二枚目 3/3
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 現れた高橋涼介は、下が黒に上が赤と白、というめでたさと不幸を合わせたような相変わらずちぐはぐな色のファッションであったが、それでも本人の端然とした身のこなしと一寸の狂いもない全体の造形に、中里は目を奪われた。だが姿を認識した瞬間から、息苦しさと末端まで澄み渡るような神経過敏、脳の一部が圧迫されているような不快感も判を押したように揃ってやって来て、俺はもしかしたらこいつが苦手なのかも知れねえな、と中里は思った。
「よお」
 周りに少しだけ視線を走らせながら爽やかな足取りで眼前までやって来た涼介が、爽やかに挨拶をした。中里は立ち上がり、やはり俺が話が流れた原因なのか、と構えつつも、よお、と凡庸に応えた。
「庄司慎吾はどうした」
 左手のコンビニ袋をかさりと鳴らしながら涼介が聞いてきて、中里は身構えたまま答えた。
「まだ来てない、多分来るとは思うが来ないかも知れねえな。あいつに、何か用か」
 まさか原因は慎吾か、と冷や汗で脇の下を濡らし始めた中里であったが、溜めも作らず涼介が「ただ聞いただけだ」と言ったので、詰めていた息を気取られぬようゆっくりと吐き出した。
「そうか、庄司慎吾がいないでお前がいたか。俺もタイミングが良い、いや悪いな」
 独り言のように涼介が呟き、確かにこいつはタイミングが悪いかもな、と周囲の奇妙な視線をひしひしと感じながら中里は思った。こんな状況で来るということは、この男は実は何も知らないのか。中里が涼介を扱いあぐねていると、思い出したように涼介が言った。
「久しぶりだな」
「そうだな、まあ、一週間か」
 答えて中里は、それより、と話の核心を狙った。
「高橋。その、お前、何か話とか、聞いてるか」
 中里が注意深く涼介を窺うように言うと、ああ、と頷いた涼介はその目を伏せた。
「今日聞いたんだよ。峠でな。それで確認したが、元々お前がこちらに来たという話を他の人間に流したのは、うちのメンバーでな。どういう経緯を辿ってああも奇抜な話になったのかは俺の知る限りではないが、結果としてお前の名誉を傷つけることになった。流すなとは言っておいたんだが、俺の認識も甘かった。責任は俺にある。すまなかった」
 中里は胸を撫で下ろし、一瞬でも野村と慎吾を疑った己を恥じた。そして涼介の、頭までは下げていないながらも慇懃である謝罪に覚えたむず痒さと、自分が口を滑らせていなかったことへの安堵から、そりゃいいんだよ、とぞんざいに左手を振った。
「そんな風に言われてるうちが華だしな、お前が気にすることじゃねえ。どうせ人のウワサも四十九日だ、嫌でも消える」
「それを言うなら七十五日だ」
 涼介は間違いを間違いとしてのみ几帳面に訂正した。中里はやはり喉が詰まったような息苦しさを覚えたが、それでも会話を支障なく運ぶことができていた。感情表現が直球勝負の傾向にある中里にしては珍しいことだ。苦手というのでもないのかも知れない、と思ったが、ではそれが一体何の意識であるのか、現時点で中里に見当はつかなかった。
 まあ、と涼介は視線を地面に落とした。
「四十九日で噂が消えれば言うことはない」
「嫌味か」
「正直な思いだ。それで、ついでに写真を撮らせてくれ」
 左手のコンビニ袋を右手で探りながら、涼介は中里を見て軽く言った。つられて中里も勝手に撮れ、と軽く言ってから、ふとそのフレーズに聞き覚えがあることに気付き、信じがたいものを見るような目で涼介を見た。だが涼介は名前通りの涼しい顔で、コンビニ袋から出したインスタントカメラを中里に見せつけるように掲げた。
「確認される前に言っておくがな。お前のだ、中里」
 中里はカメラを見て、そう言った涼介の顔を見て、カメラを見て、涼介の顔を見て、カメラを見て、涼介の顔を見た。涼介はやはり夏場にそよぐ風鈴のように涼しげな顔をしていた。
 最初に勝手に撮れと言った手前「そりゃまあいいが」と答えた中里だったが、涼介が中里の写真を入手して何に使うのかまったく想像できず、
「高橋お前、俺の写真なんか何に使うんだ」
 と、単刀直入に聞いていた。涼介は片眉を上げた。
「使うか。違うな、お前の場合はそれが手段だったろうが、俺の場合は個人的欲求に基づく目的だよ」
 淡々と言われ、中里はぎくりとした。
