還らぬ時間 3/4
    3  


(-0)

 年々春の到来が早くなっているようだった。そして春がきたかと思えば夏の気配が漂い出す。三十路も間近の体は草野球の練習によってたるみが取れてきた。草野球にせよ走りにせよ、チームの主力は後輩たちだった。中里とは十も違うメンバーもいた。チームは昔よりも和やかになっている。他のチームと険悪さのない交流をし出しており、技術向上に重きを置いて皆走っている。だが、集まっている人間に変わりはないようだった。血気盛んで規律も統一も知らぬ存ぜぬ、走行時以外での怪我は頻発、ただ走りや車や遊びには強いこだわりを持っている。それでも恨みを買うような事件は減り、女性のギャラリーが増えつつあった。処世術のうまい奴が多くなったのかもしれなかった。草野球も何とか形になっており、前途の不安は消えた。スイフトの男はまだ中里のダウンヒルのコースレコードを破っていない。無邪気な顔で、今年中に何とかしますよ、と笑っている。中里はその男と二度目のバトルはしていない。望まれたら受けるだけだった。
 32も型遅れと言われて久しい時代となっていた。エンジンは回る。念入りに手も入れている。科学技術の粋が集められた新車にもまだ互角に渡り合える。桜の花が雨で流れ落ちた頃、お前は乗り換えないのかとエンペラーの須藤に問われたことがある。須藤自身は既に乗り換えていた。ランエボは新型が出る間隔が短い。スカイラインにせよGT−Rというグレードのある33も34も発売されている。乗り換える気はない、と中里は須藤に答えた。
「まだ、待ってるもんでな」
 須藤はそれを、新型が出ることを待っているのだと解釈したようだった。中里は否定はしなかった。

 かつての仲間も結婚したり職場を変えたりで、あまり山には来ない。病院にはそぐわないイケメンという単語を使って評される医者の昔の通り名を知る者もほとんどいなくなっていた。その弟は、メディアでよく見るようになった。カー雑誌やモータースポーツ番組にとどまらず、ファッション誌やバラエティ番組にまで現れていた。端整な顔立ちと高く均整の取れた体型、抜群の実力、見かけに漂う静謐さを裏切るような軽快な喋りが人気のようだった。秋名のハチロクの本名はラリー界に広まっているようだった。雑誌で顔写真を見たことがある。精悍さが格段に増していたが、相変わらずどこか茫然とした顔つきだった。そのように五年経ち、中里は工場長になっている。春を迎える前に、精神科に通っていたそれまでの工場長が自殺をした。寝耳に水の事態に社長は、よその人間を迎えるよりは中の人間を上げた方が良いと判断し、資格を持つ中里に打診してきた。工場には死んだ工場長よりも年上である河梨がいる。中里はそれを理由に辞退しようとしたが、当の河梨が中里を推薦したということで、断るわけにもいかなかった。新人を雇い、中里は昇格した。給料はさほど上がらず責任だけがかなり増したが、やり甲斐も増えた。
 週刊誌で有名アイドルとの密会をすっぱ抜かれていた男が峠に現れたのは、五月の初めのことだった。昔よりもパーツが派手になったように見えるイエローFDから、昔と変わらぬ威風堂々とした態度のドライバーが降車し、煙草を吸っていた中里の前まで軽い足取りでやって来た。その染められて無造作に立てられた特徴的な髪型に大した変化はなかった。顔貌は記憶の中よりも鋭く、野性的な色気を増しており、佇まいからは強靭な力の片鱗が感じられた。思えばおよそ五年半ぶりだった。
「変わんねえな、お前」
 だがFDのドライバー、高橋啓介は開口一番、挨拶も何もなしにそう言った。歳月を感じさせぬ口調に、中里はかつてこの男と張り合っていた頃の自分に戻ることを抑えきれず、挑戦的に笑んでいた。
「いきなりご挨拶だな、高橋啓介」
「まだ32乗ってんだな。懐かしくなったぜ」
「お前だって、まだあのFDに乗ってんだろう」
「ま、たまにはな」
 高橋啓介は左の頬を器用に上げた。若干高めのその声は、昔よりも耳に心地良く聞こえた。ブラウン管を通してこの男を見る時は、懐かしいと思ってから、懐かしいと感じた。今は違う。一瞬にして、赤城レッドサンズと妙義ナイトキッズが群馬随一を争っていた、当時の気分が蘇った。会うのは秋に行われた交流戦以来となる。長い歳月が流れていた。高橋啓介は見目が格段に逞しくなっている。それでも、まるで昨日会ったような近しさが感じられた。
