真を貫く 3/3
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 痛みを主張する人間の唸り声、その耳障りさといったらない。清次はだから、長時間相手に肉体的苦痛を与えることは好まない。人を嘲ることが多いためか、この悪い人相と鍛えられた体のためか、喧嘩好きだと思われがちだが、血にも皮膚の裏の血管が破れる感触にも興味はなく、殴るも蹴るも、それ自体を目的とすることはなかった。ただ己の力の優位が感じられさえすれば、何でも良いのだ。こうして男に挿入していることもその一環だった。押し込むたびに上がる短い声だとか、冷たい汗でぬめる肌だとか、苦しげにしかめられた顔、だらしなく揺れる陰茎と陰嚢、反抗的に噛み付いてくる内部などを味わえば、男を完全に屈させている感覚を得、直接的な快感の上に精神による煽りが加味されて、動きも速まる。
 通常よりは放出も早まった。
 男の腸内へと精液を吐き出して力尽きたものはそのまま内部に埋めておき、清次は男の肩の横に一旦手をついて、体重を移動し、両肘を下ろした。男の顔が真下にあった。その男の、不快感むき出しのしわだらけの顔を鑑賞しながら、さて次はどこから責めるかと考えようとした清次は、思わず唾を飲んでいた。艶かしく赤味の差した肌を、その上を覆う粘ついている汗が浮き立たせ、やり切れないように噛まれ、血糊がついている肉厚の唇は、誘うようにより赤い。目は充血し濡れており、眉もまつげも細かく震え、男のうちにある、何かの感覚を表しているようだった。それら拡大された部位が頭の中で集合し、一つの映像として組み上げられ、頭で知るより先に、清次の心臓を締めつけた。再度唾を飲んだ清次を、小さく息を吐いた男が、不審げに、憎らしそうに見上げてくる。その、ぬらぬらとした目が、その視線が、後頭部に突き刺さり、うなじを焦がされたような気がした。そこから全身の毛が、ちりちりと焼かれていく。胸が締めつけられているようで、呼吸が苦しくなる。鼓動が激しくなり、血圧が上がる。この、下腹部は放られながらも、手足の爪の先まで全身を気だるく支配する、熱く、甘い疼きには覚えがあった。こんな状況で、一つ一つの細胞にまでその根が埋め込まれることなどなかったが、確かにそれは、相手がこちらを断ち切る時以外に滅することがありえない、厄介で、だが何をどうしても自ら捨て去ることのできない感情だった。
 それを自覚してなお、考えて事に当たる、ということは清次にはできなかった。顔を寄せ、血餅に覆われた下唇の端を舐め、口腔まで塞ごうとすると、男は首を振って逃れていく。更に、清次の腰に広げられている足で、萎えたものに貫かれたままにも関わらず、わき腹や背中を蹴ってくる。清次は緩慢に訪れる痛みも暴虐になした行為への贖罪の充実感として味わいながら、一旦唇を離し、男の頬を両手で挟んで動きを封じて、真っ向から見下ろす。
「いいぜ、お前は」
 不審一色に染まった男の顔を皆まで見ず、清次は再度唇を重ねた。鉄の味がする。男の歯は堅固に合わされているので、唇の間だけを舌でこじ開け、歯茎をぞろりと舐める。男が唸る。足が肉を打っていく。それでもキスをしたくてたまらなかった。殺意がどうの生命の危機がどうのということは、最早どうでも良かった。この男の、今はこうしてしかめられている顔が、解かれ、快楽をともにしていくさまを、見たい。それをなしえたい。それを、してやりたい。この剛健さを強調したがっている男に、苦痛を堪える姿など似合いすぎて、だから似合わないのだ。それを、先ほどの一瞬で、理解した。似合わないことなどさせたくない。似合うことを、この男らしいことを、見たくなった。
 清次はまた唇を離して、今度は右手でがっしりと男の顎を掴み、左手でその鼻をつまんでから、口を塞ぐ。男が暴れる。その動きがもたらす刺激で、自分のものが徐々に立ち直っていくことを清次は感じていたが、それは二の次だった。目の縁を真っ赤にした男が、やがて酸素を得るために、閉じていた歯を開く。風が通ったそこへ、清次は舌を入れた。男の歯にぶたれても、ためらわずに進め、その舌の独立的な動きを感じると、体の中心が益々熱くなり、意欲が増した。
