約束の行方 5/5
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8.<襲来! 因果の使い手>

 近づいてくる時間も早かったが、追い越していく時間も早かった。見通しの良い直線で対向車もないのだから、さぞアクセルを踏み込む足も快調だったろう。後ろにいた車があっという間に前方彼方へ消えるのを見ながら、高橋啓介が言った。
「あれ抜き返せ」
「断る、いちいち構ってたらキリがねえ。っつーか何を当然のごとく命令してんだてめえは」
「もっと気ィ利かせらんねえのかよ、人が乗ってるってのに」
「お前が乗せてくれっつったんじゃねえか。そこまでおもてなしする義理もない」
「つまんねえ奴だな」
「お前に面白いとも思われたくねえよ」
「俺だってお前を面白いとも思いたくねえよ」
「ならつまんなかろうが我慢しろ」
「ならいつまでもチンタラ走ってんじゃねえよ」
「次の次で全開出してやるからその口を閉じてろ」
「俺はそこまで暇じゃねえ」
「なら次で降りろ。俺だってそこまで暇じゃねえ」
「てめえはマジでムカツク野郎だな、中里」
「それはてめえの方だろうがケースケちゃん」
「さっきから何なんだそりゃ、人をバカにしてんのか」
「よく分かったな」
「一発マジで殴らせろ」
「断る」
「ふざけんじゃねえ」
「俺は運転中はふざけねえ」
 だらだらと非難を応酬しながらも中里が間断なく手足を動かしていると、前方左手の待避所にボンネットを開けた車が一台停まっていた。見るからに先ほどケツを振りながらこちらを追い越していった車である。中里が丁寧にギアを落としていっても、啓介は何も言わなかった。気だるそうに目を細めている。眠いのかもしれない。待避所の余地にスカイラインを切り返しをせずにキッチリハメて、お前は寝てろ、と腕を組んで既に目をつむっている高橋啓介に言い残し、中里は車から降りた。
 その車は水戸ナンバーのホンダインテグラだった。シルバーの車体は綺麗に磨かれている。中里が近づくと、ボンネットを覗き込んでいた男が顔を上げた。白い肌、頬にそばかすが浮いている。茶髪に赤縁のメガネをかけており、鋭く整えられている眉毛以外の顔のパーツは温和な印象を与える。白い硬そうなジャケットに、黒いシャツ、パリッとしたジーンズ、足にはブーツという出で立ちは、峠には似つかわしくない。ドライブにでも来たのかと踏んで、どうかしたかい、と中里が声をかけると、男は苦笑を浮かべながら、支柱を外しボンネット上部に手をかけると、全体重を乗せるように勢い良く閉めた。脳を揺さぶる音がした。面を食らった中里が目を見開くと、男はおかしそうに大きく笑った。
「あれ、高橋啓介だろ? 一緒に乗ってんのかよ。こっち来てんのは知ってたけどな、それは予想してねえや」
 確信めいた予感が中里の背中を硬くした。この顔、この声、この雰囲気。男は笑いながら続ける。
「仲悪いってハナシだったじゃん、中里サンと高橋啓介。まあいいけどよ、一人だろうが二人だろうが、俺はもう負けねえから」
 言い終えると、男は赤縁のメガネを外し、中里を見据え、右の頬を痙攣させるように唇を吊り上げた。脳に電気が走り、閃光とともに画像が現れた。思考で納得するよりも先に、体が動いていた。
「お前……松坂か」
 じっとりと中里が言うと、松坂和人は鼻で笑い、メガネをジャケットの内ポケットに入れ、伊達なんでね、とわざわざ説明した。中里は脳内のバラバラだった情報のパズルが一つの絵となっていくのを体感した。
「まあでもすぐに気付いてもらって良かったよ。借り返すのに忘れられてちゃ、ドラマチックじゃねえしさ」
「そうか、お前が……小田に女子高生近づけて、シビック用意して、赤城で強盗働いた、犯人か」
「変わんねえなあ中里サン、変なところで鋭いのは。って、まあそんくらい誰でも考えつくか」
