レイジー・ボーイ 1…世の中知らない方が良いこともあるわけですが
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 小雨がぱらつく灰色の街を庄司慎吾は歩いていた。空気は重く湿気ており、それでも初夏の気候は暑いとしか言いようのないものだった。Tシャツには少しずつ汗と水が染み込み、ジーンズもパンツも肌にはりつき、新品のスニーカーは泥水にまみれた。
 街に人影はまばらだった。平日の昼に雨の中を出歩く人間もそうそういないものだ。それでも慎吾は誰かを探すように街を練り歩いた。閑散としている地元の商店街、車通りの少ない国道沿い、人間の臭さが漂ってくる市営住宅の密集地、洒落た感のある私立高校の傍。だがどこを歩いたところで慎吾の心を引くものは何も見つからなかった。そのうち足が疲れたので、手近にあった小さな公園に入り、露の浮いている古びれたベンチに座った。ジーンズのポケットに手を突っ込み、背もたれに体を預ける。人はいない。あくびを一つする。退屈にもほどがあった。二十一歳、その歳の日本男児の平均的な身長と体重を有している体は、伸び盛りを過ぎたといえど、体力を持て余している。慎吾はポケットに手を突っ込んだまま、煙草を持ち忘れたことを悔やんだ。時間潰しには最適だというのに。
 外へ出たのは退屈が過ぎたからだったが、街に出たところで面白いことがそうそう転がってるわけもなかった。パチンコ屋へ行くにも集中力が欠けている。ただでさえ昨日は稼ぎどころとばかりにスロットをやり過ぎたため、腕も重く目の奥も重い。そして懐も重かった。金はあるんだ、と慎吾は思った。ただ使いどころがない。慎吾は目を閉じた。昔を思い出す。今よりも必死に人生を楽しもうとしていた日々だ。幼少の頃はひたすら庭の草をむしったり近くの山に登って木の枝を折りまくったりエロ本を探索したりトンボを共食いさせたり、年齢があがるごとに遊びは巧妙化と悪質化の一途を辿り、独居老人宅にピンポンダッシュし放置自転車を夜中の間に空き地に山積みし、他人の庭で爆竹をしかけ野良猫を解剖し、交番に投石、海まで出て自殺未遂演技、高校教師の不倫現場を押さえて脅したりもした。ほとんどは一人でやった。我ながら孤独な自己満足のためだけによく頑張ったと慎吾は思う。だが高校最後の年を迎える頃には行き詰まった。やり尽くした感があり、退屈な日々を打ち破る情熱も消えてしまった。元々飽きるのが早いタチだった。何か一つのものに対する関心を一日以上持続できたことがない。努力次第でごまかせはしたが、興味が復活しないのは致命的だった。
 補習を受けることなく高校を卒業したものの、結局大学にも行かず就職もせず、毎日をだらだらとこうして街の中や裏側で過ごしている。わざわざ企業の歯車におさまらなくとも金は稼げるし、実家は割に裕福で一人居候がいたところで問題はなく、二人いる姉のうち一人が婿を取ったため、家系は安泰だった。両親は共働きで姉二人の自立は早かったため、一人息子という大義も背負わされず、慎吾は放任的に育てられた。そのため今もって差し迫った生活はしていない。多分、と慎吾は思う。今の俺に必要なのは、切羽詰った人生だ。
