還らぬ時間 2/4
(-4)
花見はチームのメンバーの馬鹿騒ぎで終わり、後は工場の裏に生えている一本の散りゆく姿を休憩時間に眺めるくらいだった。季節はそれでもまだ春だった。チームは本格的に活動を始めていた。中里は一人走り続けた。庄司慎吾という男はもういない。元からいなかったのだと思うようにした。そうしてただ、誰を蹴散らすためでなく、少年時代の無知ゆえの憧憬と情熱に報いるように、一人愉悦を感じながら走り続けていた。
栃木のエンペラーは体育会系の様相を保っていた。須藤京一も岩城清次も変わらずいた。道も何ら変わりはなかった。冬以来に顔を出し、何度か走って一旦運転を中断した時に、須藤と岩城、二人と話す機会があった。話題は散りつつある桜に転じた。花見においてナイトキッズのメンバーが公の場で見せた一発芸について、中里がつい地元にいる調子で話したところ、須藤は楽しそうなチームだなとまったく感情のこもっていない声で言い、岩城はわけが分からねえチームだなとわけが分からなそうに言った。何一つ、変わりはなかった。
碓氷の沙雪に紹介されたシルビアの彼女には、ドライブという名目でしか会っていなかった。そしてそれ以外には何もなかった。最後に会った時、彼女には夜での走りを見て欲しいと請われていた。機会があればとだけ中里は言った。約束はしていなかった。妙義山で新参のメンバーが夜はライトに目をやられると愚痴を零しているのを見て、それを思い出した。ここまできて今更忘れるというのも、不義理に感じられ、中里は妙義山からの帰りに碓氷に寄った。運良く彼女は沙雪とともにそこにいた。中里は夜のドライブについて、長距離はどうかと打診した。夜間の長距離運転は集中力が要る。どれほどもつかということだった。帰りは自分が運転しても良いと中里は彼女に言った。彼女は楽しげに了承した。沙雪はにやにやとして、肘でつついてまできたが、付き合うなどという話は、二人の間で一度も出ていなかった。そもそもまだ、五回ほどしか会っていなかった。
その日の天気予報は晴れ、翌日は昼から雨ということで、当日夜半から降るなどとは想定していなかった。春雨というものではなかった。フロントガラスには大量の雨粒が弾け、雨音がエンジン音を覆っていた。走るほどに雨足は強まった。ライトをつけても水しぶきに遮られ、先が見えない。運転を変わろうかと中里が言おうとした時、ふと赤い明かりが見えた。ブレーキ、と中里は叫んでいた。彼女の驚きの声とともに、車はスリップしかけながらも急停止した。彼女に待っててと言い置き、中里は外に出た。雨は見る間に服を水で染め上げた。雨の煙が立ち込める中、目の前には車が停まっており、若い男がその車の左後方にしゃがみ込んでいた。車の左後輪が陥没したアスファルトに丁度すっぽりとはまっていたのだった。バンパーが地面についている。動かしようはなかった。若い男は運転手で、この辺りは初めてな上にガソリンが切れかけているのだと、震えながら言った。JAFには連絡したかと問うと、男は忘れていたと手を叩いた。そうだそうだと幾度も頷き、ありがとうを幾度も繰り返すと、男は運転席に戻って行った。他にやるべきこともなさそうだった。中里は濡れねずみとなったまま、彼女のシルビアの助手席に戻った。
雨が止むまでです、と彼女は笑わずに言った。車の内部を汚した非礼を中里が謝っても、笑って済ませた彼女がだ。確かにまだ春とはいえ、全身水浸しで寒くないといえば嘘だった上、雨足は強まる一方だった。非常手段だった。すぐ近くにはラブホテルしかなかった。ドライバーが行くと決めた場所だった。助手席の人間には止めようもなかった。ホテルの駐車場から建物に行くまでで彼女も濡れた。非常事態だ、とだけ考えて、部屋を手早く選んで入ってしまい、彼女をまず風呂場に押し込んだ。非常事態だとしか考えなかった。バスローブを着て戻ってきた彼女と交代で、ソープの香りが残っている風呂場に入る。熱い湯を浴び体を温めるだけにして、すぐに上がった。バスローブを着て、びしょびしょに濡れた服を絞り、着られなくもない程度にドライヤーで乾かした。
部屋に戻ると、彼女はベッドに横になっていた。夜間長距離を走り、その挙句にこの雨だ、さぞ疲れたことだろう。中里は隣に座り、布団を直してやった。彼女が動く。その目が開く。彼女は中里を見、起きた。寝てていいと中里は言った。彼女はベッドに座り、長い髪をかきあげながら笑った。彼女は視線を外さなかった。突然慎吾のことが頭にのぼった。慎吾、慎吾、慎吾。鬱陶しそうに前髪をかき上げていた慎吾。何かを狙うように視線を外そうとしなかった慎吾。お前はもういねえだろ、と思った。元からいなかったとは思えなかった。彼女はじっと中里を見ていた。何かしなければならないように感じた。慎吾のことが頭から離れない。慎吾は確実にいた。存在した。そして、いなくなった。今はいない。分かっている。それでも頭から離れない。だからこそ、やらねばならないように感じた。強迫観念じみていた。キスをした。彼女は拒まなかった。震えていたようだったが、それは自分の方だったもしれない。互いに、ゆっくりと、何か一つの仕事を済ませるように裸になり、抱き合った。彼女の全身を、性器をまさぐった。濡れていた。彼女が男根を咥えてきた。萎えていた。いくら舐められても擦られても、何も感じなかった。ごめんと中里は言った。彼女は笑って首を横に振った。雨は止んでいた。シャワーを浴び、ホテルを出た。帰りは中里が自宅までは運転した。車から降りる時、もう会わないでおこうと中里は言った。どうしてと彼女は言った。ごめんとだけ中里は言った。何で、という彼女の声を、降りた車の中に閉じ込めた。