 松坂は中里に背を向け、インテグラのボンネットに手を置いて、向こう側になぞっていく。中里は足を進め、松坂の姿が確認できるまでの距離を保った。
「松坂、赤城山に戻れ。高橋涼介に自首をしろ。今なら金を返せば温情もかけられるだろう」
 警察でもねえのに自首はないでしょ、とせせら笑って、松坂はインテグラの助手席側の三角窓付近で立ち止まった。くるりとスピンするように振り向いて、手を伸ばしてくる。
「なあ中里、俺が何でここまでやったかってと、てめえに仕返ししたかったからだよ。ビンタの恨みは大きいんだ」
 松坂が差し伸べてくる手と、松坂の笑う顔を交互に見、俺が金でも出せばお前は満足するのか、と中里は脅迫のできる声で尋ねた。松坂は外人のように大げさに笑いながら首を振った。
「分かってねえな。俺はてめえが大嫌いなんだよ。そういうところもガキくせえところも言ってることとやってることが違うところも、顔も体も声も、存在自体が嫌いなんだ。だから半殺しにしてやるよ。まあ金も貰えんなら貰うけどな。そしたら俺は群馬からはオサラバするよ。顔も出さない。安心だろ」
 握手を求めるように手を伸ばしながら、松坂が一歩一歩近づいてくる。車左前輪付近にいる中里との間は遠くない。
 フロントから左に回りこんでスカイラインに戻り、高橋啓介に事情を説明して共同でこの男を追い詰めることも考えたが、中里は退かなかった。プライドとは尊いものであるが、時に冷静な判断を無視するものでもある。ためらうことなく歩いてきた松坂の、その伸ばされた右手が間合いに入ってきた瞬間、中里は左手で叩き落していた。その隙に松坂は素早く左足を踏み込み、右手が落とされると同時に上げた左手で、仰け反ってかわそうとした中里の髪をガッチリ掴み、左へ振った。倒れかけ、横に開いた右足を踏ん張り中里は対抗し、髪を掴んでくる松坂の左手をねじり上げようと両手で掴んだが、松坂は右足も踏み込んで中里の懐に入ると、空いた右手で体重のかかっていない中里の左内股を払い、バランスを崩したところで、掴んだ髪を押し上げるようにして、中里を背中から地面に落とし、流れのままに馬乗りになった。
「俺、こう見えてもな、空手とテコンドーとボクシングと合気道、習ってたんだよ。不良に絡まれてる女の子がいたら、カッコ良く助けられるようにさ」
「それは、昔聞いた覚えがあるぜ」
「物覚えがいいんだな。でも覚えてんなら、もっとカシコイやり方あったんじゃねえ?」
 そう言い松坂は、中里が両手で握り締めている髪を掴んだ左手で額を押さえつけてきた。松坂、と中里は怒鳴った。一瞬表情を消したが、屁でもないというように笑う。完全に車の影に隠れているため、車道からは野良猫がいるかを確かめようとしない限り見えないだろう。中里からは車の下部と脇と、得意げに笑う松坂の顔と体と、木々と空しか見えない。
「まあこれもインガオウホウだと思って、歯ァ食いしばってくれよ。優しくしてやるからさ」
 楽しそうに笑いながら、松坂は胸まで上げた右手を握り締め、その拳をひとまず中里の口に置き、場所を確かめて、大きく頭上に掲げた。腰から下は体重で押さえつけられているために動かせない。いくら額を押さえてくる左腕を握り潰すように両手で掴んでも、松坂は動かない。
 松坂は笑い、そして――顔面から、迫ってきた。
「ぎゅふぅッ」
 それはまさしく一瞬の出来事だった。迫ってきた松坂の顔は微妙な角度で左に避け、そのまま地面に激突した。その松坂の後頭部には靴底の薄いスニーカーが乗っていた。そのスニーカーを履いている足を上へと目で辿っていくと、生地の良さそうなジーンズ、生地の厚そうなパーカー、そこから突き出した首、それが支えている高橋啓介の顔があった。
 松坂は既に中里の頭から手を離し、腹からも腰を上げ、四つんばいの格好でどうにか地面以外のものを見ようと頑張っていたが、啓介はそれを片足で軽々と妨害したまま、大丈夫かよ、と嫌そう顔をしかめながら言った。大分間を置いてから、ああ、と中里は頷いた。
