約束の行方 1/5
1.<登場! 嵐を呼ぶ訪問者>
レッドサンズの首領たる高橋涼介が栃木からの観光者、もとい侵略者、エンペラーの首領たる須藤涼介を赤城山にて打ち破ってからはや一ヶ月、また、妙義山を根城にする走り屋チームナイトキッズ、そのチームリーダーを一人自負している中里毅のスカイラインR32GT-Rが修理工場から無事退院してから、はや半月が経過していた。
もはや妙義山再最速の名を獲得した中里の姿も馴染んだそんな峠の駐車場にて、今日も冷えるよなあそうだな俺もこうも寒いと腹巻ねえと下痢しちまってしょうがねえよ俺も俺も腹冷やしたら一発だぜ、などと若々しいような若々しくないような会話をナイトキッズのメンバーとなって三年目の男たち三人が話していた時のことだ。
突如パチンコ屋の扉が目の前で開いた時にも似た轟音が耳を打ち、何だ何だとにわかに野次馬根性を露わにしつつ道路の向こうに目を凝らすと、強いライトが闇夜を割ったと思ったら、夜中にも映える黄色のマツダRX-7FD3Sがギャギャギャギャギャ、とエンジンにもタイヤにも悪そうな音を立て、とんでもないスピードで迫ってきたのだった。
「うわあッ!」
「どおおッ!」
「でわあッ!」
それぞれがそれぞれの叫び声を上げつつ、弾丸を避けるように仰け反るなり後方に転がるなり斜め上方に飛び上がるなりしたが、猛スピードでやってきたFDはそれでも三人のいる位置から約一メートル離れた地点でドリフトを終えていたため、ただ仰け反り過ぎて頭を地面に打ちつけたり転がる拍子に頭を地面に打ちつけたり飛び上がったものの着地に失敗して地面に頭を打ちつけるだけとなった。
「……すっげえデンジャラスな登場の仕方だなあ」
特に非難も関心も含まない声で、そんな一部始終を見ていた人のことを言えたものではないチーム内の触るな危険物こと庄司慎吾が呟くと、あれは俺らに対する宣戦布告と取るべきか、と真剣な声音で隣に立っていた中里毅が呟き返した。この野暮ったい男、本日も常と変わらず大きくいかつい目の力が最大限に発揮されている。こいつァいつ見ても悪人面だな、とまたしても自分のことは棚に上げて庄司慎吾は思いながら、まあそう取っても何も変わんねえんじゃねえの、と冷静に答えた。
「な、な、な、何だ! アブねえな!」
ドリフト地点から随分遠く見えるところでサーカス的に避けようとしていた三人のうち一人が、尻餅をついたまま絶叫した。中里はしかめっ面のまま、仕方ねえな、と足を進め、つーかあれFDじゃんってことはタカハシケースケかよいや違うんじゃねどうせならあいつら轢いちまえば良かったのになそりゃ良い案だ、などと一挙に思うがままに声を上げだしたメンバーやらドライバーやらライダーやらの間を通りつつ、しゃがみ込んでアブねーアブねーこえーこえー暴力反対暴走反対と呟いている三人の向こうにドリッた状態で停車した、黄色いFDの前へと辿りついた。
乱暴にドアを開けて乱暴にドアを閉めたその男、ツンツン金髪に白い清潔そうなシャツと黒光りするズボンを履いた高橋啓介は、怒気に満ちた表情で大地に立っていた。
シャキシャキと歩いて行った中里の後を何とはなしについていった慎吾が、しかしこいつもよく見りゃ悪役面してるな、と相変わらず自分のことは棚に上げて現れた高橋啓介を観察しながら思っていると、随分とご丁寧な登場の仕方だな、と皮肉の似合わぬ声で皮肉たっぷりに中里が言った。ケッ、と文字に起こせるほど明確に高橋啓介は言った。
「知らばっくれんじゃねえよ、中里。お前らがやったことは、全部お見通しなんだぜ」
あ? と中里は頓狂な声と頓狂な顔をし、躊躇なく慎吾を向いた。
「慎吾、お前はまた何かやったのか」
「何で俺だよ。どうせお前がギャラリーの女ナンパしようとして、ストーカーまがいのことやったんだろ」
「何を言う、俺はそんな不純なマネはしねえ」
「ベッドの下なんてモロな場所にエロ本隠してるつもりになってる奴の、どこが不純じゃねえんだよ」