「知ってたのか?」
 咄嗟に聞くと、涼介はカメラで自分のこめかみを二度軽く叩いた。
「ちょっとここを使っただけだ、子供でも予想がつくさ。誰か俺の写真が欲しい、いや、必要な、身近な人間に頼まれたんだろう」
 中里は思わず野村を目で探し、その遠めでも慌てふためいている姿を見つけ、妙な同情心を誘われた。あの男を責めるのは酷というものだ。行動を起こした責任ならば中里にある。尻に右手を伸ばし、野村から受け取った封筒を余裕を保つためとしわを伸ばすためにゆっくりと取り出して、中里はそれを涼介に差し出した。
「まったくもって正解だ。ちょっとよ、幸せになるかならねえかの瀬戸際にいたヤツに頼まれたんだ。だがもう戻ってきた。ネガも写真もこの通りある。焼き増しもされてないはずだ。勝手な真似をして悪かった。返すよ」
 涼介は左手にコンビニ袋を、右手にカメラを持ったまま、中里の差し出した微妙に歪んでいる封筒を微妙な目で一瞥し、肩をすくめた。
「言ったろう、ちょっと考えれば分かるんだ。それを俺が分からないわけがないだろう。承知してたんだよ、俺は。だからそれはお前のもんでいい、返されても処理に困るしな。煮るなり焼くなり売るなり捨てるなり、好きにしてくれ」
「そ、そうか、いやしかし好きにしろったって、煮ても焼いても食えねえし、売っても捨てても怨念がつきそうなんだよ。お前が始末つけてくれ。お前のなんだよこれは、お前なんだから」
「俺のったって、見てもないからな。感慨もわかない」
「なら一辺くらい見とけ。自分の写真だ、写り具合くらい確認しとけ、な」
 中里は押し売りに似た強引さで、涼介の履いている余裕のあるレザーパンツの右側のウエスト部分を引っ張って、そこに封筒をねじ込んだ。涼介は両手がふさがっているからというわけでもなさそうに抵抗もせず、ただ聞いてきた。
「なら、お前は見たのか」
 ことのついでに押し上げた涼介のインナーと広げたジャケットを一応直していた中里は、聞かれた拍子に身長差のために涼介を見上げた。
 こんな至近距離で高橋涼介の顔を見る機会なんて、多分、いや絶対この先一生ねえよな。
 咄嗟にピントの外れた貧乏人根性を発揮した中里は、「見てねえよ」と答えるついでに、その顔を無遠慮にまじまじと見た。
 斜めに一直線に生え揃っている眉、その下の深い切れ長の目、定規で測ったように通った鼻筋、紫がかった薄い唇と、それらを押し込めた彫りの深い輪郭に白い肌。なるほど確かに整っている、と毎朝見る自分の顔と比較しながら中里は感心した。だが何もない。俺は何も感じない。よし、と中里は内心ガッツポーズを決めた。
「だったら先にお前が見ろよ」
 涼介は中里の視線を受けて時折目元を小さく痙攣させながらも、変わらぬ淡々とした声で言った。
「俺は、お前をわざわざ写真で見なくたって、今見ただけで十分だ」
 噂を完全な無実と断じられる喜びから少し爽やかになった中里は、少し爽やかな調子でそう言うと、涼介のジャケットから手を外し一歩距離を取った。涼介は意外そうに片眉を上げながらも、一つ頷き、なるほどな、と言った。
「まあ、後で確認はしておく。だがどっちにしろお前にやるよ、俺に自分の写真を飾る趣味もない」
 言いながら涼介はごく普通の動作でカメラの構えた。
 そのカメラを操る白く細く長い、硬質に見えるが柔らかく動くその指を見て中里は、こいつと俺は住んでる次元が違うんだよな、と改めて思った。俺の指はこんなに綺麗なもんじゃない。こんな指を作るには一体どれだけ丁寧に育てりゃいいのかも分からない。理解ができない。
 中里はシャッターを切られるまでの時間その白い指をじっと見据えながら、今更己と涼介がともにいることの不可思議さを思った。
「悪かったな、押しかけて」
 撮り終えた涼介がカメラをコンビニ袋にしまいながら、形のままに言った。切られたシャッターの回数が一度のみであることに何の疑問も抱かず中里は、別に大したことじゃねえ、と首を振った。
「それで、目的は達成されたのか」
「上々だ」
 言うと涼介は黒い空を見上げ、細く長く息を吐くと、そろりと中里を見た。
「もう一つ、ことのついでだ。念のために確認しておきたい」
 中里は真っ向から見てくる涼介に気圧され、思わず姿勢を正し、何だ、と聞いた。
「お前は、俺を想像してのマスターベーションは可能か」
