還らぬ時間 1/4
(-5)
夜の山にはまだ、首が冷えるような空気が立ち込めていた。寒いと体を震わせている奴もいれば、もう春だなとTシャツで笑っている奴もいる。
中里毅は懐かしい匂いを感じた。
既に年度は変わっている。その前から峠には幾度も足を運んでいるが、チームとして集まるのは今日が初めてだった。走りから、あるいは群馬から離れた人間がいる分だけ、見慣れない人間もいるようだった。だが、妙義ナイトキッズの面子は大きく変わってもいない。メンバーとしての再会を済ませた後は、各自騒ぐなり走るなり神妙になるなり、勝手気ままにする走り屋ばかりだった。その統一感のない男たちがかもし出す猥雑な匂いを、中里は懐かしく思った。
冬の間は峠道でなくともそれなりのスリルを味わえるため、わざわざ山に入ろうという者は少ない。元来規律だの統率だのとは無縁なチームは休眠状態だった。集い始めるのは年度が改まり、大半が新生活に馴染み出した頃で、集合日時が指定されるのではなく、皆が何となく丁度良いと思った日を示し合わせて集まるのだった。
勝手なチームだ、と中里は思う。モラルも何もあったものではない。ぶつけたぶつけられたは日常茶飯事、プロレスごっこで眼鏡が割れた、何となく蹴ってみたらマフラーが壊れた、ウィンドウが叩き割られた、そんなこともまれにあった。一応走り屋のチームではあるのだが、暴走族と間違われても仕方がないという節もある。ただし、何をやっても自己責任とされる。チームが一人を庇うことはない。ならなぜチームに入るかといえば、何となくというのと、その中でしか出会えぬ仲間がいるからというのが大半だろう。ナイトキッズには妙義山のダウンヒルとヒルクライムのコースレコード保持者がいる。ヒルクライムは中里だった。日産スカイラインR32GT−Rに乗っている。その威光を目当てに入ってくる者もたまにいるが、そういう奴は大抵チームの場当たりさに馴染まず去っていく。黄色い歓声など夢のまた夢、歓声自体にとんと縁がないような野郎どもの集団に残るのは、よそ目をほぼ気にしない、良くも悪くも我が道を行く図太い神経の持ち主だけだった。
そんな好き勝手な走り屋で構成される妙義ナイトキッズは本日、各々の適当な時間調整によって、久々にほとんどのメンバーが峠で顔を合わせたのだった。
まだ生きてやがったのか焼香上げる準備してたのに、金貸せ金返せ金寄越せ女を寄越せという風情も何もあったものではない挨拶を交わした奴らは、個々人で夜の峠を楽しみ出した。そうして一通りの再会の騒ぎが終わり、中里は親しいメンバーの輪に入りつつ、懐かしい空気をしみじみと味わっていた。
「けど、あいつもいなけりゃいねえで寂しいもんだな」
不意に視界に男の顔が広がり、中里はぎょっとした。笹間だった。短く整えられた黒髪に隠れない左のこめかみに、五センチほどの長さの傷を持っている。金属バッドで殴られただの路傍の石で殴られただのと吹聴するが、真面目腐った奴だった。笹間は中里を見ながら何か言ったようだったが、ぼんやりしていた中里は言葉を聞き逃した。
「何?」
「慎吾だよ。きちんと就職しやがるんだもの」
笑いながら笹間が言う。笹間の隣で寒そうに腕を組んでいる橋行が、「東京だっけ?」と震えた声を出した。
「いや、俺は中国地方って聞いたぜ」
「俺は京都とか聞きましたよ」、と細く黒いフレームのついた眼鏡を指で上げながら、意外そうに谷口が言う。
「おい、何でこんな情報錯綜してんだよ」
「あいつフカしまくってたんじゃねーの?」
「ま、あいつの言うこた何であれ信用できねーでしょ」
げらげらと三人が楽しげに笑う。
中里は、ポロシャツのポケットから煙草とライターを取り出した。一本咥えて火を点ける。指先が震えていた。吸った煙をゆっくりと吐き出すと、笹間が笑ったまま見てきた。
「どうした、毅」
「あ? ああ、いや……」
言葉を濁しているうちに、橋行が話を再開させていた。
「そういやあいつ、結局どこ勤めてんだ」
「営業っつってた気もしますけどね。ただ学校いる間に無駄に資格取ってたらしいですから」
「あの性格で事務屋はねえだろ」
「案外猫被ってるかもしれんぜ」、笹間が笑いながら言った。
「公務員か?」
「転勤あるから嫌っつってましたよ、公務員は」
「っつーかあいつじゃなれねえだろ」
「成績良かったみてえっすけどねえ、一応。奨学金貰ったとか言ってたし」
谷口が眉唾ものだというように言い、笹間も橋行もまた笑った。中里はただ煙草を吸っていた。
「毅?」
訝しげな顔が目の前にあった。偏屈そうな鷲鼻と目、金髪。橋行だ。
「あ?」
「どうしたんだよ、お前」
「いや、どうもしねえよ」
出した声は掠れていた。煙草のためとは言い切れなかった。空気が、変わった。沈黙が走り、笹間がそれを破った。
「お前、知らなかったのか」
気付けば三人全員に見られていた。その途端、全身が鉛のような疲労の中に沈み、中里は慣れぬ苦笑を浮かべていた。
「まあな」
「え、でも三月中にはあいつ越してんだろ」
「連絡、取ってねえしよ」、と言って中里は煙草を咥えた。
「まあ、俺も家電貰う時にちょっと聞いただけなんすけどね。仕事するから高飛びするとか、ケータイも変えてばっくれるとか」
「おい」
笑っている谷口を、笹間が横目で見た。谷口は肩をすくめた。また沈黙が走った。中里のためであることは明らかだった。苦笑を何とか軽い笑いに変えようと中里は努力したが、三人の顔を見ると、成功したとは思えなかった。それでも、いつも通りに言葉を発そうとした。
「ま、せいせいはするぜ。あいつはやかましかったからな」
声は震えはしなかった。橋行がわざとらしい下品な笑いを続けた。