「ざまあねえな、こんくれえの奴にやられるなんて」
 言いながら啓介は松坂の頭から足を離し、その途端上半身をエビ反りにして上空を見上げた松坂の股間を、離した足で後ろから蹴り上げた。悲鳴が飛んだ。股間を押さえつつ悶絶しかけている松坂がいてえいてえとゴロゴロ転がっているのを横目に、中里はふらつきながらも立ち上がった。啓介は中里を見て、弱いくせに出しゃばんじゃねえよ、とつくづく嫌そうに言い、それからどうでも良さそうに、何なんだこいつ、と言った。中里は息を吐いてから、犯人だ、と答えた。
「あ?」
「こいつがやったんだよ。お前らんとこの奴を」
 啓介は息を切らしながらいてえいてえと呻き続けている顔の松坂を見下ろし、「こいつが?」、とまるきり信じていない顔を向けてきた。
「こいつだ。白状した。車は違うが、間違いねえよ」
「マジかよ、こんなザコがやりやがったのか。分かんねえな」
 啓介は腑に落ちないような顔のまま呟き、まあそれならそれでいいけどよ、と言って、インテグラの助手席のドアを開け、鼻血をだらだらと垂らしたままうずくまる松坂をムリヤリ詰め込んで、ドアを閉め、中里に向き直った。
「下に降りようぜ。俺はこいつの車運転する。ついてこい」
 言い終わる前に啓介は動き、運転席に回っていた。中里は呆然としかけたが、慌ててスカイラインに戻り、シートに尻を落ち着けて、ミラーで乱れた髪を整え直し、ベルトを締めながら、何で俺が命令されてんだ、と、不満があるとは窺えない声で呟いた。

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9.<終結! それぞれの場所へ>

「何だか知らねえが、よくもうちのメンバーボコッてくれたよな。覚悟はできてんだろうな」
 クソこの車クラッチ軽いしギア比分からんし馬力ねえし何なんだよと思いながら、啓介は隣でまだひいひい言っている松坂にそう尋ねた。松坂は答えられる状態になかった。額は切れてるし鼻血が出るから口でしか呼吸ができないし、唇も切れてるし歯も痛いし睾丸も痛いしで、もう生きているのが嫌になっている。そんな中で言えたのは、てぃっしゅ、という言葉だけだった。ああ? と啓介はギアを乱暴に変えながら言った。
「ティッシュが欲しけりゃ自分で勝手に取れよ。てめえの車だろ、俺が知るか」
 大体何で俺がこんな車使わなきゃなんねえんだよこいつのせいだこいつのっつーか何で真犯人がいやがるんだよ、という苛立ちを松坂に八つ当たりしながら、啓介は多大な重力をかけるドリフトを多用し、後ろからそれを見ながら中里は、明らかに荒れてるな、と冷静に思ったのだった。
「え、っていうかこいつもしかして、松坂じゃね?」
 中里は啓介の走りを追従する、啓介は少しのストレス解消と大きなストレス抱え込みの、松坂は走馬灯を見ながらのドライブが終わり、駐車場にて蒼白な顔を血だらけにして正座している松坂を、何事だと寄ってきたナイトキッズのメンバーやら野次馬ドライバーやらと囲み、誰すかこいつ、という疑問の声に、慎吾を騙った犯人だ、と中里が答え、へえええ、と納得の声が上がったところで、目ざとい一人がそう言ったのだった。
 そうだ、と中里は肯定した。
「こいつは松坂だ。よく分かったな」
「あー、ドーリでゼッテー見た覚えあるわけだ、俺こいつこの前、二週間くらい前に、焼き鳥屋で会ってよ。話したんだよ、色々、今何やってっかとかどこいるかとかよ。でも他の奴には恥ずかしいから言わねえでくれっつーもんだから、まあ俺も口カタイし? 優しいし? でもこんなことになるとはなあ、世の中分かんねえな」
