還らぬ時間 4/4
(27/27)
何もかもが記憶通りというわけにはいかないが、おおよそはそうで、強い懐かしさと安心感、そしてかすかなつまらなさがあった。街には知らないビルが増え、知らない空き地が増えている。通りを歩く人は少なくなったかもしれないが、今は夜だ、昼間はまた違うのかもしれない。
実家にいつ顔を出すかを考えながら、庄司慎吾は車を走らせた。この地に戻ってきたことは、どうせ他の走り屋から情報がいって、すぐに昔の友人が知り、家族が知るだろう。顔を見せることはいつでもできる。出て行って二年目から、生存を知らせるために同僚に手紙と金を渡して実家の郵便受けに入れて来いと脅すように、もとい頼むようにしたし、そのついでに身内の存否も探らせてある。皆健在のようだった。こちらが調べられた気配はない。自分のことは自分でやるよう昔からしつけられていた。子供という概念を持っていないような家庭だった。四年間の学費は出す、それ以外は自分で賄え、何があっても自分の責任で処理をしろ、十六過ぎたらもう大人だ、というようなことを、高校卒業したての自分に対して母親は言ってきた。言われた通りに生きている。文句はつけられまい。ただ、それ以前から好き勝手にやってきた面がある。今更帰ると、借金があるのではないか、罪を犯して逃げてきたのではないか、とあらぬ疑いをかけられそうだ。今は家族の小言は聞きたくない。後回し。そう決めた。五年を経ても変わらぬつながりがあると思えるからそうできる。つながりがあるならいい。だからこの地に戻ってきても家族友人知人、誰に会うより先に、まず峠に行ったのだ。つながりがあるかどうか分からないことが、最も不安だった。
指がステアリングを叩くのを止められない。信号待ちでは意味もなく何度もギアをローに入れ直した。苛々している。焦れている。自分で分かる。今まで封じ込めていた感情が、ここぞとばかりに体表に染み出してきている。速く走れ。とっとと進め。さっさと行け。そう思いながら、行きたくないとも思う。今更だ。五年経っている。五年。零歳が五歳、五歳が十歳、十歳が十五歳、十五歳が二十歳、二十歳が二十五歳になるだけの年月だ。二十二歳は二十七歳になっている。あいつは二十九歳だろうか。誕生日はいつだった? 聞いたことがない。必要もないのに他人の誕生日を覚える趣味はなかった。特別扱いはしたくなかった。ただでさえ特別だった。
勘で左に曲がり、次を右に曲がる。郊外に続く道に出る。その半ばにひっそりと住宅が立ち並ぶ。見覚えのある寂れた風景。ただ、遠くには大型デパートが見える。新しくできたのかもしれない。
後続車はいない。ベルトを外し、左右に目をやりながらセカンドで進んでいった。ここへ来るのは大概走り終わったか走りに行かない夜だった。暗い方が道は分かる。覚えている。左折して路地に入り、八メートル。左手側、木造白壁のアパート。周囲は草に囲まれている。全体的にそろそろ取り壊す予定でも出ていそうな痛み具合だった。隣接している駐車場は広い。空き地といっても良い。八人乗りのワゴンから軽自動車まで、広い間隔を取って、乱雑にとめられている。その隅に、目立たぬ感じで、黒いスカイラインがとまっている。GT−R。慎吾はその隣に車を滑り込ませた。すぐにエンジンをとめ、だがすぐには降車しなかった。喉が渇いている。呼吸が浅くなっている。二年前、天然記念物だと思っていたやくざな方々に睨まれた時よりも緊張している。あの時はハッタリでどうにかなった。今回は、ハッタリを使える相手ではない。素でいかねばならない。
しかしどうだ、と慎吾は思う。五年経っている。あれから五年経っている。記憶は薄れつつあった。睡眠時間を削って動いているうちに、忘れていたこともある。だが結局は忘れられなかった。まともに思い出せるようになった。だから戻ってきた。忘れられてはいないだろうと思う。でなければ、峠で会った時、中里が、あれほど挙動不審になるわけがない。向こうも覚えているはずだ。中里も、忘れてはいないはずだ。忘れられなかったのか、忘れようとしなかったのかは分からない。ただ、覚えている。ナイトキッズにもいる。32に乗っている。走っている。しかし、だからといって、変わっていないとは言い切れまい。今まで中里がどうして来たのか、そこまで探る気はしなかった。知りたかったが、知りたくなかった。だから知らない。心臓が一定の間隔で激しく収縮している。そのために、胸が苦しい。息が苦しい。手がしびれているように感じる。生ぬるい空気の中、時折ぞくりと腕に鳥肌が立つ。五年が経ってしまっている。ナイトキッズはガキの遊び場のようだった。最後に残したコースレコードも破られた。笹間ですら結婚し、子供が生まれるという。すべてが変わっている。中里の環境が変わっていたとしてもおかしくはない。変化している方が順当だろう。
ため息を吐いて、舌打ちする。ただ考えるだけで何もしようとしない、そういう奴が一番嫌いだった。腹立たしい。一度ステアリングを両手で叩いてから、慎吾は勢いつけて車から降りた。隣の32は見ず、真っ直ぐアパートに歩く。一階、右手側、独立型の玄関。歩きながら、綿パンのポケットに入れていた鍵を取り出した。変えられていなければ開けられるはずだった。開かなければ開かないでチャイムを鳴らすまでだ。ただ、試してみたかった。ドアの前に立ち、ゆっくりした呼吸を一つ取ってから、鍵を鍵穴にあてがった。突き刺す。入った。回る。手ごたえがあり、かちりと音が立つ。元の位置に戻し、鍵を抜く。ドアノブを握る。回す。引く。ドアが開いた。ぞっとした。
