約束の行方 3/5
5.<接近! 二日目、理解、重ねて>
大学帰りに学友たちと適当に遊んでから、山へと繰り出す。いつものことだ。ただ、車を向ける峠は違い、そしてそこに集まる人間も違う。それは昨日突然聞かされた、最愛の兄、高橋涼介からの命令であった。
何だってんだ。啓介は友人経営の服屋の駐車場に置いたFDに乗り、エンジンをかけないまま考えた。
あの悪態尽くしまくりのシビック乗りとその車を、被害者たる田上に見せ、疑いの余地ありか否かを判断させれば済む話ではあるまいか? 田上は被害に遭ったといっても日常生活は支障なく送っているし目も無事だし、心配した仲間が自宅を訪ねた際に『犯人が見つからない限り赤城山には死んでも行かない、行くもんか、連れてこうとしたら死んでやる』と半泣きで宣言していたらしいが、そうであっても面通しは別の場所で行えば良いだけだ。勿論犯人は変装していたというから確実に定めることはできないだろうが、体格や雰囲気がそれっぽく、車にしてもそれっぽければ、あとは問い詰めれてしまえば良いではないか。アリバイが何だ、そんなものはいくらでも工作できる。重要なのは、田上の判断ではないのか?
だが兄はそれはせず、あのシビック乗りを一週間も赤城に居座らせるつもりらしい。もしかすりゃ、と啓介も考えないわけではない。真犯人はいるのかもしれない。だが、あのシビック乗りは存在自体が法に触れそうなほど不遜な態度を取っている。っつーかムカツク。だからあの男に同情する必要はない。本当に違うのならばああも威張るのではなく、もっといじらしく行動すれば良いじゃないか――そう考え、いやでもあの顔でいじらしくされても顔面ぶち抜きたくなるな、と啓介は真剣に悩みかけ、くだらねえ、と硬いシートに背をつけて、ため息を吐いた。大体、いくら中里以下ナイトキッズの連中が信用に値しないからといって、なぜ赤城山で監視しなければならないのだ。これで結局真犯人が現れでもしたら、あの男の無罪を確かめるために見張ったのと同義になる。一体、アニキは何を考えている? あのシビック乗りへのその対応が最善策だとも思えないし、自分が妙義山へ送られることは策も何も、もうワケが分からない。
代わりとか、そういう問題じゃねえだろ、呟いてみるも、ではどういう問題なのか、それもよく分からない。本当に、あの兄は、何がしたいんだ? 弟の自分でも計り知れない頭脳を持つあの兄。子供の頃、やたらと田んぼや森へ行って昆虫や爬虫類を捕まえるのが好きだった兄、捕まえた生物は綺麗に解剖していた兄、蛙やカラスの肉を食べるにはどの調理法が適切であるかを悩んでいた兄、バレンタインデーに女の子から貰ったチョコレートを片っ端から溶かして一つの大きなチョコレート(らしきもの)にしてしまった兄、スクーターで最大何キロ出せるかを真剣に研究していた兄、最も美しく思える女性のおっぱいについて考えていた兄、小学校の自由研究で人体のツボの詳細な解説図を参考文献つきで模造紙上に描いた兄――。
「分かるわけねえっての」
その兄の傍に寄り、その顔を、その姿を、その声を直接見聞きすれば、どういう意図があるのか程度はおぼろげながらも察知できる自信がある。伊達に二十一年弟をやってはいない。だが、家でその話を持ちかけても『ところでお前は美人だが少々暴力的な女性と少々顔は劣るが気立ての良い女性と、どちらが好みだ?』などと言ってはぐらかし、表情の動きすら見せてはくれない。だからといって、今、赤城山に行き、兄と出会えたとしても、帰れと冷酷に命令されるのがオチだ。一度やると言ったことを、簡単に覆す人ではない。中学二年の時に自宅の留守を預かっていた啓介が暇つぶしとして兄のお気に入りのレコードをフリスビーにして叩き割ってしまった時、二週間お前とは口を利かないと宣言され、実際二週間口を利いてもらえなかった。その後は何もなかったかのように普通の兄弟に戻ったが、そういうことを完全に実行する人なのだ。
これはつまり、分かないからってアニキには頼るんじゃねえぞ弟よ、という崖落とし作戦だろうか。なぜ兄が愛する弟を崖から落としたのか、その答えを見つけ、自力で這い上がり、その眼前に提示することが期待されているのだろうか。しかし、そもそもアニキは何をしろってんだ?
