レイジー・ボーイ 3…警察だけは勘弁してください
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 ぱちぱちと小石をはね上げながら、岩城のランサーエボリューションが走る。路面状態は悪い。国道を抜けた先、一車線となった道路の脇に入るとわだちの部分のみ土が見えている山道だ。夜間、ライトなしでは漆黒の闇があたりを塗り潰すこの森に足を踏み入れるのは、この山に住んでいる人間か自殺志願者かよほどの物好きなものだろう。
「お年玉、貯めてたんだよ」
 俺も物好きだよな、と慎吾が自分で思いながら揺れる車体に身を預けていると、岩城が唐突に、ぼそりと発音悪くそう言ったので、慎吾は驚きを隠さず言い返した。
「お前、その年でまだお年玉貰ってんのか。うらやましいご身分だな」
「俺じゃねえよ、弟だよバカ。あいつがお年玉貯めて、それでバイク買うのを楽しみにしてたんだ」
 ぐわんぐわんとエンジンを唸らせ車は坂道をのぼる。車酔いと酒酔いの両方をわずかに感じながら、なるほどね、と慎吾は目をつむって頷いた。想像はできる。バイクや車に憧れる少年の心。夢と現実の距離を埋める努力。それがすべて、葬られた。
「俺の知り合いの知り合いが、新しいの買うっつーからよ、手ェ回して古いのを譲ってもらったんだ。あいつは喜んでたよ。でも乗りはしなかった。免許ねえからってな。そういうヤツだったんだ」
「それが、何でまたギられたんだ」
「乗りはしなかったが、学校のダチにせがまれて押しながら見せに行ったんだとよ。そこで絡まれて、タコ殴りにされた。その上バイクも奪われた。それを非難できる性格じゃあねえんだ。だから俺がでしゃばった」
「同じ兄弟でも、随分できが違ったな」
「まったくだぜ。そういうことは、俺が担当することだってのに」
 岩城が憎々しげに言ったところで、車が停止した。土と草が半々に見える、広まった場所だ。ヘッドライトを消してエンジンを止めると、月明かりのみが頼りだった。慎吾は首に浮いた汗を右手で拭った。喉にこみ上げてくるものがある。比喩ではない。慎吾は唾を飲み込んだ。逆流しようとしたものが胃に戻っていく。あまり活発に動きたくはない。どうせ横の岩石が負けたところでそれは本人の自尊心の問題だ。俺は終わるまで寝てりゃいい。
 生ぬるい車内に広がる体臭が、呼吸する度に胃を攻撃する。「しかし」、と慎吾は不快感を気にしないようにするために、一旦閉じた口を開いた。
「マジで来んのかよ、今時のガキが決闘なんて古くせえ」
「持ちかけてきたのは向こうだぜ。細けえこと言うならサシで決着つけてやるってな。偉そうに」
「それでお前は乗ったってか」
「そこまで言われて引けるかよ」
「もっと穏便なやり方があったろうに」
「おめえなら土下座でもして取り返すってか」
「後ろから襲うんだよ、隙を狙ってな」
 当然のごとく慎吾が言うと、岩城が笑った気配がした。
「やっぱてめえは変わんねえ。相変わらず、卑怯な野郎だ」
 岩城の声音はどこか嬉しそうだった。俺が正々堂々としてたらいけねえってか、と慎吾は思ったが、実際正々堂々を気取ることは滅多にないので言わずにおいた。卑怯で結構。善人ぶるつもりもない。
 会話が途切れた時、ぶおん、ぶおん、と住宅街で耳にすれば警察に即通報するほどの騒音が近付いてきた。慎吾は岩城を見た。岩城は一つ息を吐き、車のドアを開けた。その体が車外へ出るのを、慎吾は何も言わずに見送った。これからは、あの男のみの時間だ。