「確かに、あいつほどうるさくねえのにやかましい奴はいなかったよな」
「ホントっすね。これで胃痛持ちも減るんじゃねーすか」
谷口が軽々しく笑う。中里は煙草を吸った。手は震えていた。笹間が横目で訝しそうに見てきているのが分かったが、どうしようもなかった。煙草を咥えたまま、中里は言った。
「俺は車に戻るぜ」
「おお」
橋行と谷口は下品に笑い続けながら、笹間は真顔で頷いた。中里は三人に背を向けた。足は不足なく動いた。それでも膝の関節がおかしいように、地面を踏んでいないように感じられた。目の前の、去年と変わらぬはずの走り屋たちが集っている景色が、まるで未知の世界に見えた。歩いているうちに、煙草が口から落ちた。足元を見る。まだ長い。火種がある。それをどうするべきか分からず、中里は捨て置いた。スカイラインに乗り込んでも、何をするべきか分からなかった。何を考えるべきか分からなかった。どこへ行くかも考えずに運転しているうちに、山を下り、市街地に出ていた。意識もせぬまま路地に入り、何度も通ったアパートの前に車を停めた。くすんだ白い壁とくすんだ赤い屋根。一階の左側。電気が点いている。共同玄関に入り、左手側のドアの前に立つ。見慣れぬ表札がかかっていた。中里はそれを確認してから、スカイラインに戻った。
峠に戻る気はしなかった。夜はこれからだ。チームのメンバーは不思議に思うかもしれないが、個々人の事情などは噂の種にしかしない奴らばかりだ。いずれ忘れるだろう。中里は一つため息を吐いてから、車を発進させ、家に向けた。帰宅した。
部屋に上がり電気を点け、ベッドの端に腰を下ろし、着替えもせずにまず携帯電話を手に持った。液晶画面を表示してから気が付いた。住所以外は何も知らない。
携帯電話を閉じ、テーブルに放る。机上を滑った携帯電話が、灰皿を床に押し出した。中里は腰を上げ、床に落ちた灰皿をテーブルに戻した。テーブルから煙草の箱とライターを取り、一本咥え、火を点けてから、床を見る。ベージュのカーペットに、細かな灰とひしゃげた吸殻が大量に散らばっている。
――吸殻溜め込む柄かよ、お前。
不意に、嘲笑を含んだ低く艶やかな声が脳内に響いた。そうして唐突に、庄司慎吾という男が、自分の手から離れたことを、中里は感じた。
好きだと言ってきたのは、あの男だった。ヤりてえんだ、と真正面から言ってきたのは庄司慎吾だった。跳ね除けられなかったのは中里だ。慎吾の部屋だった。ベッドに腰掛けていたところを押し倒された。突然のようでもあり、自然な成りゆきのようでもあった。ただ、さすがに慎吾から告白されるとは中里も考えていなかった。男同士だ。それは前提として、しかし、好かれているとは予想だにしていなかった。
初めて会ったのは、去年の六月十二日だった。赤いシビックのドライバーがタイムを計らせろと言っている。見たことのない男で、傲岸不遜。口が達者で自分では処理の仕様がない。新参のメンバーは泣きそうな声で連絡を入れてきた。下の駐車場にいた中里は、好きにさせてやれと言った。ただでさえナイトキッズは華やかさが欠片もないためか人気のないチームだ。峠を半ば占拠しているような形にもなっている。ここで他の走り屋の不平を買ってはチームの名が地にまで落ちかねない。タイムを計るくらいの融通は利かせてやってもいいだろうという判断だった。そしてダウンヒルを攻めたシビックの叩き出したタイムは、中里の自己ベストに肉薄した。
そのシビックのドライバーは、鬱陶しく伸ばした前髪を真ん中で分けていた。鉤鼻気味で、頬が出ており、唇は薄かった。特徴的なのはその目だった。爬虫類のようなぬめった光を持ちながら、猛禽類のような鋭さを秘めていた。それのおかげか、茶髪と険のある顔貌だけではチンピラ風情であったものが、男は何か貫禄のようなものをまとっていた。
名乗りもせず、ここで走るのは初めてかと中里は男に尋ねた。当時で妙義で走り始めて三、四年目だった中里が見たこともないドライバーだった。礼儀も知らねえ奴に答える義理はねえな、と男はひねた風に笑いながら言った。速いが気に食わねえガキだと思って中里は顔をしかめた。その速いが気に食わねえガキが、庄司慎吾だった。
シニカルという言葉がよく似合う男だった。中里が妙義山のコースレコードを保持していることを知った途端、目の敵にしてくるようになった。幾度嘲られたか分からない。何度蔑まれたか分からない。慎吾は粗野になるすれすれの丁寧な冷笑を浮かべながら、人を侮蔑してきた。いくら下りで速かろうとも、そんな相手を中里が好くこともなかった。少なくとも秋口まではそうだった。慎吾の中里に対する態度が変わったのは、秋名のハチロクに慎吾自身が負けてからだ。秋名山のダウンヒルをべらぼうな速さで駆け抜けるハチロク、中里はその車に秋名山でバトルを挑み、先に敗れていた。続いて慎吾が敗れていた。それも右手をガムテープでステアリングで固定する、FR車潰しのルールで行われたバトルでだ。そこでの敗北の何が慎吾を動かしたのか、中里には分からない。ただ、変わらず慎吾はシニカルだったが、それ以後敢えて中里を罵ることもなくなった。そうなると、中里も忌避する理由を持たなくなる。距離が縮まっていた。赤城レッドサンズとの交流戦、栃木のランエボ集団と続けざまに中里が負けてからは、距離がどうのとも考えなかった。同じチームのメンバーで、記録を争う走り屋。そういうことになっていた。
