アウトサイダー 4/4
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 庄司が路地裏にとめていた赤いシビックの運転席のドアを開けたところで、中里は声をかけた。
「お前、飲んでねえのか」
「じゃねえと車で帰るかよ」、とドアに手をかけたまま庄司は言い、中里が助手席に入ると、
「検問もやってねえだろうけど、酒飲んで運転したくもねえ」、と付け足した。
 庄司は車中で一言も喋らなかった。中里も何も言わなかった。ここが話をするにうまい場所ではないのだろうと思った。その場所に着くまで庄司は話さないのだろう。庄司は闇が優位になっている道を進んでいる。信号や一時停止のある道を避けているようだった。だから中里は人気のない場所を敢えて選んでいるのかと推測したが、それは外れた。庄司が車をとめたのは庄司のアパートの駐車場だった。一度だけ来たことがあるから分かった。去年チームのメンバーとファミレスで飯を食った帰りにそいつが庄司に用事があるというのでここまで送ってやったことがある。その一度きりだ。中に入ったことはない。今回初めて入ることとなった。すなわち庄司の話すにうまい場所というのは、庄司の家であった。
「水でも飲むか」
 その辺に座れと言われるままに中里が腰を下ろすと、腰に手を当てながら立ったまま庄司は続いて尋ねてきた。中里は頷きかけて、いや、と庄司を見上げて言った。
「それより、話だ」
「話ね」
 言ったきり、庄司は黙った。腰に手を当てたまま、眉根を寄せ、瞬きをするごとに見る場所を変え、口を開いては声は出さず呼吸するだけで閉じている。どう話すべきか迷っているようだった。庄司にしては珍しい。他人に迷いだの悩みだのといった隙をさらす男ではなかった。峠でこちらを避けていた理由を言えばいいだけだ。それでなぜこうも庄司が迷う必要があるのか中里には分からなかった。分からないから庄司の言葉を待つ時間が長く感じられる。三十秒も経っていなかったろうが、中里は沈黙に耐えかねて、「別に」、と自ら声を発していた。
「お前が俺を嫌いだってんなら、それはそれでいいんだよ。お前は元々俺のこと嫌いだったろうし、お前の好みなんざ俺が文句つけることでもねえ。ただ、せめて教えてくれ、俺から隠れるみてえにしてた必要ってのは、何なんだ。何も分かんねえままああも変にこそこそされちゃ、こっちだってしっくりこねえ。それともそれが目的か。俺のことをこう、何だ、撹乱するみてえな。けどそんな小せえこと、お前がするとも思えねえんだよ、俺は。だから、その、ありゃ、結局どういうことなんだ」
 中里が喋っている間、庄司は虫でも口に含んでいるようなきついしかめっ面で中里を見下ろしていた。中里が喋り終えても、その顔のままで、口は開かなかった。また耐えかねて中里が、慎吾、と呼びかけると、そこでふっと、眉間のしわを取った。
「お前にしちゃ、いい線いくもんだな」
「何?」
「半分は合ってる。かもしれねえ。お前が言ったって考えりゃあ、まあ悪くはねえよ」
 庄司はそう言い、一つため息を吐いてから床にあぐらをかいた。腰を据えたようだった。だが俯いている。中里と視線を合わせはしない。今度は中里がしかめっ面になる番だった。
「半分?」
「お前を撹乱させるなら」、と庄司は俯いたまますぐに声を出した。「俺はもっと迅速に効果的なことをやる。そこは合ってる。違うのは、あれだ」
 そこまで言ってから、庄司もまたしかめっ面になり、それを中里に向けてくると、非常に嫌そうに、言った。
「俺はお前が好きなんだよ。だからだ」
 中里は五秒、口を開けるだけしていた。その後、
「はっ?」
 と、天地がひっくり返っても出せないような頓狂な声が出た。何を言われたのか、理解ができなかった。
「俺は、お前が好きなんだ」
 まだ嫌そうな顔のまま、庄司は繰り返した。中里は余計に顔をしかめていた。二回も言われれば、理解しないわけにはいかなかった。庄司は中里のことを好きだと、ひとまずは、そういうことらしかった。そんなことを嫌そうに、やり切れなさそうに、それでも捨て鉢ではなく、真剣に言われると、からかわれているとも思いがたいものだ。中里は庄司から一旦目を逸らし、曖昧に頷いた。
「……そ、そうか」
「それに気付いちまったから、お前を避けてた。分かったか?」
 問われ、中里は庄司に目を戻した。庄司の眉間にはまだ若干しわが寄っている。不機嫌そうだ。今までの庄司の不機嫌さがすべて集約されているような状態にも見えた。庄司の深いところに踏み込んでいるのだと中里は思った。そこで嘘を吐いたりなおざりになっては自分自身が許せなくなりそうだった。
「……正直に言うと――」
「分かんねえだろ」、と庄司は中里の用意した台詞を途中で叩き落した。中里は目を剥いた。
「決め付けるんじゃねえよ、てめえは」
「じゃあ分かったのか」
