アウトサイダー 1/4
陽光が暖かく世界を彩る春である。ある者は肌を突き刺す寒さからの解放を喜び、ある者は新しき年度の到来を喜び、ある者は花見と酒宴にうつつを抜かす。
その春、庄司慎吾の機嫌は常に悪かった。
妙義ナイトキッズという走り屋チームに所属する庄司は、そんなところに入っているのだから勿論走り屋である。改造に改造を重ねた赤いホンダシビックEG−6を駆っており、妙義山のダウンヒルで目下敵は一人だけという速さを保っている。気に食わない奴は大体突っつき回して病院送りにし、どうでも良い奴には速さを知らしめてショックを与えることが日課のようなものだった。
つまり、庄司慎吾という走り屋は性格がよろしくない。
庄司慎吾という男がどうかといえば、こちらも良いとは言いがたい。トラブルに巻き込まれないように身を処すだけで、優しさという概念は持ち合わせておらず、自分の遊興を邪魔する人間は遠回しに蹴り落とし、証拠は残さない。道徳観念は棚に上げ、倫理は知識として持つのみだ。女は突っ込めれば良いと考える。顔は決して美形ではない。嫌らしいとよく言われる。目が怖いともよく言われる。髪は茶色に染めて前を長くしているので、チンピラと称されることもある。それでも女にモテないこともない。魔法が使えるとか金があるとか秘技があるとかではない。単に女慣れをしていて、好色な目は持たないから、皆警戒を解くのだ。庄司自身はあまり女が好きではない。欲情はするが、扱いが面倒くさい。邪険にすると呪殺されそうなので普通には接する。その辺りを、見かけによらず親切だと解釈する女が出てくる。走り屋好きだと倍倍ゲームだ。誘われたら一発ヤる。こちらから誘いはしない。コンドームは必ずつける。請われれば縛りもするし焦らしもする。終えても連絡先は教えない。しつこく迫られたら他の男を紹介する。人の肌に飢えている女はそれで満足する。女に飢えている男もそれで満足する。一石二鳥である。そんな風にして、庄司は人の心理を動かしている。良心の呵責などはない。己の車がヒドイ目に遭えば哀しくなる。申し訳なくなる。罪悪感を得る。他人に対してはそうならない。
そういう男が庄司慎吾で、そんな奴の機嫌が常に悪いとなると、同じチームのメンバーも関わりにくくなってくる。中には庄司の謀略で職を失いかけた者もいれば、庄司の計らいで女にありつけた奴もいるし、庄司と友人関係にある者もいる。皆が庄司に対して抱く感情は千差万別だが、出される結論は同じである。触らぬ庄司に祟りなし。そういうことだ。
それでも、ナイトキッズにおいて唯一、庄司慎吾がいかなる機嫌であろうとも真正面から関わっていける男がいた。他のメンバーはその男が庄司の精神を改善してくれることを願っている。またその男ができないなら自分たちの手には負えないので、もうどうでもいいと思っている。ついでに言うなら大体において庄司の機嫌が悪くなるのはその男のせいなので、勝手にしてくれとも思っている。
そんなことを同じチームのメンバーに思われているとは知らないのが、中里毅である。
中里は日産スカイラインBNR32を駆り、妙義山に集う走り屋の中では突出した速さを持つ。妙義山においてヒルクライムで中里のGT−Rに敵う者はいないし、ダウンヒルでは庄司慎吾と競い合うほどだ。誰も文句のつけようのない速い走り屋だった。短く太い髪と太い眉、太い目と太い唇を持つ。削げた頬が顔全体に暗い影を落としている。殺伐とした容貌のようでもあるが、目が大きいために人間臭さがどうやっても消せずにいる。ナイトキッズではリーダー的存在で、人の上に立つことのできる堂々とした態度を持っている。清々しいほど真正直である。馬鹿とつい言ってしまう者が出てくるほど懸命である。その分奸計などとは縁がない。庄司とは対照的だった。抜きん出た速さと己の力を使って威厳を誇示することは同じである。ただ使い方が違う。中里は走り屋同士の上下関係を定めるに速さ以外に使える武器はないと考えている。庄司は走り屋同士だろうが何だろうが喧嘩を吹っかけてくる相手に使う手段は選ばない。走りがその相手の自尊心を破壊するに最良の手段だと考えたらそれを取るまでだ。そこで庄司と中里は一線を画する。