 できればいつまでもしていたかったが、苦しませ続けても目的に適わないので、顔を離し、幾度も指の下で開こうとしていた鼻も解放する。途端、男は胸を反らして大きく息を吸い込み、咳き込んだ。腹筋を絞り、げほげほと咳をして、それでもなお呼吸を大きく取り、そしてシーツの上に再び体を沈ませた。身を起こしていた清次は、眉根を寄せながら、その辛そうな動きを下に眺めた。これ以上、痛めつけるつもりはない。それよりも、快感を与えてやった方が面白いし、何よりこの男にはわずかでもいいから、行為における絶頂感を味わってもらいたい。その姿を、一目でいいから見てみたいのだ。だが、そのために相手の抵抗を減ぜようとすると、結果的に乱暴になる。現に今、両腕はその背の下で戒めてあるのだ。もうこの際、抵抗されない部分で終始するべきだろう。
 苦しげな喘ぎから、呼吸を平常にした男の喉に、清次はまず唇を寄せた。男の唾の飲む振動が伝わり、頚動脈の強い脈動も舌に感じられた。嫌いな相手からこうされたところで、不快感しかないかもしれない。それでも可能性があれば、一つずつ潰していく。良い意味で清次が馬鹿と表されるのは、こういった単純で根気の要る肝心な作業を、丁寧に無駄なく行えることで、悪い意味で表されるのは、それらを加減をせずにやり尽くしてしまうことだった。左手は指で男の耳介をそっと撫でながら、右手は掌で内腿をべったりと撫でながら、唇は喉を下り、鎖骨のくぼみに息を当てる。肌に吸いつき、舐め、更に下っていき、左手を耳から顎、喉へと唇に遅れて滑らせ、胸で追いつかせた。しっかりとした尖りの、片方は周りを指でなぞり、片方は舌先で天頂をちろちろと舐める。そして内腿に汗を塗りこむように這わせていた右手で、互いの腹の間にある、へたりきっている男のものを包んだ。
「……ぐ」
 男でも女でも、清次にとって肉体の痛みを主張する声は耳障りだった。だが、限定された人間の声であれば、何だって脳髄は溶けそうになる。感情の問題だ。その感情が生まれてしまえば、相手を求める欲を、止めようがない。欲望は思考の上に立つが、更にその上に感情が立つのだった。だから男の苦しげな呻きにも、清次は煽られるのみだった。近頃あまり使っていなかった息子が、自ら出したものにまみれながら、男の中で臨戦態勢を整えていることを感じる。それでも清次はゆっくりと手を、口を、舌を動かし続ける。下半身はもぞもぞとするが、時折位置を変えるだけにして、徐々に、ゆっくりと硬度を増していく男のものを育て上げることに集中した。息の前後につく男の声は、今までにないほど高低が激しくなり、清次の手は男のものから出る液で濡れた。それでもなおゆっくりとしごきながら、触れ続けている胸の突起を軽く噛むと、男は小さく声を上げて背を反らせ、だらしなく開かれていた足で清次の腰を挟んできた。ただ、刺激に抗うために全身に力を入れているだけなのだろうが、それにしても強烈だった。清次は男の胸から顔を上げ、両手もそれまで触れていた場所から離し、男の尻を抱えるようにして体勢を整えた。
「こっちで良くなってもらわねえと、意味ねえからな」
 一層腰を押し込むと、男が呻いた。腰を挟んできていた足が緩まり、再びシーツの上に力なく落ちる。勃起は保たれている。それまでにないゆっくりさで、清次は動く。ぎりぎりまで引き抜いて、角度を変えて埋め、あますところなく擦り上げていく。
「……ッ、う、う……」
 慎重に、男の反応を窺いながらの行為だった。そのゆがむ顔、赤く染まった肌、体の動き、中の動き、声。何が満たされているのか、何が足りないのかを探るこの気遣いこそ、清次がセックスを捉える上で不可欠の要素だった。そしてこの日常生活とそぐわぬしつこさのため、多くの人間が清次の元から去っていったものだが、どうしても性分は変えられなかった。感情に根ざした挿入は、感情によって動かしたいのだ。とにかく、今は男の、その顔の強張りを解きたかった。注意深く様子を観察しながら、少しずつ、動きを大きく、速くしていく。そうして慎重を期していても、男の内部を味わっていると、つい言葉が漏れていた。
