レイジー・ボーイ 4…やっぱり最後はお金ですか?
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 おい、起きろタコ、と頬をぺちぺちと四回ほど叩いてみたが、ううん、五円はあるんだ五円は、と岩城は寝言を呟くのみで一向に目覚める気配がなかった。これは打たれ強いと言うべきか鈍いと言うべきか、まあ鈍いんだよなと思いつつ、慎吾は仕方なく岩城の両脇の下に両腕を差し入れ、上半身だけ持ち上げ、車まで引きずった。岩城の体は重く、一度吐いている身にはランサーエボリューションの助手席へと押し込むのも一苦労だった。厄日はもう終わったか、明日になったか? 車の下に滑らせたナイフを取り戻し、それをしまったバッグを岩城の体にぶん投げて、運転席に乗り込んで深呼吸して、考える。これからどうするか。少なくとも熟睡中の男と山で一晩過ごすような趣味はない。とりあえず岩城の車を運転して、ここから出る。車の仕組みなんぞそう変わらない、警察に止められさえしなければ、何とかなるだろう。しかし、ここを出たところで、どこへ行く? 怪我をしている――かすり傷だが他人から見れば傷は傷だろう――岩城を連れて実家に深夜帰宅して見つかろうものならああだこうだと姉や母がうるさいに決まっているし、それを避けるために二階までこの男の無駄に重い体を運ぶのは実にかったるい。では岩城の家に持っていくのはどうかといえば、そこから自宅に徒歩で帰るのも非常に面倒だ。岩城に百万もまだ渡していない、いずれにせよ説明は必要だろう。岩城が目を覚ますまで、休憩できる場所に行きたい。余計なことを言う奴のいない、体を休められる場所だ。すぐに思いつき、慎吾は運転準備に取り掛かった。
 エンジンキーを回すと、重い震動と音が車全体に響いたようだった。嫌な感覚が背中を包む。自分の手に余るものを扱わねばならない、責任と恐怖。それを舌打ち一つでごまかして、ライトを点け、車の内臓時計を見る。午後十一時四十八分。まだ今日だった。また舌打ちをして、慎吾は発進しようとした。エンストした。もう一つ舌打ちをして、もう一度エンジンをかけ直し、再び発進しようとした。再びエンストした。
「はあ?」
 何事だ。この車は所有者でなければ発進すらさせないというのか。ふざけた車だ、その所有者を助けたのは誰だと思ってやがる。拒絶される筋合いはない、むしろ感謝しろ、そしてさっさと俺に運転させろ、ここから離れさせてくれ。腹立ち紛れにハンドルをぶっ叩いてから、クラッチを乱暴に踏み込んで、シフトノブをニュートラル付近に叩き入れ、エンジンをかけ直し、ギアをローにねじ込み、アクセルを思い切り踏み込んで、豪快に半クラにする。慎吾の一方的な思いが通じたのか、ランサーエボリューションはようやく、そして一気に発進した。
 仕組みなんぞそう変わらないはずだった。しかしそれは長姉の軽自動車とは一速の存在感が違い、二速に切り替える前にハンドルを回転させなければ木に衝突しそうなほどで、かと言って父のセダンとはクラッチの重さやギアの堅さやアクセルの敏感さが違い、ハンドルをどれだけ回転させれば車が回転するかの相関関係もしばらく理解不能で、サイドミラーにいちいち目をやらねばならなかった。何だこりゃ、車じゃねえ。いや車か。独りごち、赤信号が青信号に変わったので発進しようとして、エンストしかけ、しかし乗り越えた。まったく気が抜けない車だった。岩城はこれを運転することはスポーツと似たようないい息抜きだと言った。下手な女よりも反応がいいと。反応が良いのは分かるが、僅かな失敗すら正確に転写されては息を吐く暇すらない。ぼうとしていると普通に八十キロは出ているからたまらない。破壊的なガキと命のやり取りをして、酒酔いと車酔いで吐いて、重い野郎を運んだ体には、これを楽しめる余裕など欠片もない。ないない尽くしだ。別の意味で鳥肌ものだ。