それ以降慎吾とバトルは一度もしなかった。より研鑽を積み、新たな自分の走りを組み立てるまでは、他人にかかずらっている場合ではないと考えていた。だが冬も間近になっていたある日、バトルをしないことを腑抜けただの何だのと勘違いした慎吾と、碓氷峠最速を誇る走り屋、シルエイティ乗りの女性二人組が、箱根の島村栄吉とのバトルを設定してきたことがある。その当時で一年九ヶ月前、シルビアに乗っていた頃、妙義山に来た白いR32GT−Rに乗った島村に、中里は破れ、それを機としてR32に乗り換えることとなった。それと現状と何の関わりがあるのかは分からなかったが、煽られた以上、乗らずにはいられない気性を中里は持っており、結局バトルをし、島村には勝利をおさめた。その直後、シルエイティの片割れである女性に中里は告白をした。つまり、そこまでセッティングをしてくれるならば、好意を抱いてくれているだろうという確信のもとだった。だが、それこそ勘違いだった。その夜自宅で散々飲んで中里は翌日ひどい二日酔いになっていた。それでも峠には行った。慎吾はうんざりしたような顔をして、俺の部屋に来い、と言ってきた。交流戦以後、特に何も用はなくとも、互いの自宅を行き来するようになっていた。招かれることには疑問を覚えなかったし、よく分からないが慎吾なりの気遣いなのだろと解釈して、中里は頷いた。
あいつはやめとけ、と部屋で一人で発泡酒をやり出した慎吾が言った。良い男の前じゃ猫被る。今時三高信仰者だ。あいつ以外にこの世に女は山ほどいる。ゆっくり探せ。
中里は何も言わなかった。とりあえず、今日は休みだからいいとして、明日の仕事に支障が出ないようにと思っていた。すると頭を叩かれた。
――人の話を聞いてんのか、てめえは。
――いてえなこの野郎、聞いてるよ。だから、俺はもう、諦めた。
――じゃあ何でそんなに腑抜けてやがる。
――二日酔いだ。俺は明日仕事なんだ。もう帰るぜ。
日付が変わる前には家にいたかった。中里は立ち上がった。慎吾が腕を掴んできた。何事かと見下ろした。慎吾の顔は少し赤くなっていた。ただその目は正気を保っていた。なぜかぞくりとした。何だと中里は問うた。床に座ったまま、慎吾は何も言わなかった。中里は腕を掴まれたまま、慎吾のベッドに腰を落とした。そこが定位置になっていた。もう一度、顔を見ながら、何だと問うた。今度は慎吾が立ち上がった。そして、ベッドに押し倒されていた。
――好きな奴、いねえんだろ、今は。
何が何だか分からなかった。電灯の光を背に受けている慎吾の顔は、薄暗くよく見えなかった。ただ、その目は全身を突き刺してくるような鋭い光を帯びていた。
――何の話だ、お前。
――無理なら無理って言えよ、俺は、無茶するからな。
――だから、何なんだよ。
慎吾の声は震えていた。返す中里の声も震えていた。何かが起こっていた。慎吾が息を吸う音が、空気を破ったような気がした。好きだ、と慎吾は言った。ヤりてえんだ、と続けて言った。中里は混乱した。意味は分かったが、分からなかった。何も言えないまま、時間が経った。慎吾が唇を寄せてきても、中里は『無理だ』とは言わなかった。混乱しながらも、冷静だった。慎吾にはアルコールが入っている。気の迷いかもしれない。だが、その目は真剣のごとき鋭さを秘めていた。中里は既に叩き斬られていた。跳ね除けはしなかった。キスをし、肌を撫で回され、最終的に中里は肛門で慎吾の陰茎を受けた。それは紛れもなく性交だった。脳味噌が弾け飛びそうな快感をもたらした性交だった。かつて経験したことのないほど、丁寧で、荒々しく、淡々として、執拗な、泣きたくなるほど切実な性交だった。腰をしきりに動かしながら、慎吾は好きだと何度も言った。うわごとのように繰り返した。
――ずっとだぜ、ずっと好きだった。お前のことが好きだった。毅、毅、毅。ああ、たまんねえ。
想いが肉体に侵入してきて、魂をえぐった。明日のことは考えなかった。今日のことすら考えなかった。
――多分、お前がそういうことなら、俺もそういうことだぜ。
次の日、先に起きていた慎吾を使って腰に湿布を貼らせながら、中里はそう言った。
――お前は小学校から日本語やり直した方がいいぜ、毅。
真面目な声で慎吾は言い、湿布を貼った腰を叩いてきた。
それから走った帰りや休みの日、どちらかの家で、週に一、二度裸で抱き合った。好きだと幾度か言い合ったが、他の言葉は使わなかった。互いに関係を明確にはしなかった。峠では素知らぬふりをした。わざとらしいまでに慎吾は中里との接触を避けていた。どこであっても意識をしないことは無理だから、せめて最初から無視をする。その慎吾の選択を、中里は途中から理解した。同じチームのメンバーは不和が復活したのだと囁くようになっていた。そして誤解が解けぬまま、冬に入り、チームは活動を停止した。
クリスマスも正月も変わりはなかった。いつでも気が向けば会った。連絡はせず、互いの家に行く。合鍵を渡し合っていた。それで十分だったから、電話番号を交換することもなかった。元々が険悪な仲で、連絡は他の人間を介して行っていたのだ。合鍵まで持っているというのに、今更そこだけ通じ合うのもおかしく感じられた。
最後に会ったのは、三月の頭だ。思えば予兆はないでもなかった。その日はやけに慎吾がしつこかった。愛撫は執拗で、いくら懇願しても焦らされた。卑猥な言葉を求められた。合計三回行った。次の日足腰が使いものにならなくなっていた。ヤりすぎたな、と慎吾は皮肉げに笑っていた。キスしようとしてきた額を拳で小突いてやった。終えた後はいつも通りだった。その時は、よほどしたい気分だったのだろうと思った。今から考えれば、最後だと決めていたからかもしれない。ただ、正確なところなど、分からない。