「他の奴らにさせるのは、もったいねえな。させたくもねえ」
 実感だったため、男が聞いていることを失念し、言って少ししてから焦ったが、男のものに差は表れなかった。それどころか、こちらを受け入れるように、男の足が腰に擦り寄ってくる。それは男が、刺激に耐えるゆえだと分かっていた。だから清次は、わざと言葉を続けた。
「まあお前がしてえなら、俺が止められるもんでも、ねえけど……気持ち良いなら、な」
「じょう、だん、じゃ……、あッ」
 言い返してきた男は、清次の動きに対応して、最後に言葉にならぬ高い声を上げた。心なしか、男の体が艶かしくなっている。贔屓目かもしれないが、男の内部の変化を示しているようにも感じられ、清次は少しずつ、調子を上げていった。
「俺よりうまい奴が相手なら、満更でもねえ、だろ」
「んな、わけ……」
「そうか? だって俺でさえ、お前、こうだぜ」
「――あッ、あ……」
 一度口が開かれると、閉じようがないらしかった。多少荒々しくしても、男は声を止めず、また勃起も止めなかった。いい体だな、と清次は改めて思う。体だけでなく、その感情を反映させやすい表情も、様々な効力を持つ声も、中途半端な反抗も、自制も、甘さも、何もかもがしっくりとくる。溺れそうだ。ナカザト、と呼ぶと、きつく締めつけてくるのが、またたまらない。気付けば、最初と変わらぬ勢いになっていたが、男はそれでも痛みを訴えてはこなかった。清次は感嘆の息を吐きながら、自分の欲望を抑えながら、男の内部を貫き続ける。男が大きく頭を振ったのは、その時だった。
「あ、あ……やめ、やめろ、やめろ、やめろ!」
 男の悲痛な制止の声も清次は無視し、同じ調子を保った。その叫びが皮膚の断裂を生むような痛みに由来しているのであれば、迷わず停止したところだが、こちらのものを取り囲む男の肉は高い柔軟性を持ち、離すまいとしがみついてきているようにも思えた。であれば、ここでやめては大きな罪だ。清次は手の下で震える男の太ももを感じながら、これまでで一番男が固くなっていた場所を狙った。
「やッ……あ、あ、ああッ……」
 切れ切れの裏返った声を男は上げ、反りかえって揺れていた男のものがひとりでに精液を吐き出した。わなないた男が、やがてぐったりとシーツに沈む。そして清次は男の中に入れていたものを引き抜いたが、既に射精は終えていた。
 ベッドの横のテーブルにあるティッシュをばさばさと取り出し、残りを絞り出しながら満足げな自分のものを拭い、ズボンにしまうと、それから荒い息になっている男の、まだ閉じていない窄まりに指を入れた。動く男の足を軽く押さえながら中をえぐり、清次は言う。
「出すだけだ、他に何もしねえよ、もう」
 自分が放った液体を掻き出して、汚れたティッシュをまとめてゴミ箱に入れてから、清次は男を裏返し、両腕を縛っていた服を取り除いた。弾けるように男の両腕が左右に広がって、シーツに肘がつかれ、その筋肉が震えながら、身を起こそうとする。清次はその脇の下に腕を差し入れ、手伝った。抵抗はなかった。荒げた息のまま、男はベッドの上で足を崩して座っている
「おい、シャワーを浴びた方が――」
 清次がかけた声は、途中で断たれた。鼻に熱いものを感じた。男の拳だった。こちらを振り払うように出された裏拳が、丁度鼻頭に当たったのだ。衝撃に膝から力が抜け、清次は尻餅をついていた。ぬる、と鼻の奥から何かが垂れていくおぞましい感触があり、唇から顎を滴ったそれを手で拭うと、案の定血であった。鼻の奥がじんじんとする。しかし、強い痛みではないから、血管が切れた程度で、骨は折れていないだろう。
 清次は冷静を心がけながら、重力に従って床へと流れて落ちて血を、上を向くことで内部に戻した。そして部屋の蛍光灯の光線を背にして立つ、素裸の男を目の前に見た。その光景から、妙な興奮を得たことを清次は否めず、そのため男の踵がこちらの鳩尾に押し込まれた時、腹筋を固めるタイミングが遅れ、直に胃に衝撃が走った。内臓がうねる感覚に耐えられず、腹を抱え、額を床につける。次には背中に打撃を受けた。三回だ。その間に鼻血が小さな円を床に作り、頬がそこに浸かった。