どうしてもこうしてもなかった。結局、あの男はまだ残っているのだった。
彼女のシルビアが妙義山に現れたのは、それから一週間後のことだった。快晴が続いており、夜の空は透き通っていた。荒々しくシルビアの助手席から降りたのは、デニムのミニスカートに袖を切り落とした襟ぐりの広いTシャツを着ている沙雪だった。集っている走り屋の男たちが淫らな視線を向ける暇もないほど、沙雪は素早く一直線に中里に向かってきた。
「話、聞いちゃったんだけどさ」
挨拶を飛ばし、沙雪はずばりとそう言った。話が通じていること自体は予想をしていなくもなかったが、実際愛らしい顔を刺々しくしている眼前の女性があの事態を知っているのだと思うと、中里の頭は真っ白になった。
「それについては何も言わないよ。二人のことじゃない。でもね、これだけは言わせて。会うくらいはいいんじゃないの。今まで通り走りを見るのは。走り屋としてももう会ってらんないの?」
沙雪は真っ直ぐ中里を見上げてくる。頭は変わらず真っ白だった。沙雪の目には迫力がある。瞳は大きく揺らがない。つやのある白目が充血している。白い画布を思い出した。端々に赤い繊毛が生えている白い画布。真っ赤な繊毛がうごめいている。白い頭を血が覆っていく。
「中里君、聞いてんの?」
細い眉根が寄せられ、てらてらと光っている唇から怪訝そうな声が出る。ああ、と中里は頷いた。聞いている。しかし、何を聞いていたのだろうか。走り屋としても会っていられない? この子は何を知っている。何も知らない。この子がいなければ、何も起こらなかったのかもしれない。あいつは俺がバトルを承諾しないことに文句をつけるだけで、あんなことはしてこなかったかもしれない。いや、そうだろうか。何もなくとも俺はいずれこの子に告白したのだろうか。慎吾はああしたか。ああしなければ慎吾はここにいたのか? 俺がこの子を好きになったから、慎吾はあんなことをしたというのか? 慎吾はいなくなったのか? 走り屋として、会っていられない? あいつはいない。だがあいつはいる。あいつがいるのは誰のせいだ。俺のせいか? 俺が悪いのか。思い出すのは俺のせいか。あんなことがなけりゃ良かった、あんなことさえなけりゃあ、あいつがいなくなったところで、何も考えずに済んだんだ。
「俺じゃなくてもいいだろう」
中里は呟いた。沙雪の大きな目が瞬いた。
「え?」
「走り屋なんざ、俺以外にも山ほどいる」
シルビアに目をやりながら言っていた。シルバーのボディは遠めからでも磨き上げられているように見えた。
「……本気で言ってんの?」
「ああ」
頷いて、ポロシャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出した。
「ふうん」
温度のない沙雪の声だった。煙草を一つ吸ってから沙雪に目を戻すと、その顔は笑みを作っていた。温度のない笑みだった。冷えていそうな唇が開き、空気をその狭間から取り込んで、口角が自動的に上がる。
「あんたがそんな男だとは思わなかったよ、中里さん。もう二度と碓氷には来ないでね」
にっこりと沙雪は笑い、手を振り、セクシーな歩き方でシルビアへ去った。その後姿を見ているうちに、ああやっぱり俺はあの子が好きだったんだ、と中里は懐かしく思った。あれほど鮮やかに決別できる女性に、魅力を感じずにはいられなかったのだった。そして、それも昔の話だった。
「もう少し考えてくれないかね」
休憩時間、工場の外にある古びたベンチで花の落ちた桜の木を眺めながら、焼きそばパンを頬張っていたところで、河梨がふらりと現れた。そして前置きもなく、そう言った。
「は?」
「考えない人と、仕事をしたくはないもんでね」
言うやいなや、河梨はふらりと工場の方へと消えて行った。中里は焼きそばパンを飲み込んだ。考えてはいた。慎吾のことだ。
――慎吾、慎吾、慎吾。すべては俺のせいだ。でもお前のせいでもあるんじゃないか。お前がいたから俺はこんなことになっちまってる。お前がいなくなったから、俺はこんなことになっちまってる。可愛い女の子を傷つけた。沙雪さんには嫌われた。俺は彼女たちに、会って謝ることもできない。会いたくない。叩かれたって罵倒されたって無視されたって構わない。俺はそれだけのことをした。けど会ったらお前を思い出す。走り屋としてならどうだって? そういうことじゃない。俺は人間として、最低になってんだ。