「休暇でよ。家族に会いに来たついでにな」
 中里が尋ねるより先に、高橋が言った。アニキと指定しないところに違和感を覚えたが、もうアニキアニキと言うような歳でもないのだろう。そうか、と頷き、煙草の灰を携帯灰皿に落としてから、意味深に笑ってやった。
「お前、こんなところに来てていいのか」
「時間がなけりゃ来ねえよ」
「噂になってんじゃねえか、あのアイドルの何たらと」
「やめてくれ、あの女の話はしたくない」
 嫌そうに高橋は首を振る。中里は意外に思った。嫌いなのかと問えば、しみじみと言った。
「女は見かけじゃねえ、中身だな」
 つい笑うと、何だと眉根を寄せた顔で見られる。いや、と中里は笑みを止められないまま言った。
「お前の口からそんな言葉を聞くような日がくるとはな」
「何だそりゃ」
「昔じゃ考えらんねえってことだ」
 高橋は眉を上げ、元の位置に戻すと、それもそうか、と首を揉んだ。敵同士だった。女について話す仲ではなかった。結局、中里はこの男に負けたままでもある。再戦できる精神状態になった頃には既に、高橋啓介は群馬を出ていた。だが、もうわだかまりはなかった。バトルをしたいという欲求は、チームの名誉や悔恨に基づいてはいない。
「話はよく聞くぜ。随分活躍してるんだな」
 走りたがる肉体を抑えるため、中里は話を振った。
「まだまださ。世の中には俺より速い奴もいる」
 高橋啓介は真顔で言った。幾多の厳しい試練を乗り越えてきた男の、極限まで削り出された美しさがそこにはあった。目の当たりにすると、同じ時代を生きた走り屋としての親近感が、急に頼りないものに思えてくる美しさだった。
「なあ、俺が走るとさすがにやべえよな」
 その真顔のまま、高橋啓介は中里を見、続けて言った。空間の断絶を感じていた中里は、何を言われたのか、一瞬理解ができなかった。理解してからは、戸惑った。
「おい、ここは妙義だぜ。やるならお前の地元にしとけよ」
「赤城もなあ、俺の知り合いほとんどいなくなってるからよ」
「お前を知ってる奴なら山ほどいるんじゃねえのか」
「俺が知ってる奴がいねえんだよ」
 すねるような口調だった。高橋啓介といえば、赤城レッドサンズ時代、その兄である高橋涼介とともに、押しも押されぬ人気を博した走り屋だった。誰もがその名を知っていた。だが、高橋啓介自身は、他の走り屋をそうも見ていなかったのかもしれない。アニキが群馬一と謳われた走り屋だ、それより下の人間に格別な注意は払えなかったのかもしれない。それでわざわざ妙義まで来たというのは、一度バトルをしていたためだろう。高橋啓介の記憶に、自分は残ることができたのかもしれない。そう思うと、幼さの残る顔つきになった男の望みを、自分と同じ欲求を持っている男の願いを、叶えてやりたくなった。
「さすがに今、そのイエローのFDをお前が飛ばしたら間違いなく噂になるぜ。特にうちのチームのメンバーは火のねえところに煙を立たせたがる奴らばっかだからな。まあそれでもいいなら、昔の威光を使って話は通せる」
「いや、ただでさえ関係ねえ女のことどうのこうの言われたからな……あ?」
「なら、話を別にして広めりゃあ、何とか……」
「昔の威光?」
 はっきりとした声だった。見れば、高橋啓介は不可解そうな顔をしていた。中里は煙草を携帯灰皿にねじ込み、言った。
「俺は、リーダーは辞めたんだ」
「いつ」
「一昨年か。リーダーって柄でもなくなったしな。ここのコースレコードは一応、俺が保ってるけどよ」
 高橋は不可解そうな顔を、釈然としないものとした。
「どうした」
「いや」
 尋ねても、首を横に振るのみだ。中里も釈然としなくなったが、ひとまず話を戻した。
「まあだから、うちのメンバーは、事実関係を確かめねえで話を広めるのが好きだからな。そこを狙う。つまり、例えお前がFDで走ったとしても、お前がステアリングを握ってなかったことにすりゃあいい」
「お前が運転してたことにするってか?」
 話の呑み込みがいいな、と中里は感心した。高橋啓介は考えるように顎に手を当て、一つ頷き、口を開いた。