玄関は暗かったが、奥から漏れる光が輪郭を浮かび上がらせていた。慎吾は靴を脱ぎ、ためらいなく部屋に上がった。廊下からは間仕切りなく部屋に続いている。風呂場と便所は別。台所と居間兼寝室は同じ。家賃も駐車場代も安いから住んでいると言っていた。変わりはない。予告なくこの家へ来て、合鍵で上がり込むたび、ベッドをソファ代わりにしている家主は一度は必ずこちらを見た。中里は下着姿でベッドに座っており、驚いた様子もなく、こちらを見ていた。慎吾は瞬間、時間の概念を忘れた。部屋は微妙に違っている。壁の色はより黄ばんでいるし、置かれているテレビの大きさ、チェストの位置、棚の位置、書籍の数、どれも記憶とは重ならない。だが、そのあらまし、匂い、ベッドに座っている中里の姿、それらはまるで時が経ったことを忘れているように見えた。
「慎吾」
はっきりと、中里は言った。はっきりとした顔をしていた。髪は濡れているように見える。風呂から上がってすぐなのかもしれない。濡れている間は完全に後ろに流している。乾き始めると、整髪料を使わなければ落ちてくる。髪型だけで年齢が違って見える男だった。今は三十代に見える。その厚い唇には火のついた煙草が挟まっている。太い眉は筋肉に動かされていない。大ぶりの目が、真っ直ぐ慎吾をとらえている。顔にはかつてより膨らみがなかった。暗い山で見るより分かりやすい。その顔貌は、確かな年月の経過を表していた。
「シケたツラだな」
慎吾は立ったままそう言っていた。中里は実に不景気な顔だった。人を歓待している色のまったくない顔だった。中里は慎吾から目を逸らさないまま、ザッピングをしていたのだろう持っていたリモコンで、テレビを消した。唇がより開きかけ、だが煙草を挟んだまま止まる。慎吾は足を動かした。テーブルの傍まで行き、そこに載っている雑誌、書類、ビニールを端に寄せ、あけたスペース座り、中里を見る。向き合う体勢だった。同じ目線。一メートルも離れていない。中里はうろたえるように顔をしかめると、こちらから目を逸らし、咥えていた煙草を指で取り、灰皿でもみ消した。吸殻が山を形成しかけている。灰皿を見ながら、慎吾は言った。
「溜めすぎだろ」
中里は何も言わない。見ればこちらから目を逸らしたままだ。焦りが募ってきた。苛立ちも募ってきた。計算せずに口を開いていた。
「五年ぶりに会うんだぜ。もっと愛想良くしてくれてもいいんじゃねえの」
「これが地顔だ」
今度は即座に声が返ってきた。だが、やはり中里はこちらを見ない。慎吾は中里を見ていた。記憶にあるよりも日焼けしているような肌は血色良く見える。風呂上がりだからだろう。ぬらぬらしている白目。曲がっていない鼻筋。荒れている唇。角ばっている顎から喉、首、鎖骨、肩にかけての滑らかなライン。白いシャツに黒いトランクス。そこから伸びる腕と足。掴み甲斐がありそうな骨と肉。掴みたい。顎を掴んで顔を自分に向けさせたい。慎吾は中里から顔を背けた。どこを掴んでいる場面でもない。血行が良くなっている場合でもない。短くして久しい頭を掻き、テーブルの上にあるセブンスターの箱と百円ライターを勝手に取りながら、言った。
「悪かったよ」
一本抜いて指でつまむ。中里が動く気配があったが、どう動いたかは見ないので分からなかった。口の端に煙草を入れて、百円ライターで火を点ける。腐った魚のような匂いがした。
「俺ゃあれ以上、我慢ができなかったんだ」
煙を吐き出す。声に出すと、陳腐に聞こえる言葉だった。
「我慢?」
中里の声がした。もう一つ、深く煙を吸い込んでから、我慢、と言った。我慢だ。手に入れた時点で既に、手に余っていた。欲しかった。実際手にするつもりはなかった。勢いだった。我慢ができなかった。そして、我慢のできない自分に我慢ができなくなった。
中里は黙っている。慎吾は三回吸っただけで煙草を灰皿に捨てた。それでも呼吸は楽になり、喉の奥が開いたようだった。顔を前に上げる。中里は斜めを向いている。相変わらず不景気な顔だった。
「女いんのか」
尋ねると、数拍置いてから、いねえよ、と中里は呟くように言った。なぜか体が動きそうになった。中里が声を続ける。
「それが、何だ」
「いたらまあ、しないでおこうと思ってな」
弾かれたように、中里が目を向けてきた。まともに見合った。背筋がぞくっとした。懐かしい感覚だった。慎吾は中里から目を逸らしていた。見続けていたら、言葉を使うことをやめてしまいそうだった。
「お前は」
目を逸らした途端、聞かれた。
「あ?」
「女、いるんじゃねえのか」
視線を戻さざるを得なかった。中里は無表情のようだったが、眉間に確実に力をこめていた。不審と不安が渦巻いている目をしていた。いねえよバカ、と慎吾は素早く言い返していた。
「いたらお前に会いに来れねえよ」
余計な言葉だったかもしれない、と思ったのは、中里がまた斜めを向いたからだ。女がいたら、心底愛するような女ができたら、会いには来れなかった。事実だ。ただ、言う必要はなかったかもしれない。浅い苛立ちがずっとつきまとっていた。昔はもっとうまくできていたような気がする。言うべきことと言うべきではないことをあらかじめ分けて、良いように物事を運べていたはずだ。いや、今でもそうできる。だから戻ってきた。だが、この男を前にして、そうできていない。焦りがある。安心はした。女はいない。結婚もしていないだろう。この様子では、子供を育てているということもなさそうだ。だが、それは単に機会がなかっただけかもしれない。意思を尋ねればそれで済む話だった。こんな男よりもよほど権力にまみれたあくどい人間を相手にしてきた。金と女と酒と真心と理性を装備して利益を上げてきた。その場しのぎの嘘など五万と吐いた。何でも言えた。何でも聞けた。それが今、何も聞けない。まず確かめたいのは、まだ、続いているかどうかだ。それを確かめなければ先には進まない。だが引き伸ばしている。自分で避けている。わざとではない。ためらっている。聞くことが、怖いのだ。