 清次はそのままじっとして、第一波は終わったらしきことを確かめると、顔を上げた。男は目の前に、片膝を立てて座り込んでいた。腕がその上で、顔を隠している。短く浅い呼吸がその体から行われており、清次は声をかけようとしたが、食道まで逆流してくる予兆を得て、まず口を押さえながらトイレに向かった。前回帰る間際に寄ったから、場所は分かっていたのが幸いし、反吐は洋式便器の中へと落ちていった。その臭いに刺激され、繰り返し吐いてから、口に残った唾と消化物を吐き出す。むかつきは取れた。反吐と鼻血が加わってすごい様相を呈している水を流し、漏れ出た涙と鼻水を拭って、きっついなこりゃ、と一息つくと、頬に何かが当たる感触がして、
「うわっ!」
 と、清次は驚き飛び上がるようにして振り向いた。目の前にあったのは白いタオルで、それを掴んでいる手の主は、パンツとシャツを身につけた男だった。
「な、何だ」
 驚きを消せずにいる清次が訝ると、暗鬱な顔をしている男は、タオルを清次の体の上に落として背を向けた。そして足を引きずるようにして歩くと、別の部屋に消えた。そこが風呂場であると清次が分かったのは、受け取ってしまったタオルで口の周りと顔についた体液と鼻血を拭き、もう一度水を流して手を洗うとともに口もすすぎ、トイレットペーパーで鼻をかみ、それらが加わった水を更に流してから、シャワーの流れる音がしたためだった。

 鼻に詰め込んだティッシュを取っても、血はもう流れてはこなかった。まだ熱はあるが、痛みは薄れてきている。清次は汚れたティッシュをゴミ箱に投げ込み、男のベッドに寝転がった。それだけで悲鳴を上げる腹と背中にはあざが残りそうだが、どうせ見られる場所ではない。それに、まだ増えるのであれば、この程度を気にしてなどいられないものだ。シャワーの音は続いている。自分の出した血は拭き取ったし、汚れたタオルはひとまず洗ったし、乱れたベッドも一応は整えた。本当は、ここで帰るべきなのだろう。そしてまた、何もなかったかのように現れれば、同じことを繰り返せるかもしれない。だが、もう不意打ちはしたくなかった。正々堂々と相対したいという、矜持が生まれていた。蹴落とす相手ならいくらでもいる。抱えたいと思う相手は、そうそういないのだ。
 シャワーの音がやみ、清次はベッドから起き上がって、とりあえず立った。男が出てくるまで時間がかかった。倒れでもしてんじゃねえか、と心配になってきたところで、先ほどと違うパンツとシャツを身につけた、濡れた髪を下ろした男が、先ほどと同じように足をひきずるようにこちらに歩いてきて、一切視界に入れることなく横を通り、ベッドの端にもどかしそうに腰を落とすと、見下ろす格好になった清次を、そこで初めて睨み上げてきた。
「失せろよ」
 低い、どすの利いた声だった。そうはいかねえ、と清次が睨み返すと、男は湯上がりだというのにすごみを増していく。
「てめえ、殺されてえのか」
「殺されたくはねえけど、お前がそうしてえってんなら、できる限りのことはしてやりてえと思う」
 が、清次が思いのままを言うと、「は?」、と男は頓狂な声を上げ、意味を解せぬというように、口も目も大きく開けた。いや、と落ちてきている前髪を汗を利用して後ろに撫でつけながら、清次は分かりやすくなるように続けた。
「世の中命あってこそだけどな、でも俺ァ、好きになった奴には何でもしてやりてえんだ。だからよ」
 男の目も顎も落ちていきそうだった。やっぱ目ェでけえよなこいつ、と驚愕のために上下が分離しそうになっている男の顔をまじまじと眺めつつ、清次が思っていると、男は目を閉じ口も閉じ、普通の顔に戻ってから、改めて目と口を開いて、存在自体を信じられぬように清次を見上げてきた。
「何……何だって?」
「だから、俺はお前に惚れたんだ」と清次は素早くきっぱりと言い、「……いやでもやっぱ殺されるのはちょっとな、まあどうしてもっつーなら考える他はねえけど……」と躊躇した。いくら好きな相手にとはいえ、命を絶たれるならばそれ相応の、厳格な理由を求めたい。だが清次がそうしてまだ反抗的に落ちてくる前髪を後ろに押しつけながら逡巡していると、待て待て待て、と男は慌てたように、しかし深刻に片手を上げた。