て、てめえはなぜそれを、とうろたえる中里に、人の家に上がった時には弱みになりそうなもんを調べるのが常識だ、と慎吾は胸を張って言った。中里は顔を赤くし抗議をしてきた。
「何を人が親切で泊まらせてやった時に勝手に家捜ししやがってんだ、てめえは!」
「意外とSM系がお好きなようで」
「あれはたまたまそういう特集があったどんなもんかと興味本位で、ってだからてめえは何を言わせんだァ!」
「自分で言ってんじゃん」
「だァッ! コラ!」
「っつーかだってお前、物は移動させんなっつってたけど必要なもんは自由に使っていいっつってたじゃねえか」
「それとこれとは話が別だ! クソ、この野郎、人の親切を踏みにじりやがって!」
怒鳴る中里に「親切への感謝と生活の営みとは、これまた別の話でな」と慎吾が返したところで、
「人の話を聞けえッ!!!」
と、中里とは違う怒鳴り声が上がった。
ナイトキッズの者たちには毎度のことである二人の漫才的やり取りの間黙っていた高橋啓介が、こちらは怒りに顔を赤くして拳を胸の前で握り締め、もう我慢がならぬというように叫んだのだった。
「昨日、ここの奴らがうちのメンバーに怪我させて金奪ったってことは、もう調べがついてんだ。ごたごたエロいのエロくねえなんてくだらねえことの言ってねえで、大人しく白状しろ!」
勢いあまって啓介は拳を握ったまま中里の額まで突きつけた。一歩間違えれば顔面に正拳突きをお見舞いされるところであったが、中里はそれよりも高橋啓介の発言に気を取られ、はあ? と再び頓狂な声を上げていた。慎吾も時同じく裏返った声を上げ、しばらくの奇妙な沈黙が辺りに広がった。そののち、ざわ、ざわ、とその場で聞き耳を立てていた者たちがざわめき始めたが、口にする内容としては「そんなことやった奴いたら表彰モンだよなあ」「まったくだあそこの奴らは俺らをどうもバカにしてやがる」「しかし今毅さん殴られかけてたよな」「あれほら指差すの忘れたんだろアレ頭がアレだから」「まあタカハシケースケだししゃあねえよな」「タカハシケースケだしなあ」「っつーかエロいのエロくねえのって話だったっけ?」「中里はエロいだろありゃ」「ムッツリだよな」「タカハシケースケだってエロいだろありゃ」「ああエロイ」などということであり、耳を貸す意味もあまりなかったが、中里はそれを事態が混乱していると取り、収拾を図らねばならないという義務感に駆られ、おい、と威厳を作りつつ啓介に迫った。
「何を言い出すんだ、お前は。うちのメンバーは多少お茶目なこともやるが、そんなセコイマネはやらねえ。調べ違いじゃねえか」
「そんなわけあるか、お前らんとこのステッカーつけたシビック乗ってて、お前らのチームの人間だって名乗ってんたんだぜ」
シビック、という単語が出たことにより、ざわめいていた人間から中里までの視線が一気にホンダシビックEG6を所有している庄司慎吾へと集中した。
あ? と慎吾は周囲にガンを飛ばしたが、既にその凶悪顔面に慣れているメンバーは怖気づくことなく大きな声でささやきあった。
「そういえば庄司、昨日パチンコで勝ったっつって……」
「俺らの飲み代半分出したよな……」
「普段そんなことは誰が給料日前でピーピー言っててもやんねえのに……」
「ってことはやっぱ……」
各々好き勝手なことを言うメンバーに向かい、いやいやいやいや、と慎吾は大きく首と手を振った。
「バッカお前、俺じゃねえよ、俺の他にもシビック乗ってる奴ァいる、っつーかお前らは何か、俺が自分で苦労して人から奪った金をお前らのためなんかに使うような奴に見えるってか?」
いや全然、と即座に全員の同意を得られ、そうだろう、と慎吾は頷いた。だが少し寂しくなった。お前ら、そんなに俺が悪人に見えるのか。自覚はしていたが、これは流石にあまりにアレである。
と、「高橋」、とそこで中里が慎吾を親指で示しながら、真剣な声で言った。
「こいつはよくよくあくどい真似をするが、そんな面倒くせえ手回しをして金を巻き上げるような、用意周到な奴じゃねえよ。やるなら道端の奴にカツアゲしかけてる」
「毅……」