 真剣な面持ちの涼介が真剣な口調で言い、これは高橋涼介なりのジョークだろうか、と中里はまず考えた。真面目一貫の顔と声から繰り出される突飛な発言。一撃で相手を昏倒させる。笑えると言えば笑えるだろう。
 しかしその真剣さが嘘八百とも中里には思えなかった。だがジョークだとも捉えあぐね、中里は両手を上げると、自分に当り障りのない返答をすることにした。
「悪いがな、俺はお前のケツを狙ったことはないし、これからも狙うつもりはない。そんな想像する気も起きねえ」
 涼介は軽く目を開いた。そして顎に右の曲げた人差し指を当て、少し考え込む風にしてから、中里、と呼んだ。
「俺が聞きたいことはお前の心構えではなく、それが行動を起こした結果による否定かということだ」
「行動を、ってお前、起こすわけねえだろ。だから考えもしねえよ。いや考えるだけで萎える、ムリだ、不可能だ」
「しかし、やってもいないことを絶対とは言えないだろう」
「まあ、そりゃな」
「俺はそれが気に入らないんだ」
 涼介が何かを訴えるように中里を見た。中里は思い切り眉間にしわを寄せた。
「てめえが気に入ろうが気に入らなかろうが、俺には関係ねえよ。誰がやるか。やめろ、鳥肌が立ってくる」
 ああ、と涼介が納得の声を上げ、左手を軽く上げた。
「違う、お前のことじゃない」
「なに?」
「俺のことだ。俺が俺を気に入らないんだよ。中途半端は落ち着かないもんでな、そうなると試さなけりゃ気が済まない。だが、勝手にお前を材料とするのも失礼だろう。だから俺はそれをお前が許せるかどうか聞くつもりだったんだ。お前がそれを許せないなら俺もするつもりはないから、遠慮なく言ってくれ。どうだ」
 涼介は相変わらず真面目な顔つきだった。中里は回転の鈍い頭で、これは高橋涼介にネタにされるってことか、と考えて、真っ先にそりゃある意味すげえよな、と考え、いやそういう問題じゃねえと呟き頭を振り、それを見て訝しげに目を細めた涼介に、ちょっと待てと両手を上げた。
「それはよ、わざわざ試さなくても分かるんじゃねえか。ムリだってことくらい、その、ちょっと想像すりゃよ、できるかできねえかはハッキリすると思うんだが」
「まあな。だが、もし仮にそれでできないと見切りをつけた以降から可能であったら、俺は俺自身を誤認することになってしまう。俺は思うんだが、自分で自分を正確に理解していない状態で、他人を理解しようとするなどおこがましいことだ。だから他人を、社会をより理解するために俺自身をより理解することは必要だし、よってこの実験も必要となる」
 実験という言葉とは程遠いその行為を少しだけ想像し、中里は口元を押さえた。こみ上げそうになった胃液を唾を飲むことで鎮め、中里は顔をしかめられるだけしかめると、涼介に疑問を呈した。
「お前のその、言ってることは正しいと思えるんだが、何か、根本で間違ってるような気がするんだが」
「そうだな、気のせいではないだろうな。俺も自分で言ってて詭弁だと感じる。だが、ここまで来た以上俺も引き下がれない。いいか中里、人類は倫理や常識を超越した好奇心、探究心によって発展してきたんだ」
 中里は数秒考え、聞いた。
「それで、お前はどう発展するんだ」
「自己をより明晰に理解し、その結果社会へと還元される人格形成へ歩を進められるだろう。これは明らかな発展だ」
「……オオゲサじゃねえか?」
「すまん、癖だ」
 くすりともせず言う涼介を見て、こいつはもしかして案外馬鹿なんじゃないか、と中里は自分を棚に上げて疑った。
 大体、
「高橋、お前、そんなこと聞かねえでやりゃ良かったろう。そりゃあ言ってくる方が誠実だとは思うが、これは言ったって仕方がねえことの部類に入ると思うんだが」
 中里が言うと、涼介は眉を真っ直ぐ気味にして肩をすくめた。
「言うつもりはなかったんだ。だが、話の流れでついうっかりと」
 涼介のその言い方も仕草も、決して馬鹿のようには見えなかったが、何か肝心なものが抜けているように中里には感じられた。こいつはこんな男だったろうか? 疑問を持ち、それと同時に中里は、その疑問を持つほどに涼介を知らないことに気が付いた。走り屋としてしか共通項がなかったし、それ以上共通項を作るつもりもなかったし、また親しく付き合うつもりもなかったのだから、涼介個人を深く知らないことは当然である。そして今更この異次元に住まう男と懇意にするつもりも中里にはない。ゆえに、疑問は無意味だ。