 行動に移す気もない結論を出し、慎吾は目を開けた。霧のような雨が全体を覆っている。空は曇り、昼とも夜とも思えない色に満ちている。砂場の砂は固まり、滑り台は取り返しのつかないほどに錆びている。公園は置き去りにされたようだった。そのなか、慎吾はふと気が付いた。正面左手にあるブランコ、席は二つあるが、その左側に、男が一人座っていた。先ほど目を閉じた段階では誰もいなかったから、考え事をしている間にやって来たのだろう。子供を基準として作られた板に腰を浅くかけ、窮屈そうに膝を折り曲げて、腕をその上で組み、下を向いている。黒い髪をした男だった。顔はよく見えないが、それほど若いとも老けているとも思えなかった。黒いトレーナーに、細身のブルージーンズを履いている。何でこいつはこんなところにいるんだ、慎吾は自分のことは棚に上げ、不思議に思った。少なくとも、定職につかずブラブラと遊び呆けているような人間には見えない。作業服で一心に機械に向かっている姿か、よれたスーツを着込んで四方八方に頭を下げている姿の方が想像しやすい人種だ。世渡りベタで、真面目さゆえに人に疎まれる。だがそう見せかけることで人の同情を誘い被害者を気取る、精神を病んだ人間かもしれない。いずれにせよ、この場にはとても場違いな男だと慎吾には思えた。そうしてしばらく暇潰しに観察していると、男が顔をあげた。こちらを見た。慎吾は男から顔も目も逸らさなかった。どうせ今更だ。それに、何か事が起こるかもしれない。だが男は十数秒慎吾を見たのち、ゆっくりと立ち上がり、そのまま後ろを向くと、奥にある出入口へと歩いていってしまった。慎吾は思わず立ち上がった。そして特に深いことも考えず、男のあとをついていった。
 公園から出た男は右に曲がり、もやのかかった住宅街を真っ直ぐと歩いた。慎吾は公園のベンチとブランコの間にあった距離ほどを空けながら、男の後ろを歩いた。男は振り向かなかった。左右を幸福な家庭を感じさせる一軒屋に挟まれた道を過ぎ、まだ光の灯っていない歓楽街へ入り、細い路地へ侵入し、滑らかに歩く。そして男は、時代を思わせる木造二階建てのアパート、上下それぞれ独立した玄関の部屋が二戸あったが、その一階右側のドアの鍵を開け、ドアノブには手をかけず、ついに後ろを振り向いた。慎吾は距離を詰め、男まであと五歩というところまで近付いていた。男の顔は骨格がはっきりとしており、頬がこけていて全体の作りは鋭かったが、目が大きく前髪が眉までかかっていたため、幼くも見えた。
「何か用か」
 顔に似合わず、声は低く暗く、潰れそうにかすれていた。いや、と慎吾は首を振った。用などない。あるわけがない。この先一ヶ月、何の予定も入っていない。
 男は不審な色を隠さず慎吾を見、慎重に口を開いた。
「なら、何で俺のあとをつけてくる」
「用がねえからだよ」
「何?」
 男は大仰に太い眉を潜め、口をゆがめた。慎吾は正直に言った。
「暇潰しだ。どうせ他にやることもねえ」
「何言ってんだ、お前」
「聞かれたことに答えてんだよ」
「暇潰しだって?」
「ああ」
「だからって何で、俺なんだ」
「別に犬でも猫でも猿でも良かったんだが、あの時はあそこにあんたしかいなかった」
 男はますます顔をしかめた。慎吾は奇妙さを覚えた。本当のことを話しているのに、まるで嘘のように聞こえる。いっそ街の害虫駆除係とでも名乗った方が現実味があったかもしれない。百戦錬磨の殺し屋、狙った獲物は逃がさない。あるいは同性愛者で、丁度男が好みだったので接触を図ってみた。または神への信仰を誘うつもりだった。あなたも我らが偉大なる神の偉大さを知れば我らが神を崇めずにはいられないでしょう、神は重い心臓病を患っていた幼女をその奇跡でお救いになられたのです……。
「金目当てなら、他を当たれ。見て分かるだろ」
 男の言葉に慎吾の思考はさえぎられた。金?