お前それはフォローになってねえっていうかフォローする気ねえだろ、と慎吾が続ける前に、それに、と中里は言葉を継いだ。
「峠じゃこいつはもう、悪事は働かねえよ。走りに関しては真面目な奴だ。俺が保証する」
慎吾が言葉を切られ、おお、あの中里が慎吾を褒めてるぞ、何かちょっと感動的だぞ、と巨大なざわめきが周囲に発生したが、高橋啓介は意に介さず、フン、と愚弄するように笑った。
「お前の保証がどれだけのもんだよ。こっちには実際、被害に遭った奴がいるんだぜ。言葉だけならどうとでも言える」
もっともな言い分に中里は反論に困ったが、「あ」、と不意に思いついた慎吾がババッと素早く手を上げた。
「ちょっと待てお前、大体そのシビックは何色だ。赤じゃなけりゃ俺じゃねえってのは明らかだぜ、さあどうだ」
意気込んだ慎吾とは対照的に、啓介はむっと黙した。顔が不快そうに歪む。中里も慎吾も唾を飲んで答えを待った。
そして啓介が、口を開いた。
「忘れた」
大掛かりなコントのように、その場に居合わせた人間のほとんどががくりと片方の肩を落とし、中にはアスファルトに向かってダイブする者も現れた。しかし高橋啓介はやはり意に介さず、もういい、と中里の額に突きつけていた指を慎吾に向けて、面倒くさそうに言った。
「とりあえずお前、赤城に来い。どうせ顔見りゃ分かるだろ」
慎吾は啓介に負けじと面倒くささをアピールする表情で、だーかーらァ、と面倒くささをアピールする調子で言った。
「俺じゃねえっつってんだろ、さっきからよォ。大体何でそんな怪しい情報で俺がお前にしょっ引かれなきゃならねえわけよ」
「面通しさえすりゃあハッキリすっからいいだろうが」
だからてめえは何で俺を犯人扱いだ、と慎吾が半ばキレかかろうとしたところ、「俺も行こう」、と中里が言ったため、慎吾は不意を突かれてうおえッ、と大仰に中里を振り向いた。
「いやだから俺じゃねえって。何だお前そのイカニモ保護者的立場からの発言は」
「お前じゃねえってのは分かってる。だが名を騙られて黙ってもいられねえし、お前も身の潔白を晴らしてえだろ。手間はかかるが、誤解を解くには直接あっちと話をつけた方が、手っ取り早い。違うか」
こいつにしては筋が通ってやがる何か変なキノコでも食ったのか、と口に出したら首を絞められそうなことを思いながらも、違わねえな、と慎吾は返した。
しかしこの男にこれほど信用されているとは、これは天下を掻っさらうには格好な条件ではあるまいか。そうは考えられたが、実行するに足る気力もわかなかったので、慎吾は高橋啓介と話をつけている中里を眺めながら、まあ走りで片を付けりゃいいか、と状況には関係のないことを思ったのだった。
そういうわけで、事の発端である。
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2.<勃発! 俺がこっちであいつがそっち>
黄色のRX-7、黒のGT-R、赤のシビックが赤城山への道を連なるその姿は、あくまで黄色のFDと黒のGT-Rと赤のEG6が連なる姿だった。これが黒のGT-R・赤のシビック・黄色のRX-7とくればドイツの国旗、黒のGT-R・黄色のRX-7・赤のシビックとくればベルギーの国旗、赤のシビック・黒のGT-R・黄色のRX-7とくればチューリップ、だが黒いチューリップなどという不気味極まりない代物は子供を怖がらせるのでアウトである。
しかれば街行くデート中やら酔っ払い中やらコンビニ帰りの市民がその三台の列を見ても、ああ何かスポーツカーっぽいのがまた揃ってっつーか夜中にうるせえなオイ、くらいにしか思わず、それらが赤城レッドサンズの高橋啓介の駆るFD3S、妙義ナイトキッズの中里毅の駆るスカイラインR32GT-R、同じく庄司慎吾の駆るスポーツシビックであるなどとは、運転手の三人以外に知ることはなかった。