「クソ、めんどくせえ」
小難しいことを考えるのは性に合わなかった。とにかく今は、走りたい。峠を、疾走したい。少しずつ削られている道路、残るタイヤのクズ、排気ガスの鼻に染み入るにおい、その中を、それらを感じることのできないスピードで、制覇したい。つま先から頭頂までに血のたぎるあの興奮を、味わいたかった。
だから啓介はエンジンをかけ、迷わず車体を妙義山へと動かしたのだった。
「おおッ! タカハシケースケじゃん!」
到着し、地元の人間に一言挨拶くらいはした方が良いだろうと殊勝なことを思い、人が集まっているところに行くと、こちらが声をかける前にそんな大声を上げられ、啓介は瞬時に辟易した。
「へえ、やっぱここ来んのな。ケナゲだなあ」
「え、マジでトレード? 昨日のってマジだったの?」
「トレードっつーか、アレだろ。昨日の結論としては、毅が人質としてムリヤリ拉致って来たんだろ?」
「ああ、慎吾に手を出したらタカハシケースケの命がないぞ、ってことか。やるねえ、中里サン」
「え、じゃあ中里、脅しかけたの? 『俺の大事な慎吾の代わりはお前になんか務まらない』とかサメザメ泣いたワケ?」
うわキモッ、と一人は叫び、マジこりゃ超ド級にキモイッ、とケラケラ笑いながら一人が言い、脅すんならやっぱ首絞めねえと、と深刻そうな顔で一人がうんうんと頷いた。
……………………うるせえ。
啓介は引いた。群馬から鹿児島あたりまで引いた。昨日も中里がオダという奴のもとに行ってから戻ってくるまでの少しの間で「ショウジとトレードだったら向こうのが合わないんじゃね?」だの「っつーか身長何センチ? あとチンコ平常何センチ?」だの「FDって狭いだろ、俺のダチも乗ってんだけどさ」だの「お兄さんってフーゾク行くの?」だのと色んな人間が矢継ぎ早に尋ねてきていたが、がっついた調子はなかったので、引くにしても群馬から長野あたりまでだった。だがこれはどうだ。啓介の言葉を聞かないうちに、勝手に話を盛り上がらせている。弾けている。弾けまくっている。そのうち爆発しちまってくれ、と思わせるほど、ハッスルしている。
それにしても、大学の仲間でもここまで早口なくせにカツゼツの良い奴らはいないし、レッドサンズのメンバーはそもそもこれほど騒がしく喋らない。啓介ですらよく『もう少し静かにしろ』と涼介に注意されるほどである。だがいくら上昇志向の強い啓介でも、目の前で繰り広げられる「まあ世の中キモイことがオウオウにして事実なワケだからさ」「そうそう慎吾クンと毅クンは愛し合っちゃってるしな」「お互いのケツを掘り合った中だもんな」「そりゃあタカハシケースケの一人や二人連れてこないと気が治まらねえよ」「え、タカハシケースケって二人いんの?」「東京にもう一人と沖縄にもう一人いんじゃね? ドッペルゲンガー」「何でお前が知ってんだよそんなトップシークレット!」などという、ボケと下ネタと妄想とツッコミの応酬に適応はできなかった。むしろ、同じレベルにいたくはなかった。
「……別に、脅されてねえし。っつーかあいつに連れて来られるほど、俺は弱かねえよ」
とりあえず不名誉な誤解が発展してはいけないので、会話の切れ目を縫って呟くように返すと、何がおかしいのか、うひゃひゃと皆で笑い出した。睨んだところで誰も静まらない。怯えという神経が抜き取られているようだ。
「ウワサにたがわず偉そうだよなあ。何かそのまんまで、ある意味おもしれえや」
「クールもクールだな。俺たちとは無縁な言葉だな」
「俺らはほら、アレじゃん、エンターティナーだから! 人に夢を与えるのが役割だから! モリモリだから!」
「そうそう、俺は子供に好かれてるしな。姪っ子のユイカちゃんはいつも俺が熊さんみたいだ言ってと懐いてくれる」
「まあ家族ならフィルターかかるもんな。でも大人になるに従い女の子ってのはリアルな目を持っていくんだぜ」
「キモイものをキモイと言える目を持つようになるわけだ」