 カーブで極端に突っ込みかけたり急ブレーキをかけたりもしたが、エンストはさせずに済むようになり、何とか目的地に着き、砂利の上に停車させ、四点で支えるシートベルトを外すと、ようやく人心地がついた。岩城の車でこれならば、義兄の車を買うことも考え直した方がいいかもしれない。車オタクの車は、一般人には扱いづらいのだ。一般人は一般人なりの生き方をしていればいいのだ。けど、俺は一般人か? 慎吾は深く息を吐き、車の内臓時計を見た。午前零時十二分。厄日は終わった。エンジンキーを抜いてドアを開き、外の空気をたっぷりと吸った。木造アパートの前は、生ゴミの匂いがした。

「何だ、そいつは」
 古びたドアを開けると、電気の点いている部屋の中、物書き男は座卓の前で黒いトランクスに白いシャツという姿で座っていた。夜更けでも起きていたのは予想外だが、その姿は予想内だった。担いできた岩城を玄関先に落としてから、ダチだよ、と答えて慎吾は靴を脱いだ。
「こめかみ一発蹴られてノックダウン。早いっつーの」
「病院行った方がいいんじゃねえか、そりゃ」
「寝てるから、いいんだよ」
「寝てる?」
 男の問いは放って、流し台の前に立って蛇口をひねり、手を洗い、口をすすぎ、水を飲んだ。喉は思いのほか乾いており、飲めば飲むほど飲みたくなったが、三十秒も飲み続けてしまえば満腹だった。
「熟睡中。寝たまま死ねりゃ本望だろ」
 そこで答え、水を止め、深く息を吐く。反吐の臭いが消え、男の生活臭が鼻に染みた。不意にほっとして、慎吾は流し台に背を預け、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。目を閉じると、いきなり睡魔に襲われた。
「お前は、大丈夫なのか?」
 男の声が、現実に引き留める。
「怪我はしてねえよ。精神的に疲れたけどな」
「肩、擦りむいてるだろ」
 その声を近く感じ、慎吾は目を開いた。男がすぐ傍に立っていた。三人いる。いや、一人のはずだ。視界がぼやけて、男が増えたり減ったりする。これほど強烈な睡魔は久々だった。たかが喧嘩と運転で、集中力を使い過ぎたらしい。これまでが使わずにい過ぎたのかもしれない。何にしても、眠い。
「このくらい、大したこと」
「一応、洗っといた方がいい。化膿したら厄介だ」
「眠てえ」
 ぼやけた男の姿を見ていられず、再び目を閉じ、慎吾は呟いた。眠気が思考を霞ませる。傷。ずっと緊張していて意識もしていなかったが、左肩と左膝に、皮膚を肉ごと掻きむしったような痛みがある。頬や腹や腕や足にも細かな痒みがある。あのキレ通しのガキの攻撃をかわし切れずにできた、かすり傷だ。いつもの状態なら完全に避けれたはずだった。上着を身につけておけば良かったかもしれない、酒を飲まなければ良かったかもしれない。だが、自業自得の厄日は昨日のことだ。今日はもうこれ以上、何も考えたくはない。
「分かった。眠れ」
 その言葉を聞く前に、慎吾の意識は飛んでいた。

 覚醒は曖昧だった。喉の渇きが気になって、唾を飲む。喉がねじれているようで飲みづらく、薄く目を開くと、畳の目と壁と本棚がよく見えた。そのまま畳の目を四十まで数えて、慎吾は自分が寝ていたことを思い出し、自分が目覚めたことを知った。伏せていた体を起こすと、かかっていた布団がずり落ちて、畳に張り付いていた肌が剥がれた。痒い。頬を掻く。ヒゲ剃らねえとと思いながら何となく正座しようとして、左膝にひりつく痛みを感じ、あぐらをかいた。どうも左肩にも同じ痛みがあって、首を曲げて見てみれば掌の大きさほどのガーゼがテープで貼られている。それを剥がして中を覗くと、擦り傷に軟膏が塗ってあるようだった。テープを戻し、ガーゼを押し付ける。どうやら手当てをしてもらったらしい。
 汗の浮いた頭を掻いて、部屋を眺める。自然光が差し込んでいる。空気は生ぬるい。この部屋には時計がないので時間は知れないが、朝だろう。
 部屋の主を探せば、慎吾とは反対側の壁際、畳の上に仰向けに寝ていた。白いシャツと黒いトランクス。思い出せる最後の姿だった。布団もないまま、穏やかに寝ている。掛け布団は慎吾にかけられていた。敷き布団は、慎吾と男の間、アディダスのジャージを着ている岩城の体の下にあった。その露わになっている右のこめかみにも、ガーゼが貼られている。六畳間に野郎三人が雑魚寝。この光景から推測できるのは、慎吾が眠った後、男は寝ている慎吾と岩城の傷の手当てをして、それぞれに一組しかない布団を分けて、自分は畳の上に寝た、という出来事だ。放置されても問題はなかったのに、世話焼きな男だ。ふと疑念を抱き、半ズボンのポケットを探る。厚みのある封筒が出てきた。中の札束の枚数を確認する。百枚。封筒には他に一枚の紙が入っており、そこには携帯電話番号と思わしき数字と、家を示す住所と地図が書かれていた。紙と札束を封筒にしまい、ポケットに入れ直した。世話焼きは、性分なのだろう。苦労性だ。救いようがない。救う必要もねえけど。