 何とはなしにブツが入っているショルダーバッグを腹に抱えながら、慎吾はフロントガラスの向こうに目を凝らした。鼓膜に痛い排気音がやってくる。暗闇を裂く光が目を突き刺し、そしてあたりを照らした。バイクは三台、どれも赤やら青やら黄色やらと下品に色濃く、うち一台は二人乗りだ。蛇行しながら停車し、各々が土と石と草の混じった地面に降り立つ。
 自転車じみたバイクに乗っていた三人は岩城と似たような身長だったが、SF漫画に出てきそうなどこが何の部位なのか分からないバイクに乗っていた一人は、他の三人より背が頭一つ分高く、そして一際目に付く存在だった。何せフルフェイスのヘルメットにライダースーツにライダーグローブにライダーブーツと、夏場だというのに極めているのだ。これがまたスーツは黒がベースになっているながらも胸やら膝やらに赤が切り込んでいるために、見ているだけで暑くなってくる。しかし強盗に行くには打ってつけの格好だから、あのライダーマンが清次とやるんだろう、と慎吾は思った。他の三人はよく見れば手に手に鉄パイプを持っていたが――街からここに来るまでそれを引きずって来たのだとしたら、なかなかの暴走野郎どもだ――、その一人だけは丸腰だ。岩城は一対一でやると言っていた。その上で鉄パイプ持参ならば、よほどの鉄パイプ愛好家か元々それで道路を傷つけるのが趣味であるか、岩城が負けた場合に喧嘩を売られた腹いせを晴らそうとしているかだろう。これはもしかしたら、事と次第によっては出なければならないかもしれない。頼むから面倒なことはしないでくれよ、慎吾はあまり期待はせずに祈りながら、行く末を助手席から見守った。
 鉄パイプを持った三人は、対峙している岩城とフルフェイスヘルメットのライダーを遠巻きにした。岩城が何事か口上を述べ、フルフェイスが顎らしき部分をしゃくった。ドラマであればこいつが主人公か主人公のライバル役で、上下ジャージの地味顔岩城は出演時間二分程度の脇役だろう。だがこれは現実だ。いくら目を引く上に防御性と攻撃性の高い格好をしているからといって、一見路上のチンピラである男に勝つとは限らない。ただし、負けるとも限らない。
 慎吾から見て右に位置する岩城は軽く左手を前に出し半身になった。その岩城の左に位置するフルフェイスは両の手を軽く胸元に上げ、右足を大きく後ろに引き、半身に構えた。じりじりと岩城が体勢を崩さず前に出ていく。フルフェイスは構えたまま動かない。間合いが詰まる。あと一歩踏み出せばフルフェイスの直前、というところで、岩城が動いた。何の引っ掛けもなしに、右の拳をフルフェイスのヘルメットに向かって突き出した。だがフルフェイスには当たらなかった。岩城が腕を突き出すために引いたと同時に、フルフェイスは右足を上げながら、体を右に回転させていた。その後ろ回し蹴りが、腕を突き出した格好の岩城のこめかみに当たった。フルフェイスの足が振り抜かれた方向へ、岩城の体が倒れていった。それを止めるものは何もなかった。
 どさりと音を立ててうつぶせに地面に落ち、そのまま動かない岩城を、フルフェイスは何の感慨も窺えぬ様子で少しの間見下ろすと、何の未練もないようにきびすを返して歩き出した。それと入れ替わるように、鉄パイプを握ったままの三人が岩城ににじり寄っていく。一発かよ何じゃそりゃ、早口に呟き慎吾は慌ててドアを開けて、つんのめりかけながら外へ出た。子供と呼ぶにはずる賢さがつきすぎているそれぞれニキビ跡の陥没が激しい顔の三人は、倒れた岩城の腹を蹴り上げ仰向けにしたところで慎吾を見た。慎吾はたすきがけにしたショルダーバックに右手を入れながら、息を整えて、おい、と三人に声をかけた。
