アウトサイダー 3/4
島村栄吉は迷っていた。喧騒に満ちたバーの中、カウンターの硬いスツールに座りながら迷っている。得体の知れない黄褐色の透明な液体と氷に満ちたグラスを眺めながら迷っている。
店は貸切だ。深海をモチーフにしたという青黒い色彩と深緑で統一された店内はその狭さもあって冷ややかな様相だが、男ばかりが二十人余りもひしめいているので暑苦しい空気がある。客は全員が走り屋を自称していて、妙義ナイトキッズという走り屋のチームに属している。今日の飲み会の会場となったこの店の経営者もそうだという。だからのっけから全裸になる奴がいても誰も注意はしない。
島村は走り屋であるがナイトキッズのメンバーではない。地元の神奈川に自分の走り屋のチームを持っている。だが飲み会に参加している。島村の申し出を幹事が了承した。他のメンバーも文句はなさそうだった。歓迎してくる奴もいた。
島村はナイトキッズに馴染んでいた。
どんな人間の集団であろうとそこに馴染める自信を島村は持っている。他人が自分に何を求めているのかを察し、その他人が求めている通りに振る舞うことができると島村は自負している。幼い頃から他人を窺ってばかりいた。物心ついた時には既に今日明日にでも捨てられるのではないかという不安が漠然と胸のうちにあった。心には茫々たる枯れ野があった。そこに独りで取り残されることには遠縁に度々起こる死以上の恐怖を感じていた。なぜそのような不安を抱き出したのかは分からない。覚えていない。何か家族との間に事件があったのかもしれないし、生来的にどこか狂っているだけかもしれない。あるいは捨てられることもまた死と同義だと感じており自分の死というものを極端に恐れていたのかもしれない。ともかく島村は捨てられないように生きねばならないと幼い頃から必死に他人の心中を推し量り自分の振る舞いを整える処世術を身につけた。それは習性となった。磨くに時間は要さなかった。その人間が何を求めているのかを正確に把握してそれを適切な量与えるだけで信用が生まれる。そのために他人を欺くことに罪悪感は覚える。それが心地良く、だから他人を欺き他人の感情を自分にとって良い方向に膨らませることはとてもやめられなかった。学内での頭取としての立場や商売での利益の維持する時は勿論、自分のチームの連中の前に立つ時でも、ごく平常な人付き合いにおいてもそうだった。いつでも他人を自分の意図する方向に導くために行動を起こした。自分に害のないように物事を運ぶために動くことを決めた。呼吸をするのと同じだ。そうしなければ生きてはいけないようになっていた。
島村が妙義ナイトキッズの連中と週に二日、そのホームである妙義山で会うようになってから一ヶ月が経っている。島村はナイトキッズに馴染んでいた。だが、それは今までにない馴染み具合だった。例えば自分のチームの連中と接する時でも島村は油断しない。リーダーとしての不備があっては自分を許せないし、自分が率いている者たちに失望されたくはない。自分についてくるような奴らに下に見られたくはない。そういう思いが常にある。ナイトキッズの連中と接する時にはそういう思いを持たない。失望されようとも下に見られようともどうでもいいと思える。猥褻で陰湿な話をして人格を疑われても最低の人間として見られてもどうでもいいと思える。他人は自分に利をもたらすから取り上げるが島村にとっては元々どうでもいい存在だが、そういうのとも違う。
今、この飲み会においても島村は誰かが自分に何かを求めているのではないかと全方位に注意を向けずにいられないということがない。何か利を得られるのではないかと懐疑的になることがない。利だの何だのということがどうでもいいと思える。自分が求められていようが求められていなかろうが、自分が蔑ろにされてようが嫌われていようが気にならない。ナイトキッズというチームの雰囲気がそうさせる。それは勝手にやっている奴らの集まりだった。それぞれ勝手なことをやり、誰かを傷つけ、誰かに傷つけられている。周囲の人間はそれを笑い事にする。今まで島村が接してきた集団とは違う。誰もが加害者であり被害者である。誰もが誰かを好き嫌っている。誰もが誰かを敬い憎んでいる。誰もが誰かを忘れている。そのくせ淀んでいない。ただ混沌としている。その混沌に島村は組み込まれた。島村は妙義山では一部を除いて勝手に動いていた。そしてナイトキッズに馴染んだ。だがそれは馴染んだのではなく馴染まされたと言った方が正しいのかもしれない。島村は勝手に動いているが最低限自分の立場を崩さぬ防御は保っていた。それを保てる程度の勝手さしかナイトキッズというチームの雰囲気が許していない。言いかえればその程度の勝手さは誰にでも許している。しかしそれも分かる人間には分かることだが分からぬ人間には分からぬことで強制的ではなかった。それでも確かにその曖昧な区切りは存在していた。そのチームに満ちる曖昧さと混沌さに島村はとらわれた。居心地が良かった。当初の目的を忘れそうなほどだった。