庄司と中里の仲は良くはないとされている。だが二人は憎み合っているわけではない。ダウンヒルで伯仲している実力を互いに認めている。たまさか主張の食い違いから口論に発展することもあるが、仲違いはしない。以前は庄司が中里を嫌っていることを公言してはばからなかった。それが去年の夏から秋にかけて、走り屋同士のバトルで庄司が一度負け、中里が三連敗するうちに、チーム意識というものが芽生えてきたようで、庄司が中里をバカだのアホだのと言うことはあれど、敵視することはなくなった。今ではそれほど仲は良くないが、悪くもないと同じチームのメンバーは見ている。おそらく同じ高みにいる者にしか分からぬこともあるはずだった。
それもあってナイトキッズのメンバーは、機嫌の悪い庄司の扱いを中里に任せている。
◆◇◆◇◆◇
庄司と友人関係にあるメンバーも同じだった。彼は中学高校と庄司と一緒で卒業してからも交流があるので、負のオーラを撒き散らしている庄司に近寄るとロクなことにならないと学習していた。そんな彼はナイトキッズに入ってから、おやと思った。中里は、どんな時でも自分が必要だと思ったら庄司に近づいていった。結果ロクなことにならない場合も多い。バカだのアホだのトンマだの童貞だのと言い立てられて、昔は手や足を出していたものだ。それでも中里は自分の用件を済ませ、悔しがりながらも用件がある場合はまた庄司に近づいていった。そういう男はかつて彼らの周りにはいなかった。庄司に強く噛み付かれた人間は、例え用事があるとしても庄司に敢えて幾度も関わろうはしない。怯えるなり、蛇蝎のごとく嫌うかだった。七年近く庄司と行動をともにしている彼ですら機嫌の悪い庄司にわざわざ声はかけない。中里はそんな庄司といつでも真正面から向き合っている。中里という男は、庄司という男がどんな状態であれその様子を探ることのできる、稀有な存在なのかもしれなかった。だから中里ならば、ここ二週間近く不機嫌である庄司の精神もどうにかできるだろう。彼はそう思っている。
彼がそう思う理由として、もう一つ、この暖かな空気と爽やかな微風が立ち込める深夜の妙義山に現れたる新たな人間の存在がある。
春になって夜の峠に人が増えることは珍しくない。新生活に忙殺される者もいる分、逃避してくる者もいる。逆に暇が増える者もいる。既存の人間でも差がある。新規の場合、冬の間に免許を取って走っていた人間が、縁故を伝って峠にもやって来る。春という季節に浮かれてやって来る。その人間ごとに峠に来る理由がある。峠から去る理由がある。既存の走り屋にせよ新規の走り屋にせよ、増えても減っても珍しくはない。チームのメンバー同士、人の出入りについて感想を述べることはあれど、騒ぎ立てることはない。
ただ、その人間、その男は珍しかった。まず群馬ナンバーではない。湘南だ。それが週に二度、水曜日と木曜日のみ妙義山に現れること一ヶ月目。規則的に男は来る。来て何をするかといえば、山を走り、そして中里と会話をする。近頃では他のメンバーとも話したりもする。ナイトキッズの人間は面白い奴は歓迎する。面白くない奴は無視をする。どうでもいいと思うから、結果的に無視することになる。面白い面白くないは個々人の価値観によるが、ナイトキッズには熱しやすく冷めやすい人間が多いため、評価は辛い。それでも湘南ナンバーを携え、水、木にやって来る男を面白いと判断した奴がなかなかいる。空気は和やかだ。男と他のメンバーとには笑いもある。
