狭間から 1/5
その男の到来を知らせる独特のエンジン音が彼方に聞こえ、中里は出迎えるつもりではなく、ただ反射的に自室の床から立ち上がった。十数回もの繰り返しにて既に慣れたと思われた状況、しかし悪事が露見したかのように心臓は拍動を速めており、中里は己の浅ましさを常と変わらず実感し、自分自身に嫌気が差したが、四肢に染み入る嬉しさは否定しようもなく、麻痺していく掌を部屋着のスウェットになすりつけ、落ち着かない心持ちで部屋を見渡した。床は掃除機をかけた、ゴミはゴミ箱に押し込んだ、ローテーブルの上は片付いている、危険な雑誌はベッドの下、着替えは整理箪笥。流し台には社会人になってから使い続けているコーヒーメーカーが、かれこれ一時間以上サーバーを保温し続けている。慌てて駆け寄り電源を切り、少なくとも四人分飲まれずに放置されていた中身を捨てるか否かを考えた、直後に部屋の呼び鈴が鳴った。
「五日ぶりだな」
茶のデッキシューズ、黒地に薄灰色の縦縞が入ったスラックス、白いジャケットに、中は淡いピンクの清潔そうなボタンダウンシャツ。以前、お前の格好は奇抜すぎねえか、と中里が感想を述べた際、奇抜なくらいが丁度良いんだ、という回答を高橋涼介はし、その時は、こいつのセンスは俺には一生理解できねえんだろうな、と思ったものだが、会う時間が長くなるごとに、この端麗たる男には、成功と失敗が紙一重というくらいの洋服が、決まりすぎずに丁度良いのだろう、と改めて感じるようになっていた。
何せこの高橋涼介という男は、平均的な美醜の持ち主でいうところの無難なものに身を包めば、どこぞの海外映画スターのようなオーラを発してしまうために、どこぞの日本のファッション評論家のようなオーラを発していた方が夢を見られすぎずに丁度良い、という理屈ならば、中里も頷くのみだった。
「数えてたのか」
「指折り」
真面目な顔でふざけた風に言うと涼介は靴を脱ぎ、白のソックスに包まれた足をフローリングに踏み出して、中里の背にそっと手を置きながら中に入った。布越しに触れる生暖かさに首筋がちりちりするような感覚を受けつつ、中里は流しで止まると、黒々とした液体の入ったサーバーの取っ手を持ちかけ、ガス台の上に置きっぱなしのやかんに手を移し、ジャケットを脱ぎハンガーにかけている涼介を見た。
「お前、コーヒーでいいか?」
「煮詰まったのが欲しいな。砂糖もミルクもたっぷりと」
勝手を知り尽くした男が流暢に答え、振り向き、挑戦的に笑った。中里はぽかんと口を開けてしまったが、向けられた笑みを見るにつけ、こちらも引きつりながらも頬を上げていき、たまらねえと思いつつ、注文の多い野郎だ、と手元にあった二つのカップに煮詰まったコーヒーを注ぎながら呟いた。涼介が息をもって笑った気配が、空気を通して伝わってきた。
「欲が深いんだよ。その分罪も深い」
「何の罪だ」
「強欲は大罪さ。まあ俺はそれを悔い改めようと思うほど、信心深くはないけどな」
何の話をしてんだこいつは、と首を傾げつつ出した砂糖を片方のカップに適当に入れ、スプーンでかき混ぜて、冷蔵庫から取り出した牛乳も適当に加え、更に混ぜ、ベッドに腰掛けている涼介にそれを差し出すと、自分はどす黒い液体が入ったカップに口をつけ、舌が苦さを感知して喉へと液体が下りたところで、相変わらず顔色悪いな、と立ったまま中里は言った。
「そう言ってくるのはお前くらいだぜ、中里」
「遠慮して言わねえんだろ、他の奴らは」
「事実誤認があるな」
心外そうに片眉を上げ道理を諭すように柔らかく言った涼介は、受け取ったカップに口をつけると、一瞬全体の動きを止め、カップをテーブルにそっと置き、ゆっくり一つ息を吐いたが、白々しい涼介の言葉に意識を取られていた中里はその一連の動作をどうとも思わず、ただ言葉を返した。
「鏡で自分の面をよおく見りゃ、何が事実か分かると思うがな」
「睡眠時間の長短は、俺の努力だけじゃ決められない。ところで中里、加減って言葉を知ってるか?」
