レイジー・ボーイ 2…足りない信用、溢れる厄介
風呂場に避難しシャワーを浴び、脱いだ服をそのまま着てリビングに戻ると、エプロンをつけた姉が一人、台所で食器を洗っているのみだった。糾弾会が開かれる危機は去った。慎吾は素足でぺたぺたとフローリングをなぞりながらキッチンに入り、姉の後ろを通り隅にある冷蔵庫を開けた。だが特に何が欲しいわけでもなかったので、何も出さずにすぐ閉めた。と同時に、水の流れる音が止まった。
「慎ちゃん、パンでも食べる?」
振り向くと、食器を洗い終えた姉が顔の筋肉を有効に使った笑みを浮かべていた。いやいい、と慎吾は冷蔵庫のドアに手を置いたまま言った。
「外で食ってくるからよ。晩飯も要らねえ」
分かった、と姉は頷き流し台を布巾で拭き始めた。だがすぐに手を止め、「そうそう」と思い出したように慎吾に顔を向けた。
「ところで慎ちゃん」
「何ですか」
「走り屋になりたいの?」
慎吾は生乾きの前髪を右手でかきあげて、笑顔のまま目を逸らさずじっと見てくる姉に、こちらも目を逸らさず、その走り屋ってのが、と返した。
「峠道とか爆走する車オタクってことなら、俺はそういうの、なる気しねえよ」
「そう?」
「なれる気がしねえって」
「それなら良いけど、それリュウくんの前で言ったら慎ちゃん、怒られるわよー」
姉はほがらかに笑いながら、台拭きを再開した。怒られる、と慎吾は呟いた。何に対してかイメージがわかなかった。
「あの人ね、プライド持ってるから。走り屋ってものに」
プライド、と慎吾は呟いた。やはりイメージがわかない。たかが趣味だろうに、他人に怒りを発するまでのこだわりをどこに持てるのか。「まあ所詮趣味なんだけどさ」、姉は困ったように、だがおかしがっているように笑いながら言った。同じことを考えていたようだ。
「それにはそれなりの世界があるっていうかね。目的意識が違うらしいのよ、あの人に言わせると。私にはよく分かんないけど」
目的意識、と呟きそうになったが、さすがにしつこいと思い、まあ人それぞれだよな、と慎吾は言った。趣味にプライドを持つ人間もいれば、男はドリフトだと主張する奴もいて、年下相手に決闘する奴もいれば、文字を書かないと気が狂う奴もいる。世界は広い。
「そう、人それぞれ。だから慎ちゃんも、リュウくんに気を遣わなくたっていいんだからね。あの車貰ったって走り屋にならなくていいんだから。危険すぎるもの」
「だからならねえって」
「だから良かったって」
姉は笑い、台を拭いた布巾をたたんで隅に寄せてから、そうだ、と思い出したように手を叩いて、再びこちらを向いた。
「ついでだから聞くけど、じゃあ何かなりたいものとかないの、将来?」
笑顔ながらも、姉の目は鋭かった。慎吾はできるだけ真面目な表情を作り、真剣な声で言った。
「ヒモ」
「もっと現実的なの、ない?」
「あのよ、真面目に返されっと結構キツいんだけど」
「ごめんごめん、でもやっぱり人には向き不向きってものがね」
笑いながらも言葉を濁す姉を見て、そりゃ心配だろうけどな、と慎吾は思った。母性愛溢れる姉としては、定職にもつかずバイトもせず、日々ぷらぷらと街を徘徊している善良ではない弟の先行きが不安なのだろう。そのうえ車などに興味を持ったら、何をしでかすか知れたものではない。よく分かる理屈だった。だが人それぞれだ。共感はできない。「心配すんな」、そろそろ追究されることに飽きてきたため、慎吾は力強く断言した。
「いざとなったら失踪するからよ。七年経ったら死亡認定、葬式は要らねえ。保険金は自由に使ってくれ」
「それはマジ?」
「半分な」
あはは、と台のふちを両手で掴みながら、姉は豪快に笑った。