男は島村栄吉といった。その名を知っているメンバーはちらほらいた。箱根サンダーソルジャーズというチームのリーダーだ。そのチームがナイトキッズにおいて有名なわけではない。島村栄吉という男が過去中里を妙義山で破ったこと、そして中里が箱根まで行ってその島村栄吉に雪辱を晴らしたことが有名だった。中里は二年ほど前までは日産シルビアS13に乗っており、島村栄吉が白い日産スカイラインBNR32に乗っていた。島村が本人いわく昼間群馬を観光して女をナンパしたついでに夜この妙義山にやって来た時、中里は島村に挑まれ敗北し、それからR32に乗り換えた。そのような縁がある。また去年の秋には中里はわざわざ箱根まで行って島村栄吉を破っている。そして碓氷の女性走り屋二人組の片割れである沙雪にフラれている。どちらかというと話は後者の方が大きくなっていた。それでも春になりチームも始動し出した頃、現れた湘南ナンバーの白いR32に乗る島村栄吉という名を覚えている者はちらほらいた。大概『中里がフラれた時にバトッた相手』として認知されていた。
中里は突如やって来た島村をあからさまに不審がっていた。島村はそんな中里の不躾な視線にも動じず笑っていた。走りに来たんだよと島村は言っていた。島村は実際走って、中里と何やら会話をして、帰っていった。一ヶ月前の水曜日のことだ。次の日も来た。また中里と何やら会話をして、走って、帰っていった。金曜は来なかった。皆もう来ないだろうと思っていた。だが島村は翌週水曜日にまた現れた。同じことの繰り返しだった。そのうち中里も警戒を解いたらしく、島村と談笑している姿も見られるようになった。
彼も島村栄吉と幾度か話したことがある。顔の良い男だった。いわゆる端整な顔立ちというやつだ。だが猛獣のような野性味がその顔貌に染みついていた。背が高く動きはしなやかで、肌は程よく日に焼けていた。それで金髪だから異国人的な雰囲気も漂っていた。話はなるほど他のメンバーが笑うのも分かる、滑らかで丁寧でどこか皮肉めいていて、残虐な下ネタにも適応するものだった。下卑ているくせに清潔感も備えていた。白い32GT−Rに乗っている。金持ちの匂いがした。モテそうだった。実際モテると島村はあっけらかんとに言う。モテることを鼻にかける奴はメンバーに憎まれるが謙虚すぎる奴も憎まれる。島村栄吉はそういう奴ではなかった。
何のためにここまで来るのかと彼は島村に尋ねたことがある。二週間目の木曜日だった。走りにだと島村は答えた。それだけかと彼は尋ねた。島村は首を振って、白い歯を見せた。中里毅と走りたいんだと言った。
その日から、庄司は仏頂面になっていた。速さは変わりない。むしろキレが増しているようだった。だが常に仏頂面だった。不機嫌そうだった。実際不機嫌だった。セッティングについての意見交換をしようと近づいた奴が睨まれただけですごすご帰ってきた。何でそんなに機嫌悪いんだと正面切って言った奴が毒舌に襲われ涙目になって帰ってきた。島村栄吉の来訪が庄司の機嫌に影響していることは誰の目にも明らかだったが、庄司に近づいてそこを指摘する人間も最早いなかった。二週間そんな状況が続いている。埒が明かない。そして中里への期待が集まっている。中里自身も妙だと感じているらしい。中里が近づくと庄司は避ける。話はない。さすがの中里も用事がないと首根っこを掴んで向き合う気まではしないようだが、今度は中里があからさまに不機嫌になってきた。細かい質問をすると投げやりの返答がある。走りについて間違ったことを言った奴はそんなことも分からねえのかと舌打ちを飛ばされる。島村栄吉が来始めてから一ヶ月を越え、庄司の機嫌が悪くなり始めてから二週間になり、中里が苛立つようになってから二日が経っていた。静かに緊迫した気配がチーム内に漂っている。
◆◇◆◇◆◇