目的、とグラスの縁を指でなぞりながら島村は思う。動くからには何かを達成せねばならない。何かを達成するために物事は進められる。島村は計画を立てる時には内臓が悲鳴を上げるまでに考え尽くし悩み尽くし迷い尽くす。だから動く時には余計なことは考えないし悩まないし迷わない。だが今は迷っている。
ナイトキッズというのは車好き走り好きという共通点しかないような男たちの集団だった。家庭を持っているサラリーマンと無職が違和感なく同じ場にいる。社会上の身分など問題にならない。速い奴が優遇される。面白い奴も優遇される。ネタになる奴は歓迎される。いじられる。遅くてつまらなくて道徳の化身という奴は疎まれるし、そういう奴が黙っていられるような穏当なチームではなかった。万引きをしないことよりもどこでも全裸になれる奴の方を優先する男たちが集まっている。それでもメンバー各自に仲間意識はあるようで、走り屋チームとしての体裁は一応保たれていた。
そんな統一感があるようでもありばらばらのようでもあるチームにもリーダーとして見なされている男がいる。メンバーはその男を好いていたり嫌っていたりどうでもいいと思っていたりと様々だが、その実力を認めない者は一人もいない。つまりナイトキッズにはすべてメンバーに共通することが車好き走り好きという以外にもう一つある。中里毅というその男を、信頼しているにせよ信頼していないにせよ、リーダーとしては見ているということだ。中里毅。島村と同じ日産スカイラインBNR32に乗っている。島村にバトルで負けたことを機にして32乗り換えた男だ。おかしな男だった。本人に変であるという意識はないようだが、妙義ナイトキッズという礼儀を知る者と知らぬ者、倫理を持つ者と忘れている者、情熱を撒き散らす者と秘める者、良い者と悪い者が独立的に混在している走り屋のチームで、走りは速いながら全員に揃って敬われているのではなく、それでも多種多様な人間から等しくリーダーであることを認められている人間を変でないというのならば何が変であるのかということだ。
約二年前妙義山に行き初めてその姿を見た時には島村も何だ普通の男じゃないかと思ったものだ。だが挨拶してみれば、その態度も物言いも不遜さに溢れていた。他人には打ち砕けそうにない膨大な自信をその肉体に感じさせる風貌だった。そのくせ隙だらけにも見えた。誰にでも内側をさらけ出しているような豪快さがあった。気の強い男だと思った。と同時に、確かにこりゃ、変な奴だ、とも思った。どうだい、と口は勝手に動いていた。俺とやってみないか。
具体的にどこが変かというのはその当時は説明しかねた。約二年前に中里毅という走り屋がいることを話してきた従弟にしても変な奴だとは言ったが具体的に何が変かとは言えずにいた。島村ははじめその中里とバトルをする気などなかったが、会うとそういう気分になっていた。そういう好戦的な気分を煽るような男とも言えた。実際走ってみると従弟が話すほど速くはない走り屋に感じられたが、存在はずっと頭に引っかかってはいた。だからこちらの地元に中里が来た時には、車は乗り換えていたながらも、すぐに誰であるかは思い出した。そんな自分を妙に感じた。負かした遅い走り屋のことは記憶に残さない主義だった。
その中里は島村と同じ車に乗り換えていた。R32GT−R。そして島村の地元で島村を負かし、女にフラれて帰っていった。最後の挨拶もなかった。島村は中里に忘れられていた。悔しさは感じた。憤りも覚えた。ただ、それ以上に、可笑しさがあった。中里毅は変わらず変な奴だった。そういう変な奴を、素直に変だと思える自分を初めて好きだと思った。