「それ口じゃね?」
「にしてもイロイロムリありすぎじゃね?」
騒ぎ出した集団に踏み込むにも不愉快さが募り、とりあえず唯一話の通じそうな奴がいるかどうかを確認するため、「中里は来てねえのか」、と啓介は尋ねた。あれ、毅さん来てねえっけ、と一人がキョロキョロと首を回し、来てねえよお前何勘違いしてんだよ、生霊見たんじゃねえのあの人怨念強そうだから、と他の人間がすかさず指摘する。テンポが速い。聞いているだけで、気分が悪くなってくる。これが人酔いか。啓介がムカムカしていると、キョロキョロしていた人間は、いやー、とうなじ付近をボリボリ掻いた。
「あの人、いっつもいる感じすっからさあ。隙あらば参上してるっつーか」
そんなにかよ、と喉元あたりに胃液の酸っぱさ感じつつ啓介が蔑むように言っても、おうおう、とまったく気付かぬように、皆揃って頷く。
「熱心なんだよ。パッションに溢れてるっつーかさ」
「そのくせ走るだけじゃなくて、他の人らの相談に乗ったりすることもあるからなあ。俺はあそこまで甲斐甲斐しくはなれないな。すげえと思うぜ」
「すげえっつーか、ある意味アレだよな、イッちまってるよな」
「頭の作りがどっかおかしいんだろうな。なきゃいけない配線がどっか切れてるとか」
「赤か青かってところで、赤切られちまったんじゃねえの? 生まれる時」
「赤がいけねえのかよ」
「だってセーフったらお前、大体青だろ。青信号は進めだし」
「あー、でもあの人の人生、車だけで終わりそうだよな。何となく」
「あるある、女について聞くだけで顔赤くなるっつーのはありゃ、やべえってマジで」
「カンノーショーセツ読ましたらカバーだけで昇天すんじゃねえの?」
「あーいうのを何つーの? ウブ? カタブツ? スケベ?」
「スケベだろ」
「スケベだよな」
「スケベ以外の何者でもない」
「あ、俺前に一緒にキャバクラ行こうっつったら、『そんなもんに金使うなら車に使え』ってアドバイスされたぜ。十秒後くらいに」
「それアドバイスかよ!」
「明らかに困ってかわしてんじゃねーか、下手に!」
ぐはははは! と哄笑と騒音が渦巻く中心にいるハメとなり、うんざりしながら啓介は、帰りてえ、と思った。
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折り畳み椅子をもう一台用意してもらい、慎吾は有益な暇の潰し方を実践することにした。自宅で発掘したまだすべて目を通していない車雑誌やらパチンコ雑誌やら漫画雑誌やらゲーム雑誌やらと、ついでに前の彼女に薦められて貸してもらったが返す前に別れたために家の中で浮いた存在になっている恋愛小説を携えて赤城山に毅然と降り立つと、隣の椅子にそれらをどさっと置いて、本来の椅子にどっしりと座り、ジャケットの内ポケットに潜めていた伊達メガネをかけて、一番上に乗せた雑誌から黙々と読み出した。人生において死ぬまで勉強は続くのである、と言い出しそうな雰囲気を演出してみたのだった。
一時間で飽きた。
古びれたスニーカーにアイロンを適当にかけただけのズボン、擦り傷がそこかしこにあるダウンジャケットという格好は、思ったよりもヤンキー性を落としてくれてはいないのかもしれない。伊達メガネも跡がつきそうなので十分でやめた。どうやら慎吾独自の爽快感増加改造は失敗に終わったようである。それが証拠に、これまで誰からも声をかけられていない。高橋涼介も渉外役もいないから他の人間が見張っているのは確かであろうが、それにしてもまったく孤独だ。まあいいさ、俺は孤独が好きなんだ。思いながら慎吾は初めて結果的に借りパクした恋愛小説を開いてみた。二分で諦めた。やさぐれ気分で恋だの愛だの描かれているものを読むべきではない。そんな御託並べてねえでさっさとセックスして終わっちまえボケ、と心の中で叫んでから、慎吾はその小説を積み重なった雑誌の脇に滑り落とした。
「暇そうッスね」