しかし、走り屋が集っている赤城山の駐車場ともなればそれはまた別の話であり、また現在の状況においては、そこを根城とするカリスマ的特攻隊長高橋啓介はともかく、連敗神話を築いた中里もFR殺しの悪名を轟かせた慎吾も、強盗犯の一味としてしか認識されてはいなかった。不穏な空気が漂う中、中里がFDから少し離れた場所にスカイラインを停めて地に降り立ち、慎吾がスカイラインから少し離れた場所にシビックを停めて地に降り立つと、レッドサンズの総本山たる高橋涼介が仁王立ちする目前にFDを先着させていた高橋啓介が、「何やってたんですか!」とおそらく熱狂的啓介ファンである日本人としては平均的な背の男に揺さぶられている場面に出くわした。
脇から覗くに高橋啓介の両腕にすがるその男、色黒童顔で茶髪は坊ちゃん刈りのごとく整えられ、ポロシャツの裾はしっかりとジーンズの中に入れられており、ああこいつは確か、と中里はその男の素性を思い出すとともに夏に行われたレッドサンズとの交流戦においての敗北の苦々しさを思い出し顔をしかめ、慎吾はそれとともに勇んだ発言をした割に秋名のハチロク藤原拓海にあっさり負けたS14乗りの男の無様な姿を思い出し、笑いそうになって、顔をしかめた。
「何やってたも何も、だからこいつらが白状しねえから連れてきたんだよ。妙義から」
白黒縦のストライプというシマウマのごときシャツと茶色の革パンで固めた高橋涼介よりはマシであるが、それでも少々ファッションが時代外れの色黒童顔男が掴んだ両腕をババッと振りほどくと、高橋啓介は投げやりに言い、色黒童顔男こと高橋啓介親衛隊を発足して隊長を務めたいなあと夢を見ている中村賢太は「そんなッ!」と顔の通りの少々高めの声を上げた。
「啓介さん、あんな危険なところに一人行って、無事だったんですか!」
「俺を誰だと思ってんだ、お前」
「だってあそこは無法地帯ですよ! そうだ、何で俺を連れてってくんなかったんですか!」
「お前いなかったじゃねえかケンタ」
「呼んでくださいよ!」
「そこまで暇じゃなかったし」
とりあえず高橋啓介と中村賢太のすぐ後ろまで来た中里は、二人の懇願とあしらいの切れ目を縫って、「おい、あんなところってのは何たる言い草だ」、と重い声をかけた。
我が故郷に帰った安息から一瞬中里の存在を忘れていた啓介は何でこいつがここに来てるんだと思ってしまい、事情を思い出した時にはもう、「あんなところはあんなところだろうが」、とケンタが先に答えていた。
「犯罪者の集まりみてえなもんだろ。いっつも何だかんだって騒ぎ起こしてよ、お前らのみたいなのがいるせいで走り屋全体が変に疑われるんだよ」
何だと、と眉を上げた中里が、チームへの侮辱を撤回させるべく言葉を吐く前に、うっせえガキだな、と慎吾が小さく、だが誰にでも聞こえるくらいにクッキリと呟いていた。おかげで色黒童顔男は、何だと、と一気に慎吾に詰め寄った。
「ガキとは何だよ、ガキとは」
「ガキはガキだ、いいじゃねえかお子様ランチ頼めんだから。安上がりだ」
「てめえ、何様だ」
「てめえこそ何様だコラ。峠の走り屋に良いも悪いもあるかよ、全員悪いに決まってんじゃねえか。結局不法改造したり車検ムリヤリ通したり速度違反したりしてんだからな、お互い様だ、それを一括りに悪いなんて言われる筋合いはねえぜ、お前みてえなお子様によ」
実際のところ、仲間にしろ自分にしろ公権力の使者とお花畑ならぬ街中で追いかけっこをしたことも多々あったが、慎吾はそれはそれとしてさて置いて、目の前の色黒童顔生意気男の指摘にできる限りの嫌らしさを詰め込んで反論し、てめえ、とケンタが図星を突かれてというよりもガキという煽りに怒り慎吾の胸倉に掴みかかろうとしたところで、
「そこまでだ」
と、手を叩く音と、その声が、場の空気の流動を止めた。
魔法が唱えられたかのように、一瞬にして誰の声も静まった。啓介もケンタも中里も慎吾も呼吸をするのみの存在となり、その騒ぎを一定の距離を置いて取り囲む野次馬じみた無関係の走り屋たちでさえそうであった。
全員の目が、短い一言を、低く重く、それでいて軽やかに、確実に耳に滑り込ませてきたその声を操る主へと目をやった。
「喧嘩の続きは後でいくらでもやってくれ。命に関わらなければ暴力も禁止はしない。だが今は、それよりも話し合うべき問題があるはずだ。そうだろう、中里」