「まったく」
「まったく?」
「……分からねえ」
 結局のところ叩き落された台詞は同じだった。庄司は厄介そうにため息を吐いた。
「最初から素直に言えっての」
「いお、言おうとしたところでお前が決め付けて――」
「言い訳はよせ」、と庄司は再度中里の用意した台詞を途中で叩き落し、本腰を入れたように真っ直ぐ中里を見据えてきた。その視線に圧され、中里は叩き落された台詞は飲み込んだ。庄司は苛立たしそうに舌打ちをしてから、いいか、と言った。
「説明してやるからちゃんと聞いとけよ。俺は、お前のことが好きで、お前をヤりてえ、抱きてえって思うけどな、お前相手にそれはどうよって感じじゃねえか。でもお前を見るとそういう、どうよって感じの自分を思い出す。それが嫌だからなるべくお前のことは見ないようにしてた。そういうことだ」
 そういうことだ、と言われても、どういうことだよ、と思う自分がいた。話が分からないのではない。庄司は中里のことが好きであり、ヤりてえと、抱きてえと思っており、そう思う自分が嫌なので、避けていたと、そういうことだろう。そういうことだろうと分かるのだが、しかしどういうことだと思う自分がいる。庄司の言ったことは中里の予想外の範囲にあった。そう容易くは自分の現実に反映させられないのだった。ただ、仮定の話としては受け止められるだけの冷静さは中里にもあった。
「……か、過去形か?」
「いや、現在進行形」
 さらっと庄司は言う。中里は眉根を寄せ続けていた。
「……じゃあ、何で、今は」
「お前のことで悩んでる自分がアホらしくなった。っつーか全体的にバカらしくなってきた」
「何だ、それは」
「くだらねえだろ。いくら考えたってどうせ何も変わんねえんだ。俺は結局お前が好きでお前をヤりてえんだから、それを見ねえでいるよりは、それをどう処理するかを考えた方が、まあ堅実的ってやつだしな」
 五十を過ぎた中年男のような哀愁を庄司はかもし出していた。やさぐれた雰囲気のまま煙草を吸い始める。中里は腕を組んでそんな庄司を眺めた。こいつは俺が好きで、俺をヤりてえと思い、それが嫌だということで、避けていた。理屈としては納得だ。明快な筋道がある。だが、庄司がこちらを好きでヤりてえと思っているということについて、中里はどう受け止めるべきか分からなかった。煙を豪快に吐き出した庄司が、訝るように中里を見た。
「お前、俺のこと嫌いか」
 中里は数拍庄司を凝視し、嫌いかどうか、考えた。そして答えた。
「いや、嫌いじゃあ、ねえよ」
「じゃあ好きか」
「は?」
 更に中里は庄司を凝視した。庄司は煙草を手に持ったまま探るように中里を見返していた。嫌いというのではない。この男は人間としての品格に欠け人を敬うことも信用することもなく計算高くキレやすくて始末に負えないが、嫌いとまでは思わない。嫌いだったら避けられても気にならない。むしろ視界から消えていただけるのでありがたい。だが中里は庄司に避けられて気になった。不安まで覚えた。嫌いではないのだ。では好きなのか。好きだから、避けられて不安になったのか。その内実を知りたくてたまらなかったのか。なるほどそれも理屈としては納得できる。考えてみれば島村と庄司の違いというのもこれで説明がつく。庄司の方が好きだから島村よりも分かりたいと思うのだ。明快だった。
「そうか」、と中里は合点した。「俺は慎吾、どうやらお前が好きらしい。そうかそうか、道理でお前なんかに避けられただけでこうまで気になるわけだ。そういうことなら納得だ、うん」
 中里が話すうちに、庄司は味気のないものを口に含んだような顔になっていった。どこかうさんくさいものがあった。それは中里に対して庄司がうさんくささを感じているためのようにも見えた。中里は不審に思いつつ庄司を見返した。
「何だ、その顔は」
「そう言われてあんまり嬉しく感じねえ自分というかあんまり嬉しく感じさせやがらねえお前に、驚いてんだよ」
「何?」
「まあ予想できねえことでもなかったろうけど」、と短くなった煙草をテーブルの上の灰皿にひねり潰しながら、庄司は言った。「お前俺に掘られる気あるか」
 その庄司の動きと言葉に関連性を見つけられず、中里は顎を外しかけた。
「ほらっ?」
「俺はお前とヤりてえ、っつーかお前をヤりてえから、それができるかどうかって話だよ」
 もう一本煙草を箱から咥えかけた庄司が、思い直したように持った箱をテーブルに放り投げた。かさりと紙の落ちる音がした。中里は外しかけた顎を戻し、腕を組んだまま庄司をより一層凝視した。庄司は中里から目を逸らしている。指で顎をカリカリ掻いて、首を傾げて俯きため息を吐いた。そして中里を見て、また俯き失望感たっぷりにため息を吐く。中里も俯き、首を傾げていた。