「金が欲しいなら、もっと賢いやり方するぜ」
「うちには何もない」
「見て分かる」
 男はしばらく慎吾の顔をうさんくさそうに見ていたが、解せないように溜め息を吐き、ドアノブを掴み、回してドアを開けた。しかし中に入りかけて、唐突に慎吾に顔を戻し男は言った。
「好きにしてくれ」

 玄関を上がるとすぐトイレ、続いてキッチン、奥に六畳半ほどの間があったが、そこには低い天井ギリギリの高さがある本棚が一つと文机が一つ、小さな折り畳み机が一つとゴミ箱があるのみだった。通る際に見たキッチンには冷蔵庫とある程度の調理器具と食器が見えた。木の床は踏み込むとギシリとたわみ、畳は固く、ところどころでふやけていた。男は部屋に入ると自然な動作でトレーナーとジーンズを脱ぎ、トランクス一枚になって、窓際に置かれた文机の前に座り、何やら書き始めたらしく、鉛筆が紙を滑る音が聞こえた。男の背中が影となって何をやっているか正確には見て取れなかった。慎吾は立ったままで折り畳み机の上に置かれていた煙草の箱を手に取り、一本取り出して、同じく机に置かれていたジッポライターで火を点けた。男は慎吾の存在など気にもしないように机に向かっている。慎吾が煙草を一本吸い終わったところで注目されることはなかった。
「何書いてんだ」
 やはり立ったまま慎吾が聞くと、男は手を止めず、字だ、と言った。まあ大抵は字か絵だよな、と思いながら、慎吾はその場に座り込み、字かよ、と言った。字だ、と男は繰り返した。慎吾は折り畳み机の横まで這い寄って、煙草をもう一本拝借した。
「日記でもつけてんのか?」
 聞くと、そんなんじゃねえよ、と手を止めずに男は言った。
「書かなきゃならねえんだ。書かなきゃならないことがある。そうしなけりゃ、頭がおかしくなっちまう」
 男の声は深刻だった。まあそういうこともあるのかもしれない、と灰皿を手元に寄せながら慎吾は思った。字を書かなければ気が狂う。そんな病気があってもおかしくはない。
「面倒そうだな」
「先が見えねえよ。終わりがない」
「そりゃ大変だ」
「散々だ。仕事も辞めちまった。車も乗れねえ。金だけがなくなっていく」
「貢いでやろうか」
 男は手を止め、振り向いてきた。慎吾は挑発的に笑いながら言った。
「一月五万くらいな」
「義理がねえよ」
「日当にするか。俺を楽しませてくれたなら一日につき五千やる」
「人をなめてんのか、お前」
「舐めてもいいぜ」
 男は意味を解せぬように慎吾を見た。慎吾は笑いを引っ込め、男を意識から遠ざけ、煙草を吸うことに集中した。冗談が過ぎたと後悔した。いくら何でもこの男を舐めたくはない。しばらく男は慎吾を観察していたが、やがて何の反応もないと見て取ると、興味を失したように机に戻った。再び鉛筆が紙を擦る音が、それと、雨が地面を打つ音が室内に響いた。よく反響していた。本気にするなよ、と慎吾は思った。そこまで俺は変態じゃない。思いながら、慎吾は流しと居間を分かつ引き戸に寄りかかり、目の前にある男の背中をじっと見た。白い肌に背骨が浮いている。特に傷もしみもない肌をしている。特徴を述べろと言われると困る背中だった。いくら見たところで何も見つかりそうもなかった。自分が変態になることもできそうにはなかった。しかし慎吾はただ見ていた。他に見るべきものもなかったし、他にやるべきこともなかったからだ。
 時計がなかったため、どれほど男の背中を見ていたのかは分からなかった。そのうち慎吾は目が重くなったのを感じた。そして目をつむると、すぐに意識が切れた。

 夢は見なかった。目を開けると、周囲が橙色に染まっていた。伏せていた机から頭をあげる。目の前のベランダに通じる窓から、奥にあるビルとビルとの狭間を通り、夕日が差し込んでいた。雨はあがったらしい。二時間ほど寝ただろうか。目をこすりあくびをし、背伸びをして部屋を眺め、誰もいないことに気が付いた。寝ていた机の上を見ると、一部ではバランスが良く全体ではバランスが狂っている字で、
『鍵は郵便受けに』