煙草をもう一本吸おうかと思ったが、やめた。代わりに空気を吸って、足の間で組んだ自分の手を見ながら、ともかく口を動かした。
「まあ、五年間一度もエッチしなかったっつったら、そりゃ嘘だぜ。誘われて断るのもな、男としてどうかって感じじゃねえか。でも付き合いはしなかった。誰も好きにはならなかった。誰も」
言えば言うほど嘘を言っているように思えてきて、慎吾は口を閉じた。誰とも付き合いはしなかった。自宅に女は呼ばなかった。誰も好きにもならなかった。なれなかった。時折そんな自分が恐ろしくなって、遠出をしては手当たり次第女に声をかけた。食事をして話をした。そこまでいくとどうでも良くなってきた。女から誘われたらホテル代は持ってセックスした。誘われなければ食事をおごってそのまま別れた。その度金がもったいないと思った。好きだの嫌いだの、恐ろしいだの何だのという感情は、まったく持続しなかった。それが事実だった。だが、この男に対して言うと、自分の今までの何もかもが嘘のように思えてくる。
「俺は」
ぶつぎりの声を中里は出した。それもなぜかうそ臭かった。
「できなかった」
中里を見る。吸殻の溜まっている灰皿に目を落としている。だがその目はどこか遠くにあるようだった。何かに急かされるように中里は喋った。
「四年前、確か、四年前だ。それから一度も……する気が起きねえ、する機会もねえし、けど、そういうことじゃねえ。できねえんだ」
「四年前?」
慎吾は言った。中里は唾を一度飲み込んでから、言った。
「春に、少し、仲良くなった……いや、その前から、知ってはいたけど、そういうことはまったくないような子と……雨宿りだ、ホテルに行った、勃たなかった」
慎吾がものを言う前に、中里は早口に続けた。
「何されても、使い物にならなかった。俺は、だから、最低な人間になっちまった。彼女を傷つけて、沙雪さんにも嫌われた」
中里は顔をしかめている。唇が震えている。沙雪? 沙雪がどうした、と慎吾は言った。あの女がどう関係しているのか、分からない。
「だから、それは……あの子の紹介で、知り合った子で……そんな気なかったんだ。俺は、けど、じゃあどうすりゃ良かったってんだ。お前のことしか俺は、考えられないまま、それで何もしねえなんて、何もできねえなんて……」
中里は語尾を濁し、舌打ちすると、クソ、と苛立たしそうに頭を掻いた。慎吾は唾を飲み込んだ。それでも何かを叫びたくなっていた。ぐちゃぐちゃの感情が、ものすごい速度で体中に血を巡らせている。沙雪。懐かしい名前だ。幼馴染の女だった。自分が振った男に知り合いの女を紹介できるほど、逞しい女だった。あの女に中里が懸想したせいで、自分は越える気のなかった線を越える羽目になった。そのために、中里は女相手に勃たなかった。そういう話だろう。そう思うと、たまらなくぞくぞくした。確認するまでもなく、中里は忘れていないということだ。忘れていないから、女を抱こうとした。そして抱けなかった。くだらない男だ。最低の男だ。相手の女に対する礼儀を失している。そのくせ律儀にこちらのことは覚えている。愚直な奴だった。自信家だが、他人に対する優しさは人並みに持ち合わせていた。チームの後輩の面倒見も良かった。そういう奴が、くだらないことをした。忘れられなかったからだ。自分のことが忘れられなかったからだ。自分との関係が、セックスが、忘れられなかったからだ。そういう話に違いなかった。そういう話だと、眼前にいる中里を感じながら、慎吾は確信した。歓喜が肉を熱くして、喉を開かせる。唾を飲んだところで、上がってくるものは抑えられなかった。
「毅」
呼ぶと、頭に手を当てていた中里は、憎しみを帯びているような鋭い目を向けてきた。おそらくそれは最低な男となった本人への憎しみが反映されていたのだろうが、くだらないことを言ったら、殺されそうな雰囲気があった。
「一緒に暮らさねえか」
それでも慎吾はそう言った。中里は途端、真面目な顔を崩壊させた。
「……何だって?」
「家買ったんだよ」、と慎吾は努めて平静を装い言った。「細かいツテあってよ、平屋で、そんなボロくもねえし庭付きだけど、かなり安く済んだ」
十秒ほど間があってから、何言ってんだお前、と疑念を満面に表した中里が言った。唐突すぎると理解はしていた。だが、今言わなければいつまで経っても言えそうになかった。慎吾は整合性は考えず、思うままに口を動かした。
「二つ目の会社でよ、同期に会長の孫がいてな。コネ入社で事務しかやらねえ、デブでオタクで顔は最悪だけど、頭はすげえ良いんだよ。おもしれえ奴でな、話も合った。俺が入って三ヶ月で結局辞めた。周りはバカばっかだし、デイトレに専念するってよ。けど元手がありすぎてつまんねえっつーから、今まで貯めてきた金、全部渡してやって、ついでに女紹介してやった。そのうち必死こいて成績上げたら飛ばされてよ、戻ってこれたと思ったらそいつ、最終的に百倍にしてやがんだよな。俺の金。まあ笑いが止まんねえっつーか、そんだけ金あっても実際使いどころねえっつーかな。別にどこ行く気もしねえし、車も買っちまったし、改造なんてしまくるもんでもねえし、じゃあ次何買うかったら不動産だろ。で、家買うなら、お前と住むしかねえなって思って、思ったらそれ以外も思いつかなくなったっつーか」
そこで言葉を切り、中里を見る。現実から遅れているような顔になっていた。まだ判断は求められそうにない。
「まあ、実際会うまで半信半疑だったけどよ、俺も」
手持ち無沙汰で言うと、中里は現実に戻っている目を向けてきた。慎吾は意味もなく台所を眺めながら、言葉を続けた。
「五年会ってねえのに、それでもまだそういう気になるかってな。っつーかお前がまだこっちにいるのかとかよ。けどもう買っちまってるし、後はまあ一か八か、会ってみねえと分かんねえし」