「勝負は決まっただろ、もういいじゃねえか」
「ああ?」、とそのうちの、五年は洗濯に耐えてきたらしきだらだらのTシャツを着た、皮脂でてかっている茶色の長髪の少年が、元々バランスの悪い顔を更にバランス悪くして、聞き取りにくい声を出した。
「何よてめえは、いきなり出てきて何言ってんのよ」
「俺が何かって言えば、まあ、見届け人だ。お前らの勝ちで、こいつの負けってことは、この俺がしっかりと見届けた。だから、もうどうする必要もねえだろう」
 三人はにやにやと笑い出し、てかてか長髪の隣の水色水玉模様のTシャツの袖を肩までまくり上げたスキンヘッドの少年が、鉄パイプの先端で足元の岩城の頭を示しながら、何、と言った。
「あんた、こいつの何だよ。うぜえな」
「別に俺はこいつの何ってわけでもねえが、こいつは俺の食料庫だ。お前らに潰されちゃあ、ちょっとばかし困るんだよ」
「はあ? わけ分かんねえんだけど。頭おかしいんじゃね、おっさんよ」
 水玉模様が苛立った様子でそのまま鉄パイプを振り上げ、先端を岩城の耳すれすれを通して地面に叩きつけた。ガチンと強い音がした。初夏の夜、広がる冷たい空気が慎吾の剥き出しの肌をあわ立て、筋肉は体温を上げにかかった。岩城は起きない。よほどフルフェイスのブーツの踵がイイところに当たったのだろう。こうなったらしばらく寝ていてもらった方が好都合だ。慎吾は表情を動かさないまま、バッグに潜めていた右手をぞんざいに抜き出した。「あ?」、と少年どもが、荒れた肌を歪めた。
「何それ、脅しのつもり? バカじゃねえの」
「脅しじゃねえよ、本気だよ」
 刃渡り36cmのサバイバルナイフの柄をしっかりと握りながら、慎吾はそれを距離を保っている三人に突きつけるようにした。少年どもの動きが一時止まったが、各々何かを確認するように目を合わせると、再びにやにやとし出した。
「おいおい、それ、銃刀法違反だって。捕まんぜ、警察」
「まあな。けど見つからなけりゃ、捕まりもしねえ」
 小ばかにするような笑いを三人は浮かべている。積極的に攻撃的にもならないくせに、安全な場所で他人を嘲るしかしない、卑怯者の風上にも置けない野郎どもだ。これもまた好都合だった。慎吾は手入れの行き届いたナイフを顔の前あたりに掲げながら、少年らに近づいて行った。鉄パイプをぎっちりと片手やら両手で握った三人は、どこかたじろぎ始めた。
「バッカてめえ、そんなんよりこっちの方がリーチ長えに決まってんじゃん。ありえねえって」
「そっちがそれで思い切り俺の脳天に一発食らわすだけで、こっちは頭がかち割られちまうんだぜ。なら切るか刺すかしかねえだろ」
 手に汗を感じながら、それでも動揺を出すことなく慎吾は言い切った。過去の経験が物を言うのだ。内輪での盛り上がりを好む武器所有者には、最も有効な脅しだった。
「マジかよ、あんた頭おかしいわ。マジ分かんねえし」
「そっちがその気なら、こっちだってその気にならねえと、命がかかってる」
 三人はまた何かを確認するように、そろそろと互いを見合った。うちの一人が唐突に頬を痙攣させると、くだんねえ、と呟いた。
「っていうかうぜえし。誰がそこまでやるかっつーの、バカくせえ」
「そういうの、カッコイイとか思ってんの? マジキモイよ、おっさん」
「っつーかもう帰ろうぜ、何かかったりいし」
 口々に分かりやすい言葉を並べると、鉄パイプを引きずりながら少年どもはあっさりと背を向けた。そして履いているスニーカーを引きずりながら、バイクへと戻っていく。慎吾は胸をなでおろした。暴言には腹が立つが、それ以上に大立ち回りはしたくもなかった。