「お前が最初に運転してここから出たら、途中で俺と交代する。そのまま俺が好きなだけ走って、人気のないところでまた交代して、お前の運転でここまで戻ってくる。そういうことだな」
 ああ、と頷きつつ、中里は驚いていた。これほど物分りの早い男だったろうか。あの高橋涼介の弟だ、元々素質があったのかもしれない。それがこの五年間のうちに、磨かれたのだろう。
「じゃあ、他の奴らはよろしく頼むぜ」
 高橋啓介はそう言い、FDへ歩いて行くと、助手席に乗り込んだ。驚きを消せぬまま、中里は現リーダーの男の元へ行き、そいつと喋っていたチームで最も噂が好きなメンバーに聞こえるよう、今から自分がFDに乗って運転させてもらうから道を開けさせてくれと旧リーダーの威光を使って要請し、走りに適切な状況をあつらえさせたところで、FDの運転席へと乗り込んだ。

 出て最初の待避所に入り、素早く席を交代する。ステアリングを握った高橋は、これだこれ、と笑い、発進を宣言しないまま一気にコースに飛び出した。中里は急激な重力の変化についていくのが精一杯だった。初心者がやりたがるような大げさなドリフトを繰り返し、FDが峠道を上っていく。対向車はない。限界のスピード、荒々しいが決してボディは痛めないドライビング。上りきり、止まることなく下りに入る。今度はタイムアタックをするような繊細なライン取り。アシストグリップを握る手に疲れを感じないほど、刺激的なダウンヒル。最後、三六○度ターンでヒルクライムに戻ったFDは、今度は滑らかに路面をタイヤで噛んでいく。そこで初めて、高橋啓介が言葉を発した。
「俺、お前は永遠にナイトキッズのリーダーやってるもんだとばっか思ってたよ」
 細かく手足を動かしながら、フロントガラスの向こう、ヘッドライトが闇を切り裂いた中にある風景に目を注ぎながら、何もしていないような軽さをもった声で高橋は言った。この峠で他人の隣に乗ること自体が何年かぶりの中里は、いまだ緊張が解けぬ体から、何とか声を返した。
「そうか」
「変わらねえこともないもんだな」
「ああ。ただ、何でも、残ってはいるもんだ」
「残る?」
「だから、お前も、ここまで来たんだろ」
 間があった。FDは五年を経っていることも感じさせない走りをしている。高橋啓介の顔を見る余裕はない。
「かもな」
 短くそれだけ言い、高橋啓介は後は黙々と走った。上りきったところで、ようやく中里は運転席に座ることを許された。

 駐車場まで着いてFDから降りると、ほっとするとともに、どっと疲れが押し寄せた。自分の車で走る方が、まだ肉体は縮こまらないし、緊張に喉が渇くこともない。高橋啓介のドライビングは先が予測できないほど個性的だった。プロだの素人だのという次元ではなかった。高橋啓介というドライバーのすべてが凝縮されたような、濃密な走りだった。隣にいるだけで、存在に巻き取られそうになる走りだった。
「すげえ、懐かしくなったよ」
 中里が凝り固まった肩を回していると、助手席から降りた高橋啓介が、笑いながらそう言ってきた。ちっとも懐かしそうではなく、苦々しげでもない、柔和な微笑みだった。中里はそれを見た途端、不愉快さに襲われた。うまくは言い表せない。ただ、直感だった。
「高橋啓介」
 前にしたその男を、中里は睨みつけた。
「らしくねえツラしてんじゃねえよ」
 男の笑みは、すっと引いた。困惑したような表情が浮かび、それもすっと引いた。次の瞬間には、皮がめくれるように、不敵な笑顔が現れた。
「偉そうな口利くんじゃねえっての。お前と俺の年棒にどれだけ差があると思ってんだ、中里」
「知るか」
「俺も知らねえ」
 高橋啓介の笑みは崩れなかった。他人を喰える男の強い笑みだった。中里が何か言い返そうと考えているうちに高橋啓介は、
「今度は相手してやるよ」
 と笑ったまま言ってのけ、敬礼するように右手を上げて、現れた時と同様の軽い動きでFDに乗り込み、中里の目の前でタイヤを軋ませると、駐車場から消えていった。
 懐かしさとも親しさとも優越感とも劣等感ともつかない感情に飲み込まれたまま、結局あいつにゃ負け通しだ、と中里は思った。そこまで残ってくれなくとも良かった。



(no count)