「それで」
使い込まれた古臭さのある台所から、中里に顔を戻す。しっかりと見られていた。
「分かったのか」
中里は聞いてきた。しっかりとした声だった。現実に追いついてきている男の態度だった。住まいの手続きはすべて済ませてある。どうしようもなかったら、一人で暮らそうと考えていた。夢想を盲目的に信じるほど頭は弱くない。だが具現化せずにはいられなかった。この地を離れると決めた瞬間から、延々と消え得ぬ焦燥感が肉にこびりついていた。
「だから聞いてんじゃねえか。一緒に暮らさねえかって」
その焦燥が、先ほど得た確信が、口を動かす。ずっと何かをしたかった。この男に対して何かをしたかった。話すことも抱くことも、いくらしても何もできていないような空虚さがあった。確信がなかったからだ。しても良いのか、本当に自分がしたいのか、確信がなかったからだ。中里に対する無力感は、時に恐怖に変じた。捨てられることに怯えていた。何もできないことに焦っていた。何かをしたがっている自分を恐れていた。それらはいまだ全身の肉から消えていない。何かをしたいと今でも思う。妙義山であのR32を目にした瞬間から思っていた。いつでも思っていた。今、確信はある。信じられる。信じられるから、聞いている。
中里は動揺したかのように顔の筋肉を細かく動かし、目が逸らした。慎吾は待った。答えを、あるいは答えではない何かでも、中里が言うことを待った。
「俺は」
中里は呟くように言った。
「俺はこの五年、何もしなかった」
慎吾は目を逸らさなかった。中里はちらりと慎吾を見、すぐに俯き、言葉を続けた。
「ただ……お前のせいだとか、そういう……お前なんざ元からいなかったとか考えて、考えたってどうしようもねえから、何もしないでおこうと……お前を探そうとも、お前に会いに行こうともしなかった。俺は俺のことしか考えなかった。だから、俺には何もねえんだ。お前みてえに俺は、できることは何もねえ」
中里は両膝の間で手を組んでいた。その手を中里は見ていた。両手は固く握られていた。慎吾はいつかの自分を苛んでいた無力感を思い出した。何もできない、何も敵わない、何も残せない。劣等感にも似た感覚だった。今、それを中里は味わっているのかもしれない。何もしなかった、それを悔やみ、それを受け入れ、自虐的になることで痛みを紛らわしているのかもしれない。愚直なところはまったく変わっていない男だった。この後、中里が続ける言葉を慎吾は予測できた。だから中里が再び口を開く前に、慎吾は部屋中に響くような声を出した。
「相変わらず、一回スイッチ入るとどこまでも暗くなりやがる奴だな、お前は。普段は能天気のバカだってのに、面倒くさいったらありゃしねえ」
自分の両手を見ていた中里が、慎吾に目を戻してきた。悔恨と羞恥、その痛みに耐えることで心地良くなっている顔をしていた。慎吾はそれを真っ向から睨んだ。
「お前は俺を待ってたんじゃねえのか。こんなボロっちい部屋住み続けて、32に乗り続けて、そりゃお前が好きでやったことかもしれねえけどな、俺は自惚れるぜ。インポみてえになったのは俺のせいだろ。お前が女抱けなかったのは、俺のことを忘れられなかったからだろ。そうだろ。お前はそう言ったじゃねえか。それとも俺の聞き間違いか。違うのか。違うなら違うとハッキリ言え、この憂鬱野郎が、ぶつぶつぶつぶつ益体もねえこと呟きやがって、鬱陶しいったらありゃしねえ」
言葉はすらすらと出てきた。自分のための言葉ではない。中里のための言葉だった。中里を、暴いてやるための言葉だった。中里は目を見開いた。それからの動きは目で追えなかった。そうと分からぬうちに、胸倉を掴まれていた。引っ張られ、尻がテーブルから滑り、床に膝をつく。間近で睨まれた。無言の数秒間、慎吾の心臓は一気に高鳴り、生きた心地が失せた。
「何で、言わなかった」
鼻先が触れ合うほどの距離のまま、中里は唸るような、苦痛が苦痛のまま表出した声を上げた。
「何で一言も言わなかった、てめえは俺に、何でお前は俺に何も言わなかった。時間はあったじゃねえか、少しくらい考えてること言うような時間はあっただろうが。なかったか。いやあったぞ、お前、くだらねえこと話してる時間は山ほどあった、なのにお前、俺に何も言わなかったじゃねえか。俺がそんなに信用できなかったのか!」
割れんばかりの怒声だった。人に怒鳴られ、生命の危機を覚えたことはいくらでもある。関係を絶たれることへの恐怖を感じるのは久しぶりだった。目の奥が熱くなってきて、慎吾は思い切り顔をしかめ、中里から視線を外しながら、言った。
「我慢、できなかった」
「ああ?」
掴まれている胸倉が揺すられる。だから、と慎吾は言い訳がましく上擦った声を続けた。
「お前を監禁するのと自分が飛ぶのとじゃ、そりゃ飛ぶの選ぶしかねえだろうが、まともになるまで」
言ってすぐ、胸倉から手が離された。慎吾は床に膝をついて座り、シャツの胸元を整えながら中里を見上げた。ベッドに座っている中里は右手を中途半端に上げたまま、とことん眉間にしわを寄せ、あらぬ方向を見ていた。口が半開きになっており、その声は床に向かって落ちていた。
「監禁?」
「監禁」
肯定してやり、伸びた生地を何度か落ち着かせ、あぐらをかく。中里はそこで慎吾を見下ろしてきた。中途半端に上がった右手が、宙を掴むように動き、数度開閉された口から、また声が落ちてくる。だが、今度は慎吾に向けられたものだった。
「……何だそりゃ」
「本気で悩んだんだぜ、俺は。お前をどこにも行けねえようにするか、一旦離れるか」
とんだ二者択一だったと今は思う。当時では考え抜いての選択肢だった。冷静だった。必死でもあった。感情を制御し損ねていた。手に余っていた。怖かった。捨てられる前に、捨てたくなった。捨てられないとは分かっていた。だから、逃げた。