その場にいる全員、十人以上の視線を受けながらも、まったく顔も声も揺らがせないまま、仁王立ちの彼らがカリスマ、高橋涼介はそれを言い終え、中里を見たのち、人の好意を誘うための微笑のようなものを浮かべた。
登場してからこちらをずっとブスブス刺していた他の人間の不審や嫌悪や好奇の視線が、その高橋涼介の振る舞いへと向かったために失われており、ああ、と中里はわずかに緊張を解きつつ頷いて、相変わらず化け物じみた野郎だな、と思いながら、改めてシマウマ柄が目に痛い高橋涼介と対した。高橋涼介は微笑のようなものを苦笑へと変えた。
「すまんな。俺がいない間に啓介が一人で飛び出しちまった。迷惑をかけただろう」
事実であったから中里も慎吾も考える間も置かず、まあな、と肯定すると、お、俺が悪いのかよアニキ、と一人自覚をしていない高橋啓介だけが勢いの良い抗議の声を上げ、いや、とアニキ殿はあっさり否定したが、それは啓介の責任を認めないためではなかった。
「お前の罪を追及しようとすれば、お前の性格を忘れていたお喋りな奴の罪を追及せざるを得ないし、そもそも被害を受けた奴の罪も追及せざるを得ないし、またお前とここまで弟として関わってきた俺の罪も追及されることになる。だからお前が悪いということはないし、誰が悪いということもない。ただし迷惑をかけたのならば謝るのが世の常だ。それは分かるだろう」
まあ、それは、と言葉を濁しつつ探している高橋啓介を慈愛に満ちた目で眺めている高橋涼介の傍から、「実はですね」、と穏やかな声が現れ、中里と慎吾はそちらに意識を向けた。
「涼介がいない時に、起こったことが広まりましてね。ここに来た時にはもう情報をまとめるので手一杯でして。ですから連絡もせずにご足労願う形になってしまいまして、申し訳ありません」
普通であるがゆえにこの場には地味に見える出で立ちの、それでいて若さが感じられる老け顔の男が丁寧に言い、あれ誰だっけこの男、と知らぬうちに互いに同じ疑問を中里と慎吾が感じていると、ああ、と男は親しみやすい笑みを浮かべつつ一礼した。
「挨拶が遅れてすいません。どうもお久しぶりです、交流戦の際は無理を言いまして」
ああいや気にしないでくれ、と首を振った瞬間に中里は思い出した。確かこの男は、高橋涼介とも高橋啓介とも気安く口を利いていた、レッドサンズの、あれだ、えーと。何だっけ。まあいい、とにかく窓口役だ。多分。いかんせん大分前の話であるから記憶が怪しいが、間違っちゃいねえだろう、と中里は大した根拠も持たずに自信だけは持ち、「あれはもう済んだことだし、エンペラーのことではあんたらが活躍してくれたしな」と笑いながら続けた。
窓口役ことレッドサンズと他のチームとの、また高橋涼介と他のメンバーおよび高橋啓介の窓口役である史浩は、俺のこと思い出してくれたかなあと思いながら、いえいえ、と腰を低く言い、それでどのくらいまで話は聞きましたか、と腰を低く続けた。どのくらいも何も、と中里の後ろに潜むように立っていた慎吾が不満をぶつけんがごとく答えた。
「おたくらのメンバーをうちらのメンバーだって名乗ったシビック乗りが襲った、ってところまでしか聞いてねえよ。おかげで俺はシビック乗ってるってだけで疑われてしょっ引かれて来たんだぜ、面通しするとか言ってよ。どうにかしてくれよ、あのイノシシ野郎」
誰がイノシシだ誰が、と兄上に言い含められていたはずの啓介がガウッと吠えて、そうだ啓介さんはイノシシというよりはチーターだとケンタが少し外れたフォローをし、彼らに説明をしてやってくれ、と涼介はそれらを気にせず史浩に伝えた。史浩は「了解しました」と返して中里と慎吾に向き直り、すいませんね騒がしくて、と苦笑したのち、説明を始めた。
「まず、被害に遭ったメンバーが襲われたのが昨日の午後十一時頃。丁度涼介も俺も啓介もいない時でね。メンバーは彼と彼の友人を乗せた車で、普通に走っていたそうです。ここで言う普通というのは安全運転ということでね。ああ、この情報はその友人が見たものと、そのメンバーが体験したものを友人が伝え聞いたもので構成されています」
