唇を寄せた。初めてのキスだったが、特に気にせず舌を入れたところで、男が掴んできている腕を離し、更に肩を押して体を跳ねのけてきたため、ものの十秒も経たないうちに終わっていた。清次は廊下に尻餅をついた体勢のまま、いてえな、と男を睨んだ。男は脳の血管がぶち切れるのではないか、というまで赤くなった顔で、強烈な怒りの気を吐いた。
「何しやがる、てめえ!」
「何って……何だよ、キスくらいいじゃねえか、それより先のことしちまったんだし」
とりあえず靴を脱ぎながら、感じた不平をそのままぶつけると、男は一瞬、迷子のような頼りない表情を浮かべたが、次には鬼のような形相になって、
「俺はッ、一度もッ、そんなことはッ、認めちゃいねえ!」
耳が痛くなるほどの大声で叫び、清次が脱いだ靴を土間に投げてから立ち上がり、声でかくねえか、と念のため聞いたところで、大きく開いていた口を閉じた。そして男は十秒ほど逡巡した様子でいて、それから舌打ちすると、廊下に上がり込んだ清次を無視して部屋に入り、清次がその後を追って同じく部屋に入った時には、ベッドに入っていた。
はてこれは据え膳か、と清次は思い、いやそんな簡単にゃいかねえよな、と思い直して、使えるものはないかと部屋を見回し、机の上に前回と同じ型のワセリンがあるのを見つけた。グリース代わりか乾燥防止か、とにかく何かに使っているのだろう。それを手に取りつつ、おい、と声をかける。
「不貞寝すんのもいいけどよ、俺がここで何やるかとか、見ててなくていいのか?」
別にこの男と寝る以外に何をする気もないが、あまりに率直すぎる態度には、征服欲がかき立てられた。男は布団を被ったまま、くぐもった声を返してきた。
「てめえを見てると、ぶっ殺したくなるんだよ」
随分と憎まれているようだった。それはそうかもしれない。無理矢理に、抜かずに二発もいたしてしまった上、後始末もしないで帰ったのだ。女相手ならまず刑務所である。他の男相手でも、後ろから刺されていたりしたかもしれない。挿入以後はつい自分に没頭してしまい、快感を与えることを失念したきらいもある。殺意をむき出しにされても自覚があるだけに、清次は何とも言いようがなかった。
さすがに殺されたくはない。だが、ここまで言う男を、より追い詰めたいという欲求も、じわりとわいていた。FDによってもたらされた敗北の傷の鬱陶しさがまた、単純に他人を蹴落とす快感によって消されたがっていた。清次は結局、当初の目的をきちんと達成することにした。昔から、決めたことはさっさと済まさないと気持ちが悪いタチで、だから宿題は出されたその日に終わらせ、喧嘩は売られてすぐに買い、女の子には惚れた直後に告白し、惚れた直後にフラれたものだった。それでもぐずぐずとした感情を抱えているよりは、清次にとって適切な行動であった。
「――ナカザト」
ベッドの傍に立ち、その名を呼ぶ。布団がわずかに動いたが、それだけだ。清次はワセリンのケースをジーンズのポケットに入れ、とりあえず布団の端を持って、どおりゃと引き剥がした。掛け布団を床に落としてから見ると、ベッドの上で寝ていた男は、起き上がってあぐらをかいていた。勿論こちらに向けているのは背であるが、清次がその体に触れようと手を伸ばしかけたところで、触るんじゃねえぞ、と、声は向けられていた。
「俺は、てめえをどうするか分からねえ」
落ち着いた響きがあるだけに、一抹の恐怖をもたらす声で、清次は手を引きかけた。ここまで恨まれているならば、もう関わるべきではないのかもしれない。理性は警鐘を鳴らす。だが遠い思考よりも、既に反応し始めている股間が、肉体を動かす優先権を持っていた。一つ息を吐き、伸ばした片手を下ろし、気配を消す。それから清次は男の背中へ両手を伸ばし、素早くその体をベッドに押し潰した。
「岩城!」
男が怒鳴る。清次は男の尻の上にまたがって、男の両肩をベッドに押し付け動きを封じ、どうやってこの牙城を崩すべきか考えながら、言葉を出した。
「そんな、怒んなよ。今度は良くしてやるからよ」
「殺すぞ、てめえ」
「いいよ。俺がヤってからなら、好きなだけぶっ刺してみろ」
耳へと唇を寄せて、囁く。あながち嘘でもなかった。この男を味わった後、この男の手にかかるなら、夢としてはいい終わり方だ。だが、現実としては、死にたくはない。だから、ここで男をどう扱うかが、この先の命にもかかってくるのだ。ぞくぞくする。清次はその耳朶を舌でなぞり、歯で挟みながら、股間を熱くした。大層刺激的な、この男との、初めてのセックスの始まりであった。
耳を唇と歯と舌でいじっていると、男の息は浅く短く、荒くなっていった。尻の下に敷いている尻が動くのが、分かる。清次は男の太ももを外側から足で挟み、一旦上半身を起こした。男はその隙に、両手をベッドについて体を動かそうとしたが、清次はその首の前に手を滑らせ、シャツの襟を掴み、男の頭が通るように広げてから、上方へ引っ張った。男は抵抗しかけたが、途中で止められても視界がなくなるだけだと気付いたのかすぐに協力的になり、厚手のシャツは多少の摩擦を生みながら、男の体から抜けていった。それからまたもや男は清次の下から抜け出そうとし、清次はそれより先に男の両腕を後ろからすくい、肘の部分を脱がしたシャツで強引にくくった。完璧な戒めにはならないが、それでもないよりマシである。袖を利用して固くきつく肘を縛り、何重にも結んでから、清次は慎重かつ大胆に、尻の体重を動かすと同時に男の肩に手を掛け、暴れかけた男の体をただちに仰向けにした。