 酔っているのならばそういうことでかわしようもあるが、この男がアルコール一滴も入れていないことは分かりきっている。でなければ車の運転はしない。自分の方はそれなりに酒は飲んでいるが元々ザルだ、今では素面と大差がないのでそれを理由にして話を流すほどの勢いも持てない。
 中里としては避けられていた理由が分かり、島村との違いも分かり、庄司の態度もこれ以後改善されるという予想も立つし、悩みは万事解消、もう庄司と話すこともない。ヤるだのヤらないだのということはさて置いてさっさとお暇してしまえばいい。だが庄司の執着が感じられるだけにこのままばっくれるのも非情に思える。この男のことを、好きといえば好きなのだ。考えるくらいはしてもいい。一度気付いてしまえば認識は容易かった。気に食わない面が多い野郎だが根が腐っているわけでもない。そういう風に思うのも好きだからなのかもしれない。
 好きだ好きだと考えていると何となくぞっとしてくるが、中里は何もヤりてえわけではない。よって庄司に掘られる気もない。はずなのだが、いざ考えてみると、掘られる気というのが分からない。掘られるということは中里にも分かる。妙義ナイトキッズは下品な男が勢ぞろいしているチームなので車の事故を表す場合以外でもそういった言葉はしょっちゅう出てくる。冗談でだ。冗談なので勿論自分の身に起こることとして中里が聞いたことはない。想像できない。自分の尻がどうのという話はあまり想像したくもない。
「いっぺんやってみねえと、何とも言えねえな」
 だから俯いたまま中里は呟いていたのだが、
「はあ?」
 と庄司は人の頭蓋骨の中身を疑っているような声を出した。見ると思い切り眉をひそめている。いや、と中里も似たように眉をひそめていた。
「つまり、その……俺は、お前は、お前のことは、どっちかと、究極的に選べと言われれば、好きだぜ、慎吾」
「そりゃどうも」、と眉をひそめたまま庄司は言った。
「けどなあ」、と中里は苦々しく言った。「お前に、掘られるっつーのはどうも……そんなこと考えたこともねえし、お前のことも、何だ、ヤるヤらねえってそういう、そもそも考えようにも俺は、したこともねえし、一体どういう感じのもんなんだか、見当もつかねえし、正直あんまり考えたくねえってのも……いやだから、それでお前、そういう気って言われてもよ、答えようがねえじゃねえか」
 庄司はげんなりしたような顔になっていた。その声にまで嫌気が染み出ていた。
「お前、俺とヤるんだぜ」
「だからてめえは決め付けるんじゃねえよ」
「例えだ例え。仮の話だ。ヤるとしたら、俺はお前にキスするしまあ色々するし、最終的には、えーと、アナルにチンコを入れるわな。でヤるよ。そりゃヤるさ、ヤりてえんだし。それ考えてお前、気持ち悪くねえのか?」
 中里は庄司とその行為に及んでいる場面を想像しようとして、止まった。思考が彼方に飛んでついでに時間も飛んでいった。我に返った時には何も果たしていなかった。ただ庄司が不審げにこちらを見てきているのみだった。駄目だ、と中里は唸った。
「頭が考えることを拒否しやがる」
 庄司の目は冷たかった。
「……お前ってよ、何でそういう肝心なところで無駄な想像力を使えねえかな」
 無駄な想像力と言われるのも憤慨ものだが、無駄にあってもできることとできないことがある。中里は腕組みを解いて片手を振った。
「だってお前、俺とお前だぜ。何でそうなるんだよ。大体俺がヤるって選択肢はねえのか」
「してえのかよ」
 驚いたように庄司は問うてきた。それもまた中里の想像の範疇にはない事柄であった。答えられるのは何となくの予想だけだ。
「……やれと言われれば努力はできなくもねえような程度には……」
「そんな消極的な奴にされたくもねえよ、俺も」
「なら何でこんな話になってんだ、わけが分かんねえ」
「だから俺はお前が好きだっつってんじゃねえか」
「俺だってお前のことは好きだぜ」
 勢いで言い返すと、庄司が意外そうに片眉を上げた。数秒してから、どちらかと言えば、と中里は付け足した。庄司は面倒くさそうに顔をしかめ、長くため息を吐いてから、不意に上目に見てきた。珍しく、窺うような、すがるような目をしていた。
「じゃあ、一回」
「あ?」
「試すのは、駄目か」
 風の音にすら掻き消えそうな細い声だった。中里の声もつられて小さくなった。
「何を」
「お前が、そういう気になるかどうか」
 それ以上、意味を尋ねずとも中里にも庄司の言いたいことは知れた。中里にそういう気があるかどうか、というのは掘られる気があるかどうかということだ。それを試す、というのは、すなわち庄司とホモ行為に及んでみる、ということになる。庄司にケツを貸すことになる。貸せるかどうかだ。途中で激烈な嫌悪感を催したり、痛みに耐えられなかったりで、庄司を拒絶するかもしれない。そうなれば無理だと分かる。掘られる気にはなれないと分かる。そうならなければ庄司とヤれると分かる。性交に及べるのだと判明する。庄司は中里を好きでヤりてえのだと言っている。だから一回試してみないかということだ。
