約束の行方 4/5
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6.<発見! 過去から来た男>

 俺も礼儀正しいよな誰も評価してくれねえのに、と自画自賛をしつつ、膝に穴が開きかけているジーンズに薄汚れたスニーカー、昨日と同じダウンジャケットを着込みつつ、本日も慎吾は時間通りに赤城山山頂駐車場を訪れ、他の車から適度に離れた場所にぽつんと置かれている折り畳み椅子に座り、人間観察を始めることにした。一人の世界に閉じこもることはいつでもできるが、今は多くの他人がいるのだ。時間潰しにそれを利用しない手はない。
 最初は人類皆兄弟を地でいくようにしか見えなかった人々であるが、ようやく個人個人を分けて認識できるようになってきた。あっちは厳然たる優男、王道のトヨタを支持しそうな雰囲気だ。カリーナを愛している。決まり。こっちは少しチャラチャラしているが、実は童貞でスズキが出した軽自動車を全部ソラで言える。確定。こっちはかなりオタクっぽいから間違いなくエンジンマニアだ。決定。
 さてお次は、と新たな独断の餌食をドライバーの集団から集団へと物色していると、慎吾は左手側にいる一人の男に意識を奪われた。淡い茶髪を上品に跳ねさせ、色縁メガネをかけ、白くパリッとしたジャケットに灰色のジーンズ、腰には鎖、そして黒いブーツを着装している。レッドサンズメンバーとしては、不可のなさそうな人物だ。だがやたらと目を引く男だった。どこにも慎吾の関心をそそる装飾品や凶器は身に付けていないし、雰囲気にしたところでイカニモな自称オシャレ系でしかない。いや、待て。そのイカニモな雰囲気、『オレッテカッコイイダロ』的自意識ムンムンの雰囲気、心根の下品さが勝手ににじみ出る雰囲気。見覚えがある。あって当然だ、地元にはそういった自分のことは振り返らないナルシストがゴロゴロいたのだ。それが赤城山にいない道理もない。もしかして初日に俺はこいつを見たのか、と慎吾は疑り、男をじっと見た。記憶は蘇らなかった。まあ似たような奴なんてどこにでもいるもんだな、と諦めると、その男がこちらの視線に気付いたように顔を向けてきた。しかしそれはほんのわずか、一秒にも満たない、誰の存在も察知できないような時間であり、そののち男は避けるように顔を背けるどころか、背を向けた。
 ――何だ?
「時間通りッスね」
 慎吾が何かの違和感を得て男を更に見ようとしたところ、後ろから声が降ってきた。首をねじると、そこには昨日の高低音コンビが立っていた。相変わらず二人そろって印象に残りにくい、白く薄っぺらい顔をしている。
 その『時間通りッスね』という言葉が『時間通り来るなんて律儀な方だ、素晴らしい』という評価なのか『時間通りに来てるなあ』という単なる感想なのか決められないまま、まあ一応時間通りに来ねえと石投げられそうだからな、と首の筋を酷使しながら慎吾が言うと、そんなことしねえよ、ここそんな石ねえし、と良い声で笑いながら低音の黒髪男が言い、二人は椅子の後ろから前へと移った。慎吾はそれにともない顔を前へと戻したが、二人の間から見える景色には、先ほどまでいたナルシスト風な男は消えていた。今の間に車にでも乗って走りに行ったのかもしれないが、いなくなった奴のことなどはどうでも良かった。石コロあるとタイヤに悪いしなあ、とふんわり茶髪の高音が言ったところで、慎吾は二人に意識を戻し、「おたくらさ」、と思いついた疑問を口にした。
「俺の見張りでも頼まれてんのか?」
 あ? と低音が聞き取れなかったような声を出したが、すぐに理解できたらしく、いや別に、とこだわりもなさそうに言った。
「何となく興味あったからさ。あんたに。それだけだよ」
「あれ、見張りとか、あんま考えてる奴いないッスよ。まあ俺はレッドサンズのメンバーじゃないけど、そいつらでも、あんたがやったって信じてる奴も少ねえし」