「何よもう、そんなこと考えなくていいのよ。別に慎ちゃんがいて迷惑だなんて言ってるわけじゃないんだから。ただ何かやりたいことあるなら応援してあげたいってだけでね、もう、恐いこと言わないで。危険なこととかもしないでね」
「分かった。で、今日の特売品は」
「九時から卵とビール。あとはチラシ見て、安いものがあったらヨロシクね。あ、玉ねぎと山芋は十分だから」
全力の笑顔を見せながら朗々と言った姉に、ヨロシクどうぞ、と返しながら、今すぐ失踪してやろうか、と慎吾は思った。
テレビの音声をBGMにチラシを眺め戦略を立て、時間を見計らい棚から一万円札を抜き取り長姉の軽自動車で出て、老人と主婦でごった返すスーパーを速やかに攻略し、買い終わった品を家の玄関まで運び込んだところで、相変わらずの満面の笑みの姉に出迎えられた。瞬間義兄の顔が頭に浮かび、仕分けしとくか、と慎吾は姉に尋ねていた。断られるわけがなかった。自分が廊下に置いたレジ袋を少しの間眺めてから、溜め息を吐く。他人の手垢にまみれた車一台手に入れるにも面倒はあるものだ。根回しなどする性分ではないが、姉の心配と義兄のこだわりを考えるに、しなければ新車を買うハメになりそうだった。走り屋なんざならねえってのに、と慎吾は思った。何かになる気力がそもそもないのが、なぜ分からないのか。
作業を終えると午前十時半だった。素足にスニーカーを履き、外へ出る。日が頭を突き刺した。澄み渡った青空があった。歩くと汗がすぐににじんだ。駅まで歩いて十五分、そこから裏手に入り、間にある住宅街を越えると、安売りの洋品店や中古車屋が建ち並ぶ道路沿い、ぽつんと小さなラーメン屋が見える。そこまでも十五分。駐車場はそれほど大きくなく、毎週木曜定休日という縦長ののぼりが立っている。今日は水曜だ。営業時間は午前十一時から午後八時、のれんはかかっている。汗だくのまま、慎吾は店の引き戸を開けて中へ入った。涼しい空気とともに、いらっしゃいませ、とこなれた女性の声が掛かってきたが、次には「あら」、気安い声へと変化した。
「慎吾君じゃない、いらっしゃい」
どうも、と会釈しながら店を見回し、他に客がいないことを確認した。好都合だ。
「じゃあチャーシューメンに餃子、それとライス」
「はい、チャーシューメン一つに餃子一つにライス一つですね。かしこまりました」
赤いバンダナで頭を覆った剛健そうな熟年の女性は、注文書を書き終えるとカウンター内へと振り向いた。
「ちょっと清次、慎吾君来てくれたわよ。お話しときなさい」
調理場には二人男がいたが、一人はとしかさで、「やあ慎吾君」と健康的な赤黒い顔の満面を笑みにし、もう一人は若く、川辺の石を整形したようなごつごつとした顔を不快そうにゆがめていた。慎吾はとしかさの男にそれなりの愛想を振りまいてから、若い男に右手をあげ、よお、と挨拶をし、顎をしゃくった。男は舌打ちして、「お友達になんて態度取ってんの」とすれ違いざまにバンダナ女性に注意されながら、カウンターから出て来た。慎吾は店の左手奥にあるボックス席に座り、男が乱暴に差し出してきた水を貰った。冷えている。一息に半分飲んだ。男は慎吾の前の席に座り、料理帽を取って腹立たしげに長方形の顔を寄せてきて、おいコラ、と小声で凄んだ。
「一番の客で来やがって。お前、何の用だ」
「朝から何も食ってねえんだよ。腹減ってんだ」
「だったら他のところで食えよ」
「お前の給料の一部になるんだぜ、歓迎しろよ」
「てめえの金なんざ貰いたくもねえ」
「なら注文取り下げてやるか」