庄司慎吾は夜の峠でのみ機嫌が悪かった。それを隠そうともしなかった。わずかでも他人を気遣う気がなくなるほどくさくさしていた。職場や私生活ではいつも通りだ。だが走り屋仲間に会うと途端に気分が下降する。峠を走ることは好きだ。そのために働いているといっても過言ではない。車をより速く仕立て上げるために、走る燃料を得るために働いている。自分の生活は生活で大切だが、走り屋である自分を捨てることはできない。その走りに関係することが現在庄司の機嫌を損ねている。庄司は他人を陥れる時以外は自分の負なる感情に素直である。周囲をはばかって抑圧することはない。この二週間峠では走りを除いた時間は常に不機嫌でいる。おかげで余計な干渉を防げている。しかし機嫌は直らない。庄司が気分を害されている要因は峠に現れる人間のためだった。その人間がいる時は勿論不愉快になるし、いない時もいないで思い出されて苛々する。どうしようもなかった。二週間だ。二週間前までは、まだ良かった。
島村栄吉という男がいる。神奈川に住んでいるくせに、一ヶ月前から毎週水曜日と木曜日にわざわざこの妙義山まで来ているいけ好かない男だ。長身でスタイルは良く色黒で精悍で野性的。モテるだろうにモテることは鼻にかけない。金持ちの匂いがするくせに貧乏たらしい話にも乗る。道徳を掲げる愚行は犯さないからナイトキッズにもすぐ溶け込んだ。庄司は馴染まない。島村の笑みの奥に生来的な犯罪者の色を見る。他人を操ることにためらいは覚えず悦楽を覚える残忍な表情だ。それを奥に潜めている。そこが馴染まない。庄司は己の本性を敢えては隠していない。隠していることに優越感を得たりはしない。島村は違う。他人の求める人間を演じることに喜びを感じている人種だ。庄司はそれを察していた。だから馴染まない。いけ好かないと思う。だが特に害を与えられるわけではない。二週間前まではどうでも良かった。
二週間前の水曜日だった。島村栄吉がまた妙義山に現れた。初めて現れてからも二週間が経っていた。皆はさほど関心も寄せなかった。中里も気にした風もなかった。それは無視ではなかった。島村栄吉はたった三日間妙義山に来ただけで妙義ナイトキッズに馴染んでいたのだ。だから白の32から颯爽と降りた島村栄吉にも、皆それほど興味を示さなかった。同じチームのメンバーが来たところをかじりつくことがないのと同じことだ。島村は真っ直ぐ中里へと歩いてきた。庄司はその隣で話をしていた。よお、と島村は笑った。その笑みは中里にのみ向けられたものだった。完全なる中里への執着を表すものだった。お前も飽きねえな、と中里はため息を吐き、その類稀なる鈍感男が島村の笑みの真意に気付くこともなく、参ったようにこめかみを掻くと、島村と話し出した。島村が自分を気にする気配を感じ、庄司はすぐにその場から離れた。島村と中里の交わす会話の内容が気にならないではなかった。島村の目的は明らかに中里だった。最初の来訪時、リベンジではないと明言はしている。走りに来たと言っていた。同じ32乗りとなった中里に無性に親近感を覚えているのかもしれない。だがそれにしては島村に孤独の影はなかった。寂々ともしていなかった。中里に甘える様子もなかった。分からぬ男だった。だが分からぬ男のままで庄司は良かった。気にかけては負けのような気がした。なぜかは分からないが、島村という男に負ける気がした。だから傍から去った。
その島村は、だが二、三回コースを往復してから庄司に寄ってきた。庄司は避けようかとも思ったが不自然になりそうなので島村が傍に来るのを待った。
「お前、庄司だっけ?」
島村は笑みながら言った。愛想の良い顔だった。だが浮かべられている笑みが、相手を捕え傷つけなぶり殺すことを想像した悦楽によるものに庄司には見えた。島村と庄司はいわば同属のようだった。本性を隠す方法が違うだけだった。
「ああ」
「速いんだってな、お前も」
「どうだかな」
庄司は気のない返事をした。型通り実力をひけらかしてやってもよかった。ただそうしたところでこの男に痛手を与えられないことは分かっていた。島村の防御は厚い。他人の言葉によって本体が傷つかないように何重にも壁を用意している。そういう奴を相手にすると長期戦になる。そうしたいほど庄司は島村を恨んではいない。だから話は適当に流すことにした。へえ、と島村は笑みを保ったまま続ける。