 付け足すように、邪気なく高い声の男が言ったが、高橋涼介がまるで『レッドサンズのメンバーは一人残らず猜疑心の虜囚だぜ』というような主旨の発言をしていたような印象がなぜか頭に強く残っており、慎吾はそれほど疑われていないということがすぐには信じられず、「状況としちゃ俺は、結構黒いと思うがな」、と客観的事実そうなことを言った。うーん? と高い声の男は首を傾げた。
「黒っつーか、灰色くらいじゃないスかねえ。だってあんたらんところって、因縁つけて喧嘩吹っかけてくるイメージはあるけど、金だけかっさらうってイメージないから」
「金盗るよりも、車潰す方が好きそうって感じがするってかな」
 低い声がそう続けた。まあ間違っちゃいねえな、と慎吾は呟いた。仲間の大半はよく他の走り屋に遠慮なく思いの丈を告げて怒りを誘ったり、フレンドリーを信念として結果的に相手をボロクソに言って怒りを買ったり、そこから拳での語り合いに移行しようとして見事に失敗したりもしているが、その連中も含め慎吾の知る限り全員は、金目当てで他の走り屋へちょっかい出したことはない。奴らが峠で求めるのはもっぱらが女と名誉、あとは同士と好敵手か、日常の延長だ。金銭を紙クズだ、キツネが化かした葉っぱなのだと蔑ろにしているわけではなく、それも喉から手が出るほどに欲されるものであるが、しかし峠で法を犯してまで得ようとするほどの大変な奴も、いないということである。
「まあいないわけじゃないッスけどね、やってそうだなあって思ってる奴も。ただ全員絶対だって思ってるんじゃないっていうか」
「ちゃんとした情報が足りないしな、こっちは。高橋涼介さんが全部握っちゃってるから。あの人、そういう力技、よくやるんだよ」
 だよなあ、と高い声が遠い目をしつつ同意した。低い声もどこか宇宙の彼方へ思いをはせているような目をしていた。力技という非常に妥当な意見と高い声の態度はともかく、慎吾は低い声の多少の不満が窺える態度に、素朴な疑問を抱き、
「あんた、高橋兄弟のシンパじゃねえの?」
 単刀直入にそう聞くと、高い声がまず、まあそういう奴もいるけどな、と低い声を見ながら言い、まあいるけど、とそれを肯定してから、低い声が答えた。
「俺は別になあ。まあ高橋涼介さんはとんでもねえ人だとは思うし、高橋啓介さんもかなりの人だと思うし、あの人いないと少し寂しいけど、シンパってほどでも」
「レッドサンズのメンバーって、大概がどっちかのファンっぽいんだけどよ」
「ああ、それはあるな。やっぱり走ってると、速い人に憧れるっつーかさ。そういう心理じゃねえかな」
 そう言ってからすぐ思い出したように低い声の男は、いやそればっかじゃない奴もいるけど、と否定し、そこで慎吾はそればっかじゃない奴の存在を思い出した。
「そういや一人ここに、熱狂的な高橋啓介ヒイキの奴いるだろ。何だっけな、あの黒いガキ。初日以来見てねえけど」
「黒いっつーと、ケンタか。あいつならバイトッスよ」
 高い声が素早く答え、バイト? と慎吾は聞き返した。
「シフト変えてもらったとか言ってたかな、あんたがいる時間帯に。何か、融通利くらしくて」
「それまでは高橋啓介さん来てる時には、何が何でもここ来れるようにしてたよな。あいつは確かにまあ、熱狂的だ」
「俺もあのくらいになってみたいって、たまに思うんスよ。人生、楽しそうだから」
 その高い声の意見には賛成できなかったが、何にしろこちらを逐一目の仇にしてけーすけさんけーすけさんとやかましいあのガキがいないのは、平和この上ない状況だ。平和すぎたから、おそらくあのガキを今まで思い出しもしなかったのだろう。良いことである。
「あ、俺そろそろバイク動かすかな」