 慎吾は立ち上がり、ひとまず掛け布団を畳もうとして、思い直し、岩城をまたぎ、岩城の横に寝ている男にかけた。男は安らかな寝顔をしていた。死んでるんじゃねえだろうな。急に筋の通らない不安に襲われて、その顔に自分の顔を近づけて、呼吸を確認した。息はある。不安は消えた。何となく、その場に座り込む。
 男の顔はまったく安らかだった。何の苦悩も危険も感じずに休息を味わえているらしい。黒く短い髪が数束かかっている額は柔らかく、太い眉の周囲にも閉じられた目にも削がれた頬にも緊張はない。鼻は硬そうで、唇は厚く、柔らかそうだ。何となく手を伸ばしかけて、途中で止める。何やってんだ、俺は。手持無沙汰で、空腹だ。口が寂しい。煙草を探すことにした。来た時点では部屋の中央にあった折り畳み机は窓のある壁に折り畳まれて立て掛けられていた。文机は来た時点と同じに窓際にある。その上に煙草の箱とライターと灰皿が見えたので、慎吾は男と岩城を踏まないように歩き、文机の前にしゃがんで、煙草を一本盗み、火を点け、吸った。自分の好んでいる銘柄ではないのに、懐かしく、ほっとする味だった。二口ほどじっくり吸い、改めて文机を見る。大学ノートと鉛筆はそのままだ。表紙を開き、最初から目を通した。
『彼が気づかないうちにすべては始まっていた。彼が手にしようとするものは彼が意識しないうちに傷ついていき、彼から去っていく。彼が大切にしようとするものは彼が意識しないうちに傷ついていき、彼を憎んでいく。彼が気づいたときにはもう遅かった。彼は誰にも触れられなくなり、彼は誰からも触れられなくなった。両親の顔は思い出せるのに黒く塗り潰されている。見えない。見たくはない。見ようとしてくれなかった人たちを見たくはない。彼は苦しんでいる。彼は苦しんでいる。彼は逃れようのない孤独の中で苦しんでいる。彼は孤独でないとわかっている。だから彼は苦しんでいる。彼は苦しんでいる。彼は苦しんでいる。』
 はじめの一ページはそんな調子でほとんど『彼は苦しんでいる』という言葉が占めていた。速読はできるが、男の書いた平凡なようで癖のある字を見ていたくて、煙草を吸いながら、慎吾は一ページずつ『彼』の話を読み進めた。
 『彼』の両親は『彼』を憎んでいる、『彼』はそう思っているらしい。『彼』は子供の頃、自分で自分の力をコントロールできず、家族や友達を傷つけた。その『彼』を父親は理解できないものとして拒否し、母親は『彼』の思いを斟酌することなく矯正だけを考えて行動した。『彼』には兄がいた。『彼』は兄にすがったが、その兄も『彼』には手を焼いたらしく、最終的に『彼』を一度は見捨ててしまった。『彼』は『彼』を隠蔽されそうになり、それに抵抗した末に、見捨てられた。見捨てられたと『彼』は思っている。歳を重ねていくうちに『彼』は力をコントロールすることを覚えていく。他人を殺さずに傷つける方法を覚えていく。『彼』はそうして他人の上に立ち、見捨てられた自分を誇示することを存在意義とする。それでも『彼』が満たされることはない。『彼』は孤独の縁に立っている。生まれてから延々と『彼』は苦しみ続けている。救いはない。救いはないと『彼』は思っている。それでも『彼』は生き続けている。救いはあるかもしれない、救われるかもしれない、誰かが救ってくれるかもしれない。そんなことがあるわけがない、他人に自分をいじられるのはもう嫌だ。分かってもらえないのはもう嫌だ。死にたい死にたい死にたい、生きたい生きたい生きたい。殺したい、殺されたい、死にたい、生きたい。『彼』の思いは延々と続いていく。
 ノートの三分の二まで、そのように『彼』のことが書かれていた。あとは白紙だ。最後の文章は直近に書いたもののようで、字が濃かった。