唐突な問いに、カゲン? と目を見開くと、表情を深刻にした涼介が、探るようにこちらを見上げながら頷いた。瞬時に頭に浮かんだ漢字から、「加えるに減らすって書くやつか」、と中里が聞き返すと、そうだ、と頷いた涼介は、テーブルに置いたコーヒーカップを紹介するように右手を振って、心底不思議そうな声を出した。
「この甘さには、その心がないように思うんだが」
中里はまず深刻な表情のまま見上げてくる涼介を見返して、それから『その心』がないと指摘されたカップを見下ろし、その中に適当に入れた砂糖の量を思い出そうとし、思い出し、その尋常のなさをひとまず思い出せなかったことにすると、何事かを訴えるようにこちらを見続けている涼介へ、背中に冷や汗をかきつつ慎重に言った。
「眠気は、飛ぶだろ?」
「飛ばしていいのか?」
別意を含んだ目を据えられ、明確な立場の悪さに脇の下まで冷えていくを感じながら、中里は自分のコーヒーに口をつけ、その特段の苦さに刺激された思考を立て直し、しどろもどろになりかけるところで、なるべく明るい声を出した。
「お前、寝てけよ。今日はこの後、山に行くんだろ」
涼介は一区切りつけたようにテーブルに目を落とし、行くよ、と軽く頷いた。
「藤原を呼んでるからな」
「藤原って、ハチロクか」
意外さゆえに簡素になった中里の問いに、ハチロクだ、とこちらも簡素に答えた涼介はカップを手に取ると、甘さに加減のないコーヒーを飲んで、やはり一瞬動きを止めた。
中里は膝の重さを感じつつ、県外遠征か、と呟くように聞いた。涼介はカップを持ったまま、ああ、と中里を見ずに言った。
「それについての話もあるが、冬に入りゃあ山で会うわけにはいかねえからな。遠出は酷だし、俺が寒い」
お前かよ、と鼻白むも、俺だ、と涼介は淡白に言い切りコーヒーに口をつけ、眉をひそめた。その顔から目を逸らし、県外遠征、と中里は考えた。言ってしまえば、これまでこの男が行ってきたことと同様、峠の制圧だ。一年間の限定チームにて、県外の関東に属する地域の峠を、一つ一つ潰していく。場所、環境、相手に左右されない走行理論の完成、それが涼介の目的とするものだ。その手段として、あるいは別の目的として、そこには走り屋としての高橋啓介がおり、またおそらく藤原拓海がいる。涼介が夢うつつのごとくゆったりと、しかし具体性をもってその構想を語る度、中里は背筋がぞくぞくとし、まるで自分まで一体であるかのような歓喜を表してしまうものだったが、一人になって思い出すと、これだけ近しいながらも関わりを持てない己の立場を実感し、内臓が冷えるようになった。
どれだけ語り合おうが、触れ合おうが、喜びを分かち合おうが、所詮は計画に際しては部外者であり、それはすなわちこの男に、走り屋として求められているわけではないということだった。
何百回も繰り返した考えが不意に胸を刺し、感情の整理をつけようとした中里に、カップを再びテーブルに置き、はめていた腕時計も置いて立ち上がった涼介がするりと寄って、予兆もなく唇を重ねた。すぐ離れてから、おい、と中里が訝ると、手に持っていたカップをそっと抜き取り、テーブルに置いて、足して二で割れば丁度良さそうだな、と呟くと、ああ確かに、と納得しかけた中里の、シャツの襟元に右の人差し指を入れ、鎖骨をなぞった。
「眠気が飛んだ。相手をしてくれ」
顎から頬にかけての肌が様々な感情で焼かれていくようだったが、大丈夫かよ、お前、と中里はその艶やかではあるがつやつやはしていない顔を見ながら尋ねた。嫌か? と両眉を上げて言う涼介に、そういうわけじゃ、と言いかけ、止め、相手の言葉を待ったが、視線を外さない涼介に堪忍し、ねえよ、と呟いた。涼介は満足したように笑い、それを見て、八方に広がった感情が一つにまとまり、瞬間的に頭まで血がのぼっていく感覚を、中里は受けた。