以後、慎吾が中里の家に現れることはなかった。中里も慎吾の家には行かなかった。年度終わりと始めには提出書類がかさみ出す。工員が五人の整備工場では、末端だろうが何だろうが手の空いている者はどんな雑用も引き受けねばならなかった。腰痛を抱えてはいられなかった。やりたいというならしてもいいが、自分からしに行くには疲労が多かった。気付けば一ヶ月会っていなかった。ただ、どうせ峠に行けば会うだろうと当たり前に考えていた。まさか、三月中にどこかに越しているなどとは、思いもよらないことだった。
何も知らされない程度の関係だったといえば、そうかもしれない。庄司慎吾。大学生。経済を学んでいる。早生まれで、両親と姉二人に囲まれて育つ。指は細長く、陰茎の容積は普通。何にも動じないようだが蛾には弱くて、発泡酒で腹を満たすことにこだわりを持っていて、ピーマンの存在意義を疑っている。陰険なようで真っ当で、誠実なようで卑怯で、繊細。大学受験が終わると同時に免許を取りに行った。知人が一年で手放したというシビックに乗っていて、走りが速い。中里が直接自分で見聞きした庄司慎吾はそういう男だった。それしか知らなかった。卒業したらどうするのか、尋ねたこともある。武者修行でもしようかとな、と慎吾は真顔で言った。本気か、と続けて問うと、本気だと思うなら、俺はお前の頭を疑うぜ、と慎吾はまた真顔で言った。それだけだった。深くは中里も追及しなかった。聞いておくべきだったのかもしれない。だが、それは慎吾の人生だった。慎吾には悩んでいる様子もなかった。二十歳を過ぎている奴に細かいことを言っても仕方ない、中里はそう思うようにしていた。
もし、そこでしつこく尋ねていれば、慎吾は黙ってどこかへ行ったりはしなかったのか。もし、もっと証拠を欲していれば、慎吾は何かは伝えてきたのか。もし、もっとつなぎ止めようとしていれば、慎吾はすべて教えてくれたのか。チームのメンバー程度には、何か、知らされるほどの関係になったのか。
もしかしたら、ひょっとして、こうしていればという、ありえない想像は止まらなかった。ボルトを締めている時も、仕様書を確認している時も、不意に映像が浮かび、消え、時間がいつの間にか経っていた。
「ぼおっとされるくらいなら、休んでもらった方がいいんだがね」
工場最年長の河梨が、他意も含まぬしゃがれた声でそう言ってきた時、中里は謝るしかできなかった。謝るくらいなら、と河梨は言ったが、その先に言葉は続けなかった。
仕事に集中しなければならない。その考えは、中里には随分単純なものに感じられた。仕事に集中する。作業に集中する。そうしなければならない。そうしていれば良い。そうしているだけで良い。
既に慎吾が住居を変えている以上、行き先も電話番号も知らない中里には、連絡の取りようはない。慎吾がそこまで計算していたのかは分からない。ただ、はっきりしていることは、慎吾が姿をくらませたということと、中里にはもうどうしようもないということだ。
あの男がいなくなったことは、どうしようもない。いない人間に対しては何もできない。何を考えても正解はない。正否を告げる男はいない。もういない。それはもうどうしようもない。だが仕事は違う。慎吾がいなくなったところで知識が消えるわけでも顧客が減るわけでも工場が崩壊するわけでもない。仕事はできる。走りもできる。慎吾がいなくなったところでチームが分裂するわけでも峠が閉鎖されるわけでもない。生きることもできる。慎吾がいなくなったところで、自分が死ぬわけではない。なくなったものは何もない。ただ、庄司慎吾という奴が、どこかへ行ったというだけなのだ。
その結論は、堂々巡りの仮定が生み出した脳味噌を覆う霧をざあっと晴らした。それからしばらく中里が慎吾について思い出すことはなく、河梨が個人的に何を言ってくることもなかった。
五月下旬、チームの飲み会が行われた。春から話は出ていたものの何だかんだで皆の日程が合わず、伸ばし伸ばしになっていたものだった。真っ先に俎上に載ったのはプロジェクトDという、高橋涼介が高橋啓介と藤原拓海をドライバーとして引き連れて行っている県外遠征だ。結果が載せられているサイトを見るにはパスワードが必要で、突然URLが変わるなどもしていたが、そのアングラ性が好奇心をそそるのか、見ている走り屋は多かった。チームのメンバーも全員がその存在を知っていた。中里もおぼろには聞いたことがあった。ただ、調べる気までは起きなかった。どうせあいつらのことだ、負けはしないだろう。そういう思いがあった。また、どこかもう、自分とは別世界のことのように感じられていた。
話題は尽きなかった。高橋兄弟や秋名のハチロクについてから、新参者が自分の車について喋り立てることもあれば、古株が武勇伝を語ったりもした。中里は適当に酒を飲みながら、そろそろオイル交換か、と考えていた。
「あいつ慎吾、去年の四月にゃ内定出てたらしいっすよ」
一人の甲高い声が、唐突に耳に入ってきた。中里は、自分のジョッキを見据えた。
「へえ、そんで走りに来たってわけか」
「卒論もさっさとやっつけてたみてえだから。あいつ、見かけによらず手抜きウマかったんすよね」
「見かけ通りだろ、そりゃ」
どっと笑いが起こる。中里はジョッキを見たまま動かなかった。他人の声を聞きたがらない自分と、聞こうとしている自分の狭間、体の深く、塞いでいたところから、思いが勝手に頭に溢れ出した。
「でも、どこ行ってんだか誰も知らねえんだろ」
――そうだ、俺も知らない。
「ケータイも変えてるみたいだな。連絡がつかない」
――俺は電話番号も知らなかった。
「国外逃亡でもしてんじゃねえの? 人でも殺しちまってよ」
「海外行ったら時効止まんでしょ、庄司レベルじゃどっか島っすよ島」
「ありゃホント二人くらい殺しててもおかしくねー奴だったもんなあ」
――そんなこと言えるほど、お前らはあいつを知ってるのか?