そういうことを、沙雪に決別されてから三日、考えない日はなかった。仕事は、考えずにやっていた。失敗はしていない。だが、どうやったのか、いまいち思い出せない。考えてやらなければ、覚えていられない。覚えていなければ、反省はできない。中里はペットボトルの茶を飲み干した。考えているだけでは意味がない。やらなければ残らない。だが、慎吾について、やれることなどない。去年もそう決定したはずだった。中里は自分にうんざりしてしまった。何かあるたびあの男に思考を割いていては、始末に負えない。忘れることだ。あいつは元からいなかった。あいつは元からいなかった。庄司慎吾なんて走り屋は、この世のどこにもいなかった。ひたすら念じ、気を取り直し、仕事に臨んだ。やはりそれ以上、河梨が個人的に何を言ってくることもなかった。
結局沙雪にも彼女にも、それ以後一度も会っていない。
春はそうして去り、盆には実家に顔を出した。両親は健在だった。神奈川に出ていたはずの二歳年下の弟が戻ってきていた。再会して早々、結婚するからと言われた。相手は中学校の同級生で、中里も知っている女性だった。妊娠二ヶ月、結婚式は九月の大安に行うという。既に二人揃って実家で暮らしているのだった。結婚式には出るようにと釘を刺された。その流れのためか、会う人間会う人間にこちらの結婚の予定を尋ねられたが、まったくないと言い切った。車にばかり金をつぎ込んで、という文句はなるべく聞き流した。実家から離れると、ほっとした。小言から解放されたためばかりとは言えず、二日ほど自己嫌悪に陥った。
九月下旬、異常気象と騒がれた暑い夏も頂点は過ぎたようだった。弟の結婚式が滞りなく終わってから一週間後、岩城清次と妙義山でバトルをした。岩城の突然の申し出だった。なぜかと中里が問えば、気が向いたからだと岩城は答えた。それに、アウェイで勝ってる相手にホームで勝っても仕方ねえだろうが、と岩城は至極当然というように続けた。疑問を挟む余地はなかった。いずれにせよ、中里としては願ったり叶ったりだった。二年越しのバトルだった。同時にスタートを切り、先行した。バトル自体が約二年ぶりだった。他者に追われながらの走行についての勘は鈍っていたが、長年走りこんでいる山だった。どこでアクセルを踏み込むか、ギアを落とすか、ブレーキを離すか、すべて細胞が知っているようだった。中里は勝った。大差はつかなかったが、僅差というわけでもなかった。
「ホームアドバンテージってのは、やっぱあるもんだな」
バトル後、岩城は真面目な顔でそう言った。その真面目さが何かおかしく感じられ、つい笑ってしまい、岩城にきつく睨まれた。その一週間後、いろは坂でバトルをした。結果、対岩城の戦績は、一勝二敗となった。
久方ぶりに続けてバトルをしてしまうと、欲が出始めた。紅葉に彩られた他の山へも行くようになった。千葉、神奈川、静岡、茨城。ドライブがてらで、煽られたら乗りはしたが、走り屋であることをひけらかしはしなかった。箱根では、島村栄吉に出くわした。まだ走っていた。喧嘩腰にはならなかった。結局のところ、引き分けているようなものだったし、同じ車に乗っている。話は合った。あの後どうなったんだ、と笑って聞かれた。昔の話だ。どうなるもんでもねえ、とだけ中里は笑って言った。いつかまた、と別れた。そう多くも遠出できぬ間に、冬になった。相変わらず、クリスマスも正月も一人だった。チームのメンバーに馬鹿騒ぎに誘われはしたが、ゆっくり過ごしたいので断った。
元旦には届いた年賀状の整理をした。一枚一枚確かめていく。知人、知人、友人、友人、知人。
六枚目、手を止めていた。干支の絵も新年の挨拶も何もないが、確かに年賀状だった。神経質そうな黒い字が、白い紙の中央に、横書きに記されていた。
左団扇の生活にはまだ遠い。が、車は2台だ。
維持している。さすがオレ。自分で自分をホメてやりたい。
オマエは32ひとつでせいぜい頑張るんだな、毅。
差出人の名前はなかった。勿論住所も電話番号もない。年賀状である必要がない年賀状だった。どこの誰から来たものか知れなかった。ただ、神経質そうなその字には、見覚えがあった。年賀状を持つ手がしびれ出した。握り潰してやろうかと思った。代わりにテーブルに叩きつけた。思ったよりも気が晴れた。その年賀状は、収納棚の一番下の一番奥に放り込み、読まなかったことにした。次に見た年賀状が、東京に行った高校時代の友人からの初めてのものだったので、記憶の塗り替えに表面上は成功した。問題はなかった。
(-3)