 一人はしきりにうんうんと頷き、その途端、「え、マツザカって、あのマツザカカズト? 22歳おとめ座B型の?」「だろ、全然何かちげえけどそうなんだろ」「それ以外にマツザカっていねえし」「マツザカって誰だよ、牛かよ」「ちげえよ昔ここにいただろ、お前覚えてねえのかよ」「あーいたいた、和人な和人。中里クンのスカG盗もうとした」「車じゃねえだろ預金通帳だろ」「あれ、でもあいつ黒人目指してなかった?」「日焼けしまくってたよなあ」「アフロやろうとしてたよな」「で失敗してたよあ」、などという疑問と思い出が辺りから噴出した。皆よく覚えているものである。啓介はその騒ぎを傍目に煙草を吸い、これからどうすべきかと考えたが、面倒くさいのでやめた。このお祭り騒ぎが落ち着いてから決めれば良いだろう。
「で、こいつどうすんすかー? 縛り首? 逆さ吊り? ヌード撮影会?」
 松坂和人を思い出す会が終了したところで、パーマ頭の男が手を挙げつつ質問し、答えを求める他の連中の視線を集めた中里は、こっちじゃどうもしねえ、と静かに、だが明確に耳に残る声で告げた。
「別にこっちが何されたわけでもねえからな。レッドサンズの連中に手渡して終わりだ」
 えー、つまんねー、とブーイングが上がるも耳を貸さない中里を、不可解な驚きを得た啓介は振り向いた。先ほど受けた仕打ちを忘れたというのか。啓介が松坂の頭を蹴りつけなければ、あのまま散々顔を殴られていたはずである。結果的に無事だったから、なかったことにしようというのか。どれだけ偽善者だ。その憤慨は中里の不公平さに対するものか、過ぎ去った中里の危機に対するものか、分けられないまま啓介は煙草を噛んだ。
 松坂を囲んでいた者も、あーこれで慎吾も帰還してくんのかー、別に要らねえよなあいつ、でもあいついねえとパーツの値段比べの人手足りなくなんだよなあ、スタンドもだろ一応几帳面な奴だし、でも思想的に危険だからなあ、と思うままのことを口にしながら飽きたように散っていったが、四人は残っており、中里がとりあえずこいつをどうやって赤城まで運んじまうか、と松坂の対処法で悩んでいると、残ったうちの一人がポケットからポケットティッシュを取り出して、正座からあぐらに変えた松坂の前にしゃがみ込み、ティッシュで顔を拭ってやりながら、しっかり久しぶりだよなあ、としみじみと言った。
「松坂ァ、お前さ、俺が貸してやった煙草二箱、覚えてる?」
 笑いながら一人が言い、松坂は顔を拭かれるがままになりながら、そんなちいせえこと覚えてねえよ、と呟いた。一人は血で湿ったティッシュを松坂の白いジャケットのポケットにねじ込んで、っかー、と後ろに立つ四人を振り向いた。
「おい、これだよ。こいつマジ変わってねえんだけど」
「外見変わっても中身変わってねえってイイ例じゃね。ちょっとウケるし」
「俺もさァ、和人に一万五千百二十円貸したまま返してもらってないんだけどォ」
「俺、彼女盗られたまま返してもらってない」
「それ返してもらっても微妙じゃね?」
「それは思い切ってあげておけ」
 ニヤニヤしながら松坂を囲み話していた四人であったが、多少見られる顔になった松坂が口をつぐんだままであるのに痺れを切らし、おい毅、と口火を切った一人が中里を向いた。
「もうこいつ、こっちで成敗しちゃっていいんじゃねえの? バレねえって、元がこの顔なんだから」
「こんだけ被害者いんですから、いいじゃねえすか、別に。命取るわけでもねえし」
 中里は振り向いてきた四人を見、それから松坂を見た。あぐらをかいたまま、にらみ上げてきている。痛みは引いたらしい。
 やめとけ、とため息混じりに中里は言った。
「下手に手を出してこっちが罪に問われちゃ意味がねえ。放っておけ。どうせもう何もできねえよ」
「でもこいつ、前もやっただろォ。またやると思うぜえ、俺は」
「だとしても、あとはレッドサンズの連中に任せるしかない。あとは慎吾とな。こっちは何もされちゃあいないんだ」