慎吾が唇の端を上げながら言うと、男は歯がみし、そのまま身を引き席に座り直した。この程度の煽りで胸倉を取られることはしょっちゅうだったものだが――おかげで何枚Tシャツの襟が伸びたことか――、この男も丸くなったものだ。あるいは働く者としての自覚が生まれたのか。どちらにせよ話を進めるには好都合だ。「しねえけどよ、腹減ってるし」と慎吾は呟き右手で頬杖をついて、ずっと顔をしかめている男へ、世間話のように言った。
「決闘やるんだって?」
男はがくりと座席から尻を一つ分ずり下げ、姿勢を崩しながらもすぐさま再び身を寄せてきた。
「お前、なん、何で知ってんだ」
「知り合いから聞いた。弟がバイクギられてボコられたんで、ケジメつけるんだろ。今日だったか」
何で知ってんだよオイ、と男は頭を抱え、耳の上を掻いた。後ろで結わいている髪がほつれている。慎吾は一旦カウンターを向いて、作業をしつつこちらを窺っている男の母親に笑顔をやってから、男の鼻先まで顔を寄せた。
「話なんてもんはどっからでも流れるもんだ。観念しろ、そんで俺を噛ませろ」
男は途端、余裕を取り戻したように顔を上げ、鼻で笑った。
「バカかてめえ、できるかよ」
「俺をバカって言える立場かお前は」
「タイマンだぜ」
一拍置いて、「はあ?」と声を高めた慎吾に、でけえよバカ、と男も声を高め、にらみ合い、息を吐き合った。慎吾はポケットを探りつつ、ガキ相手にマジやんのかよ、とあざけった。男は歯がゆそうに顔をしかめた。慎吾はポケットの中で紙幣と硬貨の手触りしか得られないことに顔をしかめた。煙草がない。また持ち忘れたということだ。
「ガキなんて可愛いもんじゃねえよ、ありゃあ」
少しの間を作ったのち、男は窓の外、一台も車が停まっていない駐車場を見ながら呟いた。慎吾は眉を上げた。
「強いのか」
「そういう意味じゃねえよ。まあ弱かねえだろうが」
苛立たしげに男が言う。その手はズボンのポケットにある。中学二年から煙草を始めたが、店を継ぐにあたり潔くやめた。高校の卒業式の帰り、偶然会った際に聞いた話の要約だ。どこまで本当かは分からない。だが本当なら今吸いたくなっているだろうと慎吾は思った。そうでなくとも、この男は目の前で煙草を吸われると露骨に嫌そうな顔をする。それは見ものだった。なぜこういう時に忘れてるんだ? あの文字書きの男からパクッた煙草はどこにいった? 答えはすぐに出た。昨日のうちに吸ってしまったのだ。
「いらっしゃいませー」
店に客が入ってきた。親子連れだ。男は料理帽を手にし、立ち上がった。おい、と慎吾は呼び止めた。煙草の行き先は分かったが、話は終わっていない。男は鬱陶しげに振り返った。
「見るだけなら好きにしろ、けどこれ以上ここでその話はできねえ。それに今から混み時だ」
「どこでやるんだ」
「裏山だ。十一時」
「なら十時、ミュータントで待ってる。俺を連れてく気があるなら来い」
男は数秒慎吾を見た。慎吾は口の端を少しだけ持ち上げて、それからはもう男を見ず、注文したものがくるまで車が一台のみぽつんと置かれている駐車場を眺め続けた。
チャーシューメンと餃子とご飯を胃に送り込み、ひとまずの満腹感を得て、男の両親に愛想を振りまきつつ代金を払い、店を出た。晴天と太陽はしつこく残っていた。風はない。昨日のように雨は降っていないが、蒸していた。腹をさすり、足を動かす。街並みは変わらない。通る人も車にも珍しさはない。何も感じられない。走ってみるか、と考えたが、考えただけだった。どうせ何も変わりはしない。