柔らかい日差しが当たり前となって久しい四月下旬、とにもかくにも春爛漫でアルコールのことしか考えられなくなったメンバーが、チームの飲み会の音頭を取った。その幹事に意欲と能力があったため、日程も予算も場所もとんとん拍子で決まり、それなりの質の宴会が行われた。都合のつく者だけが出たため、峠にはまだ来ていないような走り屋も参加し、酒のために感傷的になった連中による思い出話に花が咲いていた。かつて群馬を引っ張った走り屋は、プロの世界に足を踏み入れたらしい。群馬の誇りだと叫ぶ奴もいれば、やっかむ奴もいた。懐かしい名を口にする者もいた。
「そういや慎吾っすけどね」
前に座り豚串を食んでいた谷口が、赤いフレームの眼鏡にある目をこちらに据えてきたかと思うと、まったく唐突に言った。
「あ? 誰?」
と今年入ったメンバーが谷口の横から首を突っ込み、谷口に串の先端で額を刺された。いってえ、と額を押さえたメンバーに、慎吾というのが妙義山のダウンヒルコースレコード保持者で、二年前に群馬から遁走した奴だと他のメンバーが説明する間に、谷口は中里に向き直った。
「実家にソーキンあったらしいっすよ、先週」
「ソーキン?」、と中里は言った。
「っつーか、金の入った封筒が郵便受けに入ってたっつーハナシで、五十万っつったかな」
中里より先に、横に座っていた金髪の橋行が「五十万!?」、と大声を上げ、谷口に詰め寄った。
「おい、何で庄司がんな金持ってんだ」
「俺が知るかよ。姉ちゃんの話だと、入ってた手紙にあいつの文字で、生きてるから探すな、だか何だか書いてたらしいけど、それだけだってよ」
谷口はふて腐れたように橋行に言った。信じらんねえ五十万送金かよ、と橋行は吐き捨てるように言い、俺じゃ無理だと家庭の愚痴を他のメンバーに零し出した。中里は煙草を灰皿の端に置き、酒もさほど入っていないのに淀んでいる頭のまま、谷口に聞いた。
「どこにいるとかは、書いてなかったのか、その手紙には」
「俺が聞いた話じゃそうっすね。まああれから生死も不明だったから、姉ちゃんも安心してましたけどね」
「あれから」
「就職したのも知らなかったっつってましたよ。旅出るだか言われただけだからって。まあ仕事してんだかどうかもハッキリしてねえけど」
串の先端で額を刺された新参者が、それでショージって誰よ、と谷口にまた尋ね、今度は頬を刺されていた。中里は灰皿に置いた煙草を指に持った。吸った煙は、久しぶりにまずく感じられた。酔えなかった。
時間がくると、大勢が二次会に繰り出し、節度を守った者は切り上げ、二名が正体不明になっていた。うち一名の後処理を中里は引き受けた。タクシーに押し込み、自分も乗って、その男の自宅の場所を告げる。運転手は道を確認する以外、一言も喋らなかった。AMラジオが流れる車中、潰れた男は起きなかった。
金を払ってタクシーを降りる。男の住居は小奇麗なマンションの三階だった。担いで歩くのは面倒だった。比較的綺麗な歩道の端に腰を下ろさせ、おい、と肩を叩く。動きはない。いびきが聞こえる。ため息を吐いてから中里は、その頬を一発張った。手を振り抜いた方向にあぐらをかいたまま倒れた男が、数拍してからもぞりと起き、頭を振って顔を上げると、明瞭に開いた目で中里を見上げてきた。
「……毅か」
「起きたか」
「ああ、すっきりな」
笹間は頭を掻きながら立ち上がった。顔はさほど赤くない。ただ、こめかみの傷跡が赤くなっている。辺りを見回して一つ頷いてから、中里に目を戻した。
「悪いな、送ってもらったか」
「構わねえよ。歩けるな」
「ああ、十分寝たからな。寝不足だったんだ。三交代は老体には辛い」
「何が老体だ」
笑いながら睨んでやると、笹間は苦笑し肩をすくめ、もう一度頭を振った。
「慎吾がどうしたって」
頭を振りながら、笹間は言ってきた。発音は明確ではなかったが、聞き取れないわけではなかった。中里は手持ち無沙汰でジーンズの前ポケットに手を入れつつ、言った。
「実家に金が入れられてたってよ」
「だからユキの野郎、五十万がどうのっつってたのか」
「まあ、生きてはいるみてえだな」
「もう二年、三年目か?」
「ああ」
「根性あるよな、あいつも」
頭を振り終えた笹間は、感心するように笑っていた。部屋までちゃんと歩けよ、とだけ言って、中里は家へ足を向けた。
工場には青い作業服のまま出勤し帰宅する者もいれば、私服で来て私服で帰っていく者もいた。河梨は後者だ。ベレー帽に開襟シャツにスラックス。肩にボストンバッグをかけている。事務所に着替えるスペースがある。社長の嫁が仮眠室を作らせていた。自分が眠るためだ。事務をしている嫁が眠っていない時には自由に使えた。終業時間が過ぎたら本来事務所は閉じられるが、社長の息子がいる場合はその限りではない。中里が入る前から、社長の息子は事務所に住んでいる。会社の鍵類は常に息子が持っている。どうやって生活しているかは知らない。作業は朝か昼のうちに済ませてしまえと工場長は言う。電気代を気にするからだ。社長は気にしない。道楽で企業した人間だからだ。仕事を道楽とする者は、夜でも作業を続ける。夜に依頼がくれば社長の息子を引きずり出して受ける。その日、中里は踏み台に座り、工場内を眺めていた。誰もいない。意味はない。やることも、考えることもない。ただ帰ることが億劫だった。光に照らされた車のない工場は主がいない家のような冷たさがある。その中にいると、頭が空っぽになる。いつも勤労しているという自負がある。それが、時折日常を放棄させようとする。二年前からだった。