 と、少年らがバイクにまたがったというのに、今度は先ほど背を向けていたはずのフルフェイスが入れ替わるようにこちらに歩いてきていた。慎吾は先を読めず、顔をしかめた。
「何だ、まだ何か用か」
 尋ねるも、フルフェイスは答えず、ただ歩いてくる。慎吾は少年らを見た。三人ともバイクに乗って、不思議そうにこちらを見ている。
「おい、タカハシ、帰っぞ!」
 フルフェイスはその声に歩みを止めた。そして両手をヘルメットにかけ、脱いだ。現れた顔は他の三人と違い、整っていた。いや、整っているなどというものではない。輪郭にも部品の配置にも、歪みがないのだ。立てられていた金髪は多少潰れているがそれでもバランス良く頭皮に存しており、汗の粒が浮いている肌は滑らかで、一重の目は切れ長で瞳は茶色、鼻筋は押しても崩れないそうにないほどに通っていて、唇は見るからに弾力感に満ちている。それが、ゆっくりと開いた。
「お前ら、先に帰ってろよ」
「あ? 何、お前、そいつもやんの?」
「帰れよ。うぜえから。じゃねえとてめえらぶっ殺すぞ」
 はっきりとした声が響いた。フルフェイスの中身は品質こそ格段に違うものの他の三人と似たように少年の面影を残す容貌であり、その声もまた幼さの残る、だが迷いという迷いを一刀両断する力を持つものだった。そしてその目は、やはりバイクにまたがる他の三人を見ることなく、慎吾をただ捉えていた。他の三人の声は消え、バイクのエンジンが働き出す音がしたが、慎吾はこちらを見据えてくるフルフェイスの中身から目を逸らすことができなかった。感情を反映しない目だった。何の躊躇も見当たらない目だった。隙を逃さない鋭さを持つ目だった。今この少年への注意を失えば、瞬時に昏倒させられそうだった。
 登場と同様の耳をつんざく音を残し、二台のバイクは消えていった。慎吾は砂利をかきわける音や草をこする音、エンジンの回転する音と排気音が完全に聞こえなくなってから、眼前の少年に、そっと声をかけた。
「それで、お前は何の用だ」
「それ、本気だろうな」
「あ?」
「こっちが殺す気でかかったら、殺す気でやり返してくるんだろ」
 慎吾は右手に握ったナイフの重さを思い出し、唾を飲み込んだ。慎重に、言葉を選ぶ。
「そりゃあ、俺も自分の命は大切なんでな。別にやりてえこともねえが、まだ死にたくもねえ」
「刃物とか持つ奴ってのは、大抵最後の最後でビビるんだ。チャンスがあるのに刺しもしねえ。こっちがやってもいいっつってんのに」
「けど、俺はお前とやる気はないぜ」
 慎吾は両手を上げながら言った。少年は、揃える必要もないくらいに揃っている眉をわずかに上げたが、すぐ元の位置に戻した。
「そうかよ」
「そうだ。自分からわざわざ危険なところに飛び込むほど、俺は熱血漢じゃねえ」
「そんなことは知らねえよ」
 少年はどうでもいいという風に呟くと、ヘルメットを地面に置いて、左足を前に出し、半身に構えてきた。おい、と慎吾は両手を上げたまま後退り、岩城に視線をやった。
「俺はやらねえっつってんだろ。やめろよ。こいつは負けてんだしよ、もう何することもねえ」
 慎吾が下がった分だけ、少年は前に出てきた。何も言わない上に、表情を少しも動かさない。話が通じない。何なんだよ、慎吾は舌打ちした。これならばあのニキビ面の発酵少年三人組を相手にしていた方がまだマシだった。まだあのガキどもの言うこともやることも理解ができる。だが、このライダースーツを着込んだ少年の言動には、さっぱり共感がわいてこない。何なんだよこいつは、思いながら慎吾は上げた右手でナイフを突き出し、左手で軽く拳を作り、腰を落として構えた。不快感が次から次へと沸いてくる。こめかみはじわりと痛むし、胃は鉛を沈めたように重苦しい。こんな状態で、こんな奴を相手にできるのか? こんな破壊しか目的に取らない奴を。