その友人はどうした、と慎吾が尋ね、メンバーが心配だと言って必要なことを言ったらすぐに帰りました、と史浩は答え、説明を続けた。
「それで、メンバーと友人は普通に走っていました。友人は彼の運転で酔っていて正確なことは覚えてないと言ってましたが、メンバー本人が言ったのは、途中で後ろから赤いシビックがやってきたと」
赤? と中里が声を上げると、ええ、赤です、と史浩は頷いた。にわかに視線が飛んでくる気配があったが、慎吾は何も言わなかった。下手に何かを口にすると命取りになるような気がしたのだ。ただでさえ嫌な予感がしてきている。
史浩は一拍置いたのち、のんびりとした口調で続けた。
「彼は安全速度を守って走っていました。すると、その赤いシビックがカーブの前でいきなり横に並んで抜いてったと思ったら、急に停まったもんで、慌ててこっちも停まって文句を言いに行ったそうです。そうすると、メンバーが言うには、黒いニット帽に黒いサングラスに白いマスクをかけた男が出てきて、遅いだの何だのと文句をつけてきた。彼が反論し素性を問いただすと、ナイトキッズのショウジだ、と答えたそうです。で、名乗ったと思ったらいきなり手を出してきて、そのまま暴行を受けて、ポケットの財布から札を全部取られたと。そうなった頃には同乗していた友人も気付きましたが、彼が車から降りた時には車のテールランプも見えなかったそうです。それがメンバーと友人が見た、事の全容ですね。まあメンバーの怪我自体は大したことではないから、金を返して謝って、二度と赤城山には来ないという誓約書にサインをしさえすれば許すということです」
何ともしがたい沈黙が発生した。そしてその場の全員の視線が、慎吾及び慎吾が乗ってきたナイトキッズのステッカーつきの赤いシビックへと突き刺さった。慎吾は目を閉じた。そうか、お前らそんなに俺を悪役にしたいってか。上等だ、ならどうやってでも俺の潔白を証明してやる。決意を秘めて目を開き、慎吾、と疑いとも信頼とも見えぬものを浮かべた顔で見てくる中里を一瞥してから、まあ何だ、と慎吾は胸を張り、誰にでも聞こえるように、朗々と言った。
「確かにそこまで条件が揃ってりゃあ、この俺、ショウジシンゴが疑われるのも仕方がねえな。うちのチームのステッカーをつけてる赤いシビックなんて、自慢じゃねえが俺以外に乗ってる奴はいねえし、うちのリーダーさんは管理がしっかりしてらっしゃるからステッカーが外部に漏れることもない」
どうだかな、と呟いた啓介にガンを飛ばしてから、「だが」、と自信たっぷりに慎吾は続けた。
「残念ながら俺にはアリバイがある。俺は昨日の午後八時から午後十時まで地元の居酒屋で飲み会に参加して、そのあとは午前四時までカラオケに行っていた。その間、車は家に置いている。飲酒運転をするほど俺も落ちちゃあいねえからな。っつったって、どうせ信用できねえだの何だのと思ってらっしゃる奴らがいらっしゃるだろうが、別にあんたらに信用されなくたっていいさ。出るとこ出たら俺の無実は晴らされる。警察でも何でも呼んでこい」
しん、と辺りは静まり返り、決まった、と慎吾はほくそ笑んだ。しかし慎吾がもたらした沈黙は、「そうしたいのは山々なんだが」、という圧倒的な破壊力を持つ声にて、造作もなく崩された。
「警察は呼べない。被害者が望んでないんだ。1BOXで彼女と楽しんでいる最中に職務質問を受けたというトラウマがあってな。だからこの件に関しては、我々のみで処理させてもらう」
高橋涼介はそう宣言すると、中里を見て、そういうことでよろしいかな、と同意を求めるのではなく決定事項を伝えるように言った。意外な事態の展開に中里はこれはどうすりゃいいんだと混乱し、汗の浮く手をジーンズで拭ってからそれで慎吾を示しつつ、涼介に言葉を返した。
「お前らは疑いを消さないだろうが、こいつはそんなことをする奴じゃねえ。大体変装するなら名乗らねえし、名乗るなら変装もしねえよ」