 高い声も思い出したように言い、慎吾を見ると、「あ、庄司さん、後ろ乗ってみます?」と思いついたように尋ねてきた。予想もしていなかった言葉に多少驚いた慎吾であったが、男と二ケツをして峠を下る気分ではなかったので、いや、もう少しここでゆっくりしてるよ、と慎吾にしては丁重にお断りを申し上げた。そうスか、と高音男は残念でもなさそうに言い、なら俺乗るわ、と低音男が名乗りを上げて、じゃあまた、と二人揃って去っていった。悪い奴らではないから、機会があれば乗せてもらうのも一興だろう。どうせ機会なんてねえけどな、思いながら煙草に火を点け、考える。あの低音男、レッドサンズの中でも隠居性が高そうだ。高橋涼介が率いていたチームがああいう者たちばかりでは能力向上機能が鈍るだろう。だがあの男がレッドサンズにおいて浮いている場面も想像しにくいから、レッドサンズはナイトキッズとは違う方向に許容範囲が広いのかもしれない。
 まああのナルシス系は入りそうにねえけど、と煙草越しに息を深く吸い込みながら慎吾は思った。一度意識したら忘れられない不調和さを持つ男だ。レッドサンズにいても浮くし、ナイトキッズにいても浮くだろう。しかし、そういえばあの男、雰囲気だけではなく、実際に見た覚えがあるようにも思える。あれはいつ、どこだったろうか。目をつむり考えていると、傍に気配がした。ゆっくりと目を開ける。
「よお、高橋さんにフミヒロさん」
 二人が口を開く前に、椅子の背もたれにだらしなく背を預けながら慎吾は挨拶した。どうも、と暖かそうなシャツを着たフミヒロさんが愛想の良く笑い、やあ庄司君、と黄緑のシャツに黒いジャケットを合わせた高橋涼介は表情を一つも変えずに言った。
「ここには慣れたか?」
 まあそれなりにな、と当たり障りのない答えを慎吾は選んだ。それは何よりだ、と高橋涼介はやはり表情を一つも変えずに言った。呼んだ甲斐がある。「呼ばれた甲斐もある」、と返し、煙草を味わい、それから慎吾は戦闘開始のベルを己の頭の中のみに響き渡らせ、ところで、と高橋涼介を窺うように見上げた。
「あんたの言ってた理由だけどよ」
「ああ」
「説教でも期待してんのか、中里の」
 考えるような間も置かずに確実に把握している思わせる声を出したその伊達男に、冷やかすように不真面目に笑いながら尋ねると、男もまた、悪党めいた酷薄な笑みを浮かべた。
「飛躍的な論法は好きだぜ、庄司慎吾」
「お気に召されたか」
「とても。おかげで天に召されそうになったよ」
 ぶっ、とフミヒロさんが噴き出し、慎吾は愛想笑いを浮かべようとして、ハッとした。これは召されるをムリヤリかけた低級ギャグに思えるが、その裏には、てめえみてえなタフがこの程度で死ぬわけねえっつーか天国とか信じてねえだろリアリストめ、というツッコミを誘うことによって、駆け引き最中特有のジョーク的上品さのある笑いを生じさせようという、高等技術が潜んでいたのだ。影ながら自分を削って人心を操ろうとするとは、この男、やはり伊達であるが、伊達ではない。
「しかし、生憎啓介は説教が大嫌いでな。聞く耳を持たない。あいつは反骨精神の塊なんだ、押し付けようとすればするほど頑なに拒んで、折角かけられる親切も優しさも全部ぶち壊そうとする。だから期待するとすればあくまで自然な対応だよ。中里は、困っている人間をみすみす放っておく人種ではないだろう」
 その伊達であって伊達ではない男の中里評を、慎吾は否定できなかった。できるとすればその上強さを備えた自分本位のゴーマンコーマン人間には極端に弱いという補足くらいであり、また高橋啓介は目の前の兄上殿いわくそういった人間であるらしく、慎吾が単純に考えていたよりも二人の交流は毒気なく行われるかもしれなかったが、それはともかく一部を否定できないからといって高橋涼介の言い分をそのまま肯定すると、まるで中里を『思いやりに溢れた好青年』と評しているような心持ちになるため、そこは真実になぞらわなけりゃならん、と慎吾は思った。
「まあ女と子供には弱い奴だけどな。困ってるのか?」
「俺はよく知らないがな。あとはあいつ自身の問題だ。斬新な解消法を見つけるか、帰ってきて暴れて終わるか。俺としては中里が前者の手助けをしてくれることを望んでいるよ」
「そりゃまた、随分とあいつを信用してるんだな」