仕方ねえから真面目に中古車情勢でも調べるか、と演出的に組んでいた足を解いて煙草を吸いつつ考えていると、目の前に二人の男が立っていた。両方とも空っ風に吹き飛ばされそうなほどにひょろりとしており、薄い顔をしている。兄弟か。しかしよく見れば造りは違っていた。
「……まあ、暇だな」
「走らないんスか?」
とりあえず言葉を返してみると、右に立つ男が不思議そうに聞いてきた。高めの声だ。人が少なくなったら走るよ、と何となく言葉遣いを柔らかくしつつ慎吾は答えた。二人の男は顔を見合わせ、でも人いない時ないぜ、と左の男が言った。低めの声だ。喉仏がくっきりと出ている。
「そうか。まあ、ならタイミングを見計らってだな」
「そういやあんた、シビック乗ってんだよね。俺、ホントはあれ買おうと思ってたんだけどさ、その時丁度、自分の中でちっこい車ブームがきてさ。ついビート買っちゃったんだよね。いい車だけど」
左の男がゆったりと笑いながら言い、へえ、と慎吾は興を覚えた。それほど攻撃的でもないし、話相手としては悪くない。
「ビートもいいんじゃねえ? 車楽しむには打ってつけだろ。税金安いし」
「デートにゃいいけどなあ。買い物には向かないけど。男二人で出かける時も、密着感がちょっと嫌だな」
「そうそう、それで海とか行くと、ちょっとむなしくなるんスよね」
低い声と高い声が、静かに笑う。落ち着いた雰囲気だ。落ち着きすぎていて、落ち着かなくなる。「それに」、と高い声が続けた。
「俺はバイクなんで、それで二人乗りもちょっと、むなしいじゃないスか。たまに乗るけど」
まあ後ろ乗せるなら女がいいよな、と慎吾が笑うと、そうなんスよねえ、としみじみ高い声が頷いた。
「でも彼女乗せて走っても、慣れてないとカーブ曲がる時体倒してくれないから、それはそれでキツイんスよね。まあ可愛いけど」
「あんたはバイク乗らないの?」
低い声が尋ねてくる。居心地の悪さを感じながらも、慎吾は滑らかに答えた。
「昔は乗ってたけどな。車買ってからは、実家の車庫で眠ってる。やっぱ利便性が違うしよ」
「ああ、バイクだと小回り利くけど、腰痛くなるもんな」
「夏に転倒防止に着込むと蒸れるしな」
「でもぶっ飛ばすとすげえのは、やっぱバイクッスね。速度が違うし」
そうだなあ、と三人で納得した。何だろうかこの空間は、と慎吾は吸うことを忘れていた煙草をくわえながら思った。時間の流れが、遅い。強盗犯だと疑ってきているだろうに、こうも自然に話しかけてくるあたり、悪い奴らではないだろうが、いかんせん、泰然すぎる。これに馴染んだ状態で妙義山の仲間の元へ行ったら、一人浦島太郎状態になりそうだった。
「やあどうも、こんばんは」
慎吾がこのままだと隠居したくなるなどとちらりと思っていると、ナイスタイミングでその男がやって来た。渉外役だ。名前は知らない。無地のセーターにズボンという休日の家族連れマイホームパパ的な格好は、少しだけビートの持ち主とライダーからは浮いていたが、平和を愛する人間になりかけていた慎吾にとっては地獄の厳しさを思い出させてくれる救世主であった。こんばんは、と慎吾が紫煙を吐き出しながらその男に挨拶すると、右の高音男も「ああフミヒロさん。どうも」と挨拶し、左の低音男が「じゃあ俺らはこれで」、と別れの挨拶をし、じゃあまた、と二人揃ってあっさり離れて行った。慎吾が背を向けた二人に対し気付くなよと思いながら手を振っていると、フミヒロさんが「どうです、慣れましたか」、と聞いてきた。
「まあ、それなりにはな。コースはやっぱあっちの方が俺は好きだが」
「ここはある意味決まってますからね。俺はもう慣れちまってるから、やっぱここが一番だけど」