『彼のまわりには彼の力を利用しようとする人間が多く集まる。彼は力を見せつける。彼は力を浪費する。力は彼を苦しめる。だから彼は力を見せつける。浪費する。彼の力を見捨てた人間たちに、彼の力を見せつける。誰も見ていない。誰も見てくれはしない。肝心な人は見てくれないのに、見せ続けないといけないことに、彼は倦んでいる。しかしもう遅い。彼が気づいたときには何もかもがもう遅い。彼は倦んでいる。力を持て余している。命を持て余している。彼は待っている。それが到来することを待っていた。彼の命を危ぶませる存在を待っている。彼の命など気にせず葬ろうとする人間を待っている。そんなものはどうでもいい。どうでもいいのにみんなどうでもよくしてはくれないのだ。どうでもいいならかかってくればいい。どうでもいいなら殺してくれればいい。どうでもいいなら殺してやる。そうだ、殺してやる。殺されてやる。それができればもうそれでいい。他には何も必要ない。何も要らない、誰も要らない。どうでもいい。なのに、どうでもいいならほっといてくれ。ああ、うるさいうるさいうるさい。何も言っていないのに、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。』
 そこで文章は切れた。あとは白紙。誰だよお前。呟いて、慎吾はノートを閉じた。煙草を五本使いつつすべての文章に目を通したが、『彼』が何者かはまったく知れなかった。何せ固有名詞が一つも出てこない。舞台も時間も人物も定義がされていない。これは小説ではなさそうだった。ひたすら『彼』に起きた出来事、について『彼』が感じたこと、『彼』が思っていることが描かれている。ひたすら彼の感情が書かれている。この『彼』とは、物書きの男ではないように思える。思えるが、分からない。それはこれを書いている男にしか分からないことだ。男はずっとこの『彼』を書き続けているのだろうか。書かずにはいられないのか。仕事も車も金も失いながら、書かずにはいられない。その事実が、ひどく腹の底に重く溜まり、慎吾は火を点けたばかりの煙草を灰皿にひねり潰した。人それぞれ。その言葉が、ひどく胸の奥に突き刺さり、慎吾は立ち上がった。
 男には『苦しんでいる彼』を書かなければならない現実を忘れ、安らかに寝ていてもらおう。だがその横、蹴り一発でノックダウンしてから呑気に一晩熟睡し続けている岩城には、そろそろ厳しい現実を思い出してもらわなければ、始末がつかない。いっそ根性焼きでもしてやろうか、とも思ったが騒がれても鬱陶しいし、岩城の両親には美味いラーメンをご馳走になっていて、ただでさえこめかみには痣が残っているところ、これ以上息子殿を傷物にしてもいけない。考えた末慎吾は、勢いづけた踵を岩城の股間に落とした。この息子は既に傷物に違いないから構わないだろう。
「いッ、だッ」
 変な声を上げて、岩城は股間を押さえながら悶絶しそうになっている。慎吾はそれを見下ろしつつ、起きたか、と尻も軽く蹴ってやった。こちらは傷物になっているかは知らないが、外から見えないから構わないだろう。
「てめえ、慎吾、何しやがる!」
 岩城が起き上がり、股間から離した手で胸倉を取って凄んできた。ひどい大声で、慎吾は顔をしかめた。この岩石男が寝起きでも声を張り上げられるということを失念していた。岩城の後ろを見れば、畳の上で布団をかぶっている男が、もぞりと動く。起きたかもしれない。
「うるせえよ」
「あァ!?」
「だからうるせえって、少し黙れ」
 岩城の口に人差し指を押し当ててやると、その行為に驚いたらしく、岩城は静かになった。その間に、畳の上の男は二、三度小さく頭を揺らし、深く息を吐きながら、かかっている布団を除け、上半身を起こしていた。手を顔から額、頭、うなじまで滑らせて、首筋をがりがり掻くと、こちらを向く。
「おはようさん」
 慎吾は岩城に胸倉を取られたまま、岩城の口に人差し指を押し当てているままで、挨拶をした。男は寝起きの目を、大きく見開き、口も大きく開けたが、そこから声は出てこなかった。岩城は慎吾の指から離れるように後ろを向いて、畳の上の男にようやく気付き、うお、と身を跳ねさせた。
「だ、誰だ」
「この部屋の主様だよ」
「はあ?」