 と書かれているメモと、その紙の上に水色のビニールの紐の輪がつけられた鍵が置いてあった。眠りにつく前の記憶では引き戸に寄りかかっていたはずだが、目覚めた時には折り畳み机に突っ伏していた。このメモを見せるために男に運ばれたのかもしれない。しかし記憶はないから分からない。念のため自分の体を確認してみたが、服や持ち物を荒らされている様子もなかった。その気なら鍵なんて置いてかねえってな、慎吾は首を回し、立ち上がった。狭い部屋を見回し、文机へ歩み寄り、そこにある大学ノートを手に取った。一ページ目からびっしりと文字が書き込まれている。ぱらぱらとめくり、中ほどの数行を読んでみた。
『彼のそのコンプレックスは根深いもので、それは彼の存在意義となっていた。それを除いてしまえば彼は彼ではなくなってしまう。それでも彼は彼自身を得ることを望んでいた。彼にとってはそれが勝利だった。大勢の大人に寄ってたかって打ち捨てられた子供のころの自分がやっとつかめる勝利だった』
 彼って誰だよ、と呟き、慎吾はノートを机に戻した。哲学に興味はない。次に押入れを開けてみたが、むっとした匂いのする布団と洋服が数枚あるだけだった。金は確かにないらしい。あるいは持ち歩いているのか。慎吾は机の上になおも置いてあった煙草の箱をくすね鍵を取り、部屋から出た。ドアを閉めて鍵を掛け、郵便受けの中に落とす。去り際、家全体を眺めていたが、どこにも表札はなかった。

 その店の主はスキンヘッドだった。二十代前半で額の後退が激しくなったため、それ以来毛を沿っているという話だったが、ともかく岩石のような顔にチョビヒゲ、スキンヘッドの店長は、客寄せにはならなかった。それでもこじんまりとした、場末のキャバクラのような、そして一軒飲み屋のようなバーには、利益があがるほどには客が入った。
「そういえばお前、あいつの話、知ってるか」
 常連の多くは社会から逸脱した若者で、大盤振る舞いをする人間と貧乏性の人間が半々という割合だった。慎吾はその中間にある。しみったれた真似もしないが、豪勢にもしない。しかし今、店のカウンターで並んで座っている不透明な話を振ってきた男は、コップに注いだビールの最後の一滴まで逃さない方に属していた。
「あいつ?」
「ほら、あ、えーと誰だっけ、名前忘れたけど、あのあれあろ、微妙な奴だよ」
 舌をもつれさせながら男は言った。ああ、と慎吾は合点した。
「岩城か」
「あ、そうだそうだ、そいつだそいつ」
「知らねえな、あいつの話なんて。最近会ってねえし。パクられでもしたか」
「いや、何つーか、そこまでいくようなことは、してないんだよな」
 微妙だな、と慎吾が呟くと、不精ひげを生やした締まりのない顔を苦笑いに変えて、微妙なんだよ、と男は言った。この男は慎吾の高校時代の同級生だった。とかされていない黒髪、剃り忘れたとしか思われないひげ、張りのない皮膚、よれよれのポロシャツによれよれのジーンズによれよれのスニーカー。高校当時はクラスの中でも爽やかな男として通っていたものだが、今ではその様相はみすぼらしいの一言だった。これで車の話を脇目も振らずされてはどんな女でも引くだろう。実家暮らしで稼いだ金のほとんどを車に費やしていると知られれば尚更に違いない。悪い男ではないと慎吾は思う。少なくとも慎吾の知人の中では最も常識と優しさがあり、会話に毒はなく、一ヶ月に一度の周期で会う分には気楽な相手だった。ただ一週間に一度となるとうんざりするような相手だった。その自覚があれば、完全なる童貞から脱出できるだろうに。
「決闘するんだってよ」
 慎吾はそんなことを考えつつ塩辛い枝豆をほおばっていたのだが、いきなり耳に入った単語には驚かざるを得なかった。決闘? 男はコップに口をつけてから、俺も聞いた話なんだけどよ、と予防線を張ってから言った。
「西高のガキどもとな、四対四だったか。確か明日あたりだよ、うん」