それが昨年の秋のことで、年が変わって春になっても島村は中里という男を忘れることはなかった。ふとした時に思い出すたびに徐々に妄想が激しくなっていった。中里の容貌は男臭く、ぱっとしない。体格にせよ良くも悪くもない。そういう中里と話すことを空想した。話すうちに好戦的な気分になってくる。征服したい欲望が芽生えてくる。勃起したもので蹂躙したくなってくる。そして全裸に剥いて優しく犯すことを空想した。冬の名残がなくなる頃には妄想の完成度は高まり果てていた。その間に一度も会っていないのに現実と錯誤しそうなほどだった。現実を見なければならないと考えた。また妄想を現実とできるならばそれが最善の満足をもたらすであろうとも考えた。そして島村は妙義山へ再び行き、その地を再び走り、中里と再び会い、決断した。現実を自分の手で自分の思う通りに動かすことだった。
「よお」
掠れた低い声をかけられてすぐ、隣の空いている席に男が座った。カウンターには無骨な男の手により得体の知れない茶褐色の透明な液体と氷に満ちたグラスが置かれた。
ああ、と島村は頷き男を見た。豊かな黒髪に太いながらも鋭い眉。硬い輪郭と顔のパーツ。中里だった。店内の照明は薄暗く設定されているので詳細は窺えないが、その肌はうっすらと赤みを帯びているようにも見える。
「いっつもこうなのか」
中里が言葉を発する前に、島村は後方に顎をしゃくり笑いながら言ってやった。ボックス席にいる男たちはほとんどが半裸か全裸だった。
「他に客がいなけりゃな」
後方をちらと見た中里は、わずかに眉根を寄せつつも妥当そうに言った。島村は苦笑した。
「ルールでもあるのか?」
「脱ぎたがりが多いんだよ。脱がしたがりと」
「めでたいな」
「年中やってりゃ普通になっちまうぜ」
中里も苦笑する。馬鹿にするようでもあり、だが誇らしげでもあった。真実の中里がそこにあるようだが、島村は手ごたえを感じない。近づけない。
「庄司とは話せたのか?」
自然な会話の運びになるようにそう問うと、中里は苦笑を一瞬にして消し、ぎょっとしたように目を見開いた。
「な、何?」
「怖い顔してるぜ、まだ」
言ってから一つ笑ってやる。眉間にはずっとこわばりが窺えた。分かりやすい男だ。開けっぴろげである。格好つけたがりもするし虚勢も張るが、生来的に嘘の吐けない性質なのだろう。だから島村は迷っている。
「だから、こりゃ、地顔だ」
「悩みは早めに解消しねえと、禿げるぜ」
「分かったようなこと言ってくれるんじゃねえよ、クソ」
どこか悔しそうに言い、中里はカウンターに置いたグラスを取り口をつける。舐める程度だった。島村は後ろを見た。ボックス席で騒いでいる男たちは裸率が高い。それを下げている方が目立つ有様だ。庄司慎吾がどこにいるかはすぐに分かった。目は合わない。
「何の話してるんだ、ありゃ」
その場は先ほどから随分盛り上がっているようだった。そこには中里もいたはずだった。
「空冷にこだわったようなメーカーがどうの妙な純正パーツ出しまくるメーカーがどうの、農機のシェアがどうのだの、環境バカと外資系は死に絶えろだのって話だ」
それでは個人的な話をする機会もないだろう。そういう思いを含めてなるほどと島村が言うと、中里はばつが悪そうに目を泳がせ、トイレに行ってくる、とそそくさと立ち上がった。島村は笑ってそれを見送った。中里の姿がトイレに消える。島村はジャケットの右ポケットに手を入れた。左手の親指で自分のグラスの縁をなぞる。
分かりやすい男だった。感情の揺らぎを隠しえない。方向性をつけてくれと言わんばかりだ。そういう人間は誘導しやすい。ただ信用されるためにはこちらの手の内もある程度は見せねばならない。こちらの感情も表せねばならない。今開けている距離を縮めねばならない。極端を言えばすべてを見せればそれで良い。近づける。近づけば余すところなく掴むことができる。掴んだら、しかし、手に入るというのだろうか? さらけ出しておいて、失敗したら、どうするというのだ? もっと確実な手段がある。人間は孤独には耐えられない。突き落として庇護してやればいいだけだ。こちらは一つも傷つかない。
右手に触れるものがある。それでも島村は迷っている。
◆◇◆◇◆◇
その場に限り庄司慎吾は酒を絶っていた。車で来ているので飲酒運転で捕まりたくもないし、野郎だけのうらぶれた乱痴気騒ぎに加わりたくもない。元々参加する気もないチームの飲み会だった。吐き気を催す裸体を展示したがる馬鹿が多すぎてうんざりする。前回飲み会が行われてからまだ一ヶ月も経っていない。日ごろの鬱憤を晴らすのもアルコールに溶けた他人の脳みそが露呈させる弱みを仕入れるのも年に数回で十分だった。それでも庄司は場の中にいる。裸体率を下げていることを罵倒されてもその辺の酒をぶっかけて終わらせる。