「ま、口から生まれたみてえなもんだしな、慎吾なんて」
――笑ってそんなことを言えるほど、お前はあいつのことを知ってるってのか。知っているなら教えてくれ。あいつは今どこにいる。どこで何をしてるんだ。何で俺には何も言わずに行ってしまった。行っちまった。あいつはいなくなっちまった。俺を置いて。俺は捨てられたのか。捨てられた? 女じゃねえんだ。いや、女なら捨てられなかったのか。俺は何だ。あいつにとって俺は何だった。あれだけうるさいくれえに好きだと言ってたのは嘘だったのか。何もかも嘘だったのか。あいつは本当にいたのか。あいつは本当に存在してたのか。誰もあいつの今を知らない。俺は何も知らない。あいつはどこだ。あいつはどこにいる。
あいつは本当に、ここにいたのか?
泥の中に沈み込んでいる。目は閉じているが泥だと分かる。呼吸はできるが泥の中だと分かる。ずぶずぶと沈んでいく。底がない。体が深く深く、果てのない泥の中に沈み込んでいる。
――毅。
誰かが名前を呼んでいる。俺の名前だ。ああ、そうか、呼ばれている。呼ばれていると中里は思う。呼ばれているなら相手のところまで行かねばならない。誰だ。誰が俺を呼んでいる。俺を呼んでくる奴は、まだいるのか。
「毅、おい、大丈夫か」
中里は目を開いた。にじむ視界には男の顔があった。短く揃えた黒い髪、細い目。全体的に薄い顔立ちで、こめかみに特徴的な傷がある。
「……宏佳か」
「立てるか?」
周囲を見渡す。当然泥の中などではない。路上だった。中里は少ない街灯が照らしている歩道に座っていた。どうも寝ていたらしい。笹間から差し出された手を握る。引かれるまま立ち上がると、足がふらついた。再び差し出された手は断った。
「クソ、飲みすぎた」
世界がぐらぐら揺らいでいる。吐き気はないが、頭が重い。二日酔いになりそうだ。
「黙ってどんどんやってんだもの。一人だけ別世界だったぜ」
笹間が面倒そうに言う。確かに久々によく飲んだ。酩酊してしまいたかった。道には見覚えがあるから、おそらく歩いて帰宅しようとして、途中で路傍で眠ってしまうほどには酔えていたらしい。今も足が覚束ない状態だ。
「悪いな、世話かけた」
「歩けるか」
「ああ、問題ねえ。じゃあな」
笹間の家は別方向のはずだった。中里が手を上げ歩き出すも、並んでくる。何だと目で問えば、煙草を咥えながら笹間は言った。
「俺はお前、慎吾のこと、嫌いだったと思ってたけどな」
唐突だった。中里は足を止めていた。笹間は数歩進んでから立ち止まり、振り向いた。
「仲悪かっただろ。最後の方」
「ああ……」
曖昧に頷きつつ、中里は歩き出した。笹間はそれを確認してから、先を行く。
「さあな。俺は嫌いじゃあなかったが……」
呟くも、笹間はもう振り向いては来なかった。何を言う必要もない。だが、中里は言っていた。
「あいつがどうだったかは、分からねえな」
しばらく歩き、交差点で笹間は立ち止まった。振り向き、
「じゃ、俺はここで」
と、手を上げ右へ曲がって行った。じゃあな、と中里はその背に声をかけ、左に折れた。途端、街灯に追いやられている闇の重さが体中にのしかかってきたようで、ため息が漏れた。それと同時に吐き気がきた。傍の電信柱に手をつきながら、排水溝に向かって吐く。胃の痙攣が止まるまで時間がかかった。苦しさで涙が漏れた。そのまましばらく泣いてから、歩いて帰宅した。
翌日、二日酔いに襲われ作業の能率が低下したが、工場で河梨は何も言ってはこなかった。ただ工場長からは嫌味を言われた。それでも首になるものでもなかった。中里より若い工員は、いつも二日酔いだった。
雲の切れ目というものがなかった。梅雨に入っていた。最初、そのためだろうかと思った。じめじめした大気、晴れない空のせいで、憂鬱になっているだけだろう。だがいつまで経ってもアダルトビデオは肉塊のダンスとしてしか認識できず、女性の裸体が目白押しの映像をいくら見ても勃起しなかった。それを使用しての自慰が不可能になっていた。疲れのせいでもなかった。休みの日、いくら試しても動物的な衝動がわきあがってくることはなかった。決定的だった。音の少ない雨が続いていた。ふと、慎吾を思い出した。あの男がどうやって自分に触れてきたか、どんな顔をして抱いてきたか、どんな声を出していたかを思い出した。昂った。慎吾を思い出すと、自慰ができた。時には尻に指も入れた。射精してしまうと、常に虚無感だけが残った。そうして繰り返すごとに、記憶が磨り減っていくような感覚が生まれた。それが自分の記憶なのか願望なのか妄想なのか幻覚なのか、定かではなくなっていく感覚だ。その男を思い出すたびに、その男が実在したことを疑うようになった。そのうち、抜く時には何も考えずに抜くことにした。成功した。だが、しばらくすると、生理的に迫られた時以外、抜かなくても済むようになった。勃起不全という言葉を思い浮かべたのは、梅雨が明けた頃だった。
新しい人間が馴染んでもチームの面子もその各々の実力もそうも変わりなく、中里がリーダー的存在として迎えられることにも変わりはなかった。たがバトルは他のメンバーに任せるようになった。その程度の相手しかいなかった。走りを欠かすことはなかったが、他の峠へ行くこともなくなった。気分が乗らなかった。