「今は……まともに、なってんのか」
再び現実から遅れ出した顔つきながらも、中里は聞いてきた。慎吾は過去から戻り、答えた。
「じゃなけりゃ帰って来ねえっての。てめえでどうにもできねえようじゃ、お前に顔は見せらんねえ」
「……その、まともってのは、つまり……何だよ」
「つまり、お前に会っても監禁だの高飛びだのってクソみてえな発想が出ない状態だよ」
中里は相変わらず眉根を寄せきっていたが、現実には追いついてきているらしい目の色をしていた。慎吾は小さくため息を吐いた。ここまで洗いざらい言うつもりはなかった。憤った中里の相貌、声、迫力に、言わねばそれこそ捨てられそうに感じてしまった。視界は滲まずに済んだが、筋肉は緊張している。減らず口でも叩かなければ、やっていられない。
「まあ、俺も若かったからな、あの頃は」
「今も十分若えじゃねえか」、とすぐに中里は不服そうに言い返してきた。それを上目で一つ見てから、軽く笑ってやる。
「この前よ、同期の妹が女子高生なんだけど、その子におじさんって言われちまったぜ」
また見上げる。中里は何かを言いそうに口を開いたが、何も言わなかった。瞬きが多くなっていた。見れば、目は赤い。明らかに息が浅くなっている。中里は舌打ちすると、左手で顔を覆い、鼻をすすった。その顔から、目を離せなくなった。引きつり出した笑みを消すのも忘れていた。皮肉を言うにも努力が必要だった。
「何泣いてんだよ、素面のくせに」
「うるせえ」
「俺に会えたのがそんなに嬉しいか」
「自惚れんじゃねえよ、クソ」
中里の声は震えていた。左手で顔を拭い、テーブルの上のティッシュを取り、鼻をかんだ。目元も鼻も赤くなっている。息はまだ浅い。削げ切っている頬が強張っているのが分かる。その姿を見ているだけで、背筋がぞくぞくとし、快感が背面を飛び、全身に伝わっていった。たまらなかった。慎吾は床からベッドにのぼり、中里の隣に座った。新たに鼻をかんだ中里が、ぎょっとしたように見てくる。その体に腕を回しながら、首筋に顔をつけた。さっぱりとした人工的な香りの下に、確かな体臭がある。舌で舐めても味はしなかった。
「ひっ……」
鼻をかみ終わった中里がティッシュを放り、舌から逃れようと体をくねらした。腰から抱えて、跳ねる体をベッドに倒す。見合う間は作らなかった。余裕がなかった。その頬に右手を添え、すぐさま正面から、噛みつくようにキスをした。
「……んッ……」
一気に舌を入れて口腔を探っていくと、中里は鼻にかかった声を上げた。シャツの下に手を入れ、肌をまさぐりながら舌を吸い、絡める。味わうようにじっくりと続けた。やがて中里は応えてきた。その妙な積極さと拙さのある舌の動きが懐かしく、粘膜すらふやけそうになるほど貪っていた。背中を撫でていた右手を、そうしてトランクスの中に入れた時だった。おずおずと背中に手を回してきていた中里が、突然肩を押し返してきた。音を立てて舌を吸ってから、離れる。中里の顔は既にのぼせているような色で、目は濡れたままだった。慎吾が握った陰茎も濡れていた。驚くほどだった。中里は居たたまれないように片頬をシーツにつけ、上擦った声を出した。
「ちょっと、待て、駄目だ」
「何が」
強い硬度を保っているものを少ししごいただけで、高い声が漏れてくる。まだキス以外にほとんど何もしていない。インポもどきになった男とは思えなかった。
「ちゃんと抜いてんのかよ」
横になっている唇に触れるのは勘弁してやって、代わりに正面にきた右耳を舌先で軽く舐めながら、囁いた。逃れようとする体は、急所を掴んでいる右手に力を込めると大人しくなった。中里は信じられないように目をさまよわせている。手の中のものは一定の硬度を保っている。耳朶を優しく噛みながら手荒く擦ってやる。
「あ、待ッ……しん、ご、もう……ッ」
肩に指が食い込んできた。呻き、震え、呆気なく中里は果てた。
体を離して見てみれば、こちらのシャツの被害状況が著しかった。覆い被さっていたから当然かもしれない。どうせ一枚五百円の代物だ、慎吾としては構わなかったが、中里は布地に染み込みつつある精液を目にすると、ぎょっとしたのち、ますます居たたまれないように顔を背けた。
「わ、悪い……いや、これは、違う、いや、違わねえが、その……」
途切れ途切れの声を出す中里に再び覆いかぶさって、慎吾はその顔の真上から、なあ、と囁いた。
「現実的なことはだな、後でいいだろ」
「……何?」
「やろうぜ」
横目で慎吾を窺ってきていた中里は、即座に顔を真正面にした。数秒見合ってから、顎を上げ、やり切れなさそうな声を出す。
「お前、俺は、工場長になったんだぜ」
「そうか、おめでとう」、と頷いてから、中里の顔を上から覗き込みながら、慎吾は言った。「で、していいのか」
「コースレコードだってお前、要すれば、俺のもので……」
「そりゃ聞いた。な、いいだろ。駄目か。駄目でもいいけどな、駄目ならせめて抜いてくれよ。俺はインポじゃねえし」
「クソ、何でこんなことだけ変わらねえんだ」
「毅」
呼ぶと、渋々といった具合に目が合わせられる。そのまま見合っていると、やはり目は逸らされたが、また渋々といった具合ながらも、首は縦に数度振られた。慎吾は笑みを抑えられないまま起き上がり、服脱ぐか、と言った。掛け布団を床に蹴落としているうちに、中里も上半身を起こしていた。ベッドの上、座ったまま向き合って、シャツを脱ぐ。慎吾が綿パンを下着と靴下ごと脱ぐより先に、中里は裸になっていた。改めて向かい合う。中里の陰茎は垂れ下がっている。今さっき達したばかりだ。慎吾のものは着衣の締め付けから逃れて勃ち上がっている。両足を投げ出し座っていた中里は慎吾のそれを見ると、何とも表現しがたい味の料理でも食べたように顔をしかめ、俯いた。慎吾はその中里の体を見た。首、肩、胸、腹、下腹部、足。骨の周囲は筋肉に埋め尽くされているようだった。細いともいえるし、太いともいえる。肌に張りは見当たらない。ただ、余分な脂肪もあまり見当たらなかった。