 磯田幸二は現れたその車を見て、口笛を鳴らしていた。低い車高、丸みの少ない深紅のボディ、オープンのツーシーター。ホンダが満を持して世に出したFRスポーツカー、S2000。この妙義山では一度も見たことがない。どんな人間が運転しているのか、自然磯田の期待は膨らんだ。まさかS2000にまで乗っておいて下手ということもあるまい、とわくわくする。磯田は大安売りのノボリに目を奪われる性格だった。豪華な看板に弱かった。チーム内にフェラーリテスタロッサに恐る恐る乗っている初心者もいることなど、すっかり忘れていた。
 だが、磯田の期待を煽るのは何も車種だけのためではない。その車といったら駐車場への入り方といい速度といい、こなれたものだった。夜の峠に入ってくるなど、よほど場数を踏んでいなければどこかしら挙動に焦りや戸惑いが染み出るものだ。
 血のような深みのある色が無駄な動きもなく滑っていき、磯田の前方でとまった。
 運転席から男が降車した。闇に溶けるような黒い綿パンに、黒地に白のしぶきがプリントされたTシャツを身につけている。痩せ気味に見えた。何度か地面を確かめるように踏みしめた男は、鬱陶しそうに頭をめぐらした。煙草を吹かしていた磯田は、不意に背筋に得体の知れない寒気を覚えた。男がこちらを向いていた。そのためだと思われた。一つ首を傾げた男が、歩いてくる。寒気は消えない。徐々に男の顔が確かに見えてくる。
「おい、兄ちゃん」
 男は途中で磯田に声をかけてきた。伸びのある低い、けれども浮ついているような声だ。何すか、と磯田が言葉を返す間に、男は磯田の目の前まで来ていた。男は黒い髪をしていた。それは短く刈り揃えられており、露わになっている輪郭は高い頬骨が印象的だった。ごつごつとしているが、鋭利さを感じさせる顔だ。険がある。一見すると二十代前半という若々しさがあったが、その身には貫禄があった。しかし何より印象的なのは、常に獲物の喉首を狙っているような鋭さが光っている目だった。真っ直ぐ見られただけで、身が縮むような思いになる。これは速いに違いない、磯田は確信した。
「ここに黒の32乗ってる中里毅って奴、まだいるか」
 男の声はそんな物騒な雰囲気には合わず、軽く皮肉げだった。磯田は男を畏怖しつつ、聞かれたことに答えた。
「中里さんなら、今日は来てませんよ」
「来るかどうかは分かんねえのか」
「いやあ、思い出したみたいに来る人だから、何とも」
 磯田はナイトキッズというこの妙義山をホームとする走り屋チームに入っている。そのチームの古株が中里だった。型遅れとも言われる黒い日産スカイラインR32GT−Rに乗っており、月に五、六回不定期に現れ、一人で走って帰っていく。一年前に友人に誘われてチームに入った磯田にとって、謎多き走り屋である。妙義山のヒルクライム、ダウンヒルのコースレコードは両方その中里が持っているが、バトルには出ない。かつてナイトキッズには速い者がリーダーになるという伝統があったという。中里はそれを破り、チームに留まりながらも表舞台からは退いた。その理由についてはメンバー内でも意見が分かれているようだ。話を聞けば、リーダーという名の尻拭い役に疲れたのだとか、気まぐれだとか、皆好き勝手に言い立てる。確証を持つ者はいない。そこがまた謎だ。
 速いことは間違いない。磯田は一度後ろをついていく機会を得たが、コーナー三つで置いていかれた。車やドライビングについてのアドバイスも適当で分かりやすい。親しみやすさもあれば、特徴的な太い眉と太い目太い唇、削げた頬を持つ容貌には重厚感がある。だが、どこか地味な男だった。速いにも関わらず、その速さに憧れる者がいるにも関わらず、いかにもそこら辺にいそうな地味さのある男だった。磯田より七つ八つ上のはずだが、年齢不詳な地味さもある。直接話をしてもその印象は消えなかった。そこがまた謎だ。
 表には出てこないのに、速いだけあって顔は広い。二ヶ月に一度ほど、栃木からわざわざ中里と走るためにやって来るランエボに乗った男もいる。先輩連はその男と我がとこのメンバーのように話もするが、男の目当ては最終的に峠と中里であるという。先週はレーサーの高橋啓介が突然妙義山に現れたが、その高橋啓介の車を中里が運転していた。昔、中里はチームの交流戦で高橋啓介に負けているという。仲が良いという話は誰も知らなかった。しかし速い走り屋同士分かり合うものがあるのだろうと皆は勝手に納得していた。真実は不明だ。謎である。