「お前の言い分はよく分かる。だが感情は理屈ではそうそう動かせない。このまま犯人が見つからなければ、ここに来るドライバーたちが不安を消せないだろう」
っつったって俺じゃねえしと慎吾が呟くと、根性汚い野郎だなと啓介が呟き、顔がそもそも汚いんすよとケンタ呟いたが、やはり高橋涼介はそれらを毛ほども気にせず、「そういうわけでだ」、と結論を述べた。
「彼らの平穏な生活のためにも、庄司慎吾を一週間、こちらに預けてもらいたい」
はあ? 慎吾と中里と啓介は、華麗にハモッた。自ら幾度も沈黙を作り、幾度でも涼介は壊す。
「午後十時から午前一時まで一週間、ここで監視をして何も起こらなければ、疑う人間の気も済むだろう。悪い話ではないと思うが」
涼介は本気で提言していたが、いくら相手が本気でも、即座に信用できる事柄と信用できない事柄があるものだ。「ちょっと待てよ」、と慎吾は片手を挙げつつ涼介を上目で窺った
「あんた、俺にここまで一週間通って、その時間にじーっとしてろって言いやがるのか?」
「じっとしてろとは言わない、姿さえ残しておいてくれれば何をやってもいいさ」
「何だそりゃ、軟禁みてえなもんじゃねえか。俺はそんなことは承諾しねえぞ」
「しかしもしまた事件が起こって、その時お前にアリバイが成立しなければ困るんじゃないのか」
ん、と慎吾は頷きかけたが、いやいやいやいやいや、と素早く首と手を振った。
「だからって何であんたらんところに行かなきゃなんねえんだよ。監視役ならこいつで十分だろうが」
「そうだ、俺で十分だ。ってオイこいつはねえだろこいつは」
あからさまに指を差された中里は勢いで同意してからツッコんだ。高橋涼介は演技めかせて首を振った。
「身内をかばうという可能性は捨てられないだろう。それに自分たちの目で確かめなければ信用はできない。百聞は一見に如かずだ」
中里と慎吾が口を閉じて互いを見合うと、啓介が「おいアニキそれ本気かよ」、と怪訝そうに言い、涼介は否定しなかった。
「最善の解決策だとは思わないか」
「こんな奴を置いといたら、何されるか余計分かんねえじゃねえか」
「ならどうすべきだとお前は思う」
「田上に面通しさせりゃいいだろ。雰囲気くらいで判断できる」
「あいつがそうできる精神状態にあるか?」
それは、と言葉を切り、しばらくしてから、ねえけど、と啓介は呟いた。ああもうめんどくせえ、と慎吾は思った。中里が一応はこちらを信用していることは分かるし、ここの連中が不信感を満々としていることも分かるが、高橋涼介と隣の渉外役さんの真意だけが分からない。なら、探るしかないだろう。
「分かった分かった、つまりその間、俺があんたらの監視下で大人しくしてたらいいんだな」
ぞんざいに慎吾が言うと、分かってもらえてありがたい、と高橋涼介は微笑を取り戻した。いいのか、と常の天邪鬼な慎吾を知る中里は不安に駆られて尋ねたが、「ただし」、と慎吾は抜け目なく条件をつけた。
「これで俺に何もねえって分かったら、ちゃんと精神的負担や肉体的負担や経済的負担についての賠償はしてもらうぜ。何せ俺は私生活を縛られる上に、名誉まで損なわれることになるんだ」
「最大限善処をしよう」
そう言ったのち、高橋涼介は得意げに笑った。やるのかこいつは、中里は疑問に思いつつ慎吾を見た。慎吾もまた得意げに笑った。
「毅、まあ俺がいないと走りに身も入らねえだろうが、精々頑張れよ」
「何言ってんだ、お前がいない方が気遣いが減って楽に走れる。いたけりゃいつまでもここにいてくれ。俺は構わん」
俺が構うっつーの、と呟いて、これでまた余計な金がかかっちまう、と思った時、慎吾は何か引っかかるものを感じた。背筋が寒くなる類のことだ。
「ところで代わりといっては何だが、啓介をその間、そちらに通わせよう」
高橋涼介がまたわけの分からない提案をし、ああ!? と高橋啓介が信じられぬというような声を上げ、それは要らん、と中里は腕を組んで即刻拒否していたが、慎吾はそれらのやり取りよりも自分の記憶を掘り起こすことに集中していた。金がかかる。金がない。金がないなら稼ぐしかない。どうやって稼ぐ?