「君がここにいるだろう、庄司君。代わりにならないと言わしめた。なら悪いようにはしないんじゃないか?」
 揶揄は揶揄で返された。あの野郎いない時までこの俺に迷惑かけやがって、と急所を作った中里を憎々しく思いながらも、「全部計算尽くですか」、と慎吾は子供が見たら泣き出しそうな満面の笑顔を高橋涼介に送り、ネズミ講のセールスマンほどに紳士的に言った。
「いや、俺の考えることといえば運に頼るばかりさ。だからしくじる時はとことんしくじる。しかしそうならないよう、いつも神様にお願いしているんだ。今回なら、大事な弟が人様の車を傷つけないようにってな」
 曇り空を見上げながら高橋涼介は言った。絵になる男だ。だがその浪漫溢れる発言内容は、いささかやり過ぎに思えた。道化を演じるのも加減を見極めなければ引かれて終わりだ。と思っていたら、フミヒロさんが一人で口を押さえて肩を震わせていた。――内輪受けかよ! どうやら高橋涼介は、ターゲットを固定して責めるのが好きであるらしい。嫌らしい奴だ。
 たまにいるんだよなこういう奴、と慎吾は厄介に思い、そう思った瞬間、壮大な閃きに襲われ、即座に上半身ごと後方へひねった。
 そうだ、こういう奴が昔いた。ダジャレと内輪のみに通用するネタをばら撒いては面白がられウザがられ、自分がイケていると勘違いして女を食った回数を自慢してはウザがられていた男、日焼けのひどかった男、下品さをかもし出しまくっていた男――だが無論、もうその男は慎吾が見る先にはいなかった。どうしました、とフミヒロさんが聞いてくる。いや、と慎吾は体を戻し、違和感の正体を突き止めたと思わしき嬉しさから、ついつい口を軽くした。
「あのよ、突然だけどこの辺にもしかして、松坂ってインテグラ乗ってる奴いねえか? タイプR出る前の」
 高橋涼介はフミヒロさんと目を見合わせて一つ頷くと、慎吾を向いて、ああたまに来るが、とまた頷き、知り合いか、と興味深げに尋ねてきた。
「知り合いっつーか、昔こっちいたからよ。まさかあいつが赤城にいるとはな。髪も服も変えちまって、日焼けもやめて、心機一転したつもりなのかね」
「彼が来るようになったのはここ一ヶ月のことだ。以前はお前のチームにいたのか」
「ああ、けど毅の、中里の見てねえ隙にあいつのスカから金目のもんギろうとして、ビンタ一発強制送還だ。元々手癖の悪さだのナンパの成功率だの自慢してた野郎だったから、誰も庇わなかったけどな。しっかしまあそれ以来だぜ、見たのは。イメチェンしたみてえだが、根は変わってなさそうだ」
 慎吾が心地よく喋り終えると、フミヒロさんは真面目な顔で、やっぱ限りなく黒に近いグレーか、と呟いた。慎吾が何のことかと顔をしかめると、高橋涼介は力強く、ああ、と頷いた。
「めぼしい目標も分かった。少なくとも他に考えられる奴はいない」
「だが、今日は借り出されていないぞ」
「もう使う必要がないんだろう。庄司慎吾はここにいるしな。自分の車を出せばいい。そして走り続けていれば、必ず現れる。奴はそれを信じているはずだ」
「今日か?」
「自尊心の限界として考えられるのはな。だからお前に頼んだんだ。匂わせる言葉を残しているかもしれない。そうであれば、妙義山へ行くべきだろう」
 慎吾はそこでようやく、妙義に行く? と口を挟んだ。お前も行くか、と高橋涼介は迷いなく尋ねてきた。
「100%推測が正しいとは言いかねるから、選択は自己責任で頼むがな」
 慎吾は高橋涼介とフミヒロさんを見上げ、その先ほどまでの一種の和やかさが消失した顔を認めたのち、一つ息を吐き、椅子から立ち上がって、
「おい、今更こんなこと聞くのもあれだけどよ」
「犯人なら、松坂和人だろう」
 聞く前に高橋涼介にあっさりと答えられ、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込みながら、ああそうかい、と改めてため息を吐いた。