 普通に考えれば無理だと中里も思う。だが一回やってみないことには分からないとも思う自分がいる。庄司は中里が好きだと言ってきている。ヤりてえのだと言ってきている。中里はヤりてえとは思わないが庄司のことは好きだと思える。憎たらしいことも信用できないこともある奴だが、嫌いにはなれない。好きということだ。中里には曲がった生き方はしてきていないという自負がある。普通に暮らしてきたという思いが強い。だから断るのが妥当だと考える。ホモ行為に及ぶのは普通とは言えない。試すようなことではない。それが妥当だと考える。だが不思議とその考えに妥当性を感じられない。最も妥当に感じられるのは試しちまうことだった。試しちまえばいずれ分かるのだ。なら試してやりたい。そうも思う。考えることと感じることが違う。思うことも違う。庄司は中里を見据えている。相貌にいつもの不敵さはない。諦めと怯えが混じり合った陰湿な顔だった。その顔を見返していると、考えも思いも通用しない部分が、勝手に口を動かした。
「いいぜ」
 言った中里は驚きと納得が半々の心持ちだったが、言われた庄司の方は驚きと懐疑が半々のようだった。それでも、そうか、と頷くと、立ち上がり、
「ベッドに上がれよ」
 と中里に言ってきた。

 ベッドの上で互いに素裸になり、何となく向かい合った。男同士といえど電灯のある普通の部屋で全裸で向かい合うというのは、酒が入っていても気恥ずかしいものがある。特に股間のものは気にせずにはいられない。男の象徴である。だが現状ではそれが自分の尻を割ってくるかもしれないという意味において、中里は庄司の股間につい目をやっていた。その視界に庄司の顔が広がったのは突然だった。身を引く隙もなく口付けられていた。唇に庄司の歯が触れ、舌が触れた。背中に庄司の手が回され、ベッドに仰向けに倒される。庄司の舌が唇の裏側に入ってきた時、反射的に、中里は庄司の体を押していた。押されるままに身を引いた庄司は、鼻白んだように言った。
「嫌かよ」
「……いや、嫌ってほどでも……」
 吐き気を催すような嫌悪感はなかった。ただ何か違和感があった。庄司はどこか気後れしているような顔のまま、上半身を横に倒してベッドの下に手を入れ、中里の上に戻ってきた。手には中身の知れないボトルを持っている。ベッドの下にあってこの場に持ち込むということは飲料物というわけではなさそうだ。この場、と中里は思った。庄司とホモ行為に及ぶ場だ。普通ではない。意識すると、背筋に悪寒が走って逃げ出したくなった。それでも中里はそのままでいた。平然としているような、迷い続けているような顔で、ボトルの蓋を開けている庄司を見ていると、逃げ出したくなる以上に、留まりたくなった。一度だけだ。一度試せば済むことだった。逃げることには飽き飽きもしていた。
 庄司が蓋を開けたボトルを無造作に下にした。さらりとしている液体が中里の胸から腹、股間に落ちた。見かけ以上にぬめりがあった。蓋を閉めてボトルを放った庄司が、片手で腹から胸へと液体を肌に擦り込むように撫で上げた。ぞわぞわとして中里は身をよじった。庄司が覆い被さってきた。両の手が胸にかけられ、顔が近くに迫る。息遣いが空気から感じられるほど近い。どこを見ていいか分からなくなる。目を閉じているうちにその指が胸の突起を集中的に触れてきているのが感じられ、中里は慌てて目を開いた。
「ど、どこ触ってんだ、お前」
「乳首」
 過不足のない答えの通りに過不足のない顔を庄司はしていた。指の動きは止まった。
「そりゃ、分かる、じゃなくて……」
「嫌か」
「嫌ってわけじゃねえけど……」
「ならいいだろ」
 庄司はそう言うや否やまた指を動かし出した。中里は混乱していた。てっきり掘られて終わりだと思っていたが、こうして触られていてはまるでセックスである。しかし庄司はヤりてえのだと言っていたから、セックスだからといって何も問題はない。ただ、違和感がある。嫌とか嫌でないとかでなく、馴染まないのだった。庄司に触れられていることに馴染まない。優しく柔らかく接せられていることに馴染まない。馴染んではいけない気がする。セックスではいけない気がする。だがヤるのだからセックスだ。そもそもセックスとは何だ。性交だ。だからどうした。分からない。そんな風に混乱しているうちに、両の乳首を違う調子でつままれ、こねられ、弾かれて、くすぐったさより、得たいの知れないむず痒さを強く感じるようになってきた。時折背筋に先ほどの悪寒のようで確実に違う感覚が走ってぞくぞくする。火が入ったように筋肉の奥で熱が生まれるのが分かる。何でこんなことになっているのかと体の熱さに頭が追いつかずに冷静に考えてしまう。何を試しているのかと不安になってくる。
「感じるか?」
「ひっ……」
 突然耳朶を庄司の舌が撫でた後だった。直接耳に声を吹き込まれ、中里は悲鳴にも似た声を上げていた。