眠たい素振りもまったく見せず、常と変わらず巧みに事をなし終えられ、こいつは何なんだ、とベッドの上で息を整えられずにいる中里は、既に呼吸を落ち着かせている男の、目の前に広がる透明度の高い背中を見ながら思った。最早この、毛に覆われた肌をすり合わせ、性器を酷使し、通常出す作業のみに使われる部分に入れられる行為にも慣れたが、いまだ主導権は握れずにいる。そもそもどう握れば良いというのか、逆に襲ってやればいいのか、しかしこの男をこれだけ消耗させるのも酷な気もする、というよりも、最初にこの状態を望んだのはこちらであるわけだから、いっそ馬乗りになるまでしなければ、この男を翻弄することなど、一生不可能なのではないだろうか。
考え、腰だけではなく頭まで痛くなりそうだったので、中里は起き上がった。気付いた涼介が、大丈夫か、と向いてくる。主導権についての考えを思い出し、うろたえかけ、平気だよ、と返すと、涼介は汗の浮いた顔を少し緩めた。
「やっぱり足したら丁度良かった」
「あ?」
「お前の分のをな。俺好みの甘さだよ」
右手に持ったコーヒーカップを掲げ、頬を緩めたまま涼介は言った。冷めているであろうそれを見ながら、そりゃ何よりだ、と中里も頬を緩めた。
汁気で重くなったシーツを引き剥がし洗濯機に入れ、二人揃って狭いユニットバスでシャワーを浴びる。中里は寝巻きを、涼介はあらかじめ置いていた洗濯済みの自分の下着と、脱いだ服を着た。暖められている空気はすぐに肌に汗を浮かせ、換気がされていない部屋には体臭が滞留し、鼻から呼吸をするだけで、先ほどの行為を間近にした。
新たなシーツをベッドにかけ、避難させていた掛け布団を戻し、納得しながらも不安定さの残る心持ちのままベッドの端にそっと腰をかけ、幾分無理をさせた肛門にすわりの良い位置を探しつつ、深く息を吐くと、顔と膝の間に、冷えた緑茶の入ったコップを持った手が差し込まれた。中里はそれを手にしてから、顔を上げた。
「勝手に取らせてもらったよ」
差し出してきた手とは別の手にコップを持った涼介は、立ったまま、何の苦労も感じさせぬ穏やかさをもって言った。ああ、悪いな、と中里は呟くように言い、コップに軽く口をつけたが、ただ疲労を持て余したところに茶を与えられたというだけのその行為に、全体の行為の持続性を思わせられ、冷えた液体で一気に口中を満たすと、味も香りも確かめぬうちに喉へと押し込んだ。
詰まりかけながら何とか飲み下し、空になったコップをテーブルに置く。大きく息を吐いてから、中里が涼介を見ると、壁に背をつけ立ったままだった。俯き、左手をズボンのポケットに入れて、コップを持った右手は腹の前に上げていた。
それだけで、絵になる男だ、と思う。良い男、でもあるのだろう。元来、誰にでも高い価値を認められる風采の持ち主であり、家庭の水準も高く、頭脳も振る舞いも粗悪とは程遠い。おそらく高橋涼介という男を醜悪と断ずる人間も、平凡と切り捨てる人間も見当たるまい。中里自身、幾度見ても見飽きぬ深みを涼介に感じている。だが、それだけだ。外見なぞ、いつ崩壊するかは分からない。ともすれば明日にでも、この男の頭はヒキガエルになってるかもしれないし、もしくはトノサマガエルになっているかもしれないし、はたまた包帯で巻かずには見られないものになっているかもしれない。しかしともかく、それによって大なり小なり不具合が生じたところで、高橋涼介であることを放棄しない以上、それは高橋涼介に他ならないのだ。
その顔だけでなく、動作にせよ、見る度に中里は目を奪われる、今もまた俯き何事かに思いをはせている涼介から目を逸らすには惜しさを感じるが、それでも中里が涼介に望むことというのは、容姿の正確性の永遠でも、こちらへ向けられる優しさの永遠でもなく、この男がこの男であることの永遠だった。
俯いたまま茶を飲んだ涼介が、コップを胸の下あたりにつけて、中里を見上げるように見下ろした。何の気取りもないその動きと、中途半端な位置の目で見てくる涼介の、何の気取りもない顔のため、中里はこの瞬間に声を出すことが相応しくないように感じ――出すに相応しい声と言葉を見つけられないと感じ、目で、何事かと問うた。すると涼介は、大したことではないと言うように、ひょい、と肩をすくめ、低い塀をまたぐような軽さをもって、言った。