「痛いばっかってのは、させねえよ。やっぱ俺、趣味じゃねえからよ、それは」
今度は男の股間にまたがって、やはり両の太ももは外側から両足で挟んで、声を落とす。男は下唇を強く噛み締めており、そこから血が出ているのを清次は見た。思わず、手を伸ばしていた。だがその唇に触れる前に男に顔を背けられ、清次はまあ後でいいかとその手と別の手でわき腹を撫で上げながら、まず胸に顔を寄せた。熱いのか緊張しているのか、肌は汗でじっとりと濡れている。舌でそれを更に濡らしながら、こちらは寒さでか緊張でか、立っている突起に辿りつき、そっと舐める。男の体は幾度も逃れようと跳ねるが、わき腹をくすぐるように撫でていると、こそばゆいのか、大人しくなった。良い機会だとばかりに、時間をかけて、両方の胸の尖りを舌で、歯で、唇で愛撫する。男の呼吸が止まることが多くなり、尻に敷いている股間がわずかに盛り上がっているように感じられた。そろそろ平坦な胸にも飽きてきたので、身を起こし、男を見下ろす。その赤く染まった顔、悔しげに歪んだ顔が、なぜか唐突に、まだ残っていた記憶の扉をこじ開けた。
「ナカザトタケシ」
清次が呟くと、顔をしかめたままの男が睨み上げてくる。清次は特に意味もなく、その名を繰り返してから、ふと気付いた。
「タケシの方が、言いやすいよな、お前の名前」
男の顔に、多くの不審と、少しの驚きが走る。偶然のタイミングだった。清次は尻を上げ、男の太ももを外側から抱えていた右足を抜き、男の胸に置いて上半身を制圧、左足と尻を動かして両足を上下から挟み込んだ。それが苦もなく進んだのは、つまり清次が思い出したからというだけで発した男の名が、男の意表をつき、男に隙が生まれたためである。負けたってのにツイてんな俺、と複雑に感じながら、清次は男のジーンズのファスナーを開け、ボタンも外して、下着ごと太ももまでずり下ろした。そしてまだ萎えがちの出てきたものを右手で掴み、柔らかくしごいていく。右足は胸から上げて、膝を折ったまま、今度は男の太ももの内側から入れた。男のものをゆっくり刺激しながら、左足も、ジーンズのウェスト部分に動きを阻まれている男の太ももの内側に入れて、剥き出しになっている男の尻に股間を押し当てた。男は逃げたいのか腰を揺らしていたが、それは清次の動きの手伝いにしかならず、徐々にそのものは硬度を増していった。
「ちゃんとヤッてんのかよ、お前。勃ちやすいんじゃねえの」
抵抗を誘発するだけだと分かっていたが、怒りや悔しさだけでないものを浮かしている男の顔と、汗で光っている肌やうねる筋肉、手の中で形をなしていくそれを見ていると、敗北の傷により鎮まっていた精神が肉体の熱を受け、欲を利用したがった。男が首をねじり、頬をシーツに押しつける。清次はそこで初めて、笑みを浮かべていた。
「まあ、走ってばっかじゃあ女もいねえし、オナニーしてる暇もねえか?」
そして脈打つそれを左手に持ち替えてなおも擦り、離した右手でポケットのワセリンを取り出し、蓋を開けて指に取り、予告もなしに尻の窄まりに入れた。男が唸る。中指で中にぬめりを広げながら、中心の充血をうまく保ってやる。ジーンズを太ももで止めたままなので、足の角度が開かず、ほぐすのに時間がかかったが、やがて三本は入るようになった。
「やめ、やめろ」
それまで呻くしかなかった男が、掠れた声を上げ、清次はその悩ましい響きと息に、脳を焼かれた。もう挿入したかったが、この情欲にまみれた声を途絶えさせる手もない。清次が目的を決めて両手の動きを連動させていくと、男は呼吸の合間に鼻にかかった声を出した。出ては絶え、絶えては出るその低く、高い音は、背筋を撫でるような甘い響きがあった。
やがて男は達し、清次は下着に染みを作っている自分のものを、ただちに男の尻へと差し入れた。完全に埋めてから、その太ももで止まっていたジーンズを、男の足から脱がせてやり、そして両足を大きく開かせると、我慢できずに激しく動き出した。
「う、あ、あ」
吐精したばかりの男のものは萎えきって、上がる声も苦しみばかりを表していたが、清次は構わなかった。とりあえず、一回出してしまいたい。自分の生命の危機については、それから対処しよう。この状況による快感を植えつけるには、こちらに余裕が必要だ。
「ナカザトタケシ、な」
疲労を覚える腰を少し休め、呟く。いいザマだな。すると、肉が動くのだ。やめられない。考えるのは次からだ。今はこの、全身を緊張させ、屈辱に震えている男を、全力で潰すだけだった。
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