二十分ほど歩いたところで、昨日の道をようやく辿ることができた。歓楽街に入り、奥の路地へ入り込む。記憶のままのアパートのドアの前に立ち、郵便受けを覗いてみた。何もないことを確認して、ノブを手にした。鍵はかかっていなかった。ドアを開け、たたきにあがる。奥の六畳間、窓の前の文机に、男が昨日のように座っていた。こちらを振り向いてもいたが、侵入者が慎吾であることを知ると、何を言うこともなく机に顔を戻した。慎吾は靴を脱いで部屋に上がり込み、まず冷蔵庫を物色した。小さめの缶ビールが入っていたので、それを取った。畳に足を踏み込む。男は上半身裸で、やはりトランクス一枚だった。慎吾は畳に座り、昨日のように引き戸に背を預け、昨日のように男の体を眺めた。変わったことは何もない。意味もない。これほど見る気も見ない気もしない体も珍しいと思いながら、ビールのプルタブをあけて、一口飲んだ。慣れない味に顔がしかまる。薄い。だが喉が渇いていたため、半分ほど一気に飲み干した。一息吐く。いい身分だ、と空々しく思った。真ッ昼間から酒を飲む。夢のような生活。残り半分も飲み干した。胃が少し温かくなった。頭は徐々に冷えていった。決闘、と考える。タイマン。岩城は勝つだろうか? そこらの威勢が良いだけの生白いガキ相手ならば負けることはないだろう。だがそうでないのなら分からない。中途半端な力しか持たない奴だ。
「飽きねえか」
声がして、慎吾は自分が目を閉じていることを知り、目を開けた。男が鉛筆を置き、こちらを向いていた。
「何が」
「何もしねえでそうやってて」
「何もしてないわけじゃない。色々考えてんだ」
「考えるより、動いた方がいいんじゃねえのか」
「あんたが知らないところで動いてんだよ、俺は。死ぬほどな」
男は何を言おうかと考えているように顔をしかめ、首の後ろを掻いた。
「こんなところいたって、何にもならねえだろ」
男の声は優しさに満ち溢れているわけではなかったが、押し付けがましいわけでもなかった。ただ少しの困惑が窺えた。その通り、と慎吾は思った。大体こんなところで、何をどうするってんだ? だが何も言わなかった。男の問いに答えることはできる。ここにいることにまだ飽きてはいない。このとんでもないまでに人の臭気が染み込んだ小さな部屋、そこに住む冴えない男、それを共有することに飽きてはいない。そもそも飽きたならば、ここに来ることはない。このまま飽きずにいたら、何かが始まるかもしれない。何にもないからこそ、何にもならないからこそ――だが慎吾は何も言わなかった。説明する必要も感じなかった。男もそれ以上、言葉を重ねることはなかった。本当に知りければ徹底的に追求するものだ。缶を畳に置き、目を閉じる。午後の日差しがかすかに額に当たる。まるで地面に寝ているような自然の温度と匂いだった。徹夜明けの意識が拡散していく。何にもならねえのがいいんじゃねえか。最後に思ったことはそれだった。
体の硬さに耐え切れなくなり、目を開けた。部屋は光に満ちていた。人工的な光だった。目が慣れず、右手で覆った。口の中が粘ついている。すっきりとしない目覚めだった。酒を飲んだせいかもしれない。あくびをし、両腕をあげて背を伸ばした拍子に、引き戸に当たり、ガラスが揺れる存外大きな音がした。つい引き戸を見ると、すぐにそこを越えて男が現れた。いつの間にか黒いTシャツとジャージを身に付けている。
「起きたか」
ああ、と頷き、あくびをもう一度した。そして部屋を満たす匂いに気付き、鼻を動かした。カレーだ。そして慎吾はついその名称を呟いた。その様子を見た男が、食べるか、と流れで聞いてきた。慎吾は考えることなく頷いた。ラーメンをとうに消化した胃がうごめいている。男も頷き、引き戸の向こうに戻った。十一時にゃあなってねえだろ、と慎吾は思った。この部屋に時計は見当たらなかった。男はどういう生活をしているのだろうか。精神安定のために金にもならない小説を書く毎日。そのせいで仕事も辞め、車にも乗れない。とても幸福そうには見えたものではない。