この男も静かといえば静かであるが、先ほどの二人組よりも緊張することなく話ができる。場数が違うのかもな、と慎吾は思った。レッドサンズはよくよく方々へ旅立っているというから、多種多様な人間と接触する機会も多いだろうし、そういった場合でも相手の気分をあまり害さず、なおかつ相手に見下されないような身の振舞い方を取ろうとすれば、自然と空気の作り方もうまくなるのだろう。まあ地元が一番だよな、とひとまずの結論を出し、っつーか、と慎吾は右斜め前方に立ったフミヒロさんを品定めするように見上げた。
「昨日、俺のことはぐらかしてくれたよな」
「え、何だっけ?」
「弟クンの妙義山出張理由について」
ああ、とフミヒロさんは、心底から思い出したような深い声を出し、辺りを見回してから、浅くため息を吐いた。
「どうした」
「いや、また涼介が出てきてくれないかなあと思ったんだが。今日はダメか」
幽霊じゃねえんだから出そうなところで出るもんでもねえだろ、と慎吾は形として否定してみたが、それがねえ、とフミヒロさんはもっともらしい顔をして言った。
「あいつは神出鬼没でね。いないと思ってウワサしてると、突然出てきたりするもんで」
なるほど、確かにあの男は、いつどこで何をやっていてもおかしくはない。
「それは、ある意味怖くねえか」
「でもまあ、無害ですから」
「精神的には有害っぽいけどな」
「どうだろう、やっぱ慣れかな。ああ、何で啓介をあっちにやったかって話だっけ?」
慎吾が軌道修正を図る前に、フミヒロさんは話題を簡単に戻してきた。それほど触れられたくない話というわけでもないらしい。あまり吸えなかった煙草をもう諦めて、そうだな、と慎吾は頷き、「仮にだ」、と言った。
「仮に」
「仮にな。あのゴーマン云々ってのが高橋啓介のことを言ってんだとしたら、あれのゴーマンさを分からせるために妙義山に通わせた、ってなるよな」
まあそうなりますね、と他人事のようにフミヒロさんは肯定した。「けど」、と慎吾は昨夜高橋涼介とこの男が去った後に推測した内容を述べた。
「ケンキョにさせるなら、あいつより速い奴がいるところに送るべきだろ。別に中里が遅いとは言わねえぜ。けどあいつはとりあえず高橋啓介に負けてんだ。今やりゃどうだか分からねえだろうが、そんな分からねえことを頼るより、あれに勝ってる奴がいるじゃねえか。秋名のハチロクが。そっちの方が確実なんじゃねえかと思うんだが」
まあそうですね、とやはり他人事のように肯定するフミヒロさんに、名探偵になるつもりはない慎吾は、提携を匂わせてみることにした。
「あんたはどう思う?」
聞くと、俺? とフミヒロさんは思いがけないように眉を上げた。そう、と慎吾は頷いた。「どう思うか、だよ」――あくまで『思い』である。事実を言えと強要しているのではないし、事実を言う必要もない。その『思い』と事実が被っていたとしても、それはやはり、あくまで『思い』なのだ。どう出るか、と慎吾がフミヒロさんをただ観察するように見ていると、「俺は」、とフミヒロさんは、乗ってきた。
「それだと、ついでにならないからだと思いますね」
彼方を見ながら言ったフミヒロさんに、どういう意味だ、と解説を促す。
「つまり、結局ついでってことですよ。強盗騒ぎのね。庄司さんをここに迎え入れれば、啓介をあっちに渡す理屈ができる。人質みたいなもんです。思い上がりが強くなっていた時期だったから、丁度良かった。だから妙義山にした」
んじゃないかと、俺は思います、とフミヒロさんは律儀に付け足し、慎吾を見て、おどけるように笑った。共犯者同士の秘密めいたシンパシーがそこにはあった。慎吾は唇の左側を上げ、改めてそれを示した。
つまり、初めから計算されていたわけではなく、たまたま強盗事件が起こり、その解決策のついでともなったから、ゴーマンコーマン高橋啓介クンは、妙義山に送られた、ということか。そしておそらく、そこに高橋啓介よりも速い人間は求められていない。違う環境に放り込まれることにより、本人の自覚を芽生えさせようという、一種の賭けなのだろう。しかし、それにしても悪い場所を選んだものである。慎吾はひとまずある程度の疑問が解決したことから気楽になり、けどあそこにいるのは中里だぜ、と調子良く言った。中里だなあ、とフミヒロさんはしみじみと言った。