「あんたはこの時期、トラウマでもあるのかね」
声は突然やってきた。突然すぎて、中里はびくりとした。左を見てから右を見ると、河梨が立っていた。帰宅したとばかり思っていたが、また戻ってきたのかもしれない。何か気がかりがある時、工場最年長の男は妥協をしない。中里は突然の衝撃を消し去れぬまま、トラウマ、と頭に残った言葉をただ言った。
「よくぼーっとなさるね。指摘するとすぐ直る。しないといつまでもそのままだ」
独り言のように河梨は言う。元々寡黙な中年者で、必要最低限のことしか口にしない。そのため個人的に向けられる言葉は特別な重みを持つ。中里はどぎまぎとした。考えてみれば、思考が覚束なくなるのは大抵春から夏へと移り変わりかける、この時期だ。トラウマがあるのではない。ただ、考えないようにしようとしていたことを、考えてしまうことが、この時期にもたらされるだけだった。
「友人が」
考えないようにしていたことを考えながら、中里は言っていた。河梨は見なかったが、傍にいることは気配で分かった。言葉は自然と口から零れた。
「……旅に出るだの何だのっつって、どっか行っちまいましてね。おととしだったか、それから誰にも連絡はなかったみたいで、ただ、今年、俺のとこには年賀状がきたんです。年賀状たって、住所も何も書いていない怪しいもんだったんですが、そいつの文字でした。書かれてることも、つまり、そいつらしいというか……どこで何してるとか、肝心なことは書いてねえっていう……俺は、俺にそういうのがくるってのは何か違うような気がしたんで、忘れてたんですが、ただそいつはまだ生きてはいるし、そいつを覚えている奴はいるし、俺も結局、そいつのことはどうも、考えちまうというか……そういうことってのは、つまり、俺は、どうすりゃいいのか……」
中里はそこで声を止めた。自分が何を言いたいのか分からなくなった。
「すみません、わけの分からない話です」
河梨は見ずに謝って、立ち上がった。電気は落とさねばならない。工場も閉めねばならない。社長の息子は今頃事務所の仮眠室でゲームでもやっているだろう。
「時間が経つとなあ」
二歩進んだところで、後ろから河梨の声がした。振り向くと、壁際に置いてある長机の上に重ねられていた書類を手にしていた。それを手繰りながら、河梨は言った。
「結局やったことしか残りゃしない。やったことは、自分で忘れてても、どこかで誰かが、何かが覚えてやがる。どんな些細なことでも残ってる。それの積み重ねが、最後には自分に回ってきちまうもんなんだね。時間が経つとね」
やはり独り言のようだった。河梨は書類を丸めてボストンバッグに入れると、そのまま中里に背を向けた。工場からその後姿が消えるのを、中里は立ったままぼんやりと見ていた。河梨に声をかけそびれたことに気付いたのは、外から吹き込んできた生ぬるい風が、肌を撫でていってからだった。
職場は自宅から歩いて五分だ。作業服のまま帰路につく。車は工場に持ち込む時以外通勤には使わない。
大気は乾いている。湿り気を帯びてくるのはまだ先だろう。梅雨が近づくと思い出す。魅惑的な女性の艶かしい姿態を見る気もしなくなった、直接の刺激のみでの自慰を果たしていた、空虚な日々を思い出す。今は映像を見れば反応するようになったが、現実にどうにかしたいという欲望はわいてこない。自慰に空想は使わない。視覚と聴覚と触覚のみを利用して行う。以前よりは充実している。満足はしない。だが不満もない。現状で十分だった。
――根性あるよな、あいつも。
それでも時々、揺らぐことがある。何をしても、まったく満たされていないように感じられる。たまらない孤独がつきまとう。当たり前にあったものが突如消えた喪失感は、経過した時間が埋めていった。そこに中身はなかった。単なる空間だった。そこがたまに、よそから情報がもたらされると、主張をし出す。ここには何も入れられていないぞと、入れるものがあるだろうとせっついてくる。その度思い出してしまう。忘れようとしていた、思い出さないようにしていた男のことを思い出す。
――やったことは、自分で忘れてても、どこかで誰かが、何かが覚えてやがる。
歩きながら、中里は考えていた。その積み重ねが、最後には自分に回ってくると河梨は言った。そうだろうか。あいつは俺のしたことを、覚えてるのか。想像できなかった。思い出さないようにしていた日々が長すぎて、現実感をもって回想もできなくなっていた。それでも存在を思い出す。年賀状には書かれていたはずだ。せいぜい頑張るんだなと。覚えている。慎吾はこちらを覚えている。残っている。では、いずれ回されることもあるだろうか。何かは回ってくるのだろうか。そうかもしれない。それを待つくらいは、してもいいかもしれない。抱き合った記憶は磨耗し切って久しい。走り合った記憶は根強くある。結局、全部を忘れることなどできないのだ。