ぼんやり考えていると、男がカレーライスが盛られた皿と水とスプーンの入ったコップを載せたお盆を足元に置いていった。男は折り畳み机に自分の分を置き、そこに正座し、手を合わせ、いただきます、と言い、食べ始めた。慎吾も口の中でそれを言い、スプーンを取って、白米とどろりとした濃い色のルーを合わせてすくい、なるべく空気に触れさせながら口に入れた。舌が熱と味を感知する。何度か噛み、飲み込んだ。そして慎吾は一人頷いた。まずくはない。肉は入っていないが、味はそう悪くもない。辛すぎもせず甘すぎもせず。腹の足しにはなる。男を見ると、こちらを気にした風もなく、姿勢正しく、無駄な動きもせず、一人黙々と食べていた。どこかの店で食べているような改まり方だ。俺がいるからか、と慎吾は思ったが、まさかな、と思い直した。女でもあるまいし。元からそういう食べ方なのだろう。よくしつけをされていたのかもしれない。一人でもしっかりと作り、一人でもしっかりと食べる。悪いことではない。だがこの環境では、むなしさが強調される。何なんだ、と慎吾は思った。勝手に部屋に上がりこんだ他人に勝手に煙草やビールを使われて、飯までねだられても文句一つも言わない男が、何でこんなところでこんなことをやっている? 違うだろう? あんたは本来、ここにいるべき人間じゃないだろう? しかし、飯を飲み込むとともに、すぐに思い直した。結局は、人それぞれだ。
料理を食べ終え、水を飲み、一息吐いた。男も丁度食べ終わって、ごちそうさま、と手を合わせ、皿とコップを持って立ち上がった。慎吾は足元のお盆を右手に取り、こちらへ来た男に差し出した。
「ごちそうさん」
「ああ。どうだった」
「見りゃ分かるだろ。いくら貰いもんでも、まずけりゃ食わねえよ」
まあ肉がないのは味気なかったがな、と続けると、お盆を受け取った男は律儀に、買ってなかったんだ、と答え、流し台に行った。水が流れる音が始まる。耳障りだった。置きっぱなしだったビールの空き缶を両手で持ち、握り潰す。できるだけ小さくまとめ、丸め、文机の傍にあるゴミ箱へ投げたが、ふちに当たって畳に落ちた。取りに行く気は起こらなかった。今日は運が悪い、それだけだ。水の音が止まった。男が再び現れ、慎吾の斜め前で立ち止まり、曇った顔で見下ろしてきた。
「お前、家出でもしてんのか」
慎吾は数秒、その問いの意味を考えた。
「してるように見えるか」
「そう言われりゃ、納得はできる」
慎吾は数秒、その問いの相応しい返答について考えた。
「してるっつったら、ここに泊まらせてくれるか」
「泊まれると思うのか」
「雑魚寝は得意だ」
「布団がない」
「一緒に寝かせてくれよ」
笑いながら慎吾は言ったが、男は笑わなかった。バイクの排気音が行き来した。男は音を立てて息を吸い、息を止め、ようやくというように言った。
「お前」
「ホモじゃねえぞ」
男は強襲をかけられたように表情を乱した。そのまま聞こうとしたのかよ、と慎吾は思いながら、別にいいけどよ、と言い、立ち上がり、男と見合った。
「あんたが俺のこと、グレちまって家出した行き場のないカワイソウな青少年とでも、男あさりやってるとでも思ってくれようがな。いいんだ、勝手にしてくれ。どうせ大したことじゃねえ」
「大したことだろ」
語気を強くして男は言った。慎吾は首をひねった。
「その辺はまあ、考え方の違いだろうな」
「誤解されてもいいのか」
「人それぞれだ」
言って、男の顔を見ず玄関に向かい、靴に足を突っ込んだ。