 だが、やはり追求するつもりもない興味を涼介にそそられた中里は、まあ、と腰に手を当てて、譲歩することにした。
「お前ほどウッカリって言葉が似合わねえヤツもいないが、あれだ。その許す許さないだけどな。俺にはいまいちピンとこないから、許すも許さないもねえんだよ。だからどうぞご勝手に、ご自由にやってくれ。どうせできるわけがねえ。そうだ、いいか、やろうとして吐こうが次の日飯が喉を通らなくなろうが、俺を恨むんじゃねえぞ」
 忠告したからな、と涼介を人差し指で指差した中里に「承った」と厳粛に言うと、涼介はその口端を丁寧に上げ、意味深長に中里を見た。
「だが、できたらどうする」
 これはジョークだ、と中里は理解した。涼介の顔は先ほどの固まりようと打って変わって、遊んでいる。我知らず緊張していた体から力が抜けた中里も、軽く口端を上げ、乗った。
「俺も試してやろうか。お前でできるかどうか」
「その時は材料提供のために、キスでもしてやる」
「ありがてえな。尚更できなくなるだろうよ」
 涼介は一つ笑って、口端を自然に下げた。
「また会おう」
 紳士に差し出された涼介の手を、中里は静かに握った。見かけ通り白く、細く、硬く、柔らかく、だが見かけとは裏腹に熱い手だった。互いの汗がじっとりと交わる。手の熱がどちらの熱なのか最早判然としなかった。
「いつか、そのうちな。まあ会わなきゃ会わねえで縁がないってことだ、それもそれで平和じゃねえか」
 手を握ったまま中里が真面目ぶったように言うと、涼介は再び笑った。
「写真を返さなきゃならない、嫌でも、縁はある。暇があったらまた一週間後にでも来るよ。なけりゃ来ない。明快だろ」
「お前が来たって俺は受け取らねえぜ。無駄足になる」
「絶対はないさ」
 まあな、と言い中里が手を離そうとすると、涼介がその手に思い直したように力をこめ、思い出したように呟いた。
「走り屋じゃなかったらな」
 あ? と中里は話を促した。涼介は試すようにじっくりと中里を見据え、声を潜めて言った。
「俺とお前が。どうなったと思う」
「どうにもならねえよ」
 中里は考える間もなく言っていた。涼介の顔から色が抜けたように見え、中里はフォローを入れようとして、握っている涼介の手の細さと硬さと柔らかさを強く意識し、早口に付け加えていた。
「元々が住む次元が違うんだから、俺とお前は」
 一瞬、痛みを感じるほどに涼介の手が強く中里の手を締めた。だがすぐに離れ、中里の手は空気にさらされた。投げ出された何も掴んでいない手を持って、中里は二度と取り戻せないとてつもない失敗を犯したような気になった。
「そうだな。住む次元が違う。それは俺も感じていたところだ」
 他人事のように言った涼介が、来た時と同様の爽やかな顔と爽やかな声で、じゃあな、と言い、中里に背を向けた。
「高橋」
 その背を引き止めるように中里が小さく言うと、涼介は振り向いた。だが呼び止めたものの中里は言うべき言葉を持っていなかった。涼介の手の繊細さは中里にはどうあがいたところで手に入れることはできず、その違いは明白だった。
 涼介は振り向いた半身の姿勢のまま、爽やかさを取っ払った色の抜けている表情のまま、中里をじっと見た。中里も涼介を見たが、涼介の顔から何も窺い知ることはできなかった。涼介の表情はまったく動かなかった。中里が溜まった唾をたまらず飲み込んだと同時に、涼介はその口を不器用に開いた。
「俺は酔狂だけでやってるんじゃねえよ」
 僅かに震えた声で言うと、涼介は再び背を向け歩き出し、颯爽とFCに乗り込んだ。その行動の結果起こった余韻は長い間消えなかった。
 涼介の手を取った中里の右手は、火傷をしたように熱く疼いていた。涼介の手は熱かった。そう、熱かったじゃないか。同じ熱さだったじゃないか。あいつの手は俺と同じ熱さだったんじゃないか。俺と同じだったんじゃないか。中里がそう思い起こすと、右手は突然、恐ろしく冷え出した。
 喉にしこりが浮き、腹の底が重く沈む。それでもなお鋭く尖っている意識を持ちながら、やっぱり俺はあいつが苦手なんじゃないか、と中里は思った。
(続く)

2004/07/06
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