 中里は断言した。メンバーの名を騙られ強盗を働かれたことにより、チームのイメージは損なわれているし、今さっき殴られかけたことも事実だ。だが、罪状を追及すれば事態の収拾はつかなくなる。何よりこうなったのは、中里が松坂を妙義山から追いやった時点で、適切な対応を取っていなかったためである。松坂のみの責任を問うことは中里にはできなかった。
 だが中里がそのように考えていることなど、口に出していないために誰も知らず、松坂をサンドバッグ代わりにしたがっている四人は無論、煙草を一本吸い終えた啓介もそうであった。啓介は頭の中に潜んでいた小人たちが堪忍袋の緒を切るのを認めてから、中里に音もなく近づいていった。四人の男たちはグチグチ言っていたが、場から離れていた高橋啓介が中里の後ろに歩いてくるのに気付き、そして高橋啓介が中里の後頭部をパスッと叩くのを、しっかりと目撃した。
 イテッ、と呻いて頭を押さえた中里は、振り向いてそこに啓介がいることを知り、てめえ、と怒鳴った。
「何、人をいきなり叩いてやがる!」
「いつでもふざけた野郎だな、てめえは」
「はあ?」
「自分の胸に聞いてみろ、どうせお前は自分じゃ分かんねえだろうが」
「お前、啓介、人をバカにするのも大概にしやがれ」
「バカな奴をバカにしたってそのまんまだろうが。文句言われる筋合はねえ」
 再び中里と啓介の雑言の浴びせ合いが始まりかけた時、松坂が立ち上がって、「調子に乗んなよ」、と笑いながら言ったのだった。全員の注意は松坂へと向く。
「中里、だから俺はてめえが嫌いなんだよ。それに俺はな、不意打ちさえ食らわなけりゃあ、てめえらなんかにやられねえんだ。調子に乗んなってんだ、クソ、クソ、クソ、クソォ!」
 松坂は心の底から叫び、沈黙が生じたあと、口火を切った一人が松坂と対し、こちらも笑った。
「そうかよ、そこまで言うならやってみるか、松坂」
「お前なんか相手にならねえよ、クソ野郎」
 二人が笑いながらにらみ合い、やめろ、と中里は間に入り込もうとして、轟いた排気音に、耳を奪われた。そして次には目を奪われる。白く輝く車、血の色に光る車。どうも侵入してしまって申し訳ありませんといった様相でするすると停まり、それぞれのドアから男が降り立つ。
 役者が、揃った。
 FCから降りた涼介は目の前に広がる光景に己の予想が正しかったことを確信しながら、シビックから降りた慎吾は目の前に広がる光景が意味するところを推測しながら、その助手席から降りた史浩は目の前に広がる光景の整い加減に驚きながら、松坂和人を中心とした少人数の輪に、ゆっくりと進んだ。
「よお。首尾良くいったみたいだな」
 狐に包まれた、もとい狐につままれたような中里と啓介に、涼介は悠然と声をかけた。アニキ? とようやく啓介は声を出した。慎吾、とようやく中里も声を出した。高橋涼介じゃん、高橋涼介だな、っつーか慎吾じゃん、よお慎吾、と口にしているメンバーと中里に片手を挙げるのみにして、慎吾は成り行きを見守ることにした。この事件にどう始末をつけるのか、運に頼るだけと言った高橋涼介のお手並み拝見である。
「中里、少し時間をもらうぜ」
 涼介がそう告げると、中里は眉根を寄せて目を大きく開き涼介を見据えつつ、どういうことだ、といまだ驚きの抜け切らない声で言った。
「見ていてもらえば分かる。手間は取らせない。さて」
 了承を得ないまま、強引に涼介は事を運んだ。ナイトキッズのメンバーと思わしき一人の男と対峙している松坂を向き、松坂和人君だな、と優しく確かめる。松坂は目を泳がせつつ、それがどうした、と震える声で答える。すると、涼介は史浩を見る。史浩は頷き、涼介の隣に並び出て、のんびりとした笑みを浮かべつつ、話し出す。
「そう、松坂和人クンね。我々、色々調べさせてもらいました。まあ主に俺がだけど」
 何を、と松坂は切羽詰った様子で言った。実際切羽詰っていた。調べられると困ることが山ほどある。史浩は松坂の動揺を特に気にせず、寒さ対策のために着ているブルゾンのポケットからメモ帳を取り出し、そこに書かれていることを読み上げていった。