「お前、顔赤くなってんぜ」
 庄司の笑い声まで耳に直接触れてくる。それだけで脳髄がしびれるような感覚が生まれ、中里は胸の上を動いている庄司の手を掴んでいた。だが掴めたのは片手だけだった。もう一方の手は消えていた。と思ったら、ぬめった液体が少しずつ伝っていた陰茎を掴まれていた。
「うわっ」
 間を置かずにまだ芯の入っていないものをしごかれ出す。中里は口をぱくぱくと開け閉めした。軽く身を起こした庄司が、眉をひそめて言う。
「微妙だな」
「ちょ、っと待て、お前そこは……」
「何」
「ひ、必要あるのか」
 庄司は動きをぴたりと止め、眉をひそめたまま中里を見下ろしてきた。中里は何とか目の前の庄司に意識を集中させた。庄司は少し首を傾げてから言った。
「場合に応じてだな」
「こ、この場合は、どうなんだ」
 しごかれるのは気持ちが良い。だが勃起したところで中里が庄司の尻に挿入するわけではない。下手に気持ちが良くなると混乱が深くなってくる。何をしているのか分からなくなってくる。それはあまり歓迎したくない事態だ。できれば冷静でいたい。庄司は中里の陰茎から手を離して言った。
「さっさと入れちまうか?」
「それが、目的じゃねえのか」
「最終的にやるこたそうだけどよ」、と言いつつ、完全に上半身を起こした庄司は、中里の足を広げてきた。「それも味気ねえだろ」
「味気?」
「どうせなら、できることやっときてえじゃねえか」
 中里が見ている前で、どこかから取り出したコンドームを指につけた庄司が、そこに中里の股間に広がっている粘液を絡めて、肛門の周囲を濡らすと、躊躇なくその中に差し込んできた。
「うお……」
 意外にも、簡単に入ってきた。指が一本だけのせいかもしれないし、ぬめりがあるせいかもしれなかった。だが異物感が強い。抜き差しされると特にひどい。排泄が繰り返されているようなおかしな感覚がある。
「まあ、お前がしてえことをしてやるよ、今は」
 入ってくる指が二本になると皮膚が引きつれている痛みが生じた。だがじっくりと粘膜を擦られ中を広げられるうちに、肉の緊張が緩んだようで痛みは減じた。そのうち不意にある一点を強く擦られて、疼痛のような感覚が走った。
「あッ」
 勝手に声が喉から飛び出していた。驚いて自分の下半身を見ると庄司と目が合った。興味深そうな顔だった。直感的にやばいと思った。
「ここか?」
 庄司の指は同じ場所を押してくる。また勝手に声が飛び出た。おさえる余裕がなかった。中里は首を振って目を閉じたが、庄司は三本に増やした指で揃えてそこを擦ってきた。重点的に刺激されると、疼痛のような感覚は尻をよじりたくなるほどの強い快感にあっさりと変わっていった。意識とかけ離れた部分で肉体が反応していた。勝手にそこかしこに力が入り弛緩する。意思が介在する余地がない。陰茎を咥えられてもここまではないような、どこか強制的な快感だった。
「……んッ……ふ……、あ、あ……」
 息を整えるのが難しい。目を閉じていても自分が勃起しているのは分かった。直接触られたらすぐにでも達してしまいそうだった。だが庄司は触らず、指を急激に抜いた。そこにも快感の欠片があったようで大腿が突っ張った。
「おい、入れるぞ。いいよな」
 急いている声がした。中里は目を開いた。ぼやけた視界の中に庄司の顔が見える。庄司は待っている。拒むという選択は頭に上らなかった。中里は両手でシーツを握り、天井を見ながら浅く頷いた。
「ああ……」
「力抜いとけよ」
 肛門に庄司のものを押し当てられているのが分かった。指とは違う。本当にこいつは勃っているのかと思った。中里は何もしていない。本当にヤりてえのかと内心では疑っていた。その疑いも肉を削るようにじりじりと侵入してきた確実なものに吹き飛ばされた。
「ぐう……ッ」
 これまでとは比にならない異物感と圧迫感だった。力を抜けるものではなかった。押し出してしまいたかった。庄司が舌打ちした気配があった。途端、萎えつつあるものをしごかれた。感覚がばらばらになりそうだった。粘膜を擦られることによる直接の快感と肉を広げて押し込まれる苦痛とが交じり合い、何が何やら定かではなくなる。瞬きすると涙が流れた。
「大丈夫か?」
 動きを止めた庄司が心許なさそうな顔を寄せてきて、乾いた手の甲で中里の目の端から落ちた涙を拭った。中里は頭を振ってそれを止めさせてから、苦痛と吐き気で顔を歪ませたまま庄司を見上げた。
「これを、大丈夫と言える、要件は、見当たらねえな」
 見れば分かることのはずだった。庄司はそんな分かりきったことを聞いてくるような無駄をする男ではなかった。だが、そうした。そこに、特別なものを感じないでもなかったが、感じ続けるのはやはり違和感があった。だから中里は分かりきったことを答えた。庄司は目を細めてから、表情を一変させた。狡猾な男のいつもの薄情な顔だった。