 いや、できるかできないかではない。しなければならないのだ。やらなければ、おそらく、死に近い境地を見ることになるだろう。慎吾は肩にかけていたバッグを地面に落とし、汗でナイフの柄が落ちぬよう握り直すと、分かったよ、と殺気を漂わせる少年をにらみながら言った。
「来たけりゃ、来い」

 すべて寸前でかわしたつもりだったが、少年のどの攻撃もかすっていった。相手の動きはいつもと変わらずスローモーションのようによく見えるというのに、思う通りに体が動かない。避けようとしても、反応が数秒遅れる。頭がきしみ、胃は重い。余計なことに意識が飛ぶ。そうこうしている間に右のハイキックが飛んできて、左に屈んで避けると同時に倒れかけ、そのまま転がり慌てて起き上がった。布に覆われていない肩と膝を擦りむいたが、休む間もなく少年は間合いを詰め、拳や蹴りを繰り出してくる。慎吾は痛みも気にせず呼吸を荒げながら、間一髪でそれから逃れた。
 このままでは埒が明かないどころか、こちらの体力が早々に尽きてサンドバッグになりにけりだ。仕方なく、慎吾は今までただ握っていたナイフで、少年との間合いを計った。凶器として使うつもりで持ってきたわけではなかった。脅すには何の技術も要らないが、他人を傷つけるには技術が要る。殺さずに傷つけるための技術が要る。集中力と体力が要る。だから、なるべくならばその威光のみで終わらせたかった。だが、いくら逃げ回っても相手が飽きる気配がなければ、やるしかない。
「ようやく出すか」
 少年の声が、顔が、喜悦に染まった。初めて見る感情の表出は、不思議と小さな感動を慎吾の胸中に運んだ。なるほどな。慎吾は馴染ませるようにナイフを三度手首で振りながら思った。こいつも要するに、退屈なわけだ。命まで使わねえと、やってらんねえくらいに。その気持ちは分からないでもなかったが、慎吾は少年の意図に乗ることもできなかった。この緊迫感を、痛みへの恐れと打撃への期待による精神の高揚を喜べる時期は、とうの昔に通り過ぎてしまっている。
 少年は前後に軽くステップを踏んだ。慎吾は次の一瞬に、終結を賭けた。一定に間合いを保つための、唯一の武器と囮を突き出しながら、少年の動きをつぶさに見る。上下にしなる体、足首、目、肩、太もも、攻撃をしかけてくる兆候を見逃さないために、次々に目をやる。呼吸する度に汗がどっと噴き出してくる。そして時が訪れた。少年は、後ろにステップを踏むと、そのままナイフを持った慎吾の右手へ、左足を飛ばした。ブーツの甲と手首が触れるか触れないかというところで、慎吾は右手を引いた。その反動を利用し、右足から懐へ飛び込んで、今度は右手を突き出した。少年の長い左足が地面に降りるのと、慎吾のナイフの切っ先がスーツに包まれた少年の喉元にあてがわれるのは同時だった。だが少年はその時既に、左腕を振りかぶっていた。慎吾は少年の懐に入り込んでしまっており、もし先に隙を見せれば少年の左拳が頭上へ見舞われることは明らかだった。少年が唾を飲んだ。その拍子に喉が動き、ナイフがライダースーツを突き破った。周辺の黒い素材が、少し光った。
 このままナイフを振り下ろせば、喉から腹にかけてを、防護服の奥にある皮膚まで切れるだろう。多少の動揺を与えられるし、致命傷にはならない。やるべきか、慎吾は少年の顔をにらみ上げながら、考えた。そこまでするべきなのか。だが、すぐに考えは固まった。見開かれた少年の目は、揺れることがなかった。もう、覚悟を決めている。切られることを待っているのだ。慎吾は唇の端を自然、上げていた。やってやろうじゃねえか、柄を握る手に力を込めた。