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7.<開眼! 人とは何で生きるもの>

 本日は地味に峠に現れた高橋啓介のFDが、超速度で山頂を目指す道へと発車していくのを見届けた中里が、ああやっといなくなったと解放感から息を吐くと、お疲れだねえ、とお隣が声をかけてきた。笑っている淡い茶髪の丸坊主、馬面のその男は古くからの仲間で、気心が知れており、中里がお疲れの理由もある程度は察しているようだった。
 いつも誰が頼んでいるわけでもないのにしょっちゅうここにいた人間が、強盗犯だと疑われたまま姿を現さないということも中里の調子を狂わせている一つの要因であるが、それより何よりその人間の代わりという名目でここへとやって来ている男の存在が、中里の胃を苦しめている。他人を眼中に置いてないかと思えば気になって仕方がないようにかかずらっている、気分の起伏が激しい男、高橋啓介。そいつが山を訪れて、走らせろ、と一言命令口調で承諾を求めてきてからというもの抱えていた疑問を、このつかの間の安らげる時に、中里は隣の馬面男にぶつけた。
「あいつのタイム、計らねえのか」
 ん? と目を瞬いてから馬男は、ああ、と何度も顎を上下に動かして質問を理解したことを示し、答えた。
「タイムはなあ、俺とかヤッさんが計るかーいって聞いたんだけどさ。ケースケちゃん本人が、計るなって言うからさー」
「ケ、ケイ?」
「最終日に、お前が再起不能になるくらいのダメージ与えてやるんだってよー、ケースケちゃん。だから今はいいんだとー」
 中里が顔全体にクエスチョンマークを浮かべているのを知ってか知らずか馬男はそれには触れずにそう続け、であるから中里もそれには触れず、あいつが言いそうなことだな、と眉根を寄せつつ返した。
 兄上殿の指令を忘れているのかと思いもしたが、それほど兄弟愛と征服欲は低くはなかったらしい。まったく人をとことんコケにするのが好きな奴だ。意識もされず名前すら覚えられないというよりはマシであるが、人を人とも思わぬ挑発のしようには腹立たしさを感じるしかない。
「言いそうっつーか言ったしなあ。あ、そうだ、俺さ、毅なら大丈夫だと思うんだけどさあ」
「あ?」
「俺が言ったら三回殺されそうな感じの目で睨まれたけど、毅なら半殺しで済むと思うんだよー、うん」
「何の話だ」
「ケースケちゃん」
 それだけ聞いて「断る」と中里は即答し、何でよー、と馬男はおかしくてたまらなそうにニヤニヤ笑った。
「面白そうじゃん、言ってみい、お前ヒーローになれるって」
「そんなことでなれるかよ」
「立場が上って感じするぜー」
「へつらってる感じがするがな」
「お前なら大丈夫だって、毅だし」
「俺相手なら睨むんじゃなく直接抹殺しようとしてくるぜ、あの野郎は。冗談じゃねえ、預かりものに傷をつけられるかよ」
「そこまで心狭くねーよ、多分、毅が考えてるほどさあ。まあ、そういうノリがあったらやってみいってことでよー」
 あったらな、と絶対にねえという確信をこめつつ中里が返すと、約束だぜー、と馬男はクツクツ笑い、それで満足したようだった。
 高橋啓介が走りに関して文句のつけどころを有していないことならば、中里もよく分かる。その才能、その技術、若々しい血潮みなぎる肉体、飽くなき向上心、勝負への貪欲さ。一度バトルをすれば、痛いほど思い知らされるのだ。敗北の味は苦く、いまだ肉体を縛る瞬間がある。だからこそ理解ができる。心でも体でも、認めている。あのガキは速い。
 だが、ゆえにこちらが持っている武器を捨ててさあこの胸へと飛び込め迷える子羊よと両手を広げても、額に拳銃押し当てて引き金引いてジ・エンドにするであろう、敵視をするばかりで歩み寄る気もサラサラないというあのガキを、親しみ深く、あるいは愚弄するようにでも、ちゃんづけできるかといえばまた別の問題、生理的な問題だ。自分がそれを口にすることを想像するだけで、体中に鳥肌が、ざわわわわッと浮いてくる。寒気が止まらない。吐き気も止まらない。ロマンティックはそもそもない。しからばムリな話である。高橋啓介の心が大海原のごとき広さを持っていたとしても、ムリなのである。そういう仮定が成立する確率と同等ほどの確率で、言えないのである。