「待てアニキ、こいつがこっちに来るだけでも冗談じゃねえってのに、何で俺が妙義に一週間も通わなけりゃあなんねえんだよ。っつーかオイ中里要らんってのはてめえ何つー言い方だ!」
「要らんもんは要らん。必要ねえよ。お前は慎吾の代わりにはならねえしな」
強盗、んなことするわけねえだろうが。犯罪はいけない。
「中里、不満もあるだろうが、啓介のドライビングテクニックは生半可なものではないことはお前も知っているだろう。一週間でも同じ時間を過ごせば、お前も何か得るものがあると思うぜ」
「それは、否定はしないがな」
「アニキ、こいつに得るものがあっても俺に得るものがねえぞ」
「良い機会だ、妙義山で走りこんでこい。様々な地形の攻略法を身につけるのは損にはならない。ついでだ、コースレコードも塗り替えろ」
仕事をする、小遣いを貰う、要らない持ち物を質に入れる。そう、希少価値のあるものならオークションで売ればそれなりの金が入るのが今のご時世だ。売ればいい。
「……まあ、アニキがそこまで言うならなあ」
「随分と簡単に言ってくれるな。高橋啓介、お前でもあの峠を完璧に走ることは不可能だろうよ」
「ああ? 不可能だと、俺の辞書に不可能の文字は存在しねえ」
「お前の頭に辞書があるのか」
「驚くんじゃねえよそんなところで。分かった、アニキがどうこうじゃねえ、お前のその節穴に俺の走りを刻み付けてやらねえともう気が済まねえ。絶対俺に向かって下手な口利きやがったこと、後悔させてやる」
「そういうことだ。弟をよろしく頼む」
売れば金は手に入る。金が入れば支払いができる。電気代水道代、食費雑費小遣い代、そして何より、暖かな住まい、家賃――。
「……仕方ねえな、分かったよ、ただしお前が帰りたくなろうが、俺は知らねえ――」
「うわッ」
三人が高橋啓介一人旅についての検討を終了しかけたところで、突如、何もかもを思い出した慎吾が殴られたような声を上げた。
な、何だ、蜂でも出たか、と中里が慌てて慎吾を見ると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、毅、と手招きをしてきたため、戸惑ったが、渋々寄っていったところ、首を絞めるように一気にガッチリと肩に右腕を回された。
「ど、どうした、慎吾」
「いや、アレだ、うん。これから一週間もお前の顔を見られなくなるなんて、何つーか、ほらすんげえ寂しいから。俺は。この最後のひと時をじっくり味わっておこうと、な、思ってよ。寂しいから。うん。俺はお前のことがとても好きだからな、友達として」
慎吾は他の人間に聞こえるようにそう言いつつ、肩に回した腕で中里を自分の方へと引き寄せて、他の人間に会話を聞かれない程度の距離を作った。
「……慎吾、変なもんでも食べたか」
「おい、たった今思い出したんだが」
耳元でささやくと中里は露骨に顔を背けながら、あ? と大きな声を出したので、声出すんじゃねえぞ、と戒めてから、俺の記憶が正しければ、と本題を言った。
「二週間くれえ前、ステッカー売ったっつってた。小田の奴が。家賃溜まってて」
ステッ、と叫びかけた中里の口を肩に回していた手でわし掴みにし、大声出すなっつったじゃねえかこのボンクラがッ、と小声で叱り、慎吾はそっと手を外した。
「……お前、それ、誰にっつってた」
「女子高生に」
じょしッ、と再び叫びかけた中里の口をやはりわし掴み、てめえは名詞だけでうろたえるんじゃねえよと横から睨みつけ、中里が目をむき出しにしたまま頷いたのを確認してから手を外した。
「……女子高生」
「一応あんな風にタンカ切っちまったから、お前確認しとけ。クソ、こんなことならあんなところでお前持ち上げなけりゃ良かったぜ。とにかくまあ事の次第によっちゃあ、何か分かるかもしんねえからな。任せたぜ」
慎吾はささやき終えると肩に回した手を離し、中里の背中を一つ、過去から現在までの恨み辛みを込めて思い切りバシンと叩いた。ぬッ、と小さくうめいた中里は、背中をさすりつつ周囲を見回してから、慎吾を改めて捉え、慎重に口を開いた。
「ああ分かった。お前も……俺がいなくて張り合いのない日が続くだろうが、それは……俺も、アレだ、同じだ。頑張って、乗り越えてくれ」
「ありがとよ、毅、その、あー、お前の……うん、その言葉だけが俺の心の支えだ。俺がここに取り残されていること……忘れないでくれよ」
二人は互いに鳥肌を立て頬を引きつらせながらも、言葉を交わし終え、別れは済んだ、と慎吾は高橋涼介に申告した。
その別れの一部始終を眺めていた啓介は、しかめ面で、素直な疑問を口にした。
「……お前ら、ホモか?」
中里は引きつった笑みをそのままに、くるりと涼介を向き、啓介を指差しながら、高橋涼介、とお願いした。
「やっぱりこいつ、返品させてくれないか」
「クーリングオフは利かないんだ。申し訳ないな」
涼介は肩をすくめつつ言い、ははははは、と史浩が軽く笑い、人をモノ扱いするんじゃねえと啓介が憤り、そうだそうだ啓介さんはモノじゃないぞとそのままのことをケンタが言い、は、ははは、と中里は投げやりに笑い、っつーか俺の生活考えられてねえよなあ、と慎吾は考えた。
そういうわけで、事の開始である。
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