「放っといて気付かせるにも、あいつが傍にいちゃあ毒になると思うけどな」
「そうは考えてないみたいですよ、涼介は」
慎吾はわざと間を置いたが、と思います、とフミヒロさんは続けなかった。
「何?」
「最もおかしな気を起こしそうにないそれなりの大人ってことでね、価値付けてるみたいですから。走りは置いといて」
へえ、と慎吾は驚くよりも不可解に思いながら頷いた。会った回数など片手で数えられる程度だろうに、いつの間に高橋涼介は中里をそのようにランク付けていたのだろうか。それとも俺の知らないところで情報交換会でも開かれてて、実際のところあいつらはマブダチになってたのか? だが中里はそんな素振りは見せていなかった。だとすれば高橋涼介が独自に下した評価なのか。それにしては的を射ているような射ていないような、っつーかそれで弟をそいつのいるところにやるってかなりの博打じゃねえの、と慎吾は謎が増えたための解せない気持ちを抱きながらも、それはあいつも本望だろうよ、と呟いた。走りを置いときさえしなければ、とは続けずに。
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「どういう奴なんだ、中里って」
ナカザトサンシンゴクンショウジタケシナカザトナカザトタケシショウジナカザトシンゴ、と癪に障る人名が次から次へ止まることなく唱えられ、奏でられるボケとツッコミの不協和音にも耐えかねて、啓介は刷り込みめいた感覚から思い浮かんだ疑問をつい口にしていた。啓介の声に気付いたのは二人ほどであったが、「どういうって、そういう奴だよ。そのまんまだろ」とそのうち一人が言ったところ、「え、何よ、中里毅解剖白書?」と他の奴も入ってき、被るのも構わず各々が思うがままに喋り出した。
「アレだな、強いて言うならあの人は、オッチョコチョイっつーかしっかりしてるっつーか鈍感っつーか鋭いっつーか」
「お前それ、全部矛盾してんじゃん」
「でも確かに強いて言えば、そういう奴じゃね? っつーかあいつの存在自体が矛盾してるっつーかよ」
「まあ言えるな。矛盾のカタマリっぽいよな」
「お、何だお前、カッケーこと言いやがって」
「ふふふ、諸君らとは頭のデキが違うのだよ、頭の!」
「あれか、あの荷物とか守るプチプチでできてるってことか? 潰せんのか?」
「発泡スチロールじゃねえか? あ、っつーか実は中身何も入ってないとかか?」
「ひがむな凡人どもよ、いくら俺の毅批評が正しかったからと言って!」
「正しいっけ?」
「ってかおめーが言ったんじゃねえじゃん!」
正規の路線など知ったこっちゃねえという連中の発言から重要そうなものを抜き取ろうとした啓介であったが、脳内血管が裂けそうだったので、やめた。そして、素直な感想を呟いた。
「全然、分かんねえ」
すうっと波が引くように、それまで声を張り上げていた者たちが静まった。それぞれ顔を見合わせて、生まれつき険しいであろう顔を更に険しくしている。
「まあ、これで分かる方がすごいよな」
「っつーか正直俺も分かってねえし」
「俺も俺も」
「っていうかタカハシケースケ、ホントに毅サンのこと知りたかったの?」
比較的甘いマスクをしている男が、否定を期待している口調で尋ねてきた。そういうんじゃねえけどよ、と啓介は期待に応えるつもりはなかったが迷いもなく否定し、けど、と特に理解されたいとも思わないまま、まとまらぬ心境を言っていた。
「あんたらがナカザトナカザトうるせえから、聞いてみただけだ。そんな言われるほど、すげえ奴にも思えねえからよ、俺には」
その言葉にも、声にも、染み付いている軽蔑心は確実に潜んでいた。ここまできて、騒ぐ連中が気付いていないはずがなかった。だがやはりそんな仕草を見せず、喋り続けるだけだった。
「まあ、タカハシケースケさんからすれば、どんな奴でもスゲエって思えそうもないよな」