「ま、本気で駄目なら、言えよ」
 言った庄司が離れていく。そして隙間なく穴に埋められた硬いものが動き出した。指でされていた時以上に排泄に似た感触がして肌があわ立つ。抜き差しされると圧迫感が倍増した。苦しく、痛く、気持ちが悪い。大丈夫ではない。かなり厳しい。だが、本気で駄目というほどではない。力を抜くことを心がけて、呼吸を意識して整えていくと、少し厳しい程度にまで楽になった。だが唸り声は消せなかった。
「ぐ……う、う……」
「……やべ」
 唐突に、ゆっくり出入りしていた庄司が奥に埋めたまま、覆いかぶさってきて、中里の頭の左脇に顔を落とした。長い髪が首を撫でてぞわぞわする。中里はシーツを掴んでいた手を庄司の肩に当てた。
「な、何だ」
「毅、俺やっぱお前が好きだ」
 肌に、耳に近いところで声を出されると尚のことぞわぞわとしてたまらない。庄司の腹に押し潰された苦痛で萎えきった自分のものが反応しかけ、中里は焦ってともかく思いつくことを言った。
「そりゃ、さっきも聞いたぜ」
「いやマジで。やべえ。これはどうにもなんねえ。俺も、俺でだな、ここまでとは思っても、みなかったっつーか」
「何が言いてえんだよ、お前は」
「本気出していいか」
 庄司は顔を上げていない。顔は見えない。だが声には逼迫感が溢れている。本気? 中里は困惑した。本気を出していいかを問われたということは、今まで庄司が本気を出していなかったということで、その本気を出していない程度でも少し厳しいものがある。これで本気を出されたらどれだけ厳しいことになるか分からない。ようやくかなり厳しい状況が少し厳しい程度にまで楽になったのだ。できればもっと楽になりたいところだった。だが庄司の本気というものがどれだけかは分からない。したこともないことが分かるわけがない。だから今こうして試しているのだ。試すならばついでだった。中里は飲み忘れていた唾を飲み込んでから、庄司の肩を押し上げつつ言った。
「俺が無理っつったら、やめろよ」
 庄司の本気を見くびるわけにはいかなかった。本気になったらどんな奴でもあらゆる手段を講じて蹴り落とすことができる男だ。手放しでやっちまえと言うわけにはいかなかった。中里も自分の身が大切である。中里が押すままに身を起こした庄司は、無表情なようで、顔が不自然に引きつっていた。ただならぬ感情と欲望が皮膚を張り詰めさせているようだった。それが、唐突に弾けた。
「ああ」
 言って、庄司はにやりと笑った。ぞくぞくするほど滑らかな笑みだった。中里はそれを見ただけで妙な声を上げかけたが出ていない唾ごと飲み込み庄司の顔から目を逸らした。心臓がひどく唸っていた。沸騰した血液が体中に循環しているようだった。やがて庄司は軽々と動き出した。ゆっくりだの少しずつだの静かだのといった言葉がこの世からなくなったかのような激しい動きだった。足を肩に担がれて中里は激しくしつこく内部をえぐられた。皮膚がちぎれそうだった。肉が裂けそうだった。体がばらばらになりそうだった。一旦動きが緩まったかと思えばより近い位置からまた激しく揺り動かされる。痛いとも苦しいとも感じる余裕もなかった。ただ何か限界を感じた。頭の横でシーツを両手で握り締め体が余分に動かぬようにしていたが、それにも疲れた。限界だ。いよいよ無理だと思い中里はやめろと言おうと庄司を見た。見ずに言ってしまえば良かったかもしれない。だが見て言わねば本気の男には通じないような気がした。結局中里は庄司を見た。覆いかぶさってきているので近い位置に庄司の顔はあった。逆光線のために精細は見えなかった。ただひどく集中しているのだと感じられた。熱心だった。熱心に庄司は動いている。行為に励んでいる。庄司は中里を見ている。中里を見ながら普段からは考えられない懸命さをもって動いている。中里は庄司に抱かれている。集中的に、熱心に、懸命に抱かれている。こいつは、俺を好きで、こんなことまでしてやがる。庄司の顔を見た瞬間にそういう認識が脳に直接突き刺さってきた。庄司の視線に射抜かれた。途端に背筋全体にくすぐられたような感覚が生まれて、それが凝縮して腰まで下りていき、抜き差しされる度に生じる違和感に絡まって、電気的な快感に変化した。
「あっ……」
 やめろと言おうとして開いていた口から、単なる音が漏れた。庄司が不可解そうな表情になるのが見えたが、裏返った声は押されるごとにどんどんと漏れ出した。中里は咄嗟に口を右手で塞いだ。庄司はすぐにそれを剥がしてきた。代わりにあてがった左手も剥がされた。右手も左手もシーツに縫い止められる。庄司はなおも深く激しく責めてくる。
「あ、あッ……んん……ッ」
 自分がどこで何をどう感じているのか、中里は意識で追えなくなっていた。押し込まれることの苦しさが、すべて快感に摩り替わってしまったようだった。足が庄司の腰にすがろうとする。疎んだはずのその激しさを求めている。肉体が意思で制御できない。わけが分からない。