「お前、峠で走るのをやめる気はないか」
三秒ほどよそを見て、涼介に目を戻し、唇をはっきりと動かして、何? と中里は言った。涼介は既に、その表情に似合わぬ軽々しさを塗っており、口調もまた異常に軽薄だった。
「もっと安い自己満足の仕方が、あるんじゃないかとな」
「何だそりゃ、涼介」
「投資だってんなら、お前にはそうするに値する才能はない。貨幣的利益はまったく見込めない。今のままじゃお前、肥溜めに片足突っ込んでるのと同じだぜ。いつか全身沈むことになる」
言葉は丸きり卑しむものだったが、飾りも気概もない涼介の顔と声はむしろ擁護しているようで、中里はその曖昧さから怒りを生み出すことができず、ただ苛立ちからの舌打ちをした。
「本気で言ってんのかよ、お前」
「思っていないことを俺は言わない」
冷酷な印象も涼介にはなく、また真実こちらを陵辱したいようにも見えなかった。苛立ちが苛立ちとしてのみ体中に広がって、声を荒げそうになり、中里は下唇の内側を噛んだ。対象を考えずの攻撃にも、痛みにも、精神は静まらなかったが、テーブルの上の煙草を取りながら、なるべく静かに中里は言った。
「そこまでお前に干渉される筋合い、ねえよ」
「知ってるよ」
淡白さを強調した言葉だった。中里は眉根を絞って涼介を見上げた。涼介は何かを考えるように目を伏せていた。中里は前へと首を戻し、出した煙草を一本咥えてライターを手に取ったが、火を点けるまではいかなかった。思考がかさみ、動きを封じていた。
自己満足であることを、否定するつもりもない。走り屋として、この男と同じ境地を見られる可能性が低いことも、感覚的に理解している。県外遠征になど、首を突っ込むつもりもない。身の程は、わきまえているつもりだった。
ただ、例え貨幣的利益が見込めないと言われても、可能性がゼロだと言われても、矜持によって、諦めたくない、それだけである。
中里はライターの腹を親指でこすり、咥えた煙草を歯で噛んだ。涼介が、この中里の限界も葛藤も、知らないはずはなかった。人の神経を乱すことにかけては異様に長けている男が、知らないはずがなかった。知っている上で、間違いのない事実を述べた。クソが、と中里は思う。しかし、すべて涼介の言い分は正しくあり、その態度は目くらましの優しさに満ちており、その相反する仕様は、受け入れられることを求めているような甘えの存在を中里に感じさせ、そこで募るこの男に選ばれている優越感、そして屈辱感、どちらも捨てられるものではない中里は、やはり怒りを整えられず、苛立つしかなかった。
「庄司慎吾に」
肌が摩擦で熱くなるほど、ライターの腹を親指でこすり続けていると、涼介が先ほどとは違う声で、この場では意外な名前を出してたため、中里は加えていた煙草を指で取って外し、「あ?」、と再び涼介を向いた。
「予定を聞いておいてくれ。来週の日曜、午前十時。お前は大丈夫だったな」
確かに五日前にも都合を問われており、その確認に、ああ、と中里は頷いたが、それと庄司慎吾との関係が、気分がばらばらの今は容易く推測もできず、釈然としないままであり、涼介から顔を逸らせなかった。涼介は、まず一つ頷いてから、改まったように口を開いた。
「この件について話しておきたい。啓介と、うちの外報部長を知っているだろう。少し間の抜けた顔をしている奴だ。あいつらも交えて五人、豪華な面子で歓談だ」
顔色変えずに涼介は言った。豪華かどうかはひとまず思考から除外して、日曜だろ、親御さんは、と咄嗟に思いついたことを中里が問うと、親父は夜には帰ってくるが、おふくろは旅行だよ、と諭すように涼介は答えた。中里は基本的な事柄を尋ねたことに、恥ずかしくなるとともに、その感情の到来から、ようやく冷静さを取り戻した。夜には帰宅する父親と、旅行をする母親。この男の両親の姿は、その邸宅に飾られた写真でしか見たことはない。父親はまだ黒い髪を短く刈っており、その下の顔はしわのみが老化をうかがわせるもので、母親はきっちりと髪を整え化粧を塗っており、その顔は豊かな表情を思わせた。二人とも笑っていたが、父親の笑顔がどこか印象の薄い、まるで別の表情であるようなものであったことが、特徴的だった。家庭の話はまだ、聞いてもいない。ただ、その家庭で育ったこの男の弟を、まず相手にしなければならないことが、現実だった。