「意外に謙虚だな」
「そりゃどうも」
「こっちに来た時には、お前、中里の従者かと思ったぜ」
「そうかい」
島村は庄司が言い返すことを期待しているようだった。従者などと見られていたのは腹立たしいが、そこで突っかかるのも面倒だった。どうせそのうち本題に入ってくるはずだ。自分から歩み寄りたくはない。
風が近くの木を揺らした。春の山はTシャツ一枚ではまだ肌寒い。島村はニットのシャツを着ている。色黒の肌に白い生地が映えていた。いけ好かない男だった。
「お前はやる気があるのかと思ってたんだけどな」
独り言のようにいけ好かない男は言った。庄司はジーンズのポケットに手を差し込んだまま、島村をうろんに見た。雰囲気が変わっていた。流すには重い空気を島村は発していた。本題に入ったようだった。
「そりゃ、俺に言ってんのか」
「お前以外に誰がいるんだ」
「何の話だ」
「32に乗ってる奴の話だよ」
自分の眉が勝手に上がったのを庄司は感じた。島村は笑みを消していた。心臓を貫きえぐるような鋭い目が庄司に向けられていた。庄司は何もないように言った。
「お前の話を俺に聞けってか」
「いや。俺に負けたことをきっかけにして乗り始めた奴の話だ」
「おい」、と庄司は島村を睨んだ。「あいつのことは俺には関係ないぜ」
「お前にやる気がないなら、俺がやろうかと思うんだけどよ」
島村は目を細めて言った。話がさっぱり分からない。庄司は目を閉じてため息を吐いた。
「何だか知りませんが、ご自由にどうぞ」
「なら、俺があいつを抱いても文句はねえよな」
ご勝手に、と頷きかけて、庄司は固まった。そっと目を開いた。細めたままの目で島村は庄司を見据えていた。
「何?」
「俺があいつをヤッちまってもさ」
「はあ?」
「俺は、後からどうのこうのと言われるのは好きじゃねえんだ」
島村は冗談のかけらも散らばっていない顔で言った。そこに表れているのは見られる程度に整形された肉欲だった。本気だとは容易く知れた。これは、この男に負けて、32に乗っている奴の話だ。島村は本気である。島村は本気で中里をヤッちまおうと、抱こうとしている。この男は中里とセックスしたがっているわけだ。わざわざ『抱く』ということは、中里に突っ込みたがっているのだろう。中里というのは男だ。紛れもない男だ。飲み会をした時、眠っている間に全裸にされていた。胸は平らで胸筋と腹筋が縮こまっていた。陰毛の先にだらりとペニスが垂れ下がっていた。白い足は毛で埋まっていた。庄司もそれを見ていた。単なる男だった。豊満な胸も尻もない汚らしい体だった。それを抱きたがるこの男の気が知れなかった。庄司は大きく顔をゆがめていた。
「お前、ホモか」
「女は好きだぜ。けどまあ野郎を抱くのも悪くはない。抱かれるのは俺は、疲れるけどな」
平然と島村は言ってのけた。庄司は少しの間言葉を発せられなかった。両刀で、中里をターゲットにしているとのたまう男を相手にしたことなどない。冷静に対応するまで十秒ほど要った。
「お前、た……中里が、好きなのかよ」
「関係ないんじゃなかったのか」
「お前が話してえなら聞いてやるぜ」
「いい性格だ」
「どうも」
唇だけでそう言うと、島村は皮肉げに頬を上げた。話したがっているのはこの男だ。でなければわざわざこちらに近づいてきて、中里を抱きたいなどということを宣言するわけがない。話すだけ話したら島村も満足して去るだろうと庄司は判じた。それに、中里についての話ならばどうにも気になった。
「中里のことは、好きだよ。いい奴だ。GT−Rをあれだけぶん回せるのはなかなかいねえ。俺をあれだけ真っ直ぐ見てくる奴もなかなかいない。そういう奴は下に敷いてやりたくなる」
聞いてやる気はあったが、すぐに庄司は嫌になった。そうか、と言う声にはその思いが多少混ざっていたが、島村はそれについては何も言わなかった。
「文句はねえよな」