 そうして突如、光の洪水が訪れた。

 ふと気付けば、砂利をはねる音と土をかきあげる音、そして湿ったエンジン音が木々の梢を震わせていた。慎吾は反射的に光の源へ目をやったが、すぐに危険性に気付き、少年に意識を戻した。だが少年もまた、光へと顔をむけていた。陰影がくっきりと浮かぶその顔はやはり整っている。慎吾は注意を少年に払ったまま、一定になったエンジン音が上がる場所へと再度、目を向けた。黒いワゴン車がこちらを照らしたまま停車している。その助手席側のドアが開くのを見て、ただちに慎吾は少年の喉下からナイフ外すと体の左側の地面に投げ捨て、少ない動きで少年との適切な間合いを取り戻しつつ背後へと蹴って、助手席から一人の男が地に降り立つ前に、結果的に岩城のランサーエボリューションの車体の下に滑り込ませた。少年もまた、フルフェイスのヘルメットを地面から取り上げていた
 その男は長身で、黒い革靴にベージュのチノパンを履き、青い半袖のカッターシャツを着ており、その肩の上にある顔は、これまた整っていた。慎吾は一日のうちに底辺と頂点を見たような思いだった。先に帰っていった三人の服装の不衛生さとだらしなさに比べ、この男のそれは毎日洗濯とアイロンがけをされている清潔さが見て取れ、髪もクシで梳かれており、不快さが出ない程度に流行的に形付けられている。雲泥の差とはこのことだ。
 男はこちらに歩いてきた。それとともに、ヘルメットを小脇に抱えた少年が男へと歩いて行った。まるで演劇だった。何の欠陥もない男たちが、何の無駄もない動きでもって、互いに近づいていく。何が起こるのか、慎吾は今になって肉体的、精神的な疲労を自覚してしまったため、それを予想することはやめた。なるようになれだ。
 ぼんやり眺めていると、男たちは向かい合って立ち止まり、見詰め合った。明確な予想はしていなかったが、何かの言葉の応酬はあるだろうと思っていたため、いきなり少年が男を右の拳で殴りつけたのを見て、慎吾は驚きのあまり、「あッ」、と声を上げていた。男は少年に殴られた勢いで地面に尻餅をついた。その男を、岩城にそうした時とは違い憤懣露わにした様子でつかの間見下ろした少年は、歩幅を大きく取って男を素通りし、近未来的なデザインのバイクにまたがった。そしてヘルメットを被り、慎吾へと顔を向け、数秒睨んでからシールドを下ろして、素早くエンジンをかけて転回し、あっという間に暗闇へと消えていった。
 殴られた男は既に立ち上がっており、少年のバイクを見送ると、慎吾に歩み寄ってきた。頬が少々赤く腫れているが、それも味になる容姿だった。だが同性からは憧憬よりも、妬み嫉みを持たれるタイプだろう。何せいかにもな、美形だ。
「迷惑をかけたな」
 男が言った。見かけによらず重厚な声だったが、若さも感じられた。その作り物めいた精緻さを持つ顔をよく見てみれば、それほど年かさであるという印象もない。年下かこりゃ、思いながら慎吾は、いや、と首を振った。少年との格闘のためそこらを擦りむきもしたし息は苦しいが、まだこの男から謝られる理由はない。男は頷き、少し首を傾げた。
「君が、岩城清次か?」
 ああ、いや、と慎吾はまた首を振り、まだ仰向けに倒れている岩城を左の親指で指しながら言った。
「ちげえよ、それはこれだ。俺はこいつの、まあ――」