他人の文句を聞くつもりが庄司にはなかった。空気を読めと言われようが意に介さない。自分勝手結構、他の奴らもそうしている。自分だけ遠慮をする気など更々ない。
目の前にはスズキ狂いのメンバーがいる。その男の言うことは聞き流している。庄司の意識は右手側にあるカウンターに向いている。スズキ狂いの男をはすに見ているとカウンターの半分ほどが視界に入ってくる。その半分だけで三人の男が座っている。三人のうち二人は壁際に並んで座りマッチ棒のタワーを作っている。その男から三席離れたところに残りの一人が座っている。先ほどまでその左隣に別の男がいた。その前までは一人で座っていた。焼け焦げた木のような色合いのレザージャケットを着ている背が庄司の視界の片隅に見える。その右手がジャケットのポケットに入れられていた。スズキ狂いの男と反対側にいる男が何事かを喚いた。そこに一瞬意識を奪われた間に、カウンターの男の右手はジャケットから出ていた。なぜかスペイン語を話し始めた男を庄司は意識から排除した。カウンターの男が右手で何かをやっていることはことはカウンターについている右肘の動きで分かる。しかし何をやっているかまでは背中に隠れていて分からない。カウンターについている男の左肘も動いていた。男の左手が背中から出る。男の左側にあるグラスを取った。グラスは男の背中の影に入った。そこまで確認したところで、目の前にスペイン語を話し始めた男の顔が現れたので、庄司は問答無用で頭突きを食らわせた。頭を抑えてスペイン語の男がうずくまる。その斜め向こうにカウンターが見えた時、一人で座っている男は左手をレザージャケットに入れ、出したところだった。
「てめえショージィ、誰に向かってヘッドバッドだコラァ!」
スペイン語の男は日本語に戻っていた。庄司は再び目の前に現れた日本語男の向こう脛を蹴り飛ばし床に転がし、グラシアスとだけ言ってその背中を踏みつけつつカウンターに向かった。日本語男は追ってこなかった。あの男は正真正銘のマゾである。
騒ぎに気付いたカウンターの男が振り返ると同時に、庄司は先ほどまで別の男が座っていた男の左隣に腰を落とし、自分のすぐ傍にあるカウンター上のグラスを手に持った。金髪の男は冷めた顔で庄司を見ていた。庄司はグラスに半分ほど入っている液体の面に目を落としてから、男をまた見た。男は庄司から視線を外していなかった。その端整な容貌は他人に対して何の働きかけもしないものだった。
「何を入れたんだ」
庄司はグラスをカウンターの上に戻してから、島村に聞いた。島村の顔面の下には他人の介入を拒む殺意が満ちていた。庄司はそれを知っていた。庄司がそれを知っていると島村は知っているはずだった。だが、
「何の話かな」
島村はとぼけた。庄司はグラスを指で弾き、そこに目を落としたまま言った。
「お前の他に32に乗ってる奴の話になるな」
「言ってる意味が分からねえよ」
島村は島村の前にあるグラスを見ていた。庄司の前にあるグラスは先ほどまでここにいた男のもののはずだった。庄司は島村を見た。島村はこちらを見ていない。庄司は島村に体を開いて座っている。島村の着ているレザージャケットの左ポケットに右手を入れるのは造作もなかった。島村が拒まなければの話だ。島村は拒まなかった。一つも動かなかった。庄司の顔すら見なかった。庄司は右手を島村のジャケットのポケットから抜いた。小指ほどの大きさの蓋つきの容器があった。プラスチックか何かでできているらしく半透明で中身が見える。空だった。何だこりゃ、と庄司は呟いた。島村が笑った気配がした。見ると、島村は笑ってはいなかった。ただ左手を庄司に差し出してきた。庄司は島村の手に容器を落とした。
「よく気付いたな」、と言った島村が、そこで笑った。自嘲のようだったが、どこか愉しげでもあった。
庄司は顔をしかめた。
「わざとじゃねえのか」
「そこまで俺は、親切にはなれねえよ」
「どうだかな」
島村の言い分を信じる理由は庄司にはなかった。グラスを再び手に持ち、液面を眺め、で、と言う。
「何入ってんだ、これ」
「睡眠薬。ごく少量だ」