「……すげえな」
「や……ッ」
 突然手を解放されて、陰茎に触れられた。勃起しきっていた。軽く指を這わされるだけで、声が高まってしまう。中里は手近にあった庄司の肩を掴んだ。
「や、やめ……慎吾ッ……」
「イきそうか?」
「駄目だ、もう、無理……」
「無理?」
 ぴたりと揺れが止まった。中里はちかちかする視界の中で庄司を窺った。
「やめるか」
 庄司は再び引きつった顔になっていた。欲望がそのうちで解放を待っていることは容易く知れた。その顔を見るだけで無理だった。一つも動かない庄司のものから、自分の肉が快感をむさぼろうとしている。射精したい。それよりももっと、貫かれたい。畜生、と中里は思いながら、庄司の首に腕を回した。
「いい、やれ、任せる」
 投げやりに言ってやると、庄司は一拍間の抜けた顔になり、そして至極愉しげな笑みを浮かべた。そこまで見てしまうと無理も何もなかった。先ほどよりもゆっくりと丁寧に抜き差しされながら陰茎を軽くしごかれるだけで簡単に射精して、それでも庄司の動きに合わせて声を漏らし、一度達した庄司がまた入ってきても拒まずに、快感に狂った。どちらかと言うのではない、何と比べるまでもない。最早この男を好きという以外にありはしないのに、延々とそれを試されているようだった。

「で、ご感想は?」
 人がベッドの上でうつ伏せのままいかにこの状況を打破しようかと算段しているというのに、床に座って煙草を悠然とふかしながら庄司は聞いてきた。中里は八つ当たりすべきかどうか迷いつつ、「いてえ」、と素直な感想を口にした。「今、どうやって起きるのが一番痛くねえのか考えてる」
「そりゃゆっくり考えてくれ」、と一頻り笑ってから、庄司は真面目な声を出した。「明日仕事か?」
「仕事あるのに飲み会いれるかよ」、と中里は手をどこに置くかとシーツの上を探った。「クソ、すっかり酒が抜けちまった」
「素面んなったら後悔したか」
 庄司は再び笑い声を立てた。中里は庄司を見た。引きつった笑みを浮かべて庄司は煙草を吸っている。中里はやはり素直に言った。
「分かんねえ」
「そうか」
「いや、そういうことじゃねえよ」
「あ?」
 庄司の顔が不可解さで崩れた。中里は庄司を見るのをやめ、うつ伏せのまま起きるか仰向けになってから起きるか迷いつつ、言った。
「お前と、俺だぜ。俺とお前だ」
「どっちも一緒だな」
「それでも、いいんじゃねえかと思うんだよ」
 庄司は黙り、とりあえず仰向けになろうと中里が決めたところで、言った。
「そうか」
「おかしいだろ」
「まあ、普通に考えりゃあな」
「俺は今まで、普通に考えることしか、してきてねえんだ」
「そりゃ狭量なお方だ」
「どうすりゃいいんだ、まったく」
 言いつつ、仰向けになった。尻に棒でも突っ込まれているような感じがあるが、死にそうな痛みはなかった。死にはしないが痛いと主張したくなるほどの痛みはあった。ため息が出た。この状況をそれでも受け入れ認めている自分を問い詰めてやらねばならない。勢いだけで片付けるには確かすぎることだった。だが、深く考えるには頭が痛くなる要素の多い事柄でもあった。
「ま、深く考えたら負けだぜ、毅」
 人の心を読んだように、あっさりと庄司は言った。負けたくはないが、負けたい、という相反する思いを抱えたまま、しかし中里は、そりゃ違うだろ、と言わずにはいられないのだった。

 ◆◇◆◇◆◇

 ぬるい風が髪を流しほこりを顔にぶち当て煙草の火を点けづらくするので、庄司は決して愉快さは表していない面持ちで峠に立っていた。別に不機嫌というのではない。風が鬱陶しいだけだ。それでも機嫌が悪いのかとにやにやしながら尋ねてくる奴がいる。先日のチームの飲み会以降の恒例だ。二週間近く不機嫌さを押し出していたことは繊細な神経を持つ走り屋どもを庄司から遠ざける結果となった。軟弱な馬鹿を相手にしたくもないのでそれは構わない。ただ同じチームの連中はどいつもこいつも大概図太く、飲み会の翌日から機嫌が直った庄司に対し機嫌が悪かった時期を揶揄の種とする奴が多かった。チームに険悪な雰囲気を漂わせていた罰だとのたまう奴までいた。庄司はどの意見にも食ってかかりはしなかった。チームにぎこちないとともに投げやりな雰囲気が漂っていたのは分かっていた。その責任の一端が自分にあることも理解していた。だが責任を進んで取りたくもないので、にやにやと人の機嫌を尋ねてくる奴には、最高だとだけ言ってやった。実際は大抵普通だった。今日も風が鬱陶しいだけで機嫌は悪くない。峠に立って葛藤を思い出すことがなくなった。葛藤することがなくなっていた。
「つき物が落ちたような顔してるぜ、お前」