次第に時間の概念が曖昧になっていった。仕事へ行き、家に戻り、峠に行き、家に戻る。休日は掃除、洗濯、買い物、洗車、チューニング。いつの間にか日々は過ぎ、烈火のごとく地上を焼き始めていた太陽も、気付けば仕事を粗方終えたようになっていた。
シルバーのシルビアが夜の妙義山に現れたのは、そんな時だった。入ってきた段階では誰も注目もしなかったが、助手席から人が降りた途端、場はどよめいた。女性だった。ピンヒールを履いたすらりとした細い生足。太股まで露わになっているミニスカート、胸が強調されたキャミソール、ウェーブのかかった茶色の髪と、化粧に彩られたどこかあどけない、それでいて艶やかな顔を持っていた。駐車場の中央に、そのような可憐な女性が現れることなど滅多にない。メンバーはその一挙手一投足に視線を送っていた。女性はそんな男たちの下衆な目にも臆すことなく、車から降りたその足で、真っ直ぐ中里に向かって歩いてきた。
「やっほー、中里君。ひっさしぶりい」
「沙雪さん」
さばけた声も笑顔も愛らしい、碓氷の女走り屋だった。いつもは青いシルエイティに乗っている。今日は他の人間と一緒に来たのかもしれない。中里はさして気にもせず、ただ驚き、どうしたんですか、と尋ねた。沙雪に訪問を受けるようなことは、今のところ何もしていない。
「ん? いや、ちょっとどうしてるのかと思ってね」
にんまりと沙雪が笑う。その愛らしい顔には翳りがあった。中里は年が明けてからというもの、走り屋間で話題になるようなことは何もしていない。ただ、他の人間は違う。
「慎吾ですか」
言うと、沙雪は笑みを少し苦いものに変え、胸を強調するように組んでいた腕を解き、ゆるく巻かれている髪をかき上げた。良い香りが漂ってくる。そうして間近に沙雪の肉体と体臭を感じても、中里がかつて抱いた恋情が復活する気配も、動物的な劣情がわく気配もまったくなかった。色欲そのものが減退しているためもあったが、改めて見れば、気の強さは窺えるものの、沙雪はどう見ても年下のまだあどけなさの残る女性だった。
「ね、中里君とこには連絡ある?」
髪を指でいじりながら、沙雪が上目で見てくる。媚びた色はない。ただ、不安が瞳に揺らめいていた。中里は横に首を振った。
「いや。俺には何も」
「あたしもさ、あいつのご家族とか友達とかに色々聞いたんだけど、行き先知らないのよね、みんな。ケータイも変えたみたいだし。まああいつのことだから生きてはいると思うけど、何の連絡もつかないとねえ。ちょっとは心配になるじゃない」
「はあ」
「だから、中里君になら何か連絡あるかなと思って」
「ないですね、俺には」
それ以外に言いようがなかった。時間が経ちすぎている。思い出すこともしなくなった今、何を聞かれても慎吾という男についての実感がなかった。沙雪はエサを持ったまま何かを察したリスのような顔になっていた。発した自分の声は思いのほか冷たくなっていたようだった。中里は慌てて声を軽くした。
「他の奴らはあるかも分かんないですけど、その」
「そっか、うん、分かったわ。ごめんね、しつこく聞いちゃって」
「あ、いえ。すみません」
「ううん、こっちこそ。……ねえ、何かあった?」
聞きづらそうに聞かれても、不愉快さを感じられない相手だった。中里はばつが悪くなり、後頭部を掻きつつ答えた。
「いや、特には」
「最近バトルにも出てないんでしょ」
「俺が出るほどのバトルがないんですよ」
事実だ。こちらを取り乱させるほどの走り屋は現れない。かつてのライバルたちは別の地に乗り込んでは連戦連勝、その名をとどろかせている。今は平穏しかなかった。
「そう」
一瞬にして、沙雪の笑みは作り物に変わり、目が遠くを向いた。自分より下にあるその顔を眺めていると、すべてが作り物のように感じられ、思考が内部に入り込んだ。あの時、この子が何も言ってこなければ、何も起こらなかったのではないだろうか。あの時沙雪が島村栄吉がどうのと言ってこなければ、自分は勘違いをたくましくせず、沙雪に告白してフラれることもなく、慎吾が好きだと言ってくることもなかったのではないだろうか。慎吾はまだ、ここにいたのではないか。この子が何もしなけりゃ、何もなかったんじゃないのか。
「ねえ、中里君」
また上目で見られ、無意識に沙雪に責任を転嫁しかけていた自分に気付き、中里はうろたえた。
「な、何でしょうか」
「突然なんだけど、今彼女いる?」
「は?」
うろたえたままで予想もできないような問いを放たれて、中里は思考を凍結させていた。
「あたしの友達でさ、彼氏募集中の子がいんのよ。可愛いわよ」
「はあ、彼女はいませんが……はい?」
「っていうか」、と固まっている中里を置き、沙雪は早口に言った。「真子が東京行っちゃってね。レーサー目指すことにしたのよ、あの子」
真子といえば、シルエイティのドライバーだ。沙雪はそのナビゲーターであり、二人で走っていた。その真子が、東京へ行った。話を追いかけるだけで、中里は精一杯だった。