 が、しかし、言わなければ首を飛ばすと誰に脅されているわけでもないので、そんなことはどうでも良くもあった。とにかく奴がいないひと時を満喫しよう、気持ちを切り替えた中里が、満足したらしき馬男といつものように、ところで最近お仕事どうだい中里クン、契約一つ結んだよお前はどうだ、俺は上司のカツラが気になってしょうがない、カツラかよ、カツラだなたまに怒ってる最中ずれたりするとありゃ地獄だ、厳しいな、笑うに笑えない、笑っちまったら終わりだろ、エンドレス説教だよー参るなあれは、カツラか、飲み会の時誰かが指摘してくれれば楽なんだけど、自分でやらねえように気を付けろよ、俺より酒癖悪い先輩いるから大丈夫さー、大丈夫なのかそれ、まあ多分、と近況交換をしているうちに、滑らかさと荒々しさを兼ね備えた運転で、高橋啓介が戻ってきた。上って下ってあっという間だ。人の安らぎタイムを容赦なくぶった切る、さすがのドライバーである。
 その高橋啓介のFDは、ゆっくりと中里の真ん前で停車した。少し意外に思いつつ、中里は運転席から降りてすぐ眼前に立った高橋啓介を見た。つまらなそうな、拗ねているような、不満げな、とかく陽の感情が窺えない表情だ。はて、今すぐ赤城山に帰らせろとでも言うのだろうか。それができるのならばとっくの昔にやってるぜ、中里が思いつつ声をかけようとすると、先に啓介が名を呼んできた。
「中里」
「何だ。待遇の文句か。聞くには聞くが、お前をあっちに帰せとか言われてもできねえぜ。契約なんだ」
「お前の隣に乗せろよ」
 中里はたっぷり十秒待った。自分の思考が高橋啓介の言葉を正しく処理するのを、正しく処理したと思われるその言葉を高橋啓介が撤回するのを、隣の馬男がこれは幻覚だとささやいてくるのを、心底から待った。だがどれも成されなかった。だから中里は、それを言った。
「……はあ?」
「はあ? じゃねえよ。良いのか悪いのか、どっちだ」
 啓介が決断を迫ってきたため、いやそれは別に構わんが、と中里は咄嗟に答え、本当に構わないのか、と自問しつつ、それはどういう趣向だ、と啓介に問うた。
「どうもこうもねえよ。何でお前はいつもそういうことを聞いてくる」
「いつもは聞いちゃいねえだろ」
「俺はそうしたいから聞いてんだ、良いのか悪いのかハッキリしろよ」
 脅しには強いが押しには弱いという中里の定説を知らない高橋啓介であったが、だからこそのその思うがままの行動が、中里の流されタイ質を見事に喚起しており、自問の答えを見つける前に、「だからいいっつってるだろうが」、と中里は売り言葉に買い言葉を実行していた。
「乗りたきゃ乗れよ、俺はお前がどうしようが何も構いやしねえ。二、三回流してから、俺の本気を見せてやる」
 ただし車はちゃんと移動させてからな、と言ってから、スカイラインに向かおうとすると、馬男ががんばれよー、と笑いながら背中を叩いてきた。こちらは頭を叩いて誰に言ってんだと笑いつつ、改めて車に足を運んだ。我が車ながら、いつ見ても惚れ惚れする。ともすれば平凡になるほどシンプルであるのに、個性と清潔感と車であることを失わないデザイン。FRに執着していれば手には入らなかっただろう。後悔はない。ただ、時折懐かしくなるだけだ。いつも通りに乗り込んでシートに座りエンジンに火を入れ、煙草を探しかけて、やめた。高橋啓介の前で煙草を吸うことはためらわれた。なぜか、あの男の前で気は緩めたくなかった。
 言葉もなく助手席に乗った高橋啓介がシートベルトをかけたのを見てから、行くぜ、と声をかけ、いつも通りに発進する。手も足も、指先がしびれている。顎のあたりがざわざわする。隣に高橋啓介がいるだけだ、と言い聞かせる。何も宇宙人が乗ってるわけではないのだ。地球に関して間違ったことを一つでも言えば体内に鉄板を埋め込まれるわけではない。だが、緊張があるのは事実だ。それも集中できる類の緊張ではない。我を失わせる緊張だ。