 岩城は理解しかねるように大きく顔を歪め、男を見た。男はまだ目を見開いて、口を開けている。固まっている岩城は放り、慎吾は男に声をかけた。
「悪かったな、朝っぱらから騒がしくして」
「……いや」、男は低い、かすれ気味の声で言った。「朝は、起きるもんだ」
「まあ、そうかもな」
「お前、怪我は?」
「何ともねえよ。あんた、手当てしてくれたんだろ。わざわざありがとよ」
 礼を言うと、男はますます目を見開いた。何だよ、慎吾が片眉を上げて尋ねると、いや、と男は不思議そうに言った。
「そういうこと、お前も言えるんだと思ってな」
 それを聞いた岩城が噴き出して、それを見た男は目を見開き続けた。俺を何だと思ってんだ、あんたは。思ったが、誤解をされても構わないと思っていたことも事実なので、言わずにおいた。代わりに、くつくつと笑っている岩城に、現実を突き付けてやる。
「人のこと笑ってる暇あったら、挨拶くらいしたらどうだ」
 言われて気付いたように、岩城が素早く男を向くと、男は一つ体を震わせた。岩城はばつが悪そうに男を見た。男は扱いを戸惑うように岩城を見た。
「どうも」
「どうも」
 ようやく岩城は男とぎこちない会釈を交わした。どちらも不測の事態には鈍いらしい。沈黙が浮く。男はその後どうするべきか迷っているようで、岩城はその後何を言うべきか迷っているようだった。それでも先に口を開いたのは岩城で、だがそれは慎吾に向けてだった。
「で、誰なんだ、その男は」
 誰って、と慎吾は答えかけ、答えを知らないことに気付き、男を改めて見た。
「あんた、名前何つった?」
「ナカザトだ。真ん中の中に、里山の里」
「ああ、そう。だってよ」
 岩城を見ると、珍しく複雑そうな表情で、慎重な声を出した。
「知り合い、じゃ、ねえのかよ」
「知り合いだよ。なあ、俺ら知り合いだろ」
 もう一度男――中里を見、尋ねると、まあ知り合いだな、という答えが返ってきた。岩城は口をあんぐりと開けた。頭が現実を処理し切れていないらしい。
「とりあえずお前、いい加減離してくれねえか。服伸びる」
 それにしてもこのまま待たされるのは面倒だった。掴まれたままの胸倉を目で示し、慎吾が言うと、岩城は我に返ったように、ああ、と手を離した。丸くなったと思っていたが、急所を攻撃された場合はその限りではないらしい。ただ、落ち着けば話も通じるところは、変わりはない。ともかく、タンクトップの布地は無残に伸びた。乳首が見えそうだ。何のサービスだよ。思いながら、立っていても空気が落ち着かないので一旦座ると、岩城も座り、そしてまた思い出したように、まだ目を見開いている――元々目が大きいので、見開いているように見えるだけかもしれないが――中里を見た。
「いまいちよく分かんねえが。中里さん?」
「さんは要らねえよ。敬われるような立場でもねえし」
「そうか。まあ、ともかく……手当て? してくれたのか?」
「そんな、大げさなことじゃない。運んできたのはそいつだしな」
 まだぎこちないやり取りののち、中里が慎吾を見た。つられたように岩城も慎吾を見る。慎吾は肩をすくめた。
「まあ、お前は俺に感謝をした方がいいだろうな」
「てめえは、ったく、慎吾」
「何だ」
「……悪かったな」
 こちらを斜めに見ながら、消え入りそうな声で岩城は言った。慎吾はじっと岩城を見た。岩城は居心地が悪そうに、何だ、と睨んでくる。いや、と慎吾は真顔で言ってやった。
「そういうこと、お前も言えるんだと思ってよ」
 それを聞いて噴き出したのは中里で、岩城は悔しそうに顔を歪め、それを見ると気分も晴々としたため、慎吾は立ち上がり、布団片すか、と言った。