「あたしも一緒にって言われたんだけどね。それじゃあの子のタメにならないと思ってさ。あの子はまだ触れてもない自分の力を磨く時にきたのよ、多分。でもあたしドライビングはあんまりやってなかったから、どうしようかと思った時に、偶然久々会った高校の友達が走り屋やってるって言うじゃない。そりゃ誘わなけりゃ女じゃないでしょ?」
何が女ではないのかは分からなかったが、そもそも話の大筋もよく分からなかったので、まあそうですね、と中里は頷いておいた。すると沙雪はくすりと笑い、で、と駐車場の中央にとまったままのシルバーのシルビアを、得意そうに親指で指し示した。
「その子があれ運転してきたの。どう?」
確かに沙雪の言う通り、シルビアのドライバーは可愛い女性だった。話をすると、柔らかい雰囲気を持っているが、走りに対して熱心で、生真面目な性格をしていることが分かった。運転を見て欲しいと請われたので、今度時間がある時にと答えると、沙雪が日時を決めてしまった。慎吾が消えた件をわずかでも沙雪のためと考えたことのやましさもあり、否応もなかった。指定された日、彼女のシルビアに乗りドライブに出た。男女二人きりでドライブというとデートと呼んでも良さそうなものだが、中里は運転の指示をし、彼女は懸命に応えようとするだけで、教習のようだった。だが向上心のある筋の良いドライバーに教えるというのも存外楽しいものだった。中里は二ヶ月に一度、彼女の隣に乗ることを約束した。付き合うという話は、一つも出なかった。
チームの飲み会は不定期に行われる。飲んで騒ぐことを生き甲斐としている奴らが多いため、皆の都合がつけば即日街に繰り出すこともあった。ただ熱しやすく冷めやすい奴らも多いため、都合がつかなければ二ヶ月音沙汰がないこともある。
「っつーか毅さん、バトルしないんすか?」
熱のこもらなくなった大気に落ち葉が舞い上げられる秋、その日行われた飲み会もたけなわとなった時、前に座っていた谷口が、中指で眼鏡を上げながらそう言ってきた。真っ赤な顔に不明瞭な発音、その酔っ払いの唐突な発言に中里がぎくりとする間に、そうだそうだと別の酔っ払いの集団が大きな声を続けてきた。
「お前毅、チームに貢献してねーくせに何リーダーぶってんだコノヤロウ」
「中里さんが速いのは認めますけど、そんな隠居するような歳でもねーでしょ」
中里自身酔ってはいたが、アルコールは控えめにしていたため、頭は回る。俺はお前らを信用してるから、バトルも任せてるんだ。そう言い返そうとしたが、中里が口を開く前に、別の酔っ払いが話に入ってきた。
「あれよ、ナイトキッズの中里っつっても忘れてる奴多いんじゃねーの?」
「俺は最近思い出さなかったぜ」
「同じチームだべやおめえ」
「だからそんくらい近頃の毅さんはさ、存在感が薄くなってるってわけよ」
「お前は髪の毛薄くなっとるよな、谷口」
「お、マジだ、お前それやばくね?」
「髪は男の命だからなあ、対策しとけよ」
「坊主に言われたくねえっすよ」
「いいじゃん坊主、スクーター乗って葬式だぜお前」
「そっちかよ。あ、そういや俺のひいばあちゃんが大往生したんだよ、この前」
「ひいばあちゃんていくつだよ」
どの酔っ払いも一つの話題にとどまることを知らないようだった。一分も経たぬうちに置いてけぼりになり、中里はジョッキを煽った。二日酔いにはならなかった。
いざ他人から指摘されてみると、なるほどそうかもしれないと思えた。去年の今頃は秋名のハチロク旋風が巻き起こっており、中里もその渦中に飛び込んだものだった。思い出すと、気合に雲泥の差があることが痛感された。腕は落ちていない。ただ、大して伸びているわけでもない。今年は一度も公のバトルに出てもおらず、最近では他のチームの走り屋はおろか、身内からも対戦相手として指名されることもなくなっていた。存在感が薄くなっている、その言を否定できる材料もなかった。妙義山のヒルクライムのコースレコードは保持しているし、定期的に行っているタイムアタックでは自己ベストは上回りはしないが、それに近い数字を叩き出せている。それでも表に出なければ、注目もされないし、意識もされなくなっていくのだろう。いっそダウンヒルの記録を更新しにかかれば話題になるかもしれないが、そうする気は起きなかった。その記録には、姿を消した男の名が残されている。敢えて消し去るというのも、意識をしすぎているようだった。
だが、例え張り合う相手がいないとはいえ、恒常的に競うことがなくなっている状態では、勘が鈍ってもおかしくはなかった。思えばシルビアからスカイラインに乗り換えた時も、対等だった走り屋が呆気なく雑魚となっていき、腐りかけたものだ。あの時は、それでも車の性能を極めることに心血を注げた。そして、一年後には自分を脅かす存在が予兆もなく現れ、不足はなくなった。
もう一度、車と向き合う時期なのかもしれなかった。