 飲み会から既に五日経っており、庄司の機嫌の良し悪しに言及してくるのは親しくかつ図太い奴だけだった。そういう奴らは直接的にしか言ってこない。今のようなことはそういう奴らには決して言えないだろう。島村栄吉だからこそ余分な皮肉さや下品さを抜いた上で発せられる台詞のようだった。
「そうかね」
 庄司は煙草の煙を吐き出しつつ、肩をすくめた。会うのは飲み会以来だ。
「そうさ」
 島村は笑った。虚飾のない笑みだった。敵対心は持ち出してはいなかった。飲み会の時に島村は中里に睡眠薬入りのアルコールを飲ませようとした。庄司はそれをすんでで止めた。島村は中里を抱きたがっていた。庄司はその日に中里を抱いた。中里は庄司との関係を前向きに考えるようなことを言っていた。それが本気かどうかはそのうちまた抱こうとすれば分かる。ともかく中里は気付いていないだろうが庄司は島村から中里を奪った形になる。島村はそれに気付いているはずだ。島村は庄司自身よりも先に庄司が中里を好きだということを見抜いていた。庄司の機嫌が改善していることも遠回しに言ってきた。それでも敵対心は持ち出してきていない。今そうしても意味はないと知っているのだ。庄司に与えられる傷などないことを、島村はわきまえている。いけ好かない。いけ好かないが、なかなかの男だった。この男と自分の間にいるのが、あのくすぶり男だと思うと、ため息を吐かずにはいられなかった。
「苦労するよな、お前も俺も」
 同情でも皮肉でもなく、心底からの呟きだった。島村は一つ変な風に笑い、言った。
「俺の座右の銘が何か分かるか、庄司」
「漁夫の利か?」
「果報は寝て待て」
 庄司はまじまじと島村を見た。睡眠薬まで使って目的の人間を手に入れようとした男の言うことではない。
「お前、十円パンチってされたことあるか」
「ないな、幸いなことに。まあ、俺はそういう風にやってきたんだよ」
 島村の言い分を信じる理由は庄司にはなかった。ただ、その時点で既に積極的に疑う理由も持ち合わせはしなかった。庄司はまた肩をすくめ、煙草を吸い、面倒のない話の進め方を選んだ。
「それならそれで、足場はしっかりさせとくんだな」
「ああ、まったくだ、失敗した」
「あ?」
「結局、足場がちゃんとしてるか確認しとかねえと、俺は何もできないらしい」
 地面を一つ蹴って、島村は笑った。自信に満ちた笑みだった。面倒が増えたような気がして、庄司はうんざりし、そうかい、と適当に言った。島村は風を受けて目を細めると、じゃあ、と去りかけて、ああ、と振り向いた。
「首尾の方は、今度ゆっくり聞かせてくれ」
 庄司はますますうんざりして、島村の頭の中身を疑いつつ尋ねていた。
「そんなに聞きてえか?」
「趣味が悪いんだよ、俺は」
「てめえで言うかよ」
「お互い様じゃないかと思うぜ」
「勝手に思ってろ」
「勿論」
 調子よく言った島村は、またな、と庄司に背を向け白の32へ歩いて行った。中里は下にいるはずだ。会うことは止められない。自由である。何を待つのも個人の自由だ。
「いかれてやがる」
 庄司は呟き、煙草を地面に捨てた。いけ好かない上にいかれた奴だ。中里ごときにああも執着するとは、先見性がないにもほどがある。待つに値する男ではない。奪ってこそである。奪い続けてこその男だ。時機などやらない。伊達に庄司は島村よりも先に執着しているのではなかった。最早自分が変態でも狂人でも構わぬ心意気の庄司だった。

 ◆◇◆◇◆◇

 庄司の機嫌も中里の機嫌も改善されたと妙義ナイトキッズのメンバーは見ており、庄司と学生時代から友人関係にあるメンバーも同意見だった。庄司は仏頂面ではあるがそれはいつものことだし、他のメンバーが近づいても険悪なオーラを立ち上らせることがなくなったことや、毒舌が影を潜めたことは、いつもの庄司であることを示していた。中里もカリカリすることは減った。元々短気な性質の男なのでカリカリはしないことはない。いつもの中里に戻っただけだった。ただ庄司と一緒にいる時には挙動不審になることが増えた。庄司と中里の仲は元々他人には分からぬ面の多い不可思議なものだったので、メンバーは気にしていない。彼も気にならないわけではないが、中里だけならともかく庄司の関わることを気にしていると命の危険を感じずにはいられないので、気にしないようにしている。島村栄吉の妙義山への来訪は週の真ん中水曜日限りとなった。しかし変わらず来るし相変わらず気の良い男でナイトキッズに馴染んでいる。島村がいてもいなくとも庄司の機嫌に変わりはなくなっていた。島村が初参加した飲み会にて庄司と中里との間に何かがあったことは間違いなさそうだが、何にせよ庄司の関わることを探りでもしたら生活の危険が迫りそうなので、彼は勿論のことメンバー以下走り屋すべてはその件を記憶の彼方に葬り去っていた。
 そんなわけで、ともかく妙義ナイトキッズは平和であった。
(終)

2007/11/30
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