「お前、待てよ……惚れたァ?」
「ああ」
「お前、あんなことしといて惚れたも何も……」
 男はそこまで言ってあらぬ方向を見、『あんなこと』について考えたのかしばらく硬直していたが、やがてはたと気付いたように、清次に目を戻してきた。
「っつーかお前、男じゃねえか」
「ああ、男だぜ」
「俺も男だ」
「ああ、そりゃそうだろ」
 何をこいつは当たり前のことを言ってくるんだ、と不可解に思いながら清次が肯定すると、男は二の句が継げなくなったようで、沈黙が生じた。清次がそれを壊そうと口を開きかけたところで、男が先に声を発した。
「何で、それで俺なんだ」
 何でって、と清次は髪を後ろで結んでいたゴムを取り、前髪ごと結い直しながら、好きになったからよ、と答えた。男はぎち、と歯を噛むと、細く鋭い息を吐き、怒りに満ちた目を向けてきた。
「だから、普通、てめえみてえな奴が、俺を、野郎で、好きになるって、何だ?」
 男は混乱し切っているのか、日本語すらも怪しくなっていたが、清次は問いの意味は理解した。つまり、なぜ自分がこの男を好きになったかということだ。となるとやはりあの途中での苦しげな顔にヤられてしまったというのがきっかけではあるが、それが絶対的な理由であるかというとそうとも言い切れない。とにかく今こうして見下ろしていても、見上げられていても、それだけで満ち足りる心がある。それが最大の理由だった。しかしそれではこの男も満足しないだろうから、いや、と清次は鼻の頭に浮いていた汗を拭いながら、あまり得意ではないが、なるべく筋道を立てて話すことにした。
「最初はどうでも良かったんだけどよ、よく考えたら、お前の顔とか雰囲気とかは俺の好みで――」
「いやいいもう何も言うな」と男は片手を上げて一息に言い、頭を振った。「お前は帰れ、今すぐ出て行け。そしたらこれまでのことは、もう、不問にしてやる」
 神経をすり減らしているらしき男の、最大の譲歩のようだった。しかし別段清次は無罪の証明を貰いたいわけでもなく、また折角の経過説明の努力を台無しにされたわだかまりはあったので、男のご立派な譲り合いの精神についても無視をした。
「なあ、その前に一つ、頼みがあるんだけどよ」
 断る、という内容が示されないうちの男の言下の拒絶も気にせず、俺と付き合ってくれ、と清次は続けた。男は目を閉じ、数秒不快そうに歯軋りをすると、かっと目を開いた。
「ぶん殴るぞ、マジで」
「それで付き合ってくれるなら、いくらでも……」
 だあッ、と男は天を仰いで頭を両手で押さえ、それから両腕を振り下ろし、怒りの顔で、叫ぶ。
「何だ、てめえは、マゾか!」
「え、まさか、俺は痛いのはイヤだ」
「何がイヤだだ、俺だってイヤに決まってんじゃねえか! だってのにてめえは俺に、いや、だから……ああ? 何だ、もう……おい、岩城、お前頼むからもうこれ以上、俺の頭を煩わせねえでくれ」
 男は俯き片手で顔を覆い、片手を虫でも払うように振った。そう言われても引き下がるのは意にそぐわないので、清次は説得を試みようと、
「ナカザト」
「てめえが俺の名前を呼ぶな」
 まず名を呼ぶと、そうして即刻冷たい声で命令されたため、じゃあタケシか、と呟き、男が憤怒の形相になったので、おい、とそこは触れずにいくことにした。
「もう俺は、あんなことはしねえよ、お前がしたくねえならそこでしたって仕方ねえし、俺はお前の喜ぶようなことをしてやりてえんだ」
「じゃあ帰れ、お前、今すぐここから失せろ、そして俺の前に二度とそのツラを見せるんじゃねえ。それが今の俺にとって最も喜ばしいことだ」
「いや、それは俺にとっちゃ喜ばしいことじゃねえしなあ」
「だからお前、俺のことが好きじゃねえのかよ! だったら俺を喜ばせろ、それが第一だろうが!」
 男は叫びながら立ち上がり、そして顔をしかめて唸り、慎重にベッドに腰を戻した。そりゃまあ、と清次は首筋を掻きながら言葉を濁した。それが第一ではあるが、会えないともなると最低の欲求すら満たされないので、否定も肯定もしようがない。しかしこのまま黙りこくるわけにもいかないので、とりあえず話の方向を戻すことにした。