 頼り甲斐もある。車についての相談から、喧嘩や事故の処理まで軽く済ませてしまう。だが皆がそれに感心することはあまりない。その男がいないチームを誰も考えたことがないようだった。それでも中里がいつ来るのか、把握している人間はいない。中里と会話をしたこともない者から、同期で親しくしている者まで、誰一人として中里の動向を知りはしない。来てもそう騒ぎ立てもしない。だがあらゆる人間が頼りにする。ともかく不思議な走り屋だった。しかも、S2000に乗ったこの男も、その中里が目的のようだ。
「そうか。ったく、人が取るものもとりあえず来てやったってのに、あの野郎」
 腹立たしそうな男の言葉だが、態度だけのようでもあった。世慣れた雰囲気を持つ男だ。そして速そうな雰囲気も持っていた。そういった雰囲気に、磯田は弱い。男は中里を知っているようで、磯田は男を知らない。
「中里さんのお知り合いですか?」
 思い切って尋ねると、まあな、と男はどこか苦々しげに笑った。
「連絡先はご存知じゃあ」
「いきなり家まで行ったら風情がねえだろ」
 風情、と磯田が呟くと、風情だよ、と男は今度は愉しげに笑った。背筋に寒気を覚える笑みだった。拭い去れない残忍さが男の顔には潜んでいる。その目からしてそうだ、いつでも躊躇なく他人を潰しにかかれると言っているような暗い光がある。人一人殺していてもおかしくないような雰囲気だった。この男にせよ、こんな男に会いに来られる中里という走り屋にせよ、やはり謎だ。磯田は煙草を咥えたまま、これは俺の手には余るぞ、と途方に暮れかけた。
「お前、シンゴか?」
 そこで突如、別の男の声が傍でした。これ幸いと思い振り向くと、チームの古顔、坊主頭の笹間宏佳が立っていた。こめかみにある傷をあげてカラスとの格闘の跡だの恋人との愛の証だのと真顔で冗談を言う真面目な男は、なぜか普段まったく見かけられない鳩が豆鉄砲を食らったような顔になっている。
「ヒロか?」
 と、S2000のドライバーの声がした。顔を戻すと、こちらは訝しそうな顔だったが、すぐににやりと笑んでいた。「何だ、お前全然変わってねえな」
「……お前」
 驚き顔を、笹間はとことん嫌そうな、そして限りなく嬉しそうな笑顔へ変えた。声を出して笑いながら男に近づき、その肩をばしりと叩く。
「お前こそ、その憎まれ口は相変わらずだなおい、シンゴ」
「いてえなクソ、俺がいつ人に憎まれるようなことを言ったってんだ、てめえは」
 笹間の肩を小突き返しながら男が言う。笹間は笑ったままだ。
「何だ、いつの間に帰って来た」
「今日の間だ。荷解きが終わってねえ」
「あ? またこっちで暮らすのか?」
「てっきりもっと都会になってると思ってたからな」
 嘲るように笑いながら男が言う。笹間は笑みを止めていなかった。笹間の先ほど男を見ていた時の間抜けな顔も、これほど嬉しそうな顔を見るのも、磯田は初めてだった。笹間という走り屋は古くからチームにいる。あまり表には出てこないし、感情を剥き出しにもしない。こうして大きく笑う姿など、珍しいという以外になかった。それだけ男と笹間は親しいのかもしれない。何せ二人は磯田をなきものとして話していた。
「まったく、変わってねえな、お前は」
「お前もな。五つも年食ったツラじゃねえよ、そりゃ」
「お褒めいただき嬉しいよ」
 そう言った笹間が、ごく自然に磯田を見た。
「おい、幸二」
「え、あ、はい?」
 すっかり忘れられていると思っていた磯田は、頓狂な声を上げていた。それを気にした風もなく、男を親指で示しながら笹間は言った。
「お前も一回くらいは名前聞いたことあるだろ。こいつがショージシンゴだ」
 ショージ、と磯田は呟いた。ショージシンゴ。はて、誰だったろうか。数秒考え、考えていない部分の脳味噌が、その名を漢字に変換していた。
「……え、あ、庄司慎吾? シビックに乗ってたっていう」
「まだ乗ってるよ」