 ひとまず布団を押し入れにしまうと、何とはなしに慎吾と岩城と中里、三人円になって中央に百万円の入った封筒を囲み、岩城とライダースーツのガキとの件を振り返ってみた。まず、岩城の弟が理不尽な暴力によって西高の生徒にバイクを奪われたこと。それを取り返しに行った岩城が、西高の生徒と一対一の決闘の約束をしたこと。その決闘に現れたのが、ライダースーツのガキで、そのガキの後ろ回り蹴り一発で岩城が気絶し、瞬時に熟睡したこと。その岩城を、西高の生徒が鉄パイプで痛めつけようとしていたところに、慎吾が割って入ったこと。慎吾が脅しでサバイバルナイフを突き出すと、西高の生徒は怯えて白けその場から去ったが、ナイフに惹かれるようにライダースーツのガキが向かってきたこと。ライダースーツのガキの攻撃をかわし切れなくなり、ナイフを振るってすぐ、そのアニキ殿が現れたこと。ライダースーツのガキがアニキ殿を殴ってその場から去ったこと。慎吾がアニキ殿と話そうとして、まず吐いたこと。アニキ殿の話では、岩城の弟のバイクは既に買い戻されてアニキ殿の家にあり、引き取る際には封筒の中に入っている連絡先に連絡をしてほしいということ。封筒の中には他に百万円が入っていて、それは何かとアニキ殿に尋ねれば、傍から見えれば救いようはなく思えるあの弟も、家族は望みを捨てられないらしいと言ったこと。アニキ殿もその場から去り、慎吾と岩城が残り、慎吾は岩城を車の助手席にねじ込んで、自分は運転席に乗り、中里の家まで来たということ。疲れて眠った慎吾と寝続けている岩城を中里が手当てをして、寝床を提供したこと。朝になり、慎吾が一番に目覚め、以下省略。
「お前、俺のエボ4運転したのか」
 その結果、岩城はまずそこで驚いた。車オタクってのはどいつもこいつもこうなのか。辟易と感心を半々に抱きつつ、慎吾は言った。
「他に運転する奴がいなかったからな。非常事態だ」
「よく走れたな。っつーかどっかぶつけたりしてねえだろうな」
「そう言われると、いっそぶつけてやりゃ良かったな、と思うぜ」
 嘲るように笑ってやると、岩城は不愉快そうに顔をしかめた。人の苦労も知らない奴には嫌みを食らわせるに限る。
「ランエボか?」
 と、中里が声を出した。岩城が意外そうにしかめた顔を緩めつつ、ああ、と言う。知ってんの、慎吾が聞くと、形と名前くらいはな、と中里は小さい声で答えた。進んで話したいことでもなさそうだったので、慎吾はそれ以上聞かずにおいた。慎吾が黙れば、岩城も黙り、男も黙った。三人の目が、中央の封筒に集まる。
「こんな金、貰えるかよ」
 呟くように言ったのは岩城だ。理由は知れ切っている。慎吾は一応口にした。
「負けたからか?」
「そうだ。俺はあのガキに、負けた。完璧に。それでバイクが返ってくるのは、筋が通らねえけど、まだいいぜ。あいつのためだ。納得できる。けど、こんな大金まで受け取る義理はねえよ」
 岩城が意地を張っていることは見て取れた。元々他人からの施しを嫌う奴だ、完全に敗北した後では尚更拒みたくもなるだろう。本来であれば慎吾も他人が頑固を決め込めば放置する。しかし、相手は岩城だ。この男がぶっ倒れたところを鉄パイプを持ったガキどもに囲まれている場合、一応割って入ってしまう程度のこだわりはある。可能性の一つを提示してやろうという気にはなる程度だった。
「義理とかの問題じゃねえだろ、多分」
「じゃあ何だ」
「名目上は治療費と慰謝料、その心は私はこれを受け取ります、だからあなたの弟さんの件は一切口外致しません、って口止めの契約じゃねえの。金のやり取りしとけば口約束よりは、信用できるからな。あのアニキ殿、慣れてそうだったしよ」
 出会い頭に弟に殴られても平然としていたところや金の扱いようを見ていれば、あの兄は弟の尻拭いにも慣れているのだろうと思われた。兄弟――中里の文章に登場する『彼』を、慎吾は思い出した。『彼』にも兄がいると書いてあった。『彼』は一度見捨てられている。だがあのガキはあの兄に見捨てられているようには見えない。あの兄があのガキを見捨てているならば、金を使ってまで助けようとはしないだろう。しかしその兄を殴ったということは、あのガキも一度は見捨てられているのかもしれない。他人のことなど知れないものだ。元より美形の兄弟の関係性など知ったことではない。
「そもそも何でそんな、契約? を、お前が勝手にしてやがる」
 思考の切れ目に岩城の言葉が入ってきた。慎吾はなるべく軽く言った。
「ご意見伺おうにも、お前はぐっすり寝てらっしゃったからな、清次」
 あそこで起こしてやるつもりもなかったが、痛いところをついてやったようで、岩城は言葉に詰まった。この俺に文句を言うのは百年早い。
「金持ちか」
 今度は中里の言葉が入ってきた。見れば、真剣な表情だ。目で続きを促すと、その、と口を開いた。