「山形県出身、23歳。誕生日は10月18日、血液型はO型。小中を地元で過ごし、高校から群馬に移り、卒業後は地元のカラオケBOXに勤める。お父様は某医療機器メーカーの営業部、お母様はコンビニでパート。現在実家とは音信普通。両親には百二十万の借金があり、地元の友人らにも総額五十万円の借金がある。カラオケBOXの仕事は一年前にやめ、現在は茨城市内の某金融業者で取立てを行っていると。シビックはこちらの友人に五万円で借りたんですってね。うまいことを考えたもんだ。いや、あんまりうまくないか。高いもんな」
 メモ帳をポケットにしまい、史浩は涼介を見た。涼介は頷き、笑顔しか出せない状態の松坂へ、さて、と幼子に語りかけるように、ゆっくりと、丁寧に言った。
「こちらとしても君を悪いようにはしたくない。被害者から盗んだ金を戻し、治療費を支払い、土下座をし、二度と赤城山に足を踏み入れないことを約束してくれれば、後は君の自由だ」
 松坂はほっとしたように息を吐き、その場にくずおれた。だが、と涼介は座り込む松坂に、今度は冷静に続けた。
「親というものはいついかなる時も子供を心配するものだ。他人の家庭に踏み込むことは申し訳ないとは思ったが、ご家族に君の自宅の住所と電話番号、勤め先、そして君の現状についていくつか報告させてもらった。おっと、慌てないでくれ、君の所業についてはもちろん伏せてある。ご両親は君のことを怒ってはいない。ただ無事に生きていてくれさえすればそれで良い、そしてできたら山形に帰り、お父上のお兄様が経営されている工場を手伝ってほしいということだ。ご両親から手紙も預かっている。俺の言っていることが信用できないのであればそれを車内で読んでくれ。ひとまずは一緒に赤城山に来てもらおう。運転はこの男がするから、君はゆっくりしていればいい。俺たちは君に危害を加えるつもりはない。ただ、犯した罪をつぐなってもらいたいだけだ。君の将来のためにもな」
 涼介の説明は終わった。松坂は顔を右手で多い、涙を浮かべていた。声は出さなかった。中里は呆然するしかなかった。ちょっと待て、これだけのことを、こいつらはいつ調べ上げたんだ? そもそも何でこいつが真犯人だと知っていた? 答えの出ない問いをぐるぐる脳の端から端へと巡らせていた中里に、というわけだ、と顔を向けてきた涼介が言った。
「こいつの身柄とこの件についての今後は、こちらに任せてもらいたい。お前らの名誉についてもできる限りは回復する」
「……俺は別に、構わんが、しかし」
「庄司慎吾を疑ってしまったことはすまなかったが、その件に関しては本人から許しを得ているんだ」
 そうだろう、と涼介は慎吾を向き、妙義山へ向かう車中で助手席に乗せた史浩にことごとくの説明と謝罪を受けた慎吾は、まあな、と頷いた。高橋啓介を責められないのは残念だが、これだけの短期間で丸く収めたことを評価すれば、仕方がない。
「それなら俺が口を出すことは何もねえよ。元はといえば、俺がそいつにもっと気を配っていれば良かったんだ」
 どれだけ性格が鬱陶しかろうが、秩序を乱す存在であろうが、仲間だったのだ。ともに過ごした間、改善のしようはあったはずだった。後悔をにじませながら中里がそう言うと、終わったことはどうにもならねえよ、と涼介は言った。これからをどうするかだ。そして顔を真っ直ぐ上げ、「庄司慎吾はこちらに返す。啓介も、こちらに戻す。この件はこれで、終了だ」、と大きく宣言した。松坂に制裁を加えようとしていた四人は、ここが締めだろうと踏んで、「ヨッ! 大統領!」と叫びつつ、何となく勢いで拍手をした。そのまま何となく拍手が広まったがすぐに収まり、もはや観客の誰も松坂を意識すらせず、各々の車へと、日常へと、戻っていった。