「お前、前より体締まってねえか」
見たままの疑問をぶつけると、中里は顔を上げ、ああ、とまだ眉をひそめたまま言った。
「チームでな、去年から草野球を始めてよ」
慎吾の脳では、馬鹿騒ぎをやっていた連中が野球をしている風景は想像できなかったので、言った。
「……野球、って柄の連中だったようには思えねえんだけどよ」
「……始めた頃はまあ、ボロボロだったけどな。最近はそれなりにはなってるぜ」、とようやく顔から緊張を抜いた中里は、だが慎吾をじっと見て、また眉根を寄せた。「お前は、痩せたんじゃねえのか」
否定する要素はなかった。昔に比べ活動量が増えたが、食欲は同じだった。五年間で五キロ減った。筋肉をつけてもあばらは浮く。だが、不健康ではない。
「まあ、それなりにな」
「ちゃんと飯、食ってんのかよ」
「当たり前だろ。ただ、酒はあんま飲まなくなったな。一回胃が拒みやがってよ」
「大丈夫なのか」
「全然。飲まなくなったら飲めなくなっただけだ。それから健診で引っかかったことはねえぞ、俺は」
「そうか」
ベッドの上、裸のまま向き合って座り、するような会話でもないと先に思ったのは慎吾だが、すぐに中里も気付いたようだった。どちらからともなく苦笑した。
「色気ねえの」
「あってたまるか」
すぐに笑みを消し、うんざりしたように中里は言った。慎吾は苦笑したまま体を寄せた。素肌を触れ合わせながら、ベッドに沈む。互いの手で互いを背を支え、ゆっくりと、軽く交わるキスをした。多く酸素が必要になったところで舌を抜き、唇を顎から首、胸へと滑らせる。拍動に震えている表皮をついばみ、腹筋の継ぎ目を舌先でなぞりながら下りる。肩甲骨に当てられている中里の手が、幾度も皮膚を掴もうとし、諦めるのが分かる。そこで慎吾は身を起こした。他人の温度が消え、一瞬寒気がし、だが内側から熱がこみ上げる。中里は仰向けのまま、立てた膝を緩く開いていた。怪訝そうなその顔に、一つ笑みをやってから、脱いだ綿パンを手にする。ポケットからチューブを取り出し、蓋を外して右手の指にクリームを絞り出す。蓋を閉めてチューブを床に放り、何もつけていない左手で中里の膝を更に開かせると、おい、と驚いたような声がした。見れば中里は、理性と欲望を戦わせている顔貌をしていた。慎吾は足が閉じないように左手で膝を掴んだまま、何だ、と聞いた。
「お前……用意、してたのか」
「そりゃ、あらゆる事態を想定して動くのが、一流ってもんだろ。ゴムはねえけど」
「……そうか」
納得しているようでしていない風に言いながらも、中里はシーツに後頭部をつけて、顔を腕で覆った。空気は冷めたようだった。ただ、このくらいのぬるさが、丁度良いとも思えた。あまり熱いと、気が狂う。互いを味わえるものでもない。慎吾は体勢を整えてから、ぬめらせた指を、剥き出しになっている中里の尻の窄まりに寄せた。
「……ッ」
閉じているその周囲をゆっくり撫でると、中里が息を呑む気配がした。周りを揉み解してから、穴に指を一本入れる。
「あッ……」
強く締め付けられ、押し戻されそうになる。筋肉が強張っている。無理がないように、少しずつ、丁寧に、傷がつかないように指を押し込み、抜き差しして、馴染ませる。抵抗が感じられなくなったところで、二本目を入れる。
「……う、……あ、あ……」
中里は腕で顔を隠している。口は見える。呻きが漏れる。呼吸は荒い。慎吾の呼吸も荒くなっていた。つられている。中に揃えて入れている指をつい、頭の中で自分のものに置換する。粘膜に包まれながら、筋肉に受け入れられ、押し戻される。空いている手で自分のものをしごき立てたくなる。その手は幾度も閉じようとする中里の膝を開かせるために使っている。丁寧に、という意識が徐々に失われていく。陰毛の上、中里のものは直接触れていないのに勃起している。二本の指が内部で自由に動くようになった。ゆっくり、という意識は完全に放棄した。中里のうちから指を抜き、その指を自身に絡める。興奮が筋肉に電気を伝え、ねじ込むように挿入を果たした。
「……んんっ……」
強張る中里に被さって、つながったまま唇を合わせる。舌を優しく吸い上げているうちに、陰茎への締め付けが緩まってきた。一度、強く腰を入れる。すがりつくように背に手を回してきた中里が、口の中で呻いた。唇を離して、見下ろす。汗にまみれ、火照り、ぐだぐだに溶けている顔がある。
「久しぶり」
笑って言ってやると、快感に濡れている目を閉じて、ああ、と吐息に似た声を出す。その額に口付けてから、慎吾はまた身を起こし、中里の両足を抱えて腰を揺すった。
「ひ、あ……あッ、あ」
中里の両手はシーツに落ち、それを強く掴んだ。逃げようとはしなかった。
「あー、すげ……」
意識もなく、慎吾は呟いていた。陰茎から全身へ太い神経の束が走っていて、強い快感が絶え間なく伝達されているようだった。頭が熱い。温度が高い。がむしゃらに動いていた。
「や……ッ、あ、あ……いッ……」
極まった声がした。急激に、締め付けられていた。中里が射精した。びくびくと体を震わせ、全身を緊張させ、腹に、胸に、精液を撒き散らした。慎吾は動くのをやめた。筋肉に戒められて、動けなかった。眉をきつく寄せていた中里が、やがて恍惚としたように顔を緩める。再度、慎吾は動いた。途端、中里は高い声を上げた。今度はその体を抱きながら抽送を繰り返す。
「慎吾、も、だめだ、やめ……ッ」
官能の苦痛を訴えるような中里の声だった。脇の下から肩へと回された手が、皮膚をしっかりと掴んでくる。その痛みすら甘かった。