「俺がどんな文句を言うと思うんだ、お前は」
「お前はあいつが好きなのかと思ってたよ」
文句も何もない。抱きたければ抱けば良い。それはこいつと中里の問題だ。俺には関係ねえ。庄司は思う。島村の発言についても、いちいち目くじらを立てたくはない。とっとと流したい。が、確かめざるは得ない。
「俺があいつをヤりてえって?」
「ああ」
「糞食らえだな。どうぞご勝手にヤッちまえ」
庄司は言って島村に背を向けた。島村はそれ以上何も言ってはこなかった。用件はそれだけのようだった。その後に走るのは難しかった。頭と体が分離しているようだった。庄司はコースを一度往復してから、無理だと判断して帰宅した。中里には会わなかった。
部屋に入り、すぐ風呂に入った。何も考えずに体を洗って湯を浴びて出た。下着のまま冷蔵庫から缶ビールを取り、立ったまま飲みながらベッドまで行き、寝転がってテレビを点けた。町工場のドキュメンタリーを見るでもなく見ていると、思考が組み立てられてきた。島村。島村栄吉。そいつが中里毅を抱きたがっている。中里、毅。男臭い奴だ。髪は黒くて太いし眉も太いし鼻も唇も厚い。大きい目は幼さを残すよりも他人を脅すのに最適な力を生み出している。削げた頬が顔を陰鬱とさせている。整ってはいるが、格好良いとは言いがたい。可愛いとはもっと言いがたい。走りは速いが意地っ張りで自信家で強情で、可愛げなんてものもない。そういう男を、島村は抱きたがっている。島村栄吉。いけ好かないその男は両刀のようだった。嗜好など人それぞれだ、それならあの中里相手に欲情してもおかしくはないかもしれない。中里を抱きたがってもおかしくはない。そして自分に釘を刺してきた。中里をヤッちまっても文句はないかと。おそらくそれは中里とのセックスを実現するにあたっての不安要素消そうとしたためだろう。これまで島村は中里と迂遠に交流している。好意は隠していないが、露わにしてもいない。島村が中里を気に入っていると見ている奴はいるかもしれないが、抱きたがっていると見ている奴はいないはずだ。その程度を島村は敢えて保っている。強姦して既成事実を作るのではなく、徐々に接触を図っていく魂胆に違いない。そこで邪魔をされると余計に時間がかかる。邪魔をしそうな人間の動きは封じておかねばならない。自分は島村にそういう人間だと見なされた。
「あるかっての」
ビールを空けてから庄司は呟いた。島村が中里を抱いたところで文句などはない。島村は注意深すぎる。どころか妄想が過ぎる。強姦の場合は文句も何も犯罪なので見て見ぬ振りもしていられない。それ以外は個々人の問題なので関係がない。だというのに島村は随分な勘違いをしていやがった。俺が毅を好きで、ヤりてえってか。ありえねえ。庄司はビールの空き缶を握り潰した。島村と初めて会ったのは中里が箱根へ暴走した時だ。けしかけた面もあるので一応事態を見物しようとついて行った。島村は庄司を一度見ただけだった。ただそこにある物体を物体として把握しておこうとする目だった。それ以上島村が庄司に焦点を合わせてくることはなかった。次に会ったのは二週間前に島村が妙義山に現れた時だった。だが庄司が島村と話したのは、今日が初めてだった。そんな短い時間でなぜあんなとんでもない勘違いができるのか、庄司には疑問だった。
潰した空き缶をテーブルに置いてから、庄司はふと背筋に寒いものを感じた。自分の考えが怪しく思えた。不安が過ぎった。とても単純なことを見逃している。見逃そうとしている。怯えた自分を差し置いて、頭は勝手に働いていた。
今日初めて会話を交わした。それで、あんな勘違いをされた。
それはそうだろう。短い時間しか接していない。少ない情報を前提とすると概して正しくない推測が導かれる。とんでもない勘違いをしても当然だ。
だが自分はそのとんでもない勘違いを、わずかな時間しか会話していないのにされたためということで、おかしく思った。
なぜだ?