 慎吾は驚き、枝豆を飲み込んだ。話にのぼった岩城という男と、慎吾は街の小さな小学校で六年間をともに過ごしている。中学高校とは別だったが、今でも会えばごく自然に互いの近況を語り合っていた。気心が知れていた。岩城は背は平均的だが筋肉が厚く、単純で短気な男で、顔つきも目つきも悪かったため頻繁に喧嘩を売られ、その度に律儀に買って、そして半分は勝ち半分は負けていた。そのような微妙な実力の持ち主で、更に不良の図体をしていたにも関わらず、学校の授業はほとんどサボっていなかったという事実から、街の同世代の人間には大概名が知れていた。そして常に、「あの微妙な奴」と形容されることは避けられなかった。直接岩城と関わりを持たない人間でも、例えば隣で顔を赤らめている男のように、ついついそう言ってしまうような武勇伝が岩城には数多かったのだ。ただし年下相手に決闘したという話は、過去から今まで一度も出たことはない。
 慎吾はビールで口をゆすいでから、男に話の詳細を聞いた。岩城には現在中学生の弟がいるのだが、その弟が買ったばかりのバイクを盗まれ、その上暴行を加えられたため、岩城は躍起になって犯人を探し、その高校に通うあるグループの仕業と突き止めた。だがバイクは既に売り払われており、そこでケジメをつけるため、決闘をするという話が持ち上がったということだった。
「勝ったらな、西高の奴らがバイクの代金を払って、負けたらバイク盗んだことはオトガメナシ、とか何かそういうことみたいな、らしいな、うん」
 段々とうつろになってきている目を天井に向けながら男が言った。よくやるなあいつも、と慎吾はしみじみ言った。昔から悪行を重ねるくせに妙な部分で正義感の強い奴だったが、なるほど、家族思いが基本らしい。ここまでくれば勲章ものだろう。何せ高校生のガキ相手に決闘だ。
「まあ、分からなくもないけどな。っつっても俺は一人っ子だけど、仲良い後輩とかがそんな目遭っちまったら、何かしてやりてえと思うよ」
 男は言って、うんうんと自分で納得するように上下に大きく首を振った。慎吾は小さく溜め息を吐いた。
「だからって、しゃしゃり出たって仕方ねえだろ」
「そうかな、でもそれこそ仕方ないって時もあるような……あれ、お前一人っ子だっけ?」
 いや、とだけ慎吾は返した。ふうん、と男は頷き、まあいくら考えたってそんな機会俺にはねえけどなあ、とカウンターに突っ伏した。俺は昔そうされた、と慎吾は思った。嫌な記憶だ。小学生の視野など針の穴ほどに狭く細いが、その分細かいことほどよく覚えている。
「ああ、金欲しいなあ」
 突っ伏したまま、唐突に男が唸った。慎吾はコップのビールを飲み、金ね、とだけ呟いた。どいつもこいつも金、金、金だ。うんざりする。
「タイヤ欲しいんだけど、ガス代で吹っ飛んじまった。働いても働いても増えてかない。働かないと減ってく。ひでえ話しだ、思わないか」
「そんなに面白いかよ」
 慎吾はつい言って、自分の声に混ざった刺々しさに顔をしかめた。だが男は気にした風もなく、何が、と聞いてきた。慎吾は男をちらりと見てから、カウンターにいるマスターのスキンヘッドを眺めて言った。
「車だよ」
 うん? と男はのそりと身を起こすと、素早い動きで真っ赤な顔をずいっと出し、「当然!」と酒くさい息を勢いよく吹きかけてきた。
「面白いなんてもんじゃねえよ、何ていうか、まあ面白いんだけどな、好きなんだよ。手をかけるとかけた分だけ違いが出てくる。反応がくる。少しでも操作を間違えると、すぐ挙動に出る。そう、反応が凄いんだよ。こう、乗ってるとな、俺のやることなすことが全部ダイレクトに伝わるんだよな。そういうのって、すげえぜ、特に狙ったコース通りに滑らせた時なんかもう……鳥肌ものだ。あれはバイクじゃ味わえないんだよ。やっぱ四輪じゃないと。男はやっぱドリフトだぜえ、なあ」
 男はカウンターに身を戻すと、恍惚と笑った。幸せな奴だと慎吾は思った。将来性のない童貞だが、少なくとも自分よりは幸せだろう。何かに熱中できることは、それだけで一つの特技だ。それも自分の意思で。
「俺もやってみるかな」
 ぼそりと慎吾は呟き、自分の発言の突飛さにまた顔をしかめた。だがやはり男は気にした風もなく、何を、と聞いてきた。慎吾は半分皿に残っている枝豆から豆を皿の端に出しつつ言った。
「車だよ」
「え? マジか」
 ああ、と慎吾は頷いた。機械自体に興味は持たなかったが、実利的な目的で高校を卒業する前に免許は取ってあるし、家族から送迎役をおおせつかっているため、腕もそれほど鈍っていない。姉の夫である義理の兄が車を買い換えると言っており、少しの金を払えば今乗っている車も簡単に手に入るだろう。