「毅」
名を呼べば、濃いまつげに縁取られた目が開く。黒い瞳があちらとこちらをさまよいながら、慎吾を捉える。
「毅、毅、毅」
何度呼んでも呼び足りない。いくら触れても触れ足りない。いくら入り込んでもまったく足りない。
「好きだ、もう、ありえねえくらい」
何を言っても言い足りそうにはなかった。鈍い快感が腰に溜まっている。何をしてもし足りないようだった。慎吾は腰を速く動かした。喘ぎながら中里が、肩の皮膚を掴んでいた手を、頬に持ってきた。熱い手だった。引き寄せられた。唇が触れた。舌が触れた。絡まった。上でも下でも粘膜が溶け合って、区別がつかなくなりそうだった。滞っていた快感が、その瞬間引き出された。キスの切れ目、大きく息を吐き出して、慎吾は射精した。同時に中里が、腰に絡めた足に力を込めてきた。どちらの体が震えているのか分からなくなりそうだった。
抱き合ったまま、息を整える。中里はまだ快楽の余韻があるようで、時折びくりとするが、理性が居座っている目をしていた。抜く時機が掴めず、慎吾は挿入したまま、声をかけた。
「仕事、まだやってんのか」
ぼんやりと瞬きした中里が、ぼんやりとした声で答える。
「……やってねえと、車も持てねえよ」
「明日は」
「休みだ。社長の奥さんの、親父さんが、死んだらしい」
「はあ? それで休みかよ。随分のん気な職場だな、おい」
「ああ……」
肩に回していた手で、額に落ちてやる前髪をすくってやると、中里はしっかりとした瞬きをし始めた。晒させた額にまた口付けて、腰の位置を変える。
「お……」
低い声を上げた中里は、体内の変化を探るように顔をしかめた。視覚はやはり、多くの刺激を運んでくる。絶頂を過ぎた懐かしい男の姿は、自分の絶頂も思い出させた。最近性欲の減退を感じていたが、そうでもないらしい。もう一度腰の位置を調節してから、じゃあ、と慎吾は言った。
「とりあえず、一年分やっとくか」
顔をしかめているままの中里は、その提案を歓迎しているようには見えなかった。さりとて嫌そうでもなかった。怪訝という言葉が似合っていた。
「……とりあえず、かよ」
「とりあえず、な」
頷いてやると、天井に目を向け、できるのか、と深刻な声を出す。物は試しだ、と慎吾は言い返し、とりあえず、再開した。さすがに一年分は無理だった。一週間分はできた。
(=1)
喉の渇きを意識した。意識すると、どうにもたまらなくなった。慎吾は体を動かそうとして、自分の右腕が何かに押さえつけられていることに気がついた。目を開く。板張りの、明るい天井。それを見て、自分が寝ていたことを思い出した。覚醒していた。重みのある右腕を見る。何かに押さえつけられているのではなかった。仰向けで寝ている中里の頭が乗っていた。腕枕をしてやった覚えはない。隣り合って寝た記憶はある。寝相のためかもしれなかった。
とりあえず右腕はそのままにして、左手を中里の後頭部に差し入れる。頭を持ち上げて、右腕を抜き、ゆっくりとベッドに下ろした。乱暴に扱ったつもりはないが、それなりに衝撃はあったようで、呻いた中里が、眩しそうに目を開いた。
「おはよう」
慎吾は言った。言って、自分の声が少し掠れていることに気付いたが、おはよう、と返してきた中里は、慎吾以上にひどい声になっていた。自分でも分かったのだろう、咳をして中里は、あ、あ、と掠れの程度を確かめるように何度か声を出した。どれもひどかった。
「喉渇いてねえか」
喉に手を当て合点がいかないように寝たまま首を傾げている中里に、声をかける。中里は慎吾を不思議そうに見、ああ、と頷いた。慎吾は起き上がり、中里をまたいでベッドから下り、台所まで歩いた。食器籠に積まれたままのグラスを取り、流しの水を入れて、二杯続けて飲む。それから水を入れ、ベッドまで戻ると、中里は起きており、既にトランクスを履き、シャツも着ていた。
「お前、どうせ風呂入んだから、裸のままでいいじゃねえか」
慎吾は水を入れたグラスを渡しながら、呆れて言った。互いの精液を奪い尽くし合って、始末もせずにそのまま寝たから、体中がどちらのとも知れない体液でべたべたで、お世辞にも良い匂いを発しているとも言えなかった。服を着るなら肌の上に張りついているものを落としてからの方が、よほどさっぱりするだろう。
「しゃきっとしねえだろ、裸のままだと」
中里はグラスを受け取るとベッドの端に腰掛けて、床に足を落としながら、居心地悪そうに言った。そうして一息に水を煽ると、テーブルにグラスを置くとともに煙草の箱を手にし、口に一本咥えてライターで火を点けた。慎吾は素裸のまま何の遠慮もなく、中里の隣に腰を下ろし、テーブルの上のリモコンを取ってテレビを点けた。ワイドショーをやっている。司会陣からすると朝だろう。慎吾はテレビを消し、リモコンはテーブルに放った。そうしてからふと、以前にも似たようなことをやったような気がした。水を持ってきてやって、中里は風呂にも入らぬうちから下着を着直して、テレビで時間を確認して、煙草を吸う。そんなことを、何度もやっていたような気がする。
「進歩ねえな」
呟いていた。あ?、と中里が少しは丸くなった声を上げ、こちらを見てくる。記憶にあるより、確実に老けている中里の顔だった。どことなくやつれてもいる。昨日は泣いてもいたし再度泣かせるほどにセックスもしたが、それを差し引いてもあの頃ほど活発さは窺えない。変わっている。だが、変わっていない。そのことに、全身がむず痒くなる感じを覚え、慎吾は進歩のないことへの滑稽さを思い出すことで、痒みを紛らわせた。
「何、一人で笑ってんだ」
訝しげに、中里が言う。いや、と慎吾は嘲笑を作ったまま、中里からは顔を背け、ごまかした。