「しかし、よくあれだけ調べられたな」
 松坂が自らインテグラの助手席に乗り込んだのを見てから、中里は史浩に言った。運転席のドアに手をかけかけていた史浩は、中里に向き直って、「まあ手間さえいとわなければ、大抵のことは分かるもんですよ」、としみじみ言い、最後にじゃあまたいつか、と愛想からではなく心から出た笑みを浮かべながら、運転席に乗り込んだ。
「俺たちも戻る。庄司、機会があればまた赤城山に来い。中里と一緒にな。待ってるぜ」
 社交辞令とも本気とも取れぬ調子で言った涼介に、機会があればな、と慎吾は肩をすくめ、機会があればだ、と中里は真面目に返した。涼介は他人を挑発する笑みを作って二人に送ると、啓介、行くぞ、とそれまでの経過を咥え煙草でぼんやり眺めていた弟を呼んだ。あ? と眉を上げてから啓介は、ああ、と頷き、のそのそと歩いた。弟を従えた涼介が、失礼するよ、と言って背を向けた。インテグラは既に発車オーライである。これで終わりだ、と中里が気を抜いた途端、涼介の後ろを歩いていた啓介が立ち止まり、振り向いてきた。中里は何もしていないのにぎくりとした。啓介は、「中里!」、と大声で怒鳴った。「何だ!」と中里が怒鳴り返すと、中指を立てる勢いの柄の悪さのまま、啓介は再び怒鳴った。
「暇になったら、相手してやるよ! 引退の準備だけはしとくんだな!」
 こちらの反応も見ずに言いたいことだけを言ってさっさと歩き出した啓介の背中に、誰がするか、と再び怒鳴り返した。
「てめえは自分のことだけやってりゃいいんだよ! ケースケちゃん!」
 啓介は地面を踏み外しかけ、崩れかけた体勢で少し止まり、もう一度中里を素早く振り向くと、「ゼッテーそのうち十発殴る!」、と指を突きつけながら叫び、素早く背を向け、ずかずかとFDに歩いていった。涼介は笑いながら自分を抜かす弟を見、それから中里を見て、意味深長な笑みを浮かべると、片手を挙げて別れを示したのだった。

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10.<帰郷! ああ、ふるさとよ永遠なれ……!!>

 高橋兄弟とフミヒロさんと松坂がお帰りあそばせ、辺りが一段落した雰囲気に満ちたところで、慎吾は改めて峠の空気を吸った。車が集まる場所などどこも排ガスくさいものだが、やはり鼻から喉に落ちるこの感じ、赤城山とは違う味だ。何もかもが懐かしい。この峠にいる人間の統一感のなさ、ある車のバリエーションの豊富さ、混沌加減。客観的に見れば、赤城山に集うドライバーの方が平和である。だが慎吾は退屈な平和よりも刺激的な争いを求める人間であった。落ち着きと的確な意見を持っている者も嫌いというわけではないが、ここに集まるドライバーの半数を占める、脳に理性による関所を構えていない野郎ども、そいつらとの遠慮無用のやり取りが、思いのほか慎吾には性に合っていたらしかった。
 そんな「別に戻って来なくても良かったのによォ、ゆっくりしてろって」「あと四日くらいあっちにいろよ、お前のいない間に俺がチームを買収するから」「まあけどよく拷問されなかったな」「トラウマの一つくらいこさえてくるかと思ってたぜ」と思い思いの感想を並べる久しぶりでもない仲間たちに俺を誰だと思ってんだナメんじゃねえぞと釘を刺したのち、強盗事件についてと赤城山での走り屋生活についてを語らって、解散した。
 そして、慎吾はスカイラインの脇でしゃがんで煙草を吹かしている中里のもとへと移動した。前に立つと、中里は顔を上げ、慎吾を見、久しぶりだな、と改めて言った。そうでもねえだろ、と今まで思うように出せなかった皮肉な笑いを浮かべつつ、慎吾は尋ねた。
「小田の奴、何つってた」
 中里は熊のようにのそりと立ち上がりながら、太ももにやられたんだとよ、と答えた。
「あ? 何?」