「っつーか俺ら、中里のことスゲエっつってたっけ?」
「言ってたじゃねーすか、スゲエスケベって」
「ああそうか、言ってたな」
「そうそう、言ってたな」
「それで納得される毅クンって、何とも言えない存在だよな、俺らにとって」
「そうだな。プライスレスな存在だな」
「そんな感じだ。あとはまあ、自ら考えてくれ、若者よ」
顎ヒゲをたくわえた男がそうまとめ、何でお前がまとめてんだ、と四方八方からコントのようにいっぺんに頭をはたかれて、ぎゃはは、と周りの人間は大きく笑った。その貫き具合に、啓介はようやく思い至った。コケにされているということをこいつらは最初から知っているのだろう。だが、知った上で徹底的に自分たちの道を突き進み、奥底で他者を蔑ろにすることで、嘲る者どもへの報復を達成しているのだ。
それに気付いてしまえば、ムカツクことも馬鹿らしくなってきた。好き勝手にやる奴は、好き勝手にし返せばいいだけだ。レッドサンズでも気ままにやっていないわけではなかった啓介であったが、容赦のない集団に遭遇することはなかったため、加減の見極め方を知らなかった。だが分かってしまえばもう安心、これからは対等に殺り合える。
だが用件はギザギザ刃で互いの急所を擦り削ることではなく、FDを転がすことであったから、啓介は再び知識人が嘆きそうな日本語を駆使して心のままの雑談を始めそうな男どもに、ここで今から走ることを宣言しようとしたが、その時、噂をしていたためなのか、影が差してきた。正確に言えば、そのまんま地面に刺さっちまえと恨ませる影のような黒い車がやってきた。いいんだか悪いんだか分かんねえタイミングで、と啓介は腹立たしく思い、いや、悪すぎる、バッドもバッドだ、と思いを新たにした。登場を引き延ばしたところで視聴率が上がるような格ではないというのに、何なんだ、あのスケベ野郎は。
「お、アレだタカハシケースケさん、本人に直接聞いてみりゃいいじゃん。来たんだから」
鼻にかかった声をかけられ、あ? と向くと、ヤニに染まった黄色い歯を面白そうに剥き出しながら、「どういうお人柄なんですかー、って」、と、大木に頭突きをして倒しそうな目をした黒髪七三分けの男が言った。ああ、と適当に意見を聞いたことを示す頷きを返し、ここの来客層も何なんだよワケ分かんねえ、と思いながら、啓介は間の悪い男が来るのを待った。
「何やってんだお前ら、集まって。そいつに手ェ出してねえだろうな」
奇怪そうに寄ってきた中里は、確認するように言った。そんな暴力楽園に住む人間に見えるかよ俺らが、と一人が不当だと言わんばかりに声を張り上げ、そうそうピースラブですよ僕たちは、と一人がゴマをするように言い、「あんまりからかうなよ、預かってるみてえなもんなんだから」、とそれらを特に取り上げるわけでもなく、中里は改めて注意した。そして先ほどの甘いマスクの男が各々の応答とブーイングとの間を縫って、からかってんじゃねーすよ、と楽しげに返した。
「タカハシケースケが毅サンについて聞くから、俺たちが親切に答えてあげてただけだし」
あ? と来てから眉間に刻まれ続けていたしわを一層濃くし、中里は啓介を向いてきた。不審以外の何の色もない顔だった。確かにこいつは、そのまんまなのかもしれない。そのことに何か喉の通るような感覚を得ながら、考えることなく「聞いてねえよ
」、と怒鳴るように啓介は言い返し、本題を述べた。
「俺は走るぜ、コースレコード塗り替えなきゃなんねえんだ。じゃなけりゃアニキに会わせる顔がねえ」
「そうか。まあ、できねえと思うが頑張れよ」
揶揄ではなく本気で言っているような中里に舌打ちをやり、ニヤニヤしている連中には脳内で全員に掌底を食らわせて、啓介はようやくFDへと舞い戻った。
そういうわけで、平穏無事に二日目、終了である。
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