おいおい、と庄司は自分の考えを止めようとした。しかし回り始めた頭は止まろうとはしなかった。背中全体を覆う寒気の正体が突き止められた。
疑問には思った。あの短い時間でなぜかと。だがそれは、島村が勘違いをしたことに対してではない。短い時間なればこそ勘違いはされる。疑問に思う必要がない。だが確かに自分は疑問に思った。あの短い時間でなぜかと。その疑問は、本当に島村が勘違いをしたことに対してだったのか?
いや、違う。
あの短い時間で、という疑問はつまり、島村が勘違いをしたことではなく、島村が真実を言い当てたことだ。
「ありえねえ」
庄司はベッドに寝転がった。風呂上がりのためではない粘っこい汗が額に浮いた。島村は自分の真実を見抜いた。だから自分は短い時間でなぜ分かったのかと疑問に思った。そう考えると、自分は中里が好きだということになる。中里を抱きたがっていることになる。島村が中里を抱いたら文句を言わねばならないことになる。島村はあの短時間でそれを見抜いたことになる。ありえねえ、ともう一度呟く。だが何もかもを否定する自信は庄司には残っていなかった。冷えた頭に詰まっている脳味噌がフル回転し始めた。中里。中里毅。一年前に初めて会った。気に食わない男だった。粗暴な物言いをするくせに礼儀は知っていた。いざとなれば暴力もいとわないくせに、傷ついた人間を傷ついた表情で見た。いつでも先輩風を吹かせたがった。しかし同じ走り屋なのだと主張した。矛盾だらけの男だった。不合理な男だった。何度罵倒をしてやってもへこたれずに真正面から向かってきた。正直会って一ヶ月が過ぎた頃にはもう突っかかるのが面倒になっていた。倒しても倒しても這い上がってくる、無尽蔵のエネルギーを持っているような男だった。そんな男を相手にするほどの情熱は庄司にはなかった。はずだった。だが実際、今の今まで一応中里のことは気に食わないのだという態度を庄司は取っている。そうしていなければ関係性が保てないという危惧があった。それは単に、かつて毛嫌いしていた相手と和やかに過ごすことの滑稽さを疎む精神と、伯仲する実力を持つ者としてあまりに近寄ってもバトルに情が絡むのではないかという懸念からだと思っていた。だが、それにしては自分のやり方はあまりに中途半端だ。仲が良いと受け取られたくなければ、ライバルでいたいのならば、チームの飲み会帰りに潰れた相手を家まで送ってやったりしなければ良いのだ。自分はそれをした。ただ何となくそうしていた。何となくそうする時点で、十分馴れ合っている。
仲が良いと見られたくないのは、それを認めたくないからだった。相手を何となくでも気遣ってしまうような自分を、気遣わずにはいられない自分の感情を、認めたくないのだった。周囲が仲が良くも悪くもないとくらいに見ていれば、その情報を自身の感情に反映できる。制御できる。今までそうしてやってきた。問題なかった。まったくもって問題なかった。それが、あの島村栄吉の野郎が変態なことを言ってきやがるものだから、気付いてしまった。庄司自身も変態ということだった。
中里が好きかどうかについて考えれば、間違いなく好きだった。あれほど鬱陶しいのについ相手にしてしまう。あの男がいないと張りが出ない。普通の会話で突然四文字熟語や故事成語を入れてくるセンスは面白い。皮肉を流そうとして必死に堪えている姿も面白い。流せず反論してくる姿も、流しきって他のことに意識がいっている姿も、見ていて楽しい。会話が楽しい。顔を見ると安心する。まだそこにいるのだと、存在するのだと安心する。声を聞くとほっとする。走りを競い合う時は、自分にはこの男しかいないと感じる。興奮する。徹底的にぶちのめしてやりたくなるし、手ひどく扱われたくもなる。終わると抱きつきたくなることもあった。握手をすることも我慢した。それまでの関係を壊したくなかった。中里毅を好きな自分など、どう扱えば良いのか自分で分からなかった。好きだ。好きに決まっている。あれだけ速くて、そのくせバカで、真正直で、懸命で、真剣で、やっぱりバカな奴を好きにならずに誰を好きになるというのか。庄司はベッドに寝転がったまま、ため息を吐いた。俺も結構な変態だ。