「お前の32のシフトノブ、そのケツに突っ込んでやってもいいんだぜ」
「面白いこと言うな、お前は」
「冗談は得意なんだ」
慎吾が真顔で言って、島村を見た。島村は俯いており、喉の奥で笑うと、笑みを引っ込めた。その顔の裏から殺意はもう嗅ぎ取れなかった。
「嘘じゃねえよ」、と島村は息そのもののような声を出した。「向精神薬でもあるとか言ってたかな」
「誰が」
「古い友人だ。処方されてる。いい奴なんだけどな、ちょっと考え方が暗い」
「それを入れたのか」
「一度試してみたくてさ」
「どっちを」
「何のことだ?」
島村は横目で見てきた。とぼけている。庄司の持っているグラスは先ほどまでここにいた男のもののはずだ。32に乗っている男だった。その男に照準を定めていたのか、単に誰でもいいから睡眠薬入りのアルコールを飲ませたかったのか、どちらなのかと庄司は尋ねたのだった。島村のとぼけ方は三流だ。そういうことを素でしてしまう男ではない。わざとだろう。三流のとぼけ方をすることで、聞くまでもないことだと島村は語っているようだった。庄司はグラスをカウンターの上に戻し、パーカーのポケットから煙草を取り出しつつ言った。
「俺は、文句を言うつもりはねえよ」
「へえ」、と島村が感情のこもっていない声で言った。
「それは言っただろ」
「義理堅いんだな」
「見た通りだ」
煙草を咥えながら言い、火を点け煙を吐き出した時だった。庄司の前にあるグラスを、島村の手が取っていった。突然すぎて、グラスの行方を目で追うことしかできなかった。
「あ」
と庄司が言えたのは、グラスの中身は島村の喉に吸い込まれてからだった。島村は空になったグラスを自分の前に置き、半分入っている方のグラスを庄司の方に滑らせ、熱そうな息を吐き出して、何でもないように言った。
「澤田のところに泊めてもらう約束はしてるんだ」
庄司は鼻白んだ。
「だからって、それ飲む必要はねえだろ」
「お前に聞いといて良かったよ」
「あ?」
「殺されずには済んだ」
島村は目を閉じている。その顔からは、強固な自己愛も自信も窺えなくなっていた。そのくせ保守的なにおいが漂っていた。
「本気で言ってんのか」、と庄司は横目で島村を睨んだ。島村は目を閉じたまま、薄く笑った。
「俺も冗談は得意な方でな」
「俺がやるなら半殺しだ」
庄司がそう言うと、島村は目を開いた。焦点の定まっていない目が、庄司を素通りしてから戻り、そしてまた閉じられた。
「なあ」、と、カウンターの上に両腕を乗せそこに頭を埋めた島村が、おかしそうな声を出した。「人間なんざ、頭軽く打っただけで死んじまうんだぜ」
「儚いもんだな」、と庄司は口先だけで言った。
「まったくだ」、と島村はくぐもった声で言った。「首尾は是非とも教えてくれ。俺は寝る」
庄司は黙って煙草を吸った。島村はそれ以降、何も言いはしなかった。
島村は以前聞いてきた。先ほどまでここに座っていた男を島村が抱いても、庄司に文句はないかということをだ。質問というよりは念押しに近かった。それに対して庄司は文句はないと明言した。ついさっきも文句を言うつもりはないと言った。それは本心だった。先ほどまでここに座っていた男を島村が抱いてしまおうが、文句は言わない。その代わり、手は出す。半殺しだ。ありとあらゆる手段を使って生きたまま地獄を味わわせてやる。死なせてなどはやらないし、こちらを訴えさせてもやらない。それも本心だった。ここまできてプライドも何もなかった。島村はそちらの庄司の本心にも気付いたようだった。文句はないかと聞いてきた時点で、島村は庄司自身が認めていなかったその暴虐性に気付いたのかもしれなかった。だから今、島村が簡単に引き下がったのかといえば、それは庄司には分からない。そこまで諦めの早い男とも思えなかった。分かることといえば、島村というのが、つくづく自分と似ている面を持つということだった。
「ま、あったらな」
庄司は煙を吐き出してから言った。それを島村が聞いたのかどうかも、庄司には分からなかった。
◆◇◆◇◆◇
天国に近づいていそうな奴が便器の前の床に盛大に吐瀉った後始末をようよう終えて排尿を済ませた中里は、手を洗いながら、もしかしたら、と思っていた。分かったようなことを言ってくれる奴は、貴重かもしれない。島村栄吉とはそういう男だ。人の望みを見透かして言葉にすることができる。庄司もそうだ。ただ島村には庄司にはないあたかもそれを叶えそうな存在感がある。そういう奴を分からないままにしておくのももったいない気もする。島村は悪い奴ではない。もう少しこちらも歩み寄っていくべきなのかもしれない。そう思った。そうするべきだとまでは思えなかった。