「そうか!」、男は突然叫び身を乗り出して、今度は車の良さを語り出したが、慎吾はそれを八割程度聞き流した。酔っ払いは同じことを何回も繰り返して言うものだ。どうせ長続きはしないだろうが、金を費やすならばそれなりの結果を出さなけりゃならない、出した枝豆十数粒を一気に口に含みながら、慎吾は思った。

 店に入ったのが午後九時、出たのが午後十一時だった。酔いつぶれかけた男をタクシーに押し込み、なおも繁華街をぶらついていると、知り合いと遭遇した。軽く会話し、その後その知り合いの家で徹夜で麻雀をし、五千円負けた。家に帰る頃には朝日がきらめき、スズメが鳴いていた。
 朝には見慣れない玄関を通りリビングに入ると、キッチンのテーブルを囲んで、父親と姉二人と義理の兄が朝食を取っていた。部屋の時計を見ると午前七時二十八分だった。母親は既に仕事に行っている。
「あらあんた、朝帰りなんていいご身分ね。飯はないわよ」
 丁度こちらに顔を向けて座っていた、原色のワンピースを着、染めた厚い髪を後ろで結わいて幅広の顔に濃い化粧を乗せている年長の姉が、焼き鮭を箸でほぐしながら言ってきた。慎吾は食卓に近付きつつ、考えることなく言い返した。
「お前が作ってるわけじゃねえだろ。偉そうに」
「祥子、あなたこんな奴にご飯用意してやんなくていいからね。放っときなさい」
 椅子から立ち上がろうとしたエプロン姿の姉を、厚化粧の姉が制した。エプロン姿の姉は表情の豊かな素顔で厚化粧に笑いかけ、慎吾に声をかけてきた。
「ってアヤねえは言ってるけど、おかずとか余ってるんだよね。慎ちゃん、食べる?」
「いや、後で自分で適当に何か食うわ」
 答え、慎吾は食卓の横を通りかけて、そうだ隆二さん、とエプロン姿の姉の横に座っていた義兄を呼んだ。既にワイシャツとネクタイを身につけている義兄は、黒々とした髪を後ろに綺麗に撫で付けているため丸見えとなっている額にしわを寄せ、おお、と驚いたように言った。
「おはよう慎ちゃん、久しぶりだな」
「ああ、久しぶり」
「で、何だ。人生相談か」
「まあ似たようなもんで。新しい車買うんだろ?」
 ああ、と義兄は薄い顔を得心に染め、頷いた。
「そのつもりだよ。色々考えたんだけど、ほら、綾子さんのは軽だし親父さんのはセダンだろ。それで俺のは3ドアだし、一台くらいミニバンあった方が使い勝手いいんじゃないかとな」
「そうか。そんで、今乗ってるヤツはどうすんの」
「あー、それがな、下取り出すにしたって改造しすぎて二束三文だろうからなあ。ショウちゃんに乗ってもらうにもカタすぎてるし、そこが悩みどころなんだよ」
「だったらそれ、俺に売ってくんねえ?」
 その場にいる一家全員、慎吾を注視した。慎吾はとりあえず全員を見返した。沈黙を最初に破ったのは、厚化粧の姉だった。
「何あんた、彼女できたの?」
「できてねえよ。できてもお前にゃ言わねえよ」
「っていうかあんた、沙雪ちゃんとどうなってんの」
 慎吾は姉の濃い顔を一際鋭く睨み、どうもなってねえよ、と言って冷蔵庫に向かった。どうにもなるわけがない。
「あの子はねえ、いい子よ。あたしがお墨付きをあげるわ。だからあんたあの子と結婚しときなさい。ちゃんと手に職つけてさ」
 冷蔵庫からコーラを取り出し、プルタブをあける。そして慎吾は溜め息を吐き、あのな、と漬物をかじっている姉に向かって言った。
「あいつは三股半年キープしてバレずに全員と別れた女だぜ。そんな女のどこがいいコだ」
「ん、いいじゃない、頭も回るし可愛いってこと、っていうか食べてる時に話かけないでよ」
「とにかく、俺は土下座されて頼まれたってお断りだ」
 言ってコーラを喉に入れた。そしてむせた。厚化粧の姉は笑い、エプロン姿の姉は心配し、義兄は笑いながら心配し、父は黙って白米を頬張っていた。気に触る家族だ、慎吾は思った。人の嫌がることばかりする。あの女のことだけは出してもらいたくはないのだ。こちらが望んだわけでもないのに与えられた幼なじみという環境のおかげ、あの女の彼氏に因縁をつけられたことは片手では数えられなかった。一緒にいたというだけで自称彼氏に喧嘩を吹っかけられたことは両手両足でも数えられなかった。一度はナイフで刺されかけた。