変態ついでだった。好きではある。それは認めよう。島村の推測通りだ。が、抱きたいと思ったことはない。飲み会で一度中里の全裸を見たが、息子は反応しなかった。あの体。酒のせいで肌は赤らんで、てらてらとしていた。眠り込んだ顔。家まで送ってやった時もそうだ、眠っていた。酒が一定量を越すと眠る体質らしかった。電灯に照らされた顔は朱に染まっていた。他人を威嚇するために作られたような大ぶりの目は閉じられている。厚めの唇は半開きだ。酒臭い呼気が漂ってくる。その時、自分は何も感じなかったか? 頬に手で触れた。中里が呻いた。だから離した。そのまま帰った。自分に戸惑ったが、それだけだった。忘れようとした。しかし今でも鮮明に思い出せる。あそこでキスをしていたらどうなった? 開いた唇に舌をねじ込み絡ませ吸う。腹から胸を撫でる。乳首を擦って喉を食む。股間に手を入れペニスをしごく。酒で正体不明になっている中里はそれほど抵抗もしないだろう。高い声であえぐだろう。その唾液で濡らした指を尻に入れてやる。勃起を誘導してやる。中を拓いてやる。十分広がったところで貫いてやる。足を抱えて腰を揺する。セックスだ。中里とアナルセックスをする。快楽の淵に落としてやる。すがらせてやる。求めさせてやる。好きだと言わせて愛してやる。
「……何だそりゃ」
呆然と庄司は呟いていた。手の中には萎えたペニスがある。全身は射精後の倦怠感に満ちていた。想像している間に手淫を果たしていた。庄司は呆然として、すぐにうんざりした。何ということはない、自分はいつからか中里に欲情していたのだ。それに気付かないようにしていただけだった。気付いてしまえばこんなものだ。抱くことを想像できるしそれでペニスは勃起するしオナニーもできる。そして島村栄吉はすべてお見通しのようだった。ティッシュで自分の手についた精液を拭いながら、庄司はうんざりし続けた。考えてみれば当然だ。あの男は庄司と間違いなく同属だった。
そんな二週間前、庄司は島村に、中里を抱こうが何だろうがこちとら文句なんぞまったくないと断言した。今更覆せるものではない。が、現在島村と中里がセックスする場面を想像すると、不愉快だし妬ましいし腹立たしいしで、気が狂いそうになる。それが実際に行われている場面を見たら、二人とも殴り倒してしまいそうだ。自分が変態であることは認めないでもなかったが、自分が狂人だとは庄司も思いたくなかった。だが、中里を見ると思い知らされる。中里の存在を感じると思い出す。抑え切れない自分の劣情、衝動、支配欲、嫉妬心。冷静でいられぬ醜悪な自分。その感情と欲望。島村との約束。手を伸ばせば手に入るかもしれない。しかし手は出せない。プライドがある。だが欲しい。でもできない。葛藤がある。中里がいるからこその葛藤だ。中里のための葛藤だ。処理はできない。だから苛立つ。そろそろ本格的に気が触れそうだった。
というわけで、二週間前の木曜から庄司慎吾は、峠において不機嫌であると認知されているのだった。
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