 男はシニカルに笑った。庄司慎吾。聞いたことがある。去年の秋、ダウンヒルでくっついていこうとしたらあっさり置いていかれた後、中里と駐車場で話す機会があった。悪いな、飛ばしちまった、と中里は申し訳なさそうに言ってきた。卑屈になる気すら起こせない真摯な態度だった。いや、俺がまだまだなんで、と磯田は笑った。そうか、と中里は居心地悪そうに頷いた。そんな中里に、今ダウンヒルじゃ井ノ口さんが一番ですか、と磯田は尋ねた。井ノ口はスイフトに乗っている男だった。その実力から今ではナイトキッズの看板になっている。それが実のところはどの程度のものなのか、コースレコード保持者でありチームの古株である中里の意見を磯田は一度聞いてみたかった。まあそうだな、と中里は言った。現リーダーの根吹もいいが、実戦では井ノ口には負けるだろう。冷静な口調だった。磯田はつい好奇心を刺激された。井ノ口さんのこと、ライバルみたいな感じで見てますかと聞いていた。ダウンヒルで井ノ口は中里の記録に迫りつつある。井ノ口の方が中里より五つは若いはずだが、存在を意識していることは、ありえない話ではない。ライバル、と言った中里は、どこか戸惑ったような顔をしていた。ええ、と磯田は頷いた。中里は考えるような間を置いた。
 ――俺がここでライバルだと思った奴は、一人しかいねえな。
 戸惑った顔のまま、戸惑ってはいない声を中里は出した。話の流れとして、それは井ノ口ではないようだった。誰っすか、と磯田は好奇心丸出しで続けて聞いていた。中里は、途端に郷愁に襲われたように目を細め、磯田を見ぬままに答えた。
 ――赤いEG−6に乗ってた奴だ。飛びきりイカれた速い奴だった。
 何て名前ですか、と磯田は言った。五秒ほどしてから、庄司慎吾だ、と中里は言った。
「乗り換えたんじゃねえのか」
「ぺーぺーの時から乗ってる車捨てるってのも、味気ねえだろ」
「じゃあ二台持ってるわけか」
「維持費で給料飛んでくぜ」
「サラ金まみれじゃねえだろうな」
「夜逃げしてきたってか?」
「金は貸せねえぞ、今年俺のコピーができるんだ」
「はあ? お前結婚したのかよ」
「去年な」
 磯田が回想している間に、笹間と庄司は自然に会話を続けていた。話の内容からして、おそらく二人は久しぶりに再会したのだろう。笹間は庄司を見て極端に驚いていたし、庄司は笹間のことを五つ年食ったツラではないなどと言っていた。ということは、まさか五年ぶりに会ったのだろうか。それにしては毎日話をしているような気安さが二人にはあった。謎だ。謎だが、何かすごい。磯田は回想と現状に興奮しており、つい口を動かしていた。
「中里さんから、話聞きましたよ」
 磯田の発言は唐突となったが、庄司はわずかに眉を上げるだけだった。
「へえ」
「ここのダウンヒルで、庄司さんより速い奴は今でも見たことがないっつってました」
 庄司慎吾だ、と中里は言った。ここであいつより速い奴は、今でも見たことがねえ。去年の秋だ。そう言っていた。そのまま中里はふらりと自分のGT−Rへ戻っていった。庄司慎吾という名を中里が出したのはその一度きりだったが、あたかも重大な思い出を零さぬようにしっかりと話していた中里がひどく印象的で、強く記憶に残っていた。またそのひたむきな調子は、それ以上踏み込むことを好奇心の塊である磯田ですらためらわせたものだった。その後、だが好奇心は消せずに、ショージシンゴってどんな人だったんすか、と先輩の一人に聞いたところ、メモ用紙に『庄司慎吾』と書いて見せられ、こういう奴だったと言われた。それ以降、庄司慎吾については聞かない方が良いのかもしれないと思ったので、情報は仕入れなかった。
 その庄司慎吾が今、磯田の目の前におり、磯田の言葉を聞いてふと、ひどく真剣な顔になった。だがそれも一瞬で、庄司は馬鹿馬鹿しそうに笑った。
「兄ちゃん、あいつの言うこた話半分で聞いとけ。誇大妄想家だからな」
 庄司は笑っている。なるほど、と磯田も笑ったが、顔が引きつっているのが自分で分かった。一瞬浮いた、庄司慎吾の真剣な顔、それに触れてはいけないことを本能が察していた。踏み込めない。中里にもこの庄司慎吾にも、二人にしか分からぬようなことがあるのかもしれなかった。だが笹間ほどになると、それも気にはならないらしく、冗談めかして言葉を続ける。
「何だ、謙虚になったな」
「俺は昔から謙虚だろうが」
「謙虚な奴が先輩に向かってタメ口利きやがるのか?」