考えているうちに、自宅に着いた。中里は部屋に入り、電気を点け、真っ先に収納棚の一番下の引き出しの中を探った。書類の奥に年賀状がねじ込まれていた。引っ張り出す。しゃがんだまま、電灯の下で見る。書かれている文字を、繰り返し目で追った。やられたことは、残しておきたかった。
――それで、ショージって誰よ。
不意に、新しい、若いメンバーのへらへらとした声がよみがえった。庄司。庄司慎吾。そういう奴がいた。赤いEG−6に乗ったその走り屋が妙義ナイトキッズにはいた。ホンダが好きで、狡猾で、図太くて、口巧者で、臆病で、繊細で、自分勝手で、他人には左右されない男だった。いまだ誰も破れぬダウンヒルのコースレコードを作った。自分勝手にいなくなった。それは速い奴だった。おい、そいつはな、と中里は思った。お前ごときじゃ太刀打ちできねえような、飛びきり速くてイカれた、すげえ奴だったんだ。そういう奴が、ナイトキッズにはいたんだよ。
「すげえ奴だったんだ」
年賀所を持ったまま、中里は呟いた。
「俺は、そいつが好きだった」
声にしてみると、どうにもうそ臭かった。中里は年賀状を元の場所に戻し、来年また見るだろうと思いながら、引き出しを閉じた。
木々は人間には目もくれず葉を青くし、盛り、枯れていった。チームは盛ったままで、冬に入り活動が休止されるまで一時も枯れはしなかった。峠に笑い声は絶えなかった。走行中の追突、横転、激突もままあった。チーム内で最も速いためにリーダーに指名された中里も、もめごとや事故の処理はお手の物となっていた。変わらぬ日常が過ぎていった。他の峠にも足を運んだ。島村栄吉とは二度会った。最早同じ車に乗っている走り屋というだけだった。栃木には月に一度は行った。負けたことが引っかかっているらしく、岩城清次が妙義山に来ることもあった。須藤京一に走行会に誘われることもあった。須藤は、いつか公道から走り屋が追い出される時代もくるだろう、車を持ち腐れたくなかったら、他の手段も考えておいた方がいい、と言った。かたや岩城は、金かけた方が待遇良いのはいつの時代も同じだろ、と言った。それを相変わらずだと思えるだけの時間は経っていた。
クリスマス、チーム内の孤独な男が集まった凄惨なパーティが行われ、中里も参加した。参加させられたというのが実情だが、人間の人間である限界を見られたので良しとした。不況と叫ばれている昨今だったが、仕事がなくなることもなかった。比較的予定の詰まった年末だった。
年始には、また差出人不明の年賀状がきた。新年の挨拶も干支の絵もないことも、白い紙の中央に神経質そうな字で書かれた横書きの文章が走っていることも、変わりはなかった。
近い将来、お前は俺のギャンブル才に恐れをなす。多分。
勤労に励め、小市民よ。いつか大富豪になる俺様より。
ホラ吹きが、とだけ言い、去年の年賀状と合わせて、収納棚の一番下の一番奥に放り込んだ。
(-2)
春、二週連続でチームの飲み会が開かれた。一度目は恒例のナイトキッズ活動再開記念という名目の馬鹿騒ぎ、二度目は群馬に戻ってきたついでにチームに戻ってきた旧メンバーの二人のために企画された新メンバー歓迎という名目の馬鹿騒ぎだった。その直後、金欠病にかかる者が続出し、わずかな間だけ峠は閑散とした。人が戻ってきた頃、中里はその場にいるチームのメンバーを集めて、宣言した。
「いきなりで悪いが、俺は表からは引っ込ませてもらう」
それまで人の声が絶え間なく流れていた場は、五秒後には水を打ったように静まり返った。囁き合いもなかった。沈黙を破ったのは、はいと挙手をした今年入った若いメンバーだった。
「すんません、意味がわかんねっす」
そいつは左右のメンバーから同時に頭を叩かれた。そこから派生したざわめきが残る中、中里は咳払いをしてから言った。
「つまりだな、俺もいちいち何だのかんだのとお伺いを立てられるのにも疲れてきた。リーダーは辞める。チームについての決定権も放棄する。後はみんなの自由にやってくれ」
また場は静まった。今度は古株のメンバーが沈黙を破った。
「そりゃさすがに投げやりじゃねえか、中里さん」
その真剣な声に触発されたように、他のメンバーも一斉に口を開いた。
「そうですよ、いきなりそんなケツまくるようなこと言われちゃ俺らだって困りますよ」
「ナイトキッズってさ、速い奴がリーダーってのがあれじゃん、トラッドじゃん」
「そういう立場の責任はまっとうしてくれねえとなあ」
「っつーか中里さんてリーダーだったの?」
「そうだったんだろ」
「けどよー、今更じゃね?」
「今まで通りで良いと思いますけど」