「お前はよ」
 突然話しかけられて操作をミスするような初心運転者ではなかったが、何だ、と中里は声を上擦らせつつ返していた。隣に乗ってから初めて高橋啓介が口を開き、そして出てくるものはおそらく非難か質問である。緊張が不安に転じ、不安が動揺を促す。今はちょっと危険かもしれない程度の速さで走っているから良いが、限界領域に踏み込んでいれば、この揺らぎだけで、大惨事を引き起こしかねない。精神的な弱さを痛感しつつ、中里は啓介の言葉を待った。
「何で走ってんだ」
 高橋啓介はそれほど興味もなさそうに聞いてきたが、それにしては声が張り詰めた弦のような寒さを秘めていた。中里は隣の男に気を取られながらも、少しばかり腕に覚えのあるドライバーでも唖然とするような正確さで運転をこなし、何でって、と脳内関所を通さず答えた。
「……好きだからだよ。くだらねえ質問するな」
 始まりは憧れだけだった。父親のように車を運転してみたい。テレビの中のドライバーたちの勇姿。雑誌に載るごく普通に見える人々。仲間たちの熱中。そして今、出会った当時の衝撃は薄れ、幼少の頃のような無知ゆえの憧憬も失われてしまったが、それでも車を動かす、それ自体の面白味は絶えずにある。楽しいのだ。好きなのだ。それ以外にどんな理由があるだろうか。黙り込んでしまった高橋啓介は、どんな答えを期待したというのだ? この男だって、車が、運転が好きなはずだ。でなければ、あれほど速くは走れない。分かっているはずじゃあないか。
 それ以降会話がないまま上りきり、折り返す。いまだ中里は集中できずにいる。もはや高橋啓介が助手席にいる現状の非日常ゆえの錯乱ではない。高橋啓介の態度の不可解さゆえの錯乱だ。
 そして手に汗をかきつつも安全に中盤まで辿りついたところで、俺は、とかすれた声を啓介は出した。
「アニキを目標にしてきたんだ」
 指先がステアリングから滑りかけるのを押さえ、そうか、と聞いていることを知らせるだけの言葉を中里は言った。
「でも、アニキはもう引退した。俺がそうさせたんじゃねえ。藤原だ。いきなり出てきたあいつが、俺がやりてえこと全部かっさらっていきやがった。だから俺は……」
 高橋啓介はそこで言葉を切り、クソ、何言ってんだ俺、と頭を掻いた。まったくだ。何を言っているんだこいつは。何でそれを俺に言うんだ。俺に何を言えというんだ。中里は苛立ったが、長い直線でちらりと高橋啓介の横顔を見て、毒気を抜かれた。この男の方が、よっぽど苛立っている。何かに迷っているのかもしれない。走る理由か。だが分かっているはずじゃあないか、こいつは。中里は思ったままのことを言った。
「好きなんだろ」
 ああ!? と高橋啓介がババッと顔を向けてきたので、何でこんな驚いてんだこいつ、と思いつつ、中里はカーブを抜けながら、脳と口を直結させて続けた。
「いや、走っててよ。楽しいんだろ。それでいいじゃねえか。目標立てるに越したことはねえけどな、お前くらいの奴なら先に何を見てればいいのかってのは分かるだろ、なあ、ケースケちゃんよ」
 直線に出てバックミラーを確認しつつ、あれ今何か俺妙なこと言わなかったか、と中里は違和感に駆られ、そして危うくアクセルを踏み込みかけた。これでヒーローか。いや違う。この程度ではないはずだったが、現実は想像とかけ離れていた。ノリってのはこういうことなのか、中里は思いながらも段々と集中力を取り戻し始め、驚きながらも納得していた。高橋啓介は中里の発言には触れず、もう少しスピード上げらんねえのか、と退屈そうに言うだけだった。
 バックミラーに車が映った。



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