「気が向いたら、お前、うち来いよ。後で住所教えるから」、と言ってから、不意に思い出した。「俺は今日のうち、実家に顔出しとかねえと」
「何だ、まだ親に会ってねえのか」
中里は驚いたようだった。慎吾は電源を入れていないテレビを見たまま言った。
「小言食らうより先に、お前とのこと白黒つけときたかったからよ。まあ考えてみりゃ、その方が二度手間にもなんねえんだよな」
「二度手間?」
「一人で暮らすか恋人と暮らすか報告すんのに」
中里の息が止まったようだった。横を見ると、眉間に力をこめている。探るような顔つきだった。慎吾はまだしびれの残っている右手を、紫煙を払うように振った。
「お前のことは言わねえよ、別に。言っても分かんねえだろうし」
「どうするんだ」
「適当に話は作るさ。俺の得意分野だ」
「報告を、するんじゃねえのか」
真っ向から中里は慎吾を見ていた。慎吾は見られていた。まったく揺らがぬ目に見られていた。中里がそこから逃げる気がないことは易々と知れた。その答えを尋ねる気は失せていた。五年ぶりに抱き合って、セックスして、それができたことで十分だと思った。進歩はなかった。結局、捨てられることを恐れている。中里は真っ向から見据えてくる。変わっているのかもしれないし、変わっていないのかもしれない。ただ中里は慎吾を見据えていた。おそらく残された者に付きまとう無力感に苛まれてたであろう、わざわざ自分が何もしていないと、責めを待つように言ってきた男が、真っ向から見てくる。逃げようとはしていない。慎吾の選択を待っている。慎吾の判断を待っている。五年待たせた。待たせた男から、逃げるわけにはいかなかった。水を与えたのにまだ乾いているような喉に唾を送ってから、声を出す。
「どうすりゃいい?」
慎吾こそが、その答えを待っていた。中里は慎吾の問いを顔面から染み渡らせたようだった。一つ頷いてから、電源の入っていないテレビを向く。不器用に言った。
「家賃、いくらだ」
慎吾は数拍置いてから、家賃?、と聞き返した。
「税金もかかるだろ。払えるだけは、俺も払うぜ」
中里はテレビを見たままだった。何も映っていない。いや、中里自身は映っているのかもしれない。家賃、税金、支払い、と慎吾は思った。確かめるまでもないだろう。ここでびくついても、格好がつかない。んなもん、と慎吾は馬鹿にするように笑ってやった。
「お前が気にすることじゃねえよ。こっちは金が余って仕方ねえんだ、あんまり残すと労働意欲も失せちまう。っつーか元々ほとんど俺の金じゃねえし」
自分のことは自分が稼いだ金で済ませたい。かといって見知らぬ人間に寄付をするほど功徳を積みたいとも思わない。知ってる人間なら別だ。それも、特別な相手なら言うことはなかった。
「大富豪か」
中里はテレビを見たままだった。笑いで冷静を装おうとした慎吾も見なかった。真顔だった。煙草を灰皿でもみ消し、そして呟くように言った。慎吾は通用しない笑いを消し、何だ、と言った。そこで中里はようやく再び慎吾を見た。何の拘泥も含まぬ、自然な顔をして、まだ荒れている声で、説明するように言葉を発してきた。
「年賀状に書いてただろ、いつかの大富豪って。俺は、ホラ吹いてんじゃねえ、としか思わなかったけどよ」
慎吾はぎくりとした。
「届いてたのか」
「今年はこなかったな。だから、いよいよ死んだかどうかしたかと思ったぜ」
中里は苦笑した。慎吾は咄嗟に適切な返答を考えた。動じていた。自分で自分を馬鹿だと思うが、届いているとは予想もしていなかった。年賀状は配達人が業務放棄をしたがために行方不明になることもあるらしい。だがそのためではない。年賀状は、確かに中里に宛てて書いた。だが、自分がまだ中里を忘れていないことを実感するために書いただけだった。また、自分がやってきたことを、少しでも残したくて書いただけだった。それを中里が読むということは、見事に失念していた。そのため何か、突然自分の恥部がさらされた気分になり、動じていた。
「まあ、書くことなかったからな。そうそうネタも転がっちゃいねえ」
それでも慎吾は間をさほども空けずに言い返した。これは事実だ。ぼろは出ない。
「ネタってと、食中毒とかか」
「……ありゃな、俺はトイレの中でこの短くも濃い一生を終えるのかと思ったぜ、マジで」
頭が朦朧になるほどの吐き気と腹痛を思い出しながら言うと、中里はまた苦笑した。笑われる筋合いはない。居心地が悪くなってきて、立ち上がり、何笑ってんだ、と見下ろすと、いや、とそれでも中里は苦笑を消さぬまま、しみじみと言った。
「お前は、変わらねえな、慎吾」
「お前もな。学習能力の欠如が著しい」
皮肉を返してやっても、中里は頬を緩めたままだ。またぞろ全身がむず痒くなってきた。幸せに対するじんましんのようなものだった。手に入れたいものが手に入っても、それはそれで厄介なのかもしれない。たまらなくむずむずする。体を掻きむしりたくて仕様がなくなり、シャワー借りるぜ、と慎吾は言い、下着を拾って風呂場に向かうことにした。
「慎吾」
呼ばれて無視をするというのも、大人気ない。慎吾は下着を抱えたまま振り向いた。相変わらずベッドの端に腰掛けている中里は、だが癪に障る笑みは引っ込めていた。ふと、どちらかといえばお前が先に湯を浴びるべきじゃあないかと思ったが、
「お帰り」
と、思い出したように、素朴にそう言われてしまうと、これから風呂場に向かおうとしているのに、ただいま、と応えざるを得なかったし、そんなことを誰かに対して言うのは随分久しぶりで、うまく言えた気がせず、それを見越したようにまた皮膚をむず痒くさせられる笑みを浮かべられては、思い切りシャワーを浴びてやるしかなくなった。
(終)
(2007/10/20)
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