「どんな礼儀知らずだ、そりゃ。いっぺん懲らしめた方がいいぜ」
「やりたいもんだな」
「どうぞやってやれ」
 庄司慎吾はそう言い、不意に上げた口角を下ろすと眉根を寄せて遠くを見、そういや、と興味もなさそうな声を出した。
「俺のタイム、ありゃ抜かれたか」
「ああ、井ノ口ってのがな。ただ、毅がその後抜き返した」
 そう言う笹間の顔からも笑みが消えた。庄司慎吾は首筋を掻きながら、うんざりしたように言う。
「まったく、いつまで経っても人の気に障ることしかしねえ奴だな」
「お前、毅とは会ったのか?」
「会いにここに来たんだよ。っつーかあいつはまだチームにいるのか?」
 怪訝そうな庄司に、笑みを取り戻した笹間が言った。
「いるにはいるが、もう表にはほとんど出なくなったな。若い奴らに適当にやってもらってる。俺らは気が向いた時に来て、走らせてもらうくらいだよ」
「道理で、皆さん昔よりも落ち着きがおありになる」
「今から思えば、お前の時代が一番危険だったろうな」
「活きが良かったと言え。リーダーは?」
「毅は辞めた。二年前か。今は根吹って、ほら、あのプジョーの奴だ」
「ふうん。コースレコードは」
「聞くなよ」
「あいつは32か?」
「ああ」
「変えてねえのか」
「こだわってるな」
「そうか」
 話が進むうちに、庄司慎吾の顔は感情を失したように平坦になっていった。笹間はジャージのポケットから出した煙草を咥えながら、窺うように庄司に言った。
「知らせとくか?」
「いや、自分で会いに行くさ」
 磯田は自分のポロシャツのポケットからジッポライターを取り出し、笹間に火をやった。笹間が煙草を吸った時だった。誰もがさほど注意を払わなくなっている分厚いエンジン音が聞こえてきた。
「噂をすればってやつかね」
 庄司慎吾が皮肉げに笑う。そういう奴だったなと笹間が笑う。運命的っすね、と磯田は言った。言ってから、まずいかと思ったが、ロマンチックなこった、と庄司慎吾は笑っただけだった。

 謎多き走り屋は駐車場の隅にとめたスカイラインから降りると、辺りを見回した。笹間はその男を見ながら、車を呼ぶように片腕を振った。大きなその笹間の動きに気付いた男が、磯田たちの方へと歩いてくる。しゃきしゃきしているわけではないが、緩慢でもない、地味な歩き方だった。その道すがらにある赤いS2000に顔を向け、首を傾げ、再びこちらを見た。そこで、男は歩を止めた。二十メートルほどは離れているだろうか、表情は判然としない。ジーンズの前ポケットに両手を突っ込んだまま、今にも歩き出そうな姿勢で立っている。
「何そんなとこ突っ立ってんだ、毅」
 庄司慎吾がそう声を上げた途端、中里は遠めでも分かるほど身を揺らした。そしてこちらから顔を背けながら、しかしこちらに向かってきた。黒いポロシャツに古びれたジーンズ。短いが、庄司慎吾よりは長い黒髪は真ん中に分け目を持ち、後方へ流されている。何房か垂れている前髪が、無骨な印象のある輪郭を柔らかくしていた。いつもと見目に違いはない。ただ、いつもの落ち着きぶりからは考えられないほど狼狽しているようだった。近づいてくる最中でも目は泳いでおり、瞬きは多く、体がもぞもぞと動いていた。こんな中里を見るのは磯田は初めてだった。今日は初めて尽くしのようだった。
「ちんたらやってんじゃねえよ、人が折角久々会いに来たってのに」
 笑いながら庄司慎吾が言って初めて、中里は磯田たちに顔を向けた。正確には、庄司慎吾に顔を向けた。その目は揺らがず庄司をとらえた。向き合っている中里と庄司の間には、他人が割って入れぬ空間が形成されているようだった。空気が張り詰め、磯田は唾を飲んでいた。
「……慎吾か?」
 信じがたいように顔をゆがめながら、中里が言った。庄司はせせら笑った。
「ご名答。よく覚えてたな、誉めてやる」
「生きてたのか」
「幽霊に見えるか?」
 いや、と中里は深刻な表情でかすかに首を横に振った。到底洒落も通じなさそうな顔だった。
「こいつ、こっちに戻って来たんだってよ」
 笹間が補足するように言う。びくりと笹間に顔を向けた中里は、半透明のセロハンがかかったような目をさまよわせながら、そうか、と何度も細かく頷き、動きを止めると、ゆっくりと再び庄司を見た。いまだ信じがたいような顔のまま、そして言った。