「それじゃ放棄しすぎだって、色々」
疑問と不満の声がほとんどだった。皆は思いの丈を大声で、あるいは小声で言っていた。中里は黙っていた。やがて一人が口を閉じ、また一人が口を閉じ、そうして皆が黙った。再び場に機械の立てる音と自然の揺らぐ音以外はしなくなった。そして、中里は口を開いた。
「改まって言うのも何だけどな。俺は、このチームが好きだ。人を困らせることしかしねえような奴が集まってて、烏合の衆みてえに規律だの統一だのって言葉とは無縁なくせに、でもどいつもこいつも車が好きで走りが好きで、そういう……」
言葉を探すうちにこめかみが疼いてきて、中里は一度頭を振った。
「まあ、何だ。ナイトキッズはそういうチームであって、俺のチームじゃねえ。俺一人がいつまでも表から消えねえような弱ったらしいチームじゃねえ。ナイトキッズってのが俺は、みんなのチームであると同時に、でも誰のものでもねえようなチームだと思ってる。だから俺は、みんなにチームを任せてえんだ。分かりづれえだろうから、分かってくれとは言わねえ。ただ、そういうことだって、認めてくれねえか。頼む」
中里は頭を下げた。取り囲むメンバーの顔は見えない。胸が苦しく、真っ直ぐ立っているのが辛いだけだった。十秒ほど、沈黙が続いた。
「分からねーことじゃ、認めようもねーでしょ」
笑いの混じった軽い声がした。中里は顔を上げた。メンバーは、にやにやと笑んでいた。苦笑、微笑、様々な笑いがあった。ただ、嘲笑はなかった。
「まあでも、旧リーダーさんの最後のお頼みじゃあ、認めないわけにもいかねーべ」
「そこまで俺らも極悪人じゃないっすもんねえ」
「何、急に物分り良くなんのかよ、お前ら」
「だって今まで色々世話になったしな、アリバイ作りとか」
「それかよ、ひでー奴」
皆は哄笑した。中里は目を瞬き、問いを発していた。
「いいのか?」
「リーダーさんの言うことに逆らおうなんて恩知らずな奴、ここにゃいねえよ」
苦笑しながら笹間が言った。いるような気もするけどな、と遠い目をしながら言う奴がいた。親不孝なら沢山いるな、と言って哄笑する奴がいた。じゃあチームは誰がまとめるんだ、と心配そうに言う奴がいた。まとめられたくねえ、と顔にしわを作る奴がいた。中里引退記念にパーッとやろうぜ、と早速飲み会の算段をつけようとする奴がいた。引退はしねえよ、と中里は最後の奴だけ軽く睨んでやった。
結局新たなリーダーの座には後輩の一人がついた。中里毅引退改め隠居記念の飲み会で、せめて次のリーダーを選んでくれとの要請が出たため、中里はその男を指名した。まだ若く伸び盛りなプジョー206に乗った走り屋だった。率先して馬鹿騒ぎをするような男だが、人を取り込む魅力があった。統率力もあった。何よりその男はチームを大切に思っていた。後を任せるには良い人材だった。
リーダーという立場ではなくなったとはいえ、メンバーの一員ではある。頼まれればもめごとの仲裁に入るし、車の調子も見るし、バトルの進行の手伝いもする。ただ、他の走り屋の前に立つことは控えるようにした。依然として慎吾以来、ナイトキッズ内で中里以上のタイムを出す者も、中里とバトルをして勝つ者も現れはしない。そのことに倦んだわけではない。皆に宣言した通り、チームは好きだ。そして、速くあってもらいたい。力に裏付けられた立場でもって人を仕切ることには自尊心をくすぐられる。だが、長くトップに立っていると、嫌でも権力は増していった。どこのチームといつバトルをするのか、どのメンバーを優先して走らせるのか、他の走り屋との折衝をどうするか、警察の動きをどう見るか、あらゆる問題が中里の判断を待っていた。決定することは構わない。だが最終的に自分の意でチームが動くことに我慢ならなくなった。他人にGT−Rの速さを知らしめたかった。ナイトキッズに中里毅ありと刻みつけたかった。だが、チームを我が物としたいと思ったことはない。潮時というものを考えた。代謝が行われなければ毒が溜まって死に至る。大気が温かみを持つとともに、枯れ死んだ草木が蘇る。去年と同じというわけではない。それでも懐かしさをもたらす景色がある。自分が覚えているものがある。自分に残っているものがある。それで十分だと思った。ナイトキッズという名さえ残っていればいい、そう思った。