「金を渡してきた男は」
「父親が医者だとか言ってたな。今時医者が儲かるかは知んねえけど」
「なら、金銭感覚が違うのかもしれねえ。ポンと百万出すなんてよ。税金とか、どうなるんだろうな」
 納得した空気が流れた。金持ちの考えることなんざ、分からない。そういう空気だ。やがて、岩城が面倒くさげに首筋を掻き、投げやりに言った。
「慎吾、こいつはお前が貰え」
「はあ?」
「お前が受け取ったんだろ。責任取れよ」
「まあ貰えるもんは貰っとくのが俺の主義だけど、これはまず、お前の弟のだろ」
 話の根源は、岩城の弟が暴行を受けて、バイクを奪われたことにある。主役は岩城の弟で、あのキレ通しのガキは所詮脇役、自分も岩城もそうだ。名目を治療費と慰謝料とするならば、まず岩城の弟に払われるべきものだろう。
「あいつはこんな金、受け取らねえよ。俺だってよく分からなくて、気持ち悪いんだ。そんなもんあいつに渡す筋がねえし、俺も貰う筋がねえ。契約したのはお前だろ。お前が何とかしろ」
 岩城は言って腕を組んだ。封筒に手を出さないと決め込んだらしい。そういえばできの違う弟だった。慎吾も二度ほど会ったことがあるが、悪意を持つことが馬鹿らしくなるほど優しさの塊だった。できが違うのだ。岩城の弟は、この金を受け取らないだろう。岩城も受け取りはしないだろう。できが違うと言っても、やはり兄弟だ。方向性が違うだけで、根っこは同じなのだ。血のつながりは無情なのだ。うんざりする。
 百万円は、あのガキを相手にした手間賃と、口止め料と治療費だと思えば十分過ぎるほどだった。慎吾は使える金が良い金だと思う。金があるに越したことはないとも。だから正当な受け取り手がそこまで拒むなら、百万円も貰ってやってまったく構わない。金。しかし、金は持っている。新車を買えるだけの金がある。金、金、金。みんなそうだ。金がないことを嘆き、金があることを厭う。金、金、金。うんざりしていた。
「分かった、じゃあ貰ってやる」
「ああ、そうしろ」
「で、これはあんたにやるよ」
 慎吾は封筒を掴み、中里の近くに投げた。
「はあ?」
 岩城と中里が、同時に頓狂な声を上げた。慎吾はそれぞれを見てから、岩城を親指で示しつつ、中里に目を定めた。
「俺はこいつにこれを貰った。これは俺の金だ。だから、あんたにやる。自由に使ってくれ」
「貰えるわけねえだろ、こんな」
 すぐさま言い、中里は体を少し引いた。困っている顔だ。常識的態度。この部屋には似つかわしくないが、この男には似合っていると思える。
「なら、寄付でも何でもすりゃあいい」
「そういうことじゃ、ねえよ」
「そういうことだ。金ってのは、使えなけりゃ意味がない。これは使える金で、俺は使う気がない。だからあんたが使えばいい」
 道徳だの倫理だのはどうでもいい。慎吾はこの百万をどうしても使いたいとは思わない。金にはうんざりしている。だがこの男は文章を書かねばならず、職はなく、車は乗れず、金はなくなっていくと言っていた。使いどころはあるはずだ。中里は腕を組み、眉根を寄せ、口を開いては、閉じた。言うべきことを考えているようだ。岩城を見る。不可解そうだった。いつものことだ。
「けど、お前はいいのか?」
 中里が言って、岩城を見た。岩城への言葉だ。岩城はぎょっと目を見張ってから、その動作に特に意味がないことを思い出したように、億劫そうに肩をすくめた。
「まあ、こいつが貰うってんなら、もう俺のもんじゃねえしな。それにこいつが使うより、あんたが使ってくれる方が、気分は悪くねえ」
 勝手なことを言いやがるが、それで中里がこの金を受け取るなら慎吾に言うことはなかった。しばらく静かだった。岩城はもう封筒の金は自分とは無関係なものだと決め込んでいて、中里はその処遇について考え込んでるらしく、慎吾は中里が金を受け取るかどうかを見守っていた。鳥の鳴き声はもう聞こえない。肌は痒い。慎吾は左の二の腕をバリバリと掻いた。その音が、やけに部屋の中に響いた。
「返せねえもんか、この金は」
 慎吾が右の脛を掻き終わったのち、中里が言った。深刻な声だ。この男も、使いどころがあるかどうかはともかくとして、金にはうんざりしているのかもしれなかった。こんな金、なければ問題は何もない。