気を切り替え、噛んだ部分が折れ曲がっている煙草を咥え直し、火を点けて、一応聞いとくが、と中里は返した。
「あいつはダメかもしれねえぞ。バイトを増やしたとか言ってたからな」
「それなら仕方がない。だができたら頼むよ。お前も味方がいた方がいいだろう」
そのためか? と訝ると、いや、娯楽のためだ、と涼介はためを作らず言い切った。一抹の罪悪感が中里の胸中に発生したが、今更だ、と諦めた。呼んだところで、暇なところで嫌なら慎吾は来ないだろう。あいつには自主性がある。
涼介はコップとテーブルの上の腕時計を持ち替え、それを手首につけ、掛けていた白いジャケットを無駄な動作もなく着、襟を正した。中里は見送るために立ち上がったが、涼介は横を向いたまま動かなかった。沈黙の間、中里は涼介が来た時点から今までに行われたことを断続的に思い出し、筋肉が熱くなるように感じて、やり切れなくなり、「どうした」、と涼介に強めの声をかけていた。涼介は右手を口に軽く当て、ん、と鼻にかかった声を出し、そのまましばらくじっとしていたが、口に当てていた手を腰にやると、「中里」、と唐突に中里に顔を向けた。
「何だ」
「お前は走ってりゃあいいんだよ」
訝る中里に、涼介はそう言った。決め付けにも似た言葉に、怒るべきだろうと中里は考えたが、涼介のわざとらしい不器用な間の取り方と、矛盾を一切合財無視するような傲岸さ、しかしおざなりにも見える態度の複雑な一体は、すべてを深刻に取るという選択肢を奪い、「そんなこと」、と言いながら、そして中里は笑っていた。
「お前に言われるまでもねえ、俺は走ってるさ」
「その通り。俺が言うまでもない。今日は余計なことを言いすぎたな、悪かった」
正面から素直に謝る男に、余計か、と確かめると、言うべきことじゃなかった、と答えではない答えが返ってきた。でも、と中里は押し付けるように言った。
「思ってたことだろ」
「思ってないことを俺は、言えねえよ」
そうして苦く、しかし濃厚な笑みを浮かべ、「ゆっくり休めよ」、と続けると、涼介は腰に当てた手を敬礼するように振って、振り向かずに出て行った。
余韻はなく、せめて外まで送るべきだったか、と後悔しつつ中里はベッドに座り直し、腰の重さに苦しむと、テーブルに残ったコーヒーカップのうち、どす黒くない方を手に取った。口につけると、脳を突き刺すような甘さが口中に広がった。あめえな、チクショウ。呟くと、一層甘さが全身を侵食するようで、また、あの男の優しさというものまで、染みてくるようだった。これが好みというならば、味覚障害だ。中里はカップをテーブルに戻し、ベッドに横になった。漠然とした不安が腹の底に巣食っていたが、それよりも、肉体的、精神的な疲労が勝った。
うたたねした。
ふっと目を覚まし、時計を見た。先ほどから、一時間も経っていない。変な体勢のまま寝ていたため、体の妙な部分が痛くなっており、中里はベッドの上に起き上がって、一つ伸びをした。ばきばきとどこぞの関節あたりが鳴った。深呼吸をして、もののついでだ、食器くらいは片付けよう、と立ち上がって、床に見慣れぬ黒さがあるのに気付き、虫かと反射的に体が震えたが、すぐさま違うと知れた。それは虫にしては大きく、四角かった。床にしゃがみ、手に取ってみる。黒く薄っぺらい手帳だった。少なくとも中里はその形式の手帳を持っておらず、あるいは忘れているだけで持っていたか、この部屋を訪れた人間が落としていったかと考えながら、薄いそれをぺらぺらとたぐった。中には見たことのある、達筆であるが読みやすい、バランスの見事な文字が舞っていた。問題と解答と計算式と散文で埋め尽くされたその手帳を持ち、俺は寝起きだぞ、と中里は思った。
トップへ 1 2 3 4 5