それでもその年一度、他のメンバーを差し置いたことがある。どこのチームにも所属していない走り屋がいた。轟音を発するスイフトに乗っていた。半年前から妙義山には通っていた。峠でも残暑の厳しかったその日、ダウンヒルのコースレコードがその走り屋によって一秒更新された。清潔感のある男だった。無邪気に笑っているその顔を見ているうちに、中里は久々に、理不尽だと自覚できる憤りを感じた。中里がダウンヒルのタイムアタックを行ったのは翌日だった。コースレコードを四秒更新した。他のメンバーは、何で今まで挑戦しなかったのかと不思議がっていた。スイフトの男はその翌日に来て、中里の話を知ると、再度タイムアタックを行った。記録は伸びなかった。すると中里にバトルをしないかと持ちかけてきた。他の奴とやってからにしてくれと中里は断った。でしゃばりたくはなかった。スイフトの男は断るならタイムの計測がいかさまだという噂を流すと言ってきた。そういった事実はないが、ナイトキッズというチームの名声を考えるに、根拠があろうがなかろうが信じられる類の噂だった。男はそれを知るほどには妙義山に馴染んでいた。そこで我を張るわけにはいかなかった。中里は男の申し出を受けた。公式のバトルは栃木エンペラーの岩城清次といろは坂で行って以来だった。やはりおよそ二年ぶりだった。だが非公式な小競り合いは数多の走り屋とやっていた。妙義山を走る感覚を忘れたこともなかった。コンパクトカーには軽さでは負ける。車の特性に自分の技術をねじ込んで、引き剥がすだけだ。相手が岩城清次より速いとは思えなかった。そして、いなくなった男よりも速いとも思わなかった。
――せいぜい頑張るんだな。
その文章が、陰湿なくせに浮ついている声で聞こえた気がしたのは、完全に停止した車の中でだった。
「言われなくても」
中里は、勝利に興奮よりも安堵を感じながら、一人呟いた。
バトル中、タイムを計らせていた。コースレコードを更に一秒更新した。スイフトの男は悔しがっていた。だが、バトル後はわざわざこちらまで来て、ありがとうございましたと握手を求めてきた。礼儀を知らないわけではなかった。うちのチームに入ったらまたバトルをしてもいいと中里は言っていた。男は人を馬鹿にするように大きく顔を歪めた。それでも悪気はなさそうだった。結局そのバトルの後、メンバーが一人増え、妙義山のコースレコードは上り下りともに中里の名だけが残った。それ以降、公式に挑んでくる者は現れず、冬になり、一人のクリスマスが過ぎた。
その年の元旦もまた、差出人不明の年賀状がきた。
夏、食中毒が発生した。死ぬかと思った。まだ生きている。
女はデキたか? それとも男か? そろそろ甲斐性も生まれたか。
俺を待つなら殊勝に待て。32には乗っとけ。
言われなくても、と呟いて、中里は去年と一昨年の年賀状と合わせて、収納棚の一番下の一番奥に放り込んだ。
(-1)
チームでも古株の背沼が大声で野球をやるぞと叫んだのは、四月中旬、毎年恒例のチームの飲み会においてだった。背沼は、自分は野球少年だった、途中で挫折したが、春の選抜高校野球を見て野球の素晴らしさを改めて感じた、だからお前らも野球をしろ、というようなことを酔い任せに大声で立て板に水を流すように語り、一部の元野球少年がその意見に共鳴、現リーダーもその中に入っており、有無を言わせぬ勢いでナイトキッズによる草野球チームの結成を宣言した。翌日、背沼はそのことを忘れていた。
しかし、皆で決めたことはどんなにくだらなかろうがやるというのがナイトキッズの遊びの流儀だった。チームのメンバーは二十人を越えているが、月に一度しか来ないような奴もいる。変動があった。野球のレギュラーは九人。普段から峠に来る人間はノリに乗った背沼に強制参加を命じられた。運動神経が抜群の奴もいれば、球技はまったく駄目だという奴もいるし、そもそもルールを知らない奴もいた。言いだしっぺの背沼が仕切り、練習日を細かく定め、混沌とした草野球チームが始動した。小中高と球技には縁のなかった中里も駆り出された。ダッシュの往復で吐きそうになった。慣れない運動のために様々な箇所で筋肉痛となった。六月中旬、ようやくそれぞれ軽いノックは捕球できるようになった。仕事の勤務形態が大きく違う人間が集まっているナイトキッズにおいては最低九人でも休みを合わせられることは少なく、チームの成熟度は極度に遅かった。
「草野球をやり始めてな」
それでも七月下旬、いろは坂に行った折、動きのキレが良くなったな、走りは変わらねえが、と須藤京一が指摘してきたので、中里はそう言った。
「草野球?」
「チームでよ。この前監督やってる奴の知り合いの、六十過ぎたおっさんらのチームと試合したら、三対十四で五回コールド負けしたが」
傍にいた岩城清次が噴き出した。さすがの須藤も顔面筋に無理が見えた。中里はチームの前途が不安になった。
生活には暇がなくなってきた。仕事、家事、車、走り、草野球。須藤と岩城、そこにエンペラーとナイトキッズのメンバーも含めてレース観戦に繰り出したこともあった。冷静に考えてみればなぜ一緒にいるのか不可思議な面子となったが、愉快だった。することがなくなりかけた頃、友人知人からの呼び出しが入る。夜間に車の整備を頼み込んでくるような奴もいた。その年は同期の結婚式も続いた。一年が過ぎるのは早かった。対岩城の戦績は二勝二敗、八引き分けとなっていた。
その年、差出人不明の年賀状はこなかった。
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