「また来るのか」
玄関のドアを開けると、背後から男の、苛立ったように大きい声がした。足で土を踏みしめながら、生きてりゃいつかはな、と振り向かずに返し、慎吾はドアを閉めた。
外灯のともり始めた街を歩き、家に戻った。騒がしい居間には目もくれず階段を昇り、二日ぶりの自室に入る。服を脱ぎ、下着を替え、ベージュの半ズボンを履き、赤いタンクトップを被った。そしてベッドの下にしまってたショルダーバッグを取り出した。積み重なったほこりを払い、チャックを開けて中身を確認する。半年前に使った通りのものが入っている。問題はない。チャックを閉め、左肩からたすきがけにする。財布と自宅の鍵も持った。準備万端だ。一つ息を吐き、思い出して脱いだ服を小脇に抱え、部屋のドアを開いた。と、
「うおッ」
「うわッ」
パジャマ姿の義兄が立っていた。慎吾はドアを閉めて、こんばんは、と小さく頭を下げた。薄い髪を撫でながら、こんばんは、と義兄は奇妙に馴れ馴れしく笑った。
「お帰り、っつっても、また出かけるのか」
「多分今日は帰んねえよ。何か用かい」
「いや、車のことなんだけどな」
義兄の笑顔は引きつっていた。慎吾はバッグのひもの位置を直して、片眉をあげた。
「それがどうした」
「慎ちゃん、別に車でレース出たいとか走り屋になりたいとか、そういうんじゃないんだろ?」
走り屋、と慎吾は呟いた。峠道などを爆走する車オタク。義兄は腕を組み、うん、と頷いた。
「だったら俺はやっぱり、新車買った方がいいと思うんだよ。自分のものをちゃんとな。その方が愛着もわくだろうし、俺としてもあれだけやりこんだものだから、できればやってる人に渡したいって気持ちもあるしな。あとはまあ、思い出は綺麗なまま取っておきたいって気持ちも」
慎吾はバッグのひもの位置を再び直しつつ、義兄の横に立った。
「姉貴に何か言われたか」
義兄は何を聞くんだと言いたげに、額にしわを寄せた。
「ショウちゃんは何も言ってないよ」
「ショウちゃんが言ったんだろ?」
階段を一つ下る。参ったな、と義兄は小さく笑った。隠すつもりもなかったろうに、わざとらしい。両肩がどっと重くなる。根回しの成果はなかった。むしろ悪い影響が出たようだ。
「ただでさえ慎ちゃんは将来の不安が大きいんだから、これ以上不安要素増やさないでって」
「朝よ、グレるくらいなら失踪するから安心しとけっつっといたんだが」
「それで安心する奴もそんないないと思うぜ」
心配性ばっかりだな、と呟くと、家族思いなんだよ、と義兄が言った。家族思い。方向性が違えば歓迎できる。慎吾は義兄を見上げた。
「それで、当事者さんとしちゃ、どういう考えなんだ」
「さっき言ったことも本心だけどな、けど慎ちゃんが本気なら反対するつもりはないよ、俺は。男なら誰だって、そういうもんに憧れるもんだ」
義兄は言いながら横を通り、階段を三つ下り、慎吾を見上げてきた。
「まあゆっくり考えて決めてくれ。自由にな。俺も何買うか、ちゃんと決めなくちゃならないしよ」
じゃあまた明日、と片手を上げて、義兄は階段を下りていった。自由にね。義兄の姿が消えてから、階段をもう一つ下る。言うだけなら自由だ。考え、一気に階段を下り、洗面所の洗濯かごに脱いだ服を突っ込んで、家を出、つい、ため息を吐いた。憧れてなんかねえってのに。
UFOキャッチャーのクレーンがファンシーな猫のぬいぐるみを掴んだところで、アディダスのジャージを着た岩城が声をかけてきた。待ち合わせ場所、待ち合わせ時刻通りだ。慎吾は取り出し口から手乗りサイズのぬいぐるみを引き出し、挨拶がてら岩城に突きつけた。
「やるよ」
「要らねえよバカ」
「俺の気持ちだバカ。受け取れ」