ともかく吐瀉物のひどい匂いの上にフローラルな香りが重なって何ともいえないことになったトイレから出た中里は、途端にたたらを踏んでいた。段差があったわけでも店内が様変わりしていたわけでもない。ただ心理的には気付かぬ段差のために足を踏み外したような感じがあった。トイレの前からはカウンターが見渡せる。そこには先ほどまで話していた島村栄吉の姿が見える。カウンターに突っ伏している。眠たそうな素振りはなかったのでそれはそれで奇妙だったが、それ以上に、その島村の隣に座っている男の存在に中里は驚いた。遠めでも分かる。遠めで分かるほど、遠くから見る機会は多かったし、また近くで見る機会も多くなっていた男だった。ただ最近は近くで見ようにも近づく機会がなくなっていた男だった。
その男が座っている席に先ほどまで中里は座っていた。そこに戻るのが自然だった。だが足は即座には動かせなかった。単純実直ではあるが望んでいた機会を突然に与えられて無我夢中で飛びつけるほどの反射性を持ち合わせていないのが中里という男だった。一昔前の猥歌を唄いながら寄ってきたメンバーが、
「トイレ通行止めっすか?」
と不思議そうに尋ねてくるまで、中里は現実に適応していなかった。
「いや、違う、開通済みだ」
とぶつ切りで答えていても、どこか神経はあやふやだった。メンバーが不思議そうなままトイレに消えていくのを見送り、中里は改めてカウンターを見渡した。カウンターの上に突っ伏している島村と、その奥に座って前方だけを見据えている男。男はこちらを少しも見ない。敢えて見ようとしていないのかどうかは判然としなかった。
中里はそこでようやく足を動かした。トイレのドアの閉まる音が現実感を運んできた。通路は狭いが宴もたけなわで歩き回る奴もいない。島村の後ろに立ち止まる。その奥に座る男に、立ったまま中里は声をかけた。
「慎吾」
呼ぶと、庄司は今中里に気付いたように顔を向けてきた。
「よお」
普通の顔で、普通の声だった。今まで人を避けてきたとは思えないほど普通だった。懐かしさも感じないほど普通だった。
「ああ」
普通に中里も言っていた。庄司は中里を見たままだ。こうも普通に話せるとは思わず、中里は咄嗟に場をつなぐ話題を探し、カウンターの上に突っ伏している島村を見た。
「寝たのか、島村は」
「多分な。しばらくは起きねえんじゃねえの」
庄司は言い、カウンターの上のグラスを中里に差し出してきた。中里は受け取った。グラスに半分入っている。それを一気に干した。カウンターの上にグラスを置き、そして中里は庄司に言った。
「慎吾、お前」
「何だ」
「俺のこと、避けてただろ」
違うかもしれない、という疑念を、飲んだ勢いで吹き飛ばしていた。庄司は面倒そうに片方の眉をねじ上げた。
「そう見えたか?」
「俺にはな」
「だったらそうかもな」
「それは、どうしてだ」
「どうしても」
「ごまかすなよ」
沈黙が互いの間に噴き出てきた。庄司は島村をちらと見た。寝ているのを確認したようでもあるし、単に島村のいる空間に目をやっただけかもしれなかった。次には庄司はつまらなそうに俯いていた。その顔は長い前髪と島村の体の影とに隠れて中里には窺えなかった。
「ごまかされたくねえか」
独り言のようだったが、ああ、と中里は頷いた。浅いため息が聞こえた。
不意に、庄司は席から立った。
「出ようぜ」
「あ?」
「ここじゃうまくねえや」、と庄司は首を鳴らし、思い出したように中里を見た。「お前がまだ飲み足りねえってんなら、別の時でもいいけどよ、俺は」
同じ高さの目線だった。庄司は変わらず面倒そうに片方の眉を上げたままだ。今にも去っていきそうな気配があった。中里は慌てて言っていた。
「い、いや、今でいい、今」
「そうか」
言うや否や、庄司は店の出口に向かった。中里は酒が膝元まで溢れていそうな場を気にしつつも、自己責任、という言葉を胸に書いて、結局庄司についていった。誰も引き止める者はいなかった。最早皆が正体不明になっている時間帯であった。
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