「それができりゃあ、一番いいだろうがよ」
 岩城が他人事のように言う。実際こいつには他人事だ。中里は眉根を寄せ続けている。このままでは、この男の眉間の皺は解けそうにない。深刻な空気の中にいるのは面倒だった。慎吾は溜め息を吐いてから、提案した。
「直接、聞いてみるか?」
「直接?」
 岩城と中里が、同時に声を上げ、同時に顔を見合わせ、同時に目を逸らした。似た者同士か。内心ツッコミつつ、慎吾は岩城に言った。
「お前、休み今日だろ。木曜日」
「……ああ」
 今気付いたように頷いた岩城へ、中里側に寄った封筒を顎で示す。
「その中に向こうさんの連絡先が入ってて、バイクを取りに行く時には連絡しろって話なんだから、今日バイク取りに行くって電話して、そのついでに金を返していいもんかどうか、直接聞いてみるか、ってことだ」
 中里は浅く頷いたが、岩城はしばらくまずいものでも食べたように顔を歪めていた。理解力には差があるらしい。
「俺が聞くのか」
 顔を歪めたまま、岩城が言った。別に誰でもいいけどよ、と慎吾は返した。バイクはお前の話だろ。まあ、な、と岩城は頷いた。これは岩城の、弟の話だ。事態を呑み込むための沈黙が浮く。慎吾は中里を見た。封筒を見据えている。使えばいいのに、と思う。金には名前は書いていない。だが、使えないから、この部屋でこうして、書かなければならないことを書き続けているのかもしれない。
「分かった。俺が電話する」
 沈黙は岩城の溜め息と声で破られた。岩城がジャージのポケットに手を入れて携帯電話を取り出している間に、慎吾は封筒から連絡先の記された紙切れを出した。岩城がそれを受け取り、携帯電話を開く。それを横から覗き見て、時間を確認した。午前八時四十分。まだ七時くらいかと思っていたが、よく寝てしまっていたようだ。岩城が紙に記された電話番号を入力し、携帯電話を耳に当てる。四回のコールが小さく聞こえ、もしもし?、と岩城が少し高めた、しかし相変わらず低く威圧的な声を出した。
「ああ、あー、岩城清次です。どうも。いや、そう、バイクを取りに伺いたいんだが。今日だ。そう、今日。十時? ああ、構わない。それで、金のことなんですが、は? え? はあ。そうか。ああ、うん。じゃあ、はい、また」
 短いやり取りだった。通話を終えた岩城は、携帯電話を閉じ、へんてこな顔をして、黙った。黙っていられては話が分からない。何だって?、と慎吾が説明を求めると、岩城はへんてこな顔のまま、答えた。
「十時にこの地図に書かれてる家まで行きゃあ、バイクは返してくれるらしい」
「金は?」
「金について言いたいことがあるなら、会った時に話してくれってよ」
 言って岩城はジャージのポケットに携帯電話をしまい、溜め息を吐き、確認するように、中里を見た。中里は、答えを求めるように、慎吾を見た。慎吾は、一応岩城を見た。すると、岩城も慎吾を見た。どうするのか、と目が問うている。会った時に話してくれ――ということは、金を返すには、まず会って話さなければならないということだ。金を返したがっているのは中里だ。会って話すべきは中里だろう。だが中里は岩城の弟と、そのバイクとは何の関係もない。中里が金の暫定的な受取人になったのは、当事者の身内である岩城が慎吾に金を渡し、その金を慎吾が中里に渡したからだが、そもそもその金が発生したのは、慎吾があのライダースーツの少年の兄と名乗る人物から受け取ったことによる。俺かよ。岩城と中里は、慎吾を見続けている。答えを出せと暗に言っている。どうぞお二人で行ってくれ、俺は無関係だ。と言いたいところだが、それには無理があり、その無理を通すほどの情熱はない。今度は慎吾が溜め息を吐いて、二人を交互に見た。
「行くか?」
 まず、岩城が頷いた。
「行くしかねえだろ」
 それから、中里も頷いた。
「行ってもいいなら」
 最後に、慎吾が溜め息とともに、頷いた。
「じゃ、三人揃って、お邪魔するか。バイクを取りに、金を返しに」
 言うと、岩城と中里は頷いた。今日も、厄日になるかもしれない。煙草買わねえとな、と慎吾は思った。



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