「どういう気持ちだ」
「ファイトーいっぱーつ」
ぬいぐるみを振りつつ棒読みに言うと、岩城は四角い顔をゆがめ、ハエを見るような目つきをした。だが結局ぬいぐるみを受け取って、乱暴に勢いをつけながらも、そっとジャージのポケットに突っ込んだ。小学生の低学年の頃、掃除の時間にはほうきを振り回していたくせに、花壇の世話を進んでやっていた男だ。好きなクラスの女子に限って意地悪しかできなかった男だ。人間そうそう性質は変わらない。
ゲームセンターの駐車場に岩城の車があった。夜だったが、外灯と店の光ではっきりと姿は確認できた。ごつい形だった。戦車のようなイメージを受ける。色が白いため、爆弾を大量に積み込んだ戦闘機にも感じられた。
「これ、何て車だよ」
「ミツビシだ」
「お前、日本語分かるか」
「車の名前言ったって分かんねえだろお前」
「分かんねえから聞いてんじゃねえか」
「ランエボだ。ランサーエボリューション、フォー」
「聞いたことねえな」
「ある方が驚くぜ」
中に入ると印象は増大した。何かと戦うために作られたような車だ。
「ランサーのグレードアップ版か何かか、これ」
「それにギャランのエンジン積み込んで三菱がWRC参戦のために開発した、っつーかお前ランサーは知ってんのかよ」
岩城は運転席でシートベルトを締めかけ、驚いたように顔を向け、聞いてきた。慎吾はベルトを締めながら答えた。
「親父が昔乗ってたんだよ。今トヨタだけどな。WRCは、ボクシングだろ」
「それはマジで言ってんのか」
「いや別に。ラリーだったか」
「お前は微妙なことだけ知ってやがるな」
「お前、やるのかよ」
「そこまでやりゃしねえ。そっち系ならダートラくれえかな。いい息抜きだ」
エンジンがかかる。車体に命が吹き込まれたようだった。ギアの入る硬い音がし、何の弾みもなく車は動き出した。駐車場からそのまま車道へ出たが、すぐに信号に当たり、慎吾は会話の続きを始めた。
「運転すんのが息抜きか」
「スポーツと似たようなもんだ。うまくできた時の良さったらないぜ。特に決め込んだ車はな、こっちが真剣にちゃんとやりゃあ、その分が、それ以上になって返ってくるんだ」
反応がいい、と呟くと、そうだ、と岩城は頷き、言った。
「下手な女よりな」
慎吾は皮膚を動かさぬように頷こうとしたが、堪えきれず噴き出して、大声で笑った。岩城は怒気を露わに顔を向けてきたが、すぐさま信号が青になったため発進を促してやると、運転に集中してしまった。しばらく走り、慎吾はようやく笑いを抑え、呼吸数回で肺を落ち着かせてから、こちらを見向きもしない岩城に言った。
「おいコラ清次、おめえが女語るかよ。分をわきまえろ分を」
「うっせえバカが、てめえこそ笑えた身分かよ、慎吾」
「俺は百人斬りの庄司と呼ばれた男だぜ」
「いつ呼ばれてた」
「お前が知らねえ間にな」
「ウソつけよ」
「ウソじゃねえよ」
実際、高校時代に噂を立てられたことがあるのだ。百人斬り。十五人というのが本当のところだったが、それを聞いた悪乗り好きの同級生が誇大してクラスに吹聴し、噂は学年に広まり、学校中に広まった。そこまでいくと訂正する方が面倒だ。それに大して気になりもしなかった。ガソリンスタンドの男と卒業後再会してすぐの頃、どうやってそれだけの女をモノにしたのかと尋ねられて、そんな噂もあったものだとようやく思い出したほどだ。ありえなさが逆にありえるっていうかなあ、で、どうすりゃそれだけ女の子とできるんだ。今更ながら一応真実を説明してもなお、男はそう言ってきた。酔いもあったのだろうが、童貞にしてみれば十五人も百人も変わらなかったらしい。それ以来、バレそうにないウソを自分からバラすのはやめようと、改めて心に決めた。