 そこで慎吾は、限界を知った。ちょっと待て、男に片手を挙げて背を向けて、草むらへとそろそろと歩いた。喉が圧迫されている。一本の木に手を付くと、そのまま身をかがめ、嘔吐した。ぼたぼたっと消化物が草の上に広がり、すえた匂いが広がる。それに更に吐き気を催し、出すものがなくなってもえずいていた。ようやく内臓の収縮が治まり、唾を吐いて、唇の周囲を腕で拭い、男のもとに戻った。
「わりいな、酒酔いに車酔いが重なった。いつもなら、何てこたあねえんだが」
「大丈夫か」
「出しちまったら終わりだよ。匂いは、まあ、多めに見てくれ」
 男は頷き、ところで、といつの間にやら左手に持っていた封筒を差し出してきた。
「すまないが、彼が目を覚ましたら、これを渡しておいてくれないか」
 とりあえず受け取りつつ、何だ、と慎吾が尋ねると、とりあえず百万ある、と男は事もなげに答えた。
「彼の弟のバイクはうちにあるから、取りに来る時は連絡してくれ。連絡先はその中に入っている。金が足りない場合も言ってくれて構わない」
 頷きかけ、あ? と慎吾は疑念で声を裏返した。
「バイクって、あんた、売られたんじゃねえのかよ」
「買い戻してある」
「ならこの金は何だ。そもそもあんた、何者だ」
 問うと、男は考えるような間を置き、広場の入り口へと顔をやった。
「あいつは俺の弟でな。傍から見れば救いようはなく思えるだろうが、俺たち家族は望みを捨てられないんだ」
 男はとうに消え去ったバイクの姿を探しているかのようだった。なるほど、確かに男と少年の顔のレベルはよく似ている。DNAは残酷だ、思いながら慎吾は、まあ家族ってのはそういうもんだな、と言った。そう簡単には諦められないし、過去を切り離すこともできない。しち面倒な腐れ縁だ。だが、それを人は絆と呼ぶのかもしれない。
 ともかく、これは渡りに船だった。この男は醜聞を恐れてか、はたまた真にあのデストロイヤー顔負けの弟の将来を心配してか、どちらかは知れないが、つまりこの金で片を付けろと言っているわけだ。口止め料と治療費としては、慎吾にとって百万は十分な額だった。こちらとしても国家権力に監視される生活は御免である。多少法に触れることもやってこなかったわけではないが、今まで留置場で一夜を過ごすまでの失態を犯したことはないのだ。であれば、この封筒をありがたく頂戴する以外に、どんな最良な手段があるだろうか。この際踵一発で昇天した岩城なんぞはどうでもいい。慎吾は男を見て、頷いた。
「分かった、そういうことなら渡しておくよ」
「ありがとう。治療が必要な際にも、連絡をくれ」
「こいつは医者が嫌いなんだよ。だからそこまではしてもらわなくたっていい」
 律儀に言ってきた男に、慎吾は意地悪く笑いながら返した。注射が嫌いで薬も嫌いな奴だ。看護婦は好きかもしれない。大体が、こめかみに一撃を食らっただけだというのに、道で滑って転んで頭を打って気を失ったから念のため診察してください、とわざわざ医者に言うのも、意地が承知しないだろう。
 男は均等に口角を上げると、落ち着いた声で、安心してくれ、と言った。
「うちの父が、医者なんだよ」
 慎吾は中途半端な笑顔のまま固まった。ああ、そう、何とか呟くと、こちらは非の打ち所のない微笑を送り、ではよろしくお願いする、と頭を下げ、男は姿勢正しい歩き方で、ワゴン車へと戻っていった。
 そののちワゴン車も去り、岩城のランサーエボリューションのみが残った広場に少しばかり立ち尽くした慎吾は、まあそういうもんだよな、と誰にともなく呟いた。



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