「お前よ、今付き合っている奴とかいるのか?」
 いねえけど、と男は素直に呟いてから、ばっと清次を仰ぎ見、いや関係ねえだろお前に、と不平そうに言ったが、その語尾に重ねるように、清次は言葉を続けた。
「だったら俺も諦めるけどよ、いねえならそこは、チャンスがあるだろ」
「ねえよ、あってたまるかこの野郎」
「別に俺は、お前に俺を好きになってくれっつってんじゃねえんだぜ。嫌ってようが構いやしねえ。でも俺はお前が好きなんだ。だから付き合いたい」
 清次の告白にも、男はまったく不可解そうに眉間にしわを作り、理解しがたいように首を傾げ、大きく息を吐いた。
「お前、良く分かんねえが、付き合うってのは、互いに……その、好き合ってこそじゃねえのか」
 まあ基本的には、と言いかけ、ん?、と清次は首を傾げた。好き合うことにより付き合う状態が成立するならば、相手に嫌われている状態をもってして付き合うことを成立させるのもナンセンスな話だ。これは根本の発想を転換することが必要である。付き合うことにこだわらず、この男とその感情を介して接せられる環境を作りさえすればいいのだから、つまり――。
「よし、分かった」、と清次は男を改めて見下ろし、頷いた。
「友達から始めよう、それならお前も文句ねえだろ」
 しばらく唖然としていた男は、やがて再び大きく息を吐き、絶対分かってねえだろお前、と呟いた。否定はされなかったので、清次はそれはそれで良しとして、今後に話を進めた。
「また来ても、いいか?」
「駄目だっつったら、来ねえのか」
 睨まれ、答えに窮した。期待と欲と理性がせめぎ合い、勝利をしたのは感情だった。
「まあ、そこまで断定されちゃあ、ここに来るというのも考えもんだが……」、と清次が考えながら言うと、男はクソ、と舌打ちして、細いため息を吐き、
「分かった、別に……いいけどよ」
 と頭を振った。ホントか?、と嬉しさとその心変わりへの怪訝さ半々に顔を開くと、だがな、と男が厳しい表情と声音を保ったまま、こちらに指を突きつけてきた。
「てめえ、俺に、二度とあんなマネしやがったら、今度こそ、どうなるか分かんねえぜ」
 殺意の閃いている目に射抜かれることをどこか心地良く感じながら、やらねえよ、と清次は両手を上げた。「お前が嫌なら一生しねえ。約束する」
「そんな約束するくらいなら……いや、もういい、いいから、分かったら帰ってくれ」
 男は再び虫を払うように手を振った。清次は両手を上げたまま頷き後ずさりかけて、あ、と思いついた疑問を口にしていた。
「ところで、キスも駄目か」
 手で覆われていない男のこめかみに浮いた青筋が、ぴくぴくと動いた。その血の沸騰を奥底に感じさせる掠れた低い声で、男は言った。
「……ダチ同士でキスするなんざ聞いたことあるのか、てめえは」
「じゃあ、チンコ触るくらいなら――」と清次は更に問いかけたが、その途端に男はバネ仕掛けのような勢いでぐんっと立ち上がり、
「帰れ!」
 と、指を突きつけてきたまま、真っ赤な顔で、また恐ろしく怒鳴った。
「じゃねえとてめえ、二度と敷居をまたがせねえぞ、コラァ!」
「……わ、分かった。帰る。じゃあな」
 清次は素直に頷いて、くるりと背を向けると慌てて廊下を駆け抜け、靴を履き、鍵を外してドアを開け、外へ出た。あぶねえ、と胸を撫で下ろす。あの男よりも威厳も威圧感も上である人間の横に常にいるため、多少凄まれても動じないだけの胆力はついているが、どうも怒りを呈されても同等に返せず、かといってからかうこともできなくなってきている。何でこんなことになってんだ、と思わないでもないが、惚れた弱みだと思えば諦めもついた。それはそれで、面白味はある。清次は踵を踏んだままの靴を履き直し、自分が出てきたドアを見た。
「中里」
 そして肩をすくめて車に戻る道を歩きながら、やっぱ言いづれえな、この名前、と呟いた。
(終)


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