「……まあ、ゆっくりしてけ」
 笑みを消した庄司が、ああ、と言うのも聞かずに中里はこちらに背を向け、スカイラインに戻って行った。中里が何のために車から降りてきたのか、磯田には分からなかった。
「何すか、あれ」
 そっと隣の笹間を窺う。煙草を咥えたまま、笹間は肩をすくめた。
「さあな」
「まあ、俺も何も言わねえで抜けたからな」
 庄司が説明するように言った。妙な空気が流れた。普段の中里を磯田はよく知っているわけではない。それでも今の中里は尋常ではなかったように思えた。先ほどまで庄司と親しげに話していた笹間も、不自然さを感じているらしく、指に煙草を移してから、釈然としないように庄司を見た。
「お前ら、あの頃仲悪かったか?」
「どの頃だ」、と聞き返す庄司の声は、別段不満もなさそうだった。
「お前がここからばっくれる前だよ」
「戻ってきたじゃねえか」
「戻ってくるとは誰にも言わなかっただろ」
「そう思わせるようにしてたからな」
「あ?」
 珍しく大きく顔をしかめた笹間を一瞥すると、庄司慎吾は一歩足を踏み出した。
「ああは言われたけどな、今日は帰るぜ、俺は。そのうちまた来る」
 笹間が分かったと頷いた。そのまま去るかと思われた庄司慎吾は、ああ、と思い出したように振り向いて磯田を見た。
「兄ちゃん、どうせなら今度一緒に走ってくれよ。一人ってのも寂しいからな」
「え、あ、はい、いや俺でよければもういくらでも」
 あの謎多き走り屋の中里が飛びきり速いと言い表したのだ。風格もあるし、おそらく庄司慎吾はまだそれ相応の腕を持っているだろう。磯田は愛想笑いを浮かべて了承した。
「こっちは五年ブランクあるんだ、優しく頼む。何だったらガムテしてくれても構わねえ」
 そう言った庄司慎吾も愛想笑いのようなものを浮かべていたが、つくづく残酷さを垣間見せることに長けてるようだった。磯田が愛想笑いをわずかに引きつらせたところで、おい慎吾、と笹間がこれまた珍しく荒れた調子で言った。
「あんな悪しき慣習はお前が抜けて終わってんだよ、このバカ」
「バカってお前、ひでえ言いようだな。俺はあれでテク磨いたんだぜ」
 真顔になった庄司慎吾に笹間が抜かせと吐き捨てると、庄司はすぐに嫌らしい感じの笑みを浮かべ、じゃあな、と片手を上げて磯部たちに背を向けた。S2000へと向かうその後姿はどこか飄々としていた。その細い体躯自体が凶器の鋭さを帯びていたようにはとても見えなかった。今日一日で磯田の走り屋人生における謎が多く増えてしまった。ため息を吐いた笹間は吸っていた煙草を地面に落として靴のつま先で踏みつけた。磯田はむずむずして、たまらずその笹間に尋ねていた。
「あの、ヒロさん、ガムテって何すか?」
 ガムテをする、と庄司慎吾は言っていた。ガムテはおそらくガムテープだろうが、動詞とは聞いたことがない。意味が分からなかった。笹間はジャージのポケットから新たな煙草を取り出し、疲れたような声を出した。
「ガムテープデスマッチ」
「は?」
「ってあいつは名づけてたな」
「……デスマッチ?」
 磯田が首を傾げている間に自分で煙草に火を点けた笹間は、煙を吐き出しながら言った。
「単に、右手をステアリングにガムテープで固めてやるだけのバトルさ。だからガムテープデスマッチ。あいつが本家本元ってわけじゃねえだろうけど」
 闇と車のヘッドライトに染まった紫煙が目の前を漂う中、磯田は自分の右手で空想のステアリングを握ってみた。この手がガムテープで固定されたとする。ステアリングは九十度以上回せそうもない。
「はあ?」
 思わず頓狂な声を出していた。笹間は煙草を吹かしながら、他人事のように言った。
「お前はFFだからまだいいかもな」
「え、や、いくないっすよ。遠慮したいです」
「ま、そうしとけ。若い命をむざむざ捨てることはない」
 実際笹間にとっては他人事だった。そして磯田にとっては自分のことだった。そうします、と磯田は言い、確かに庄司慎吾という男は、『飛びきりイカれた』『速い奴』だったのかもしれない、というか今もなおそうなのかもしれない、と思った。



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