「ミニスカートから出てる太ももにな。お前が聞いた通りだよ。それでステッカーを女子高生に、一万で売った。松坂の野郎が雇って小田に仕向けたんだろう。どこまで計算されたものかは分からねえが」
 なるほどね、と慎吾は頷いた。予想通りだ。あの年がら年中金欠の女子高生マニアなら、そこまでされたら一も二もなく売ってしまうに違いない。松坂も考えたものだった。
 中里はスカイラインのボンネットに腰をおろし、疲れたように煙を吐いた。事件の対応やら高橋啓介の子守やらで太い神経を少しはすり減らしたのか、心なしか目の下が青く、肌も青白く、頬がこけ、全体的に帰宅ラッシュの満員電車内から解放された社会人三年目くらいのサラリーマン的疲労感が漂っている。いや待て、頬は元々こけていたか? 二日もその姿を見なかったわけでもないのに、考えてみると自信を持てない慎吾がいた。野郎の顔を目の裏に焼き付けるまで見たところで何の楽しみもないから、形状など気にしたことはなかった。見れば見るほどこの顔が中里毅の顔だったのか分からなくなってくる。そもそも中里毅の顔というのはどんなものだった? 中里毅という男は何者だ? 中里毅とは何だ? 目の前の男の顔を眺めながら徐々に慎吾が印象上のゲシュタルト崩壊を起こしていると、男は何かを思い出したように顔を上げ、視線がかち合い、慎吾はぎくりとしつつもああやっぱこいつは毅だよなと安心した。
「どうだった、赤城は。何か得るものでもあったか」
 中里は慎吾を不審に思った様子もなく、ごく普通に尋ねてきた。ああ、と慎吾もごく普通に答えた。
「まあ面白くはあったぜ。違う峠もたまには走らねえと、逆に腕が鈍ってくるしな」
 そうか、と納得したように頷いた中里の顔を、認識力が回復した脳をもって見てみると、やはり別れた時よりはやつれているようだったが、自業自得である。その良い例が、
「お前、何だよあれ」
「あ?」
「ケースケちゃんって」
 どこから出たのか、その敵意しか呼び起こさないであろう、呼び方だ。ああ、と中里は顔をしかめて目を細め、遠くを見た。
「……あれを言えば、ヒーローになるって話が出てな」
 確かにある意味ヒーローだけどな、と慎吾は嘲った。そりゃねえだろ。「言おうとしていったんじゃねえんだよ」、と中里は説明しにくそうに何度か口を開け閉めしつつ、煙草を吸い、結局は、「タイミングが合ったんだ」、とだけ言った。どんなタイミングが合えば中里毅という男が高橋啓介をケースケちゃんと呼べるのかは慎吾には分からなかったが、少なくとも中里自身がそれを嫌悪していないことは見て取れたので、へえ? と慎吾は高く上がる声を出した。何だよ、と煙草を落とした中里は厳しい目を向けてきた。
「何でもねえよ。まあ、仲は悪いよりは良い方がいいってな」
「誰があいつと仲良いってんだ」
「俺は一般論を言ったまでだぜ」
 しれっと言ってやると、やめてくれ、と中里は辛抱堪らんというように額を押さえた。
「あいつほど厄介な奴はいねえよ。仲良くなれる気もしねえ」
「慣れりゃあ案外イケんじゃねえの? 要するに時間が足りねえんだよ、お前らは。分かり合う時間が」
「ならお前、もういっぺんあいつと交換されてくるか。まだ四日あまってるぜ」
「冗談言うなよ。あんなとこずっといたら、爺さんになっちまう」
「面白くはあったんだろ」
「面白さと快適さはまた別の話でな」
 悪い場所ではなかったが、刺激が足りなかった。そしてこの男も足りなかったのかもしれない。一つ大きく息を吐いてから、まあ、と慎吾は中里を真っ直ぐ見て、言った。
「これからも、よろしくってことで」
 中里は意外そうに額にしわを寄せたが、似たように大きく一つ息を吐くと、まあそうだな、と素直に言った。
 そういうわけで、事の終結であった。
(終)

(2006/01/13)
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