そこで栃木へと足を伸ばしたのは、思いつきだ。去年の秋、栃木のエンペラーというチームが群馬の走り屋チームを叩き回っていったことがある。ナイトキッズは代表である中里がヒルクライムで負け、ステッカーを切り裂かれた。エンペラーの車と出くわしたら道を開けろと対戦相手のドライバーは下卑た調子で笑っていた。だが最終的に赤城レッドサンズの高橋涼介が、エンペラーの首長須藤京一を破ったため、エンペラーは丸々撤退した。切り裂かれたステッカーも戻ってきた。今更遺恨も何もない。ただ、中里はホームでエンペラーのドライバーに負けていた。徹底的に負けていた。今更ではあるが、負けっぱなしというのも癪だった。あのドライバーに会えば、意気もわいてくる気がした。
およそ一年経っていた。名前は正確には覚えていなかった。苗字だけは印象に残っていた。岩城。確かにそのドライバーは、岩に似た無骨な顔つきだった。実際のところ、顔自体はそれほどごつごつとはしてなかった。髪は黒いままで長いが、額を露わにして後ろでまとめてあるし、いなくなった男よりも、どちらかといえばすっきりとしている。ただ、その顔や全体雰囲気に、剥き出しの岩石のような荒々しさがあった。
意外だったのは、島村栄吉の時とは違い、岩城清次というエボ4のドライバーが、こちらを覚えていたことだった。GT−Rのくせにという遅さが際立っていたらしい。面と向かってそう言われて悔しさを感じないではなかったが、敵愾心はわかなかった。ただ、バトルをしたくなった。そして何より、別の地で、車を走らせてやりたくなった。
「俺はお前とバトルがしてえんだが、それよりここを走らせてもらってもいいか」
中里がそう問うと、岩城は怪訝そうな顔をして、
「何で俺が、どこぞを走りたがる奴らにいちいち許可を出さなきゃなんねえんだ」
と言い、背を向けた。意思が疎通していない自信はあったが、中里は他の走り屋の邪魔にならぬよう、車をコースへと向けた。32には厳しいヘアピンの数々だった。それが、興奮を呼んだ。車を走らせるということの奥深さを久々に体感した。中里は立場を忘れて走っていた。立場はしばらく思い出さなかったが、燃料のことは思い出した。帰りを考えると、勢い込んで走ってもいられなくなった。一言挨拶をするため最初に入った場で岩城を探した。すぐに見つかった。車から降り、岩城に声をかけるより早く、その隣に立っていた土方のような男が言った。
「熱心だったな」
「ああ。悪いな、占領しちまったか」
「山を占領するも何もねえだろう。清次とバトルがしたいんだって?」
頭に巻いた白いタオルから短い金髪をのぞかせているのは、岩城清次をより無骨とし、より先鋭とし、より洗練させ、貫禄を三倍増したような男だった。中里は男の存在にも不意の問いかけにも面食らいつつ、言った。
「ああ、まあ、それはまた、別の機会でいいんだが」
「別の機会」
「ここはどうも、一朝一夕でそこらの奴のお株を奪えるほど、単純な道じゃねえようだからな」
素直な感想を中里は述べた。妙義山も個人的にはそうだと感じる。ここも、ぶっつけ本番でバトルをするには勿体のないコースだ。土方のような男は細い眉を上げ、なるほど、と重厚感のある声で言った。
「機会が欲しけりゃ言ってくれ。検討しよう」
「ああ、そうさせてもらうぜ」
頷いてから、中里はようやく不審に思った。
「あんたは?」
誰かという問いだった。少なくとも、気まぐれにこの山に来た走り屋には見えない。男は頭からタオルを取り、興味もなさそうに答えた。
「俺は須藤京一だ。エンペラーってチームのリーダーをやっている。何にしろ、その車でここを完全に攻略したいんなら、もっと経験を積んだ方がいいだろうな」
須藤京一はそれだけ言うと、中里に背を向けた。岩城清次もエンペラーだ。どいつもこいつも良い背中をしているチームなのかもしれなかった。
結局その年、誰ともバトルはしなかった。意気を失ったわけではない。去年と同じ、自分の走りに、車に集中したくなった。その一環として、月に一、二度、栃木へ行き、いろは坂を走るようにした。別の地で走り戻ってくると、何年と走り込んでいる地元の峠も新鮮に感じられるし、いろは坂は単調なようでそれぞれのヘアピンは角度や傾斜が微妙に違っており、奥が深かった。走らずにはいられなかった。
そこを半ば占拠しているエンペラーというチームはランエボのみで構成されていた。レッドサンズともナイトキッズとも違う雰囲気を持ったチームだった。メンバーは比較的いかつい男が多い。いざ話せばナイトキッズのメンバーと変わりのない空気を持つ奴もいた。ただ、皆が例外なく、須藤京一に従っていた。チームには惚れ惚れするほどの統一感があった。まったく羨ましいほどだった。
いろは坂で休憩中、出くわした須藤京一にそれをこぼすと、そっちはどんなチームなんだと尋ねられた。
「どんなもこんなも、お前んところのメンバーの爪の垢を煎じて飲ませてやりてえ奴が山ほどいるチームだよ」
そう答えたら、鼻で笑われた。
クリスマスも正月も、実家に帰らず一人で過ごした。仕事をし、冬道を幾度も走り、飯を食い家事をして、たまに友人や知人と飲みに行っているうちに、時間は過ぎていった。喪失感というものは、それ自体が日々の積み重ねによって失われていく。桜が舞う頃には、そう実感した。
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