「信じられねえな、お前のその顔で」
目だけをちらりとこちらへ向けて岩城は言った。慎吾は余裕たっぷりに笑ってやった。
「ひがむなよ」
「誰が。今はどうなんだよ」
「バリバリ現役だ」
「女、いるのか」
慎吾は答えず、お前はどうなんだ、と聞き返した。岩城は顔をしかめた。
「俺は忙しいんだよ、店の仕込みの手伝いもしなきゃなんねえし。お前みてえにいつもどっかこっかに湧いてるような暇人じゃねえんだ」
「人をウジかシラミみてえに言うんじゃねえよ」
「そんな違いねえだろ」
「ちげえよ」
「まあどうでもいいけどよその辺は。お前だったらそういう状況で、いないわけもねえな」
「どうでもよかねえが、いねえよ」
岩城は一瞬だけ顔をよこし、すぐに前を向き直し、ウソつけ、と舌打ち混じりに言った。ウソじゃねえよ、と慎吾は繰り返した。ウソじゃない。優しいお姉さん達と甘いヒトトキを過ごしたことはいくらでもあるが、正式な恋人はここ数年、できた試しがない。真面目になる気が起きないのだから無理もない。だがそれは言わなかった。岩城はしばらく黙ったのち、分かんねえ奴だよお前は、と言った。
「ガキん頃はな、お前みてえな奴が社会の上の方でぬくぬく生きるもんだと思ってた。それが今じゃ、そんなザマだろ」
「俺はガキん頃、お前みてえな奴がラーメン屋になるもんだと思ってたぜ」
「ざけてんじゃねえよ」
「ざけてねえよ。マジで思ってた。いつかこいつにタダでラーメン作らせてやるって」
やはり岩城は、ウソつけ、と呟いた。だがもう慎吾は言葉を重ねなかった。ウソとでも何とでも思えばいい。所詮は考え方の違いだ。車は何の障害もなく走る。エンジンの音も排気音もやかましい。シートが固く、尻が痛くなってくる。バッグを抱えたままでは窮屈だ。4ドアのくせに生意気な車だ。
「豆腐屋、いただろ」
徐々に道を通る車が少なくなっている中、あまり意味もないと思えるような信号に止められて、そして岩城は出し抜けに言った。慎吾は尻の位置を直しながら、豆腐屋? と返した。
「畑山と沼田の奴ら、病院送りにした。お前の後輩だ」
少し考えて、ああ、と慎吾は頷いた。覚えている。畑山が前歯と鼻骨とろっ骨を壊し、沼田が額を十針縫った。現場は凄惨だったものだ。
「あれがどうした。ついに店が潰れたか」
「そりゃ知らねえがな。あいつのキレた時の雰囲気、ってのが」
「手ェつけらんねえ感じの」
「そうだ。あれそのまんまずっと続いてるガキが、可愛いって言えると思うか」
慎吾は問いには答えず、前を走る車のナンバープレートを見ながら、それが相手かよ、と尋ねた。岩城も答えなかった。対向車のヘッドライトが眩しい。思考に光が染み渡り、影が強調される。
「勝てるのか」
問うも、沈黙は消えなかった。横を向くと、岩城は怒っているような、だが諦めているような顔をしていた。数秒見ていると、観念したような息を吐き、勝つんだよ、と答えた。俺の威信がかかってんだ。慎吾は溜め息を吐いて、岩城から顔を背け、目を閉じた。ただ頭がイカれたガキなら可愛いだけだが、その上で遊び心のないガキは、青臭さが伝わってくる分、つまらなさが幅を利かせてくる。ある意味では可愛いが、厄介が多くなるのだ。久しぶりに弾けられるかと思ったが、狙いは外れたらしい。どうも計算違いがやたら多い日だ。肩が重い。慎吾は不意に思い立ってズボンのポケットとバッグの中を探ってみた。煙草はなかった。窓に頭をつけ、思った。多分今日は、厄日だ。
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