 しかし、とみそ汁を飲み干した義兄が話を戻した。
「車欲しいんなら慎ちゃん、新車買ったらどうだ。俺で良ければ金は貸すぜ」
 金、と慎吾は再びうんざりしたが、顔には出さず、別に、と言った。
「新車買ってどうこうしたいってわけでもねえんだよ。それにあの車、いい車だろ、多分」
 お、分かるか、と目を輝かせた義兄に、まあ見た感じだけど、と返す。コンパクトであるのに伸びやかなボディのフォルムは、見ていて嫌なものではない。何事もシンプルさが一番だ。
「いいね、分かってるよ慎ちゃん。ホントにいいんだよあれは。昔のもそうだけど今のはデザインもいいのに、室内も案外広い。発進加速はいいし、燃費もいい。それにどの道でも普通以上に走れるんだよ。あれ最初に乗っちまったら、運転下手になるんじゃないかってくらいだな。でもあれ、俺がショウちゃんと結婚する前から乗ってたもんだからな、かなりいじられちまってんだよなあ。見て分かるだろ」
 ああ、と慎吾は生返事をした。実のところあまりじっくり見たことがないため、普通の車とどこが違うのかも思い出せない。だが義兄がそう主張するからにはそうなのだろう。
「だからさ、慎ちゃんも自分の車は自分で買った方がいいと思うぜ。あれは俺の癖もついてるだろうし、パーツ全部取っ払っちまったら一台買うのと大して変わりないだろうしな」
 早口に語る義兄を見て、慎吾はふと疑問に思った。
「隆二さん、もしかしてあれ、走り屋だかとかやってたのか」
 聞くと、義兄は困ったような、だが面白そうな笑顔を浮かべた。
「やってたよ。ここ数年はそれほど傾倒してもいなかったし、去年でもう辞めたけどな」
「楽しかったか」
「楽しくないとやってないさ」
 そうそう、とエプロン姿の姉がほがらかに笑って続けた。
「すんごい楽しそうなんだから、リュウくんが走ってる時」
「あ? 姉貴、知ってたのか」
 慎吾が訝ると、姉と義兄は顔を見合わせた。そして示し合わせたように笑い、義兄が言った。
「知ってるも何も、ショウちゃんと俺、それで知り合ったんだからさ」
「走り屋か」
「十年選手だよ。俺が二十二で、ショウちゃんまだ十七。で、綾子さんはハタチだった」
 そうそう、と厚化粧の姉が、興味もなさそうに続けた。
「あたしのその頃付き合ってた彼がそれやっててね、走り屋? まあ仕事にしてるわけでもないのに何で走り屋よ、ってあたしは思ってたんだけどさ。結局別れたし。でまあ、それでその頃、ショウちゃんが走り屋ってのが見たいって言い出すもんだからさ、まあああいう人種見とけば変な男に引っ掛からなくていいだろうしと思ってね、あたしも彼に頼んで、集会所みたいなところに連れてってあげたのよ」
 そしたらこの人に引っ掛かっちゃったわけ、と姉は濃く描かれた眉を潜めた。いやははは、と義兄は照れくさそうに笑った。だから俺は綾子さんに頭上がんなくってなあ。へえ、と慎吾はただ感心した。姉と義兄の馴れ初めに興味はなかったが、これほど身近に走り屋というものに縁の深い人間がいることには驚いた。案外世界は狭いものだ。もしかしたら義兄はガソリンスタンドの男を知っているのかもしれない。あれも確か走り屋と名乗っていた。
 と、慎吾がコーラを飲み干し、三人が歓談しているところ、カタン、と箸を置く音がし、続いて椅子を引く音がし、四人はそちらを揃って向いた。見ると、まだパジャマを着ている父親が立ち上がったところだった。その場にいる家族全員に目を向けられた父親は、特に驚いた様子もなく、低く通る声で、ただしみじみと言った。
「父さん、その話は、知らなかったな」
 そして父は、飄々と奥の部屋へ着替えをしに行った。その場の誰も何の言葉も発しなかった。俺のせいじゃねえぞ、と思いながら、慎吾は気まずい沈黙の流れる食卓をそっと抜け出した。



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